波濤 林芙美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)雨《あめ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二本|錘《おもり》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)うね[#「うね」に傍点] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]序  私は、この波濤について、序文らしいものを書くのは苦痛で仕方がありません。去年の十二月の終りから書きはじめ、約五ケ月、朝日の朝刊小説としてつゞきました。五ケ月と云へば、私にとつては長い歳月のやうにも想えます。讀みかへしてみますと、一日々々の小説が、波濤の作者である「私」の日記でもあり、私の覺書のやうなものでもあるのです。  從軍六十日のあと、病氣と鬪ひながら、二册の本を出して、そののち、この小説へかゝつたのですから、貧しいストーリイであつたかもしれませんけれど、私は、悔ひなく、この作品に全力をそゝぎました。  いままで書いたどれよりも、私は、この作品には愛と憎しみの心を持つて向つてゐます。何だか、そんなけはしい氣持を、隱すことが出來ません。私は五ケ月の歳月のなかに、毎日、この小説を書いてゆきながら、女の作家としての、あらゆる苦惱も味ひつくしました。  作中、女主人公の郷子を、私はほんたう[#「ほんたう」は底本では「ほんとう」]は少しも愛してはゐなくて、この女を書くときの苦痛は殘酷なほど苦しいものでしたのに、この作が終つて、一つの本にまとまると云ふいま、主人公の郷子へ對して、何とない哀憐を感じはじめて來ました。  私が、この作品を書いたたゞ一つのなぐさめは、この作品の主人公佐山新一を、兎にも角にも一人のエンジニヤとして登場させて幕を閉ぢたことです。私は、傷兵軍人の希望を書きたかつたのです。地味で暗い作品であつたかも知れませんが、私は私なりに一種の自負を持つて書きました。  波濤が終つてから、私は過勞のため一ケ月ほど床につきましたけれど、小説の終つた直後の四五日は、毎晩、夜中になると、私は飛びおきては机に向つてゐました。頭のなかを去來するものは、波濤のなかの人物の影法師のみ、汗みづくになつて勉強出來たことをいまでは嬉しくおもつてをります。――  日支事變始まると、間もなく出征して、ウースンクリークで右手をなくした、伊藤武雄氏の獨唱會が先日ありましたので、憂々としてゐた私は、一夕、伊藤氏の歌を青年會館に聽きにゆきました。右手に手袋をした伊藤氏は、昔の若々しいおもかげとはすつかり變つてゐて、精神的にも肉體的にも、何かしつかりした樹木の年輪をみるやうなたのもしさを、私は、舞臺の伊藤氏に感じました。  伊藤氏は私の親しい友人の一人なのですが、傷病兵として内地へ歸られてより、一度も親しくお話する折もなく、たゞ手紙でのみ、伊藤氏の心境を知るのみでした。その夜の伊藤氏の獨唱は、波濤を書き終つた私には、萬感こもごもの氣持でした。  伊藤氏は、一つも戰爭の歌をうたはず、ハイネの歌とか、幼き頃への憧れとか、牝鷄と鯉、告別、そんな美しいロマンチックなものゝみを選ばれてゐました。私は聽きながら、こゝろ涼しい涙の溢れるにまかせてゐました。――作家として、人生を理解することの不足を恥ぢ、井口氏の美しいピアノの伴奏を聽きながら、私は、また、新しく、第一歩から自分の仕事を始めようとさへ考へました。  この夏は、高齡に老ひつかれた母と二人で、私はひそやかな水いらずな旅をしようとおもつてをります。私はものを書くときだけが自由で素直でした。從軍からかへつて、私は私に向つて、いゝ生活をしたとはどうしても考へられないものを持つてをります。獨りのなかに、安々と落ちこみ、私は泥まみれになつて、この波濤と鬪ひ、いまは鬪ひつかれて、呆んやりしてをります。  一ケ月の病床生活は、私に樣々な反省をさしてくれましたし、いま、やうやく、以前の平和な私にたちかへりつゝあります。ヘッセの言葉のなかに、人間と云ふものは實に妙なものである。たとへば新しい生活と、滿たされた希望のただ中にありながら、孤獨に對し、否それのみかつれづれと空虚な日々に對し、不思議にも刹那的な、ただかすかに模糊として感じられる郷愁にしばしば襲はれるものである。私は、この言葉ににじんでゐる切ないものを、兩の手で掬ひ飮む氣持でさへをります。  波濤を書いた半歳の間に、私の生活にも、いろいろなことがありました。色々な苦しみのなかをよく耐へて、この作品を書きあげた事は、自分でも、從軍の折の熱情があつたからだらうとおもつてをります。 [#ここから2字下げ] 私は馬銜《はみ》を噛んでつゝ立つてゐる孤獨な馬だ。 はらわたをきしませて千里を歩まうとはしてはゐるけれど、 すばらしい騎手がないためか馬は哀しみの首を垂れてたゝづんでゐる。 風が吹いてゆく、 うすら寒い風が吹いてゆく。 [#ここで字下げ終わり]  私のいまの心境はこんな氣持です。また、明るい眞夏がおとづれて、爽かな大氣のなかに、さつさつと馳れる日もあるでせう。母と旅をして、さゝやかながら、清澄な愉しさを味ひ、秋にはドイツへ旅立ちたいと思つてをります。   昭和十四年六月十日記 [#地から4字上げ]林 芙美子 [#改丁]  三週間このかた、雨《あめ》も降らない寒い日が續いた。土は乾いてぼこぼこに埃立《ほこりだ》つてゐる。  郷子《くにこ》の出京の日である。  洟《はな》をすゝりながら、桑の根《ね》ツこを爐にくべてゐたマツヱが、急に大きい聲で唱歌《しやうか》をうたひ出した。  爐のそばの框《かまち》に腰をかけて、草履《ざうり》に新しい鼻緒《はなを》をすげてゐた郷子は、 「ねえ、マツちやん、姉さんがゐなくなつたら、どうする?」  ふつと振りかへつて郷子《くにこ》がそんなことを云つた。  マツヱは急に唱歌《しやうか》をやめて、振り向いてゐる姉《あね》の顏を凝つと見てゐたが、きよとんとした表情で、(どうするつて‥‥)唇《くち》のうちでつぶやきながら、 「ゐなくなるつて、何處へゐなくなるのさ?」 「もう、ぢき、私、ゐなくなるのよ‥‥」 「そいで、鼻緒《はなを》すげてるの?」 「うん」 「何處《どこ》へ行くのよ?」 「遠いところへ‥‥」  車戸のついた重い障子戸《しやうじど》を開けて、弟の敬太郎がむつゝりして臺所口《だいどこぐち》から這入つて來た。マツヱは框へ來て郷子のそばへ蹲踞《しやが》むと、 「敬《けい》ちやん、姉さんねえ、どつかへ行くンだつて、――それで鼻緒《はなを》すげてるンだつてよ」  框を上りながら、敬太郎は吊り鐘マントをぬぐと、土藏《どざう》へ行く暗い廊下の處まで默つて行きかけたが、 「マツヱ、大きい聲《こゑ》でそんな事云ふもンぢやないよ、默つてるンだ」  マツヱはぎくつとしたやうに敬太郎《けいたらう》の方を振りかへつたが、すぐばたばたと大きい足音《あしおと》をさせて、店の間の方へ走つて行つた。 「もう、わかつてもいゝのに‥‥」 「‥‥‥‥」 「怒《おこ》つてるの?」 「あと、どの位あるンです? 荷物《にもつ》はさつき、驛《えき》へ持つて行きましたよ。――マツヱがおツかさん達に告げ口すると困《こま》るぢやありませんか‥‥」  郷子《くにこ》は默つて鼻緒《はなを》をすげてゐたが、すうすうと床下から吹きあげてくる冷い風に、軈《やが》てぶつつかつて來ようとしてゐる、これからの不安な運命を皮膚《ひふ》に感じてゐる。 「さつき、お父さんが、僕に變《へん》なことを云つてましたよ。――草津《くさつ》から持つて來た金が足りないと云つてましたがねえ‥‥」  郷子は鼻緒《はなを》をすげ終ると、草履の腹を擦《す》り合せて、ばたばたと泥をはらつて、それを丁寧に新聞紙に包《つゝ》んだ。 「盜《と》つたの?」 「仕方がないぢやないのツ」 「いくら盜《と》つたの?」 「どうして? ――どうして訊《き》くの、そんなこと‥‥」 「困る金《かね》らしいから‥‥」  郷子は桑《くは》の根が白くじよう[#「じよう」に傍点]になつた爐《ろ》の火に、炭箱から炭をついだ。――二十一年間、此土地や此家から離れたことのない自分が、谷間の下流のやうなところへ押《お》し流れようとしてゐる。遠い道は、淋《さび》しく、不安だけれど、胸に血の燒けるやうな、そんな複雜な愉《たの》しさも、なんとなく、あるのだ。 「お父さん、騷《さわ》いでゐた?」 「いよいよ無ければ、警察《けいさつ》へ屆けなければいかんと云つてましたよ。預《あづか》つて來たばかりの金ださうだし、――あれがあれば、店の品も、大分、豐富《ほうふ》にはなるンでせう‥‥」  郷子《くにこ》は暫く默つてゐたが、軈て顏を眞紅《まつか》にして敬太郎を見あげた。 「店の品物も大切だけれど‥‥私も、もう、ぢき、働《はたら》いて送ります。すぐ、働いて送ればいゝでせう。――すぐ働きますよ、盜《と》つたの、默つてゐて、ねえ‥‥」 [#9字下げ]○  息をきらして道を歩きながら、郷子は星が綺麗《きれい》だとおもつた。乾いた寒い夜風が襟《えり》にしみるやうだつた。 「あの手紙を見たらお父さん、吃驚《びつくり》するでせうね?」 「叱《しか》られるのは僕だなア‥‥」 「わかつてるわ、でも、東京へ行きさへすれば、私、すぐ何《なん》でもして働いて、送るわ‥‥」 「財布《さいふ》を落さないやうにしなさい」 「えゝ大丈夫よ。――お父さんを困《こま》らせたお金だもの、私、これで、きつと、うまく働いてみせるわ」 「あツ火事《くわじ》だツ!」  敬太郎が立ちどまつた。驛《えき》の方にぱつと炎《ほのほ》があがつた。小料理屋だとか、肥料倉庫だとか、鐵工所の並んでゐる邊《あたり》だ。近い半鐘が鳴り始めた。 「お父さん、火事見舞に行くね?」 「後《あと》から來たらどうする?」 「お寺の横を通つて行かう。――一寸《ちよつと》、暗いけど、あすこなら、誰も通らないよ‥‥」  小學校の暗い椹《さはら》の垣根の横を通つて、桑畑のうね[#「うね」に傍点]に沿つて小徑へ出て行つた。火の粉を噴《ふ》きあげて、炎《ほのほ》がかつと燃えあがつてゐる。 「何處《どこ》が燃えてゐるンだらう? 長いこと雨が降らないから隨分燃えるわね。――ねえ、敬ちやん、私、きつと、働く、働いて、敬ちやんに上《うへ》の學校へ行つて貰ふやうにする。あんな家なんか、敬ちやんには可哀想《かあいさう》だわ」 「うん、まだ、一年あるから、よく考へてみる‥‥」 「學校《がくかう》へ行くこと?」 「うゝん、學校なんかどうでもいい、飛行機《ひかうき》の方をやつてみたいンだ‥‥」 「何云つてるの、厭《いや》なひとだ。――飛行機だなンて怖いぢやないの?」 「怖《こは》いもンか、ちつとも怖いことなンかないよ」  星がすつと流れた。郷子は炎の彈《はじ》ける遠い音をきいて、ぶるつと躯が震《ふる》へた。(東京へ働きに行く――あの火事のやうに逞《たくま》しく働くのだわ‥‥)徑も畑も、長い間乾いてゐるので藁《わら》のやうな土の匂《にほ》ひがしてゐる。 「急《いそ》がなくちや‥‥走らう――」 「時間がないの?」 「ほら、もう汽笛《きてき》がきこえてゐる」  敬太郎も郷子も暗い徑《みち》を小走りに走りはじめた。――驛へ行くと、敬太郎は財布《さいふ》から切符を出してゐる郷子《くにこ》へ、(もう、なかまで送らないよ)と小さい聲で云つた。 「えゝいゝのよ。早く家へ歸つて頂戴《ちやうだい》。――元氣でゐてね‥‥」  凄《すさ》まじい音をたてゝ汽車がホームへ這入つて來た。敬太郎が改札口の處に凭《もた》れて、マントから片手を出して失敬《しつけい》をした。郷子は父に似た背の高い敬太郎の姿を遠く車窓から眺めて、唇《くち》のなかで嗚咽《をえつ》してゐた。(お父さん、私が惡いンです、ごめんなさい‥‥)汽車が動き始めた。すぐホームは見えなくなつたが、ぽきんと立つてゐた敬太郎の姿《すがた》が、郷子に激しい涙をさそつて來る。  火事はもうみえなかつた。  十一時きつかり戸締《とじま》りをして、おやすみなさいと、毎晩奧へ云ひに行く自分が、いまは、かうして汽車に乘つてゐる。硝子窓《ガラスまど》の外には、黒い山の屋根が走つてゐたし、町の灯がぱつぱつと後の闇《やみ》へ消えてゆく。(お父さん、敬ちやん、マツちやん、みんなさよなら‥‥)  軈て、星明りの下に琵琶湖《びはこ》が見えはじめた。  郷子の前の座席に、子供を抱いてゐる肥《ふと》ツた女が、郷子にたづねた。 「何處《どこ》までいらつしやいますの?」 [#9字下げ]○  次の驛《えき》が長くなつたのか、長い汽笛が鳴つた。  ――日向の軒下に羅宇屋《らうや》を呼びとめて、煙管《きせる》を掃除させてゐる、痩せた父親の平造の後姿が郷子の瞼《まぶた》に浮んで來る。やに[#「やに」に傍点]のどろどろした煙管の古い竹軸が往來へ捨てられて、新しい軸が替へられる。(なんぼうかな‥‥)平造が、腰の煙草入れの叺《かます》から、小錢をつまみ出してゐる。―― 「お母《かあ》アちやん、おしつこ‥‥」  前の座席の女の子が、にゆつと郷子の膝《ひざ》のところへ小さい足をつき出した。郷子はふつと四圍《あたり》が展《ひら》けたやうに、前の座席を眺めた。 「一人で行つてらつしやい、お便所《べんじよ》わかつてるでせう?」  女の子は座席から滑《すべ》り降りて、靴をつゝかけると、一人でふらふらしながら便所の方へ行つた。 「お一人でいらつしやいますか?」  郷子は夢から覺《さ》めたやうな表情で、そつとうなづいた。小さな生涯の血路《けつろ》を拓いて、もう、こゝまで來てゐる、そんな吻つとした氣持《きもち》で、郷子が顏をあげると、 「どちらへいらつしやいますの?」  と、また肥つた女は話しかけてきた。 「東京まで參《まゐ》ります」 「東京、――さうですか。私達《わたしたち》も東京まで行くンですのよ。――東京はどちらへ?」  郷子は默《だま》つて笑つてゐた。――東京の何處へ行くのか、それは自分でもわからない。東京と云ふ大きな機構《きこう》の都會へ、自分はいま餌《ゑ》をあさりにゆく一羽の鳥のやうなものなのだ。 「東京へは、此《この》汽車《きしや》は何時に着くのでせう?」 「さア、何時でせうか‥‥明日《あす》の九時何分とかですよ‥‥」  軈《やが》て女の子が便所から戻つて來た。髮の毛の赤い、顏の小さい六ツ位の子供だ。 「まア、お靴、そんなに濡《ぬ》らしちやつて、いやーなひとねえ‥‥」  肥つた母親は膝《ひざ》の赤ん坊を座席にころがして、女の子の裾《すそ》をまくり、黒いズロースをしらべてやつてゐる。  いまごろは、家ぢゆうでみんな騷《さわ》いでゐることだらう、平造は敬太郎を怒鳴《どな》りつけてゐるに違ひない。(お前も次手《ついで》に出て行つたらいゝだらう‥‥)そんなことを云はれてゐるかもしれない。繼母《はは》は爐ばたに坐り、相變らず默つてゐることだらう。郷子は、繼母へも置手紙をしてくればよかつたと思つた。  汽車が驛へ停《と》まつた。  後の方の車窓で、出征兵士を送る萬歳の小さいどよめき[#「どよめき」に傍点]がきこえて來る。 「大變ですわね、――まだ、どんどん、出征するやうですね‥‥」  郷子は默つてゐた。女の子は眠さうに眼をこすつてゐる。車内は燈火《あかり》が薄暗く、煙草《たばこ》の煙が霧立つてゐるので、如何にも佗《わび》しい夜汽車の感じだ。 「私も、弟が戰死《せんし》をしましたものですから、一寸、田舍へ歸つて參《まゐ》りましたンですよ。――何しろ、家族が多いものですからねえ、あとも大變なンですの‥‥」 「まア、戰死をなさいましたンでございますか‥‥」  ガタンと汽車が動き始めた。郷子はまた呆《ぼ》んやり、暗い窓外を見てゐる。(東京はどちらでいらつしやいますか‥‥)さつき、前の女に言はれた言葉が妙《めう》に胸につかへて來る。 「私《わたくし》、東京は始めてゞすけれど、驛の近所に宿屋なんかありますのでせうか?」 「驛の近所《きんじよ》?――まア、始めてゞいらつしやるンですか? 東京驛の近所になんて、宿屋なんかありませんですよ。――すぐ前は宮城《きうじやう》ですし、あとは大きなビルデイングばかりで、それは、まるで、外國みたいな處ですよ‥‥」 [#9字下げ]○  激しい動悸《どうき》と、淋しい歡喜が、郷子をおちつかなくしてゐる。寒いけれど、雲《くも》一つない一月の空の下に、郷子があんなに憧憬《あこが》れてゐた東京の屋根々々が車窓《しやさう》に見えはじめた。横濱を過ぎると、鶴見、川崎、――大森、――品川驛のホームに汽車がごおつと這入《はい》つて行くと、その邊の空氣には都會の匂《にほ》ひがたゞようてゐた。――呼吸《いき》をするたびに、石造りの建物の匂ひ、若い女や男達の匂ひ、機械油の匂ひ、そんなものが渦《うづ》をなして郷子の息に吸《す》ひこまれてくる。 「もうすぐですよ、――東京驛で降《お》りますとね、――大きい建物《たてもの》ばかりで、一寸、驚きますですよ」  二人の子供にマントや外套《ぐわいたう》[#「ぐわいたう」は底本では「ぐわいとう」]を着せて、肥つた女は網棚《あみだな》から荷物を降し始めた。ホームの時計は八時四十八分。若いサラリーマン達が、次から次に這入《はい》つて來る省線の電車に乘《の》りこんでゐる。派手な服裝《ふくさう》をした若い女達も身輕るさうに電車へ乘り込んでゐる。(何《なん》と云ふ美しい女達だらう‥‥)郷子はホームを行き交ふ、若い女や男達の活溌《くわつぱつ》な爽《さわや》かな歩調を凝つと眺めてゐた。來てよかつたとも思ひ、また、輕い恐怖《きようふ》を感じるやうな、そんな一|瞬《しゆん》が、舌の上に唾になつて溜《たま》つて來る。 「ねえ、ちつとも、遠慮《ゑんりよ》なんかないンですよ。――女一人で、廣い東京でうろうろしてた日には、ろく[#「ろく」に傍点]な目にはあひませんよ。――一週間でも、一ケ月でも、馴《な》れるまで私のとこへいらつして、それから、どうともなさればいゝぢやないの‥‥」 「はア、有難《ありがた》うございます、――でも、初めての方のところに‥‥」 「初《はじ》めてつて、これから、どうなさるの? お友達の方だつて、そこにいらつしやればいゝけど、いらつしやらなかつたら困るぢやありませんか‥‥」  肥つた女は、黒い紋織《もんおり》のコートの紐を結びながら、郷子に、 「私《わたし》にも、あなたのやうな時代があつたンですもの――ね、わかるのよ、若いひとの色々な氣持が‥‥」  汽車は動《うご》き始めた。  まるで獅《し》子が大きな口をあけてゐるやうな怖ろしい都會の渦《うづ》が、郷子の眼を驚かせてゐる。――新橋のホームへ汽車が這入《はい》つた時、郷子の兩方の足はぶるぶる小刻《こきざ》みに震へて來た。(石に噛みついても働くのだわ、どんな苦《くる》しいおもひをしても、若い敬太郎だけは、自分の手で學校へも入れてやらなければならない)  崖《がけ》の崩れてゆくやうな古い家に鬱勃《うつぼつ》たる氣持を燃やしてゐる敬太郎と、その日その日を借金の穴埋《あなう》めに走りまはつてゐる氣の小さい父親のことを考へると、郷子はまた自分ひとり犧牲《ぎせい》になつても、この古い家の爲に一生懸命働いてやりたいやうな湧《わ》きあがるものを感じるのだ。  白い大きな建物が車窓《しやさう》に迫つて來た。小さい窓が此白い建物に蜂《はち》の巣のやうにあいてゐる。 「ほらそれが帝國ホテルですよ」  黄ろいくすんだ建物《たてもの》がすぐ窓の下に走つて來た。黒い煙がむくむくあがつてゐる、高い煙突がある。窓は空を寫《うつ》して硝子が白く光つてゐる。日の丸の旗や、武運長久《ぶうんちやうきう》の旗がビルデイングの窓々にさがつてゐた。  枯《か》れた並木、灰色《はひいろ》に光つた歩道、走つてゐる大きなバス、電車、トラツク、自動車、――郷子は、それらの走り來る都會の景色に、暫く茫然《ぼうぜん》としてゐた。  中央郵便局の白い建物が迫《せま》つて來ると、汽車はすぐ赤煉瓦の薄暗《うすぐら》い東京驛のホームへ這入つて行つた。――郷子はあわてゝ立ちあがつて白い肩掛《かたか》けを首に卷きつけてゐた。 [#9字下げ]○ 「あなた、疲《つか》れたでせう?」 「いゝえ、――でも、東京つて、廣い處でございますね」 「廣いの何のつて、此邊《このへん》は以前は郊外だつたンだけど、二三年前に、新《あたら》しく市内になつちやつて、――そりやア、一|日《にち》一|日《にち》擴《ひろ》がつていつてゐるンですよ‥‥」 「あんまり大きい建物ばかりで、――何だか、吃驚《びつくり》しまして‥‥」 「あゝ、さつきの、東京驛のところね、――でも、あんなところばかりぢやなく、こんなごみごみした處《ところ》もあるのよ。――東京ぐらゐ、日本ぢゆうの人のあつまつてゐる處つてないわね」  曲り角へ來るたび、古《ふる》ぼけた自動車《くるま》はぎいぎと厭《いや》な音をたてた。  東京驛を出てから、自動車《くるま》で走つて來るうちに窓外《さうぐわい》には樣々な街があつた。その街々を、若いひと達が活溌《くわつぱつ》に歩いてゐる。――田舍とかはりのない乾いた太陽が照つてゐるのに、四圍《あたり》は水で濡らしたやうに清潔《せいけつ》で、ゆつたりした鉛色の鋪道《ほだう》がつゞいてゐた。  郷子は走り去つて行く街の景色を凝つとみてゐたが、何時《いつ》とはなしに、母親の顏を思ひ浮べてゐた。 (お父さんが、りくは東京に奉公《ほうこう》してゐるンださうだと云つてゐたけれど‥‥)  去年の夏、父親がそんなことを云つてゐたのを、郷子は小耳に挾《はさ》んでゐた。  女學校へ行つてゐる頃、郷子は膳所《ぜぜ》の町で、母親と二度ほど逢つた。――始めの時は、まだ若くて丈夫さうな姿《すがた》であつたが、二度目は、百姓の女のやうに汚れた着物《きもの》を着て、何となく疲れてゐるやうであつた。その汚《きた》ない母親と別れたきり、郷子は女學校を出てからも、今日まで一度も母には逢はない。  唇《くちびる》が乾いて黄ろい色をしてゐた。細い眼尻に始終涙をためてゐた。頬や顎や、耳朶《みゝたぶ》にまで黒子《ほくろ》のあつた母の顏が郷子の瞼に浮んで來る。(敬太郎の母の方がよつぽど美しい)どうして、自分を父のもとに置いて、母が家を出て行つたのか、幼《をさな》い時のことなので、郷子は何も覺えてゐない。 (お母さんは、廣い東京で何をしてゐるンだらう‥‥)  軈《やが》て自動車《くるま》は郊外電車の踏切りを渡り、市場だの、商家だのゝ建てこんだ町へ這入つて行き、軒にうづたかく桶の干してある、風呂屋《ふろや》と、郵便局の路地口に停まつた。 「母ちやん、――ヒロちやんがあすこにゐるわ‥‥」  女の子が、自動車《くるま》の窓から得意らしく、幼い友達に手を振つてゐる。 「あゝ、やつと歸つて來ました。――やつぱり東京がいゝわ」  郵便局の路地《ろぢ》を這入つて、靜かな細い通りがあつた。オルガンの音がしてゐる。 「さア、こゝですよ。――どうぞ、遠慮《ゑんりよ》なんかしないで、私の家なんですから、荷物《にもつ》はそこへ置いてらつしやい。いま、誰かに取りにやらせますから‥‥」  板塀《いたべい》に圍まれた二階家で、オルガンの鳴つてゐる家であつた。 「只今! ――誰か、一寸、荷物《にもつ》を持つて來てくれませんか」  軒《のき》に國旗が出てゐた。  郷子は汽車の中で識《し》りあつた女のひとの處へ、あつかましくのこのこついて來たのが後悔されたけれど、いまさらどうにもならない。――そのくせ、さつきの街々《まち/\》の印象《いんしやう》は、奔流のやうな生活意力が、郷子の胸にほとばしり溢《あふ》れて來るのであつた。 (當分《たうぶん》、私の家にいらつして、それから方針を定めてもいゝでせう)  さう云つてくれた、女のひとの親切に、郷子は一夜の宿りを感じた。「不安《ふあん》」の底には、藁をもつかむ、一|抹《まつ》の、利用をすると云つた氣持を、郷子は感じないでもないのだ。 [#9字下げ]○  夕御飯《ゆふごはん》をたべるとき、郷子ははじめて、大橋一家の家族に紹介《せうかい》をされた。  女主人《をんなしゆじん》の義妹の一枝《かずえ》は、たつたこのあひだアメリカの兩親のもとから戻つて來たばかりださうで、何時も大きな足を投げ出して溜息《ためいき》をついてゐる。 「さはれ、ふたりは世の常《つね》の、こひ[#「こひ」に傍点]にもまさる心もて、かたみに慕ひおもひにき、――むつかしいわねえ、アラン・ポオのアンナベル・リイつて、お姉《ねえ》さん、讀んだことありますか?」 「なあーに、そんなむつかしいこと知るもンですか、――あなたはそんなくだらないことばつかり云つてゝ、少しは、何かこつちで出來《でき》さうなの?」 「出來《でき》さうにもあ、り、ま、せ、ん。――アメリカへ歸りたくて仕方がないのよ。日本なンて、私の働《はたら》けさうな處つてないでせう?」 「あなたは、男のひととばかり遊《あそ》ぶことを考へてるから、そんなに退屈《たいくつ》なのよ」 「あら、だつて、遊《あそ》ぶつて、そんな遊ぶやうなボーイなんか一人もゐやしないわ‥‥」  郷子は二人の會話《くわいわ》がことごとく珍しかつた。膳の下に足を投げ出して、お喋《しやべ》りをしながら食事をしてゐる。何か思ひ出すと、すぐ立つて行つて、自分の部屋から、本を持つて來て卓袱臺《ちやぶだい》の上に擴《ひろ》げてみてゐる。 「ねえ、お姉さん、燻《くすぶ》るつて、なアに? わからないのよ。――眞黒い字なのね。くすぶるつて、どんな意味?」  郷子は、一枝のはちきれさうな厚い美しい唇《くちびる》を見てゐた。笑ふたび皓《しろ》い齒がのぞく、皮膚は透《す》きとほつて健康さうだつた。 (このひとは、どんなものを食べてゐるのだらう‥‥)  郷子は、時々英語でまくしたてる一枝《かずえ》[#「かずえ」は底本では「かづえ」]を偉いものに思つた。だけど、皮膚《ひふ》が白くて、英語がうまくて、如何にも西洋人《せいやうじん》くさい一枝ではあるけれど、はれぼつたい一皮眼《ひとかはめ》の瞼と、線のにぶい、ひくい鼻だけが、郷子《くにこ》にはをかしい氣持だつた。ざら[#「ざら」に傍点]にある日本の女の顏だつたし、女學校の頃の友達の顏にも似《に》てゐて、郷子は、わざと、この女は英語をつかつて人を煙《けむ》にまいてゐるのではないかと思はれさへした。 「燻《くすぶ》るつて、煤《すゝ》けることよ‥‥」 「すゝける? ――すゝけるつて、なに?」 「煤《すゝ》けるつて、燒けていぶつたのよ」 「いぶるつて?」 「厭《いや》よ、もう、知らないわツ」  一枝のせゐか、食卓《しよくたく》はひどく賑やかだ。――郷子はこんな賑やかな食事を、學校以外は、いまゝでかつて一度も味《あぢは》つたことがない。  商人の家は商人らしく、何時も平造《へいざう》にさう云はれてゐた。臺所の膳《ぜん》の前に、一寸でも長く坐つてゐると、(あほうくさい飯《めし》の食ひやうしてゐるの誰かツ)と、郷子はよく呶鳴りつけられてゐた。  朝も晝も晩も冷《つめ》たい飯だつたり、何日も同じおかずだつたりしてゐて、こんな賑《にぎ》やかな食卓を郷子は知らないのだ。――平造はひじきと油揚《あぶらあげ》の煮たのが好きであつた。繼母《はは》が、何時か黒砂糖をほんのひとつまみ、ひじきの鍋へ入れてゐるのを見かけて、平造がひどく叱《しか》つたことがあるけれど、こゝでは、子供がパンの上へ、ふんだんに白砂糖《しろざたう》をつけて食べてゐる。白い砂糖が硝子《ガラス》の壺《つぼ》へはいつてゐる。銀色の匙が壺にはそへてある。パンを食べたあと、子供はのびのびと母親に御飯を要求してゐる。  一|塊《くわい》の黒砂糖に、父は二三日|繼母《はは》とは口を利かなかつたけれど、こゝの家は、何と云ふ豐富さなのだらう。――田舍の家のやうに土藏《どざう》もなければ、廣い庭も、がらんと煤《すゝ》けた臺所もないではないか。 [#9字下げ]○  省線電車が、坂の下をひつきりなしに走《はし》つてゐる。  ぽかぽかした陽《ひ》の射してゐる乾いた道を、一枝と郷子はゆつくり坂《さか》の上の方へ歩いてゐた。 「ねえ、もつと、向ふまで行つてみない?――あの陸橋《りくけう》[#「りくけう」は底本では「りくきやう」]を渡つて、上ノ原つて云ふところに、私の友達がゐるのよ、一寸《ちよつと》寄《よ》つてみませう」  一枝が口笛《くちぶえ》をやめて郷子をふりかへつた。  東京へ出て三日目である。――郷子は一枝と散歩をしながらも焦々《いら/\》してゐた。噎《む》せさうな一枝の香水の匂ひが、郷子の胸に旅愁《りよしう》をさそつて來る。 「ねえ、あなた、働《はたら》くつて、何をして働くつもり?」  陸橋の上に來たとき、石のてすりに凭《もた》れて一枝が郷子にきいた。 「何《なに》つて‥‥いまのところ、まだ東京に來たばかりですから、――事務員でも、女中でもいゝとおもふンですけど‥‥」 「さう‥‥でも、あなた、女ひとり、一ケ月、どの位で生活《せいくわつ》してゆけると思ふ?――アパートか、それとも、どつか部屋をかりるとして‥‥」 「どのくらゐあつたら食べてゆけるのでせう?」 「日本の女事務員《をんなじむゐん》なンて、――いくらにもなりやアしなくてよ。英文のタイプを打つて、せいぜい四五拾圓位なンですもの、――全く、悲しくなつてしまふわねえ」  橋の下を天蓋《てんがい》にうつすりと雪をのせた山の汽車が激しい音をたてゝ通りすぎて行つた。一枝は雪をのせた汽車を珍らしさうに眺《なが》めてゐる。郷子はくるりと背中をてすりに凭《もた》れさして、空をみあげた。翼《つばさ》のぴかぴか光つた飛行機が南へ點のやうに飛び去つてゐる。  パイロツトか、エンジニアになりたいと云つてゐた敬太郎の俤《おもかげ》が瞼《まぶた》に浮んで來た。――不意に、郷子は一枝に訊いてみた。 「普通の女事務員《をんなじむゐん》つて、どの位貰へるものなのでせうかしら?」 「さうね――三拾圓から三拾五圓位ぢやない?――牛乳を朝晩《あさばん》のんでたら、すぐなくなつちやふわ」 (牛乳《ぎうにゆう》を朝晩? まア、まるで外國人みたいだわ)  郷子は、赤いジヤケツの胸《むね》のふくらんでゐる、一枝の豐《ゆた》かな肉づきをそつと眺めてゐた。 「牛乳なんて、あんまり欲《ほ》しいとは思はないけど――私のやうな女ひとりの生活《せいくわつ》つて、どの位かかるものなのかしら? ――アパートつて誰《だれ》にも借すンでせうか?」 「そりやア、誰にだつて借すでせう。今日、友達のかへりに、一寸《ちよつと》みて歩きませうか? きつと面白《おもしろ》いと思ふわ。――私ねえ、サンフランシスコにゐた頃、お友達と三人でアパートに住《す》んでたことがあるのよ。とても愉《たの》しかつたわ。一人だけ齒科の學生で、私とあとの一人は新聞社の事務員なの、――みんな、三人とも、親《おや》の家をきらつてゐたのね。だつて、うちのママつたら、日蓮宗《にちれんしう》で、朝晩、團扇太鼓《うちはだいこ》をそつと叩いて滿足してゐるのよ。パパは醉つぱらふと、私達を叱つて、すぐ孝女白菊《かうぢよしらぎく》つて話をもち出すし、私達に、そんな孝行をしろつたつて無理ぢやないの、――朝々、レモンを絞《しぼ》つたアイス・ヲオターを飮むと、パパは輕業屋《サーカス》に賣り飛ばしてやるなンて、とても怒るの‥‥」  上ノ原の邸町《やしきまち》へ、二人はぶらぶら歩いて行つた。ヒマラヤ杉や、もちの木や、松、ひばなんかの植込みがずつと續いてゐる。豪奢《がうしや》な自動車の停まつてゐる鐵門の家もある。 「いま行くのは、サンフランシスコの新聞社《しんぶんしや》の頃の友達なの。そのひと、此間、南京《ナンキン》まで從軍記者で行つて來たンですつて。――お父さんが昔かたぎなひとで、そのひとにね、嘉兵衞《かへゑ》さんなンて名前をつけたのよ」 [#9字下げ]○  かういふことは、どんなふうに一枝《かずえ》に傳へていゝのか、郷子《くにこ》は歩きながら、何とかして、少しの月給でもいゝ「働《はたら》く」と云ふことばかり考へてゐた。――働いて、早く父へ金を返さなければならない。困《こま》つてゐる金だと云ふこともよく承知《しようち》してゐながら、自分はこんな處を、日向を浴びてのんびり歩いてゐる‥‥。郷子《くにこ》は思はず路傍《ろばう》の石を蹴《け》つた。石はころころと、狹い路地の四ツ辻へ轉んで行つた。(どうぞ、眞中《まんなか》でとまつてくれますやうに、眞中でとまつてくれれば運が展けて來る‥‥)一|瞬《しゆん》、郷子はそんなことを考へてゐた。石は四ツ辻までは轉《ころ》げて行かなかつた。郷子は意地になつて、また、その石を強く蹴《け》つた。 「ねえ、一寸《ちよつと》待《ま》つてゝ、こゝなの、――私、呼んでみるわ」  枯れた櫻の木が二三本、新しい板塀《いたべい》の中に植《う》わつてゐた。一枝が口笛《くちぶえ》を吹きながら門を這入つて行つた。――郷子は、白く乾《かわ》いた道に立つて、時々、自分の前を通つて行くひと達を凝つと眺めてゐる。抑制《よくせい》の出來ない佗しい孤獨が、足の裏に酢《す》を蹈《ふ》むやうな冷たさで迫つて來る。何處《どこ》かでふつとローラアカナリヤが啼いた。  郷子は耳を澄《すま》した。  ローローロークツクツクツと、實に清麗《せいれい》な聲音だ。郷子は頬に微笑がこみあげて來た。 (私は、兎に角、いろいろな處へ出向いて行つて、街のなかを明日は探檢《たんけん》して來てみよう。――カナリヤがあんなに啼《な》いてゐるから、何かいゝことがあるかも知れない)  郷子は、カナリヤの啼《な》くひば[#「ひば」に傍点]の垣根の前を行つたり來たりしてゐた。 「一寸、いらつしやい、――いま、嘉兵衞《かへゑ》さんはお晝を食べてゐるところなの‥‥」  板塀《いたべい》の門から顏を出して、一枝が郷子を呼んだ。  階下は玄關から、本がぎつしり積《つ》んである。二階へ上つて行くと、パンを燒く匂《にほ》ひがして、レコードが鳴《な》つてゐた。 「私《わたし》、山本嘉兵衞《やまもとかへゑ》です‥‥」  顏の小さい背の高い男が、椅子《いす》の上に置いたかはいゝ火鉢でパンを燒きながら挨拶をした。 「こちら、植村郷子《うゑむらくにこ》さん、東京へお出でになつたばかりなのよ」  一枝はすぐ床《とこ》の間《ま》のレコードのそばへ行つた。  壁には汚れた腕章《わんしやう》を卷いた緑色の服がかゝつてゐる。廊下の籐椅子の上には、大きな、リユツク・サツクも置いてある。 「嘉兵衞さん、戰爭《せんさう》、どうだつたの?」  新しく針《はり》をかけながら、一枝が後向きにそんなことを訊いた。 「たいへんだつた‥‥」 「たいへんだつたつて?――嘉兵衞さんは彈《たま》のなかをくゞつて來たの?」  長閑《のどか》に遠くでカナリヤが啼いてゐる。  郷子は廊下の欄干《てすり》に凭れて立つてゐた。廊下の突きあたりには、色々なラベルを張つた大きなトランクが二ツ重ねてあつた。 「嘉兵衞《かへゑ》さん、ピストルを持つて行つた?」  ジイ‥‥と針《はり》の音がして、スメタナの「わが祖國」の曲が鳴り始めた。 「ピストルなんか持つて行かない。――ママのくれたお守りと、日の丸の旗《はた》を持つて行つた‥‥」 「危《あぶな》いことあつた?」 「そんな危いところへ、あまり行かない‥‥」 「さう、何處に一番ながくゐたの?」  嘉兵衞はパンを頬《ほゝ》ばりながら紅茶を淹《い》れてゐたが、ふつと郷子の方をむいて、 「植村さんは、お砂糖《さたう》、いくついれますか?」  と訊ねた。  廊下に柔《やはらか》い風が吹きあげてきた。 [#9字下げ]○  四角い白砂糖が二つ、熱い紅茶《こうちや》茶碗の中でじゆうと溶けていつた。レコードが靜かに鳴つてゐる。 「上海《シヤンハイ》へは何時行くの?」 「まだ判らない、――でも、明日出發せよと云ふ電報《でんぽう》が來ないともかぎらないし、どんなふうになるのか、判らないね」 「さう‥‥私、嘉兵衞さんが上海《シヤンハイ》へ行くときについて行かうかしら?」 「どうして?」 「ちつとも働《はたら》くところみつからないンですもの、――上海へ行けば、私の働く處ぐらゐあるでせう?」 「うん、でも、上海《シヤンハイ》へ行く位だつたら、アメリカのママの處へ歸つた方がいゝよ、――上海だつて、いま、君のやうなひとの働き場所《ばしよ》があるかどうかねえ‥‥」 「貴方《あなた》の新聞社でつかつてくれない?」  