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「歴史館」では、清盛が生きた平安時代の暮らしや、神戸港の発展、福原京に関する遺跡や出土品などが展示されています。
この大輪田泊(おおわだのとまり)会場「歴史館」を覗いた後、車は止めたままにして、ウォーキングを開始しました。
ルートは、「歴史館」でいただいたガイドブック「神戸・清盛隊と行くKOBE」に紹介されている「歴史ガイドツアー・基本1時間コース」です。 |
「歴史ガイド」の案内にしたがって、歩きはじめますと、すぐに、この「築島水門」が、左手に、見えてきます。
平成23年3月に、耐震補強工事がなされ、そのとき、ゲートも、大河ドラマにあわせて、「清盛ゆかりのまち兵庫」と、化粧直しされたそうです。 |
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また、道路の向こう側には、このレトロな建物が見えます。
石川株式会社の本社ビルで、明治38年、三菱倉庫の前身、東京倉庫兵庫出張所として建てられました。
この魅力的な建物は、帝国大学の母体となった工部大学校造家学科、第1回卒業生で、東京・丸の内の「れんが建築群」や旧三菱銀行神戸支店を手がけた曾禰達蔵(そね たつぞう)氏の設計です。 |
築島水門を左折して、東に進みますと、すぐに、この来迎寺(築島寺)があります。
寺伝によりますと、清盛が、「経が島(きょうがしま)」を築くとき、暴風大波のため進まず、難儀しました。
そのとき、讃岐国の武将の子、松王丸が、進んで人柱になり、完成したので、その松王丸の菩提を弔うため、来迎寺を建て、念仏の道場としたのだそうです。
ところで、経が島は、日宋貿易の拠点である大輪田泊に、交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島です。 |
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経が島は、承安3年(1173年)に竣工し、その広さは、「平家物語」に「一里三十六町」とあることから、37ヘクタールと推定されています。
この花崗岩は、昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4tの巨石20数個と一定間隔で打ち込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は、清盛が築いた経が島の偉材ではないかと考えられました。
しかし、この石材が発見された場所から、北西250mの芦原通1丁目で、古代の港湾施設と考えられる大溝と建物の一部が発見されたことから、当時、海中であったと考えられ、古代大輪田泊の石椋(いしくら)の石材であったと推計されています。 |
石椋から、今度は、西へ、進み、阪神高速神戸線の手前を左折すると、この「兵庫大仏」が見えてきます。
明治24年(1891年)、豪商・南条荘兵衛の寄進により、建立されましたが、昭和19年(1944年)に、金属類回収令で国に供出されるまで、日本三大大仏の一つに数えられていました。
現在の大仏は、平成3年(1991年)に再建されたもので、像重量約60t、像高11mの毘廬舎那仏(光明遍照)像で、蓮台と台座を含めると高さ18mになります。 |
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ところで、兵庫大仏のある「能福寺」は、清盛が出家した寺と伝えられ、清盛の死後、円実法眼が、遺骨を京から持ち帰り、埋めたとされています。
境内には、清盛の墓といわれる「平相国廟」があり、寺伝では、延暦24年(805年)に、最澄(伝教大師)により、能福護国密寺として創建されたとされ、日本最初の密教教化霊場と称しています。
例によって、「平穏無事」をお願いし、最後の「清盛塚」へ向かいました。 |
能福寺から、しばらく、南側へ歩きますと、3つ目の交差点で、この「清盛塚」が見えます。
鎌倉時代に建てられた十三重の塔で、清盛の供養塔とされています。
また、隣の清盛像は、兵庫県神戸市生まれの彫刻家、柳原義達の作品です。
右端の琵琶塚は、琵琶の形をした古墳を琵琶の名手であった、平経正の墓として伝えてきたもので、ともに、大正11年(1922年)、市電松原線の道路拡張工事により、現在地に移されました。 |
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いよいよ、「歴史ガイドツアー」も、フィニッシュを向かえ、「歴史館」へ戻ります。
清盛塚から東に進みますと、運河にかかった石造りのアーチ橋「大輪田橋」があります。
左側には、「大輪田水門」がありますが、大輪田橋は、大正13年(1924年)に竣工したもので、名前は、大輪田泊にちなんでいます。 |
今回の旅の締め括りは、JR新長田駅へ、移動し、この「鉄人28号」モニュメントを見ることです。
「鉄人28号」は、昭和31年(1956年)から、雑誌「少年」に連載された漫画で、原作者は、神戸市須磨区出身の故・横山光輝氏です。
阪神大震災後の復興・商店街活性化のシンボルとして製作されました。
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