奥州道中膝栗毛  奥州街道宿場一里塚探索記   宿場とは

宿場とは INDEX

 

 

■宿場とは  

宿場の歴史  

■宿場町の構成  

■奥州道中の宿場町

 

■間宿(あいのしゅく)  

■伝馬制  

■助郷制 

 

■本陣・脇本陣  

■問屋場(伝馬所)  

■高札場 

 

■関所と番所 参考;箱根関所

■見付 

■枡形

 

■旅籠屋(旅籠)  

■木賃宿  

■飯盛旅籠 

 

■茶屋  

■立場茶屋  

■河岸

 

■参勤交代

■庶民の旅

■ゴマの灰

■大名の湯治

 

 

  

 ■宿場とは

 宿駅(しゅくえき)、宿とも呼ばれたが、簡単に言えば道中の往来時に休息や宿泊、通信を行う街道の中の拠点集落である。江戸時代に宿駅伝馬制度が定められ、街道が整備されるとこの集落も発展していく。

 

 ただし、今のホテル街や観光地とは意味合いが違い、幕府巡検使や大名の参勤交代など公用伝馬をスムーズに行うために整備されたもので、公用の荷物や書状を次の宿場まで運ぶことが最も重要な役割。

 もちろん文字通り旅人を宿屋に泊めたり、休ませたりするという役割も担っていたがどちらかといえば副次的なもので、原則的にはお金を払ったからといって一般民衆が本陣に泊まることは出来なかった(脇本陣は宿泊可能だったようだが)。

 

 

■宿場の歴史

 宿という名前は、平安時代の末期頃から使われだした。既にその頃には駅伝制が行われていたのだが、戦国時代には馬の徴発で駅伝制は崩壊していた。しかし、江戸時代に入り再び整備された。

 

 

■宿場町の構成

 徳川幕府は1601年、伝馬宿駅制度を設置するにあたり「伝馬朱印状」を下付し宿駅を指定する。東海道では宿駅あたり36人(後に100人)の人足と36疋(後には100疋)の馬を用意する事(奥州道中では5人・5疋程度、日光道中では25人)とし、幕府の公用旅行者(無料)や参勤交代、勅使などの次の宿場までの人馬の提供が義務付けられていた。

 その人馬割付や公用飛脚のために問屋場(伝馬所)が置かれ、また公用旅行者や大名が宿泊・休憩するための本陣、脇本陣があり、必然的に一般旅人向けの旅龍も立ち並び宿場町の体裁が整っていく。

 

大内宿会津西街道;福島県)

 

 宿場には問屋場(伝馬所)本陣脇本陣などは必ず設置されたわけだが、これらは地域の実力者が経営をした。ただし公用のための継立業務では実際のところ利益をあげることは難しく、幕府や藩主は地子(じし;地代;馬一頭につき30〜40坪)の免除、拝借金貸与、給米の支給、市の開催を認めるなどの利益供与をすることにより宿場の保護に努めた。それでも、後にも述べるが、往来量が増えるに従いますます経営は厳しくなってくる。しかも、地子の免除は東海道のみで他の街道は更に苦しかった。

 そのため、ほかに一般の旅人を相手とする旅籠(飯盛含む)木賃宿、茶屋や商店などで宿泊、運輸業務での利益をあげる必要が出てくる。旅籠の形態については後に述べる。 

 他に、人が集まる場所となるため、高札場も設けられており、通行人への下知、通知が行われていた。

 

 こうした宿場も江戸時代初期は周りの農村とさほど変わらなかったと考えられるが、交通量の増加や流通活発化により、商人、職人など定住者も増え、町並みも町屋など、都市的な(城下町;門前町的な)様相を示すようになる。

  時代は下り明治時代以降も宿場町の多くは地域の中心的な都市となるが、鉄道開通のルートから外れたり(火災になるからと鉄道敷設に反対する人も多かったという。また実際蒸気機関車を原因とする火災も起きているという)、水運から鉄道への貨物輸送の変化など交通事情が変わると通行する人も少なくなり、衰退する宿場も出てくる。


 


■奥州道中の宿場町

 奥州道中の宿場は江戸から白河まで27宿、白河宿から三厩宿まで89宿である。一里塚の数が200程度なので平均すると2里毎に宿場があった事になる。もちろん平均して所在していたわけではなく、江戸に近いほど宿場が集中している傾向があり、逆に盛岡から渋民のように間に5箇所も一里塚がある場所もある。他にも実質的に2箇所の宿場で1箇所の機能を持っていた所もあり、その位置関係はまちまちである。