嘉兵衞は黄と白の横縞《よこじま》のジヤケツの胸のポケツトに、日の丸の旗を小さく折りたゝんで入れてゐた。日の丸の紅い色が、花を差してゐるやうに洒落《しやれ》てみえた。 「僕もさうだけど日本語の讀《よ》み書《か》きが出來なきや、こつちの新聞社ではむつかしいね。――一二年、勉強しなけれや駄目だ」  一枝は廊下の籐椅子《とういす》に腰をかけると、兩手の指をくしやくしやと髮の中へつゝこみながら、如何にもつまらないと云つた樣子で肩を狹《せま》くすぼめてゐる。  日本へ歸つて來て、日本の生活《せいくわつ》に迷《まよ》つてゐると云つた、外國生れの女を、郷子はしげしげと眺める感じであつた。(私はまだ、このひとよりは幸福な境涯《きやうがい》かもしれない‥‥)郷子は匙《さじ》で紅茶をかきまぜながら、のびのびした一枝《かずえ》の大きい脚《あし》を見てゐた。――レコードがやむと、嘉兵衞はすぐ賑やかなヂヤズものをかけて氣輕《きがる》に口笛であはせてゐる。 「ねえ、私、ママの處《ところ》へ歸らうかしら?」 「一枝さん、踊《をど》らう‥‥」 「ふゝん、アイ・アム・ソウリイよ‥‥」  嘉兵衞はふつと郷子の方へ、如何ですかと云つて來た。郷子は吃驚《びつくり》して固くなつてゐる。 「駄目よ。――そんなに陽氣《やうき》になつたつて、私のこと考へてくれなくちやア‥‥」 「アメリカへ歸《かへ》ればいゝぢやないの、――昔、ママやパパたちがアメリカへ行つて、すぐその日から働けたやうにはいかないんだものね。――僕達《ぼくたち》は全く、日本のことなんか何にも知つてやしないし‥‥パパやママの話してる日本と大違《おほちが》ひなんだもの、――僕は二三年したら、今度は勉強《べんきやう》に歸つて來ようと思つてる‥‥」  蓄音機の針をとめて、嘉兵衞が一枝の後へ行き、悄氣《しよげ》てゐる一枝の肩を優しく叩《たゝ》いてやつた。 「ねえ、銀座《ぎんざ》へ行きませうか?」  一枝は急に悄氣《しよげ》た表情をぱつとひらいて、活々《いき/\》と笑ひ出すと、もう、机の鏡の前へ行き髮かたちをなほしてゐる。  郷子は銀座《ぎんざ》と云ふ處を知らない。 「私は失禮《しつれい》します‥‥」 「いゝでせう?」 「えゝ、でも、一寸、用事もありますし‥‥」  嘉兵衞も一緒にいゝでせうとすすめてくれたけれど、郷子はどうしても心が輕く變轉自在《へんてんじざい》にならない。――東中野の停車場《ていしやぢやう》まで一緒に歩き、郷子は、驛の前で二人に別れた。肩を水平《すゐへい》にして、のびのびと大股にホームを歩いて行く二人に、郷子は道ぎはの木柵《もくさく》から丁寧に頭をさげた。  一|瞬《しゆん》だけれど、悄氣《しよげ》て哀れをみせてゐた一枝のさつきの表情が、驛へ來るまでにはもう活々と立ちなほつて元氣な姿に戻つてゐる。郷子はふつと波の荒い逆卷《さかま》くやうな東京の生活を感じた。 [#9字下げ]○  寒い晩《ばん》だ。  郷子は電車道からそれて、何と云ふこともなくふらふらと賑やかな新宿裏《しんじゆくうら》の狹い路地のなかへはいつて行つた。  魚を燒く匂ひ、玉葱《たまねぎ》を煮るやうな匂ひ、やるせのないジヤズの音が、この狹《せま》い路地のなかに立ちこめてゐる。  赤や青のネオン・サインが、晝《ひる》の水《みづ》の底のやうにきらきら光つてゐる。――品川や、新橋の朝の驛々でみたサラリーマンのやうな男達が、この狹《せま》い路地のなかでは何となく醉《よ》ひどれたやうに歩いてゐる。  谷間《たにま》のやうに暗くて、うそ寒い大きな建物の裏へ來ると、足もとのふらふらした若い男が、 「おいツ、をばさん、一寸《ちよつと》觀《み》てくれツ!」  と、そこに出てゐる占ひの露店《ろてん》の灯へにゆつと手を出した。  大きい聲だつたので、郷子は思はずそこへ立ちどまつた。薄汚《うすよご》れたかなきんの臺の上に、ほとほと提燈《ちやうちん》のあかりがゆれてゐる。 「いくらでもようございますよ。――くはしく觀てあげますよ」 「うん、くはしくね‥‥くはしく觀てくれツ、――一|週間《しうかん》ほどしたら、俺は出征するンだから、一つ、生きるか死ぬるか、よく觀《み》てくれ‥‥」  頭は刈りたてのぐりぐり坊主《ばうず》、寒いのか、時々、外套《ぐわいたう》の襟に首をすくめてゐる。 「出征なさるンですか? さよですか、それでしたら、なほさらくはしく觀てあげますよ、――いくらで觀るなンて吝《けち》なことは云ひません。――兩方の掌を觀せて下さい」 「兩方の掌《て》?」 「私のは、獨特《どくとく》の手相を觀るのですから、世間いつぱんのとは、少しばかり違ひます。――お年は、二十八ですか、あゝ、いい掌《て》ですね、厚味《あつみ》のある‥‥」  占師《うらなひし》は洟《はな》をすゝつた。  郷子は二三歩そばへ寄《よ》つて行つた。 「あなたの生命線《せいめいせん》は非常に長い。――まづ、天理にしたがひ人道をつくして果てると云ふ手相です‥‥」 「うん」 「たゞ、左の掌の、この情操線《じやうさうせん》には、いま、燒劍《やけみ》の相が出てゐて、あなたの現在の生活には、色々と惱悶《なうもん》があることゝおもひます。――性格は單純ですね‥‥」 「莫迦《ばか》を云へ‥‥」 「どんなに轉んでも米麥蔬菜《べいばくそさい》をつかむ‥‥」 「いや、戰爭へ行くンだよ、――生きるか、死ぬるかを觀てくれりやいゝんだ‥‥」 「生命線《せいめいせん》は非常に豐かなのですが‥‥」 「天理にしたがひ、人道《じんだう》を盡して果てるか‥‥いや、人道を盡して、兵隊らしく果てるかも知れんなア‥‥」 「遠い處《ところ》へいらつしやいますね‥‥」 「遠い處へねえ‥‥」  若い男は、ふつと、のぞいてゐる郷子《くにこ》の方を振り返つた。眼が大きくて、よく光つてゐる。郷子へ、 「遠くへ行くんださうですよ」  と云つた。  郷子は暖《あたゝ》かいものを感じた。 「この一年、運命《うんめい》[#「うんめい」は底本では「ういめい」]は定まらないが、これは何時でも立ちなほれる自信《じしん》と健康を、あなたは持つてゐます。――人には敬《けい》せられる」 「うん、戰爭《せんさう》へ行くンだから、運命は定まらんかも知らンなア」 「物質には得失《とくしつ》なし、――さうですねえ、戰爭にいらつしても、小さなお怪我をなさることがあるかも知れないけれど、まづ、芽出度く、がいせん[#「がいせん」に傍点]なさる相《さう》が出てゐますね」 「ふゝん、凱旋《がいせん》をする?」 [#9字下げ]○  占師は天眼鏡《てんがんきやう》をのぞいて、また洟《はな》をすゝつた。 「凱旋か‥‥兎に角、生きるか死ぬるか、俺《おれ》の氣持《きもち》はきまつてゐるんだ。――怪我をするなンてのはあんまりよくないね、本當かい?」 「いや、それもほんの一寸したことですよ。――大した希望《きばう》がこの二三日うちに降つて來ると云ふ卦《け》が出てますね‥‥」 「へえ、戰爭へ行く前にいゝことがあるつて? さうかね、――昨夜《ゆうべ》は一晩ぢゆう眠れなかつたが、いいことがあると云ふのならそりやア一つ愉《たの》しみに待つてゐよう」 「まだ、お獨《ひと》りですね?」 「あゝ、まだ獨りさ、――女房《にようばう》なんかありやしないよ。ぱりぱりの獨り者さ。――さつきも床屋の奴が、俺の髮《かみ》の毛を半紙に包んでくれたンだけどねえ、誰にも殘《のこ》しておく者がないンで捨てちやつた。――一|握《あく》の、床の塵《ちり》とはなりにける、さ‥‥」  路地の建物《たてもの》の上には小さい月が出てゐる。寒い風が吹いた。郷子がこんこんと咳《せき》をすると、醉つた男は、また振《ふ》りかへつて、 「どうです? あなたも觀《み》てもらひませんか‥‥僕は、今夜《こんや》は、非常に勇ましい氣持でゐるンだ。そこにもこゝにも進軍喇叭《しんぐんラツパ》が鳴り響いてゐるやうなンだ。全く、いゝ晩だ。――僕は、もう、あと一週間で兵隊ですよ‥‥」  郷子の後から半纏着《はんてんぎ》の男が覗《のぞ》きこんでゐたが、すぐまた次の占師の方へ去つて行つた。――誰もあたりには見てゐるひとがない。郷子は思ひきつて左手《ひだりて》を出してみた。  提燈の燈火《あかり》の下に郷子の手がうすあかくみえた。 「おいくつです?」 「二十一‥‥」 「二十一ですか、さうですね、いまゝでは大した變化《へんくわ》はなかつたけれど、家庭的にはあまりめぐまれてゐない、――あなたの性格は、收穫《しうくわく》を前にして着々と鎌の刄を研《と》ぐと云つた、實直な性質で、迂闊《うくわつ》なところがない。――だけど、さうですね、最近、一つの運命《うんめい》が、あなたの生涯をゆりうごかすでせうね。――あなたの運命線《うんめいせん》は、いま非常に亂れてゐます‥‥」  運命線が亂れてゐると云はれて、郷子は自分の掌《てのひら》をぢつとみつめた。 「鎌《かま》を研《と》ぐとは、をばさんも面白いことを云ふねえ。冗談《じようだん》みたいだが、――さつきの小さい怪我なんか本當かい?――まア、何でもいい、過《くわ》もなし、不過もなしの中庸《ちうよう》のところで一つ、よく觀《み》てあげなくちや駄目だよ‥‥」  臺の上へ、若い男は、五拾|錢銀貨《せんぎんくわ》を一個ぽんと放つた。 「どんな職業《しよくげふ》についたらいゝでせうか?」 「さうですね‥‥まア、あなたには水商賣《みづしやうばい》はむきませんね。――學校の先生とか、事務員とか、そんなところでせうね‥‥」 「さうかねえ‥‥そんなところ[#「そんなところ」に傍点]と云ふこたアないだらう? そんなところか、は、は、は、は‥‥」  郷子は赧《あか》くなつた。 「まあ、あわてないで、はじめにいゝと思つた職業に飛びこむのがいゝでせうね。――病身なのがいけませんね‥‥」 「あら、病身《びやうしん》ぢやないわ‥‥」  郷子は小さい聲で抗議《かうぎ》した。 「もう、その邊《へん》で手を引つこめた方がいゝですよ‥‥さア、二三日すれば喜びごと來《きた》るだ。こちらは、中運《ちゆううん》、中吉《ちゆうきち》、――をばさん、五拾錢でいゝのかい?――今日は友人に錢別を貰つてねえ、まだ唸るほど殘つてゐるンだ。部屋代を拂つて、月賦代《げつぷだい》を拂つてもまだ殘る‥‥」 [#9字下げ]○  路地の中ほどに、燈火《あかり》の明るい洗濯屋《せんたくや》があつた。占師の前をはなれて、二人は默々と歩いてゐたが、洗濯屋の前へ來ると、若い男は立ちどまつてマツチをすつた。咥《くは》へてゐる煙草に火をつけると、若い男は郷子の方へむきなほつて、お茶《ちや》でものみませんかと云つた。 「寒《さむ》いですねえ‥‥」 「えゝ」 「東京は初《はじ》めてですか?」 「はア、――はじめてで、まだ、何もわからないものですから、毎日《まいにち》仕事《しごと》を心配して歩いてゐます」  一週間たつたら出征《しゆつせい》をすると云ふ、このぐりぐり坊主の男に、郷子はお茶でものみませんかと云はれても、そんなに不安《ふあん》なおもひを感じなかつた。溺《おぼ》れてゐるものが、一筋の藁《わら》にでもすがるやうな、そんな泌《し》みるやうな氣持でもあつたのだ。  暗い路地を拔けて、轟々《ぐわう/\》と電車や自動車の鳴り響く、明るく賑やかな廣い通へ出て行つた。遠い處から行軍をして來たやうな兵隊の行列《ぎやうれつ》が、軍歌を勇ましく高らかに歌つて、灯のやうな鋪道《ほだう》を歩いて來てゐる。若い男は立ちどまつてこの軍列をぢつと視《み》てゐた。郷子も、兵隊の行軍をみてゐると、胸のわくわくするものを感じた。戰鬪帽《せんとうばう》をかぶつた澤山の兵隊が、白い息を吐きながら軍歌《ぐんか》をうたつてゆく。――灯の明るい映畫館の前では、「祝出征」の小旗をもつた若い女が呆《ぼ》んやり映畫のスチールを眺《なが》めてゐたり、千人針を持つて立つてゐる女達は、二人、三人、四人、と、激《はげ》しい人通りのなかに白や、黄の木綿《もめん》の布をひらひらさせてゐた。 「千人針《せんにんばり》はお持ちになりましたか?」 「いや、そんなものは持つちやゐませんよ。親父と弟が故郷《くに》にゐるきりで、そんなものは別に誰も考へちやくれませんよ。――此頃《このごろ》、デパートへ行くと、ちやんと、千人針を賣つてるつて云ふぢやありませんか‥‥」  二人は電車通りの大きい喫茶店《きつさてん》へ這入つて行つた。菓子の箱がうづ高く積み重ねてある。大きい陳列の硝子箱《ガラスばこ》のなかには美味しさうな菓子がづらりと並べてある。  白い天井の反射で、四圍《まはり》の燈《ひ》は皎々と明るかつた。部屋の隅のボツクスに向きあふと、郷子ははじめて正面《しやうめん》に男の顏を見た。  眼《め》がきらきら光つてゐる。 「何しろ、ホテルも映畫館《えいぐわくわん》も、デパートも、こんな茶を飮むところも人がいつぱいで、全く、戰爭は何處にあるのかと思ふやうですね」 「ほんたう[#「ほんたう」は底本では「ほんとう」]ですわ、――故郷《くに》でも一時、出征が大變だつたンですけど、東京へ來《き》てみますと、まだまだ大變な出征でございますね」 「兎に角、まア、大いに働いて下さい。――一|週間《しうかん》したら、僕も、さつきのやうな兵隊なのですが、どつか遠い處へ行つたら手紙ぐらゐ下さい。――僕は行くのだつたら、ソ滿《まん》國境《こくきやう》あたりへ行つてみたいと思つてゐるンですよ。――この一月二月は吹雪《ふぶき》の激しい頃でせうし、何か、そんな處へまつしぐらに進んで行きたいですね」  ふちに赤い線のはいつた紅茶茶碗《こうちやちやわん》が二つ、二人の前に運ばれて來た。郷子は白い肩掛をはづして、小さい聲でいたゞきますと云つた。 「どうぞ‥‥」  男は亂暴に、銀の砂糖壺《さたうつぼ》から、粉砂糖を一杯自分の茶碗へすくつていれると、茶碗をかきまはして、熱い紅茶をぐつぐつと音をさせて飮んだ。郷子も、銀の壺《つぼ》から砂糖をすくつた。 「おい、もう一杯紅茶くれないか‥‥」  男は大きい聲で二杯目の紅茶を註文《ちうもん》してゐる。 [#9字下げ]○  名刺には佐山新《さやましん》一と書いてあつた。大久保の百人町に下宿をしてゐて、郷里は信州だと話してゐた。 「お家《うち》に無斷で上京《じやうきやう》をされて、これから、どんな職業を持たれるのか知りませんが、ぽつんと、東京に一人で來られても、おいそれと、氣に入つた職業《しよくげふ》はみつからないやうにおもひますがねえ‥‥」 「えゝ、でも、何とかしてやつてみるつもりでをります‥‥」 「何《なん》とかねえ、――いま、どちらへゐられるンですか?」 「私ですか?」  郷子は郷里を出てから、今日までの生活を簡單《かんたん》に佐山《さやま》に話した。 「私は、何とかして、自分で自分の生活《せいくわつ》をきづきたかつたのです‥‥、――土をつかんでも、獨立獨歩《どくりつどくほ》の生活をしたかつたのです。――いまさら、家へも歸れはしませんし、義理の弟ですけれど‥‥私のたつた一人の弟ですから、それを學校《がくかう》へも入れてやりたいとおもつてをりますの‥‥」 「大丈夫《だいぢやうぶ》かなア、――あなたのやうな若いひとが、こんな廣い東京で仕事をみつけると云ふことは‥‥」 「あら、大丈夫ですわ。きつと、いゝ仕事《しごと》がみつかると思ひますけど。――みつからなかつたら、一時、喫茶店《きつさてん》のやうな處へ住みこんでもいゝと思つてゐますの‥‥」 「いや、それはいかん、それは賛成《さんせい》しませんねえ、――堅實な職業を探してみて下さい、僕も二三人の友人にたづねてみてあげませう‥‥」  二人は長《なが》いこと、そこへ腰をかけてゐた。  佐山は、もうぢき、兵隊へ出て行くと云ふ感情《かんじやう》があるせゐか、偶然に逢つた郷子にロマンチツクな若い感傷《かんしやう》をそゝられてもゐた。――郷子もまた、名状しがたい悲しい孤獨な漂泊から、春の風を吸《す》ふやうな氣持を感じてゐた。お互ひはお互ひをまぶしさうに時々そつと眺《なが》めあつてゐる。 (質素《しつそ》でしつかりした女だ‥‥)  佐山は時々郷子が眼を細めて笑ふのを佛像《ぶつざう》のやうに美しい表情だと思つた。顎《あご》の線がはつきりしてゐて、耳は肉が厚くふつくらとしてゐる。如何にも關西《くわんさい》の女らしく肩の線がなだらかで、襟《えり》もとに束ねた髮も癖がなくて素朴な風姿だつた。 「どうですか? 僕の家《うち》へいらつしやいませんか‥‥」  佐山が勘定書《かんぢやうが》きを取つてさう云つた。 「えゝ」 「それとも、その邊《へん》をすこし歩いて、送りませうか?」  郷子は默《だま》つてゐた。 「何だか、もうすこし歩きたいなア、――明日も明後日も、友人が送別會《そうべつくわい》を開いてくれるンですよ。――今夜は、何だか無茶苦茶《むちやくちや》に歩きたくて仕方がない‥‥」  二人は外へ出た。歩道は凍《し》みるやうに寒く、少しばかり風《かぜ》が出てゐた。新宿驛の方へ歩いて行つた。  佐山は酒の醉《よ》ひもさめたのか、もう、しつかりした足どりで歩いてゐる。 「寒《さむ》いから、バスに乘つて、僕の家へ行きませんか。――何でもあなたの好きなものを御馳走しますよ‥‥」 「えゝ、ありがたうございます、――でも‥‥」 「歸へりは送《おく》つて行つてあげますよ――女の方に僕の處へ來ませんかと云ふのは、失禮でせうかねえ?――だけど、このまゝ、こゝで、さよならをするのは、いかにも殘念だな‥‥」  郷子も、何となく殘念《ざんねん》だと思つた。 [#9字下げ]○  バスを降りると、佐山《さやま》はパン屋へ寄つて、洋菓子を買つた。明るい燈火の下で、陳列臺《ちんれつだい》に片肘ついた佐山の後姿を、郷子は、長いあひだ親しかつたひとのやうに凝《じ》つと眺めてゐる。  小さい月《つき》がガードの上に光つてゐた。  郷子がふうつと息を吐くと、寒いので息《いき》が凍《こ》つて白く煙つてゐる。郷子はふうつふうつと息を吐きながら、佐山の出て來るのを待つてゐた。 「さア、熱い茶を淹《い》れて貰つてこれを食べませう‥‥」  佐山《さやま》が出て來ると、二人は肩を並べて歩いた。  佐山は時計屋《とけいや》の二階を借りてゐた。――裏口から梯子段をあがつて行くと、狹《せま》い板の間の壁に、帽子や蝙蝠傘《かうもりがさ》がさがつてゐた。 「いま、火《ひ》を貰《もら》つて來ますから、待つてゐて下さい。――ぢき、あたゝかになりますよ」  菓子の包みを机《つくゑ》の上へ置いて、佐山はすぐ階下へ降りて行つた。  小さい床の間には積《つ》み重ねた本や、鞄や、造花《ざうくわ》の色あせた花が亂雜に置いてあつた。  部屋は六|疊《でふ》、南に大きい硝子窓がある。粗末《そまつ》な本箱には、郷子の知らないむつかしい本ばかり並んでゐた。銀色の優勝《いうしよう》カツプなんかも二ツ三ツはいつてゐる。 「さア、熱い茶を貰つて來ましたよ」  佐山が十能《じうのう》と、鐵瓶をさげて上がつて來た。火の粉がぱちぱち彈けてゐる。郷子はすぐ火箸を握つて、火鉢《ひばち》の固い灰をならした。 「男の部屋つて、殺風景《さつぷうけい》でせう?」 「いゝえ‥‥」 「もう、一ケ月位、掃除《さうぢ》をしないんですからねえ‥‥」  郷子は、火鉢のなかの煙草の古い吸殼《すひがら》を、一つ一つ鼻紙にひろつた。 「もう、ぢき、此部屋《このへや》も引きあげだものですから、何も彼もほつちらかしなンですよ」 「でも、落ちつけさうな、とてもいゝお部屋ですわ。――晝間《ひるま》はとてもあたゝかでございませう?」 「はあ、とてもあたゝかですよ、窓《まど》の下が植木屋《うゑきや》でしてねえ、――中々、のんびりした部屋なンです。よかつたら、晝間《ひるま》も遊びに來て下さい。僕は、明日一日會社へ出たら、あとはもう、こゝにゐます」 「あら、お故郷《くに》へはお歸りではございませんの?」 「えゝ、來月の三日に發《た》つて、一晩泊つて、すぐまた出て來ます」 「信州《しんしう》つて遠いンですか?」 「遠かありませんよ。八時間位かな‥‥」  佐山は外套《ぐわいたう》をぬぐと、不器用な手つきで茶を淹れた。 「さア、菓子も食《た》べて下さい」  佐山が、床の間から寫眞《しやしん》ブツクを出して來た。中學生の頃のや、大學生《だいがくせい》の頃、兵隊の頃、會社員になつてからのもの、郷子は一枚一枚佐山に説明を求めながら、佐山《さやま》の生活《せいくわつ》を知ることに、何とない微笑を感じてゐた。  山毛欅《やまぶな》の森のなかで、こんな青年の一生を語りあふ物語りを、女學校の頃、誰かに讀んで貰つたことがあつた。佐山の中學生の頃の寫眞は、弟の敬太郎《けいたらう》によく似てゐる。――凝つとみてゐると、その寫眞は、何時《いつ》か、弟の顏になり、(姉さんが默《だま》つて家出をしたンで、僕はとてもお父さんに叱《しか》られてゐるンですよ)と云つてる風に、ぱくぱく寫眞の敬太郎が口を開けてゐるやうに見える。 「寒くはありませんか、――とても寒い[#「 寒い」は底本では「寒むい」]から、この外套《ぐわいたう》を肩へおかけなさい‥‥」  郷子は一つの寫眞を眺《なが》めたなり、何時までも默つてゐたので、顏を擧《あ》げるなり、急に激しい動悸《どうき》が打ちはじめ、赧《あか》くなつた。 [#9字下げ]○  佐山《さやま》はしばらく默《だま》つてゐたが、郷子がハンカチで洟をかみをはるのを待つて、 「ぢやア、そのアパートへ、いまから一寸行つてみませうか? 氣樂《きらく》な處ですよ、――安いし、清潔《せいけつ》で、日當りのいゝアパートですよ‥‥」  郷子は洟《はな》をかみながら、鼻の芯《しん》に熱いものがこみあげて來て仕方がなかつた。――大橋の家に、何時までも寄食《きしよく》してゐるのは厭《いや》だつたし、自分ひとりになつて、自分だけの部屋を持つて、元氣に職業《しよくげふ》につきたかつたのだ。  東京までの切符《きつぷ》を買つたほかにまだ參拾四五圓の金が財布《さいふ》にはあつた。――ひとりで、鬱々と考へてゐたことを佐山にみんな話してしまふと郷子は、東京の生活を、窓硝子《まどガラス》を開けて眺めわたすやうな晴々した氣持ちになつた。 「何《なに》にしても、早く職業《しよくげふ》をみつけなくちやいけませんね。――いつたい、その、お家の金を、いくら位持つて來たンです?」 「いゝえ、――とても少しなンですけど、家《うち》が困つてゐるものですから、とても氣がとがめてしまつて‥‥」 「だけど、弟さんも仲へはいられて困《こま》つてゐられるでせう?――兎に角、その大橋《おほはし》さんと云ふお家《うち》を出て、小さい部屋に落ちついたらいゝぢやありませんか?」  郷子は佐山の友人がゐたことがあると云ふ近くのアパートに案内《あんない》をして貰つた。――二人が階下へ降りて行くと、丁度《ちやうど》店《みせ》の時計が八時を打つてゐる。  戸外《そと》は寒い砂風が吹いてゐた。  どこかで義太夫《ぎだいふ》[#「ぎだいふ」は底本では「ぎだいいふ」]のラヂオがきこえてゐる。  アパートは佐山の家から二丁ばかりの處で、病院と自動車屋《じどうしやや》の狹《せま》い路地の中にあつた。廣い玄關には下駄《げた》や靴が澤山ぬいであつた。――佐山《さやま》が管理人の部屋へ行つてすぐ汚れたジヤケツを着た男を連れて來た。 「女のひと、獨りだから、狹《せま》くてもいゝんだ」 「さア‥‥お氣《き》に入《い》りますか、どうですか、――空いてゐる部屋は二ツ三ツあります――」  その、二ツ三ツの部屋を案内《あんない》されたうちに、二階の廊下の突きあたりに、四|疊半《でふはん》の可愛い部屋があつた。疊《たゝみ》は古びて、ところどころ燒けこげがあつたが、郷子には氣に入つた。 「こゝでいゝ?」 「えゝ――こゝにしますわ」  どちらからともなく、自然《しぜん》になごやかな言葉が出た。  佐山がすぐその部屋《へや》をきめてくれた。――郷子は押入れを開けてみた。濕氣《しつけ》た匂ひがしたが、越して來て風を通《とほ》せば、そんなものは吹きとばしてしまふ。疊もぼこぼこしてゐたが、引越して來て、雜巾《ざふきん》馬穴《ばけつ》に酢《す》をまぜて拭けば、これも、もつと清潔にはなる。窓にはクリーム色の新しいカーテンがさげてあつた。 「そこの窓を開けてごらんなさい。――寺の庭ですよ――」 「あら、お墓《はか》がみえますの?」 「いや、墓は見えなかつたやうだつた――」  郷子は少しばかりの手付《てつ》けの金を置いて、佐山に東中野の驛まで省線で送《おく》つてもらつた。 「何だか、偶然《ぐうぜん》、おめにかゝつてこんな御面倒をかけたりしまして――ごめん下さい――」 「‥‥‥‥」  佐山は郷子と並んで吊革《つりかは》を握《にぎ》つてゐたが、 「明日《あした》、何時頃、引こして來ますか?」  と訊いた。  ふつと佐山の外套《ぐわいたう》の匂ひがした。郷子は、佐山の部屋の樣々が鮮《あざや》かに瞼《まぶた》に浮んで來た。  電車はガードの上に來たのか、すさまじい音《おと》をたてゝ、ごうごうと、車輪《しやりん》が鳴り響いて來た。 [#9字下げ]○  新一は歌《うた》つてゐた。 (――妻をめとらば、才《さい》たけてえ――みめうるはしく、情《なさけ》あるウ‥‥)  眼の上に拳固《げんこ》をつくつて、その腕をのばしてみたり、縮《ちゞ》めてみたりしながら、昨夜、東中野の驛へ送つて行つた、郷子《くにこ》のことをぢつと考へてゐた。 (俺は、もう、ぢき、戰爭へ行くンだ、――何も彼も、このまゝ、俺の一生《いつしやう》は消《き》えてしまふかもしれない‥‥氣の毒だが、お前の生涯《しやうがい》は、もう、この邊までだ、――ふん、何《なに》をくそツ! 眞劍に戰ふのだ、悔いなく、――だが、悔《く》いなく、本當に、進《すゝ》めるかな?)  新一はむつくりと、蒲團《ふとん》の上へ腹這ひになると、机の上へ手をのばして、煙草と灰皿《はひざら》を取つた。  雪《ゆき》でも降りさうな空あひである。  煙草に火をつけて、新一はまた呆んやり、昨夜《さくや》の女の顏を瞼《まぶた》に描いてゐた。――肩も、胸も、膝も何時も控《ひか》へ目に、きちんと固《かた》くなつてゐた。笑ふと、ゑくぼ[#「ゑくぼ」に傍点]があつた。  風に帆《ほ》をはらませた、澤山の船が、すいすいと新一の呆んやりした眼に、漂々《へう/\》と走つて來る。 (おい、一寸待つてくれ、――さう、一時に走つて來ても、繋《つな》ぎ場所がないぞ‥‥)  煙草の灰がぼろりと疊《たゝみ》の上におちた。新一は、あわてゝ煙草を吸ふと、煙草の煙《けむり》をふうふうと二口三口窓の方へ吹いた。  戰局《せんきよく》はだんだん擴大《くわくだい》してきてゐる。南京《ナンキン》陷落《かんらく》のあと、何か吻つとしてゐた氣持も束の間、金《きん》、銅、鐵鋼《てつかう》、石炭、石油、――あとからあとから、これらのものを國外にしぼりだしてゐるやうな、そんな苦しい現實の經濟戰《けいざいせん》を、新一は煙草の煙のなかに、とりとめもなく呆んやり考へ描《ゑが》いてゐた。 (俺も、つひに、征《ゆ》くのだ‥‥)  戰場《せんぢやう》へ行つてみなければ、この戰爭の現實はわからないけれど、何か、氣持をゆすぶられるやうな滿々《まん/\》たる思ひが湧きあがつて來つゝある。  新一は一高を出て、帝大の採鑛治金學科《さいくわうやきんがくくわ》を出てゐた。  學校にゐた頃は、一高の時から短艇部《たんていぶ》にゐて、水の上にゐることが何よりも好きだつた。七月末の三高との戰ひの日の、瀬田川《せたがは》の思ひ出が、ふつと新一の心に迫《せま》るやうな、なつかしいものを誘つて來る。  瀬田川の青い水の上に、オールの先だけを眺《なが》めて暮した一週間の生活も、もう若き日の夢でしかない‥‥。 (昨日の女《をんな》は、たしか、膳所《ぜぜ》と云ふ處《ところ》だと云つてゐたが、琵琶湖畔の朝夕は愉《たの》しかつたなア‥‥)  新一は、朝の蒲團《ふとん》の中で色々なことを考へてゐた。――(さうだ、今日は、一寸會社をのぞいて、それから荷造《にづく》りもしなければならない)  煙草を灰皿《はひざら》へねぢこむと、新一は起きてうううツと大きなのびをした。寢卷の袖からむき出た手、はだけた胸の皮膚《ひふ》、柱鏡に寫つてゐる自分の表情が、新一には自信滿々《じしんまん/\》として見えた。 「佐山さん‥‥」 「はい‥‥」 「お客樣ですよ」 「はア?」 「植村《うゑむら》さんつて、女の方がお見えですよ」  階下のをばさんが、梯子段《はしごだん》の中途から新一を呼んだ。一寸、誰だかわからなかつたが、新一は、昨夜の女だつたと思ふと、あわてゝ柱鏡《はしらかゞみ》の方へ行つたり、机の前へ坐つてみたりした。  頭がすうすうと寒い。机の上のポマードや櫛《くし》が妙《めう》な感じだ。新一は立つて行つて、 「どうぞ、お上ンなさい、――もう引越《ひつこ》して來たのですか?」  と、階下《かいか》へ聲をかけた。 [#9字下げ]○  凝つとちゞかむやうなおもひで、郷子はペアの船ばたを兩手でしつかりさゝへてゐた。新一が、棒杭に手を支へて、短艇《ボート》をすつと後へずらせた。ぴちやぴちやと船底に水の音がしてゐる。 「僕はこれでも正選手《レギユラー》なンだから安心していらつしやい、但し、こんな貸ボートぢや僕の力量をお目にかけられませんがね、――白鬚《しらひげ》の方へ行つてみませう? 寒かつたら、僕の、その外套を着て下さい‥‥」  さつき、駒形橋《こまがたばし》から見た時は、青黒くて、海のやうな水の色だつたけれど、水の上へ出て見ると、蜜柑《みかん》の皮や、木片が汀にきたなく浮いてゐて、水は石油色に光《ひか》つてゐた。 「こゝが、隅田川《すみだがは》ですか?」 「さうですよ、――あれが、松屋、こつちがビール會社、その鐵橋《てつけう》が、日光《につくわう》行《ゆ》きの電車の通る處ね‥‥」  霙《みぞれ》まじりの雪がばらばらと降りはじめた。兩岸の景色を黄昏色《たそがれいろ》に染めて、寒い河霧の中に、水の上はにぶく光つてゐる。  郷子は耳が熱《あつ》くもえて仕方がなかつた。  ギイギイとオールの音が、二人の會話を、まるで、千萬《せんまん》も語つてくれてゐるやうだ。  河風は寒かつたが、新一の胸には壯烈《さうれつ》な喜びが湧きあがつて來た。オールを握る手に力をいれた。――レールが壞《こは》れてゐるので、シートの工合は惡かつたが、それでも、この小さなボートは無盡藏《むじんざう》に、速いスピードを出す。水流に抗してゐながら、船はぐつぐつと進み正確な、艪先の水泡《みなわ》が、水に白い花を置いたやうだつた。  大運河《だいうんが》のやうに、郷子には水の上が廣々として見えた。スピードが出るにつれ、新一の顏は熱して赤くなつてきてゐる。――郷子は咽喉《のど》に痰《たん》のからまるやうな變な息苦しさを感じた。 「おや、どうしたの?」  郷子が急にハンカチで鼻《はな》をおほうて、膝の上にそつと首《くび》を曲げた。  オールをぐつと水からあげて、新一が郷子《くにこ》の方へのぞきこんで來た。 「――おや、鼻血《はなぢ》だ‥‥ねえ、僕の外套にハンカチがあるから、それでお拭きなさい‥‥」 「えゝ、もう、何でもないンですの‥‥」 「何でもなくはないですよ、――そのまゝしばらく、あをむいていらつしやい‥‥」 「えゝ‥‥」  郷子は、袂《たもと》からハンカチを出して鼻をおほうた。ごく、ごく、と、生あたゝかい血が咽喉《のど》に流れ込んで來る。厭《いや》な氣持だつた。 「少し、寒かつたかな‥‥」  白鬚橋の下に來て、石柱《いしばしら》の、ぬめぬめした石崖に手をやり、ぐうつと左に船《ふね》をまはすと、ポンポン蒸汽《じようき》が、ボートの横を近々と通り、荒い水沫《みづしぶき》が、さつと二人の肩の上へ降りかゝつた。  二人は思はず顏を見合《みあは》せて笑つた。  五日たつて、出征してゆく人間とも思へないやうな、長閑《のどか》な青春《せいしゆん》が、新一の胸に愉しいものを誘つて來る。  朝、會社の食堂で、珈琲《コーヒー》を一杯飮んだきりだつたが、新一は別に腹は空いてはゐなかつた。どこかで、があんがあんと鐵《てつ》を打つ音がしてゐる。 「僕の、その外套《ぐわいたう》を、頭からかぶつていらつしやい‥‥」 「えゝ‥‥」 「寒いから、――遠慮《ゑんりよ》をしないでかぶつていらつしやい」  郷子は、新一の外套を頭からすつぽりとかぶつた。外套の内側は草《くさ》の葉《は》のやうな匂ひがしてゐた。 [#9字下げ]○  白鬚橋の橋詰《はしづめ》の交番の處へ來て、新一は、はじめて河岸に灯《ひ》がついてゐるのに氣がついた。  小雪が降《ふ》つてゐた。 「あんまり歩いて、疲《つか》れたでせう?――どこか、あたゝかい處で、御飯をたべませう‥‥」 「はア‥‥」 「もう、頭《あたま》は痛くありませんか?」 「えゝ、もう、すつかり‥‥」  新一は通りかゝつた自動車《くるま》を呼びとめて、駒形までやつてくれと云つた。――郷子は東京へ出て來て、自動車《くるま》へ乘るのはこれが二度目である。  寺島三丁目の、堤のやうな道を拔けて、三圍神社《みめぐりじんじや》の暗い町並へ來ると、どうしたのか自動車《くるま》の中の燈《ひ》がぽつと消えた。そとはまだ黄昏の雪あかりで四圍《あたり》はあかるかつたが、新一も郷子も落ちつかない氣持だつた。  新一は學校を卒業した頃、友人に誘《さそ》はれて、女を知つたことはあつたが、それは新一にとつて不愉快な思ひ出だつた。――躯《からだ》の關係のない、清純《せいじゆん》な戀の思ひ出も、一つ二つ、ないではなかつたけれど、この、眼の前にゐる、郷子のやうに、新《しん》一の心をゆりうごかして來た女は、かつて一人もなかつたと云つていゝ。  さつき、寒い水の上で、子供のやうに、素直《すなほ》に空を向いて、鼻にハンカチをあてゝゐた、郷子の咽喉《のど》の白さを思ひ出して來る。象牙色の咽喉の皮膚が透きとほつてみえた。寒さで、躯は小刻《こきざ》みにぶるぶる震へてゐた。――寒いでせうと云へば、いゝえと云つて笑《わら》ふ。 「駒形《こまがた》のどこですか?」  運轉手が訊《き》いた。 「あゝ、あのねえ――橋を渡つて‥‥金田、知つてる? 鷄屋《とりや》だよ」  自動車《くるま》は鉛板の上を行くやうに、廣い橋の上へ出た。雪が窓に降りかゝり、河向うの松屋のネオン・サインが光つてゐた。 「風邪《かぜ》をひかしたかな?」 「いゝえ、大丈夫ですの‥‥」  郷子が遠慮《ゑんりよ》さうに肩掛けの中でこんこんと咳をしてゐるのを、新一はボートに乘せて風邪をひかせたかと心配してゐる。  松屋の横を這入つて、金田《かねだ》の前へ自動車《くるま》がとまつた。――敷臺を上ると、景氣よく束ねてある土産物《みやげもの》の風船が眼につく。  桃割に結つた小女が、二人を狹い部屋へ案内して行つた。障子《しやうじ》の腰硝子《こしガラス》の向うに、暗い庭が見える。部屋の隅には、吊古銅《つるしこどう》に寒木瓜《かんぼけ》と春蘭が活けてあつた。 「寒《さ》むかつたでせう?」 「そんなでもありませんわ‥‥」 「そんなでもないもンですか、隨分《ずゐぶん》、がたがた震《ふる》へてゐましたよ」 「あら‥‥」 「酒《さけ》を一本だけ飮んでもいゝかなア?」 「どうぞ、‥‥どうぞ召しあがつて下さいまし‥‥」  軈《やが》て、鍋物《なべもの》や、銚子が運ばれて來た。  新一は、郷子には酒をすゝめなかつた。腹《はら》が空いてゐたせゐか、腹の底に浸《し》みわたるやうな酒だつた。 「どうです? あの部屋《へや》は‥‥」 「今朝、早く、驛から、チツキの荷物《にもつ》を取つて來ましたの――で大橋さんのところで、とてもよくして下すつて、お蒲團《ふとん》なンかも借して下すつたンですのよ」 「そりやアよかつたですね‥‥」  どこかの部屋で、出征を送る宴《えん》でもあるのか、賑やかな軍歌の合唱がきこえる。 「私、いま、こんな處へ來てゐて、何だか、嘘《うそ》みたいですわ‥‥」 「どうして?」  新一は盃《さかづき》をカチツと茶向臺《ちやぶだい》の上へ置いた。 [#9字下げ]○  新一が、澁谷の二|葉《ば》へかけつけた時は、もう八時前であつた。 (夢中にのみ、よろこびあり‥‥夢中にのみ、吾《わ》が人生《じんせい》在《あ》りか‥‥)  出鱈目《でたらめ》をくちずさみながら、新一がボーイに案内をされて、庭口から這入つて行くと、縁側の硝子戸が亂暴《らんぼう》にがらがらと開いて、 「おい! 佐山ア、罰金《ばつきん》ものだぞツ、――どうしたンだ? もう、みんな待《ま》ちくたびれて、少し荒《あ》れてゐた處なンだぞオ‥‥」  新一と仲のいゝ小見山幾太郎《こみやまいくたらう》が、新一の肩をつかんだ。 