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(八戸)根城南部家 三戸南部家
盛岡南部家
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八戸街道を語る前に南部家について解説が必要だろう。この南部家、根城南部家、三戸南部家、盛岡南部家、八戸南部氏と分かりずらい。
■戦国時代までの南部家
■南部光行(みつゆき)
甲斐源氏加賀美次郎遠光(かがみじろうとおみつ)の三男。三戸南部氏の祖とされる。元々甲斐国巨摩郡(こまぐん)南部(山梨県南部町)を拠点としていたが1189年源頼朝より糠部郡を与えられ、1191年八戸浦に上陸した後地元に戻り亡くなったという。
領地を与えられたといっても、この頃は在府で地方には定住しない形が普通であったため、実際に光行が八戸まで来たかは定かではない。このいきさつが記録に出てくるのは近世になってからで、当時の資料には記録が無く伝説に近いかもしれない。
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後に光行の家督を継いだのは次男彦次郎実光(さねみつ)でこの系譜が三戸南部氏(後の盛岡南部氏)である。一方光行の三男波木井六郎実長(さねなが)が根城南部氏(後の遠野南部氏)の祖となる。
なお、光行には他に四人の男子があり、長男彦太郎行朝は妾の子のため別家を興して一戸氏の祖となり、四男七戸太郎三郎朝清は七戸・久慈氏の祖に、五男四戸孫四郎宗朝は金田一・櫛引・足沢氏の祖に、六男九戸五郎行連は九戸・小軽米・江刺氏の祖となったと南部家の系図に記されている。
また『吾妻鏡』によれば、南部光行が糠部に下向した最初の正月、大晦日を前にして正月の準備が全く揃わない事態となり、困った家臣が光行に相談したところ、光行の「ならば南部の正月は12日だ」との鶴の一声で、以後南部氏の正月は12日となり、南部氏においては領民共々正月は12日に祝うようになったとされ、世間においては「南部氏の私改め」と評判を呼び、それが正月の伝統行事とされたえんぶりへと継承された。このエピソードは当時の南部氏が、後の南部氏と違い、如何に弱小で困窮していたかを知る上でも貴重なエピソードでもある。[ウィキペディア]
ウィキペディアにはこうした記述も見られる。ただ、「えんぶり」800年以上の歴史があるとされているが、始まりの記録は残っていない。現在のえんぶりは正月を祝うというよりは田植え踊りで豊作祈願の意味合いが強い。なお、八戸えんぶりは国の重要無形民俗文化財となっている。
「えんぶり」の起源説には次のものもある。奥州で初の正月、光行は家来に武装させ、地元有力者を訪問させたが、酒の勢いのため家来達は抜刀乱舞し、家人たちを恐怖に陥れた。
この際、居合わせた藤九郎という機転の利農民が賑やかに田植歌を歌い、農具を手に踊ったところ、家来達は刀を納めてその様子を見物した。
鳴子板をふり、田んぼの土をならす仕種を踊り終えた藤九郎が、南部家を祝福する口上を述べたところ、それが吉例となり、えんぶりが行われるようになったというものである。
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■根城(遠野)南部氏
根城南部氏(後の遠野南部氏)の祖は南部光行の三男実長(さねなが)である。実長は波木井(はきい;山梨県身延町)を拠点とし、この後三代続く。この間を波木井南部氏と呼ぶ場合もある。

南部師行
鎌倉時代から南北朝期にかけての武士は、惣領制によって統制されており、南部氏の惣領は鎌倉にあって幕府に出仕し、庶流南部氏が甲斐・奥州の所領の代官などを勤めていたものと思われる。そして、幕府の滅亡を契機として、波木井南部氏が台頭してくるようになる。
鎌倉幕府滅亡後、中先代の乱を経て建武の親政になると、奥州鎮撫を目的とした義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠顕家、伊達行朝と共に南部師行も奥羽に下向する。
日蓮宗関係の史料によれば引き続き甲斐の河内地方に居住し続けている複数系統の南部一族はおり、南朝方に属したと伝えられる。
なお、八戸へは建武元年(1334)年、四代師行(もろゆき)が八戸へ下向した際、根城(ねじょう;青森県八戸市)に城を築いた。そして江戸時代に遠野に移るまでの287年この地が拠点となる。この頃は宗家とされる三戸南部氏より勢力が強かったという。
後、波木井に居た八戸南部氏の南部政光は南北朝合一に際して奥州へ移住して、河内地方には武田一族の穴山氏が入部している。
(三戸南部二十六代)南部信直の頃には勢力を弱め、既に家臣に近い状態になっていたようである。
信直により遠野への知行替えとなるが、当時遠野へは伊達藩の侵食が進み、対処のために身内に統治させるという意味合いもあったようである。
ところで、遠野南部氏が祖先が実長と主張するのは実は幕末に至ってからである。
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■三戸(盛岡)南部氏
今では南部氏の本家である三戸南部氏の南北朝期における動向は実ははっきりしていない。戦国時代に三戸城が焼失したとき、史料が一緒に焼失したことが原因だが、この頃八戸南部氏と比べ陰の薄い存在だったせいかも知れない。
