奥州道中(奥州街道)
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| ■五街道
江戸時代、徳川家康の時代、基幹街道として以下の五街道の整備を始めた。
・東海道
・中山道(中仙道とも表記する)
・甲州道中
(甲州街道)
・奥州道中
(奥州街道)
・日光道中
(日光街道)
これらの街道は、参勤交代の際の交通路として重要で、一里ごとに一里塚がつくられ、宿場町が発展した。
■奥州道中
このうち今回探索する奥州道中は奥州街道とも呼ばれる。
千住から宇都宮までは日光街道と重複し、宇都宮の次、下野白沢から陸奥白河(福島県白河市)までが幕府道中奉行管轄の狭義の奥州道中。だが、それ以北、脇街道として幕府勘定奉行の管理下にある三厩宿(青森県東津軽郡外ヶ浜町)までを含み奥州道中とすることが多い。
更に白川〜仙台を仙台道、仙台〜函館までを松前道とする分類もある。
起点によっても呼び方が違い、仙台から盛岡に向かう際には「盛岡道」、盛岡から江戸に向かう際には「江戸街道」などと様々な呼び名があった。
終点についても青森市では善知鳥神社前が終点。油川では羽州街道との分岐点を終点としている。
また、現在では昭和に入り行われた「歴史の道」調査報告での名称が基準となっており、北東北でも、青森県では奥州街道と松前街道。岩手県では奥州道中。宮城県では白河以北は奥州街道とここでも呼称の不統一が起きている。このHPではスタートが岩手県なので日本橋から「奥州道中」を基本としたい。
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■規格
主要な道は3間、脇街道は2間、その他の小道が幅1間程度を標準としていた(1間[けん]は約1.8m)。
両脇には主に松、漆、杉などの並木が植栽され、夏は日陰をもたらし、冬は雪に埋もれた中でも街道の位置を示していた。
現在、その多くは、落雷、積雪、風、虫などにより枯死したり、道路拡幅などによりほとんど失われている。ただし、国道の中央分離帯などに不自然に生えている松は当時からの並木の可能性が高い。
また、1里(約4km)ごとに土を盛り、頂上に松、杉、楓などを植えた。これを一里塚と呼ぶが、現在でいえばキロポストの役割を担っていた。そこには井戸を設置している場合が多く、旅人の喉を潤すオアシスの役目も担っていた。
岩手県の石鳥谷地区では道路の付け替えが行われており、旧奥州道中と奥州道中がほぼ並行している。このように古くからあった街道を江戸時代に入ってから経路を変更する例は至るところにあった。当然、その経路はそれ以前より平坦、直線で往来が楽になった。
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矢巾町相野々一里塚説明板には増補行程記の絵図が引用されている。
■増補行程記
日本橋から盛岡までの行程を記した通り絵図。清水秋全の手になる。原典は南部家伝来のもので現在は盛岡市中央公民館に所蔵されている。
盛岡藩主8代南部利視の命をうけ、1751年(宝暦元年)盛岡藩士清水秋全の手により著述された。
なぜ「増補」なのかと言うと、絵図の中に朱書きで加筆されていることを以って「増補」というようである。絵図は彩色されており見栄えが良い。
宿場、川、橋、一里塚、並木、遠景の山がパース状に描かれており、もちろん現在の地図のように縮尺は正確ではないが、一里塚の数で大体の距離を推し量ることが出来る。
また、いわれや、増水が多い川についての記述なども記入されている。
まさに、参勤交代の「行程」を立てる際に無くてはならない資料であったと思われる。
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■用途
江戸時代初期には主に参勤交代の往来に用いられ、江戸から盛岡まで参勤交代で12日〜13日の行程だった。もともと街道は参勤交代のために築造され、物資の輸送などは脇街道が利用された。
数百人から千人単位での移動は沿道に大きな経済効果をもたらした。反面各藩や後に触れるが、宿場町の財政を逼迫させる原因ともなった。
また、中期には蝦夷地開発のため、江戸末期にはロシアからの蝦夷地防衛のために往来量が増加した(弘前、南部藩は北方領土や樺太まで進駐していた)。