「やア、遲《おく》れて、濟まん、濟まん、――あやまるよ。何や彼と忙はしくてねえ‥‥」 「忙《せ》はしいも糞《くそ》もあるものかツ、――みんな、お前の爲に、仕事を放つちらかして出て來《き》とるンだぞツ! ――さつきから、勝つて來るぞで、みんな咽喉《のど》をつぶしてしまつた‥‥」  小見山に押されて、新一が部屋へ上つてゆくと、四五人の友人達は、わつと喚聲《くわんせい》[#「くわんせい」は底本では「くわいせい」]を擧げた。  新一は床の間を背《せ》にして坐らせられた。 「佐山新一は、不埓《ふらち》な奴《やつ》でして、――いまごろ、のこのこやつて來ましたが、本人の申しまするところでは、何や彼《か》と忙《せ》はしかつたと云ふことを信《しん》じまして、――あらためて、佐山新一の出征を祝《しゆく》す、いや、送る、會にうつります‥‥」  幹事の小見山が、洗《あら》ひたてのやうな、さらさらした髮を、時々うしろへかきあげて挨拶《あいさつ》をした。 「いや、全く、濟まんよ‥‥」 「おい、佐山、濟まん次手《ついで》に、ひとわたり飮んでくれ‥‥」  佐山の手に、忙はしく杯《さかづき》がまはつた。  オードブルの汚れた皿《さら》が取り去られて、また新しいオードブルの皿が運ばれて來た。 「明日は日本料理ださうだから、俺《おれ》の方はハイカラにしたンだよ。――うんと食《く》つてくれ‥‥」  新一は一座のみんなに杯《さかづき》をかへした頃、居ずまひを正して、 「――いま、小見山が、僕に、何か、一言、挨拶《あいさつ》をしろと云ふのでありますが、――えゝ、出征しますについて、一|死報國《しはうこく》、征《い》つて參りますと云ふよりほかには、どうも云ひやうがありません。――正直のところ、いまは、萬感《ばんかん》こもごも、昨夜まで、嚴《きび》しいものが臍のあたりをかけめぐつてゐたのでありますが‥‥、兎に角、元氣《げんき》で征《い》つて來ます!」  荒い拍手《はくしゆ》が鳴《な》つた。――新一は胸に熱いものを感じたが、ぐつと杯をほすと、左隣にゐた、女學校の教師《けうし》をしてゐる小見山の兄の正住《まさずみ》に杯をさした。新一から杯をさゝれると、その杯を一寸さゝげて、 「おい、幾太郎《いくたらう》、お前、友人代表で、佐山さんを送るについて、一言《ひとこと》しやべつたらどうだ?」 「僕が、ですか?」 「うん、まア、お前やつてくれ‥‥」  あとのものも賛成《さんせい》の拍手を送つてゐる。  幾太郎は一度きちんと坐りなほすと、ぺろりと唇《くちびる》をなめて、 「えゝつ‥‥今夜は皆さん、――佐山《さやま》の爲に、おあつまり下さいまして、ありがたうございます‥‥」 「おい、小見山――、そんなことはどうでもいゝぞ、何か激勵《げきれい》の歌でもうたへツ」  三|鷹《たか》の天文臺《てんもんだい》へ勤めてゐる岡部は呶鳴つた。  料理の皿數はすくなかつたが、小人數《こにんずう》な、なごやかな會合である。それぞれ詩吟をやつたり、歌をうたつたりした。小見山の兄は、 「こんな洋食屋《やうしよくや》でなしに、――おい、幾太郎、どこか、らく[#「らく」に傍点]な處で二次會をやらうぢやないかね‥‥」  と、時計《とけい》を出してみてゐる。  新一は、冷たくなつた徳利《とくり》を引きよせて、手酌《てじやく》で二三杯、冷い酒をぐいぐいと飮んだ。 [#9字下げ]○  佐山が電話《でんわ》をかけてくれたのか郷子がエレベーターであがつてゆくと、小見山が扉のところで待つてゐた。 「やア、――植村《うゑむら》さんですか?」 「はア‥‥」 「私、小見山《こみやま》です、――さつき、佐山から電話がありましてねえ、――兎に角おめにかゝつてみるからと、電話したンですが‥‥」  小見山が、狹《せま》い應接間《おうせつま》へ郷子を連れて行つた。 「履歴書《りれきしよ》をお持ちですか?」 「はア、持つて參りました。――何だか、書きかたも出鱈目《でたらめ》で‥‥これで、よろしうございませうか?」 「――いや、どうだつていゝンですよ。たゞ形式《けいしき》で、やつぱり、履歴書は見せなければなりませんのでね、――佐山も、いま忙《いそ》がしいでせう?」 「はア、何だか、ごたごたしていらつしやいます。――明日の晩《ばん》、一寸、信州《しんしう》の方へいらつしやいますとか‥‥」 「さうですか、――明日の晩ねえ送《おく》つてゆけさうもないなア‥‥」  小見山は卓子《テーブル》に肘《ひぢ》をついて、郷子の履歴書を凝つとみてゐたが、 「おや、あなたは、大津《おほつ》ですか?」 「はア、生れたのが大津で、いま兩親《りやうしん》は膳所《ぜぜ》にをります‥‥」 「さうですか、――僕は生れは京都ですよ‥‥佐山とは一|高時代《かうじだい》からの友人でしてねえ」 「まアさうでございますか‥‥」 「あいつ、風變《ふうがは》りな男で、夏なんか、京都の僕の家へ來ると、一日水を見に出掛《でか》けて行くんですからね‥‥」 「ボートの選手をしてゐらつしたンでございますつて‥‥」 「さうですよ、おきゝになりましたか?」 「はア‥‥」  小見山は神經質に、瞼《まぶた》をぱちぱちとまばたきさせる癖がある。  履歴書を持つて、小見山が事務室《じむしつ》の奧へ消えてゆくと、郷子は、そこへ腰をかけたまゝ、固く眼をつぶつてゐた。 (神樣《かみさま》、どうぞ、首尾《しゆび》よく、私にこの職業を與へて下さいますやうに‥‥)  何時か、晴れた日に、東中野《ひがしなかの》の上ノ原で、ローラア・カナリアの啼《な》く音をきいたことがあつたけれど、眼をつぶつてゐると、何處《どこ》からともなく、カナリアの啼いてゐるやうな、そんな氣がしてきて仕方《しかた》がない。――何となく、首尾よく、職業《しよくげふ》につけるやうな氣もする。 「やア、お待たせしました。――明日《あす》から、來てみてごらんなさいと云ふことですよ。働いてみますか?」 「まア! ほんとに嬉《うれ》しうございますわ‥‥私、一|生懸命《しやうけんめい》に働きます‥‥」 「いや、そんな、一生懸命でなくてもいゝのですが、――まア、やつてごらんなさい、給料《きふれう》の方は、まだ確定《かくてい》したこと云へませんが――三十七八圓位とおもつてゐて下《くだ》さればまちがひないでせう‥‥」 「はア、ありがたうございます‥‥」  郷子は小見山に、エレベーターの處まで送られて、階下《した》へ降《お》りて行つた。  歩道《ほだう》へ出ると、わつと迫《せま》るやうに、悠々とした青い空がひらけてゐた。ビルデイングをあふぐと、四階の窓に、大野建築事務所《おほのけんちくじむしよ》と金文字で書いてある。 (明日《あす》から、あの窓の中で私は働くのだ‥‥)  郷子は、日比谷《ひびや》の停留所《ていりうじよ》の方へ歩きながら、自分の足に、一二三、一二三、と口のうちで號令をかけてゐた。三十七八圓も貰へば、何《なん》だか、それだけで、一|生涯《しやうがい》食《た》べてゆけさうな、そんな、子供らしい勇氣《ゆうき》が湧《わ》きあがつてくるのだ。 [#9字下げ]○  郷子が、錢湯《せんたう》からかへつてくると、夕陽を正面にして、新一が、まぶしさうに、車庫《しやこ》の前を歩いて來てゐるのに出あつた。  新一の下駄《げた》の音が高く響いてゐる。 「さつき、うかゞひましたら、お留守《るす》だつたンでございますよ」 「あゝ、――郵便局《いうびんきよく》へ行つてたのかな‥‥。上つて、待つてゐて下さればよかつたンだのに‥‥」  新一が郷子と肩を並べると、郷子の風呂《ふろ》あがりの體臭が、乳のやうに匂《にほ》つた。――右の手に持つてゐるニツケルの小さい金盥《かなだらひ》の上に、白いタオルがたゝんではいつてゐる。 「小見山《こみやま》の方は、うまくゆきましたか?」 「えゝ、ほんとに有難《ありがた》うございました。――明日から來てみてはどうかつて‥‥」 「月給《げつきふ》はどのくらゐ?」 「まだ、はつきりしないンださうですけど、――三十七八圓にはなるだらうつて、おつしやつてゐました。――いゝ方《かた》でございますね」 「小見山でせう?――あいつは、一|高時代《かうじだい》の友人でねえ、家は京都《きやうと》ですよ‥‥」 「さうですつて‥‥」 「何《なに》か云つてましたか?」 「佐山さん、ボートの選手で、水を見にゆくと、二時間でも三時間でも、呆《ぼ》んやり、水をみていらつしやるつてお話、うかゞひましたわ‥‥」 「あツははは‥‥、そんなことを云つてましたか、――小見山は、あれは書齋派《しよさいは》でねえ、何時も家の中にばかりゐるンですよ、――弟妹《きやうだい》も澤山あつて、中々幸福な家庭《かてい》ですよ」  新一よりさきに、郷子はいそいで部屋《へや》へ上つて行つた。がらがらとすぐ窓《まど》をあけてゐる。 「炭團《たどん》をくべといたンで、あたりが、一寸臭ひますでせう?」  新一が上つて來るなり、郷子はさう云つて、火鉢《ひばち》の火をほじくつてゐる。 「これ、拜借《はいしやく》して、とても便利してゐますの、――何も彼も、これで煮炊《にた》きが出來ますし‥‥」  新一の火鉢《ひばち》がこゝへ轉《うつ》つて來てゐて、黒い藁灰《わらばひ》があたゝかさうにはいつてゐる。 「小見山さんは、兵隊《へいたい》さんは、どうなンでございますか?」 「あゝ、あれは、兵役《へいえき》の方はなかつたンぢやないかな。――體格《たいかく》がよくないンでねえ‥‥」 「お弱《よわ》さうですね?」 「いや、あれで、中々、芯《しん》は強いンですよ」 「あら、さうでございますか‥‥」  新一は夕陽《ゆうひ》の明るい窓《まど》に腰をかけて、寺の庭で遊んでゐる子供達をみてゐたが、ふつと思ひ出したやうに云つた。 「三十七八圓で、食《た》べてゆけるかなア‥‥」  郷子は、隅田川《すみだがは》へ行つた時の、鼻血《はなぢ》で汚れたハンカチを二枚、風呂で洗つてきたのか、小さく折りたゝんでは、兩の掌《て》でぱんぱん叩《たゝ》いてゐた。 「でも、何《なん》とか、やつてゆけると思ひますけど‥‥」 「まア、よく、色々と勘定《かんぢやう》をしてみるンですね。――郷里《くに》の方へ送ると云ふのは、それだけの月給ぢやア、大變《たいへん》なことですからねえ‥‥」  しゅんしゅんとやかん[#「やかん」に傍点]の湯《ゆ》がわきはじめた。郷子はきもちのよささうな風呂あがりの薄紅い手で、茶を淹《い》れてゐる。  新一は、焦々《いら/\》して、急に、窓から腰をあげたが、火鉢《ひばち》のそばへ寄るのもてれくさく、また、窓ぶちへ腰《こし》をおろした。 「僕の、會社の方だつて、そのくらゐの給料《きうれう》ならありさうですがねえ‥‥」  新一が貸してやつた机の上に、金蓮花《きんれんくわ》の花をさしたコツプが置いてある。――壁には、郷子の新しい大島の羽織《はおり》が、衣紋《えもん》かけにきちんと吊してあつた。 [#9字下げ]○ 「あら、いゝ部屋《へや》ぢやないの‥‥」 「さうでせうか?」 「これ、いくらぐらゐなの?」  大橋久子は、部屋へ這入つて來るなり、手袋《てぶくろ》をぬぎながら、郷子に部屋の値段《ねだん》をきいた。一枝は襟の立つた茶色《ちやいろ》の外套を着てゐる。  小さい火鉢《ひばち》をかこんで、久子と一枝が坐ると、郷子は押入から茶道具《ちやだうぐ》を出して來た。 「お務《つと》めがきまつたンですつてね?」 「はア‥‥」 「何時から?」 「今日がはじめての日ですの、――樂《らく》な仕事ですから‥‥」 「さう‥‥よかつたわ」 「佐山さんて、どんな方《かた》?」  一枝《かずえ》がたづねた。 「どんな方つて、――帝國鑛業《ていこくくわうげふ》つて、會社に務めてる方なンですの‥‥さつき、夕方の汽車で、郷里《きやうり》の方へおかへりになつたンですの‥‥」  郷子はもうかなり出來てゐる千人針《せんにんばり》の布を押入から出して來て、久子と一枝に縫《ぬ》つて貰つた。――お使ひに行くにも、錢湯《せんたう》へ行くにも、一寸の間も利用して、郷子は佐山《さやま》への千人針を持つて歩いてゐたのだ。  錢湯では着物《きもの》を着かけてゐるひとも、裸《はだか》のひとも、こゝろよく郷子の千人針をとほしてくれた。 「嘉兵衞《かへゑ》さんも、二三日前に上海《シヤンハイ》へ行つたのよ。――戰爭はもつと續くンですつてね‥‥」 「ひどくなるのでせうか?」 「支那も、長期抗戰《ちやうきかうせん》なンて云ふンだから、やつぱり、當分、續くンでせうね‥‥」  さう云つて、久子が坐《すわ》つたまゝコートをぬいでゐる。 「赤《あか》ちやん達、どうなさいまして?」 「あゝ、子供達《こどもたち》?――小さい女中が來たンで置いて來ちやつたの、――ところで、あなた、その會社どの位くれるのよ?」 「ほんの少し‥‥」 「――少しつて‥‥まア、やれるンならいゝわ。――さうね、當分《たうぶん》、獨《ひと》りで、せつせとお働きなさい。戀愛《れんあい》なンかしないでね‥‥」 「あらア、そんなこと‥‥」 「ほんたうよ、――二十四五までは、せつせと働《はたら》くといゝわ。――それこそ、貯金でも出來るやうだつたら貯金《ちよきん》してね。――男のひとより、お金の方が大切よ、自分で働いてりやア、びく[#「びく」に傍点]ともすることなンかないわ‥‥」 「お姉《ねえ》さんたら、すぐ、あんなこと云ふのよ‥‥」  一枝が舌の上の茶殼《ちやがら》を指でつまみながら笑つてゐる。  郷子は(戀愛《れんあい》なンかしないでね)と云つた、久子の言葉に、何と云ふこともなく、汽車に乘つて行つた新一のことを考へてゐた。  煙草にマツチの火をつける時、煙草を咥《くは》へた下唇《したくちびる》をつきだす癖がある‥‥(佐山さんは、もう、どの邊かしら‥‥)郷子は、久子の言葉に、額《ひたひ》に冷い滴《しづく》のかゝつたやうな氣持になつた。 「私なンか、いまの氣持《きもち》が若いときにあつたらねえ、もつと幸福な道を歩《あ》ゆンでゐたと思ふわ‥‥」 「お姉さん、だから、口惜《くや》しいつて云ふのでしよ‥‥」 「えゝ、ほんたう、――私が、あなたたちのやうだつたら、もつと、もつと、色んなことに努力《どりよく》するわねえ‥‥」  どこかの部屋でヴアイオリンの音がしてゐる。風が出たのか、硝子窓《ガラスまど》ががたがたゆれてゐる。 「郷子さん、こゝから、全線座《ぜんせんざ》つて、近いでせう? ニユースでも觀にゆかない?」  久子が自分の腕時計を眺《なが》めて云つた。  郷子は、映畫《えいぐわ》をみる氣持にはなれなかつた。弟へあてゝ書いた手紙を袂《たもと》にして、久子と一枝を、バスの通りまで送つてゆかうとおもつた。 [#9字下げ]○  今日は立春《りつしゆん》である。あたゝかい陽射《ひざ》しが、窓下の鋪道にきらきら光つてゐた。 (佐山さんは、いまごろ、長野《ながの》に着いたころかしら‥‥)  郷子は呆《ぼ》んやり事務机に凭《もた》れて、窓の外を眺めてゐた。走つてゆく電車、自動車、バスやトラツク、すべてがあわたゞしい。  昨夜《ゆふべ》は節分だつたのか、事務机の前の、狹《せま》い書類立の横に、大豆の彈《はじ》けたのが一つころがつてゐた。 (鬼は外、福は内‥‥)  敬太郎が桝《ます》の豆を手づかみにして、家のなかをぽそぽそと撤いて歩いてゐるのが瞼《まぶた》に浮んで來る。  平造は神棚《かみだな》や佛壇にお光《あか》りを上げてゐるだらう。繼母《はは》が煮〆を煮てゐる。マツヱが風呂を焚きつけてゐる‥‥。節分の晩は、豆を撤《ま》いたあと、一年の厄《やく》おとしに、家ぢゆうで風呂へ這入るのが家の習慣《しふくわん》であつた。  今年の節分はどんなだらう。――父が怒《おこ》つた顏をして、郷子の古い箪笥《たんす》や机の上に、節分の豆を叩きつけてゐるところがちらちらする。  郷子は眼の前にころがつてゐる豆をひろつて、前齒《まへば》で噛《か》んだ。乾いた豆だつたが、噛むと田舍の土のやうな味《あぢ》がした。 「植村《うゑむら》さん」  小見山が、今日は新しいダブルの、紺の背廣《せびろ》を着て、郷子のゐる事務室へ這入《はい》つて來た。窓ぎはへ立つて、ポケツトからセーム革《がは》を出して、眼鏡《めがね》をはづして拭きながら、 「佐山は、明日ですか? 戻《もど》つて來るのは‥‥」  と訊いた。 「はア、何だか、明日の晩、上野《うへの》へお着きになりますとか、おつしやつていらつしやいましたけど‥‥」 「あいつも、中々、忙しいンですね‥‥歸る時間《じかん》はわかつてゐますか?」 「――えゝ、時間をおきゝしたのですけど、いゝンですよツて、時間をおつしやらないンですもの――明日《あす》、夜、うかゞつてみようと思ふンですけど、それに、荷造《にづく》りをなさる、お手傳ひもありますし‥‥」 「荷造りもまだなンですか?――仕樣《しやう》がないなア‥‥」  郷子は、新一とボートに乘つたりしたことを考へて赧《あか》くなつた。――部屋の隅でタイプを打つてゐる宮田《みやた》と云ふタイピストが、時々小さい聲で鼻唄《はなうた》をうたつてゐる。  郷子は机のひきだしから、千人針の布《きれ》を出して小見山に見せた。 「へえ――短日月《たんじつげつ》に、よく出來ましたねえ‥‥みんな出來たンですか?」 「はア、すつかり、――何もさしあげるものがないンで、一|生懸命《しやうけんめい》大馬力《だいばりき》でやりましたの‥‥」  けたゝましく晝のサイレンが鳴《な》つた。  小見山は眼鏡をかけると、セーム革を腰のポケツトにしまひ、腕時計《うでどけい》をサイレンにあはせてゐる。 「どうです、御飯《ごはん》を食べに行きませうか?」 「えゝ‥‥私、お辨當《べんたう》を持つて來てゐるンですけど‥‥」 「――いゝぢやありませんか、外《そと》はぽかぽかしてるし、お茶でも喫《の》みに行きませう‥‥」  給仕や小使が、黒い藥鑵《やくわん》をさげて扉を出たり這入つたりしてゐる。ついたての向ふの製圖《せいづ》を描いてゐた二三人の社員《しやゐん》が、がたがた机から離れてゐる樣子だつた。 「おい、宮田さん、お茶でも喫《の》まない?」  小見山が聲をかけると、グリンのジヤケツを着《き》た宮田《みやた》が、男のやうにうゝつと大きな伸《の》びをしてこつちを向いた。 「今日は四日かな‥‥ねえ、兎に角、戸外《そと》へ出ませう、――日比谷公園《ひびやこうゑん》でもぶらついて來ようぢやありませんか、木や草をみて日向《ひなた》ぼつこもいゝですよ‥‥」 [#9字下げ]○  東京へ戻《もど》つてみると、東京は雪もなく、信州《ゐなか》よりずつとあたゝかい。机の上には二三通の祝電が來てゐた。  新一は着物に着替《きか》へて、電氣のコードをひくゝさげて、本箱や、押入《おしい》れのなかを整理しはじめた。 「おい、何時《いつ》戻《もど》つたンだい?」  小見山と岡部が、大きい跫音《あしおと》をさせて梯子段《はしごだん》をあがつて來た。――荷造りを早く濟ませて、郷子をさそつて、何處かで晩飯《ばんめし》でもたべようと考へてゐたところだつたので、新一はどぎまぎしながら、襖《ふすま》をあけた。 「おい、何時戻つたンだ?」 「やア、さつき、歸つて來たンだ‥‥」 「荷造《にづく》りは出來たのかい?」 「いや、まだゝよ、――いま、やりつゝあるんだ‥‥」 「手傳《てつだ》つてやるよ、――田舍はどうだつた!」 「うん‥‥」 「いやにはつきりしないぢやないか‥‥」  岡部がインバネスを壁《かべ》にかけながら云つた。  小見山は風邪《かぜ》をひいたとかで、マスクの下で咳《せき》をしてゐる。――階下でおぼえのある戸のあけかたをして、郷子の聲がしてゐた。新一はすぐ梯子段《はしごだん》のところへ行つた。郷子が、走《はし》つて來ましたのよ、と云つて、白い息《いき》を吐《は》いて梯子段をあがつて來てゐる。  新一は、自分の胸で郷子の躯《からだ》を受けとめてやりたいやうな、焦々《いら/\》した、せつぱ[#「せつぱ」に傍点]つまつたものを感じ、そこへつつ立《た》つてゐた。 「あら、お客樣《きやくさま》でいらつしやいますか?」 「小見山君《こみやまくん》と、もう一人‥‥」 「よろしうございますの?」 「どうぞ‥‥」  郷子も何かあわたゞしい氣持《きもち》だつた。そのあわたゞしさが、兩の膝小僧《ひざこぞう》をがたがた震はせてゐる。 「やア、いらつしやい‥‥」  小見山がマスクを取つて郷子に挨拶《あいさつ》をした。立つてゐた岡部も小見山に紹介《せうかい》をされて、あわてゝ郷子に挨拶をした。 「この荷物《にもつ》はひとまづ、俺の方へ運んでいゝんだな?」 「うん、明日、運送屋《うんそうや》をむけるから――どこへでもはふりこんでおいてくれよ‥‥」  小見山はさつきから床《とこ》の間へ腰をかけて、時々、(こんなものも讀んでるのかい、驚《おどろ》いたねえ‥‥)と云ひながら、積み重ねてある本の頁《ページ》をめくつてゐる。 「小見山の處へ、いつぺんに運《はこ》べんやうだつたら、俺のとこへも預《あづ》かつていゝよ‥‥」  岡部が行李《かうり》に細引をかけながら云つた。新一は默つて、電氣のそばにつゝ立つてゐる。郷子は白いシヨールを、震《ふる》へる膝《ひざ》の上でくるくるとたゝんで、袂を八ツ口のなかへたぐしこんでゐた。 「あなたは、そこで見ていらつしやい、――この、二人の男に任《まか》しておけば澤山《たくさん》ですよ‥‥」  新一がひび[#「ひび」に傍点]のはいつた火鉢にしやがんで、ぶつきらぼうに煙草《たばこ》に火をつけてゐる。何氣なく、郷子が新一の方へ顏《かほ》を擧げると、新一の眼が熱つぽくみえた。郷子は震《ふる》へる膝を強く疊に押しつけて坐《すわ》りながら、小さい聲で、 「でも、何か、お手傳ひさせて戴《いたゞ》きますわ‥‥何でもさして戴くつもりで來たンですもの‥‥」 「おい、佐山、細引《ほそびき》が足りないぞオ‥‥」  岡部が、羽織をぬぎながら、行李《かうり》に馬乘《うまの》りになつてゐる。 「私、買《か》つて參りませう‥‥」  郷子が立ちあがると、新一が怒《おこ》つたやうに云つた。 「あなたは、そこへぢつ[#「ぢつ」に傍点]としていらつしやい! 細引《ほそびき》なンか、何でもいゝよ、足りなきや、そのまゝでいゝぢやないか、大したものも這入《はい》つちやゐないンだから‥‥」 [#9字下げ]○ 「よし、俺が、細引きを買つて來る。次手《ついで》に何かいるものはないか?」  岡部が羽織《はおり》を着て、壁のインバネスを肩にひつかけた。 「あゝ、煙草を買つて來てくれ、――それから蜜柑《みかん》でも少し、どうだ?」  小見山が、小錢《こぜに》を出しながら火鉢のそばへ來た。佐山はさつきから默《だま》つてゐる。郷子は散らかつてゐる新聞や、紙屑《かみくづ》をまるめてゐたが、妙に膝頭《ひざがしら》が震へて仕方がなかつた。 「煙草《たばこ》は何だい?」  岡部が襖《ふすま》に手をかけてきいた。 「うん、光《ひかり》だ。おい、これで三ツほどたのむ‥‥あとは蜜柑だぜ」 「よし、光だねえ‥‥」  岡部が降りて行くと、佐山は坊主《ばうず》になつた頭を火鉢の上へ突き出して、二三度、雲垢《ふけ》をおとすやうな恰好《かつかう》をしながら、 「いよいよ、明日だなア‥‥」  と云つた。 「面白いもンだねえ、だんだん、また興奮《こうふん》して來てゐるンだ。――新聞をみてゐても、石油臭い、臭氣《しうき》だけが、つんつん眼に來るんンだ。吹雪《ふぶき》のなかを走つてゐる處ばかり頭に浮んで來て仕方がない。」 「いや、いざ、兵隊《へいたい》になつてしまへば、また、違つた落ちつきが出て來るンぢやないかなア、――義兄《ぎけい》が‥‥これは海軍の軍人なンだがね、此間、久しぶりに戻つて來て、まア、一|緒《しよ》に飮んだンだけど、厭《いや》に肚《はら》が据つてゐて、僕と同じ年なンだが、云ふことが、まるでもう大人《おとな》なンだよ‥‥」 「うん、――いや、兵隊になつてしまへば、それは、また、それとして、落《お》ちつくンだ。――郷里へ戻つて、久しぶりに親爺《おやぢ》にも逢つたが、家の中へ這入るなり、早く戰場《せんぢやう》へ出たいと思つたなア‥‥今度は、まア、出征するンで僕《ぼく》に云ひたいことも默《だま》つてゐたやうだつたけど、――弟の方だけは農學校へでもやつて、手元《てもと》へ置くと云ふンだ。自分で、勝手に僕を東京へ手放《てばな》しといて、僕を冷《つめ》たい奴だと云ふンだからねえ‥‥」 「赤坂《あかさか》の方へも長く行かないが、今度、別れに行つたの?」 「あゝ、叔母も僕には、もう、手《て》を燒《や》いてるさ‥‥此間、一寸、寄《よ》つてみたら、少しはこたへたらしくて涙ぐんでゐたがね」 「美智子君《みちこくん》はどうなンだい?」 「うん、相變《あひかは》らず、きやつきやつやつてたよ‥‥」  小見山がふつと立つて、階下《した》の便所へ行つた。郷子はすぐ、部屋の隅に置いた風呂敷包《ふろしきづゝ》みをほどいて、千|人針《にんばり》の包みを新一のそばへ出した。 「あのう、何も出來ませんのでね、――私、一|生懸命《しやうけんめい》に、千人針をつくりましたの‥‥お荷物のなかへ入れて、持つて行つて戴《いたゞ》けませんでせうか‥‥」  新一は、一寸《ちよつと》頭《あたま》をさげたが、すぐ、火箸《ひばし》を握つて、固い灰の火をかきたてゝゐる。一分、二分、三分、湯が噴《ふ》きこぼれるやうな速さで、時間がたつてゆく。階下《した》から澤山の時計のセコンドが、チクチク疊《たゝみ》の底から、聽えて來るやうだつた。 「いろいろ濟みません‥‥」 「いゝえ‥‥もつと、何《なに》か持つて行つて戴《いたゞ》きたいンですけど‥‥」  郷子は風呂敷《ふろしき》をたゝむと、手の所在に困つて、片手をそつと、火鉢《ひばち》のふち[#「ふち」に傍点]に持つて行つたが、自分の手の指《ゆび》があまり震へてゐたのでそつとまた膝へ手を戻して、乾いた咳《せき》をした。 「まア、元氣で、やつてゐて下さい‥‥」 「はア、もう、一生懸命で働《はたら》くつもりでございます‥‥」  まだ小見山は上つて來ない。いびつに高く積《つ》み重ねてあつた床《とこ》の間の本が、不意にどしんと、疊へ雪崩《なだ》れ落ちて來た。 [#9字下げ]○  小雨《こさめ》のきさうな、どんよりした空であつた。郷子は早く起きて、佐山の下宿《げしゆく》へ行つたが、佐山はもう起きてゐて、背廣姿で、階下《した》の茶の間でかどで[#「かどで」に傍点]の酒を祝つて貰《もら》つてゐた。 「お早うございます‥‥」 「やア、早《はや》いですねえ‥‥どうも有難う」  階下の時計屋の親爺《おやぢ》さんが、板の間に腰をかけてゐる郷子にも杯《さかづき》を持つて來た。大きな杯の底には、ぶつちがひの日の丸の國旗の模樣《もやう》がついてゐた。 「やア、をぢさん、どうも有難う――元氣《げんき》で征《い》つて來ますよ、をばさんも、早くよくなられンといかんですねえ、今日は熱はどうですか?」  膳の前に中腰になつて、新一が襖《ふすま》の向うへ聲をかけてゐる。 「やア、どうも、濟《す》みません――もう、小見山達もやつて來る時でせう‥‥」  新一が先に二階へ上がつて行つた。部屋《へや》の眞中に、中學生の持つやうな白いヅツクの鞄《かばん》が一つあるきりで、町内から貰つたと云ふ佐山新一の名前を書いた、薄《うす》い絹《きぬ》の小旗が二本、がらんとした床《とこ》の間に立てかけてあつた。――新一は、大きい音をさせて窓《まど》を開けると、軒の紐に吊した濡れ手拭をつかんで、力まかせに、ぎゅうぎゅう絞《しぼ》つて滴《しづく》をきつてゐた。  郷子は、此間《このあひだ》、一枝に貰つたアメリカのチヨコレートの紙包みを、そゝくさと、鞄のそばへ持つて行つた。ぱんぱんと、濡《ぬ》れ手拭をはたいて、顏《かほ》[#「かほ」は底本では「かへ」]を拭いてゐた新一は、立ちあがる郷子の肩をつかんだ。ふつと石鹸《せつけん》の匂《にほ》ひがした。郷子は一|瞬《しゆん》、眼を大きくみはつたけれど、すぐ、袂を顏におほふた。  梯子段《はしごだん》を踏む音がしてゐる。  新一はまた窓《まど》を開《あ》けた。郷子はそこへ坐つた。 「佐山さん‥‥」 「はア‥‥」 「町内の人へ、挨拶《あいさつ》して貰へませんかねえ、――何でもいゝのですよ、一言、何か、喋《しやべ》つて下さいな‥‥」  階下の親爺さんが、梯子段《はしごだん》の途中から新一を呼んでゐる。  新一は窓《まど》を閉《し》めると、小さい聲で、 「何か、あなたの、何時《いつ》も持つてゐるものを下さい‥‥」  と、ぶつきら棒《ばう》[#「ばう」は底本では「ぼう」]に云つた。階下では、町内の人の出入りがあるのか、子供達の歌ふ、まちまちな軍歌《ぐんか》の聲がしてゐる。 「何《なに》もないですけど、‥‥何がいいンでせう?」 「何でもいゝンです‥‥」  郷子が、周章《あわ》てゝハンドバツグを開けた。ハンカチ、小さい鏡、コンパクト、紅、財布、どれも新しいものではない。 「あゝ、これ、これは新しいンですのよ‥‥」  郷子が花模樣《はなもやう》のある、白いコンパクトを出して、一寸、帶の上にあてた。 「ぢやア、それを下さい‥‥」  階下に岡部《をかべ》の聲がしてゐる。新一は郷子のコンパクトを、すぐ、胸のポケツトにしまつた。 「おーい‥‥」  岡部が、澤山《たくさん》の署名《しよめい》のはいつた、派手な日の丸の旗を持つて、階下の土間《どま》に立つてゐた。新一は、明るくぱつと開いたやうな表情《へうじやう》で、 「ぢやア、握手《あくしゆ》!」  と、郷子の前へ大きな手をひらいた。 「元氣で‥‥」 「えゝ‥‥」 「手紙《てがみ》、下さい‥‥」 「はア‥‥」  新一はすぐ、ポケツトから、赤い應召《おうせう》のたすきを出して肩へかけた。 [#9字下げ]○ 「おい、小見山、銀座《ぎんざ》に出て茶でも喫《の》むか?」 「うん」 「どうだ、何處《どこ》がいゝ?」 「何處だつていゝよ」 「何處だつていゝよつていつたところで、お前の方が通《つう》なンぢやないか‥‥」 「いや、銀座《ぎんざ》はあまり好かんから、何處も知らンねえ――」 「ふうん‥‥それぢや、日比谷邊《ひびやへん》だけかい、知つてゐるのは?」 「まあ、そんなものだね‥‥」  岡部と小見山は銀座へ出て、鳩居堂《きうきよだう》の硯《すゞり》の展覽會を一寸覗いて、二人は不二屋の二階へ上がつて行つた。  窓近くの椅子《いす》へ腰《こし》をおろすと、岡部はすぐ、荷物と帽子を空いた椅子に放つて、 「おい、銀座と云ふところは、不思議《ふしぎ》な人種が歩いてゐるねえ‥‥」  と、如何にも感にたへたやうに、賑やかな鋪道《ほだう》を見降してゐる。 「全く、どこに戰爭《せんさう》があるのかと思ふやうだ。――みんな、何の目的であゝぞろ/\歩いてゐるのかねえ?」 「うん‥‥」 「こゝにゐる奴《やつ》たちも、何のために、あゝガツガツ食つてゐるンだい?」 「知らんよ」 「ねえ、あすこにゐる、赤いジヤケツの年増《としま》は、眼をつぶつて食つとるよ‥‥」 「おい、紅茶《こうちや》か、コーヒーか?」 「俺か、――俺はコーヒーだ、一寸《ちよつと》、腹《はら》も空いたなア‥‥」 「あのパンは美味《おいし》かつたねえ‥‥」 「兵隊も親切《しんせつ》なものだなア――兵隊にはいると、すぐ、あゝして食事をくれるんだねえ――パン拾個《じつこ》佐山、見送《みおく》りの友に分けか‥‥」 「何だ。そりやア?」 「パン拾個。の説明《せつめい》さ‥‥」  やがて、二人の前へ、コーヒーが二つ運ばれて來ると、岡部がランチを二|人前《にんまへ》註文《ちうもん》した。 「今日はどうするンだ?」 「どうするつて、こんな大きな風呂敷包《ふろしきづゝ》みをさげてちやア歩けンぢやないか‥‥」 「うん‥‥どうして、佐山は、赤坂《あかさか》をあんなにきらふのかねえ――學資はあすこから出たんだらう?」 「そんな話だねえ、程のいゝ養子《やうし》みたいなもンだといつてゐたが、あんな悠々たる大乾坤居士《だいけんこんこじ》が、きらふンだから、あの叔母さんにはよほどのけつかんがあるンだらう‥‥」 「その荷物《にもつ》は俺が預《あづか》るとして、お前、今日は三鷹へ歸るにしても、俺の處へ泊つて行かんか?」 「何かいゝことでもあるのかい?」  ランチが運ばれて來ると、岡部は辛子《からし》と鹽《しほ》をふんだんに肉にまぶしてゐる。 「おい、岡部、見てみろ、高島田《たかしまだ》の國防婦人會が行くぞ‥‥」 「うん、あの割烹着《かつぱうぎ》は、中々勇壯活溌でいゝぢやないか――藝者だねえ‥‥」  岡部はパンをむしり、野菜《やさい》を頬《ほゝ》ばり、水を飮んだ。 「おい、幾太郎《いくたらう》」 「何だよ?」 「中々《なか/\》、いゝねえ‥‥」 「何が?」 「郷子といふ女性《ぢよせい》さ‥‥佐山も醉つぱらふと、あんなひろひものをして來るんだねえ」 「まア、それも、これも人生《じんせい》といふところだらう‥‥」 「お前、佐山に頼《たの》まれたさうだが、大丈夫かねえ? お前は塵尾居士《ほつすこじ》だからなア‥‥」 「塵尾居士《ほつすこじ》とは何だ?」 「いや、すぐ、なむあみだぶつと拂《はら》ふからさ、はツはゝゝ‥‥どうだ、胸に覺えがあるだらう?」 [#9字下げ]○  士官學校《しくわんがくかう》の馬場《ばば》では、白い上着を着た生徒が、十四五人ばかり、馬を乘りまはしてゐた。堤の上へ上つて、通行人がのんびり眺《なが》めてゐる。  岡部と小見山も暫らく教練《けうれん》を眺めてゐたが、岡部は荷物を左の手に持ちかへると、 「おい、もうすこし暖《あたゝ》かくなつたらまた馬に乘らうぢやないか?」  と、堤《どて》からゆつくり降りて來た。小見山は光《ひかり》を吸《す》ひつけながら交番の横の路地へはいつて行つてゐる。 「馬もいゝぞ‥‥」 「うん‥‥」 「おい、小見山《こみやま》」 「何だ?」 「かうしてゐるところは、質屋《しちや》から歸りのやうだねえ。まさか、佐山新一のぬけがら[#「ぬけがら」に傍点]をかゝへて歩いてゐるやうには見えンだらう‥‥」  商店の硝子戸に、二人の姿が飄々《へう/\》と寫つてゐる。 「どつか、そのうち、高い山へでも登《のぼ》るかな‥‥」 「山もいゝが、馬《うま》もいゝよ。――長期建設《ちやうきけんせつ》には馬にかぎる‥‥」 「馬は金《かね》がかゝるよ‥‥」 「山の方がよつぽど金がかゝるぞ、――それこそ、山が荒れて、麓《ふもと》の温泉場《をんせんば》なンかで長期建設でもしてみろ、大した金がかゝるぞ」  四谷坂町の、狹《せま》い段々の多い路地へ、二人ははいつて行つた。どこからか沈丁花《ちんちやうげ》の花の匂ひがたゞようて來る。狹い空地で、子供達がたこを揚《あ》げてゐた。空地《あきち》に對して、小見山のアパートがある。  木造《もくざう》の、緑《みどり》のペンキ塗りだが、古びてゐて壁には枯れたつた[#「つた」に傍点]が這つてゐた。  部屋は東向きの明るい八疊、大きな机《つくゑ》が眞中に置いてあつて、本や雜誌が壁《かべ》ぎはに積み重ねてある。 「時々、正住《まさずみ》先生《せんせい》はやつて來るのかい?」 「いや、めつたに來ないよ」  小見山は籐椅子の上へ外套《ぐわいたう》をぬぐと、すぐガスストーヴに火をつけた。 「佐山の女性《ぢよせい》は、あれはいくつ位だ?」 「いやに氣にするねえ、――お前こそ、塵尾居士《ほつすこじ》ぢやないのかな‥‥」 「莫迦《ばか》をいへ‥‥」 「――一|應《おう》は東京へ出て來るンだね‥‥」 「そりやア、男も女も同じさ‥‥たゞ、この都會《とくわい》に勝つか負けるかだ、――だが、よく空拳《くうけん》で出て來たもンだ、ねえ‥‥」  岡部は部屋の隅に積み重ねてある五枚の座蒲團《ざぶとん》の上に腰を降ろした。北の壁には、 [#ここから2字下げ] 齷齪《あくせく》と名譽のみ求めて ただ最高《さいかう》のものと信ずる者は 天の廣き空間《くうかん》を見よ 又地上の狹《せま》き區域《くゐき》を あはれ人間の如何なる盛名《せいめい》も その小範圍《せうはんゐ》をさへ充し得ぬ [#ここで字下げ終わり]  と、ペン[#「ペン」は底本では「ベン」]で走り書きした紙片が鋲《びやう》で張りつけてあつた。 「こりや何だ?」 「うん‥‥」 「また、例《れい》の感《かん》ずるところありてか‥‥あはれ人間の如何なる盛名も、その小範圍をさへ充し得ぬ‥‥なるほどねえ、こんなのは、國に敗れた奴の歌だらう?」 