三戸南部氏は八戸南部氏とともに南朝方に属していたようだが、政行のときに南朝方から北朝方に転向している。そして、政行の子守行のとき南北朝が合一。
守行は将軍足利義満の命を受け、南朝方に忠節誓う八戸南部政光の帰服求め説得にあたるが、政光は「二君にまみえるつもりはなく、白刃のもとにたおれることをのぞむ」と述べ、南朝にあくまで殉じるつもりであった。
三戸南部氏は、南北朝時代において八戸南部氏から多大な援助を受けており、守行はその恩義に報いるため、政光のため、将軍家と政光の双方が納得のゆく折衷案を考える。それは、甲州の所領を将軍家に返却し、政光は南朝から賜った根城に退くというものだった。
そして政光は甲州の所領を将軍家に返納し、自らは八戸の根城に退くことで北朝方に降った。これをきっかけとして、三戸南部氏は八戸南部氏に代わって南部氏の宗主権を手に入れる事となる。その後根城南部氏は八戸氏を称するようになった。
この政光・守行の行動に、将軍義満も政光の忠誠心と守行の篤実さを賛えたと伝ええられている。
こうして、南北朝内乱期に南部氏の主導権を握っていた八戸南部氏は、嫡家三戸南部氏とその位置を交代し、以後、南部氏の指揮下に入る。
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■戦国時代〜江戸時代初期
■九戸政実
まず宗家三戸南部氏二十四代晴政の娘婿(長女)信直が世子となる。次に永禄十三年に晴政に長男鶴千代(晴継)が生まれると晴政、信直間の仲がギクシャクし始め信直派剣吉城主北信愛(のぶちか)との間に戦いも起こっている。
この隙を突き大浦為信が津軽郡代の石川高信(信直の父)を殺し、津軽独立の足場を築いている。信直にしてみれば父殺しの仇敵である。
次の段階は晴政の死後程無く二五代晴継も亡くなり、南部藩二四代晴政の娘婿(長女)信直と次女の婿九戸実親(政実の弟)が跡目を争う段階である。
このときは北信愛が武力で三戸城を押さえ、強引に二十六代当主に信直を就任させている。これは天正十年頃のことだが、この事で九戸党との対立は修復不可能となる。
西国では豊臣秀吉が天下統一を成し遂げる頃で政略家の信直は太閤となった秀吉の家臣前田利家に仲介を依頼、天正十五(1587)年北信愛は前田利家に面会し秀吉への取りなし確約の起承文を入手。武力では上だった九戸政実に政治的な差を付ける。
この年冬に秀吉は関東、奥羽惣無事令を発する。内容は秀吉へ無断での私闘を禁ずるものである。次に小田原での戦の際大浦為信は3月に参陣し津軽を安堵されている。信直は7月の参陣で為信には更に先手を打たれた格好で津軽回復が難しくなる。
これにより信直は秀吉の直参、政実は陪臣との立場となる。
この時までは三戸南部氏が宗家とはいえ突出した勢力では無く、同族連合が連立していたが、時代はそれを許さなくなった訳である。
これに耐えられない政実は信直に対し反逆する。それは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉に反逆する事でもあった。
「九戸政実の乱」と呼ばれるこの反乱の顛末は「奥州道中膝栗毛」二戸で触れている。
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■八戸南部氏
根城南部氏も八戸氏を名乗ったため紛らわしいがもうひとつ別系統の八戸南部氏がある。
三戸南部氏二十八代重直が後継を決めずに死去。南部家は断絶の危機を迎えるが、盛岡藩十万石を重直の二人の腹違いの弟に分け、兄の重信が八万石をついで盛岡藩を、弟の直房が残る二万石を継いで新たに八戸藩が誕生。 八戸藩二代直政は、わずか八歳で藩主となり、江戸本所の火消役を幕府から命ぜられ、江戸に留まり勉学に励み学識豊かな青年大名に成長した。すぐれた学才が五代将軍綱吉に認められ異例の出世をし、綱吉の側用人にまでなった。
藩庁は八戸城である。盛岡藩との関係については、将軍の裁定により誕生したいきさつから、独立した関係とされる。文化九年(1812)年八戸藩の上屋敷が類焼した際に財政支援を行っているが、盛岡藩主南部利敬より「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示している。
領内人口は最大で約2万2000人弱[2]で、領地の内訳は三戸郡41ヶ村、九戸郡38ヶ村、志和郡(現在の岩手県紫波郡)4ヶ村の計83ヶ村。志和は飛び地の領域である。現在の八戸市域と比較すると、現在の八戸市市川町の一部分などは盛岡藩域に属している。貞享元年(1687年)に盛岡・八戸両藩の間で侍浜村・白前村と七崎村が領地の交換がされ、七崎村が八戸藩領に編入された。
領内を「八戸廻・浜通」、「名久井・長苗代通」、「軽米通」、「久慈通」、志和に区分されて、それぞれ代官を置いた。各区域には各2名ずつ代官が置かれていたが、志和については4名に増員された。
現在藩庁である八戸城の一部は角御殿表門が市内南部会館の表門として移築され現存する。
■大浦(津軽)氏
九戸政実は失敗したが、南部家からの独立を成功させた一族もいる。大浦(津軽)為信である。大浦氏は元々南部の一族だったが為信自体は久慈家出身で、独立後は藤原氏を名乗っている。南部からの独立を成し遂げた後、別系統を強調したかったのだろうか。
ところで南部氏には一族を分け、家名を残す知恵があったと考えられるのだがこれについては改めて加筆したいと思う。
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