 

なお、奥州道中の宿場は以下の通り。

 

 ○青森県(津軽藩、弘前藩)

117三厩宿(みんまや;東津軽郡外ヶ浜町)

116今別宿(いまべつ;東津軽郡今別町)

115平館宿(たいらだて;東津軽郡外ヶ浜町)

114蟹田宿(かにた;東津軽郡外ヶ浜町)

113蓬田宿(よもぎた;東津軽郡蓬田村)

112油川宿(あぶらかわ;青森市)

111青森宿(あおもり;青森市)

110野内宿(のない;青森市)

 

○青森県(黒石藩)

109小湊宿(こみなと;東津軽郡平内町)

 

○青森県(南部藩、盛岡藩)

108野辺地宿(のへじ;上北郡野辺地町)

107七戸宿(しちのへ;上北郡七戸町)

106藤島宿(ふじしま;十和田市)

105伝法寺宿(でんぽうじ;十和田市)

104五戸宿(ごのへ;三戸郡五戸町)

103浅水宿(あさみず;三戸郡五戸町)

102三戸宿(さんのへ;三戸郡三戸町)

 

○岩手県(南部藩、盛岡藩)

101金田一宿(きんだいち;二戸市)

100福岡宿(ふくおか;二戸市)

99一戸宿(いちのへ;二戸郡一戸町)

98沼宮内宿(ぬまくない;岩手郡岩手町)

97渋民宿(しぶたみ;盛岡市)

96盛岡宿(もりおか;盛岡市)

95日詰郡山宿(ひずめこおりやま;紫波郡紫波町)

94石鳥谷宿(いしどりや;花巻市)

93花巻宿(はなまき;花巻市)

92鬼柳宿(おにやなぎ;北上市)

 

○岩手県(伊達藩、仙台藩)

91金ヶ崎宿(かねがさき;胆沢郡金ヶ崎町)

90水沢宿(みずさわ;奥州市)

89前沢宿(まえさわ;奥州市)

 

○岩手県(一関藩)

88山の目宿(やまのめ;一関市)

87一関宿(いちのせき;一関市)

 

 

有壁本陣

 

○宮城県(伊達藩、仙台藩)

86有壁宿(ありかべ)

85金成宿(かんなり)

84沢辺宿(さわのべ)

83宮野宿(みやの)

82築館宿(つきだて)

81高清水宿(たかしみず)

80荒谷宿(あらや)

79古川宿(ふるかわ)

78三本木宿(さんぼんぎ)

77吉岡宿(よしおか)

76冨谷宿(とみがや)

75七北田宿(ななきただ)

74仙台宿(せんだい)

73長町宿(ながまち)

72中田宿(なかだ)

71増田宿(ますだ)

70岩沼宿(いわぬま)

69槻木宿(つきのき)

68船迫宿(ふなはざま)

67大河原宿(おおがわら)

66金ヶ瀬宿(かながせ)

65宮宿(みや)

64白石宿(しろいし)

63斎川宿(さいかわ)

62越河宿(こすごう) 


 

○福島県

61貝田宿(かいだ)

60藤田宿(ふじた)

59桑折宿(こおり)

58瀬上宿(せのうえ)

57福島宿(ふくしま)

56清水町宿(しみずま)

55浅川新町宿()

54八丁目宿(はっちょうのめ)

53二本柳宿(にほんやなぎ)

52二本松宿(にほんまつ)

51北杉田宿(きたすぎた)

50南杉田宿(みなみすぎた)

49本宮宿(もとみや)

48高倉宿(たかくら)

47日和田宿(ひわだ)

46福原宿(ふくはら)

45郡山宿(こおりやま)

44小原田宿(こはらだ)

43日出山宿(ひでのやま)

42笹川宿(ささがわ)

41須賀川宿(すかがわ)

40笠石宿(かさいし)

39久来石宿(きゅうらいし)

38矢吹宿(やぶき)

37中畑新田宿(なかはたしんでん)

36大和久宿(おおわく)

35踏瀬宿(ふませ)

34太田川宿(おおたがわ)

33小田川宿(こたがわ)

32根田宿(ねだ)

31白河宿宿(しらかわ)