「うん、まあね‥‥ボエテイウスだ」 「ふうん‥‥ボエテイウスとは何だ?」 「國に敗《やぶ》れた奴さ‥‥」 「少し國に敗れる奴も出て來ンといかんねえ、糞《ふん》づまりになるよ‥‥後進の青春が、灰朽ちてしまふ、さう思はないかね?」  岡部は手をのばして、机の上に放つてある女文字《をんなもじ》の繪ハガキを取つた。 「植村郷子《うゑむらくにこ》か、就職の禮状だね、――中々しつかりした文字だなア‥‥」 [#9字下げ]○  汽車はしばらく、轟々《ぐわう/\》と凄まじい音をたてゝ鐵橋の上を走つてゐた。  新一はふつと眼をあけて、暗《くら》い窓のそとを覗《のぞ》いてみた。雪が降つてゐる。 「おい、雪《ゆき》だねえ‥‥」  新一と同じ伍長の、前の席にゐた兵頭《ひやうどう》が、胸のポケットからニツケルの新しい煙草《たばこ》ケースを出して煙草を一本、唇《くち》に咥《くは》へた。 「みぞれみたいだねえ、いやに、しやぶしやぶしてゐる‥‥」  新一は、兵頭《ひやうどう》の煙草にマツチをすつてやり、自分も一本咥へた。 「おい、〇〇へ着くのは何時頃《いつごろ》になるンだい?」 「さうさ、どこへも停《とま》らないんださうだから、明日の夜までには着くだらう‥‥」  兵頭《ひやうどう》[#「ひやうどう」は底本では「ひやうど」]は煙草を美味《うま》さうに吸ひこみながら、白い襟布を窮屈《きうくつ》さうに指でゆるめてゐたが、 「まア、何だねえ、これも大きな運命《うんめい》といふのかねえ‥‥」  と、思ひ出したやうにそんなことをいつた。さつきまで軍歌《ぐんか》をうたつて騷《さわ》いでゐた兵隊も、おほかたは居眠《ゐねむ》りを始めてゐる。便所に近い席にゐる二、三人の兵隊《へいたい》だけが軍歌をくちずさみながらトランプをしてゐた。スチームがとほつてゐるので、車内は革臭《かはくさ》い匂ひがしてゐる。 「おい、あの旗《はた》は誰のだ?」  兵頭《ひやうどう》が、すぐそばの網棚の上からぶらさがつてゐる日の丸の旗を顎《あご》でさした。新一がふりかへつてみると、田中君子《たなかきみこ》とか、櫻井芳江とか、近藤千代子とか、女の名前ばかり書いた旗《はた》がさがつてゐた。 「うん、俺の班《はん》の奴だよ、――親爺が女學校《ぢよがくかう》の小使をしてゐるンださうだ‥‥」 「はゝん、女學生のサインか‥‥中々《なか/\》洒落《しやれ》たものだねえ‥‥」  新一はもう一度ふりかへつて、日の丸の旗《はた》をみあげた。 (郷子《くにこ》といふサインはないな‥‥)  五、六日前、あわたゞしく別れた日の、郷子の固くなつた表情《へうじやう》が瞼《まぶた》に浮んで來る。だが、しつかり瞼を閉ぢてゐないと、あの佛像《ぶつざう》のやうな顏はなか/\はつきり浮んで來ない。 (寫眞《しやしん》でも、一枚貰つて來ればよかつた‥‥)  握手《あくしゆ》をした時、まつはりつくやうな冷たい柔かい手だつた。膳所《ぜぜ》の女だといつてゐたが、膳所の町から眺めた比良《ひら》の夏の峰が、新一にはいまはなつかしく思ひ出される。 「おい、琵琶湖《びはこ》は、朝になるのかねえ?」 「――さア、夜明《よあ》けごろぢやないかな」  兵頭《ひやうどう》は節《ふし》をつけた聲を出してあくびをした。國を立つ日の萬歳《ばんざい》に‥‥すぐそばでうす眼を開けて軍歌を歌《うた》つてゐる兵隊がゐる。  新一は小さいズツクの鞄《かばん》の中から、新しいハガキを一枚出してゐた。(一|瀾《らん》を追へば、千瀾走るだ。今はまさにそんな時代になつて來た。大律《たいりつ》はこばむことは出來ない。僕はいま、征途《せいと》への車中にあつて、君《きみ》のことを考へてゐる。)――君のこと‥‥新一は君のことの文字で息《いき》が詰つてしまつた。ええいつそ、岡部《をかべ》に出してやれ、郷子へはまたあとのことにしよう‥‥。(非常に元氣だ。近來、こんな壯健な精神状態《せいしんじやうたい》になつたのはまれ[#「まれ」に傍点]なことだ。何馬力といふのか知らないけれど、溢《あふ》れるばかりの元氣さでゐる。俺は戰爭に行く資格《しかく》のある男だといふ自信もついた。此間は、いざさらば、雪見《ゆきみ》に轉ぶところまでといつたが、いざ、かうして軍服《ぐんぷく》を身につけてみると、いざ征かむ、雪見に進まん大陸へだよ、――消極的《せうきよくてき》な氣持が吹きとんでしまつて、いまは實に正確なゼンマイをすゑつけたやうな積極的《せつきよくてき》な氣持でゐる。植村郷子のことは、一|應《おう》君《きみ》にもよろしく頼《たの》む。)  東京《とうきやう》市外《しぐわい》三|鷹《たか》‥‥、新一はペンで表を走り書きしてゐたが、おもひ出したやうに郷子をよろしく頼むの所は消《け》してしまつた。 (あの女《をんな》はあの女でしつかりと一人歩きをすればよいではないか‥‥) [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ]  ――僕はどんなに叱《しか》られたかしれません。お父さんとは、ずつと口も利《き》かないのです。お母さんの話によりますと、實際《じつさい》困《こま》つた金でもあつたやうです。昨夜も、お父さんは酒を少しのんで歸つてマツヱに學校をやめるやうに呶鳴《どな》つてゐました。  何時も姉さんと歩いた、義仲寺《よしなかでら》の前の、今西油店の空地の處ね、あそこへ昨日《きのふ》はぶら/\散歩して、崖《がけ》の下の汀で、いつとき姉さんのことを考へてゐました。  いま、比良《ひら》の雪はとても綺麗ですよ。小石の一つ一つ數《かぞ》へられさうな水をみてゐると、僕は、こんな狹いところにゐるのが厭《いや》になりました。――歸り、義仲寺《よしなかでら》へ行つて、あすこの芭蕉塚のところで、姉さんを毆《なぐ》つた子供の時のことなんか思ひ出しました。同封の枯れた芒《すゝき》は、旭將軍《あさひしやうぐん》の墓前にあつたものです。流矢にあたつたり、泥田にはまるのは厭だけど、僕も、義仲のやうな迫力《はくりよく》を持ちたいものだとおもつてゐます‥‥。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は流れ落ちる涙を、指《ゆび》で子供のやうにこすりながら、弟の清純《せいじゆん》な手紙を讀んで、自分の躯《からだ》が、いまは、ぼろぼろに錆《さ》び果てゝゐるやうにおもへた。  劍《けん》のやうに光つた、比良《ひら》の峰《みね》の雪を、毎年、あの茶の間の窓から眺めたものである。湖上を行く、白いスキー船の灯《ひ》を、弟と二人で、二階からおーい、おーいと呼んだ日の記憶《きおく》もよみがへつて來る。敬太郎が鹽津《しほつ》の親類から山鳥をもらつて、得意さうにスキー船で濱大津《はまおほつ》に戻つたのをマツヱと二人で迎《むか》へに行つたこともある。  手紙のなかの、枯れた芒《すゝき》の穗を郷子は何度も嗅《か》いでみた。――もりもりと働きたいと思つてゐる氣持は、いまも燃えるばかりではあるけれど、何かしら、苦しい思ひが、段々《だん/\》心《こゝろ》の底に沈んで來てゐる。  固く握手して、コンパクトだけを記念《きねん》に、戰場へ持つて行つた新一への思慕《しぼ》が、日夜、郷子の若い胸《むね》をゆすぶつて來る。 (私は、あのひとが好《す》きなのかも知れない‥‥)  郷子は手紙を事務服《じむふく》のポケツトへしまふと、日比谷公園の裏通りから、長驅《ちやうく》して宮城の方へ歩いて行つてみた。  晝の丸の内は、三々五々、サラリーマンの群が、晝食後《ちうしよくご》の散歩をこゝろみてゐる。楊子《やうじ》を咥へてゐる者、腰のポケツトに兩手《りやうて》をつゝこんでゐる者、肩をつなぎあつて、歌《うた》をうたひながら行く、若い女事務員の群――郷子は自分もグリーンの事務服《じむふく》を着て、ゆつくり歩いてゐるのがほこらしい氣持だつた。  出征者の家族《かぞく》のひと達なのだらう、旗を持つた老人達が宮城《きうじやう》を拜んでゐる。  郷子も敬々《うや/\》しく遙拜《えうはい》してから、そこへ立つて二重橋をぢつと眺めた。森々《しん/\》としたおもひが胸に溢れ、郷子は暫く、瞑目《めいもく》してゐた。  晴れて暖かな日だつた。宮城前の廣場《ひろば》の松も、枝々はしたゝるばかりに濃い緑《みどり》だつたし、芝生の黄《きい》ろい色も、まぶしく光つて見える。  郷子は、廣い宮城前《きうじやうまへ》の道を、車道の方へ歩いてゆきながら、さつきまでの、とらへどころもなかつた空漠《くうばく》さが、いまでは、雲散霧消《うんさんむせう》して、晴々として來てゐるのを感じた。 (どんな場合もくじけ[#「くじけ」に傍点]ないで焦《あせ》らず、急がずに、悠々と働くことだつて、佐山さんはおつしやつた‥‥)  占《うらな》ひを觀てもらつた、あの夜の新一との邂逅《かいこう》を、郷子は微笑して考へてもゐる。――敬太郎も、あの町《まち》から何かを求めて出たがつてゐるのだ。 (私達は若いのだもの、これから、努力《どりよく》さへすれば、どんな資格《しかく》だつて得られる。――お父さんは、長いこと生きていらつしたのだもの、娘や息子《むすこ》の氣持も、いまに了解《れうかい》して下さる時もあるだらう、きつとあるはずだわ‥‥) [#9字下げ]○  雜木林《ざふきばやし》の向ふに、焚火の煙があがつてゐた。春をひそめた土に勾《にほ》ひがしてゐる。黒土の畑の向ふをトラックが一|臺《だい》走《はし》つてゐた。 「完全な、頑強《ぐわんきやう》な、あなたの云つてる、つまり、新しい意志《いし》を持つた若い女の生活‥‥へえ、そんなもの、私、ちつとも信《しん》じないわ。――さうぢやない? 何年か、東京に暮《くら》してみると、山の手式にポーズを持つて生活してるものと、持たないで、淺草式《あさくさしき》に生活してるものと、この二ツね。――いつたい、いまの收入《しうにふ》だけで、私達は、どんな生活や、希望《きばう》を持てるつて云ふのよ‥‥」  宮田律子が、外套《ぐわいたう》を持ちかへてこんなことを云つた。――日曜日で、ぽかぽかした天氣《てんき》である。郷子は宮田律子《みやたりつこ》に誘はれて、南澤の松林のなかを散歩してゐる。亭々《てい/\》とそびえた松林のなかを、二人はゆつくり歩いてゐる。青い空に、赤肌《あかはだ》の松の木が晝《ひる》さがりのにぶい陽をうけて、描いたやうに赤く光つてゐた。 「かなしいわねえ‥‥」 「何がかなしいのよ?」 「うゝん、何《なん》でもないの‥‥」  急に、郷子の瞼《まぶた》の裏に、むくむくと雲のやうに湧《わ》きあがる澤山の新一の顏があつた。戰鬪帽をかぶつてゐる顏、ぐりぐり坊主《ばうず》の顏、郷子が肩掛《かたか》けを鼻さきへ持つてゆくと、思ひ出をさそふやうな古い肩掛《かたか》けの匂ひがした。 「いやな植村《うゑむら》さんねえ、――何もかなしがつたりすることなンかないぢやないの? いまはかうして散歩を愉《たのし》ンでればいゝのよ。身邊のことは、考へたつて仕方がないことよ‥‥私達、若いンですもの、遊びたいわ‥‥」  また、二人は松林のなかへ這入《はい》つて行つた。自由學園の男の子が二三人、自轉車《じてんしや》で松林を拔けてゐる。新しい自轉車がキラキラ光つてゐた。 「ねえ、宮田さん、戰爭《せんさう》はまだよつぽど續くかしら?」 「どうして?」  律子《りつこ》はうつむいて靴の紐をむすびかへながら、 「さうね、隨分《ずゐぶん》長《なが》びくかも知れない、とも思ふわね」  と、云《い》つた。 「ねえ‥‥」 「なあに?」 「私、お金《かね》がほしい‥‥」 「お金?」 「えゝ‥‥」 「隨分、澤山《たくさん》?」 「うゝん、そんなに澤山でもないの、――五六拾圓ほど‥‥」 「さうね‥‥」  律子《りつこ》はにやにや笑つてゐたが、急に立ちどまつて、 「ぢやア、それだけ借《か》してあげたら、あなた何時、そのお金、かへしてくれる?」  癖《くせ》のある律子の大きい眼に、郷子はまぶしいものを感じた。 「何時つて‥‥さうね、隨分《ずゐぶん》かゝりさうね」 「あら厭《いや》だ、心細《こゝろぼそ》いひとだ。――借りるひとがそんなぢやア、誰も借さないことよ」  二人は肩《かた》を寄せて笑つた。 「小見山《こみやま》さんに云つてみたらいゝぢやないの?」 「あら、いやだわア、そんなの‥‥」 「だつて、あのひとは、京都《きやうと》のお家いゝンでせう? しかも事務所ぢや、別格《べつかく》のひとなンですもの、――私、あのひとに、云つてみてあげませうか?」  郷子は急にハンドバツグを小脇《こわき》にはさんで、耳を兩手でふさぐやうにして、畑の小徑《こみち》を走りはじめた。律子は吃驚《びつくり》した表情だつたが、すぐ郷子のあとを追つて行つた。 「植村《うゑむら》さんてば! 厭なひとねえ、急に走つたりなンかして‥‥どうしたのヲ?」  律子が追《お》ひついて郷子の肩をつかむと、郷子は、眼にいつぱい涙《なみだ》をためてハアハア息をついてゐる。 [#9字下げ]○  昨夜、風をまじへて、降《ふ》りとほしてゐた雨も霽《は》れて、海の上はまぶしい位に青く光つてゐる。デツキに出て新一は水の上を凝《じ》つと見てゐた。 (鬪志を旺盛《わうせい》にして、一致協力、目的の貫徹に邁進《まいしん》することだと、漕艇部長の梶さんがよく云つてゐたが、自分は、學生生活《がくせいせいくわつ》にも別れて、一兵士として戰場《せんぢやう》へ向つてゐるのだ‥‥。梶さんの云つた、ボートの精神もまた、いま、征《ゆ》きつゝある、戰場の精神《せいしん》でもあるのだ。一クルーとして、水上《すゐじやう》を走つてゐた自分は、また、こゝにも、一クルーとしての團結《だんけつ》、滅私を感じつゝある‥‥。)  新一は、いまは兵隊《へいたい》であるけれども、戰場は初めてなのだ。十|字《じ》砲火《はうくわ》の集中するなかを描いてみたり、轟然たる戰車の進撃《しんげき》ぶりを空想してみたりしてゐる。  かなり、長い羽根《はね》を持つた鳥が二羽、白い空の向ふへ拔けて行つた。エンジンの音が非常《ひじやう》に長閑《のどか》である。 「おい、船と云ふのは支那語《しなご》でどう云ふのだい?」 「船《ふね》?」  兵頭《ひやうどう》が、板のサンダルをつゝかけて、手拭《てぬぐひ》でうしろ鉢卷をして、さつきから一人で體操をしてゐた。右舷にも左舷《さげん》にも日向ぼつこの兵隊《へいたい》でいつぱいだ。 「船‥‥と、一寸《ちよつと》待《ま》つてくれ、いま、帳面《ちやうめん》をしらべてみる‥‥」  兵頭《ひやうどう》が小さいノートをポケツトから出して、太い指《ゆび》で頁をめくつてゐる。 「あつた、あつた、チオアンと云ふンだ‥‥」 「船《チオアン》‥‥なるほど、ぢやア、海はどうだ?」 「はツははは‥‥大した試驗問題《しけんもんだい》ですな、そりやア、上海《シヤンハイ》のハイだらう‥‥」 「なるほど‥‥」  東北の林檎園《りんごゑん》の主人である、この兵頭の粗朴《そぼく》なひとゝなりを新一は愛してゐた。兵隊の雜談のなかにことひとたび、林檎《りんご》の話が出ると兵頭は膝を乘り出して、林檎の話に夢中《むちゆう》になつた。スターキングとか、デリシヤスとか、林檎の新種《しんしゆ》について口角《こうかく》泡《あわ》をとばして一席林檎談をやりはじめる。林檎《りんご》の話が席からそれてしまふと、兵頭《ひやうどう》は、もう、氣が拔けたやうに默つてしまひ、妙に呆んやり老《ふ》けこんでしまふのでもあつた。  兵隊達《へいたいたち》は、林檎の兵頭さんと蔭《かげ》で呼んでゐた。 「こんな、よい天氣《てんき》は、支那語でどう云つたらいゝンだ?」 「よい天氣かね、よい天氣と‥‥あつた、あつた、天氣很好《テイエンチーヘンハオ》と云ふだらうな‥‥」 「ふうん‥‥それぢやア、春天暖和《チコンテイエンノアンホー》と云ふのはわかるかい?」 「何? わからないなア、一寸《ちよつと》、こゝへ書いてみておくンなさいよ‥‥」 「春天暖和《しゆんてんだんわ》、つまり、春はあたゝかいですねと云《い》ふンださうだ」 「佐山伍長《さやまごちやう》はうまいことを知つてるねえ‥‥」  船艙からあがつて來た二三人の兵隊《へいたい》が、デツキの上の、バラツク造りの便所《べんじよ》へ這入つて行つたが、聲をそろへて軍歌《ぐんか》をうたつてゐる。 「おや、あの船《ふね》は何だらう‥‥」 「あゝ、あれも向ふへ進《すゝ》んでるねえ‥‥」 「御用船《ごようせん》かな?」 「さうかも知れない‥‥ぽかぽかして、いゝ天氣《てんき》だなア、軍服《ぐんぷく》を着てゐないと、どつか旅行でもしてゐるやうだ‥‥」  海は果てしなく展がり、空《そら》は晴れて、淡い白雲が悠々《いう/\》と流れてゐる。  頑張れ、頑張《ぐわんば》れ、艇速がのびて、オールがギラギラ光つてゐる‥‥淡青《たんじやう》の旗がひるがへつてゐる。そんな過ぎた日の或一|場面《ばめん》が、水の上に鮮かに浮《うか》んできてゐた。  耳の奧で、號砲《がうはう》のポンが鳴る。  敵艇を後にした時の快味《くわいみ》が、海を見てゐる新一の舌《した》をごくつと鳴らした。 [#9字下げ]○ 「おい、當番《たうばん》、一寸來てくれ」  デツキへ上る梯子段《はしごだん》の下で、當番が下士官《かしくわん》の靴をみがいてゐた。 「おい、一寸《ちよつと》、俺の眼を見てくれンか‥‥」 「どうしたのですか?」 「うん、石炭《せきたん》の粉のやうなものが、眼にはいつたンだ、――さつきから氣色《きしよく》が惡くて仕方がない‥‥」  電燈の眞下へ行つて、佐山《さやま》はコンパクトを出して眼を見てゐた。薔薇《ばら》ともつかず、水仙ともつかずの、粉白粉《こなおしろい》のふくいくたる匂ひが鼻さきをかすめる。  アルコールで手を拭いて、若い當番《たうばん》が佐山の眼をのぞきこんだ。  白眼《しろめ》のところが紅《あか》くなつて、涙がぽろぽろと下瞼《したまぶた》に溢れてゐた。 「軍醫殿《ぐんいどの》に云つて來ませうか?」 「いや、いゝよ、小兒科の先生《せんせい》にはわかるまい‥‥」  佐山《さやま》が唇邊で笑つてみせた。 「あゝ、ありました、ありました、とても大きい奴ですよ‥‥」  佐山の新しいハンカチの先きですくひとるやうにして、當番《たうばん》は大きな石炭殼の粉を瞼《まぶた》の裏からとり出《だ》してくれた。 「あゝ、清々《せい/\》した。――大きいねえ、これぢやア痛《いた》いはずだ‥‥」  兵頭は、風邪氣《かぜけ》だと云つて、點呼《てんこ》が濟むと、すぐ毛布《まうふ》をかぶつてうつらうつらしてゐる。電燈には黒い裂がかぶせてあり、錢型《ぜにがた》の光が積みかさねてある救命具《きふめいぐ》の上をぽつと照してゐる。  當番がガーゼで不細工《ぶさいく》な眼帶をつくつて來てくれた。佐山《さやま》は眼帶をしてうすべりの上へ寢轉ぶと、また、コンパクトを出して右の眼《め》を凝つと眺《なが》めてゐる。 (われ語《かた》らず、われおもはず、われたゞ限りなき愛、魂の底に湧出づるを覺《おぼ》ゆべし‥‥)  一つ覺えに覺えてゐたうた[#「うた」に傍点]をくちずさみながら、新《しん》一はコンパクトから、小さいパフを出して鼻《はな》のそばへ持つて行つた。  パフのぐるりは菫色《すみれいろ》の絹糸でかがつてある。 「おい、何時《なんじ》だい?」 「さア、十|時《じ》頃《ころ》かな‥‥」  兵頭が小さい聲で浪花節《なにはぶし》を唄つてゐた。デツキの上《うへ》では、ざはざはと靴の音がしてゐる。 「おい‥‥」 「何《なん》だい‥‥」 「この船は、○○を出て隨分《ずゐぶん》になるが、どの方面《はうめん》へ行くンだらうね‥‥」 「臺灣《たいわん》だつて云ふ話もあるぜ‥‥」  新一はコンパクトを眺めながら、兵頭《ひやうどう》に話しかけた。兵頭は躯《からだ》に毛布を卷きつけて腹這《はらば》ひになると、錻力《ぶりき》の灰皿を引きよせて煙草《たばこ》に火をつけた。  日記をつけてゐるもの、手紙《てがみ》を書いてゐるもの、どの兵隊も森閑《しんかん》としてゐる。  新一は毛布《まうふ》を足に卷いて、救命具に凭《もた》れると、暗い燈火《とうくわ》をみつめながら、 「もう、そろ/\蕗《ふき》の薹《たう》の食へるころだなア‥‥」  と云つた。 「蕗の薹はいゝなア、あれは、あんた、油味噌《あぶらみそ》にすると、とても美味《うま》いンだぜ。ぷんと香りがあつてほろ苦味《にが》くてね‥‥」 「兵頭伍長《ひやうどうごちやう》!」 「何《なん》です?」 「果物《くだもの》でも食べたいなア、かりツと、林檎《りんご》かなんかにかぶりつきたいよ‥‥」 「林檎か、――よろしい。とつておきのが、まだ二つある。滿紅《まんこう》と云つてねえ、とても美味《うま》い奴《やつ》なンだ‥‥」  兵頭が毛布を蹴つて起きあがつた。デツキで兵隊《へいたい》が大聲で何か呶鳴つて走《はし》つてゐた。 [#9字下げ]○  小見山《こみやま》がベルを押してゐる。律子《りつこ》が肩をすくめて、 「ねえ、とても、いゝお宅《うち》でせう‥‥」  と云《い》つた。  ひくい石塀《いしべい》のなかゝら、大きな木の枝が往來《わうらい》へはみ出てゐる。玄關まで續いた石道を女中が走つて來てゐるやうだつた。邸《やしき》のなかではさかんに犬が吠《ほ》えたてゝゐる。  正門《せいもん》は開かなくて、鐵の耳門《くゞり》ががらがらと開いた。 「いらつしやいませ、――さつきからお待ち兼ねでゐらつしやいますわ」  女學生《ぢよがくせい》のやうな若い女中《ぢよちゆう》が出て來た。郷子は一番うしろから耳門《くゞり》を這入つて行つたが、庭園へ廻るところに、温室のやうな小さい建物《たてもの》が見えて、その建物の硝子戸《ガラスど》が、月の光りでキラキラ光つてゐた。玄關《げんくわん》には瓦のやうな石が敷《し》きつめてあり、下駄や靴が四五足ぬいである。 「あら、いらつしやい‥‥正住さん、さつきから謠《うたひ》をやつてゝ、みんなだれ[#「だれ」に傍点]ぎみだつたところなのよ‥‥」  大野夫人《おほのふじん》が玄關まで三人を迎《むか》へに出てくれた。これが、所長さんの奧さんなのかと、郷子は意外に質朴な姿である大野夫人に、何《なん》とない親しいものを感《かん》じてゐた。  座敷《ざしき》の方で、正住が、大きい聲で笑つてゐる。  大野|尚志《なほし》は、子供がなかつたので、夫婦の誕生日《たんじやうび》には、事務所の誰彼《だれかれ》をよんで、若いひとたちに御馳走《ごちそう》をするのが愉《たの》しみであつた。今日は夫人の方の誕生日である。  床の間には、背の高い白い薔薇《ばら》が、大きな鐵の花瓶《くわびん》にざつくりと活けてあつた。 「この方なの? 植村《うゑむら》さんて‥‥」  夫人は、立つてゐる三人の席をつくつてやりながら、郷子《くにこ》の方へ視線《しせん》を向けた。 「おい、幾太郎《いくたらう》、二人の佳人《かじん》をたづさへて來るのはいゝが、時間勵行をしないとは不都合だぞ‥‥」  床の間を後に、小見山《こみやま》の兄の正住は、もうだいぶ御機嫌《ごきげん》だつた。大野は輕く壁へ凭れて、眼をつぶつてゐる。今年は丁度、五十になるのださうだけれど、血色《けつしよく》がよくて、背が高《たか》いので、年よりはずつと若《わか》く見えた。眉と眼《め》がせまつてゐて、頬骨が青年のやうに張つてゐる。夫人は小柄でよく太つてゐて、色のあさぐろい女《をんな》だつた。  日本風《につぽんふう》な紙笠を透かして、電燈《でんとう》の色が、如何にも春の部屋らしい感じである。郷子は律子の隣に坐《すわ》つた。 「今夜は支那料理《しなれうり》ですか?」 「えゝ、いけなかつた?」 「いや、滿足至極《まんぞくしごく》ですよ‥‥」  小見山は、大野の横へ坐ると、眼鏡《めがね》をずりあげて、郷子《くにこ》を呼んだ。 「そんな、遠くへゐないで、こつちへいらつしやい‥‥」 「ほんと、若《わか》いひとは、もつと、眞中《まんなか》に出て下さらないと‥‥」  夫人が氣輕に律子と郷子を追ひたてに來て、郷子達を良人《をつと》の前に坐らせた。――大野《おほの》はすぐ老酒《ラオチユ》をつぐ杯に砂糖《さたう》をすくつて、郷子と律子《りつこ》の前へ置いた。床の間には古淡な水墨の軸がかゝつてゐる。 「植村さんは膳所ださうですね、――昔、盆栽《ぼんさい》を見に行つたことがあつたが‥‥濱大津《はまおほつ》なんかも、いまはすつかり變《かは》つてしまつたんでせうね?」  郷子が顏を擧げると、小見山が凝つと郷子の方を見てゐた。眼鏡《めがね》の底の細い眼が、別人《べつじん》のやうに、激しい光《ひかり》をおびてゐる。郷子《くにこ》はあわてゝ老酒の杯を兩手でさゝげた。杯の中には、白い砂糖の粒々《つぶ/\》が、ゆるやかに溶けていつてゐる。 [#9字下げ]○ 「私はどんなに苦しいことがあつても、幸福《かうふく》がすぐまた、近くに、やつて來《き》てくれるやうな氣がするのよ‥‥」 「そりやいゝ‥‥まだ、貴女たちは若いから、色々《いろ/\》なことを考へられるし、失敗《しつぱい》をしてもすぐ起《お》きあがれる」 「えゝ、そりやア勿論《もちろん》、だけど、希望《きばう》がないことには、失敗も失敗にならないわけね、――いつたい、私達、どうして生きてゆくンですの、あれもいけない、これもいけないなンて‥‥いつたい、どれが、本當《ほんたう》の生きかたなのかしら‥‥」  十|時《じ》を過《す》ぎてゐた。  郷子と律子は、小見山に送られて、澁谷《しぶや》の驛へぶらぶら歩いて行つた。芽の萠《も》えるやうな、春の柔い夜氣《やき》が感じられる。その夜氣《やき》のなかには、花の匂ひも感じられた。海水の匂ひ、山脈の匂ひ、あらゆる人間の匂ひ、そんなものが、この都會《とくわい》に吹きつけて來《き》てゐるやうだ。  大自然《だいしぜん》の土や木や石も、人間《にんげん》のやうに遠く運ばれて來て、この都會のわく[#「わく」に傍点]の中に息苦しく生きてゐる。  律子は九州の佐賀《さが》で生れて、幼い時に東京《とうきやう》へ出て來たのださうである。郷子は、律子のすくすくした性格《せいかく》に好意を持つてゐた。 「ねえ、植村さん、――大野さんの御家庭《ごかてい》、幸福だと思《おも》へた?」 「どうして?」 「どうしてつて、――幸福かどうか、あなたの直感《ちよくかん》で云つてみて頂戴《ちやうだい》」 「幸福《かうふく》なのぢやない?」 「さう、あなた、さう思《おも》ふの‥‥」  ネオン・サインが、あまり明るいので月の光が沈んでみえる。小見山《こみやま》は眞面目な顏《かほ》をして鼻唄をくちづさんでゐたが、 「あの家庭《かてい》を不幸だと思《おも》つてる?」  と、律子《りつこ》に尋ねた。 「小見山さんの御親類で、こんなこと云ふの何《なん》だけど、――でも、私、大野《おほの》さんはちつとも幸福さうな方《かた》ぢやないと思《おも》ふわ‥‥」 「何《なに》か聞いた?」 「何を? 何もきゝませんわ‥‥だけど、大野《おほの》さん、だいぶおあそびになるつて云ふぢやありませんか‥‥」 「ふン、そりやア、あのひとの仕事上《しごとじやう》、そんな場合もあるかも知《し》れないけど、あそぶから、かならずしも、あの家庭《かてい》が不幸だとは斷定《だんてい》出來《でき》ないね、あんな年齡の男達は、さう、單純ではないから‥‥」 「さうかしら、でも男《をとこ》のひとゝしては、私、大野《おほの》さんはきらひなひとぢやないわ‥‥」 「おやおや、宮田君《みやたくん》も隅におけないなア‥‥」  律子《りつこ》は笑ひながら小さいくしやみをした。  郷子は、驛の高いホームの上で、萬歳々々《ばんざい/\》と云ふ、人《ひと》のどよめきをきくと、アパートの、狹い淋しい部屋《へや》へ戻つてゆくのがたまらない氣持《きもち》である。 「ねえ、宮田《みやた》さん‥‥」 「なアに?」 「今夜、私《わたし》のとこへ泊《とま》つてゆかない?」 「あなたのところ‥‥さうね――泊つてもいゝけど一寸《ちよつと》、家へ寄つてくれゝば斷《ことわ》つて行くわ」  律子《りつこ》は千駄ケ谷に住んでゐた。魚屋《さかなや》をしてゐる叔父の家に寄食してゐるのだと云つてゐた。 「たまには、なまぐさくないところへ泊るのもいゝわね。――一寸《ちよつと》、寄つてらつしやいよ、干物のうまいの貰《もら》つて行くわ‥‥」  僕も女だつたら、泊めて貰ふンだがな、と小見山《こみやま》は冗談を云ひながら、驛《えき》の前で一袋の甘栗を二人《ふたり》に買つてくれた。――小見山《こみやま》に別れて二人が千駄ケ谷に降りると、律子は、あアあ、と溜息をついて云《い》つた。 「ねえ、植村さん‥‥あなた、おくに[#「おくに」に傍点]にいらつした頃《ころ》、好きなひとは一人《ひとり》もなかつたの?‥‥」 [#9字下げ]○  郷子《くにこ》がエレヴヱータアを降りると同時《どうじ》だつた。白い沫《しぶき》をあげつゝざあつと音をたてゝ雨が降りはじめた。  朝はいゝ天氣だつたので、郷子は傘も持たず、コートも持《も》つて來なかつた。玄關《げんくわん》に立つたまま、煮えこぼれるやうな激《はげ》しい雨脚を郷子は呆《あき》れて眺めてゐる。  律子は一足さきに用事《ようじ》があると一人で戻《もど》つて行つたし、殘つてゐる事務所の連中も、たいていは傘なしで來てゐる者ばかりだらうと、郷子は雨が小降《こぶ》りになるまで、廻轉扉になつた玄關《げんくわん》の硝子戸に、ぢつと顏《かほ》をくつゝけて鋪道《ほだう》を眺めてゐた。  柔いクリーム色の自動車がすつと玄關《げんくわん》の前に停つた。中のクツシヨンに紅い毛布《まうふ》がかけてある。郷子はあんな自動車《くるま》に誰が乘るのだらうと眺めてゐた。 「ごめん下《くだ》さい」  後に美しい聲がして、中年の背の高い女が廻轉扉《くわいてんとびら》をあけて外へ出て行つた。運轉手《うんてんしゆ》が傘をさしかけて、その女を自動車《くるま》へ案内して行くと、扉《とびら》はパタンと閉されて、激しい雨煙のなかへ、自動車は小魚《こうを》のやうにすーと消えて行《い》つてしまつた。 (あんな、不自由《ふじいう》のない生活《せいくわつ》をするひともある‥‥)  郷子は雨を待つてゐるのがたまらなくなつて、足袋《たび》をぬいだ。走つて停留所《ていりうじよ》へ行つて、何處行きの電車《でんしや》でもいゝから乘つてゆけばいゝと云つた焦々《いら/\》した氣持で、蹲踞《しやが》んで足袋を包みのなかへしまつてゐると、 「やア、植村《うゑむら》さん、――傘《かさ》がないンでせう」  と、エレヴヱータアから出て來た大野《おほの》が、郷子を呼《よ》んだ。 「待つていらつしやい、いま、自動車《くるま》が來ますから‥‥」 「はア、ありがたうございます。――でも、もう、ぢき、やみ[#「やみ」に傍点]ませうから‥‥」 「いや、夜《よる》まで續くかもわかりませんよ、この分《ぶん》だと‥‥」  軈て黒い自動車が玄關先でぎいと停つた。運轉手《うんてんしゆ》が濡れながら、自動車《くるま》の扉を開けてゐる。 「さア、いらつしやい、――待つてたつてやみ[#「やみ」に傍点]ツこありませんよ‥‥」  大野《おほの》がせきたてるので、郷子はあわてゝ、受付《うけつけ》の机の蔭にゆき、また足袋をはいた。  郷子が自動車《くるま》へ乘ると、すぐ自動車は動《うご》きはじめた。 「おい、こつちぢやないンだ、――植村《うゑむら》さんのお家は大久保《おほくぼ》の方でせう?」 「いゝえ‥‥その近《ちか》くですけど、どつか、電車《でんしや》でも、省線のところでもいゝのです‥‥」 「大丈夫《だいぢやうぶ》ですよ、お家まで送《おく》つてあげませう‥‥」  大野は匂ひのいゝハンケチで鼻《はな》をかみながら、 「おい、戸塚の方ださうだ、そつちへ廻つて、それから、松濤《しようたう》へやつて貰《もら》ひたいなア‥‥」  と、運轉手《うんてんしゆ》に云つた。  郷子は固くなつてゐる。半藏門の濠端《ほりばた》へ來ると、前を行く新宿行《しんじゆくゆ》きのバスが、ぐうぐうと左へ滑りかけてゐた。 「雨《あめ》の日は、滑《すべ》るンだらうね?」  大野が煙草に火をつけながら運轉手《うんてんしゆ》にきいてゐる。クリーナアが動《うご》かないので、運轉手はむつゝりしてゐた。  雪の日を、佐山と二人で、駒形橋を自動車《くるま》で渡つたことがあつたが、佐山《さやま》は、いま、どの邊に行つてゐるのだらうと、郷子《くにこ》は雨の窓外を眺《なが》めてゐた。 「植村《うゑむら》さんは、何時、東京《とうきやう》へ來たの?」  大野が思ひ出したやうにたづねた。手袋をぬいでゐる大野《おほの》の手の甲に、青い靜脈《じやうみやく》が浮いてゐる。 [#9字下げ]○ 「このあひだは、あれからすぐ歸りましたか?」 「はアすぐ歸《かへ》りました。――たいへん御馳走《ごちそう》さまになりまして‥‥」 「いや、何もなくて、――植村《うゑむら》さんは、どうして小見山君《こみやまくん》を知つてゐるの?」 「――私《わたし》の知つた方の、お友達《ともだち》だものですから‥‥」 「小見出君のアパートは此邊《このへん》ぢやなかつたかな‥‥」  自動車は士官學校の馬場の横を走つてゐる。郷子は小見山《こみやま》のアパートは知《し》らなかつた。こんなところに、小見山《こみやま》さんは住んでゐるのかとおもつた。かつぱ坂を上り、坦々とした道へ出ると、雨はますます激《はげ》しくなつて、遠くで雷鳴《らいめい》がしてゐる。 「ひどい降りだねえ‥‥」  自動車は水沫《しぶき》をあげて走つてゐる。激《はげ》しい雨なので、二人は森閑と默つてしまつた。織機のやうな音をたてゝ自動車《じどうしや》の泥よけが鳴つてゐる。 「この雨《あめ》があがつたら、いつぺんに暖《あたゝか》くなりますね」  郷子が思ひ出したやうにさう云つた。薄茶の外套《ぐわいたう》を着た大野の横顏《よこがほ》が、ほのぐらいせゐか疲れたやうに見えた。びん[#「びん」に傍点]のへんに白いものが澤山《たくさん》まじつてゐる。郷子はあわてゝ窓の方を向いたが、急に活々《いき/\》した大野の表情が、郷子の顏の皮膚《ひふ》に感じられた。 「植村さんは、親類《しんるい》[#「しんるい」は底本では「しんるゐ」]のお家にでもゐるンですか?」 「いゝえ‥‥」 「一人《ひとり》?」  郷子は笑《わら》つてゐる。  ガードを越して、ガレーヂの前まで來ると、郷子《くにこ》は包みを胸に抱いて、運轉手《うんてんしゆ》に云つた。 「こゝなンです、――こゝですけど‥‥」  自動車《じどうしや》は強いブレーキをかけてぎいぎいと速度《そくど》をゆるめた。 「この路地の奧《おく》なンですの‥‥」 「大丈夫ですか、濡《ぬ》れますよ」 「走《はし》つて行きますから‥‥」  郷子は雨の中をガレーヂの軒へ走つてゆき、濡れながら挨拶《あいさつ》をした。自動車が動《うご》きはじめると、大野が帽子《ばうし》を取つた。  袂を頭にかざしながら、郷子が路地を走つて行くと、路地《ろぢ》のなかを豆腐屋《とうふや》が走つて行つてゐる。  がらがらと硝子戸を開《あ》けると、管理人《くわんりにん》のをばさんが、 「さつきから、女のお客樣《きやくさま》が待つていらつしやいますよ」  と云つた。 「女のお客樣《きやくさま》? 誰かしら‥‥あなた、鍵《かぎ》をあけてあげたの?」 「よく知つてる方《かた》だつてね、おつしやつたものですから‥‥」 「よく知つてゐるつて、どんなひとかしら‥‥」  郷子は無斷《むだん》で部屋の鍵《かぎ》なンか開けたりするをばさんに、ぷりぷり腹をたてながら、二階へ上つて行つた。  ドアを開けると、一枝が紅い雨ゴートを着たまゝ火鉢《ひばち》に凭れて泣《な》いてゐた。 「まア! 一枝《かずえ》[#「かずえ」は底本では「かづえ」]さんなの、誰かと思つたわ」  一枝は身動きもしないで嗚咽《をえつ》してゐる。郷子は吃驚した表情《へうじやう》で、ドアを閉めると、濡《ぬ》れた羽織をぬぎながら、 「一枝さん、どうしたのよ? ええ‥‥」  と、一枝のそばへ蹲踞《しやが》んだ。一枝はまつかに泣き腫《は》れた眼をあげて、 「ごめんなさい‥‥何處も行くとこがなかつたの‥‥何處《どこ》も‥‥お晝から、私《わたし》は、三軒もデパートを歩いて時間《じかん》をつぶしてたのよ」  一枝はまた子供《こども》のやうにくつくつと泣きだした。 [#9字下げ]○  別にこれと云ふ職業《しよくげふ》もないし、遊んでゐるのも退屈《たいくつ》だつたので、一枝は銀座裏の喫茶店に、姉には無斷《むだん》で務めてゐたと云ふのである。 