1873年(明治6年)に陸羽街道と改称され、現在は大部分が国道4号となっている。
■宿場町 青森県では三厩、今別、平館、蟹田、中沢、油川、青森、野内、小湊、野辺地、七戸、藤島、伝法寺、五戸、浅水、三戸。
岩手県内では金田一、福岡、一戸、沼宮内、渋民、盛岡、郡山、石鳥谷、花巻、鬼柳、金ヶ崎、水沢、前沢、山の目、一関に宿場が置かれた。これらは現在でも青森県、岩手県の中心的な街となっている。
宮城県では有壁、金成、沢辺、宮野、築館、高清水、荒谷、古川、三本木、吉岡、冨谷、七北田、仙台(仙台まで)などに宿場が置かれた。
■宿場とは
道中の往来時に休息や宿泊を行う場所。江戸から白河まで27宿、白河宿から三厩宿まで89宿である。宿場には、伝馬所、本陣、脇本陣、制札場が備わっている。参勤交代をスムーズに行うために整備されたもので幕末まで機能した。
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■伝馬制
街道は一里塚、松などの並木が整備されたが、江戸までの参勤交代をはじめとする人、物の移動のためには輸送が重要となる。往時には現在のような長距離輸送を担当する業者は無く、輸送を成立させるために伝馬制が整備された。
宿駅には馬と人夫が控えており輸送にあたる。当初東海道では36頭の伝馬が常備されたが奥州道中では5頭程度が伝馬の常備数だったようだ。
また、馬には人夫がつきものだが彼らは、普段農業に従事し、長期間地元を離れるわけにはいかない。そのため、家に戻れる宿駅間の移動に留め、駅伝のように中継していった。
幕末に向け伝馬の数は増えていくが、往来量の増加に追いつかず、慢性的に伝馬の数は不足していた。
この伝馬制を利用し、参勤交代での行列は宿場で馬を替え次の宿場に向かったのである。
参勤交代では公定の賃料が定められていた。一方、幕府関係者は無料で利用していた。一般の荷役は交渉による相対賃料となっている。
ただし、公定の賃料もさほど高くはなく、一般の荷役は絶対数も少ないため、幕末に向け往来量が増えるほど、宿場の財政が苦しくなるという、皮肉な状況に至る。
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■助郷制
■弘前、盛岡藩の奥州道中
奥州道中は当初盛岡の南と北とで整備状況が異なった。
盛岡藩三代藩主南部重直は古奥州道で曲がりくねっていたり、高低差の激しい道を平坦直線路に付け替えさせた。岩手県花巻市石鳥谷の15kmにも及ぶ直線路が代表的である。
また、松の並木を整えさせ美しい街道が出来上がった。
これらは日光街道を手本としたもので、「日光街道のように整備せよ」との指示があったという。
この指示以前から整備が始まっていたとする説もあり、また、日光街道は杉並木なのでこの指示は創作の可能性もあるが。
一方、その際盛岡以北は余り手を加えられなかったが、蝦夷地への往来量が増えるに従い整備が進んだ。
特に青森以西は一里塚も塚ではなく杭で代用されていた時期があるようで、むしろ幕末飢饉の時期に新たな築造が出来なかったことがあったようだ。
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■明治天皇御巡幸
明治に入ると天皇陛下の東北ご巡幸があった。百人以上の集団が東北各地を練り歩き人心の安定を図ったが、政治的意図は別として、奥州道中の近代化に外すことが出来ない出来事だった。
巡幸一行は奥州道中を北上したが、地元では陛下を迎えるに当たり道中の大工事を行った。馬車の通行に不便な難所は切り下げ、土橋や馬渡りだった川にはことごとく橋が架けられた。
現在でも奥州道中を探索すると「明治天皇休息記念碑」が至る所にある。
また、陛下にちなんだネーミングも多く、例えば岩手県北上市に「九年橋」があり、前九年の役に関係する名前かと思っていたら明治九年の天皇御巡幸を記念しての名前だったということがいくつかあった。
訪問するだけで奥州道中の大工事が行われるとは当時の天皇の保持していた権力の大きさが伺われるが、いずれにせよ奥州道中の近代化の大きなきっかけであり、現在に至る国道4号線化への基礎となった。
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