30白坂宿(しらさか)

29境明神宿()

 

○栃木県

(間宿)境明神寄居宿()

28板谷宿()

27芦野宿(あしの)

26寺子宿()

25越堀宿(こえぼり)

24鍋掛宿(なべかけ)

23大田原宿(おおたわら)

22八木沢宿()

21佐久山宿(さくやま)

20喜連川宿(きつれがわ)

19氏家宿(うじいえ)

18白澤宿(しらさわ)

17宇都宮宿(うつのみや;宇都宮市)

16雀宮宿(すずめのみや;宇都宮市)

15石橋宿(いしばし;下都賀郡)

14小金井宿(こがねい;)

13新田宿(にった;小山市)

12小山宿(おやま;小山市)

11間々田宿(ままだ;小山市)

10野木宿(のぎ;下都賀郡野木町)

 

○茨城県

9古河宿(こが;古河市)

8中田宿(なかだ;古河市)

 

○埼玉県

7栗橋宿(くりはし;北葛飾郡栗橋町)

6幸手宿(さって;幸手市)

5杉戸宿(すぎと;北葛飾郡杉戸町)

4粕壁宿(かすかべ;春日部市)

3越谷宿(こしがや;越谷市)

2草加宿(そうか;草加市)

 

○東京都(江戸)

1千住宿(せんじゅ;東京都)

0日本橋(にほんばし;東京都)

 


 

 

 ■間宿(あいのしゅく)

 間宿とは実質的に宿場町と同じように整備されているが、幕府に認められていないものをいう。 幕府に認められていないのに存在する、と言うことは必然から発生したものである。いろいろなケースが考えられるが、当初幕府が宿場を定めた際それ以前からあった宿駅を再整備する形になる。これは決まった距離にあった訳ではないから場所によっては非常に離れる場合も出てくる。その際途中に自然発生的に宿場の体裁を整えた街が出来る。これが間宿である。

 

 正式な宿場と間宿の違いは伝馬の義務の有無であり、間宿が宿場としての利益を得るとすれば正規の宿場の立場では不満も出てくる。その不満を抑えるため、大名、幕府公用での間宿の利用を禁じる事もあった。ただし、宿場間が余りに離れ過ぎ、その日のうちに次に着きそうにない場合、元の宿場に戻らなければならず、かなりの負担となった。

 

■伝馬制

 街道には一里塚、松などの並木が整備されたが、江戸までの参勤交代をはじめとする人、物の移動のためには輸送が重要となる。往時には現在のような長距離輸送を担当する業者は無く、輸送を成立させるために伝馬制が整備された。

 

 宿駅には馬と人夫が控えており輸送にあたる。当初東海道では36頭の伝馬が常備された(寛永15年(1638)以降100頭、100人)が、奥州道中では5頭程度が伝馬の常備数だったようだ。また、馬には人夫がつきものだが彼らは、普段農業に従事し、長期間地元を離れるわけにはいかない。そのため、家に戻れる宿駅間の移動に留め、駅伝のように中継していった。これを「継ぎ送り」ともいう。幕末に向け伝馬の数は増えていくが、往来量の増加に追いつかず、慢性的に伝馬の数は不足していた。

 

 この伝馬制を利用し、参勤交代での行列は宿場で馬を替え次の宿場に向かった。ところで参勤交代では公定の賃料が定められていた一方、幕府関係者(伝馬朱印状を持っている人)は無料で利用していた。一般の荷役は交渉による相対賃料となっている。ただし、公定の賃料もさほど高くはなく、一般の荷役は絶対数も少ないため、幕末に向け往来量が増えるほど、宿場の財政が苦しくなるという、皮肉な状況に至る。

 

■助郷制

 助郷(すけごう)は、江戸時代幕府が諸街道宿場の保護、人足や馬の補充のため宿場周辺の農村に課した賦役(ぶえき)のことをいう。幕府は各宿に一定数の人馬を常備するよう義務付けたが参勤交代制の確立などにより交通量が増大すると、宿場に用意されている人馬だけでは不足するようになり、近隣の村々から人馬を集めなければならなくなる。