「近所のひとがみつけて、お姉さんに告げ口したのよ、――とても叱《しか》るのよ、どうして惡《わる》いのか云つてくれないの‥‥」 「だつて、そりやア、あなたが、お姉《ねえ》さんに相談《さうだん》しないのがいけないわ――ねえ、さうぢやない?」 「私だつて、色《いろ》んなもの買はなくちやならないし、遊《あそ》んでたつてつまらないぢやないの」 「勉強して、お姉《ねえ》さんの云ふとほりしてればいゝのよ‥‥」 「あなた、そのとほり出來る? ――私、もう女學生《ぢよがくせい》ぢやないのよ、喫茶店《きつさてん》で働くつて、どうしていけないのかしら?」  どうしていけないかは郷子《くにこ》も返事が出來《でき》なかつた。一枝はもう、姉の家には歸らないのだと云つて外套《ぐわいたう》をぬいだ。 「泊めて頂戴《ちやうだい》‥‥」 「えゝ、そりやアいゝわ、――いくらでも泊つていらつしやい」  雨は小降《こぶ》りになつたが、まだ雷鳴《らいめい》がしてゐる。郷子は階下にある共同の炊事場へ米を洗ひに行つた。高い天井《てんじやう》に裸の電氣がにぶくとぼつてゐる。 (いくら何でもデパートを三軒もほつゝき歩いて、ひとの部屋《へや》へ入つて泣《な》いてるなんて‥‥)  郷子《くにこ》は米を洗ひながら、一枝《かずえ》[#「かずえ」は底本では「かづえ」]のことを考へてゐた。樋をつたふ雨の音がさうざうしかつた。 「植村さん郵便《いうびん》ですよ‥‥」  管理人のをばさんがハガキを持《も》つて來《き》た。  郷子は濡れた手でハガキのふちをつまんだ。――佐山《さやま》新一――の文字が稻妻《いなづま》のやうに眼の前を走つた。 [#ここから1字下げ]  元氣《げんき》ですか。昨日、僕達《ぼくたち》は陸へあがり、○○へ來ました。非常に元氣です。こゝはほんの二三日の滯在らしく、まだまだこれより遠くへ移動《いどう》してゆくものとおもつてをります。いまところ、僕達《ぼくたち》は、どこへ編成《へんせい》されるかわかりませんが、當分表記の部隊名です。頃日《このごろ》、如何《いかゞ》おくらしですか、コンパクトはありがたう、一日の喜憂《きいう》はこの鏡《かゞみ》とともに――。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、二三度|新《しん》一からのハガキをくりかへして讀《よ》んだ。讀んでゆくうちに瞼に熱いものがつきあげて來た。  暗い硝子戸《ガラスど》には、雨の粒々が、光《ひか》つては流れ、また新しく光つては消えていつたりしてゐる。新一と別《わか》れて、もう二十日ばかりになる。  米を洗ひ終へて二階へあがつてゆくと、一枝はもう、小さい聲《こゑ》でサンタルチアを唄《うた》つてゐた。 「おなかゞ空《す》いたでせう?」 「えゝ、とても空いちやつたわ‥‥何も食べないのよ、――今度《こんど》、私、ビフテキが食《た》べたい‥‥」 「あら、私《わたし》のとこ、何もありませんよ‥‥」  郷子は新一のハガキを袂から出して、帶《おび》の間へしまつた。七輪《ひちりん》に火をおこして、ニユームの鍋をかけると、一枝《かずえ》はぷつと吹き出して、 「あら、これだけで足りるかしら?」  と心配《しんぱい》さうな顏をしてゐる。 「大丈夫《だいぢやうぶ》よ。とても澤山《たくさん》になるのよ。――パンだつてあるわ‥‥」  郷子は小さい膳の脚をたてゝ電燈の下へ持つて行つた。一枝《かずえ》は一二寸窓を開けて鼻《はな》さきだけ出すやうにして、暗《くら》い雨を眺めてゐたが、くるりと、郷子《くにこ》の方を向いて云つた。 「早く夏になるといゝわねえ、――私、裸になつて、じやぶじやぶ泳《およ》ぎたい‥‥息《いき》がつまりさうだ、私《わたし》だけかしら、息《いき》がつまりさうなの?」 [#9字下げ]○  鼻《はな》のあたまに、白いあぶらをためて、一枝《かずえ》がすやすや眠つてゐる。枕許の腕時計は六時すぎてゐた。  まだ雨《あめ》が降つてゐるのか、樋《とひ》をつたふ雨の點滴の音がする。郷子はシーツのあひだに入れておいた新一の手紙《てがみ》をもういちど讀んでみた。  大きな文字から、男らしい感情《かんじやう》が溢れてゐるやうだつた。――喜《よろこ》びも憂ひも、あの貧しいコンパクトと共にあると云つてくれてゐる言葉《ことば》は、郷子の胸を波立《なみた》たせてゐた。 (元氣《げんき》よくかへつてくれて、それからもつと、色々なことを話しあひたい‥‥)  ハガキを枕と頬のあひだにさしこみ、ぢつと眼をつぶつてゐると雨の點滴《てんてき》が、何時か小銃《せうじう》の音のやうにきこえて來《く》る。 「植村《うゑむら》さん‥‥」  管理人のをばさんが、こつこつと扉《とびら》を叩いてゐる。 「植村《うゑむら》さん、お客樣ですよ」 「はい、いま、參《まゐ》ります‥‥」  郷子はあわてゝ机の鏡に向ひ、寢卷きの上から羽織《はおり》をひつかけた。扉《とびら》の鍵を開けて、誰だらうと、顏《かほ》をそつと出すと、敬太郎《けいたらう》がマントを着て、風呂敷包みをさげて廊下につゝ立つてゐた。 「まア! 敬ちやんぢやないの‥‥いつたい、どうしたの?」  管理人《くわんりにん》のをばさんが降りて行くと、敬太郎《けいたらう》は小さい聲で、 「一寸、早《はや》いと思つたンだけど、試驗《しけん》のこともあつたから‥‥」 「學校《がくかう》は大丈夫なの?」 「あゝ大丈夫《だいぢやうぶ》、――」 「さう、それならいゝけど、――まさか、私《わたし》みたいにして來《き》たンぢやないでせうね?」 「僕《ぼく》はちやんとして來ましたよ‥‥」 「さア、まア、おはいンなさい‥‥」  一枝はまだすやすや眠《ねむ》つてゐた。 「お客樣《きやくさま》なのよ、――昨夜の汽車?」 「あゝ」 「よく、こゝがわかつたわねえ‥‥」 「東京驛で降りて、電車《でんしや》で來たンだけど、案外《あんぐわい》、何でもなかつた‥‥」 「さう、――まア、マントでもぬいで、そこへくつろぐ[#「くつろぐ」は底本では「くつろく」]といゝわ‥‥」  郷子は自分の蒲團《ふとん》をたゝんで押入《おしい》れにしまひながら、敬太郎の沈んだ表情を見てゐた。 「みんな、かはりはないの?――憤《おこ》つてる?」 「仕方《しかた》がないでせう‥‥」 「さう、さうね‥‥」  一枝がふつと眼をあけて、部屋の隅の來客《らいきやく》の後姿に吃驚《びつくり》してゐるやうだつた。 「試驗つて、何處《どこ》の試驗《しけん》を受けるのよ?」 「色んなところ、――田舍《ゐなか》でぢつと考《かんが》へてたつて始まらないとおもつて、出て來たンだけど、僕ねえ、飛行機《ひかうき》の製作所に始めはいつてもいゝなと思つてるンですよ、どうかしら‥‥」 「職工《しよくこう》になるの?」 「あゝ」 「さうね、それもいゝかもしれないわね、――何處《どこ》か、大學《だいがく》を受けてみる氣はないの?」 「大學《だいがく》? うん、大學ねえ‥‥今のとこ、ちつとも考へてもゐないなア、――飛行機の方をやつてみたいンだけどね、――ほんたうは、霞《かすみ》ケ浦《うら》の少年航空兵《せうねんかうくうへい》になりたかつたンだけど、もう歳が歳《とし》だし‥‥」 「歳が歳だつて、あんなこと云つてるわ‥‥」  一枝はそつと起きて靴下《くつした》をはき、髮をときつけてゐる。 「あなた、旅費《りよひ》はどうしたの?」  郷子が火鉢《ひばち》の火を吹きながら聞いた。 [#9字下げ]○ 「支那にも虎《とら》はゐたのかい?」 「どうして?」 「この毛布《まうふ》をみてくれ‥‥」  隣のベツドに兵頭《ひやうどう》が寢てゐる。昨夜は暗くてわからなかつたが、なるほど、赤地《あかぢ》の毛布いつぱい、黄と黒の縞のはいつた虎の模樣《もやう》が新一にはをかしかつた。 「なるほどねえ、――朝鮮《てうせん》には虎がゐるンだから、支那は地續きでやつぱり、ゐるンかも知れンね‥‥」  もとは小學校《せうがくかう》だつたのださうだけれど、まるで寺のやうな建物で、三階の新一達の部屋《へや》の壁には、我還好、とか、遙隣故園菊、應傍戰場開、とかの落書《らくがき》がしてある。 「おい、内地《ないち》の煙草はないか?」 「もう、ないよ‥‥」 「それでは仕方もないな、煙咽來來《シヤンインライライ》か‥‥」 「煙草《たばこ》は歩いちや來ないよ‥‥」 「いや、すごいのがあるンだ、――昨夜《ゆうべ》、七|班《はん》の川田上等兵から、エローバツトと云ふのを貰つておいたンだ、まづいにやまづいがね」  兵頭《ひやうどう》が雜嚢《ざつなう》のなかゝら、黄ろい箱のバツトを一つ出して來た。 「雨か?」 「あゝ雨だ。――昨夜《ゆうべ》はうちの林檎園《りんごゑん》の夢をみてねえ――陽にあてゝある奴がみんな腐つて、底がばさばさに乾いてゐるンで、女房を呶鳴《どな》りつけてやつたンだ‥‥」 「女房《にようばう》はいくつだ?」 「女房か‥‥女房は‥‥辰《たつ》の歳《とし》はいくつだいな?」 「ふうん、辰歳《たつどし》か、凄いだらう?」 「いや、そんなに凄くもないがね‥‥」  昨夜《ゆうべ》、遲くこゝへ着いたので、今日は、一日、この無錫《むしやく》の兵站《へいたん》宿舍《しゆくしや》に休養をとることになつた。窓の下に何匹も驢馬《ろば》が繋いであつたので、夜中に、女のすゝり泣くやうな驢馬の啼き聲を聽いて、兵頭《ひやうどう》は吃驚《びつくり》してゐた。 「あれかい? 驢馬《ろば》の啼き聲つて云ふのは‥‥」 「厭《いや》な聲だなア‥‥」 「石を投《な》げてやるか‥‥」 「まア、いゝよ、啼《な》かしとけ」 「日本馬の方が、啼《な》くにもさつぱりしてゐるよ、ねえ‥‥」  一晩ぢゆう、佐山も兵頭《ひやうどう》も、そのほか同室の兵隊達は驢馬《ろば》の啼き聲に閉口してゐた。  朝起きて、煙草を喫《す》つてゐた新一は、おもひ出したやうに窓を開《あ》けて、 「おい、驢馬《ろば》はもう一匹もゐないぞ、何處かへ出發して行つてしまつたぞ‥‥」 「へえ、一匹もゐない、さうかねえ‥‥」  雨の中を、鐵道の警備兵が四五人、泥濘《ぬかるみ》の道を歩いて行く。水桶《みづをけ》を一輪車に乘せた土民が、腕に腕章《わんしやう》をつけて、雨のなかを濡れながら、町の方へ行つてゐる。 「こゝは工場地帶《こうぢやうちたい》なンだね」 「賑やかさうかね‥‥」 「一寸《ちよつと》したところらしいぜ」  大きな建物は崩れてゐて、廢墟《はいきよ》の感じであつたが、難民はほとんど戻つてゐた。細い雨が降つてゐる。 「あの、長い竹《たけ》は何にするンだらう?」 「どれ?」 「ほら、子供達《こどもたち》が竹をかついで行つてるぢやないかね」 「何にするンかね‥‥隨分、長い竹竿《たけざを》だなア‥‥」  新一は煙草を吸ひ終ると、吸殼《すひがら》を後庭へぽんとほつて、汚《よご》れた硝子戸を閉めた。 「さア、明日はいよいよまた御出發か、――應《まさ》に戰場に傍《そ》うて開くべしだねえ、故園《こゑん》の菊も遠いなア、――ところで、兵頭、こゝには野戰《やせん》郵便局《いうびんきよく》はあるのかい?」 [#9字下げ]○  夕方から雨が霽《は》れた。新一は、兵頭と杉本一等兵と三人で難民區《なんみんく》の方へ行つてみた。穢い店がごたごたと並んでゐる。 「おい、あれは何だ? 蹲踞《しやが》んで何か計つとるやうだぞ‥‥」  兵頭が指差《ゆびさ》した方を見ると、割栗石《かちぐりいし》を敷いた狹い空地で、燒酎を計り賣りしてゐる男がゐた。酒好きな杉本一等兵は、燒酎《せうちう》を計り賣りしてゐる男の手つきを、愉《たの》しさうに眺めてゐる。平べつたい、口の小さい壺《つぼ》から、つんと鼻をさすやうな匂《にほ》ひがした。 「おい、買つて歸るか?」 「大丈夫かねえ‥‥」  杉本一等兵が兵頭と相談をしてゐる。燒酎賣《せうちううり》の男は小さい素燒《すやき》の壺に、赤い紙のふた[#「ふた」に傍点]をしたのをふりあげて、買つて行けと三人に愛嬌笑《あいけうわら》ひをしてゐた。路地口では、靴を縫つてゐる男だの、南京豆《なんきんまめ》や煙草を賣つてゐる娘だのが、何か早口に喋りあつてゐる。 「いつたい、こいつ[#「こいつ」に傍点]たちは、戰爭とは何だらうと考へたことがあるンかねえ?」  新一が兵頭《ひやうどう》に云つた。 「さアどんなものだかねえ‥‥あゝしてにこにこ笑つとるところはまるで隣のひとみたやうな心安さだね、――敵であらうと、味方であらうと、まア、商賣繁昌《しやうばいはんじやう》であればいゝんだらうさ‥‥」  杉本一等兵が滿足《まんぞく》さうな表情で、赤いふた[#「ふた」に傍点]をした燒酎の壺《つぼ》を持つて來た。 「いくらで買つた?」 「五拾錢《ウーモーチヱン》で買ひましたよ‥‥」 「ウーモウチヱン? だいぶ暴《ぼ》られたな‥‥」 「いや、中々《なか/\》、安いンだと本人は云つてましたよ‥‥」  三人が表通りへ出ると、鐵道警備《てつだうけいび》の兵隊が十四五人驢馬を四五匹連れて、軍歌をうたひながら、石塘灣《せきとうわん》の方へ行つた。 「明日、俺達は南京《ナンキン》まで直行かねえ?」  兵頭が呆んやり、夕燒《ゆふや》けを眺めながら云つた。みんなの顏が、夕陽で酒《さけ》を飮んだやうにあかい。  日の丸の腕章《わんしやう》をつけた土民が、水牛を追ひながら畑の土を掘《ほ》りおこしてゐた。もう、畑のところどころが苔《こけ》のやうな生色にかはり、なまあたゝかい春の風が、廣い畑《はたけ》の上を吹いてゐる。往來の土は黒い穢《きたな》い泥濘だつたが、畑の土は錆びた黒砂糖《くろざたう》のやうな、乾いた色をしてゐた。 「兵頭さん、一つ、どうです、ここへ林檎園《りんごゑん》でもつくつたら‥‥」 「いや、こんな處は果實類《くわじつるゐ》は駄目だな‥‥植ゑるにしても、まづ大變な肥料代《ひれうだい》で食はれてしまふ‥‥」 「あれは何を植《う》ゑるンで、あんなにたがやしてゐるンかね?」  新一は雨ざらしになつてゐる、むきだしの棺桶《くわんをけ》を叩きながら、遠い畑地を呆んやり見てゐた。胡麻《ごま》を撒いたやうに烏が飛んでゐる。 「麥《むぎ》かな?」 「麥? おい、莫迦《ばか》な奴だなア、麥はお前、十月か十一月頃植ゑるンだぞ、いくら、戰爭で遲れたとは云へ、いまごろ麥でもあるまい?」  兵頭と杉本が冗談《じようだん》を云つてゐる。  水牛を連れた百姓女が、バサバサに乾いた髮《かみ》をなでつけながら、ゆつくり、畑地《はたち》[#「はたち」は底本では「はなち」]を行つたり來たりしてゐた。 「おい、杉本、何を植ゑるのか、お前《まへ》聞《き》いてみろ‥‥」 「うん、聞いてみろ云ふたところで、言葉《ことば》が通じンでねえ‥‥」  三人は苦笑しながら、荒寥《くわうりやう》とした畑地を眺めてゐた。 「薯《いも》を植ゑてるンだよ‥‥」 「薯《いも》?」  遠くで弱い銃聲《じゆうせい》がした。新一は二人の會話をきゝながら、ぴゆうぴゆうと鋭く口笛を吹いてゐた。 [#9字下げ]○  敬太郎《けいたらう》は青い空を見上げて、 「ほら、あれ、あれがロツクヒードですよ‥‥」  と、郷子の肩《かた》を叩いてゐる。  ぶうんと、固《かた》いうなりをたてゝ、飛行場の眞上に、銀色の翼《つばさ》が、すつと敬太郎と郷子の頭上を通りすぎて、建物《たてもの》の向ふへ飛んで行つた。 「一寸、凄《すご》いなア‥‥」  敬太郎は、いつとき、何もない空を見上《みあ》げてゐる。 「早《はや》く、あんなのを飛ばせるやうになるといゝわねえ‥‥」 「――大丈夫、五年ですよ、五年間、みつちり勉強《べんきやう》すれば、あんなの、わけないですよ」 「さうかしら?」 「大丈夫、きつと、やつてみます‥‥」  郷子は、小見山の友人だと云ふ、内海《うつみ》飛行士《ひかうし》に、小見山から紹介状《せうかいじやう》を貰つて、今日は敬太郎を連れて、羽田《はねだ》の飛行場へ來たのだつた。  内海は、今日は夜間飛行《やかんひかう》で、晝間、一寸暇があると云つて、喫茶部《きつさぶ》に二人を連れて行つてくれた。陽燒けして齒《は》の皓《しろ》い小柄な内海に、二人は何となく頼もしいものを感じてゐる。 「小見山は元氣ですか、――隨分《ずゐぶん》逢《あ》はないんですよ‥‥」  飛行家《ひかうか》とも見えない、如何にも氣輕な背廣姿で、内海はにこにこ笑つてゐた。 「中學校《ちゆうがくかう》は出られたのですか?」 「はア、‥‥」 「すぐから、飛行機の方は中々やれないけど、――お姉さんの云はれる、飛行機《ひかうき》製作所《せいさくじよ》の方へ、當分、入《はひ》つて[#「入《はひ》つて」は底本では「入《は》つて」]みてはどうです?」 「――えゝ、このあひだも、職業紹介所《しよくげふせうかいじよ》へ行つて、中岡飛行機製作所へ、頼んではみましたンですけど、いま、いつぱいのやうでして‥‥」 「さうでせうね。いま、こんな時世《じせい》だから、志望者も澤山あるンでせうね‥‥」  内海《うつみ》は、敬太郎に、そのうち一人で家へ遊びに來ないかと云つてくれた。 「何か、勉強の出來るいゝ方法《はうはふ》を考へておきませう‥‥まア、なるべく、姉さんの懷《ふところ》を苦しめないやうなね‥‥」  内海はさう云つて、ぐつと、紅茶《こうちや》をのみほすと、飛行機を見ていらつしやいと、二人を、飛行場の方へ案内して行つた。 「わア、さつきのロツクヒード、あれですよ、ほら、――すつきりしてるなア‥‥」  敬太郎は、わくわくした表情《へうじやう》で、郷子の肩を押した。郷子は何かしら、氣持を激《はげ》しくゆすぶられる感じで、弟の顏をみあげてゐる。――澄んだ青い空に、敬太郎《けいたらう》をのしあげたいやうな、そんな、むくむくした情熱《じやうねつ》が湧きあがつて來た。敬太郎は如何にも愉しさうに、あれが中島式エーテイ、こつちのが、ダグラスと指差《ゆびさ》してゐる。 「ダグラスつて大きいのね‥‥」 「うん、あれ二十何人位乘れるンだつて、あんなの運轉《うんてん》出來《でき》たらいゝね」 「さう、その時は私も乘せて頂戴《ちやうだい》‥‥」 「勿論《もちろん》さ、――早く、あんなのを自由にしてみたいなア‥‥」  坦々とした廣い飛行場《ひかうぢやう》の土は、乾いたビスケツトのやうな色をしてゐた。並《なら》んでゐる飛行機の翼が、午後の陽《ひ》にきらきら光つてゐた。旅客待合所には、飛行機《ひかうき》を迎へに來てゐる人達なのか、二三人の陸軍將校のひとたちや、子供連《こどもづ》れの婦人達が空をみあげてゐた。  郷子は、どんな辛《つら》いおもひをしても、敬太郎を、あの杳々《はる/″\》とした大空に飛ばして、自分も、そこの迎への人達のやうに、敬太郎《けいたらう》の操縱《さうじゆう》する飛行機を待ちたいものだと思つた。  耳鳴りのやうな音をさせて、一臺、青い空の向ふに機影《きえい》が見えた。風見《かざみ》の赤と白の吹きながしが高《たか》い空の上で西の方へすつと尾を引いてゐる。 [#9字下げ]○  飛行場のかへり、省線電車のなかで、敬太郎は思ひ出したやうに、學生服《がくせいふく》の胸のポケツトから、細かく折りたゝんだ紙片《かみきれ》を出して、 「姉《ねえ》さんのお母さんのとこ、聞いてきましたよ」  と、その紙片《しへん》をひろげて、郷子の顎のところへ持つて來た。 「えツ?」  向ふ側の、窓の彼方《かなた》に走つて行く景色を、郷子は呆《ぼ》んやり眺めてゐたので、敬太郎が、(姉さんのお母さん‥‥)と云つたことが、一寸《ちよつと》はわからなかつた。 「何《なん》なの?」 「をばさんの所《ところ》がきを書いて來たンですよ」  ノートを破つた用紙に、蒲田區仲《かまたくなか》六|郷《がう》二丁|目《め》矢野方《やのかた》と書いてあつた。 (蒲田《かまた》つて、――お母さんはひとの家にゐるのかしら‥‥)  郷子は一瞬、胸苦しい氣持だつた。紙片《しへん》をたゝみかけて、またもう一度、丁寧《ていねい》にひろげてみた。 「誰にきいたの?」 「うゝん、瀬田《せた》の叔母さんのところに年始状が來てたのをね、叔母さんが書いてくれたンですよ‥‥」 「あなた、お別《わか》れに行つたの?」 「あゝ、――學校《がくかう》はまだ一年あるけど、叔母さんは、上の學校へいかンのなら、早く、その飛行機の職工にでも何でもなつた方がいゝだらうつて、――お錢別《せんべつ》に二圓貰つた」 「へえ、そいで、お母さんの所を書《か》いてくれたのね‥‥私のことを何か云つてた?」 「別に‥‥でもね、お嫁《よめ》さんへ早くやつた方がいゝつて、此間も、お父さんに、姉さんを呼《よ》び戻したらどうかつて云つてましたよ‥‥」 「おゝ厭《いや》なことだわ‥‥本氣で瀬田のをばさん、そんなことを云つてるの?」 「本氣でせう‥‥」 「お父さんの意見《いけん》はどうなの?」 「お父さんは、このごろ、どうも焦々《いら/\》してゐて、――此間も、育てた子が、みんなよそ[#「よそ」に傍点]へ行つてしまふンなら、もう、みんな早くよそ[#「よそ」に傍点]へ行つてしまつてくれ、――酒を飮んでて呆《ぼ》んやり死ねたら、有難いもんだなンて云つてますよ。――お父さんは氣《き》が小さくて、僕の將來《しやうらい》のことなンか、僕が話しだすのを、怖《こは》がつてるンですからねえ‥‥」 「飛行機の方は、お父さん賛成《さんせい》なの?」 「えゝ、まアね‥‥だけど、心から賛成《さんせい》はしてゐないでせう‥‥何しろ、ぐち[#「ぐち」に傍点]つぽくなつて、お母さんは叱《しか》られてばかりゐます‥‥」  郷子は鼻のなかへ涙《なみだ》がいつぱいつまつたやうな、そんな佗《わび》しい氣持だつた。電車から降りても胸のなかには、風がすうすうはいりこんでゐるやうだつた。 「蒲田《かまた》つて遠いンですか?」 「羽田《はねだ》に近い方《はう》よ、――お母さん、何をしてるのかしら?」 「叔母さんは、働《はたら》いてるンだらうつて云つてましたけどねえ‥‥」 「ねえ、敬ちやん、――此間の規則書《きそくしよ》でみると、職工になれたらあなた、寄宿舍《きしゆくしや》へはいるンでせう?」 「あゝ」 「敬《けい》ちやんと、ずつと二人でゐられるといゝわ、――一度、内海さんとこへ、夜でも遊びに行つてらつしやいよ」  郷子は急に、子供のやうに切《せつ》ない氣特になつて、新一の下宿してゐた大久保の時計屋《とけいや》の前を、敬太郎と二人《ふたり》で歩いてみたくなつた。  遠まはりして、時計屋《とけいや》の前へ來ると、 「ねえ敬《けい》ちやん、――ほら、話したでせう‥‥佐山さんつて方《かた》の下宿、こゝの二階だつたのよ、とてもいゝ方なの、いま兵隊さんよ‥‥」 [#9字下げ]○  小見山は事務所の仕事で、一週間ほど秋田《あきた》の方へ行つてゐたけれど、今朝《けさ》ほど戻つて來たと云ふ電話が事務所《じむしよ》にあり、その序《ついで》に郷子にも、弟さんの飛行機の話《はなし》はどうなつたかときいてきた。 「植村さんですか? 僕、今朝《けさ》かへりました。――どうでした内海《うつみ》の方は?」 「おかへンなさいませ、――色々と有難《ありがた》うございました‥‥たいへん親切《しんせつ》におつしやつて戴いて、そのうち、弟にも、ゆつくり内海さんの御宅《おたく》の方へ遊びに見えるやうにつて、おつしやつて下すつて、――弟《おとうと》も何だか張りきつてますの、飛行場の方もみせて戴《いたゞ》きましたわ。――一度、ゆつくり、小見山さんに、お禮《れい》にうかゞひたいと弟と話《はな》してゐますのですけど‥‥」 「いやア‥‥さうですか、内海《うつみ》には、そのうち、僕からも頼んでおきませう。信頼《しんらい》出來《でき》る奴ですから、弟さんの事も本氣で考へてくれるでせう。――どうです? 今夜《こんや》、御飯でも一|緒《しよ》にたべませんか?」 「はア、有難うございます‥‥」 「弟さんを連《つ》れて、御一緒にいらつしやい、いゝでせう?」 「えゝ、でも、お疲《つか》れぢやございません?」 「かまひませんよ、――きつと、いらつしやい‥‥」 「はア、――ぢやア、うかゞはせて戴きます。――あのウ、佐山《さやま》さんから、此間、おたよりがございましたのよ」 「へえ‥‥何て云つて來ました? 岡部《をかべ》だの、植村さんの處へはよこして、僕の處《ところ》へはよこさないンだなア‥‥」 「あら、ハガキなンですよ。――御無事《ごぶじ》ですつて、どこへ編成《へんせい》されるか、まだわからないけれど、近いうち、遠くの方へ移動《いどう》してゆくだらうつて書いてありましたけど、――佐山さんは、何の方《はう》でいらつしやるンでせうか?」 「さうですが、元氣《げんき》のやうですか、――あいつは工兵ですから、鐵道《てつだう》の方をやるのかも知れませんね‥‥」 「まア、工兵《こうへい》さんですの? ぢやアたいへんですわねえ‥‥」 「鐵道修理《てつだうしうり》でもやつて行くンぢやないかな、元氣さうな文面でしたか?」 「はア‥‥」  その夜、郷子は敬太郎と新宿《しんじゆく》へ出て、何時か大橋久子に教はつた花園《はなぞの》まんぢゆうを少しばかり買つて、四谷坂町の小見山のアパートを訪《たづ》ねて行つた。  何處かで、重くるしい沈丁花《ちんちやうげ》の匂ひがしてゐる。果物屋《くだものや》の路地口の燈火《あかり》で、敬太郎の襟あしが妙に汚《よご》れてみえた。 「ねえ、敬ちやん、明日、あなた床屋《とこや》へ行つてらつしやいよ。――髮《かみ》が隨分のびてるわ、刈つて貰つて來るといゝわねえ‥‥」 「うん‥‥」 「何だか、さうしてると、お父さんの後姿《うしろすがた》によく似てるわ、ぢゝむさいことよ‥‥」 「刈《か》つて來ますよ」  敬太郎はまんぢゆうの包《つゝ》みをぶらぶらさげて歩いて行く。  アパートはすぐわかつた。小見山の部屋には岡部《をかべ》が來合せてゐた。 「いやア、久しぶりですね‥‥」  岡部がすぐ二人に座蒲團《ざぶとん》を出してくれる。岡部は、このごろは體力《たいりよく》の長期建設だと云つて、テニスをしてゐるのだと云つてゐた。 「佐山から音信《たより》があつたンですつて?」 「はア‥‥」 「僕ンとこにも、此間、來ましてね、一|瀾《らん》を追へば、千|瀾《らん》走《はし》るなンて、ひどく、支那的なことを云つて來ましたよ」 [#9字下げ]○  岡部は、このごろ、ひま[#「ひま」に傍点]があるとニユース映畫ばかり觀《み》て歩くと云つてゐた。 「あれは君《きみ》、十錢玉一つで、實にすみやかに、我々《われ/\》にうつたへてくれるからね‥‥もつぱら、新宿へ出かけるンだけど‥‥ニユースはいゝよ。――此間は、雨のなかを行軍《かうぐん》してゆく兵隊を見たンだが、觀てゐて涙《なみだ》が出て困つた‥‥」 「うん、どこのニユース小舍《ごや》だつて大入り滿員だねえ‥‥三鷹なンかにゐて、よくそんなひま[#「ひま」に傍点]があるもンだ‥‥」 「ひま[#「ひま」に傍点]つて、そりやア‥‥機《き》を得《え》て出掛けるわけさ‥‥」  窓を開けひろげてゐても、そんなに寒くはなかつた。窓下の町の燈火《あかり》が涼《すゞ》しさうに見える。もう、軈《やが》て、草や木の芽も萠《も》えるだらう‥‥郷子は、女學校のころ、雪融《ゆきど》けの比良《ひら》の山へ登つて、登攀記《とはんき》を書いたことを思ひ出してゐた。こゝまで沈丁花の匂ひがただようて來る。苦味《にが》い郷愁《きやうしう》が、窓から吹いて來る春の風とともに、胸にいつぱいこみあげて來た。  窓の向ふの廣い空には、夜の雲《くも》が飛んでゐた。月はみえなかつたが、明《あか》るい空だつた。 「おい、三河屋へ、牛肉《にく》でも食べに行かないか?」  小見山が、机の抽斗《ひきだし》から財布《さいふ》を出して袂へ入れてゐる。岡部は窓ぶちへ腰をかけてゐたが、思ひ出したやうに云つた。 「おい、かうしてゐると、佐山が、戰爭《せんさう》へ行つてゐるとは思へないねえ‥‥」 「うん‥‥」 「行くときにねえ、僕と二人きりで吉祥寺《きちしやうじ》の雜木林《ざふきばやし》のなかを歩きながら‥‥おい、日本は全く可愛い國だぞ、このごろになつて、戰爭へ行くと云ふことがきまつて、初《はじ》めて、俺《おれ》は、日本がよくて仕方がないと云ふンだ‥‥生死《せいし》のほどはわからんが、深くこんなに、自然萬物《しぜんばんぶつ》を愛せたことはないと云つてたよ。――さうさう、赤紙《あかがみ》を手にした時、どうだつたと訊《き》いたら、何と云ふこともなく、新宿の遊廊《いうくわく》を歩きたかつたと云ふンだからふるつてるよ‥‥」  郷子は赧《あか》くなつた。  綺麗《きれい》な流れが、急に止まつたやうに、息が咽喉《のど》で詰つた。 「工兵つて、襟《えり》はどんな色なンでせうか?」  郷子は話《はなし》をそらして、そんなことをきいた。 「工兵ですか、たしか、海老茶色《えびちやいろ》だつたかな‥‥あいつは躯が堂々としてゐるから、一寸、あの軍服姿《ぐんぷくすがた》はあなたに見せたかつたな。――軍服を着ると、みな堂々とするねえ‥‥」  小見山は部屋の隅《すみ》にある狹い臺所で、ごそごそ茶を淹《い》れてゐた。郷子のまんぢゆうが机の上にひろげられてゐる。 「おい、もう、壁《かべ》には何も貼《は》りつけてないンだねえ?」  岡部はねぢれたネクタイをぎゆつと締《し》めながら笑《わら》つてゐた。 「あゝ、君のやうな男《をとこ》に、そんなものを見せたつてつまらんから、君の來る時は、貼《は》らないのさ‥‥」 「いや、壁へなンか名文《めいぶん》を貼るのはよした方がいゝね、少年臭《せうねんしう》があつていけない」 「少年臭《せうねんしう》か‥‥こりやア驚いた」  小見山が苦笑《くせう》しながら皆に茶をついだ。 「小見山《こみやま》さん、電話ですよ‥‥」 「おい、電話だとよ‥‥」  岡部が返事をした。小見山はすぐスリツパを引つかけて廊下《らうか》へ出て行つた。 「弟さんは飛行機《ひかうき》の方をやられるンですか?」 「はア‥‥」 「そりやアいゝですね」  櫻《さくら》も桃もいつぺんに咲きさうなあたゝかい晩である。 「おい、大野夫人《おほのふじん》が、いま、バスに轢かれたンださうだ‥‥」  小見山が跫音《あしおと》荒《あら》く走つて戻つて來た。 [#9字下げ]○  大野夫人が入院してゐると云ふ、四谷大番町の津田病院《つだびやうゐん》へ、小見山と郷子はかけつけて行つた。  私立の小さい外科病院《げくわびやうゐん》だつたが、相當有名な病院らしく、玄關には自動車が三臺も停めてあつて、狹い應接間《おうせつま》には、患者やつきそひの人がこみあつてゐた。――大野夫人は二階の七|號室《がうしつ》ですと、受付にきいて、二人が冷い革《かは》のスリツパを引つかけて梯子段《はしごだん》をあがつて行くと、暗い廊下の向うから、大野の家の女中《ぢよちゆう》が走つて來てゐた。 「大變《たいへん》でしたねえ、――奧さん、どうなンです?」 「ほんとに、私、吃驚《びつくり》しましたわ。私もそばにゐたンですの‥‥右の手をお怪我なすつて‥‥」 「右の手、――それで意識《いしき》は大丈夫なンですか? 皆さんみえてる?」 「はア、お元氣《げんき》はお元氣ですけど、まだ、呆んやりしていらつしやいます‥‥旦那《だんな》さまもさつきお見えになりまして‥‥」  女學生《ぢよがくせい》のやうな女中は、自分も吃驚してゐるらしく、ぼおつとしてゐる風だつた。病室へ這入ると、案外廣くて、ぷんと藥臭《くすりくさ》い匂ひがたゞようてゐた。 「やア、大變《たいへん》でしたねえ‥‥」  小見山が靜かに、夫人のベツドの枕《まくら》もとに行くと、大野はすぐ立つて來て、 「バスに彈《は》ね飛《と》ばされたンださうだ。右の腕を一寸痛めたらしいけれど、――まア、このまゝ一週間もすれば大丈夫《だいぢやうぶ》だらうつて話だがね‥‥」 「バスつて、いつたい何處でやられたンです?」 「大木戸《おほきど》のところまで使ひに行つてねえ、――何しろ、眼の近いひとだから‥‥」 「あぶなかつたですねえ‥‥」  夫人は鼻まで蒲團《ふとん》をかぶつて昏々《こん/\》と眠つてゐた。郷子も靜かに大野へ挨拶をした。 「丁度《ちやうど》、植村さんも、弟さんと遊びにみえてたものですから‥‥」 「いや、どうも有難う‥‥」 「ほんとに、驚きましたよ‥‥」 「どうも、騷《さわ》がせちやつて‥‥丁度、僕も門を這入《はい》つた處だつたンだ。――まア、でも、このぐらゐの災難《さいなん》でよかつた‥‥秋田の方はまだ寒いだらう?」 「えゝ、まだ、とても寒いですね」 「さうだらうなア‥‥ところで、君達、晩飯《ばんめし》はどうなの? まだぢやない?」 「えゝ、周章《あわ》てましてねえ、飛び出して來たもンですから‥‥」 「そんなら、こゝで取つて貰ふのも何だから、何處か、近所《きんじよ》で食べて來よう‥‥」 「ぢやア、――私、こゝでお留守《るす》をしてゐます」  郷子《くにこ》がさう云つた。 「いや、いま、派出看護婦《はしゆつかんごふ》のひとが來てくれたから、大丈夫ですよ‥‥貴女も一緒に、どうです?」  大野の話した派出看護婦が、檢温器《けんをんき》や吸飮みを持つて病室へ這入つて來た。 「まア!」 「あらア‥‥まア、戸田《とだ》さんぢやないの‥‥」  大津《おほつ》の女學校で、一級上の戸田安子《とだやすこ》の看護婦姿をみて、郷子はしばらく呆氣《あつけ》にとられてゐる。 「まア、しばらく‥‥」 「何時《いつ》、こつちへいらつしたの?」  小見山も大野も、女二人の奇遇《きぐう》を微笑して眺めてゐた。 「女學校時代のお友達《ともだち》なんですの‥‥」  郷子が小見山と大野へ小さい聲で紹介《せうかい》した。安子はベツドのそばへ行つて、夫人の手を取り脈《みやく》を診《み》ながら、ぢつと時計を見てゐる。 [#9字下げ]○  女中は、澁谷の家へ夫人の家具《かぐ》や寢卷《ねまき》を取りに行つてゐたし、大野と小見山は病院の近所へ遲《おそ》い夕飯をたべに出掛けてゐた。 「まアこんな處《ところ》で逢ふなンて――あなたが、看護婦《かんごふ》さんなンかしてゐるとは思はなかつたわ‥‥」 「驚《おどろ》いたでせう? でも、私だつて、あンたが、東京へ來てるとは思はなかつたわ――いま、どうしてるのン?」 「どうしてる云ふてねえ、あなたと同じやうに職業婦人《しよくげふふじん》よ‥‥田舍を、默つて出て來ちやつたの‥‥」 「へえ‥‥さう、おうちのひと、心配してるでせう?」 「そら、もう、叱《しか》られてるの承知《しようち》だわ――でも、弟も出て來たのよ、飛行機の方をやりたいなんて云つてるンだけど、何しろ、私だつて出て來《き》たばかりだし、どうにもならないの‥‥あなた、それで、何時から、こんなことをしてゐるの?」 「學校を出るとぢき東京に來て、ずつと、叔父《をぢ》さんとこにゐたの‥‥割合忙がしいのよ、この仕事‥‥」 「でも、この病院《びやうゐん》にゐるンぢやないでせう?」 「えゝ、日本橋《にほんばし》の方に會があつてね、私、いまゝで、子供のひとについてたンだけど、今日、こちらに振りかへられちやつたのよ‥‥こゝの若い先生も、代診《だいしん》の方も出征してしまつて、いまは老先生《らうせんせい》お一人だものだから、忙はしいの何のつて‥‥」  櫻模樣《さくらもやう》の金具のぴか/\光るバンドを、細い腰にきつちり卷いて、白い看護服《かんごふく》の袖を、安子はきりゝと二の腕《うで》までたくしあげてゐた。 「奧樣《おくさま》、大丈夫かしら?」 「えゝ大丈夫よ、一週間ほどして、どこか、温泉《をんせん》にでもいらつしやればいゝのぢやないかしら‥‥」 「でも、さつき、澤山《たくさん》、血のついたガーゼを見て吃驚《びつくり》したわ‥‥」 「舌《した》をお噛みになつたのね‥‥」 「まア、舌《した》を? 大丈夫かしら?」  郷子は大野夫人の白い掛蒲團《かけぶとん》の裾を、そつと叩きながら、 「學校《がくかう》のひと達も、東京へ隨分來てるンでせうね?」  と云つた。 「私、學校《がくかう》のひと達なンか、誰《たれ》にも逢ひたくないわ‥‥たゞ時々、校舍から眺めた、比良の白い雪の山を憶《おも》ひ出すの、いまごろ、いゝでせうねえ‥‥」 「ねえ、ほら、よく窓に凭れて歌つたぢやないの、ともよあつまれ、まなびの庭《には》に、白き董《すみれ》の花束《はなたば》つくり‥‥なンて、――よく、夕方《ゆふがた》、唄ひながら、あの校庭を歩いたものね」  二人は小さい聲で、なつかしい昔を語りあつた。