師匠の思い出
最近、仕事で出くわした珍妙な事件がきっかけで、オックスフォードで外交史と国際関係論を教わった先生のことを思い出した。久しぶりにこのペイジに掲載するようなものを書こうかな、という気になったのでワープロを開く。
イギリスの国際関係論学科っていうのは、あまり評判はよくないのかも知れないけど、オックスフォードの国際関係論は、戦後に発生したアメリカ流のInternational Relationsに一矢を報いようという熱意があって好きだった。オックスフォードで国際関係(歴史も理論も)を学んだことは、ヨーロッパの入り組んだ歴史や民族間の憎悪や巧妙な駆け引きや、はたまた階級闘争やキリスト教理念の普及という使命感や、本当に複雑回帰な欧州情勢を背景にした、しかも長い歴史を通じて練磨された物の見方という感じがして、それ以来、アメリカ訛りで国際関係を語ったり、そもそも国際関係を理論立てようとする人のことを僕は信頼しないようになった。本来の国際関係は、アメリカが世界秩序をどう作るか、という話ではなくて、自分の置かれた立場と相手の置かれた立場によって規定され、歴史の惰性に規定され、しかも認識過程もそれぞれの文化的背景や知的伝統によりバイアスがかかっていて…という錯綜した世界であって、一つの理屈で説明できないし、説明できたところで、あまり意味がない。
歴史と理論の関係については、僕はJohn Lewis Gaddisの見方にとても納得させられている。ま、詳細はいいや。
いずれにせよ、哲学や政治思想とセットで国際関係論と外交史を学んだことは、最初は本当に無関係にしか思えなかったけど、一通り体得してみると、社会構造を理解するのも、人間の認識過程を説明するのも国際関係を説明するのも、一つの「西洋近代」という見方、という筋が通っているのが何となく分かる。だから、例えば、カントの倫理に関する理論と国際関係に関する理論とがどういう点で共通しているか(同じ脳味噌から出てきた話なんだから当たり前だよね)とかもよく分かるし(これが分からなかったら何のためにカントを読んでいるのか、意味がない)、ニュートン力学を生み出した近代哲学の構造と国際関係理論でいうところの「リアリズム」ひいては近代国家間の関係の相似性とか、ロックの政治理論とアメリカ独立革命と主家国家体制と経験哲学とがどういう風につながっているかも分かる。それは、裏を返せば、スコラ哲学とローマ教皇の政治体制との関係や、宗教改革の歴史的意義が何なのか、ということを理解することに通じるし、そのまま、ウェストファリア体制を理解することにつながるし、さらに、なぜヨーロッパで2度も大戦争をやったのか、ということを理解することにもつながる。…という大河のような歴史がヨーロッパにはあるし、大学での勉強も、少なくとも伝統的には、そういうことを理解させることが可能なカリキュラムを組んである。
まあ、今やオックスフォードもMBAを始めて、一生懸命企業からの献金に生き残りを賭けているわけだが…。
そういう文脈で冷戦終焉に至るまでの国際関係を勉強した僕にとっての悩みは、日本の位置づけがちょっと落ち着かない、ということ。大河のようなヨーロッパの歴史の中では(その「河の流れ」がたとえフィクションであろうと)、日本の出番というのは所詮バルチック艦隊を破った奇跡の国、真珠湾、トランジスタラジオ…くらいの断片的なものでしかない。(まあ、そうやって日本を脚色することが、ある意味ヨーロッパの正統性を祭り上げることと裏腹の関係にあるわけなんだが。)
ところで、映画「パール・ハーバー」って、もう少し真面目なものかと思っていたんだけど、アメリカ文化っていつからこんなに底抜けに馬鹿になってしまったのかなあ、と心配してしまいました。笑ったのは、(沢山あったけど)、日本を爆撃し返しにくるときに、被弾する日本の工業都市の工場にすべからく「兵器工場」という巨大な看板が取り付けられているところ。「アメリカは非軍事施設は攻撃の対象としません」というわけ。東京大空襲は、広島、長崎は何だったのさ。歴史を歪曲して映画が売れればいいのかもしれないけど、大衆を馬鹿にするにもほどがある…。
いずれにせよ、日本の位置づけが落ち着かない、といって連中のEurocentricisimを批判しても仕方ないし、本来責められるべきは日本人自らがそうやって世界の中における自分の地位を語る言葉を持たないことだと思う。世界の歴史における日本の意義は何か、世界に誇れる日本文化の美徳は何か、日本がリードして示したい理念は何か、どういうストーリーを語りたいのか、そういうことを、例え背伸びでも構わないから、語ることができないと、国際社会における日本人(本当に根無し草の「国際人」になりたきゃ別だけど)としては失格だ。
僕がオックスフォードで国際政治と哲学と歴史を学んでいてある種の「敗北感」を味わったのは、日本にこういう教育をする機関がない、こういう教育を施せる知識人がいない、ひいてはそういう知的伝統が日本には存在しない、ということだ。それは、アメリカとの戦争で負けたということだけでは説明できない、深刻な日本人の知的怠慢のせいだと思う。日本を今のような(それなりに)居心地のよい国に作り上げた基盤は何か、どのような思想が人を駆立てるのか、それを可能にした政治意思決定のプロセスは何か、日本人を豊かにしたきっかけは何か、…そういう、オックスフォードのPPEという学科が成立するに至ったような問題意識と自分の国に対する誇りと、その問題意識を一つの学問体系として完成させるガッツ、そしてそれを堂々と世界に対して語り掛ける雄弁さと(過大なまでの)自尊心が、なぜ我が国にはないのか??
これって結構恥かしいことだと思わないか??イギリス人にはできて、なぜ日本人にできないのだろう。
僕は「日本は世界第2位の経済大国」というフレーズがあまり好きでない。それは、「なぜ2番手に甘んじなければならないのか」ということじゃなくて、「その他に日本のことを知らないのか」と言いたくなってしまうから。多分、僕らの父親の世代は、「世界第2位の経済大国」という称号に誇りを覚えるだろうし、それは十分理由があることだと思う。そりゃ、戦争で負けて、全国が焦土と化した後で、アメリカの次の地位に就けるというのは、並大抵の成長じゃない。でも、僕らの世代は、もっと違うことに目を付けて、新しい目標をもって日本をより良い国にして、世界に対してもより大きな責任を果たすことを目指さないと駄目だ。本当に愛国心があるなら、神社の参拝や首相のぬいぐるみにばかり躍起にならないで、それだけ愛するに足る日本という国とは何なのか、世界における役割とは何なのか、そして、その愛すべき日本という理念的な期待に、今の日本の政治は適合しているのか、適合していないなら、何を変えなければならないのか、そういうことを考えていいはずだ。
僕は、真の民主政治は愛国心ないし共同体への愛着を前提とする、というCharles Taylorの議論にかなり同調している。でも、その理論が今の社会において実践において実現するというのは色々な理由があって難しいとは思う。今の日本の状況が真の愛国心の発露なのか、ということはちょっと分からない。でも、それは愛国心をもとにした責任ある政治活動を促す、というよりは、近視眼的かつナルシシスト的なマチズモに留まってしまっているような気がして、何だか恥かしいし、「英霊」達も、靖国で眠っている僕の祖母の兄も、あんなことで本当に喜ぶのか、不思議に思う。