 はじめは臨時の人馬徴発だったが、交通需要の増大につれ助郷制度として恒常化した。人馬提供の単位となった村も、これに課した賦役も共に助郷と呼び、定助郷、代助郷、宿付助郷、増助郷、加助郷、当分助郷などがあった。当初、助郷村の範囲は宿場の近隣であったが、次第に遠方にも拡大され10里以上も離れた所もあった。そのため、人馬を提供しなければならない村々は耕作に支障をきたし、経済的にも苦境に陥るなど、深刻な問題も引き起こした。後には人馬提供が不可能の場合、金銭で代納するようになり、次第に金銭代納が一般化した。制度としては、伝馬制とともに明治5(1872)年に廃止された。

 

 


 

■本陣・脇本陣

 本陣は勅使、公家、大名、幕府公用の役人などが宿泊するための施設。本陣ではキャパシティーが不足した場合に利用した予備が脇本陣。
 一般の旅籠では許されていなかったが本陣、脇本陣には門、玄関、書院を設けることができた。それだけ格式が高いとされていたわけだが一般旅行者は本陣に泊まることは出来なかった。脇本陣には一般旅行者も宿泊することもできたが、本陣より格下とされていた。

 本陣は一宿場にそれほど多いわけではなかったため格式と体面を大切にする大名の宿泊が一宿に重ならない様事前に宿場側と調整する。ただ、洪水による川留(かわどめ)などで重なったときには、本陣に入っている大名の身分が後から来た大名より低い場合、本陣を明け渡すこともあった。
 また勅使に対しては、将軍の名代や大名でも本陣を明け渡して脇本陣に移らなければならなかった。それでも本陣や脇本陣に不足が生じたときなどは、宿内の寺院に宿泊することもあった。
 

 

 

本陣の様子

 

 なお、宿泊費は決まった金額は無く、藩からの心付けとして本陣側に渡される。江戸時代も初めはふんだんに支払われていたが、財政が厳しくなる江戸後期には心付けが少ない、という本陣のぼやきも出てくる。また、本陣の備品を盗んだり、壊したりする行儀の悪い藩もあったという。

 

■問屋場(伝馬所)

 問屋場は宿場に必ず所在し、人馬の中継業務を行った。大名や幕府の公用旅行者が通過する際に、常備している馬や人足を提供し、彼らの人や荷物を次の宿場まで運ぶというもの。もう一つ役目があり、幕府の公用書状や物品を次の宿場に届ける飛脚業務で、これを継飛脚(つぎびきゃく)という。これは江戸〜京都間を最速70時間で結んでいた。他にも江戸と国元を往復する大名飛脚、東海道を6日で運び、「定六」と呼ばれた民間用の町飛脚があった。現在でいう郵便局のような役割を持っていたといえる。
 これらの業務を円滑に遂行するために、問屋場には宿場の最高責任者である問屋(といや)、問屋の補佐役である年寄(としより)、事務担当の帳付(ちょうづけ)が常駐しており、その下に、人馬指(じんばさし)や馬指(うまさし)といった、人足や馬を段取る役職を置いていた宿場もあった。他に大名行列などを宿場の出入り口で出迎えるための迎役(むかえやく)といった役職を設けていた宿場もある。
 こうした問屋場は一つの宿場に一箇所だけとは限らず、宿場内に複数の問屋場があった所もあり、こうした場合交替で業務を行った。

 

■高札場とは

 高札場とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを梅、杉、檜等の木の板札に墨で書き、人目を引く場所に掲示しておく場所及び物。掲示板。

 特別の通知事項の告知と、普遍的な(キリシタンの禁止、放火の禁止、駄賃の金額等)項目を掲示するものがあった。
 高札場の高さは約3メートルから4メートル、間口は約3メートルから5メートルといったところ。矢来や石垣などで厳重に管理されていた。「制札場」とも呼んだ。とはいえただの掲示板ではなく支配階級の権威を象徴していたため通行人は頭を下げて通過したという。

 

高札場(東海道箱根関所;静岡県)

  

 

 

 

 

■関所と番所 

 番所とは、江戸時代に通行者、通行船舶などの荷物の検査、税の徴収 を行った所。現在の市役所や役場に近いと思えば分かりやすいだろうか。ただし、異国船などを監視する「遠見番所」や警備の詰め所を指す「同心番所」などもあったため、警察署も含むといえる。

 

 こうした施設の規模の大きいもの、またはいくつか集まったものを「関所」と呼んだ。江戸幕府設置のものは関東中心に53箇所。ただし、この用例には混乱、同化も見られ、関所=番所との記述も見受けられる。最近、東海道の箱根関所を見学する機会があったのでこれを参考に解説したいと思う。