――手《て》にはとらへられないけれど、風《かぜ》の中にでもまじつてゐるやうな、美《うつく》しい青春が、郷子の耳朶《みゝたぶ》を仄かにかすめて來る。都會の、底知れぬ空漠さの中に、舊友《きふいう》にめぐりあつたことは、孤獨の幹からあふれおちる花瓣《はなびら》のやうなものであつた。 「いま、私《わたし》は、會の方に寢泊《ねとま》りしてゐるのよ。叔父さん達、大阪へ歸つてしまつたので、ずつと會の方にゐるの、一度、遊《あそ》びに來て頂戴、御馳走《ごちさう》するわ‥‥」 「えゝ、ありがたう‥‥私も、弟の身の始末《しまつ》がついたら吻《ほ》つとするから、そしたら、時々《とき/″\》泊りに來て頂戴《ちやうだい》、――でも、あなたは、元氣《げんき》で羨ましいわ、活氣があつて‥‥」 「さうかしら、此間も、會の連中で話したンだけど、私達《わたしたち》も何とかして、戰場《せんぢやう》へ行きたいつて‥‥いまからでも遲《おそ》くはないなンて、みんな猛烈《まうれつ》[#「まうれつ」は底本では「もうれつ」]に勉強してるのよ‥‥」 [#9字下げ]○  醫者《いしや》が云つたやうに、大野夫人《おほのふじん》は一週間ほどして起きられるやうになり、大野夫人の實家である三保の松原へ、夫人は保養かたがた歸つて行くことになつた。事務所《じむしよ》の歸りには病院《びやうゐん》へ見舞に行つてゐた郷子《くにこ》の性質を、夫人《ふじん》はことのほか氣に入つてしまつて、十日ばかり、つきそつてくれるやうにとの事で、郷子は、夫人のお供《とも》で、三保の松原《まつばら》へ行くことになつた。  敬太郎《けいたらう》のことも氣《き》にかゝらないではなかつたが、敬太郎は案外氣輕に、 「行つて來なさいよ、――姉さんが旅行《りよかう》するなンて、めつたにないンでせう‥‥僕《ぼく》はそのあひだに、内海《うつみ》さんのとこへも行くし、方々《はう/″\》あるいてみます。――どうしてもいけなかつたら、電信局でもいゝと思つてるンだから、兎に角、安心《あんしん》して行つてらつしやい‥‥」  事務所《じむしよ》では、小見山も賛成《さんせい》してくれた。 「あなたが三保にゐる間に、僕も、見舞《みま》ひかたがた遊びに行きませう‥‥三保の松原《まつばら》なンていいなア、――春《はる》の海をゆつくり見ていらつしやい」  郷子はみんなに賛成されると、急に長襦袢《ながじゆばん》の裾をつくろつたり、着物《きもの》の襟をキハツで拭いたりして旅の用意《ようい》にかゝつた。  何でもないのに、時々胸の動悸が激しく打つて來たり、舌に生唾《なまつば》が澤山たまつて來《き》たり、郷子は旅《たび》をすると云ふことが何《なん》となく嬉しくて仕方がないのだ。 「ねえ、敬ちやん、私、お金はいらないから、みんな置いて行《ゆ》きますよ。――出來《でき》るだけ運動してみて頂戴《ちやうだい》‥‥もし、保證人《ほしようにん》でもいるやうだつたら、大野さんにでも、小見山さんにでも頼めばいゝから‥‥」 「うん」 「どら、その洋服《やうふく》、かしてごらんなさい、釦《ボタン》がはづれかけてたわ。胸のとこのが‥‥」 「ねえ‥‥」 「何《なに》?」 「三保つて、あすこにも飛行場《ひかうぢやう》があるンですよ‥‥」 「さう‥‥」 「たしか、そこには航空燈臺《かうくうとうだい》があるはずなンだ‥‥」 「ふうん‥‥」  みすぼらしい鞄《かばん》しかないので、郷子《くにこ》は新しい風呂敷に寢卷や化粧品を包んだ。敬太郎が、まるで、遠足みたいだと冷かしてゐる。郷子の胸には旺盛《わうせい》なものが、ふくれ上つて來て、鏡《かゞみ》をみてゐても何となく笑《わら》ひがこみあげて來て仕方《しかた》がない。  東京驛へは、敬太郎《けいたらう》が送つて來てくれた。 「何時《いつ》も。僕は見送り役なンだなア‥‥」 「何故?」 「だつて膳所《ぜゞ》の驛だつてさうでせう‥‥」 「さうね、――いゝわ、お土産持つて來るわ‥‥それから、お父《とう》さんへは、當分《たうぶん》辛抱《しんばう》して下さいつて、手紙《てがみ》出して置いて頂戴《ちやうだい》――それから、マツちやんに、東京のヱハガキ澤山貰つといたから、序《ついで》に送つといてやつてね‥‥」  婦人待合室には大野夫妻が來てゐた。夫人は右手《みぎて》を三角巾で首から吊《つ》つてゐた。 「やア、どうも、有難《ありがた》う‥‥」  大野は薄茶の外套を着て、ステツキをついてゐる。郷子は、敬太郎《けいたらう》を夫妻に紹介《せうかい》した。 「まだ、大變《たいへん》な出征ですね‥‥」  出征を送る人のどよめきをきいて、夫人が大野に、戰爭《せんさう》はまだまだ大變《たいへん》なンでせうねときいてゐる。  靜岡《しづをか》へは十時頃着くのださうだ。靜岡《しづをか》の夫人の定宿へ一泊して、明日三保へ行く豫定なのだと、夫人が教へてくれた。軈て時間が來ると、大野は青い切符《きつぷ》を郷子の掌に握《にぎ》らせてくれた。 [#9字下げ]○  横林《わうりん》へ鐵道修理に來て、新一の班《はん》は、もう、こゝに十日ばかりも駐在してゐる。街道から南へ這入つた百姓家に、新一達は八人の兵隊《へいたい》と共に寢泊《ねとま》りをしてゐた。  風の強《つよ》い晩だつた。  みんなは日が暮れると、庭の隅にある穀倉へ集つて、土間《どま》の眞中に焚火《たきび》をした。大した百姓家ではなかつたが、それでも部屋《へや》は六ツ七ツある。どの部屋も壁《かべ》が落ちてがらんとしてゐた。  穀倉《こくぐら》だけは砲彈があたつてゐないので、窓《まど》に茣蓙を吊して、焚火のあかりが外へ漏れないやうにしてゐた。  兵頭は小隊長《せうたいちやう》と一緒に、無錫から丹陽《たんやう》に先發してしまつたので、こゝのところ、新一は話し相手もなく淋《さび》しいのだ。 「月《つき》が出てゐますよ」  杉本一等兵が、罐詰の空罐に湯をわかして、部屋《へや》の隅のローソクの燈火《あかり》で熱心に髯を剃つてゐる。 「おぼろ月夜《づきよ》かな?」  杉本を誰《たれ》かゞからかつてゐた。  新一は繩で編んだ汚い寢臺の上へ、藁や毛布を敷いて、さつきから寢轉《ねころ》がつて手紙《てがみ》を書いてゐた。  鐵道警備《てつだうけいび》の兵隊が、時々《とき/″\》、小聲で唄をうたひながら堤の上を通つて行く。 「佐山伍長殿、氷砂糖《こほりざたう》はどうですか?」  新聞をごそごそさせて、新一の手のそばへ、誰かゞ氷砂糖《こほりざたう》をひとかけ置《お》いてくれた。  新一は物憂《ものう》さうに顏を擧げて、氷砂糖《こほりざたう》をがぶりと唇《くち》に入れたが、 「おい、この氷砂糖《こほりざたう》は、いやに、石油臭いがどうしたンだ?」  と、みんなの方を振《ふ》りかへつた。 「今日《けふ》、トラツク隊の兵隊《へいたい》に少し分けて貰つたんです」  杉本が煮〆たやうな手拭で、安全剃刀《あんぜんかみそり》の刄を拭きながら云つた。――夕方《ゆふがた》、杉本は、どこからか四角いローソクを二|本《ほん》探《さが》して持つて來てゐた。汚《よご》れた石炭の塊《かたまり》のやうな、ローソクだつた。  新一は奧齒でこりこり氷砂糖を噛みくだきながら、煤《すゝ》を吐きながら燃《も》えてゐるローソクの灯を、凝《じ》つと見《み》てゐる。  近くで銃聲《じうせい》が二三發したが、誰《たれ》も氣にかけるものもない。四五日來、行き來をしてゐる、鐵道守備の兵隊が三人、新一達の穀倉《こくぐら》へどやどやと遊《あそ》びにやつて來た。 「今晩《こんばん》は‥‥」 「やア、今晩《こんばん》‥‥」 「いらつしやアーい」  焚火は激しい火力でぱちぱち彈けてゐる。守備《しゆび》の丘隊が、支那酒《しなしゆ》をビールの瓶に詰めて持つて來てくれた。 「テンハオだな‥‥(大變《たいへん》よろしい)」  みんな拍手《はくしゆ》をした。  疲勞でしめつぽくなつてゐた一座のものたちは、急《きふ》に元氣な表情《へうじやう》になり、とつておきの仔豚の脚を焚火《たきび》に焙つたり、南京《ナンキン》豆を出して來るものもあつたりした。  杉本は戰帽の上から手拭で頬かぶりをして、焚火《たきび》のなかへ割り込《こ》んで來た。 「いやに不景氣《ふけいき》な恰好ぢやアないか?」 「いや、いま、髯を剃つたら寒《さむ》くて仕方《しかた》がないンだ」 「折角の髯《ひげ》を剃らんでもいゝだらうに‥‥」 「いや、急にガリガリとやりたくなつたンだよ、――たまには變化《へんくわ》がなくちやね」  軈《やが》て、寢轉《ねころ》んでゐる新一のところにも、鼻をさすやうな支那酒が、ニユームのコツプに廻されて來た。コツプにはごみ[#「ごみ」に傍点]が浮いてゐたが、新《しん》一は、冷い奴を一氣に飮《の》んだ。舌の先で、唇を吸ふやうにして、最後《さいご》の雫を飮み干すと、新《しん》一は急に、郷子をおもひ、戸外の風のなかをやみくも[#「やみくも」に傍点]に歩いて來たいやうな氣持《きもち》になつた。 [#9字下げ]○ 「追撃《つひげき》、また、追撃‥‥で、無錫《むしやく》まで敵を追つて來て、それから上海へ、蘇州河を下つたのが去年の十二月始めです。――それから、廣東の敵前《てきぜん》上陸《じやうりく》をするはずで、上海を出發《しゆつぱつ》したンだけどね、何《なん》だかとりやめになつちまつてさ、クリスマスの朝、溪州へ上陸したやうなわけですよ‥‥」  右の小指に繃帶《はうたい》[#「はうたい」は底本では「ほうたい」]をしてゐる警備の兵隊が、煙草《たばこ》に火をつけながらしんみり話してゐる。  新一は寢臺《しんだい》の上へ起きあがつて壁に凭れた。 「今年の正月は江陰砲臺で迎へましたよ‥‥あすこは河風《かはかぜ》が吹いて、寒いの何《なん》のつて、全く話にならない‥‥」 「この横林《わうりん》にはどのくらゐ居るンですか?」  杉本一等兵が頬《ほゝ》かぶりを取りながらたづねてゐる。 「こゝですか、もう二ケ月ばかりゐます。――これからまた、何處へ移動《いどう》して行くかは依然《いぜん》としてわかりませんね‥‥」  新一は、十日ばかりの駐在《ちゆうざい》で、退屈しきつてゐる自分《じぶん》を一寸ばかり恥ぢた。 「貴方《あなた》はどこですか? お故郷《くに》は‥‥」 「私は甲府の在《ざい》のものですが、長らく東京《とうきやう》で商賣をしてゐます」  新一がこの兵隊に故郷《こきやう》をたづねた。  甲府と云ふところは知らなかつたけれど、山の素朴《そぼく》な兵隊に、新一はこみあげて來《く》る親しいものを感《かん》じた。 「ウースン上陸《じやうりく》は凄かつたでせう?」 「凄いには凄かつたが、まア、あんな華々しい戰爭《せんさう》はみたことがないね‥‥」 「よく生命《いのち》がありましたね」 「私は、生命のあるなしなンか考へなかつた。夢中《むちゆう》だつたなア‥‥此頃《このごろ》になつて、かへつて生命のことを考《かんが》へる時があります――。私の家は木炭商《もくたんしやう》ですが、今度、歸還することが出來たら、支那炭を一つ、大いに勉強《べんきやう》しようかと思つてゐます‥‥」  日本の狹い土地で産出《さんしゆつ》する炭の量は知れたものだと云《い》ふのであつた。 「支那《しな》へ來て、でかい[#「でかい」に傍点]事を考《かんが》へるやうになつただけでもひろひものですよ。――これで、内地まで生命があれば、花に團子《だんご》と云ひたいところでせうな‥‥」  みんな焚火《たきび》の火を見てゐる。  新一の班の今野上等兵が遊底《いうてい》のこはれた支那の銃劍《じうけん》をひろつたと云つて、それをみんなに見せてゐた。 「あの銃聲《じうせい》は何だ?」 「匪賊でもやつて來たンぢやないかな、大《たい》したことはないさ‥‥」  支那酒《しなしゆ》が、もう一度、新一の前へ廻《まは》つて來た。新一は一息にぐつと飮んだ。咽喉《のど》を燒くやうに、冷い酒が腹《はら》へ浸みてゆく。  新一は、急に、郷子へ手紙《てがみ》を書きたくなつた。  横林へ來ての荒寥たる十日間は新一にとつて、強力《きやうりよく》なエネルギーを蝕《むしば》まれてゐるやうな、そんな淋《さび》しい日々である。最前線《さいぜんせん》へ出て砲火をまじへるといつた、出征の日の、あの華々しい空想のなかには、こんな退屈な陣中生活は夢想《むさう》だにしてゐなかつたのだ。――新《しん》一は、手紙を書きながら、郷子《くにこ》から貰つたコンパクトを出して唇へ押しつけた。  固い金屬《きんぞく》のすべらかな感觸《かんしよく》が、久しぶりに飮んだ、たつた二杯の酒のせゐか、激しい粗笨《そほん》な情熱をさそつて來る。 (この手紙は、何時ごろ、彼女《かのぢよ》にとゞくかな‥‥)  新一は、手紙を封に入れて、穀倉の床に散らかつてゐる、もみがらを一|粒《つぶ》手紙《てがみ》のなかへ入れておいた。  ―植村郷子樣《うゑむらくにこさま》―表に宛名を書《か》いてゐると、ローソクの灯の下に、郷子の白粉の匂ひがたゞようてゐる。  郷子へあてた新一の手紙《てがみ》は、求愛に近い文面であつた。 [#9字下げ]○  郷子《くにこ》は夫人と三保へ來た。  三保の松原は、郷子が考へてゐたほど、雄大《いうだい》[#「いうだい」は底本では「ゆうだい」]ではなかつたが、海と黒い松林《まつばやし》が、一日見てゐて、眺め飽きることのない景色《けしき》だつた。  朝は根岸飛行場のところまで夫人と時々散歩、晝からは讀書《どくしよ》をしたり、編物《あみもの》をしたりして、四五日は過ぎた。  雨の來さうな或夕方《あるゆふがた》、電氣もつけないで階下《かいか》の座敷で、夫人と呆んやり話しこんでゐると、夫人はふつと思《おも》ひついたやうに、郷子にこんなことを云つた。 「ねえ、郷子さん‥‥」 「はア?」 「あのねえ、――あなた、結婚《けつこん》する氣持ありませんか。是非《ぜひ》、あなたを欲しいつてひとがあるの‥‥それはもう、大變《たいへん》なおもひやうなのよ‥‥」  郷子は卓子《テーブル》の上の燐寸箱をいぢつてゐたが、吃驚《びつくり》したやうに顏を擧《あ》げた。 「誰だかあてゝごらんなさい‥‥」  郷子は、耳の中へ蝉の大群《たいぐん》を押しこまれたやうな、そんなさうざうしいものを感じてゐる。 「ねえ、とても、いゝ縁だと、私、おもつてるンだけど、――昨日《きのふ》、そのひとから手紙《てがみ》が來て今度の日曜日《にちえうび》うかゞふから、それまでに、是非《ぜひ》、あなたの返事をきいておいて下さいつて云ふの‥‥」  郷子は、小見山《こみやま》だと思つた。  急に耳朶《みゝたぶ》が熱くなつて膝頭が震へて來る。 「さう云へば、誰だか、判《わか》るでせう? 小見山さんなのよ、――どうかしら‥‥氣心《きごゝろ》の判つた方だし、大野の遠縁《とほえん》にもあたるひとですし、――それはもう、あのひとの、いゝ氣質《きしつ》は、あのひとの小さい時から、私《わたし》、よく知つてゐるの‥‥」  黄昏《たそがれ》の部屋のなかは、燈火もなく薄暗《うすぐら》かつたので、郷子は、しばらくは、暮れてゆく障子《しやうじ》の薄明りに眼をすゑてゐた。 「大野も大賛成《だいさんせい》だらうと思ふの‥‥あなたを非常に氣に入つてゐるやうだし、とう[#「とう」に傍点]から、小見山さんのお嫁《よめ》さんのことを心配してゐたンですもの‥‥」  障子の向ふには、遠く松風《まつかぜ》の音がしてゐる。海の音も地鳴《ぢな》りのやうにきこえて來る。郷子は戰場にある新一の姿をひそかに胸に描《ゑが》いてゐた。  夫人は愉《たの》しさうに話してゐる。首から吊《つる》した白い三角布が、夫人の胸のへんに、仄白《ほのじろ》く浮き出てゐた。怪我《けが》はもうだいぶいゝやうだ。――郷子は立つて電氣《でんき》をつけてから返事をしようと思つた。  郷子が燐寸《マツチ》を卓上に置いて立ち上つた。 [#9字下げ]○  近所の、赤屋根の別莊で鶯《うぐいす》が鳴いてゐる。  小見山《こみやま》は、いまごろ、もう、夫人の部屋へとほつてゐる頃かもしれない。  郷子は小見山に逢ふのが怖《こは》かつたので、誰にもことはらないで、松林《まつばやし》のなかを拔けて、ひとりで根岸飛行場《ねぎしひかうぢやう》の白い建物の見える方へ歩いて行つた。見覺えのある飛行場の犬が二匹砂地を愉しさうに轉《ころ》げまはつてゐる。  海が明るく青いので、郷子は時々、その景色《けしき》に見惚《みと》れ、生きてゐるたのしさを感じてゐた。――料理屋のやうな、粹《いき》な家の崕下《がけした》を通り、飛行場の建物の前へ來ると、郷子はまたきびす[#「きびす」に傍点]をかへして、羽衣《はごろも》の松の方へ行つた。  近くで郷子《くにこ》を呼んでゐるやうな聲がする。郷子は急に歩調《ほてう》[#「ほてう」は底本では「ほ う」]を早めて、松林のなかの小徑《こみち》へ這入つて行つた。 「郷子さん‥‥」  小見山が不意《ふい》に、別莊の横から出て來て松林の方へやつて來た。  郷子はふつと立ちすくンだ。小見山の表情《へうじやう》は、何時も眼鏡のなかに消《き》えてゐるけれど、痩せた神經質《しんけいしつ》な姿からは、何となく壓《あつ》せられるものがある。 「隨分探しましたよ‥‥」 「まア‥‥何時《いつ》、お着きでいらつしやいましたの?」 「たつたいま、奧さん、風呂《ふろ》だつたものだから、あなたを探《さが》しに來たンです‥‥」  郷子は無意識《むいしき》に歩いてゐた。  小見山も肩を並《なら》べて歩いて來てゐたが、家の庭口《にはぐち》が見えると、小見山は、急に立ちどまつた。 「郷子さん、もういちど、海《うみ》の方へ行つてみませんか?」 「えゝ」 「僕は、こんな聳《そび》えるやうな海の色は初めてゞすよ‥‥聳えるつて云ふとをかしいかも知れないが、青い陽炎《かげろう》ですね、この海は‥‥」  郷子は松葉をひろつて嗅いでゐた。細い針《はり》のやうな葉の匂《にほ》ひは、濕つて苦味《にが》くむせさうだつた。 「まだ、風呂《ふろ》からあがられないでせう、――一寸、散歩《さんぽ》して來ると云つてあるから、大丈夫、海の方へ行つてみませんか?」  郷子はこばむことも出來ないで、風もない森閑《しんかん》とした松林のなかを、小見山と汀《なぎさ》の方へ行つてみた。しばらくは、二人とも默《だま》つて歩いてゐる。  郷子はひろつた松葉《まつば》を、一本づゝに裂《さ》きながら、(何故、貴方は、そんなに遠くなつたンでせう? 何故、手紙《てがみ》を下さらないの‥‥)と、戰場《せんぢやう》の新一へ向つて、子供のやうにすねる氣持でもゐた。 「――おきゝになりましたか?」 「えツ?」 「奧《おく》さんは、――僕のことを、何か云つてゐませんでしたでせうか?」  郷子は赧《あか》くなつてゐる。 「おきゝになつたでせう?」 「えゝ‥‥」  飛行場の犬が前脚《まへあし》を折るやうにして汀《なぎさ》を走りたはむれてゐる。 「四五日前、佐山にも、僕の氣持《きもち》を云つてやつたンですが、戰場のことだから、その手紙が無事《ぶじ》に着くかどうか、――此《この》、一ケ月、僕は、隨分《ずゐぶん》考《かんが》へてゐたンですよ‥‥」  松林の出口で、小見山は草の上へ腰《こし》を降《お》ろした。――郷子は、夫人から、小見山の求婚《きうこん》の話をきかされてから、この二三|日《にち》色々《いろ/\》考《かんが》へあぐねてゐたけれど、いま、小見山の口からはつきり云はれてみると、自分はどんな返事《へんじ》をしていゝのか、わけがわからなくなつて來る。 「僕は、あなたが、三保《みほ》へ行かれるときいて、急に、せつぱつまつた氣持《きもち》になつたンです、――奧さんに、一應、僕の氣持を報告《はうこく》しておいたンですが‥‥本當は、こんな、誰《たれ》もゐない處で、いろいろの事をあなたに打ちあけたかつたンです‥‥」 [#9字下げ]○  小見山は、郷子への土産《みやげ》に時計を買つて來たのだと云つて、ポケットから、紫《むらさき》ビロードの薄手な小さいケースを出した。  蓋をあけると、ふくらんだ白襦子《しろじゆす》の上に、小さい銀色の時計が光つてゐた。 「バルケンと云ふンですがね、氣《き》に入るかどうか‥‥」  海を見てゐた郷子の眼には、時計の硝子が清潔《せいけつ》な感じだつた。郷子は、リボンの汚《よご》れてゐる自分の腕時計を、何氣《なにげ》なく右手でおさへた。 「どら、一寸、かしてごらんなさい‥‥」  小見山がさう云つて、小さい時計《とけい》のネヂをまはしながら、自分の腕時計と時間《じかん》をあはせてゐる。 「そんな立派《りつぱ》なもの、貰ふことありませんもの‥‥」 「どうして? たいしたもンぢやありませんよ。僕が、どうしても郷子さんに贈《おく》りたいンだから、取つておいて下さい」  徐《しづ》かに小見山が立ちあがつた。  郷子は默《だま》つて歩きだした。 「そんな、ひとりで歸つたりしちやア厭《いや》ですよ‥‥」  小見山が郷子の肩《かた》をつかんだ。振りかへつた郷子の表情が、泣き出しさうな赧《あか》い顏だつたので、小見山は激《はげ》しくゆすぶられるやうな情熱《じやうねつ》を感じた。 「どうしたンです? 急に‥‥」 「奧《おく》さま、心配していらつしやいますから‥‥」 「海へ行つてることは知つてゐるンだからいゝですよ、――あなたは、僕に對《たい》して、何か、こだはつてゐることでもあるの?」 「いゝえ‥‥」 「なら、何も、そんな、遠慮《ゑんりよ》なンかしないで、此時計を取つておいて下さい。意味《いみ》があつて上げるンぢやないもの‥‥」  肩《かた》をつかんでゐた手で、すぐ小見山は郷子の左の腕《うで》をとつた。 「だつて、私《わたし》、時計、持つてゐるンですもの」 「持つてたつていゝでせう、――これはまた、しまつといて、僕《ぼく》のをして下さい‥‥」  風が出たのか、松林の梢《こずゑ》がごおツと鳴つてゐる。羽衣《はごろも》の松を見物に來た女學生の一群が、歌をうたひながら、向ふの汀《なぎさ》を行く。  新しい時計の感觸《かんしよく》が、郷子には、腫物《はれもの》でも出來たやうな感じだつた。紫のケースに、古い時計をしまつて、小見山が郷子の手に渡《わた》してくれた。 「僕は、あなたがいゝと云つてくれるまで待《ま》つてゐますよ。――ひよつとしたら、あなたは、佐山に對して、何か、感情《かんじやう》を持つてゐられるかも知れない、と、僕は思《おも》はぬではなかつたンだけれど、――佐山が出征の時に、何氣《なにげ》なく、冗談《じようだん》まじりに云つた言葉のなかに、職業は勿論、いゝ縁談もまた、彼女《かのぢよ》の爲によろしく頼むと云つたことがあるンです。――だから、僕《ぼく》は、佐山に率直《そつちよく》に、僕の氣持を手紙に書いてやつたンですよ‥‥」  遠くで喇叭《ラツパ》の音《おと》がしてゐる。  郷子は淋しい氣持で松葉《まつば》をひろつてゐた。佐山へあてゝ、このごろの生活《せいくわつ》を書きおくらうとしてゐた氣持が、いつぺんに無情《むじやう》の風のなかへ吹きながれていつた。 「佐山さん、そんな、餘計《よけい》なことまで、おたのみになつたのですか? いやだわ、あたし‥‥」  松林《まつばやし》のなかを、二人を呼びに來てゐる女中の姿が見えた。 「私、かへります‥‥」  郷子が堤《どて》をあがつて行くと、小見山も大股について來て、 「ねえ、結婚《けつこん》のことを進めてもかまひませんね? 返事をして下さい‥‥」  と風の中で云つた。 [#9字下げ]○  小見山がしづかに二|階《かい》へあがつて來た。  郷子は縁側《えんがは》の硝子戸に凭《もた》れて、ひとりで月を眺めてゐた。 「階下《した》へ、どうして來ないンですか?」  小見山が、てすり[#「てすり」に傍点]に腰をかけて、郷子の顏に向きあつて來た。南をふくんだ潮風《しほかぜ》が、時々、近くの松林の梢《こずゑ》を鳴らしてゐる。 「僕は、さつき濱邊《はまべ》では、何時までも待ちますと云つたけれど‥‥何だか、もう、持てないなア、――はつきりしてほしいンだけど‥‥」  夕食の時に、小見山は、佐山が養子《やうし》の身分であることや、佐山の許嫁《いひなづけ》の女の話なんかを何氣なくしてゐたのを、郷子はいまも呆《ぼ》んやり考へてゐたのであつた。  佐山新一とは淺《あさ》い知りあひで、郷子とは、何を話しあふひまもなく出征してしまひ、赤坂《あかさか》に許婚のひとがゐると云ふことも、別《べつ》にきゝはしなかつたけれど、郷子は、佐山《さやま》が出征して行く朝の、あの一瞬の、激《はげ》しい感情《かんじやう》を、若い二人の通りすがりな感傷とは受けとらなかつたのだ。  何も話しあはず、約束もしなかつたけれど、二人には、固《かた》いきづな[#「きづな」に傍点]が出來てゐるやうにも郷子は自惚《うぬぼ》れてゐた。――さつき、小見山に、佐山の身上《みのうへ》をさりげなくきかされてみると、あの一瞬の感激《かんげき》は、やつぱり、出征してゆく、若い男の一時の感傷《かんしやう》だつたのかと、郷子は(私でなくてもあの場合は、どんな女《をんな》のひとでもよかつたのかも知れない‥‥)と、遠い戰地《せんち》にある佐山に、郷子は、もう、さよならと云ひたい氣持だつた。  月に向いた郷子の大きい眼が、黒くつやつやと光つてゐた。小見山は立ちあがつて、默《だま》つてる郷子の肩《かた》に手をかけ、子供のやうに可愛くしまつた郷子の白い顎《あご》をみつめてゐた。郷子は、一瞬、固くなつたが、すぐ、さりげなく燈火《とうくわ》のあかるい座敷の方へ行つた。  朝、夫人と郷子と二人で、五|目並《もくなら》べをして遊んだかや[#「かや」に傍点]の碁盤《ごばん》が座敷の眞中においてある。郷子は小見山のけはしい表情《へうじやう》をさけて、碁盤の向ふへ逃げて行つた。小見山は眼鏡《めがね》を光らせて、蒼白《さうはく》な顏をしてゐた。 「郷子《くにこ》さん、――あなたは佐山を愛してゐるンでせう?」 「いゝえ‥‥」 「さう、――ぢやア、ほかに、あなたの心にあるひとでもあるの?」 「‥‥‥‥」  小見山は徐《しづ》かに碁盤《ごばん》をよけて、郷子のそばへやつて來た。郷子は、ひとりで、ながいこと、月を見てゐた幼《をさな》い感傷が、急に切なく涙となつて溢《あふ》れ出さうだつたけれど、ぐつと、その切ない氣持を蹈み耐《こら》へて、碁盤の前に靜かに坐《すわ》つた。 「僕は、事務所《じむしよ》の方も、此頃、あなたがゐないので、何だか呆《ぼ》んやりしてゐるンですよ‥‥だから、急に、奧さんに相談《さうだん》をしたンです」  小見山も碁盤《ごばん》の前へ坐つた。疊の上に置いてあるつぼ[#「つぼ」に傍点]から、白い石をつかみ出して、小見山は、盤の上へざらざらと石を盛りあげては、崩《くづ》してゐる。 「もう、僕だつて二十九ですからねえ。こんな弱味《よわみ》をさらけ出してまで、あなたがほしいと云ふのは、よくよくなンだと、僕自身《ぼくじしん》呆《あき》れかへつてゐます‥‥」  白い石が、郷子の膝《ひざ》へ一つこぼれて來た。  郷子は急に、小見山から貰つた腕の時計《とけい》をはづして、 「私、この時計、どうしても戴《いたゞ》けませんわ‥‥どうしていゝかわかりませんけど、――兎に角、二三日うちに、私、かへります‥‥」 「郷子さん!‥‥まさか、あなた、事務所《じむしよ》をやめるンぢやないでせうねえ?」  盤の上に時計《とけい》をのせて郷子は立ちあがつた。小見山は急にその時計を引《ひ》つたくると、白い碁石の山の中へ、腹立《はらだ》たしさうに、小さい時計を、ごちやごちやと混《ま》ぜこんでしまつた。 [#9字下げ]○  郷子が東京へ着いたのは晝《ひる》すぎだつた。  アパートへ歸ると、敬太郎は外出してゐて、ゐなかつた。入口の狹《せま》い土間《どま》に手紙が二通はふりこんである。  一通は新一からので、一|通《つう》は妹のマツヱからのであつた。郷子は、風呂敷包《ふろしきづゝ》みを部屋の眞中に置き、すぐ、がらがらと窓《まど》を開けた。窓の下の寺の庭では、子供達が戰爭《せんさう》ごつこをして遊んでゐる。 [#ここから1字下げ]  元氣でゐますか。だいぶ仕事《しごと》にもなれたでせう。――僕の方は、別に華々《はな/″\》しい報告も出來ませんが、至つて壯健《さうけん》です。  早いもので、もうやがて四月が來ようとしてゐます。この手紙《てがみ》が着くころは、東京もぽつぽつ櫻のころでせう。こちらもとても暖《あたゝ》かですよ。匪賊《ひぞく》の襲來も二三回ありましたが、だんだんなれて來ました。――あなたは、戰爭と云へば、砲火とゞろく、大激戰《だいげきせん》を考《かんが》へるでせう。僕のやつてゐる鐵道修理《てつだうしゆうり》だの、鐵道の守備隊《しゆびたい》になると、ほんの四五人で、ぽつんぽつんと荒漠《くわうばく》たるところを守るのですから、これも中々あぶない兵隊なのです。地味で、目立つことはありませんが、これも第一線だと、必死《ひつし》で守つてゐるわけです。  この邊は工場地帶《こうぢやうちたい》で、もう、ほとんど難民《なんみん》も戻つて來てをります。紡績工場からは機械の音も時々きこえて來てゐます。  まア、平凡な職務かも知《し》れませんが、精勵勤勉《せいれいきんべん》でなくてはなりませんね。  時々|手紙《てがみ》を下さい。  あなたの寫眞を一枚送つて下さい。夜なんか實に退屈《たいくつ》で、たとへやうもない寂寥《せきれう》を感じます。匪賊《ひぞく》でも出て來れば活氣《くわつき》づくのですが、もう、みんな家族の話、女房の話、子供の話、さうして、その、家族や女房や子供の話が、すえて[#「すえて」に傍点]鼻もちがならなくなるまで、僕達《ぼくたち》はむしかへし、むしかへし、同じ話《はなし》に慰められてゐるのですよ。――僕は、いま、一番、あなたに逢ひたい。[#地から4字上げ]佐山生    植村郷子樣 [#ここで字下げ終わり]  寺の庭をかすめて春風《はるかぜ》が吹きこんで來《く》る。郷子は何度も何度も新一の手紙を讀みかへしてゆきながら、胸のなかは、動悸の打つやうな滿ち足りた氣持《きもち》になつた。  敬太郎《けいたらう》は中々戻つて來ない。  郷子は事務所の律子の處《ところ》へアパートから電話《でんわ》をかけてみた。 「あら、郷子《くにこ》さん? 何時、戻《もど》つて來たのよ。――私、そのうち、お休みの日に、三保へ行つてみようと思つてたのに‥‥」 「あのねえ‥‥私、事務所《じむしよ》をやめてしまはうと思《おも》つてるンですけどね‥‥」 「まア! どうして? 厭《いや》ねえ、そんなに早く飽《あ》いたりして‥‥」 「飽《あ》いたりなンかぢやないの、ねえ、色々《いろ/\》と云へない氣持でなのよ‥‥」 「ふうん、まア、何でもいゝわ、ね、久《ひさ》しぶりだから、あなたのとこへ寄《よ》る、いゝでせう?」 「えゝ來て下さるの、嬉《うれ》しいわ」  電話室《でんわしつ》を出ると、大橋久子《おほはしひさこ》が、一枝を連れて郷子を訪ねて來てゐた。 「まア、いつたい、何處へあなた行つてゐたンです? 隨分《ずゐぶん》、會はなかつたわねえ‥‥何時《いつ》かは、このひと、御心配《ごしんぱい》かけたりして、ほんとにありがたう‥‥」  一枝は地味《ぢみ》な縞のスーツを着てゐた。  久子は羽織のない輕々とした姿《すがた》で、窓に腰をかけるなり、 「私ねえ、いよいよ、遠くに行くことになつたンですよ、――何處《どこ》だと思ふ? 滿州《まんしう》へ行くのよ、新京《しんきやう》なの‥‥」  急に、佐山《さやま》から借りた枕時計《まくらどけい》が机の上で激しい音をたてゝりりーんと鳴り始めた。 [#9字下げ]○  隅田の河風《かはかぜ》が、歩きつかれた郷子と安子《やすこ》の顏に、薄荷のやうに涼しく吹いて來た。 「一度、田舍へ歸つてみたらどうなのよ? ――職業《しよくげふ》もなくて、しかも躯《からだ》を惡くしちやア、何にもならないぢやないの?」 「えゝ、――でも、私《わたし》は、どうしたつて歸れやしないわ、どんなことがあつても‥‥」 「一寸、郷子さん、そこへ腰をかけてごらんなさい、――ひよつとしたら、あなた、脚氣《かつけ》ぢやないかしら?」 「どうして?」  公園の並木《なみき》の櫻がいま滿開《まんかい》で、ベンチの上にも花びらが吹きこぼれてゐる。  郷子はベンチに腰《こし》を降ろした。  安子がしやがんで、着物の上から、しづかに郷子《くにこ》の右の腓腸部《はいちやうぶ》をつかんだ。 「痛《いた》い?」 「さうね、一寸《ちよつと》痛《いた》い‥‥」 「さう、こゝはどうなの?」  今度は膝蓋骨《しつがいこつ》の下を叩いてみた。安子《やすこ》は二度も三度も叩いてゐたが、郷子の脚はほんの一寸しかあがらない。 「少し、やつぱり、惡《わる》いやうよ‥‥」 「さう、あなたが診てくれるンだから、私、その氣《け》があるのかも知《し》れないわね。――いやアね、脚氣《かつけ》だなンて‥‥」 「大丈夫よ、そのうちすぐよくなつてよ。――オリザニン注射《ちうしや》なンかいゝと思ふンだけど、まア、せいぜい、麥の御飯《ごはん》でも、召し上れ‥‥」 「冗談はさておいて、――私、ずつと此樣《このやう》なありさまでせう? 今日《けふ》、あなたから電話《でんわ》があつてとても嬉《うれ》しかつたの‥‥何《なん》でもいゝわ。その池田さんてお宅へ紹介して頂戴!」  郷子は大野の事務所をやめて二週間ばかりになる。弟の敬太郎は、内海の紹介《せうかい》で、武藏野飛行機製作所の寄宿舍《きしゆくしや》に入つてゐた。小見山とは三保で別れたきり郷子はずつと逢はない。 「ねえ、郷子さん、――小間使兼《こまづかひけん》家庭教師《かていけうし》のやうなものなの‥‥そのお孃さん、まだ小學生なのよ」 「いくつ?」  十一か二でせう、とてもいゝ娘だわ、私、半年も派出《はしゆつ》してゝ、そこの奧樣《おくさま》についてたんだもの、もうお亡くなりになつたけれど‥‥」 「――ぢやア、甘《あま》えて、私、行《い》つてみるわ。いゝかしら? 住込んでしまへばアパート代もいらないし、助かるわねえ‥‥」 「――大野《おほの》さんの奧樣、三保《みほ》へいらつしたつて、大分、よくなつていらつした?」 「えゝ、とてもいゝの、もう、こつちへ戻《もど》つて來ていらつしやるンぢやないかしら‥‥」  もや[#「もや」に傍点]のこめてゐるやうな、茄子色の河の上を、ボートが二|艘《さう》、すいすいと河上の白鬚橋《しらひげばし》の方へ行つてゐる。  郷子は、雪《ゆき》の降る日に、新《しん》一と、こゝでボートに乘つたことを思ひ出した。 「安子さん‥‥私、ねえ、東京へ來た時、占《うらな》ひに觀てもらつたのよ。そしたら、私《わたし》のことを病身だなンて云つたけど、ほんとに、あたつたわ‥‥」  郷子はさやがた[#「さやがた」に傍点]の紫銘仙《むらさきめいせん》に更紗模樣の帶を締《し》めてゐた。安子は灰色のワンピースを着てゐる。  二人は城東バスに乘つて上野櫻木町へ行つた。花《はな》どきだつたのでバスのなかは滿員《まんゐん》だつた。  バスは千束《せんぞく》の通りを走つて、入谷《いりや》を拔け、埃つぽい風のなかをぐんぐん走つてゐる。 「東京《とうきやう》つて、何處まで行つても街《まち》があるのねえ‥‥」 「廣いでせう? ――兎《と》に角《かく》、これから、たいへんよ、あなた‥‥」 「さうねえ‥‥」  郷子《くにこ》が、右の頬に何氣ない人の視線《しせん》を感じたので、ふつと振りかへつて四圍を見まはしてゐると、佐山の友人の岡部《をかべ》が、郷子の方をみてにこにこ笑《わら》つてゐた。 [#9字下げ]○  應接間《おうせつま》のピアノの上に、少女の寫眞が掛けてあつた。 「ねえ、安子さん、あのお孃《ぢやう》ちやん?」 「さう、――可愛《かあい》い子供でせう、奈津子さんつて云ふのよ」  二人が待つてゐるところへ、賑やかな跫音がして、奈津子《なつこ》と、奈津子の祖母が這入《はい》つて來た。安子は、この老夫人《らうふじん》のことを御隱居樣と云つてゐる。  廣い家ではなかつたが、何となく品のいゝ構へで、狹《せま》い庭にはさるすべりの木や躑躅《つゝじ》が植つてゐる。 「奈津子さん、お淋《さび》しいでせう?――御隱居樣《ごいんきよさま》、その後お躯は如何でいらつしやいますか?」  安子が奈津子《なつこ》を膝にしてたづねてゐる。 「えゝ、ありがたう、だいぶいゝンだけど、まだねえ‥‥でも、陽氣《やうき》がよくなつたンで吻《ほ》つとしてますよ。――ところで、大野《おほの》の奧さん、もう、よくおなりになつたかしら?」  