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岩手県に入るが、ここはかつて八戸藩の領地だった。
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5 晴山一里塚(岩手県軽米町)

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晴山一里塚東塚。
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晴山一里塚(岩手県軽米町)
現況;一基現存
案内板;柱標あり
大森一里塚から南下すると途中に一里塚の柱標がある。青森県「歴史の道」調査報告書 上り街道(八戸街道)にも載っているが塚らしき形状は全く残っていない。かろうじてこの柱標がその所在を主張している。
調査報告書では高さ1m、径3m程の三日月形で残っているとある。また、報告書の頃は舗装もされていなかったようだが今はもちろん舗装道路である。
この柱標平成18年建立とあるが誰か個人が建てたものだろうか。
西側にも塚らしき痕跡はない。

北緯
東経
AL
[0912調査]
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晴山一里塚案内板。史跡とある。
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6 観音林一里塚(岩手県軽米町)
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観音林一里塚(岩手県軽米町)
現況;一基現存(西塚)
案内板;あり
軽米町指定史跡
所在;軽米町大字晴山27-14-3
指定年月日;昭和55年4月1日
所有者;個人
塚木;松
東側にある塚状の盛上り。
初めて訪れるとこちらが一里塚だと思い込んでしまう位
それらしい形状だが、一里塚ではない。
だが、上部に生える二本松の樹勢も強く見応えがある。
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観音林一里塚。一里塚に見える東側盛り上がりが道路脇で目に付くが、奥に西塚がある。軽米町史跡となっている。街道部分も現在の道から外れ駐車場のようになっている。説明板も建てられておりそれによると築造年は1604〜1640年と幅がある。平成9年の活性化事業で整備されたとも記入されている。
【塚木は松。特に東塚は見事な樹勢で幹も太く根元から2本に分かれている。街道筋の松は高さはあるが幹の細いひょろ長いものが多いのだが非常に良いバランスで地域の方々が手入れをしてきたのかと思ったくらいである。ただ、戻ってから青森県「歴史の道」調査報告書 上り街道(八戸街道)を見てみると雑木林に埋もれているような写真が載っており、一時期忘れ去られていたもののようである。東塚は径5m、高さ3m程。[0912調査]】
と、説明していましたが2012年11月に御親切にも軽米町教育委員会の方より誤りを指摘頂きました。その指摘を要約すると、
【1.北側から眺めると、西塚と東側盛り上がりの頂部に明確な高低差があり、同時に存在したものでは無いことははっきりと分かる。 2.元々の参勤街道にあった一対の一里塚は、伝承によると、 明治27年竣工の県道久慈福岡線(通称・九戸街道)」の整備の際に、東塚が削られ西塚のみが残った。
3.昭和30年代以降に、バスの転向場として西塚と東側の盛上がりの間が掘り下げられ、現在の屈曲した半円形の道路がうまれたが、この際に、東側の塚状の山がそれらしく見えるようになったらしい。
一方で、明治の九戸街道整備の際に、今の形になったと主張する古老も居るようで、公式な記録も無く、正確ないきさつは不明。
4.本来の参勤道は、東側盛上がり脇から西塚と現町道の間を昇る場所にあたると考えられる。 5.『岩手県「歴史の道」調査報告 浄法寺・八戸街道』 (岩手県文化財調査報告書第67集、岩手県教育委員会)には 「県道から左に半円形に弧を描いた旧道があり、再び県道に出る。その左手の林の中に径5m、高さ3mほどの塚があり…」 と記載されている】
つまり、駐車場(バスの転向場)の奥にある塚のみが本物で、東側の(こちらの方が立派に見えたりするが)塚状のものは一里塚ではないという事だ。しかも、この盛上がりは一里塚を復元したものでもなく「偶然」それらしくなったとの事。
本物の東塚は明治時代には残念ながら失われてしまったようだが、それを踏まえてもなかなか見応えのある景色だ。
なお、集落の郵便局付近(道路東側)が御仮屋跡。八戸を出発した参勤交代一行はここで昼食を取ることになっておりそのための仮屋である。ここを過ぎれば盛岡藩なので領地を出る前の身支度を行う訳である。集落南の街道東側には稲荷神社があり、ここで参拝する事もしきたりとなっていた。

北緯
東経
AL
[0912調査]
[1211訂正]
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唯一現存する西塚。こちらも松の塚木が残る。
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