 

関所遠景(東海道箱根関所;静岡県)

  

 まず立地だが、基本的に峠や渡し場など、道幅が狭くなり、他の通り道が取りづらい場所が選定される。監視しやすい眺めの良い川や湖沿いは特に適地で箱根関所も難所の峠を過ぎ、芦ノ湖に面した場所に立地している。

 奥州道中(日光道中)では栗橋関所がやはり難所の房川(ぼうせん)渡しと呼ばれる渡し場に面していた。ちなみに栗橋関所は規模で箱根とほぼ同じ、北に向けての関所として重視された。また、栗橋に所在しているが、正式名称は対岸の中田宿の名前を取り「中田関所」とも呼んだようである。

  

大番所内部(東海道箱根関所;静岡県)

 

 さて箱根関所だが、門の正面には「千人溜り」がある。枡形と同じ役目だが、道はクランク状にはなっておらず、むしろ門の前の広場といった趣だ。江戸口千人溜りの脇には弓矢や鉄砲の練習場である「矢場」がある。門を入ると右手湖側に「高札場」がある。

 高札場の後ろは上番所、大番所、厩があり、鉄砲などを並べて通行人を威嚇していた。対面には足軽番所があり、坂の上に「遠見番所」がある。ここで芦ノ湖を監視していた。

 

 

 

 

 

 関所では「入鉄砲」と「出女」を重点的に取り締まった。「入鉄砲」は謀反を防ぐため江戸への武器の持ち込みの防止のため、「出女」は江戸に人質になっている大名の奥方が脱出することを防ぐために特に重視した。箱根では「入鉄砲」は殆ど調べず「出女」を重点的に調べたという。これは箱根より西の新居関所で鉄砲は調査するためで、間は譜代と天領だから改めて調査する必要が無かったのだ。

 「出女」の調査方法は「人見女」(「改め女」や「改め婆」ともいう)が通行する女性の髪を調べる。髪の量が多く、髪に密書などの物を隠すことが可能だったのと、高貴な女性のみが髪を切り揃えることからこれを目安に調べていたという。

 この「人見女」は近所の農家の主婦二人が当たる。「出女」はこのように厳しい検査があるため寛文元(1661)年には箱根の関所を通った女性は日に一人程度だったという。一方、江戸へ向かう場合は同行の男性が行き先を告げるだけで通過できた。

 また、大奥の実力者や公家の高家の女性は駕籠から降りずに検査を無視して通過することもあった。

 

人見女(東海道箱根関所;静岡県)

 

■見附

 宿場の出入口には見附が置かれた。見附とはもともと城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、宿場の場合、入口を示すためのものだったと同時に、非常時には外敵の進入を防ぐ役目もあったようだ。城の場合は石垣、宿場では多くは土塁で、その上には木製の柵が取り付けられており、脇には傍示杭や高札が設置されることが多かった。

 宿場は有事の際の防衛の役目も担っていたということだが、平和な時代が続き、江戸時代も末期には撤去される所も増えてくる。

  

■枡形

 枡形とは軍勢が簡単に城に突入できないように90度曲がらなければ城に入ることが出来ないようにした構造物。戦国時代末期に発達した。宿場町の入り口にも同じような構造が見られた。平和な時代には不便なだけのような気もするが、直角に曲げ見通しの利かない様にして敵の軍勢が街道を進むとき、惑わせたり、勢いを削いだり、待ち伏せをして宿場の防衛のために設けられた。 

 

 

 

 旅籠屋、旅籠

 旅籠とは、旅人を食事付きで宿泊させる建物または業の事。旅籠屋(はたごや)または略して旅籠と呼んだ。公用以外の武士や寺社の参詣等で一般庶民が利用した。多くが二階建て。もちろん、参勤交代の際にも、本陣、脇本陣に宿泊できない家臣は旅籠屋に泊まる。

 宿泊料は一泊二食つき(昼の弁当が出る場合もあった)で200文程度だったが、一部屋に1人というわけにはいかず、ほとんどの泊り客は相部屋だった。現在でもさすがに相部屋はないが、温泉旅館などでは一人では割増料金を取られたりする。

 