奈津子の横顏《よこがほ》をそつと眺めてゐた郷子《くにこ》は(おや?)とおもつた。  安子は、はきはきした口調《くてう》で、 「はア、もう、こつちの方へおかへりになつてゐる御樣子《ごやうす》ですけれど‥‥」 「あら、さうなの、それはよかつたわねえ」 「この方、植村郷子《うゑむらくにこ》さんて、私と女學校時代のお友達《ともだち》なンでございますのよ‥‥」 「このあひだのお話《はなし》の方でせう? さア、こんな、甘《あま》えン坊をみて下さるかしら?」  奈津子がくすりと笑つた。膝小僧の出た短い空色の服が、栗色《くりいろ》の肌に似合つて可愛《かあい》い。 「大野の奧さんと、三保《みほ》へ行つていらつしたンですつて?」  郷子は大野を知つてゐるらしい、老夫人のくちぶりに、けゞんな表情《へうじやう》で、 「はア、一|週間《しうかん》ばかり‥‥」 「さうですか、――まア、この方だつたら、長くゐて貰《もら》へれば‥‥ねえ、奈津子《なつこ》さん、よろしくつて、おじぎ[#「じぎ」に傍点]をなさらないの?」  奈津子はまたくすりと笑つて、ぺこりとおじぎをした。郷子《くにこ》は、奈津子の笑つた表情《へうじやう》から、誰かに似てゐるおもざしを感《かん》じた。  二三日してうかゞひます、と云ふ約束をして、郷子と安子が戸外《こぐわい》へ出たのは、丁度《ちやうど》岡部《をかべ》と約束をした四|時半《じはん》きつかりだつた。  寛永寺坂の花屋の前で、岡部が二人《ふたり》を待つてゐるのが見えた。 「ねえ、安子さん‥‥」 「なアに?」 「なアにつて、――あのおばあさん、大野《おほの》さんを知つてるンぢやないの?」 「えゝ‥‥」 「親類《しんるい》[#「しんるい」は底本では「しんるゐ」]なの?」 「うゝん‥‥」 「ぢやア、何よ? あの、奈津子さんて云ふの、大野《おほの》さんに似てるわねえ‥‥」 「大野さんのお孃《ぢやう》さんだもの‥‥」 「まア! いやな、安子さん、――どうして、いまゝで默つてたの?」 「だつて、そんなこと、あなたが、氣に入つて住み込めば、報告《はうこく》するし、自然《しぜん》にわかることぢやないの‥‥」 「だつて、――大野《おほの》さんの奧さまには子供《こども》さんないぢやありませんか‥‥」 「えゝ、さうよ、――大野《おほの》さんの奧《おく》さまにはないけど、ほかの女の方にあつたの、たつた此間、肺が惡《わる》くて、その方、お亡くなりになつたけど‥‥」  きいてゐて、郷子は足の裏《うら》が熱くなるやうな氣持《きもち》だつた。  岡部が向ふで片手を擧げてゐる。郷子は岡部にあふのが急に厭《いや》な氣持《きもち》だつたけれど、戰地での佐山の消息《せうそく》もきいてみたかつた。 [#9字下げ]○  こゝは小さいミルクホール。岡部《をかべ》は椅子に腰《こし》をかけるなり、煙草を咥へて、 「小見山《こみやま》に逢ひましたよ」  と云つた。 「何時《いつ》ですの?」  郷子は、安子を紹介して腰をかけるなり、岡部《をかべ》が小見山の話を持ち出《だ》したのでどぎまぎしてゐる。 「小見山も不都合《ふつがふ》な奴は奴なンだが、悄氣《しよげ》てはゐましたよ。‥‥一度、貴女のおうちを訪ねたつて云つてましたがね‥‥」 「まア! 何時《いつ》でせう? 私、ちつとも知りませんでしたわ‥‥」  三人の前にソーダ水が來た。安子はストローを捨《す》てゝコツプからソーダ水《すゐ》を飮んでゐる。 「佐山《さやま》さんから、何か、おたよりございましたでせうか?」 「いや、それが、――その、佐山の手紙も貴女《あなた》に見せたいンだ‥‥小見山の手紙《てがみ》を見たことについて、自分《じぶん》の氣持を述べて來てゐますがね‥‥」 「まア! どんなことでせう?」  岡部《をかべ》は、急に默つた。  安子は腕時計を見てゐたが、ソーダ水をすつかり飮《の》み干《ほ》すと、 「あのウ‥‥私、一寸、時間《じかん》で行かなくちやならない處《ところ》があるのよ、――おさきに失禮さして戴いていゝかしら」  立ちあがつて、安子は二人へ挨拶《あいさつ》をした。 「まだ、いゝぢやありませんか、――どうです、御《ご》一|緒《しよ》に上野でも歩《ある》いてみませんか?」  岡部が、安子《やすこ》をとめてゐる。郷子《くにこ》は、佐山の手紙のことが氣にかゝつて默つてゐた。 「えゝ、でも、さつき、郷子さんと二人で隅田公園《すみだこうゑん》を歩いて來ましたの、――いづれ、また‥」  安子《やすこ》はさう云つて、郷子《くにこ》の肩を叩いて、またそのうち逢ひませうねとミルクホールを出て行つた。  何處からかレコードがきこえて來る。 「なかなかしつかりしたひとですね‥‥」 「えゝ、學校時代《がくかうじだい》から、――一寸、冷《つめた》いひとだつたンですけど、その冷さが、あのひとをしつかり者にしてるのだとおもひますわ‥‥」  少時《しばらく》してから岡部は、 「佐山は、小見山と郷子さんの結婚を、まことに結構《けつこう》なことだと云つて來《き》てるンですよ。勿論、小見山の手紙《てがみ》を見てからの、僕への所感《しよかん》なンですがね。――だから、小見山には、もう、結婚おめでたうの、佐山の手紙が着いてる頃でせう‥‥、僕の所へ昨日《きのふ》、來たンですからねえ、――さつきも、友人《いうじん》を尋ねましてねえ、勿論《もちろん》、小見山も、佐山も、僕とも共通の學校時代の友人なンですが‥‥佐山は、そりやア、養子は養子の身分《みぶん》だが、全然本人に許婚のひとを愛《あい》してゐる氣持はないし、許婚《いゝなづけ》の方のひとも、また、僕達《ぼくたち》がみるところ、佐山に對して、あまり好意は持つてゐないやうだし、――まア、云はゞ、自然解消《しぜんかいせう》のかたちで、佐山も一人住《ひとりずま》ひしてゐたンですからねえ‥‥そいつは、仕方《しかた》ないさと云つてましたよ」 「小見山さん、怒つていらつしやいましたでせう?――色々お世話《せわ》になりつぱなしで、御挨拶もしないで飛《と》び出して來《き》たりしまして‥‥」 「いやア、まア、いゝでせう‥‥それもこれも人生《じんせい》ですからねえ‥‥」  郷子は躯《からだ》の惡いせゐもあつたが、今朝《けさ》、田舍の義母から來た手紙だの、岡部の話だので、何となく、心細くなつて來て、死んでしまひたいやうな氣持《きもち》になつてゐた。  郷子《くにこ》が上京する時に盜んだ父の金が、いまだに返濟も出來《でき》ず、しかも、大津の大資本の商店には押されてしまつて、昔《むかし》ながらの郷子の家は、もう、間もなく閉《し》めてしまはなければならないだらうと云ふたよりである。埃をかぶつた故郷《こきやう》の雜貨屋の前に、郷子の魂はふらふらと飛《と》んで行つてゐた。 [#9字下げ]○  郷子が部屋《へや》をかたづけてゐると、奈津子がそつと郷子を覗きに來《き》た。 「あら! おはいりになりません?」 「えゝ」 「おばあさまは?」 「お部屋《へや》よ‥‥」 「あの、女中さんの名前《なまへ》は何て云ふの?」 「お咲《さき》さん‥‥」 「奈津子さんはピアノ習《なら》つていらつしやるの?」 「えゝ、でも、むづかしく閉口《へいこう》しちやふわ‥‥」 「まア! あンなこと‥‥」 「お父《とう》さま、時々彈くのよ‥‥」 「お父さま、何時《いつ》、おかへりになるの?」 「時々《とき/″\》、‥‥お父樣、――植村さんを知《し》つてるンですつてね?」 「えゝ、何時《いつ》、おきゝになつた?」 「ゆうべ‥‥」  何時か、大野夫人の誕生日《たんじやうび》のかへり、小見山と律子と三人歩きながらの對話《たいわ》に、律子が大野さんはだいぶお遊《あそ》びになるンですつてねと小見山に尋《たづ》ねてゐたことがある。小見山は、それに就いて辯解をしてゐたやうだつたけれど、郷子《くにこ》は、大野の生活の裏面をみて、男《をとこ》の心と云ふものが、何となく底知《そこし》れなく怖ろしいものにも思はれて來た。  大野はどんなにして自分《じぶん》に會ふだらう‥‥安子が云《い》つたけれど、 「ねえ、平凡《へいぼん》に働けばいゝのよ、私達は私達なのよ、清濁あはせのまなくちやア、都會では、生きてゆけないことよ」  郷子は奈津子《なつこ》の愛くるしい顏をぢつとみつめながら、 「奈津子《なつこ》さんは、いくつ?」  と尋ねた。 「九ツ」 「さう、何が一等お好《す》き?」 「――お林檎《りんご》よ」  郷子は、奈津子の亡くなつた若い母親《はゝおや》のことをきゝたかつたけれど、それは慘酷《ざんこく》でようたづねなかつた。 「ねえ、植村《うゑむら》さんだなンて云はないで、郷子さんて呼《よ》んで頂戴‥‥」 「だつてエ‥‥」 「どうして?」 「大きいひとに――きまりが惡《わる》いわ」  郷子は急に奈津子が可愛《かあい》くなつて、白い割烹着の上《うへ》から奈津子を抱きあげた。 「あゝ重《おも》い、とツても重いわ‥‥」 「お母さま、死《し》ぬ時、奈津子を抱いたのよ、重《おも》くつて、どうにもならないつて‥‥」  郷子は、安子の云つたとほり、自分《じぶん》の仕事に忠實に働けばいゝとおもつた。  表庭の躑躅《つゝじ》の赤い花が、造花のやうに咲《さ》きほうけてゐる。  郷子の部屋は應接間《おうせつま》の隣の四疊半で西向きに古風な丸窓がある。佐山《さやま》に借りた火鉢も机も持つて來た。 「ねえ、植村さん、こんど、動物園に行《ゆ》きませうよ」 「えゝ、行《ゆ》きませう‥‥」 「淺草《あさくさ》もねえ‥‥」 「えゝ行きませう、――學校のお休《やす》みの日にねえ‥‥」  むしむしする日だつた。郷子《くにこ》は押入へ火鉢をしまひ、割烹着をぬいでゐると、奈津子《なつこ》が急に玄關へ走《はし》つて行つた。 「お父樣! お父樣《とうさま》でせう! お咲さん‥‥」  と女中を呼んでゐる聲《こゑ》がしてゐる。  郷子は動悸《どうき》がして仕方がなかつた。 (どんな風に、御挨拶《ごあいさつ》していゝかしら‥‥)  玄關の開《あ》く音がして、奈津子のはしやいでゐる聲《こゑ》がしてゐる。郷子は濡手拭で顏を拭《ふ》いて、靜かに廊下へ出《で》てみた。 [#9字下げ]○ 「戸田さんから、家庭教師《かていけうし》に來てくれるひとを、貴女ではどうかと、持ち出された時《とき》は、一寸吃驚したンだけど――小見山との問題もあつて、貴女《あなた》が素直に來て下さるかどうか、實《じつ》は、私は心配してゐたンですよ」 「はア、――あの時《とき》は、何ですか、我まゝなことばかり、いたしまして‥‥」 「いや、まア、いゝでせう、――でも、小見山《こみやま》は非常に、貴女のことを考へてゐましてねえ、此間も二人で夕飯《ゆふめし》を食べたンですが、その時、郷子さんに、拒絶《きよぜつ》されるにしても、こんな、ぶつきらぼうな別れかたはしたくなかつた、なンてさかんに云つてゐましたよ。――貴女《あなた》のことだけぢやないだらうが‥‥酒量《しゆりやう》も強くなつて、困つた状態《じやうたい》だと思つてゐます‥‥」  奈津子はさつきから、腰《こし》をかけてみたり立つてみたりしてピアノを彈《ひ》いてゐる。窓邊の大野の背中《せなか》にレースのカアテンが風にふはふはゆれてゐた。 「吃驚《びつくり》したでせう、こゝへ來てみて‥‥」 「はア‥‥」 「どうです? 小見山《こみやま》の問題なンか、さらりとして戴いて、奈津子の面倒をみて戴《いたゞ》けますか?」  郷子は三保で何日かをともに暮《くら》してゐた大野夫人のことを思《おも》ひ出してゐた。お孃さんけの拔けきらない、のびのびした夫人のことを考《かんが》へるにつけて、郷子は、もう、これきり夫人《ふじん》には堂々と逢へないやうな氣《き》もしてならなかつた。 「小見山にも、こゝのことは、全然|知《し》らしてありませんし、――何《なん》とか、この子供の面倒をみてやつて下《くだ》さい‥‥」 「えゝ‥‥」 「貴女が三保から歸られた當時《たうじ》、小見山と私とで、貴女のアパートへお訪《たづ》ねしたことがあつたンですよ、きゝましたか?」 「まア! ちつとも知《し》りませんでしたわ。小見山さんがおいでになつたことは、ひとからきゝましたけれど‥‥」 「何時《いつ》だつたかな、雨の日、貴女を送つて行《い》つたンで、覺えてゐたンですよ‥‥」  郷子もいま、丁度、その日《ひ》のことを思ひ出《だ》してゐた。 「奧《おく》さまは、私のことを怒つていらつしやいますでせう?」 「いや、別に怒《おこ》つてもゐないが、がつかりしてゐる樣子ですね、――貴女《あなた》と云ふひとは、女にも男にも好意《かうい》を持たれる、何かゞあるンだなア、家内《かない》は、いまだに、貴女の話をしてゐるンですよ」 「ほんとに、いゝ奧《おく》さまですわ、――私は、隨分、お世話になりまして‥‥何《なん》だか、そのまゝ歸つて來たりして、濟まない氣持《きもち》でをります‥‥」  その濟まなさの氣持のなかには、偶然《ぐうぜん》とは云へ、大野の蔭の生活のなかにゐる、子供の、家庭教師になつて來《き》てしまつた自分の、あつかましさを反省《はんせい》してゞあつた。 (だつて、こんなこと、私《わたし》の知つたことぢやないもの‥‥)郷子は自分の心《こゝろ》に云ひわけもしてみた。  奈津子が、ピアノの蓋《ふた》をぱたんと閉めて窓へ行《い》つた。 「あゝ涼《すゞ》しい」 「ねえ、奈津子、晩《ばん》は、おばあさんや、植村さんみんなで、何處《どこ》かへ、御飯を食べに行きませうか?」 「御飯? だつて、今日《けふ》、學校の先生、いまは非常時だつて云《い》つたわよ、――でも、今日だけいゝかしら‥‥」  大野は、にやにや笑《わら》つてゐたが、郷子は妙《めう》に笑へなかつた。 「ねえ、非常時《ひじやうじ》つて、いゝことなの、いけないことなの?」  奈津子が、卓子の煙草《たばこ》セットをいぢりながら、二人に何氣《なにげ》なく尋ねてゐる。 [#9字下げ]○  天文臺の裏門《うらもん》のところで、郷子たちが、バスを降りると、岡部が、小舍《こや》のやうなバスの待合所のところで待《ま》つてゐた。 「ほんとに來《き》ましたね‥‥」 「えゝ、お忙《いそ》がしいンぢやございません?」 「いや、いま、丁度、お晝《ひる》で、いゝとこなンですよ」 「空氣が綺麗《きれい》だし、木が多くて、せいせいしますね」 「田舍ですよ、このへんは、――そのお孃《ぢやう》さんですか?」 「えゝさう、奈津子さんておつしやるの」  奈津子《なつこ》は麥藁帽子をあみだ[#「あみだ」に傍点]にかぶつて、黄ろい洋服《やうふく》を着てゐた。 「奈津子さん、疲《つか》れましたか?」 「いゝえ‥‥」 「さう、疲れないンなら、その邊《へん》を、みなさんで、歩いてみませうか、――金曜日《きんえうび》だと、天文臺のなかを觀《み》せてくれるンですがね、それも紹介がなくちやア、中々|參觀《さんくわん》出來ないンで‥‥まア、外からだけでも見て行《い》つて下さい‥‥」  何時か小見山が云つてゐたけれど、岡部《をかべ》はダニヱル彗星再發見とかで、近く、協力者《けふりよくしや》のひととともに天文學會から表彰《へうしやう》されると、きいたことがあつたが、如何《いか》にも、それにふさはしい人物だと、郷子は、岡部の後姿を眺めながらほゝゑましい氣持《きもち》だつた。 「あの青い塔が、アインシユタイン塔《たふ》、――時々、僕はあの塔の上へ登つて雀の巣を取《と》つて來るンですよ」 「まア! 雀の巣《す》?」 「雀が澤山《たくさん》ゐるのね‥‥」  奈津子も、久しぶりに雜木《ざふき》の多い田舍の景色をみて愉《たの》しさうだつた。 「ほら、かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]みたいなおうちがあるわ、郷子さん、あれ、なアに?」 「どれ?」 「あゝ、あれは、子午環室《しごくわんしつ》、時を調べるところですよ、子午儀だの、報時室《はうじしつ》だのあるンですよ――こつちの[#「こつちの」は底本では「このちの」]、銀色の圓屋根ね、あすこが六十五糎赤道儀室、一寸、お伽話《とぎばなし》のお家みたいでせう?」 「自轉車で、あのひとたち、何處《どこ》へ行くのかしら?」  奈津子が不思議《ふしぎ》さうに一々たづねてゐる。 「あゝ、あのひとたちは、官舍へ晝御飯を食べに歸《かへ》るンですよ、――何《なに》もありませんけど、僕の合宿へも來《き》て下さいね」  天文臺の本館前で、岡部《をかべ》は、自分の自轉車を引き出して來て、乘《の》りもしないで、郷子達の方へゆつくりついて來た。本館前の廣《ひろ》いロオタリイのやうな處には、シユロの木や、躑躅《つゝじ》[#「つゝじ」は底本では「つゞじ」]や、青木が植《う》ゑこんであつた。赤や白の躑躅がびつしり咲《さ》いてゐた。 「あら、あの、車《くるま》のついたおうちはなアに?」  奈津子が指差《ゆびさ》した方には、まるで獨逸の田舍にでもあるやうな、床《ゆか》につむぎ車《くるま》のやうな、大きな車輪のついた小舍がレールの上へ乘《の》つかつてゐた。 「あゝ、あれは、こゝを通《とほ》る子午線で時を計る處《ところ》なンですよ‥‥」  岡部は、片手《かたて》で自轉車を持ち、片手でラケツトを振る眞似《まね》をしてゐる。 「――手紙に、心苦しいお願ひの用事《ようじ》なンてありましたが、何のことです?」 「えゝ、あとで‥‥」  郷子は奈津子に氣を兼《か》ねて一寸默つてゐた。 「何でも、僕で出來ることなら、遠慮《ゑんりよ》なく云つて下さい。――ほら、あすこに、女《をんな》のひとが行くでせう?」 「えゝ綺麗《きれい》な方《かた》ですね」 「あのひとは暦《こよみ》の計算をしてゐるンですが、タイプも打つし、中々《なか/\》しつかりしたひとですよ。――僕はほんたうは、植村さんのやうなひとは、こんな處《ところ》へ來て働いてくれるといゝなと思つたンですけどねえ‥‥」 [#9字下げ]○ 「郷子さん、蝉《せみ》が鳴いてゐるのね」 「蝉ぢやないでせう、地蟲《ぢむし》か何かぢやないかしら‥‥」  岡部の部屋は二階で、窓に蒲團《ふとん》が干してあつた。奈津子は額《ひたひ》にびつしり汗《あせ》をかいてゐた。郷子が、ハンカチで奈津子《なつこ》の額を拭いてやつてゐると、岡部がサイダーとコツプを持つて二階へ上つて來た。  粗末《そまつ》な書棚に、フランス本がぎつしりならべてある。机の上にはレコードも積み重《かさ》ねてあつた。 「佐山はいま、常州《じやうしう》と云ふところへ行つてゐるやうですね。此間、ハガキが來《き》たンですが、郷子さんの處《ところ》には來ませんか?」 「ええ、もう、長いこと來《き》ませんけど、私も、色々御相談をしたい事《こと》があるンですけどねえ、――戰地にいらつしやる方に、くだらないことをお知《し》らせしてもと思ひまして‥‥」 「でも、手紙《てがみ》はたびたび出してやつて下さい‥‥」 「はア、二三日前も、建築事務所《けんちくじむしよ》の方をやめたことだけはお知らせしましたけれど、――小見山さんには、私が家庭教師《かていけうし》をしてゐるなンて、おつしやいませんでせう?」 「云《い》ふもンですか」 [#ここから1字下げ]  虞美人草《ぐびじんさう》を送つてくれて有難う、おもひがけない慰問品《ゐもんひん》に感謝、武藏坊辨慶が、法科にゐたと云ふ皮肉は、中々|愉快《ゆくわい》なり。帝大の採鑛冶金でも出てゐたら辨慶《べんけい》もいまごろは七ツ道具をさげて、工兵《こうへい》伍長位になつてゐるかな。※[#「女+尾」、第3水準1-15-81]々《びゝ》としてつゞく藤尾物語は、現在《げんざい》の自分には少々シゲキが強《つよ》すぎる。小見山と郷子君の問題、よくわかつた。いまのところ、それに觸《ふ》れたくなし。――此頃、僕も、だんだん天體《てんたい》を觀るくせ[#「くせ」に傍点]がついた。星を見られるだけでも此《この》頃は愉しい。ダニヱル彗星《すゐせい》のその後の消息、報告《はうこく》ありたし。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、こまかく書《か》かれた佐山のハガキを暫く、何度《なんど》も讀みかへしてゐた。 「此ハガキでみますと、佐山《さやま》さんには、私の氣持は少しも通じてゐませんのね――一|度《ど》、私はくはしくお手紙《てがみ》をさしあげたンですのに‥‥」 「さうですか? ――何《なに》しろ、僕からの手紙だつて何時《いつ》もくひちがひのありさまですからねえ‥‥でも、着《つ》いてはゐるでせう‥‥」  奈津子は、岡部に、サイダーを拔《ぬ》いて貰つてごくごく飮んでゐる。 「私だつて、色々《いろ/\》のことがあつたンですもの‥‥貴方《あなた》へ、先日、お手紙書きましたやうに、變なめぐりあはせで、いまの職業《しよくげふ》についたンですけど‥‥」  郷子は、鼠が猫《ねこ》に追ひつめられたやうな現在ですと云つて、岡部に、故郷《こきやう》の家庭の事情も打ちあけてしまつた。 「いまの御主人《ごしゆじん》に云へば、それは何でもなく拜借願へるかも知《し》れませんけど、――私、何だか、それが厭《いや》なンですの、小見山さんには勿論ですし、――働《はたら》いて、いまにも故郷へ送れるつもりで出て來た私《わたし》が、今日まで、自分一人の生活がやつとなもンですから‥‥」 「建築事務所で、どの位|貰《もら》つてたンです?」 「ほんとに少《すこ》し、四拾圓ほどですわ‥‥」  大野に對して、何度《なんど》か、借金を申し込んでみようと思《おも》つたと云ふ話もした。 「それに、弟がこちらへ參りましたりして、私、益々《ます/\》つらい生活でしたの‥‥物價は段々|高《たか》くなつてゆくばかりですし、――何度か、もつと低《ひく》いところへ落ちていつて、お金の取れる仕事をと考《かんが》へてみないこともございませんでしたけど‥‥」  奈津子は窓に凭れて唱歌《しやうか》をうたつてゐる。  岡部は泡の消えたサイダーをくちもとへ持《も》つて行きながら、 「その位《くらゐ》のことだつたら、何とか、僕が考《かんが》へてみませう」  と小さい聲《こゑ》で云つてくれた。 [#9字下げ]○  久しく新宿《しんじゆく》の街をみないので、郷子は天文臺の歸り、新宿驛へ降りて、奈津子《なつこ》と二人で、本屋の紀伊國屋までぶらぶら歩《ある》いて行つた。 「何を買《か》ふの?」 「本を買ふのよ、待《ま》つてゝ下さいね‥‥」  郷子は何を買《か》ひたいと云ふ目的もなかつたけれど、日常、孤獨で乾《かわ》いてゐる氣持を、讀書によつて慰《なぐさ》めてみたいとおもひ、奈津子の手を握つて、文庫《ぶんこ》の並んでゐる書棚にぢつと眼を晒してゐた。奈津子は小さい聲《こゑ》で、ドミニツクとか、プチ・シヨウズとか、讀《よ》みやすい本の題字をひろつて讀《よ》んでゐる。  郷子は、ふつと(女の一|生《しやう》)と云ふ題に眼《め》をすゑてゐた。 (女《をんな》の一生、モーパツサン、――いつたいどんなことが書いてあるのかしら)  郷子は、それを一|册《さつ》買つた。  岡部の部屋にも、佐山《さやま》の部屋にも、小見山の部屋にも樣々な本が澤山《たくさん》あつたものだつたが――岡部は此樣《このやう》な時代にあつては、ただ、自分の研究の、星の世界《せかい》を探究してゐる時だけが、生甲斐を感《かん》じてゐるんだと云つて、いまは本を讀むにも、音樂《おんがく》を聽くにも、何となく目標が失せてしまつて、私の書齋《しよさい》は埃にまみれたまゝですよと云つてゐたのを、郷子《くにこ》は色々な本に眼をさらしてゆきながらおもひ出《だ》してゐる。 「一寸! 植村《うゑむら》さんぢやありませんか?」  郷子が振りかへると同時《どうじ》だつた、――大野夫人が黒いレースの肩掛《かたか》けを唇にあてゝ、ほんの、眼と鼻《はな》のところに、にこにこ笑つてつゝ立つてゐた。 (まア!)  郷子は心のなかで驚《おどろ》き呆れながら、おもはず奈津子の小さい手をぎゆつと握《にぎ》りしめた。 「しばらく‥‥どうしたの? あれつきり、かへつてしまつて――事務所《じむしよ》の方もやめちやつて、私とても心配《しんぱい》してゐたの‥‥小見山さん、大野《おほの》と、あなたのところにうかゞつたりしたのよ‥‥‥」  郷子は腋《わき》の下に汗《あせ》が出さうだつた。  女店員が夫人の買物《かひもの》を持つて來たので、郷子は吻つと息をつきながら、奈津子《なつこ》の手を靜かにはなした。 「いやな方《かた》ねえ‥‥默つて、やめちやつたりして、小見山《こみやま》さんからきいたンですけど、色々な御事情《ごじじやう》があつたりしたンですつてね? ――いま、何處にいらつしやるの?」  夫人は、郷子を發見《はつけん》したよろこびで、如何にもわくわくしてゐると云つた表情だつた。 「もう買ひ物《もの》なすつて?」 「はア‥‥」 「ぢやあ、出ませう、お茶《ちや》でもいかゞ?」 「えゝ、――また、この次《つぎ》に、一寸、急ぎますものですから‥‥」  夫人《ふじん》は奈津子をみてゐた。 「可愛《かあい》いお孃さんね、――どなた?」  郷子は默《だま》つてゐた。 (大野さんのお孃さんだなンて、どうして云《い》へるだらう‥‥)  郷子は、何《なん》となく白けたおもひで固くなつてゐた、都會《とくわい》で生活するには、清濁あはせのまなくちやいけないと安子《やすこ》が云つたけれど、郷子はその清濁の濁の中に身をちゞめて生きてゐる自分がおぞましく、一瞬の利己的《りこてき》な氣持から、幼い奈津子の手を放した自分に、何《なん》とない矛盾を感じてゐた。 「今日はいゝお天氣《てんき》ねえ‥‥大野は、今日は、關西へ出掛けて行つて留守《るす》なの、どう? いらつしやらない?」 「はア、でも、今日《けふ》は連れもありますし、いづれまた‥‥」 「さう、殘念《ざんねん》だわ、ぢやア、郷子さんのいまゐる處を書《か》いといて頂戴」  郷子はせつぱつまつて、蒲田區《かまたく》仲六郷二丁目と、東京へ來て、まだ逢ひに行かない、生母《はは》の住所を紙片《しへん》へ書いて、夫人へ渡した。 [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ] ―お手紙、二|通《つう》ともみました。務めてをられるところをよされるさうですが、その後《ご》の生活はどうしてやつてゆきますか。  小見山の問題も、貴女《あなた》が、氣持がすゝまなければ仕方もないことでせう。戰時下《せんじか》にある内地の生活《せいくわつ》は、女一人、しかも弟さんをかゝへての生活は大變《たいへん》なことだとおもはれます。だが、しかし、もつと、澤山《たくさん》の犧牲を拂つてゐるひとたちの事も考へてみて下《くだ》さい。――僕は二通目の、貴女《あなた》の手紙にある、何時までも待つてゐて下さると云ふ御氣持《おきもち》には、千萬感謝しますが、僕は、戰場《せんぢやう》へ來て、猛々しくなつたと云ふのか、一つの觀念《くわんねん》が生れたと云ふのか、結婚も、戀愛感情《れんあいかんじやう》も、現在は、何等のおもひも胸にありません。戰場へ來《き》て、いまこそ青年らしい沃野を發見《はつけん》したかたちです。強靱《きやうじん》なものを、ひしひしと感じてゐます。  幻滅をひけらかし、僕の精神的《せいしんてき》な不毛地の哀感を、貴女にも甘えて誘《さそ》ひかけてゐましたが、もう、佐山新《さやましん》一は、路傍の男としてみて下さい。  四五日前に、僕達は、本部隊《ほんぶたい》と別れて鎭江へ來ました。近日、また、前進《ぜんしん》して行くことでせうが、こゝは落《お》ちついたいゝ町です。勿論、家と云ふ家はこはれてゐますが、楊柳《やうりう》は芽吹き時々僕達の宿舍の庭に、大《おほ》きい蜂が澤山飛んで來ます。  兎に角、御精勵《ごせいれい》御自重《ごじちよう》を祈ります。先日も、弟よりの通信によると、父が風邪《かぜ》で寢てゐるとありましたが、そんなことも、わづかな金《かね》を送金してやるのみで、こゝからは何も出來《でき》ないのです。高齡《かうれい》ですから、病状も、僕の方へは輕く云つて來《き》てゐるのではないかとうたぐつてみたり、そんなことも考《かんが》へてゐます。  貴女は貴女《あなた》の健全な道に生きて下さい。亂暴な言《い》ひかたをしたかもしれませんが、僕のいまの氣持《きもち》のなかには、大きな氷河のやうなものが流《なが》れてゐるのです。しびれさうに冷い流れです。死ぬるにしても、生《い》きるにしても、安心して、この流れに全靈を託《たく》せる氣持です。――二三日前も、戰友《せんいう》が一人病氣でたふれました。たふれながらも、生氣《せいき》をふつふつとほとばしらせてゐるのを見て、僕は何かを噛《か》みしめて味ひつくした感じです。  萬人の詩人《しじん》がうたつた戀愛の詩も、いまは雲のなかに消えた風《かぜ》のやうなものです。こんな無慈悲なことを書く僕の氣持《きもち》に驚かれるでせうが、いまの、いつわりのない、僕《ぼく》の氣持をここに書《か》いたのです。お許し下さい。 [#ここで字下げ終わり]  廻送《くわいそう》されて來た新一の手紙を、郷子は泣きながら讀《よ》んでゐた。  奈津子は學校《がくかう》へ行つてゐなかつたし、御隱居樣は練馬の廣徳寺《くわうとくじ》に女中づれで墓參りに出掛けて行つて、郷子はたつた一人|留守番《るすばん》をしてゐた。 (あなたは、私《わたし》のコンパクトを肌身につけてゐると云つて下すつて、いまはこんな冷《つめた》いことをおつしやつたりして‥‥)  何時も食《く》ひ違《ちが》ひのやうに行き交ひしてゐる二人の手紙を、郷子は運命的《うんめいてき》なものに考へてゐる。  新《しん》一の父が病氣だと云ふことも氣がかりであつた。澤山《たくさん》の犧牲をはらつてゐるひとの事も考へてみて下さいと云《い》ふ、きびしいところを讀みかへしてみながら、郷子《くにこ》は、自分が、何の努力もしないで、のうのう[#「のうのう」に傍点]としてゐる風にも反省《はんせい》されるのだつた。  田舍を出る時《とき》の、あのぎりぎりした氣持が都會の生活のなかでは、少《すこ》しづゝぼやけて來てゐるのに氣《き》がつく。郷子は急に蒲田にゐると云ふ生母に逢《あ》ひたくて仕方がなかつた。 [#9字下げ]○  律子《りつこ》が、ゴムの長靴をはいて、路地口から出て來た。 「あら、いらつしやい、どうしたのよ? 急《きふ》に手紙くれたりして吃驚したわ‥‥でも、よく來たわねえ」 「うゝん、何《なん》だか、とても逢ひたくて?――お友達さそつて來《き》たの、いゝかしら?」 「どなた?」 「大橋一枝《おほはしかずえ》さんて、アメリカで生れた方なの、――お嫂《ねえ》さんが、此間|新京《しんきやう》へいらつして、いま獨《ひと》りぽつちなのよ‥‥」 「可愛い方《かた》ぢやないの、――なまぐさいところだけど、よかつたら、御遠慮《ごゑんりよ》なく、どうぞ‥‥」  一枝は、魚の並べてある店先《みせさき》に立つて、面白さうに眺めてゐる。夕飯時《ゆふはんどき》で。店先では四五|人《にん》の女客が、それぞれ魚を註文《ちうもん》してゐた。 「今日は土曜日だものだから、早く歸《かへ》つて來たのよ、――私ねえ、毎週一回|支那語《しなご》をやつてるの‥‥」  律子が梯子段《はしごだん》を上りながら云つた。  二階は三|部屋《へや》ばかりあるらしかつたが、律子の部屋《へや》は三疊で、ベツドや、机や、籐椅子が几帳面《きちやうめん》に置いてある。 「魚屋さんの二|階《かい》ともおもへないわね‥‥」  本箱の上には山のヱハガキが、二三|枚《まい》、鋲でとめてあつた。 「支那語をやつてるンですつて? 支那《しな》へでも行くの?」 「行くンぢやないけど、習《なら》つておきたいのよ、きつと役に立つ時があると思《おも》ふわ、――だつて、勤めから歸《かへ》つて、ぽかんとしてるのも厭だし、丁度《ちやうど》いゝ先生があつたものだから‥‥」 「いゝわねえ、私も、何か勉強《べんきやう》したいわ‥‥」  一枝《かずえ》が、支那語つてむづかしいでせうと律子に訊《き》いてゐる。 「いま、天文だの地理《ちり》だの習つてゐるンだけど、發音より文字《もじ》の方が、とても覺えやすいのよ、――こんな山脈のことを、山脈《シアンモー》、お月樣のことを、月亮《ユエリアン》、きれい[#「きれい」に傍点]だつて云ふのは、好看的《ハオカンデ》、ね、とても面白《おもしろ》いのよ‥‥」 「羨《うらや》ましいわ、いゝのねえ、貴女は元氣《げんき》があつて、――何だか、ぢつ[#「ぢつ」に傍点]としてゐられない方ね、――私も、何《なに》かやらなくちやいけないツて思ふんだけど、その何《なに》かゞわからないのよ‥‥どうすればいゝンだらう?」  律子《りつこ》は小さい硝子戸のはまつた本箱から、圓《まる》いチヨコレートの箱を出して、籐の卓子へ置いた。 「一《イー》、二《アル》、三《サン》、四《スウ》、五《ウー》、六《リウ》、七《チー》、七ツあるわ、どうぞ召しあがつて頂戴」 「驚《おどろ》いたひとねえ‥‥」  郷子が目《め》をまるくしてゐる。  一枝は笑ひながら、遠慮《ゑんりよ》なくチヨコレートに手を出した。  積極的《せつきよくてき》に、何をかやらうとしてゐる律子の彈んだ表情《へうじやう》に、郷子は強く動かされる氣持だつた。 「大橋さんは、二三|日《にち》うちに、デパートにお務《つと》めになるのよ」 「まア、いゝわねえ、――外人《ぐわいじん》の方の係りか何かですの?」 「さア、まだわかりませんけど、試驗《しけん》だけ受けてみましたわ‥‥」  やがて律子は紅茶《こうちや》を淹れて來ると、おもひ出したやうに、 「ねえ、小見山《こみやま》さんのこと、知つていらつしやる?」 「いゝえ?」 「近いうちに大阪《おほさか》へいらつしやるンだつて、みんなで送別會をしようと云《い》つてるンだけど、――とても、何だかおかはりになつたわ‥‥植村《うゑむら》さんのせゐだつて誰かゞ云つてゝよ‥‥」 「まあ! あんなこと‥‥」 「ほんとよ、――何《なん》だか、すさまじい勢で働いていらつしやるわ、大阪に新《あたら》しく事務所が出來るンですつてね‥‥」 [#9字下げ]○  六月にはいつて佐山達《さやまたち》の部隊は、蕪湖の近くの大橋と云《い》ふところへ行つてゐた。  江南《こうなん》鐵道の修理と守備を兼ねて、この部落に駐在してゐたが、こゝへ來《き》て二日目の夜中に、佐山達は敗殘兵《はいざんへい》の夜襲に遭《あ》つた。  海南線の横林《わうりん》や、呂城にゐた時も、度々匪賊や敗殘兵の襲撃に出遭《であ》つてゐたので、佐山はあまり驚きはしなかつた。杉本《すぎもと》一|等兵《とうへい》が、 「夜襲《やしふ》ぞオ!」  と小さい叫び聲《ごゑ》を擧げてゐる。土間の兵隊達は、昨日《きのふ》は鐵橋修理で大分疲れてゐたので、杉本の「夜襲ぞオ!」の聲では中々眼が覺《さ》めなかつたが、間もなく歩哨が走つて來た。小銃《せうじう》の音がヒユウヒユウと屋根《やね》をかすめてゐる。 「おい兵頭《ひやうどう》! だいぶ近いぞ‥‥」 「うん、竹林の向ふからやつて來《き》たらしいぜ」  誰《たれ》かゞ曳火手榴彈が埋めてあるから氣をつけろと叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]してゐる。戸外は、晝間《ひるま》と違つて涼しかつたが、それでも、風はなまぬるい熱氣《ねつき》を持つてゐた。  暗い竹林《ちくりん》の向ふに發火信號のやうな、あるかなきかの青い火が彈けてゐた。部落《ぶらく》の屋根の上には小さい星が三ツ四ツ光《ひか》つてゐる。  暗《くら》がりのなかで、敵は百四五十もをるらしいぞと云ふ聲《こゑ》もきこえて來る。池のそばの樹に繋いである、馬のいなゝく聲《こゑ》も、妙に不吉な聲だつた。  二、三日前から下痢をしてゐた佐山は、杉本《すぎもと》を入れた班の兵と共に、裝備《さうび》もがつしりと小隊長につゞいて、百七八十|米《メートル》もある竹林の方へ進んで行つた。 「何《なん》だ、もう、支那兵は逃げ出してゐるぢやないか」  佐山が、古いこはれた堡壘のところまで來《く》ると、竹林のなかで、わづかな鐵道守備隊《てつだうしゆびたい》のものすごい追撃《ついげき》が始つてゐた。堡壘を越えて佐山達も勢よく進《すゝ》んで行つたが、堡壘を越えて五六米も進むと佐山は石塊のやうなもので、厭《いや》と云ふほど、左肩を毆られたやうな強い衝撃《しやうげき》を受けた。