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櫛引八幡宮

櫛引城

 

 

 

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 南部一ノ宮との地位を得ている櫛引八幡宮。根城南部氏が再興したとされている。  

 

 

 

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櫛引八幡宮、歴史と位置

 

 

櫛引八幡宮の歴史についてはウイキペディアに詳しいのでそのまま引用する。

 

「仁安元年(1166年)に加賀美遠光甲州南部庄(現山梨県南部町一帯)に八幡神勧請して創祀し、緋威の鎧を殿内に納めたという八幡宮に起源を持ち、文治5年(1189年)の奥州合戦で戦功をたてたその息南部光行南部氏の始祖)が糠部5郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)の領地を任されて建久2年(1191年)に入部した折に、六戸の瀧ノ沢村に社殿を造営して南部庄から八幡宮を遷座し、更に貞応元年 (1222年) に櫛引村の現在地に遷座したという。

 

社伝の『櫛引八幡宮縁起旧記』によれば、瀧ノ沢村への遷座に際しては津島平次郎という家臣が甲州へ遣わされ、同村に仮宮を営んだのも同人であった事から、その子孫である滝沢家が「鍵守」として祭祀に預かるようになったといい、また南部庄八幡宮の別当職であった宥鑁(ゆうばん)というも遷座に供奉し、当地に来住して普門院を開創、以後別当寺院として鍵守とともに祭祀を掌ったという。

 

 なお『櫛引八幡縁起』に、櫛引村には大同年間(806-10年)に坂上田村麻呂が創祀したという八幡宮の小社が鎮座していたためにそれと合祀したものともしている。

 

 

 

櫛引八幡宮一の鳥居と参道。

 

 

櫛引八幡宮案内図。 

 

その後は「櫛引八幡宮」として南部の総鎮守と崇められ、「南部一ノ宮」とも称された。

 その後、建武年間に三戸南部家が衰退すると、当時陸奥国国司代理として下向し、根城を築いた南部師行根城南部氏4代目)が再興して南部氏の祈願所とした」。[ウイキペディア]

 

 櫛八幡宮へは国道104号線を八戸から三戸へ向かうと日赤病院を過ぎまもなく(2kmくらい)。国道からは奥に入るので看板に注意が必要。

 

櫛引八幡宮 社務所
〒039-1105   青森県八戸市八幡字八幡丁3
TEL:0178-27-3053   FAX:0178-27-0652

                

 

               

 

 

 

 櫛引八幡宮本殿・拝殿・正門 

 

 「本殿三間社流造銅板葺。細部に施された彫刻や極彩色の文様等の華やかな意匠に桃山時代の遺風が認められる。鳥居を潜った所に建つ正門(南門)は、入母屋造平入銅板葺の四脚門で部材の木柄も太く、豪壮な感じを与えるものとなっており、その左方に建つ桁行7間梁間3間入母屋造平入銅板葺の長所はかつての拝殿で現拝殿の新築に伴って移築されたもの。

 

 以上の3棟は正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもので、その後の補修工事も藩の直営事業として行われた。江戸時代前期の社殿形態を伝える遺構であり、拝殿左右に脇宮として祀られている神明宮と春日社の2棟(下述)を合わせて同時代の建造物群として残されているいる点が貴重であることから、平成5年(1993年)4月20日に国の重要文化財に指定された。

 

 なお、現拝殿は昭和59年11月に竣功した桁行15間梁間8間入母屋造平入銅板葺の建物」。ウイキペディア]

 

二の鳥居と正門。

 

 

拝殿。この後ろに本殿がある。

 

 

見に行った際には本殿は見ていないのだが、拝殿後ろに所在する。

 

 

 

 

櫛引八幡宮国宝館

  

 参道東側に国宝館がある。そこには下記の文化財が収められている。

 

 その文化財目当てか観光バスが来ることもある。

 

 

国宝館。

 

 

 

櫛引八幡宮国宝

  

 

国指定 国宝

 

工芸

 

赤絲威鎧(兜、大袖付)(附、唐櫃)(昭和28年(1953年)11月14日)

 

鎌倉時代の鎧。長慶天皇からの拝領と伝えられ、大袖と兜の鍬形台吹返に施した八重菊枝文に「一」の字の飾金物を置くため「菊一文字の鎧」と呼ばれる。鎌倉時代の金工芸術の最高水準を示し、奈良県春日大社所蔵の「赤糸威鎧」とは双璧をなすものと唱われる[9][10]。天明8年(1788年)の幕府巡見使に随行した古川古松軒は「新羅三郎義光公の甲胄」と紹介している(『東遊雑記』)。大正4年(1915年)3月26日に国宝指定(所謂旧国宝)、昭和28年に再指定。

 

 

白絲威褄取(つまどり)鎧(兜、大袖付)(附、唐櫃)(昭和28年11月14日)