 旅籠屋は上・中・下に区分されていたが、これは格の違いと考えられ、宿代の差がある。とはいえ規模ではないかなど、この基準についてははっきりしていない。

 また、営業形態の違いで普通の平旅籠と接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠とに大きく分けられる。飯盛旅籠では泊り客確保のため、留め女や飯盛り女を置いていた。飯盛り女とは遊女を兼ねた未公認の売笑婦で、これを置く宿場は風紀も乱れたがよく栄えた。旅人ではなく付近の住人がこれにはまることが問題になっていたようだ。

 

 しかし、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通は減少し、旅籠も廃業したり、駅前に移転するようになる。江戸時代から旧宿場町の同じ場所で旅館を営業している所は多くない。鉄道駅と宿場中心部は離れているケースが多いためだ。

そもそも江戸時代から旅籠屋は季節での売り上げ変動も大きく安定した事業とは考えられていなかった。廃業も既に多かったという。

 

 ところで「旅籠」という名称は元々旅の際馬の飼料を入れる籠(かご)を指していた。江戸時代初期には軍馬の往来も多く、馬の餌を宿で出していた。それが、旅人の食糧等を入れる器に転じ、宿屋で出される食事の意味となり、最終的に食事を出す宿屋の事を示すようになった。

 

 

 飯盛旅籠

「飯盛り」といっても平旅籠でも食事は出る。ここでいう飯盛旅籠は「飯盛女」が居る旅籠という意味。この飯盛女は食事の給仕をするだけではなく朝まで相手をする。

 実質遊女だが、お上に認められないため「給仕女」としている。遊郭ではないため遊女は認められないが、給仕は必要、との論理である。実態もわかっていただろうが、宿場の繁栄のために認められていた。継ぎ送り業務だけでは利益を上げられないための処置である。 

 

 

 

 

 

 

木賃宿

 一般庶民の宿泊所には、他に木賃宿(きちんやど)と呼ばれる宿屋があった。素泊まりに近いが、部屋だけを貸して食事は米を持参し自炊する。宿料は飯の薪料として木賃銭を払ったところからこの名がついた。寝具も持参した。


 江戸時代以前には木賃宿が宿泊のスタンダードだったが、庶民の旅が盛んになるにつれ旅籠屋が増え、宿代も天保年間(1830〜1844年)には旅籠屋が木賃宿の5倍以上となり、「木賃宿」の名は安宿の代名詞となっていた。場所も宿場はずれなど不便な所にあり、建物も平屋建てだった。

 

 明治の文学作品などでも湯治の際に良く名前が出てきているし、現在でも鄙びた温泉宿には「自炊部」が残っているところも多い。ただ、自炊部も建替えると高級客室となるケースが多く、だんだん減っていく運命にある。

 

 

茶屋
 宿場にあって旅人が休憩し、お茶や食事を出すところ。土地の名物を出したりもした。イメージとしてはテレビの時代劇で団子を食べている所だ。基本的に宿場はずれにあり、藩直営と需要から発生した民間の茶屋がある。中には旅籠と同じく給仕女を置くところもあったという。なお、茶屋が10軒以上集まり、規模が大きくなっていくと間宿となっていく。

 

 

立場茶屋
 
宿と宿の間にあって人足や馬を継ぎ立てた場所を立場と言う。もともと杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれている。立場は一般に宿場の出入り口や風光明媚な場所に置かれた。現在の展望台のような意味合いをもって呼んでいる場所が多い。 

 その立場周辺にあって駕籠や旅人が休んだ茶屋を特に「立場茶屋」と呼んだ。価格が安いため緊縮財政の大名までもが利用したという。

 間宿と同じで旅籠屋などの既得権益を守るため規制が入り、建物の構造は部屋を壁ではなく建具で仕切らねばならず、なおかつ宿泊は禁じられていた。

  

 

 

 

 

 河岸

 

■参勤交代

 参勤交代の時期、道筋は幕府によって決められており、大名行列の人数も石高により決められていた。

 人数は戦の際に動員する人数で、江戸への行軍の演習とも言える。その証に持っていく荷物は槍や鉄砲などの武具も含まれる。また、食料や風呂桶、寝具も持参し、本陣の設備や料理は利用しない。そのための荷物は膨大で行列の半分は荷物を運ぶ中間(ちゅうげん)が占めていた。

 

 行列は小藩で100人程、大藩では2000人から3000人前後の大集団での移動となる。加賀藩など、約4000人になる事もあったという。

 延宝三(1675)9月に仙台藩四代伊達綱村が初入国した際には騎馬59騎、総数3480人という記録が残っている。初入国ということで特に豪華だったとはいえ、大変な人数である。 

