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「六ヶ所村ラプソディー」から再び「エンデの遺言」へ
〜地域を再生させる鍵はどこにあるのか〜
映像作家 鎌仲ひとみ
2006年3月映画「六ヶ所村ラプソディー」を公開し、以来全国で上映を展開している。
2004年から六ヶ所村に通って、二年がかりで完成させた。六ヶ所村は日本の原子力産業の要となる核施設「核燃サイクル基地」がある青森県の村だ。今年、2007年は完成したばかりの使用済核燃料再処理工場が稼動する予定だ。この工場が稼動すると空と海に一年365日24時間放射性物質が空と海に放出されることになる。その量は一日で原発一年分に相当する。また年間8トンのプルトニウムを抽出する。これを燃料とする予定だった高速増殖炉は目下、「開発中」だ。何よりも、一旦稼動すれば大量のプルトニウムというやっかいな物質と核廃棄物というほとんど永遠に毒性が消えない物質と日本人は未来永劫、いっしょに暮らしていかなければならなくなる。
二年間、六ヶ所村に通って核と共に生きる村の暮らしをみつめ、様々な立場の村人に話しを聞いた。人口12000人の中で核燃サイクル計画や再処理に反対するのはほんの数人しかいない。
六ヶ所村に行くと、東京で持っていた常識をひっくり返される。ここでは私たちが危険でやっかいだと思っている核廃棄物がとてもいいものだということになっている。それは村に仕事とお金を運んでくるからだ。
六ヶ所村は非常に美しい土地だ。海も山も自然にあふれている。その真ん中に巨大な再処理工場が聳え建ち、村の経済を回すお金はほとんどここから出てくる。村にある産業のほとんど全てが核燃関係だ。村人たちの財布の中身は100%核燃マネーだ。
村の老人たちに話を聞くとかつて浜は海の幸であふれていたという。老漁師は一回漁に出れば二三人で一万五千匹ものイカを獲って、それを家族総出で干したもんだ、と言う。
半農半漁の村ではお金ではなくイカや野菜が物々交換され、女たちはイカをかついて外のでかけ、必要なものと交換してきたとも言う。
しかし、村のこのような経済は戦後瞬く間に崩壊してしまった。現金を求めて村人たちは、都会に出稼ぎに出かけ、核燃サイクル基地の建設を機動隊を動員して押し切られ、船の機械化で多くの漁師が陸にあがらざるを得なくなった。どうやって現金収入を得るのか?
土建会社が何かを建てればそこで仕事が生まれる。村は二兆二千億円の予算をかけて建てられた再処理工場の下請け土建業の仕事で糊口をしのぎ、村は原子力施設を受け入れた地方に交付されるお金で潤った。この構造は金太郎飴のように日本のどこでも遍在する。
ふるさとの自然をコンクリートづけすることでお金を得る。これはあたかもたこが己の足を食べて飢えを満たすような行為だ。六ヶ所村の場合、それに放射能汚染が付け加えられる。一方の車輪で経済を回せば、もう一方の車輪が環境を破壊する、そんな社会システムに私たちは乗ってきた。
ミヒャエル・エンデはこの車から降りない限り、地球は破綻すると言ったのだ。
かつて「エンデの遺言」という番組をNHKで作ったとき、日本中で300もの地域通貨運動が起こった。人々は気がついている。このまま続けていくわけにはいかないということが見えてきているのだ。
「地域通貨」は利子のないお金、限定された地域の中でだけ使われる物やサービスの交換の道具だ。小泉政権の経済政策によって日本の経済はグローバル化、つまり利子をむさぼるお金がよりいっそう流入し、私たちのくらしを脅かすようになった。地方への財源もカットされ、破綻する自治体も出始めた。地域経済の破綻が現実となればわたしたちのくらしそのものが追い込まれていくことは明らかだ。
六ヶ所の村人たちは本当に核燃施設や再処理工場を受け入れたかったわけではない。それしかお金をもうける手段がないようにさせられたからだし、他に産業がなかったからだ。
今、原発から出てきた最も毒性の高い高レベル核廃棄物を地方に埋め棄てようという計画が進んでいる。いくつかの、やはり過疎の地域が手をあげている。これまでは手をあげるだけで2億と言っていたがついに最近10億、というお金を出そうと言いはじめた。
このごみはほとんど都会での電気消費が生み出したもの。そのつけが私たちのふるさとへと回ってゆく。六ヶ所が稼動すれば年間800本の高レベルが出てくるのだ。
地域の経済的自立、エネルギーの自立が急務となっている。そのために私はもう一度エンデの残したメッセージに立ち返ろうと思う。全ての問題の根っこに経済、このお金のシステムが存在している。それを変えない限り未来を変えることができない。
そのためには身近な顔と顔をあわせる関係を地域で築き、もう一つの経済の流れを作り出す以外にない。それこそが「地域通貨」であり、「市民バンク」なのだ。まちだ大福帳はそんな地道な取り組みをもう、5年にわたって続けてきた。それはメンバーの意識と情熱が支えてきたものだ。地道に地域に根を張っていくことの大切さを一人でも多くの人に知ってもらいたい。
不本意なものを受け入れない、ノーをキチンと言うためにもここから始めるしかないと私は思っている。
2007年
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