ヨーロッパに留学して、こんなことを感じたことのある人はいませんか。
"・・・こんなつまらん小さな美術館一つに入っても、僕ら留学生はすぐに長い世紀に渡るヨーロッパの大河の中に立たされてしまうんだ。ぼくは多くの日本人留学生のように、河の一部だけをコソ泥のように盗んでそれを自分の才能で模倣する建築家になりたくなかっただけなんです。河そのものの本質と日本人の自分とを対決させなければ、この国に来た意味がなくなってしまうと思ったんだ。田中さん、あなたはどうしますか。河を無視して帰国しますか。"(遠藤周作「留学」)
WEBによくある留学体験記の類では、とかく、ホームパーティで国際交流をしただの、どこの国の人と肩を組んで酒を飲んだの、勢いがあるようでいて、二日酔いとともに消えてなくなるような、軽薄な「国際交流」体験談が多くないですか。自分の核が震えるような、髄に触れるような経験、そして、欧州の歴史の暗い谷間を覗き込んで足元がすくむような、そういう経験をした人は、そこから逃げてはいけないと思う。そこからが、真の意味で、異なる文化の文脈、歴史の重みから学ぶことのできる、留学体験が始まる。それは、思想でも芸術でも歴史でも法律でも、およそ人間について学ぼうとする人が必ず経験することだと思う。
残念なのは、言葉を学んでいるはずの「語学留学」生の間で、こういう悲しいくらい軽薄な留学体験記が多いことです。言葉は、人間を人間たらしめる、一番の基本であるのに。僕は、言葉を越えた、スポーツとか音楽とかによる人間の交流の意味を軽視しているわけではありません。ただ、そういう交流には、それなりの限界がある。何が分かり合えて何が譲れないのか、ということは、反芻せずには確認できない。その反芻というのは、刹那的な恍惚とは対局にある。突発・単発の経験から得られるものは、重みがないし、重みに耐えることもできない。だから、そういう感覚だけに依存した経験というのは、何も付加価値を創出できない。「知恵」につながらない。経験が知識になり、知恵になるためには、言語化、反省、相互批判、蓄積が必要になる。それには言葉は欠かせない。
酔っ払って肩を組んで世界平和が達成できるわけがありません。そういう勘違いが横行している限り日本人は馴染みのムラ社会から出ることはできません。同じ理由で、竹槍で外国人と闘おうというのもまた、愚の骨頂です。さらにそう言って他人をそそのかすのは許し難い犯罪です。「コソ泥」的生き方は、そういう虚勢を張ることすらできない人にとってはいいnicheかも知れない。でもそれはそもそも「生き方」に数えられないと思う。
留学生の皆さん、正面攻勢をかけようじゃありませんか。そして、大いに悩んだらいいと思う。嘘をついたり、近道を探してばかりいてはいけないと思う。そして、日本の歴史は、島国で純粋培養されたのではなく、そうして苦心した留学生が持って帰ってきた知性によって拓かれたことを信じて、勇気をもったらいいと思う。
"・・・あんたも河を無視しないで、毎日、この国で生活すると言いたいんでしょう。でもそりゃあ辛い留学生活だよ。さっき、あんたが思わず口に出したあの息苦しい重さに、今日も、明日も耐えなくちゃならいんだよ。挙げ句の果てが、ぼくのように肺病になる。河に入るためには、留学生は何かを支払わなければばならないんだ。ぼくは自分の健康をその代わりに支払ってしまったんだ。"
僕はちょっと視力が落ちて、白髪が増えたくらいかな?