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■旅籠屋、旅籠 旅籠とは、旅人を食事付きで宿泊させる建物または業の事。旅籠屋(はたごや)または略して旅籠と呼んだ。公用以外の武士や寺社の参詣等で一般庶民が利用した。多くが二階建て。もちろん、参勤交代の際にも、本陣、脇本陣に宿泊できない家臣は旅籠屋に泊まる。
宿泊料は一泊二食つき(昼の弁当が出る場合もあった)で200文程度だったが、一部屋に1人というわけにはいかず、ほとんどの泊り客は相部屋だった。現在でもさすがに相部屋はないが、温泉旅館などでは一人では割増料金を取られたりする。
旅籠屋は上・中・下に区分されていたが、これは格の違いと考えられ、宿代の差がある。とはいえ規模ではないかなど、この基準についてははっきりしていない。
また、営業形態の違いで普通の平旅籠と接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠とに大きく分けられる。飯盛旅籠では泊り客確保のため、留め女や飯盛り女を置いていた。飯盛り女とは遊女を兼ねた未公認の売笑婦で、これを置く宿場は風紀も乱れたがよく栄えた。旅人ではなく付近の住人がこれにはまることが問題になっていたようだ。
しかし、明治時代になって旧街道が廃れ、鉄道網が発達してくると、徒歩や牛馬による交通は減少し、旅籠も廃業したり、駅前に移転するようになる。江戸時代から旧宿場町の同じ場所で旅館を営業している所は多くない。鉄道駅と宿場中心部は離れているケースが多いためだ。
そもそも江戸時代から旅籠屋は季節での売り上げ変動も大きく安定した事業とは考えられていなかった。廃業も既に多かったという。
ところで「旅籠」という名称は元々旅の際馬の飼料を入れる籠(かご)を指していた。江戸時代初期には軍馬の往来も多く、馬の餌を宿で出していた。それが、旅人の食糧等を入れる器に転じ、宿屋で出される食事の意味となり、最終的に食事を出す宿屋の事を示すようになった。
飯盛旅籠
「飯盛り」といっても平旅籠でも食事は出る。ここでいう飯盛旅籠は「飯盛女」が居る旅籠という意味。この飯盛女は食事の給仕をするだけではなく朝まで相手をする。
実質遊女だが、お上に認められないため「給仕女」としている。遊郭ではないため遊女は認められないが、給仕は必要、との論理である。実態もわかっていただろうが、宿場の繁栄のために認められていた。継ぎ送り業務だけでは利益を上げられないための処置である。
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木賃宿
一般庶民の宿泊所には、他に木賃宿(きちんやど)と呼ばれる宿屋があった。素泊まりに近いが、部屋だけを貸して食事は米を持参し自炊する。宿料は飯の薪料として木賃銭を払ったところからこの名がついた。寝具も持参した。
江戸時代以前には木賃宿が宿泊のスタンダードだったが、庶民の旅が盛んになるにつれ旅籠屋が増え、宿代も天保年間(1830〜1844年)には旅籠屋が木賃宿の5倍以上となり、「木賃宿」の名は安宿の代名詞となっていた。場所も宿場はずれなど不便な所にあり、建物も平屋建てだった。
明治の文学作品などでも湯治の際に良く名前が出てきているし、現在でも鄙びた温泉宿には「自炊部」が残っているところも多い。ただ、自炊部も建替えると高級客室となるケースが多く、だんだん減っていく運命にある。
茶屋 宿場にあって旅人が休憩し、お茶や食事を出すところ。土地の名物を出したりもした。イメージとしてはテレビの時代劇で団子を食べている所だ。基本的に宿場はずれにあり、藩直営と需要から発生した民間の茶屋がある。中には旅籠と同じく給仕女を置くところもあったという。なお、茶屋が10軒以上集まり、規模が大きくなっていくと間宿となっていく。
立場茶屋 宿と宿の間にあって人足や馬を継ぎ立てた場所を立場と言う。もともと杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれている。立場は一般に宿場の出入り口や風光明媚な場所に置かれた。現在の展望台のような意味合いをもって呼んでいる場所が多い。 その立場周辺にあって駕籠や旅人が休んだ茶屋を特に「立場茶屋」と呼んだ。価格が安いため緊縮財政の大名までもが利用したという。
間宿と同じで旅籠屋などの既得権益を守るため規制が入り、建物の構造は部屋を壁ではなく建具で仕切らねばならず、なおかつ宿泊は禁じられていた。
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