 この大行列を粗相なく進めるため綿密な準備が行われた。まず出発に先立ち宿泊や人馬の手配をするために、事前に宿場に対し「先触」(さきぶれ)という通達書を出しておく。これを受け取った各宿では、宿の割り当てや人馬の手配をしておく事になる。
 道程では、先発隊の宿割り担当者が宿場に先行し、本陣や宿場の入り口に関札を高く掲げる。この関札は、本陣跡などに現在も残っている。大名は本陣に宿泊するが、家臣は上位のものから脇本陣、旅籠屋に分宿し、不足すれば寺院や野営(野宿)となる。また1つの宿場で人員を収容できない場合は、前後の宿場に分宿する事もあった。


 なお、参勤交代の往来は江戸から盛岡まで12日〜13日の行程で1日に十里ほどの行程。かなりの早足で経費の節減のため行程を縮める目的があった。実際に参勤交代の経費は藩財政の2割近くを占めていた。経費削減のために行列の人数を減らす事も行われていたようだが、江戸に近くなると日雇いの中間を雇って人数を水増しし、行列も整え歩みもゆっくりになる。  

 

■領民の旅

 民衆の旅は長距離のものは殆ど無く、どちらが主かは分からないが、伊勢参り、金毘羅参り、善光寺参り等の参詣の旅の途中で観光していた。

 実際、藩の外に出ることは規制されており、手形を発行してもらわなければ関所で足止めを食らう。この点、現在の海外旅行でパスポートやビザを準備する事と似ている。

 1日に歩く距離は、8〜10里程。江戸〜盛岡までだと12〜13日程の行程。早朝暗い内に出発し、日没前に宿に入る。暗い夜道の旅は非常に危険で、追いはぎや雲助といった反社会的勢力が徘徊したし、そもそも街道に街灯などは無いため真っ暗である。また、早く宿について風呂に入らないと、汚れた風呂に入る事になってしまう。

 当時の旅は、今と違いのんびりしたもので、景色を眺めながら移動すること自体が楽しみで、見聞を広める良い機会だった。

 旅費(路銀)の準備も大変で、村内で講を作り、代表者が持ちまわりで旅に出た。講は皆でお金を出し合い積み立てるもので、ねずみ講か或いは共済的なものである。また、路銀も無く旅をする人も多く、街道筋の人々に施しを受けながら旅を続けた。

 旅人の服装は、頭の上から陣笠、振り分け荷物、合羽、着物、羽織り、手甲、股引、脚絆、草鞋という姿が一般的。一方、女性の旅姿は、管笠か手ぬぐいの姉さんかぶりで、着物の裾を細紐でたくし上げ、足袋に草履が相場だった。

 旅の必需品は往来手形で、庶民の旅には絶対必要だった。これは百姓、町人に対しては郷の名主や寺が発行した。一般的な携帯品には手ぬぐい、弁当箱、薬、針、矢立、下着、扇、風呂敷、タバコ道具、ろうそく、火打石、枕など。

 

 

■ゴマの灰

 旅人のふりをして同室の旅人の荷物を盗んで歩く盗人。

高野聖の格好して、弘法大師の護摩の灰と称して灰をだまし売って歩いた人の呼び名から付いた。


 ゴマに付いた蝿は見つけにくいことから「胡麻の蝿」ともいう。

 

 

 

 

 

 

   

 

■大名の湯治

 盛岡藩3代の南部重直は温泉好きで、江戸在住の際もしばしば温泉を訪れていた。もちろ勝手に江戸を離れるわけにはいかないため、幕府にお伺いをたてる。南部藩の公文書である「書留」の正保3年(1645)3月6日には「一、殿様重直公今九時、那須御湯治御暇被遣候御奉書、阿部対馬守殿より参候」とあり、将軍家光の許可を伝える奉書が老中の阿部重次からもたらされたという内容。翌日には那須へ出かけていたという。

 寛文4年(1664)重直は江戸屋敷で亡くなるが、それまで「書留」によれば塩原、箱根の底倉、伊東や熱海などたびたび名湯へ出かけている。他にも熱海の宿帳に名前があるが「書留」にないものもあり、更に多く湯治に出かけていたようだ。

 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

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