南北朝時代の鎧。南北朝時代を代表する鎧であるとされ、白色を基調とする絵韋に鍍銀した金具類を配する事から「卯の花威(うのはなおどし)」と呼ばれている。応永18年に南部光経が奉納した2領の中の1領といい、光経の父信光が後村上天皇から拝領したものと伝えられる(『三翁昔語』巻の二。「祭祀節」の「流鏑馬」項も参照)。赤絲威鎧同様、大正4年旧国宝、昭和28年国宝指定。

 

         

           赤絲威鎧(兜、大袖付)                       白絲威褄取(つまどり)鎧(兜、大袖付)

 

国宝館に入ると一番奥にこの二つの国宝が並んでいる。

 

 

 

重要文化財

 

建造物

 

本殿(附鰐口1口)(平成5年4月20日)

旧拝殿(長所)(平成5年4月20日)

末社(脇宮)神明宮本殿(平成5年4月20日)

末社(脇宮)春日社本殿(平成5年4月20日)

南門(正門)(平成5年4月20日)

 

 

工芸

 

紫絲威肩白浅黄鎧(兜、大袖付)(大正4年3月26日)

 

南北朝時代のもので、国宝の「白糸威褄取鎧」と同時期に制作されたものと推定されている。大正4年に旧国宝指定、戦後は重要文化財。

 

唐櫃入白絲威肩赤胴丸(兜、大袖付)(大正4年3月26日)

 

南北朝時代後期から室町時代前期の胴丸。南北朝時代から主流となる軽快な胴丸であるが、鎌倉時代以来の鎧(大鎧)の華麗さも継承されており、戦闘の様式が変化して行く時代の特色がよく表わされた名品とされる。文化財指定については前項に同じ。

 

兜(浅黄絲威肩赤大袖2枚付)(大正4年3月26日)

 

南北朝時代の鍍金総覆輪の筋兜。胴を欠失しているために大鎧か胴丸か不明ながら、兜の総覆輪や紅と浅黄で威した錣、大袖の仕立て配色から、南北朝時代の華麗な胴であったろう事が窺える。文化財指定については前項に同じ。

青森県指定

重宝

工芸品

 

鰐口 応永十二年銘(昭和46年(1971年)9月6日)

 

青銅で鋳られた鰐口で、鼓面を同心円状に三区に分け、中央区を菊花とも見える模様を持つ撞座とし、外区は銘文を鋳出した銘帯とする。銘文の年紀から応永12年(1405年)の制作である事が判り、「守行敬白」らしき文字があることから、南部氏中興の祖といわれる三戸南部13代守行が奉納したものとされる。

 

日本刀 銘「備州長船幸光」(昭和46年9月6日)

 

備前国長船の刀工、幸光の手になる鎬造庵棟の日本刀、刃文は丁子乱れ。「長船幸光」を名乗る刀工は南北朝から戦国時代にかけて7、8名が存在するが、本刀の作者は裏銘の「永徳二年(1382年)」の年紀から最も早い者と推定されている。根城南部氏の光経が応永18年に国宝の白糸威鎧と一緒に奉納したものという(『三翁昔語』巻の二。「祭祀節」の「流鏑馬」項も参照)。資料的、美術的に貴重なものとされる。

 

 

彫刻

 

舞楽面9面(昭和46年9月6日)

 

納曽利、還城楽(げんじょうらく)二の舞の尉と媼、貴徳、散手2面、陵王、神事面(伝採桑老(さいしょうろう))の9面。納曽利と還城楽の2面は鎌倉時代後期の作で、檜材の本格的な作風から中央で制作された可能性が高く、二の舞2面と貴徳と散手の2面中1面の合わせて4面は、鎌倉末から南北朝時代にかけての作、その作風からは東北地方における制作とされる。残り3面は室町から江戸時代にかけての作。9面の伝来状況から、当宮では中世から近世にかけての長期間に亘って盛んに舞楽が演じられていた事が判る。

 

八戸市指定

文化財(工芸)

青銅擬宝珠

 

正門前に架かる神橋(反橋)の親柱に取り付けられていた擬宝珠。宝暦12年(1762年)に盛岡藩8代藩主の南部利雄が寄進したもの 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 櫛引八幡宮 明治記念館

 

 

青森県指定 重宝

 

旧八戸小学校講堂(明治記念館)(平成3年(1991年)3月13日)

 

外観の意匠や構成は洋風であるが、架構や小屋組は伝統的な和風とする擬洋風の木造2階建寄棟造。地元の大工である関野太次郎が設計し、藩大工の流れを汲む青木元次郎が棟梁として施工した。明治14年(1881年)8月に八戸小学校(現八戸小学校吹上小学校の前身)の講堂として堀端町に建てられ、同月24日には明治天皇奥羽巡幸に際しての行在所とされた。昭和4年(1929年)に小学校の新校舎竣工に伴って内丸の現八戸市庁前に移築され、八戸市図書館として活用された後、昭和37年(1962年)に保存を目的として境内に移築復原された。 

 

明治記念館。

 

 

 

 櫛引城 歴史と位置

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 櫛引城 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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