飛  ぶ  火  の  道


小倉北区須賀町は町内の須賀神社に因っている。宮司に須賀の由来を伺った。昔、富野村三鏡山(みかがみやま)の峰に怪火が揚がり、村内に疫病が流行った。里人が山に入ると童子が現れ「我は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の化身なり。我がために祠を建てれば疫病はたちまち熄まん」と言った。祠を建てると疫病は止んだ。そこで童子の姿で現れた素戔鳴尊を、若い一人の王子と見立て「若一王子」社と呼んだ。 


 明治4年、須賀神社と改称したが、素戔鳴尊の本地である出雲の「須賀の宮」を勧請したもの。素戔鳴尊は製鉄神であり、このスガは砂鉄採集地の「洲河」であろう。
 ところで、富野村三鏡山とはどの山だろうと思ったら何のことはない、足立山を指していた。須賀神社の辺りから見る足立山は、峰の稜線が重なり合い道鏡を3枚重ねたように見える。そこで三鏡山だという説明を聞いて、なるほどと感心したが同時に、三鏡山から揚がったという怪火は、果たして烽(とぶひ)ではないかと思った。 


 663年、日本の百済救援軍は唐・新羅の連合軍に白村江で大敗、ほうほうの態で逃げ帰る。その後、唐・新羅の追撃を恐れた天智天皇は大野城、水城、基肄城を築き、周防から備中に連なる山城の防衛線、防人(崎守)の制度、さらに烽(とぶひ)という緊急情報ラインを設置した。最前線の対馬は浅茅湾の奥に金田城を築き邀撃(ようげき)体制を固めた。奈良の飛鳥から近江大津に遷都したのも本土決戦を覚悟したからだといわれる。


 天智天皇紀(664年)に「この年、対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国等に防人と烽を置き、また筑紫に大堤を築いて水を貯め水城と名付けた」とある。岡山市の歴史博物館で調べたところ現在、大宝令(701年)による烽の所在地として26ヶ所が知られているという。


 この時代の烽は対馬に発し、近江大津を終点にしたと思われる。701年、平城京に遷都後は生駒山、春日山まで峰峯をつないだ。延喜式(927年)兵部省の規程による烽は、「明らかに私船と知れば客主を問わず烽一炬を挙ぐ。若し賊と知らば両炬を放つ。二百艘以上は三炬を放つ」としている。


 この炬(こ)は烽を上げるタイマツで、令義解軍防令に作り方が書いてある。そうして「凡そ烽を置く處に火炬(ほこ)あり。各相去ること二五歩」としており、間隔を置いて仕掛けた炬の、発見した船数によって打ち上げる数を決めていた。


 烽が最初に発動されたのは、外敵の侵入ではなく藤原広嗣の起こした内乱(740年)でありその後、烽台は次第に有名無実になった。中世以後、烽台は狼煙台として戦術通信に使われ、江戸時代には朝鮮通信使の訪日情報伝達の役割を果たした。下関の火の山、小倉の足立山、八幡の帆柱山は長州、小倉、筑前、3藩共同の合図場だった。1814年、小倉藩で白黒騒動と呼ぶ文化の変が起こったが、その発端になるのが足立山の吉見陣から揚がった狼煙であり、明治になって狼煙台は米相場のやり取りに利用された。1873(明治6)年筑前竹槍一揆のきっかけとなつたのが、目取りと呼ぶ米相場師の狼煙や旗振りだった。


 烽から狼煙への変遷を通じて、天智の烽コースがそのまま近世や相場師の狼煙コースとはいえない。ただし、九州と本土を結ぶ情報ラインは小倉ー門司ー下関の外にはない。従ってこのラインはほぼ烽ラインと見てよいのではないか。


 さて、春日山のふもとを飛火野(トブヒノ)といい1988(昭和63)年4月開催した奈良・シルクロード博覧会の自然環境破壊に対して、「飛火野を守る会」が工事差し止めを要求して訴訟を起こした。飛火野とはほかでもなく、春日山に烽があったからである。


 対馬、壱岐から本土に連なる烽のコースに足立山がある。この麓に富野の地がある。富野地名の命名解釈はこれまでの通説で神功皇后伝承による。神功が軍を率いてここに至ったとき船が動かなくなり、岡県主・熊鰐が魚を集めて魚野、鳥を集めて鳥野をつくり皇后の忿りを解き、潮満つるに及んで岡の津に泊まった。すなわち鳥野が転訛して鴟野(トビノ)となり、富野になったという説明である。こういう無理なこじつけよりも、奈良の飛火野同様、足立山に烽があったからその麓は飛火野であり富野への転訛と解釈した方がよほど合理的だ。


 この足立山(アダチヤマ)とは和気清麻呂にちなむ。称徳女帝の代、帝位を窺う弓削道鏡に対し「天に二の日なし」という宇佐八幡の神託を伝えた清麻呂は、足の筋を切られ大隈に配流、その途中、神鹿に助けられてこの山の温泉に浸かり足が立った。そこで竹和(タケワ)山と呼んでいた山を以後、足立山と名付けたというのが、文献の伝えるところである。竹和山についての定義はない。この「タケワ」を「焚く火」(タクホ)の転訛と考えることも出来る。足立山の別名を三鏡山といい、ここに怪火が揚がったというのは烽そのものであり得る。


 足立山への信号ラインは3本であろう。1本は竹槍一揆の発端となった相場火ラインで、下関の火の山ー足立山ー帆柱山ー福智山ー金国山(田川市)ー冷水峠ー若津(大川市)だが、これでは烽の防衛線からそれてしまう。対馬・壱岐ラインを考えると博多方面から送られた信号は天拝山(筑紫野市)ー四王寺山(宇美町)ー十郎畑(北野町)ー竜王山(筑穂町)ー六岳(直方市)ーを経て帆柱山に継いだ。また八幡西区の日の峰ー石峰山(若松区)ー帆柱のラインもある。


 帆柱山は神功の船の帆柱を切ったからだということだが、これも烽の火柱(ホバシラ)と考えればこじつけなくてもいい。帆柱山の合図を足立山でキャッチ、これを門司の戸ノ上山に送る。戸ノ上は、漁師の拾った光る玉を、戸の上に乗せて山上に祭ったからという由来では、主格の玉が消えて、乗せた戸板が語源になるという矛盾になっている。ここは光る玉に意味があり「炬(コ)ノ上」と解することができる。炬も戸もコと読む。もともと「炬ノ上」だったのが戸をあてて「戸ノ上」となり、トノエと訓読したのが玉伝承の原因だろう。


 次の受信所は風師山である。山頂に笠をかざしたように見える岩があったから、あるいはカサブタのように見えたから挿頭(カザシ)山、転じて風師。また朝鮮民話に仮託して渡来人がつけたなどの説があるけれど、烽をかざした山だから「カザシ山」と理解した方が、よほど素直であろう。下関の「火ノ山」は文字通り「飛ぶ火の山」である。「火ノ山」は中世山城があり、ノロシ台を設けたことによっているが、山城のあるところ原則として烽があっとする滝川政次郎説に従えば「火ノ山」「烽の山」である。


 こうして筑前、豊前、周防をつなぐ烽のラインは唯ひとつ、帆柱山ー足立山ー戸ノ上山ー風師山ー火ノ山である。北九州の山々は古代王朝の緊急通信、飛ぶ火の道だった。それは日朝の文化伝承、友好と侵略の歴史の一端を語る道でもある。(完)



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