麥畑《むぎばたけ》の中へがくつとたふれながら、佐山は、自分だけ、木の枝《えだ》にでも突きあたつたのかと思つた。  躯を何度かおこしてみたが、左《ひだり》の肩《かた》に、何か重いものがぶらさがつてゐる感《かん》じだ。しばらくすると、首筋《くびすぢ》や背中に、針金でも突き刺されたやうな激《はげ》しいうづき[#「うづき」に傍点]がした。佐山は、寢轉びながら、右手で左の肩をおさへてみた。軍服《ぐんぷく》の肩は乾いてゐて、肩章が手に觸《ふ》れるだけである。  無理に左手《ひだりて》を擧げようとすると、牛か馬に蹈みつけられてゞもゐるかのやうに、左《ひだり》の手《て》はびくともしないのだつた。  ヒユウヒユウと、暗い空を小銃《せいじう》の彈が飛んでゐる。 「おい! 誰《だれ》だ? どうした?」  佐山の唸り聲をきゝつけて、佐山《さやま》の班の兵隊が二人、佐山のそばへ這《は》ふやうに走つて來た。  佐山はすぐ、二人《ふたり》の兵隊に小舍の中へ運びこまれたが、もう、捕虜がつかまつたのか、遠くで、哀願するやうな支那語の聲《こゑ》もきこえてゐた。 「創は左肩《さけん》だが、どうなつてゐる?」  佐山が班の兵隊に尋《たづ》ねた。  杉本一|等兵《とうへい》が小銃をかゝへるやうにして小舍へ飛《と》びこんで來たが、佐山の聲をきくと、 「佐山伍長殿、何處《どこ》にをられますかツ!」  と呼《よ》んでゐる。  服の上から、兵隊に、しつかり手拭《てぬぐひ》でしばつて貰つてゐた佐山は、咽喉《のど》に燒けつくやうな渇きをおぼえ、右手《みぎて》で腰の水筒を探してゐた。  左の腋下に湯のやうなものが、じくじく浸《し》みわたつて來てゐる。 「水《みづ》はないか?」  佐山には返事もしないで、杉本《すぎもと》は默つて土間に膝《ひざ》をついてゐた。  仄々《ほの/″\》と夜がしらみかけて、池のまはりの樹の梢《こずゑ》が、さやさや葉ずれの音《おと》をたてゝゐる。 [#9字下げ]○  兵頭が、佐山の枕もとで佐山《さやま》の病床日誌をよんでゐる。 「――左肩胛部ノ貫通銃創《くわんつうじうさう》ニシテ、射入口左肩胛骨背面、小指頭大《せうしとうだい》、射出口左上膊上部ニアリ、大キサ鳩卵大ニシテ、消息スルニ四糎|進入《しんにふ》ス、創面漿液ノ分泌アリ、か――たいへんだなア、どうだ? だいぶいゝか?」  衞生隊《ゑいせいたい》にうつゝて今日で三日目である。以前、この家は藥屋《くすりや》か何かであつたらしく、ぷんと藥臭い匂ひがする。 「顏色《かほいろ》はだいぶいゝな‥‥」 「さうかねえ、づーと下痢《げり》をしてゐたンで、弱つてゐたンだ、――まア、すべて、沒法子《メイフアーズ》だよ。(仕方《しかた》がない)こんな創は輕いうちだらう‥‥」  蠅がうるさく[#「うるさく」は底本では「ゐるさく」]飛びまはつて、まるで炭《すみ》の粉《こな》を撒いたやうだ。 「明日《あす》、南京へ戻るンだが、――徐州が陷ち、蘭封が陷ちたので、津浦線《しんぽせん》の方へ廻るンぢやないかと考へるンだがねえ‥‥」 「うん、南京に戻るンなら、さうかも知《し》れンなア‥‥厭だなア、こんな處《ところ》へ殘るなンて‥‥」 「まア、仕方《しかた》がないさ、今野上等兵は手榴彈で、兩脚《りやうあし》やられたンだからねえ‥‥」 「ふうん‥‥」  衞生兵がガーゼ挿入に廻《まは》つて來てくれた。ぼろぼろの生綿を敷いた寢臺に、佐山《さやま》は右肩を下にして横《よこ》たはつてゐた。泥や汗の臭ひでむつとしさうだつた。蠅《はへ》はうるさくそのへんを飛びまはつてゐる。  衞生兵も泥だらけの服を着《き》てゐた。  パンクロームを塗布《とふ》して、繃帶を卷いて貰ふと、佐山《さやま》はすこしばかり輕やかな氣持になつて、兵頭に煙草をつけて貰つた。 「ルビークインか、何處から手に入れた?」 「うん、今朝がた、衞生兵のひとから貰《もら》つたンだよ‥‥」  佐山《さやま》は一息吸ひこむと、頭の芯《しん》に煙が浸《し》みわたる樣に美味《うま》かつた。 「おい、この病床日記《びやうしやうにつき》の、留守擔當者つて云ふのは、何だい」 「俺《おれ》の、身柄引受人さ」 「さうか、ぢやア、この佐山義藏と云ふのは親父《おやぢ》さんだね」 「うん、君のやうに、辰歳《たつどし》の女房なンか持つとらんよ‥‥」 「莫迦《ばか》ツ‥‥」 「おいおい、その病床日誌は、中々|大切《たいせつ》なンだぞ、雜嚢へしまつておいてくれよ、あとで取《と》りに來《こ》られるンだから‥‥」 「あ、さうか、――ところで罐詰《かんづめ》ぐらゐのもンだが、三ツ四ツ持つて來《き》たから置いて行くよ、杉本もあとで小隊長《せうたいちやう》と見舞に來るやうな話だつた。――今野《いまの》はあのぶんだと脚を切斷しなくちやならないだらうねえ‥‥」 「さうかねえ、大分弱つてゐる樣子《やうす》かい?」 「いや、中々《なか/\》元氣《げんき》のいゝ奴だから弱つちやゐないが、時々《とき/″\》、脚が重い重いと云つとつたぜ‥‥[#「‥‥」は底本では「‥」]」 「ふうん‥‥」 「佐山の創《きず》なンか輕い方さ‥‥」 「さうだねえ、だが、まア、なるべく、手《て》なンか切斷したくないからねえ、――自分《じぶん》ぢやア、明日にでも君達《きみたち》と一緒に行ける氣持なンだぜ‥‥」 「夕陽がぢりぢり中庭に照《て》りつけてゐる。蝉も鳴きたてゝゐる。 「罐詰《くわんづめ》は何だ?――パイナツプルはないか?」 「パイナツプルか‥‥そんなものはないよ、鰯《いわし》ばつかりだ‥‥」 「さうか、――内地《ないち》へ歸れたら、清麗な山水《やまみづ》を一|升位《しやうぐらゐ》飮みたいモンだなア‥‥」 「おい、水筒《すゐとう》の茶ぢやアどうだ?」  佐山は顏を擧げて兵頭から水筒《すゐとう》の茶を少しづつ飮ませて貰つた。ぬるくて泥くさかつたが、舌に浸《し》みわたる美味《うま》さだつた。 [#9字下げ]○  小見山《こみやま》が、いよいよ、明日は大阪へ發つと云ふ日、岡部は小見山を誘つて、麻布の興都庵《おきつあん》で小見山の送別會《さうべつくわい》をしてやつた。  たつた二人きりの氣兼のない會食《くわいしよく》だつたせゐか、二三本の酒に、二人はいゝ氣持《きもち》に醉つぱらつてゐた。  今年は長い梅雨《ばいう》つゞきで、今夜もべとべとしたやうな雨《あめ》が降つてゐる。 「うん、まア、何《なん》でもないとは云《い》ひきれないね‥‥だがねえ、人が與へなければ、吾々《われ/\》はこれを取《と》るのだ、曰く、最上の榮養、至純な大氣、そして最《もつと》も力強い思想、最も美しい女達‥‥ニイチヱの言葉をかりて來《く》るまでもなく、僕達青年はだねえ、このぐらゐの氣がまへは持《も》つていいだらう?」 「ふう――ん、中々結構な事さ、だが、これからまだ、距離《きより》のあることだよ‥‥」 「ところで、東京《とうきやう》を去るにあたつてだ、何も云《い》ふことなしさ‥‥」 「何でも云ふことがあつたら云《い》つて行けよ‥‥近々、僕も、召集令状《せうしふれいじやう》が來るかもわからないンだぜ‥‥」 「へえ――、さうか、――ところで、佐山《さやま》も、もう、だいぶになるなア‥‥このごろ、ずつと音信《たより》はあるのかい?」 「いや、此頃《このごろ》來《こ》ない‥‥」 「佐山も戰爭へ行つて、人間《にんげん》がだいぶ變つたねえ、郷子君の問題《もんだい》について、いゝ手紙をくれたよ」  皎々と明《あか》るい電燈の笠に、固い羽音をさせて蟲《むし》が飛んで來てゐる。 「どうだ、これから、僕《ぼく》につきあはないか?」 「二|次會《じくわい》か?」 「いや、親類の家へ寄《よ》るンだがねえ‥‥」 「何だ‥‥そんなのはつまらんよ、今日《けふ》は僕が送別會をしてゐるンだから、まア、ゆつくり肚をすゑて飮《の》んだらいゝだらう、――此頃は、何時何時《いつなんどき》、召集《せうしふ》が來ないともかぎらないからねえ、まア、ゆつくり、こゝで話《はな》した方がいゝ‥‥」 「うん、さうか、それもさうだ‥‥」  小見山はワイシヤツ姿になつて、團扇《うちは》をつかつてゐる。 「君はいゝさ、大阪へ行つたつて、家《うち》は近いし、――聞くところによると、資本《しほん》も大半は家から出して貰《もら》ふンだと云ふぢやアないか‥‥それに、この戰時下《せんじか》に、大阪は大した景氣だと云ふし、建築家もまんざら[#「まんざら」に傍点]ぢやないねえ‥‥」 「そんなことはないよ、まア、これは好《す》きな道で、獨立して、建築屋で十|分《ぶん》食《た》べてゆけるかどうか、道樂《だうらく》にやるやうなものさ‥‥」 「何でもいゝよ、まア、勇《いさ》ましくやつてくれ‥‥」 「――植村郷子の消息を此間きいたンだが、――一|度《ど》、逢《あ》ひたいねえ‥‥」 「ふう――ん、まだ戀々《れん/\》としてゐるのかい」 「うん、してるよ、――僕の知人の細君が、新宿《しんじゆく》で逢つたと云ふンだ‥‥」 「まアあきらめた方《はう》がいゝだらう‥‥郷子さんは、佐山を思《おも》つてゐるンぢやないかねえ‥‥」 「僕《ぼく》は、全く、戀々としてゐるやうだけれどもだ、あのひとを見てゐると力が出て來《く》るンだ。――三保へ行つた時、僕は彼女《かのぢよ》に時計を買つて行つたンだがね、始《はじ》めはちやんと受取つてくれたンだぜ‥‥」 「そりやア、仕方《しかた》なく頂戴したのさ‥‥」 「僕の自惚れかな、――郷子君が佐山を熱愛《ねつあい》し、僕が彼女を熱愛してゐるとした場合《ばあひ》、これはいつたいどうすればいゝンだ?」  岡部《をかべ》は柱へ背を凭れさして脚を卓子の下へのばした。簾《すだれ》の向ふの庭木へ、雨が光つて降つてゐる。  岡部はそゝられるやうな雨《あめ》の音をきゝ、自分もまた、郷子《くにこ》への愛慕の氣持をどうすることも出來《でき》なかつた。 [#9字下げ]○ 「私、つくづく、男の方《かた》つて、怖いと思ひますわ‥‥」 「私《わたし》を、みてゞせう?」 「えゝ‥‥」 「――私は、始めから、こんな風にならうとは思《おも》つちやゐませんよ。始め、奈津子が出來《でき》た當時は何も彼も家内《かない》に云つてしまふつもりでゐたンですが、奈津子の母親が、どうしても厭だと非常に隱して、ゐたがつてたのです」 「奈津子樣のお母樣は、奧樣とはお知《し》り合《あ》ひだつたンですか?」 「いや、ぜんぜん知《し》りません。――貧しい家庭の娘で事務員《じむゐん》をしてゐたンですよ。肺が惡くて亡《な》くなつたンですがねえ‥‥」 「とても、お好《す》きだつたンでせう?」 「そりやア、まア、愛してゐたからこそ、九|年間《ねんかん》も、お互に苦しんで來《き》たのですよ」 「奧樣へのお氣持《きもち》はどうなンですの?」 「家内ですか? これはもう、自分《じぶん》の肉親のやうな氣持ですね、――一|種《しゆ》の空氣のやうな、何か、安心したものを持《も》つてゐます‥‥」 「まア、――何だか、怖いお話《はなし》ですわねえ‥‥」  朝鮮簾《てうせんすだれ》を吊した縁側で、郷子は、弟への小包《こづゝみ》をつくりながら、寢轉んでゐる大野と話をしてゐる。 「奧樣は、一度も、この御生活《ごせいくわつ》、ごぞんじないのでせうか?」 「知《し》つてゐますよ?」 「えツ?」 「だけど、こゝにゐると云ふことは知《し》つてはゐないでせう‥‥でも、僕《ぼく》に女のゐると云ふことは知《し》つてゐるやうですね」 「奈津子さんの事もですか?」 「子供のことは知《し》らないでせう。――氣の毒なほど、私《わたし》を信頼してゐるンですからね、全く、いゝひとなンだ‥‥」 「どうして、そんないゝ方を、淋《さび》しがらしたり、お苦しめになるンです?」 「男《をとこ》と云ふものはねえ、得手勝手な奴なンだ。安全《あんぜん》な妻があればあるほど、何か、他所を摸索してゐる‥‥」 「おゝいやだ、ぢやア、安心《あんしん》して、男の方つて愛してゆけませんのね‥‥」 「好《す》きなひとがあるの?」 「まア‥‥好きなひとつてありませんわ‥‥」 「私はどうも、郷子さんにお説教出來るやうな人間《にんげん》でなくなつてゐるので、何も云《い》へないが、――結婚《けつこん》は、そんなに急がなくてもいゝなア‥‥」 「えゝ、そりやア、私もさう思《おも》ひますの、ほんとに、誠實《せいじつ》なひとがみつかるまでは‥‥」 「誠實《せいじつ》か‥‥なるほどねえ‥‥」  茶の間では御隱居樣が、三味線《しやみせん》をぽつりぽつり彈いてゐる。――晨鐘の響《ひゞ》きは、生滅めつゐ[#「めつゐ」に傍点]、入相は、寂滅爲樂《じやくめつゐらく》と響くなり、聞いて驚く人もなし、我《われ》も後生の雲晴れて、眞如の月を眺め明さん‥‥大野は唄の節をついてゆきながら時々《とき/″\》うゝと唸つてゐる。 「陰氣な歌ですね、御隱居樣《ごいんきよさま》、お淋しいんですよ‥‥」 「淋《さび》しいンだらうな、だが、あれは娘道成寺で中々賑やかな唄《うた》なンですよ‥‥」 「ねえ、そこの柱の處に、奧樣《おくさま》が坐つていらつしやいますよ」 「えツ?」  大野がぎくつと頭《あたま》を持ちあげた。狹い庭の上に細《ほそ》い月がのぞいてゐる。  郷子が、奧樣の敵打《かたきう》ちですよと笑《わら》ひ出した。 「こいつツ!」  大野《おほの》はむつくり起きあがると、郷子の膝に這《は》ひよつて行き、郷子の白いまへだれ[#「まへだれ」に傍点]の膝に、子供のやうに頭をくつつけて行《い》つた。 「あら、厭《いや》! 厭ですわ‥‥」  郷子は、小包の細紐を切つてゐた鋏《はさみ》で、大野の肩を強く押した。力《ちから》かぎり押しながら、郷子は大野《おほの》の、淋しさうな背中を呆れて眺めてゐる。 [#9字下げ]○  郷子は鋏を握つたまゝ縁側《えんがは》へ出てゐた。 「――もう、何もしやしません、こつちへいらつしやい‥‥あなたが、おどかすもンだから、私も子供《こども》つぽく甘えたりしたンです‥‥」  郷子は默つて、暗い庭をみてゐた。大野《おほの》は座敷の眞中に胡坐《あぐら》を組んで、小包《こづゝみ》をかゞつた細紐をたぐりよせてゐた。 「まさか、このまゝ、また、出て行くンぢやないでせうね?――何《なん》とかもの[#「もの」に傍点]を云つて下さい」  大野《おほの》が立ちあがると、郷子は急に跣足《はだし》のまゝ庭へ飛《と》び降りた。 「どうしたンです? 何《なに》もしやしませンよ‥‥まだ怒つてるンですか?」 「厭《いや》なンですもの‥‥」 「何が?」  郷子は跣足のまゝ縁側へそつと腰をかけた。大野《おほの》は白いカヴアのかゝつた座|蒲《ぶ》團を郷子《くにこ》の處へ持つて行《ゆ》きながら、 「お上ンなさい、――もう、何《なに》も云ひませんよ、拜むから、奈津子の面倒《めんだう》をみてやつて下さい‥‥」 「私、默《だま》つてゐましたけど、もう、せん、新宿で奧樣《おくさま》におめにかゝりましてね、とても、何だか氣がとがめてゝ、ほんたうは毎日々々《まいにち/\》おひま[#「おひま」に傍点]を戴きたいと思《おも》つてゐましたの‥‥」 「あなたに逢《あ》つたつて事は、家内からきゝましたよ。氣《き》がとがめるなんて厭だなア‥‥」 「だつて、何だか、私、困《こま》るンですもの‥‥」 「――男には、私のやうなのばかりはゐないかも知《し》れないけど、こんな得手勝手な男の世界《せかい》もあるンです‥‥子供《こども》さへなかつたら、私はべんべんとこんな二重な生活《せいくわつ》はしてゐなかつたと思ふンですよ、子供は、私にとつて絶對《ぜつたい》なものだつたし、本當を云へば、家内も、亡くなつた女《をんな》も、子供にくらべたら、全《まつた》く、はかないつながり[#「つながり」に傍点]なンですからね。――一|應《おう》は、奈津子のことも、そのうち、家内《かない》の耳に入れなければならないでせうが、弱《よわ》いと云ふのか、見得坊なのか、一日のばしにしてゐて、それが出來《でき》ないのです。――私がこのまゝ亡くなるやうなことでもあれば奈津子が可哀想《かあいさう》だと思はぬでもないのですが、どうしても、まだ、家内に云ふ氣《き》になれない‥‥」  郷子は、さつき、大野に膝に這《は》ひよられた時《とき》の、あの、不思議なおもひにをのゝきを感じてゐた。一瞬の感情《かんじやう》ではあつたが、何か、花粉を撒き散らすやうな、肉體的《にくたいてき》な苦しみが、薄い皮膚の下に、火の魂のやうに駈《か》けめぐつてゐたのだ。 (私のこの氣持《きもち》は、いつたい、どうしたのだらう‥‥)  鋏を縁側に置いて、郷子は立《た》ちあがつた。 「何處《どこ》へ行くンです?」 「お臺所《だいどころ》へ廻つて、足を洗つて來ますの‥‥」 「雜巾なら、持つて來てあげますよ‥‥莫迦《ばか》なひとだなア‥‥」  大野が、臺所から、雜巾《ざうきん》をつまんで持つて來てくれた。 「當分《たうぶん》ゐてくれますね?」  大野が、敷居の處へ立つて、小《ちひ》さい聲で云つた。郷子は雜巾で足を拭《ふ》きながら、 「夏休《なつやす》みまでゝ、私、ほんとに、おひま[#「おひま」に傍点]戴《いたゞ》きたいンですもの‥‥」 「ぢやア、奈津子を、澁谷《しぶや》の家へ引きとつたら、あなた、來《き》てくれますか?」 「だつて、その時は、奧さまの方で、私《わたし》なンか御めんだとおつしやいますでせう?」  郷子は、何《なん》と云ふこともなく、岡部に逢ひたい氣持でゐた。何《なに》もかもぶちまけてこの苦しみを聞いてもらひたいやうな切《せつ》なさが、胸の中を、東西南北に駈けめぐつてゐるのだ。異性《いせい》を知らない「肉體《にくたい》」の苦しみが、溢れるやうな感傷の流《なが》れになつて、遠い山脈へ向つて、山彦のやうに呼びあつてゐる。 [#9字下げ]○  四五日して、郷子はひとまづ一枝《かずえ》のアパートへ落ちついた。  狹い一枝《かずえ》のベツドに、郷子はクツシヨンを枕がはりにして、寢《ね》てゐる。 「私、つくづく疲れちやつた‥‥東京《とうきやう》は、私にとつて、何でもなかつたわ‥‥」 「ねえ戰爭《せんさう》つて、何時までつゞくンでせうねえ?」  一枝が寢返りを打つて、郷子《くにこ》の胸の上に手を置いた。 「厭《いや》よ!」 「重い?」 「うゝん、重《おも》かないけど‥‥」  切《せつ》ないものがこみあげて來て、郷子《くにこ》は急に一枝のあらはな胸の上へ頭を埋《うづ》[#「うづ」は底本では「うづめ」]めていつた。 「私《わたし》を毆《なぐ》つてよ! 私の頭をうんと毆つて頂戴!」 「まア! どうしたの、郷子《くにこ》さん‥‥急に泣いたりなンかして」 「泣《な》いてなンかゐないわ‥‥」 「ねえ、私、嘉兵衞さんと結婚しようかと思《おも》ふの? いけないかしら? こんな生活《せいくわつ》してゐたつて、私ちつとも落《お》ちつかないンだもの、――女つて、結婚《けつこん》のことを考へるやうになると、何もかも成長《せいちやう》が止つてしまふのね。女つて、結婚《けつこん》するまでが、せいいつぱいな處なのね」 「勝手に結婚なさい‥‥」 「どうしたのよ? そんなに怒《おこ》つて‥‥」 「何《なん》でもいゝのよ、その電氣消して頂戴、暑つくるしくつて寢《ね》られないぢやないの‥‥」  燈火《あかり》が消えると、郷子は、机《つくゑ》の上《うへ》の蚊取線香の火をぢつと眺めてゐた。  佐山が凱旋《がいせん》して來て、二人がさゝやかな結婚の式を擧げる‥‥そんな空想《くうさう》が愉しく浮んで來る。 「どうして、そつち向くの? 色《いろ》んな事を話したいわ、――ねえ、郷子さん、あなたの考《かんが》へてる事《こと》をみんな話して頂戴よ‥‥」 「私の考へてる事《こと》つて、明日、お母さんに逢ひに行かうかと考《かんが》へてるだけよ‥‥」 「嘘云つてるわ‥‥アメリカにゐた頃《ころ》の友達つて、どんな祕密だつて話しあつたわ。若《わか》い女が、苦しみを一人《ひとり》で苦しむなんて莫迦々々しいぢやないの‥‥何を考《かんが》へてるの?」 「明日、どつかへ泥棒にはいらうかと思《おも》つてるの‥‥」  一枝が急《きふ》にあはあは笑ひ出した。 「ねえ、一枝さん、何《なん》だか、とても胸苦しいンだけど、どうしたンでせう?」  一枝はベツドの上に腹這ひになつて、甘い聲《こゑ》で鼻唄をうたつてゐたが、思《おも》ひ出《だ》したやうに肘をついて、 「オレンヂとアイス・ウヲタアの飮《の》めるアメリカのママの處《ところ》へ歸りたいわ」  と云《い》つた。 「ねえ、明日、天文臺へ連れてつてあげませうか?――私《わたし》の、とてもいゝお友達《ともだち》のところ‥‥」 「ふうん、いゝわねえ、連《つ》れて行つて頂戴、どんな處だつておともして行《ゆ》くわ‥‥」 「そのひとはねえ、私にお金を貸してくれたのよ、――泥棒《どろばう》なンかしないでもいゝつて云つてくれたの‥‥」 「ふうおん、金持《かねもち》なのね」 「お金持ぢやないわ、――天文學者なのよ、一|生《しやう》、星をみて暮してゐるひとなの‥‥」 「わあツ、そんなのつまらないわ‥‥空《そら》を見て暮してる男なンて、興味《きようみ》ないぢやないの、私は鬪爭心の強《つよ》い男《をとこ》でなくちや厭だわ‥‥」  郷子は、大野の顏を想ひ浮べてゐた。その顏《かほ》が、大きく擴がると、新一の顏になり、敬太郎《けいたらう》の顏になり、可愛《かあい》い奈津子の顏になつた。 「郷子《くにこ》さん、もう眠つちやつた?」 「暑くて眠れないわ、――さつきから、お化《ば》けの夢《ゆめ》ばかり見てるのよ‥‥」 [#9字下げ]○  一枝《かずえ》がパンを燒いてゐる。郷子は新聞の職業案内《しよくげふあんない》を見てゐた。 「いゝところあつて?」 「これつて云ふところもないわねえ、――時局柄《じきよくがら》最適業《さいてきげふ》餘暇有《よかあり》つてどんなのかしら? 月收五拾圓だつて‥‥」 「ろく[#「ろく」に傍点]なところぢやないわよ‥‥」  一枝がパンにバタを塗《ぬ》つて皿《さら》に並べてゐる。 「おや、誰《たれ》かしら?」  扉をノツクするひとがあるので郷子が氣輕《きがる》にどなたと云ひながら、扉を開《あ》けた。 「まア、あなただつたの?」 「とても探《さが》しちやつたわ、朝早くからごめんなさい‥‥」 「安子さん、どうしたのよ、叱《しか》りに來たンぢやない?」  安子は帽子《ばうし》をぬぎながら汗ばんだ表情で郷子《くにこ》をみつめてゐた。 「ねえ、郷子さん、――大野《おほの》さん、昨夜、お亡くなりになつたのよ、知つてる?」 「へッ! 大野《おほの》さんが? まア‥‥どうしたの? ほんと?」 「あんまり急だつたンで、――私、吃驚《びつくり》しちやつてるの。明日のお晝、告別式なのよ、私《わたし》、何だか信《しん》じられなくなつて、自殺なすつたンぢやないかと思《おも》つた位だわ‥‥」  郷子は急に奈津子や、御隱居樣《ごいんきよさま》のことを思ひ出した。安子は窓ぎはに坐ると、如何《いか》にも暑くるしさうに、帽子《ばうし》で胸に風をいれてゐる。 「安子《やすこ》さん、どうしませう?」 「どうしませうつて、――だから、私、來《き》てあげたのよ、御隱居樣、何《なに》もごぞんじぢやないわ、奈津子《なつこ》さんを、ひとめ、お父さんに逢はせてあげたいンだけど‥‥」  安子が大野夫人から電話《でんわ》で呼ばれた時《とき》は、あいにくと他へ派出中《はしゆつちゆう》で、かはりの看護婦が行つたのださうだつたが、その看護婦が行つた時《とき》には、もう、かゝりつけの醫者が二人《ふたり》も來てゐて、大野は亡くなつてゐたと[#「亡くなつてゐたと」は底本では「亡くなつてゐとた」]云《い》ふのである。原因は腦溢血で、ほんの四五|時間《じかん》、床についたきりだと云《い》ふことだつた。 「それでねえ、ほら、何時か、奧さんの病院《びやうゐん》でおめにかゝつた、小見山さんて方ね、あの方《かた》に御相談《ごさうだん》してみたらどうでせうか?」 「――あなた、それで、もう、櫻木町《さくらぎちやう》へは行つて來たの?」 「まだなのよ、だつて、御隱居樣に、大野さんのお亡《な》くなりになつたこと云ふのしのびないぢやない? あなたは飛《と》び出してしまつてるし、どうしてあげていゝかわからないもの‥‥小見《こみ》山さんて方に、あなた、相談《さうだん》してみてくれない?」 「えゝ‥‥」  郷子は、膝《ひざ》に這ひよつて來た、何時《いつ》かの大野の姿《すがた》を、ありありと胸に思ひ浮べながら、人の生命《いのち》の、もろさ、はかなさを考《かんが》へてゐる。  安子《やすこ》はすぐ、これから澁谷の大野家へ行くと云ふので、郷子も支度《したく》をして、安子に、ついて行く氣になつた。――小見山は、もしや、大阪《おほさか》へ發《た》つたあとではないかしら、それにしても、電報か何かで、いまごろは呼び出されてゐるころかも知《し》れない、兎に角、小見山に逢《あ》つて、奈津子のことを相談《さうだん》してみるのが一番いゝことだと、三保でのことは何となく心苦《こゝろぐる》しかつたが、郷子は安子と松濤の大野の邸《やしき》へ出向いて行つた。  自動車が塀《へい》のそばに二三臺とまつてゐる。二人が内玄關から這入つて行くと、郷子は客を送りながら、敷臺《しきだい》に立つてゐる小見山と、ばつたり顏《かほ》を合せた。パラソルを持つてゐる手が何となく震《ふる》へて仕方がない。安子は、小見山に目禮をして、さつさと臺所口の方へ一人で行つてしまつた。 「お見舞《みまひ》に來て下すつたンですか?」 「えゝ、ほんとに何て申しあげていゝんですか、――此度《このたび》は‥‥」 「よくわかりましたね?」  着物姿《きものすがた》の小見山が、郷子をひきたてゝ夫人の部屋へ連れて行つてくれた。 [#9字下げ]○  約束の九時に、小見山が自動車《じどうしや》で、郷子達を迎へにやつて來た。奈津子《なつこ》は昨夜から眼を泣きはらしてゐたし、年寄《としよ》りは、氣が拔けたやうに、部屋《へや》から部屋をふはふは歩いてゐた。  郷子が應接間へ出て行くと、小見山はしばらく默《だま》つてつゝ立つてゐたが、 「郷子さん、報告《ほうこく》しておきたいンですが、今朝、岡部《をかべ》から電話がありましてね‥‥」 「何ですの?」 「驚いちやいけませんよ‥‥」 「えゝ‥‥」 「あのねえ、佐山から、負傷《ふしやう》したと云ふ通知《つうち》が、岡部に來たンださうです‥‥」 「えツ?」  郷子はしばらくは口がきけなかつた。椅子《いす》の背《せ》を兩手でしつかり握《にぎ》り締め、ぢつと小見山の顏を見《み》てゐた。 「左手《ひだりて》をやられたンださうです、――今日の告別式には岡部も來てくれるでせうから、くはしくきいてみますが、惡いことつて、隨分《ずゐぶん》惡《あく》どく續くものですね‥‥」  郷子は、足の底から空氣《くうき》が拔けてゆくやうな氣がした。 「支度は出來ましたか? ――昨夜《ゆうべ》、夫人にあなたの話をしましたら、一寸《ちよつと》驚《おどろ》いたらしかつたのですがね、兎に角、告別式《こくべつしき》にはお二人とも參列《さんれつ》していゝと許してくれたンですよ。電報は遲くついたでせう?」 「えゝ、いろいろありがたうございました、いま一寸《ちよつと》お孃《ぢやう》さん呼んで來ませう」  廊下のそとへ出ると、郷子は、ふらふらと壁《かべ》へ凭《もた》れていつた。  今日は夜明けから南風《はえ》が強くてしめつた、暑《あつ》くるしい日である。 (佐山さんが負傷《ふしやう》なすつたなンて、何てことだらう‥‥)  この二三日、何となく寢苦《ねぐる》しかつたのは、こんな知らせがあると云ふことだつたのかと、郷子は眼尻《めじり》に湧く涙を指でおさへて、居間へ行つた。  散らかつた居間の眞中では、奈津子《なつこ》が御隱居樣の膝《ひざ》に腰をかけて、風の吹きつけてゐる庭を呆んやりみてゐる。 「さア、そろそろ參りませう、御隱居樣《ごいんきよさま》お支度出來まして?」 「あのねえ、おばあさま、ねえ、行かないつて‥‥頭《あたま》いたいンだつて‥‥」 「植村《うゑむら》さん、私、やつぱり留守番をしてをりますから、奈アちやんだけ連れて行つて下さいませんか‥‥」 「お留守番《るすばん》していらつしやいますか?」 「えゝ、お留守番してゐた方が氣が樂です」 「さうですか、それでしたら、奈津子《なつこ》さんを、私がお連れしませう」 「ぢやア、植村さん、私の喪服《もふく》を着て行つて下さい、裄《ゆき》がみじかいかも知れませんよ‥‥」  郷子は借着《かりぎ》で服裝《ふくさう》をとゝのへると、奈津子を應接間に連れて行つた。 「よく似《に》てますね‥‥可愛い子だなア‥‥」  小見山がしげしげと奈津子《なつこ》を見てゐる。  軈て三人は待《ま》たせてある自動車に乘つたが、郷子も小見山も無量《むりやう》な氣持があつた。 「佐山さん、それで、お怪我《けが》は大丈夫でございませうか?」 「大丈夫らしいンですがねえ、――何しろ、とりこんで、ごたごたしてる最中《さいちゆう》に電話だもンで、くはしい事は今日《けふ》會《あ》つてきくことにしてるンですが、何でも南京《ナンキン》の陸軍病院まで戻つてゐるらしいンです。手紙が、飛行便《ひかうびん》で來たンださうですよ」 「まア、――どうして、こんな厭《いや》なことがつゞくンでせう‥‥何處で負傷《ふしやう》をなすつたンでせうか?」 「岡部が、その手紙を、今日、告別式《こくべつしき》に持つて來ますよ、――創は貫通銃創《くわんつうじゆうさう》らしいですね‥‥」 [#9字下げ]○  佐山は六月の二十四日に蕪湖《ぶこ》から御用船に乘つて、揚子江《やうすかう》を南京に下つて行つた。南京の病院に着いて、今日で十日近くになる。  今日も佐山は、窓《まど》の上を、飛行機の飛び立つて行くのをベツドから眺《なが》めてゐた。  部屋にはベツドが六ツ並《なら》んでゐて、佐山のベツドは窓ぎはにあつた。支那人の雜役が裸足《はだし》のまゝ、部屋の隅の壁に凭《もた》れて居眠りをしてゐる。 「内地へ近々《ちか/″\》送《おく》られるンださうだぞ‥‥」  隣りのベツドの兼松上等兵《かねまつじやうとうへい》が寢返りをうちながらそんなことを云つてゐる。兼松上等兵は蕪湖の近くで負傷をして、左の脚《あし》を膝の下から切斷《せつだん》してゐた。「暑いねえ、おい、窓はそれでいつぱい開けてあるのかい?」  兼松が、脚の痛みと暑さに焦々《いら/\》してゐる。  佐山は左肩に震動《しんどう》が來ないやうに、ゆつくり起きあがつて、方々の窓を靜かに開けに行つた。 「おい、今度の戰爭で、負傷者《ふしやうしや》はいつたいどのぐらゐになるだらうなア‥‥隨分《ずゐぶん》な數にのぼるだらうねえ、――いつたい、俺達はどうなるンだい?」 「無邊《むへん》の精神《せいしん》を頼りに生活して行くのさ‥‥」 「おいおい無邊の精神とは何だい?」 「さうだなア、精神《せいしん》のふるさと、精神の素《もと》へ歸つて、そこから、また、一歩づゝやりなほしてゆくより仕方あるまい‥‥」  兼松が入口に寢てゐる。昨日來た負傷兵と話してゐる。昨日來た兵隊は、背中一面を手榴彈の破片でやられてゐたが、昆布《こんぶ》のやうに卷いた毛布《まうふ》を抱いて、何時も伏さつて寢てゐた。 「痛《いた》むんだらう?」 「うん、夜、森《しん》と靜かになると、痛みがはつきりして困る‥‥」 「俺はもう、このごろは何も考《かんが》へンことにしとるよ、何かしらんが考へ出すと、理《り》におちたことばかりで、むしやくしやして來て仕方がない‥‥」  佐山は、南京《ナンキン》まで戻つてみると妙に、内地へ歸りたい氣持が失せてしまつてゐる。この戰爭のあと何か旺盛《わうせい》なものが滔々と流れ込んで來るであらう豫測《よそく》はされるが、さて、左手の利《き》かなくなつた自分のこれからの出發《しゆつぱつ》は、どの方面から呼吸《こきふ》をしていゝのか、いまのところ、全く模索のありさまなのである。  何氣なく雜嚢《ざつなう》からコンパクトを出してゐた。  色が青黒《あをぐろ》くなり、鏡のなかで、眼がらんらんと光つてゐた。パフを鼻へ持つて行くと、夢のやうにはかない香料《かうれう》の匂がしてゐた。  兼松《かねまつ》は話にも飽《あ》きたのか、枕もとの日の丸の旗を兩手で擴げて、澤山の署名を眺めながら氣持をまぎらせてゐるやうである。 「おい、みんな、面白い唄《うた》をきかしてやらうか‥‥」  昨夜《ゆうべ》來た兵隊が、腹《はら》がしびれるのか、腰《こし》をあげて四ツ這ひになつてゐる。兼松が、日の丸の旗を擴《ひろ》げたなりで、やがて、うたひだした。   寢《ね》たか、寢ないだアか   枕《まくら》にとへばよウオ   枕こたへて、寢《ね》たと云ふたよウオ 「何だい、そりやア? 子守唄《こもりうた》かい?」  佐山が口《くち》のなかで笑つてゐる。  兼松は、それから小さい聲でおけさを唄ひ、木曾《きそ》のなかのりさんを唄ひ、軍歌まで唄ひつゞけた。 「暑いのオ、背中《せなか》は破れるやうだぞ‥‥」  廊下を、看護婦《かんごふ》に手をとられた負傷兵が、さう云ひながら歩いて行つてゐる。  部屋の中の洗面所《せんめんじよ》からは水が一滴も出なかつた。 「俺は鐵橋警備の黒い天幕《テント》の中で、三日と云ふものは、飮《の》まず食《く》はずの時があつたが、とてもぴんぴんしてゐたもンだ。――内地へ戻つて、まア、氣がゆるまなきやいゝと思つてるよ」  兼松《かねまつ》が唄をやめてそんなことを云つた。 [#9字下げ]○  佐山は、大橋で分隊とも別《わか》れてしまひ、南京《ナンキン》に駐止してゐたら、病院へ見舞ひに行くぞと云つてくれた兵頭《ひやうどう》ともずつと逢はなかつた。  兵頭が、徐州《じよしう》の方へ行くらしいと云つてゐたので、あるひは、もう、部隊は、その方面へ進發してゐるのかも知れない。  林檎《りんご》の話をする時は、少年のやうに生々《いき/\》と膝《ひざ》をのりだして來る兵頭との陣中生活を、佐山は時々、ベツドの上で考《かんが》へてゐる。  ベツドの上の一日一日は、實に退屈《たいくつ》で仕方がなかつた。  晝近くになると、軍醫の回診《くわいしん》があり、看護婦に、硼酸水《ほうさんすゐ》をひたした脱脂綿で、創口を拭いてもらふ、そのあとをマーキロクロームか、パンクロームを塗布《とふ》して、リバノールガーゼを挿入してもらふと、また、窓の方を向いて寢轉《ねころ》び、夕方まで飛行機の飛ぶ空をみてゐる。窓《まど》の下は廣い道一つへだてゝ陸軍の飛行場だつたので、何時《いつ》もプロペラの音が耳についてゐた。  ひどい風《かぜ》の日も、雨の日も飛行機は飛んでゐた。 (たうとう、俺も、こんな處に寢るやうになつた。あの飛行機のやうに、自由闊達《じいうくわつたつ》に飛翔することは出來なくなつたが、スポーツマンとしての團結滅私《だんけつめつし》を遂行《すゐかう》したことにおいては、漕艇部の梶《かじ》もよろこんでくれるだらう‥‥だが、青い水の上を走ることが出來なくなつたのは何としても殘念《ざんねん》で仕方がないぞ‥‥)  佐山は、尾久《をぐ》の艇庫《ていこ》のあるところや、瀬田川のボートレースなんかを思ひ出してゐる。烈日の下で、矢のやうに走つて行く水上の快味《くわいみ》を、佐山は思ひ描《ゑが》きながら、たまらない、胸苦しさを感じるのだつた。朝の病室は、幾分《いくぶん》でも氣分をまぎらす事が出來たが、夜になると、奈落《ならく》におちこむやうな、たまらない寂寞《せきばく》たるものを感じた。  月夜の晩は、寢《ね》ながら月をながめて、六ツのベツドに月光を浴《あ》びながら、六人で、故郷の話や、戰場での、それぞれの手柄話《てがらばなし》を語ることも愉《たの》しいことであつたが、月もない、熱氣《あつけ》でむせかへるやうな暑い夜更けなんかは、みんな氣むづかしく默《だま》りこくつて、將來の生活や、家族《かぞく》のことや、戰後《せんご》の社會のことに、それぞれぢつと思ひ耽るのであつた。  眼のあたりにも、耳《みゝ》のあたりにも、頭にも足にも、全身《ぜんしん》で將來のことを考へつゞけてゐながら、六人のものたちは、そんな話は妙に逃避《たうひ》して默つてゐた。 「おい、戰友《せんいう》、寢とるかね?」  兼松が、隣《となり》の兵隊に聲をかけてゐる。  今夜はいゝ月夜《つきよ》だつた。 「いや、なかなか眠れない、――夕方、注射《ちうしや》を打つてもらつとけばよかつたンだがなア‥‥」 「とても、痛《いた》むのか?」 「うん‥‥」  佐山も寢《ね》られなかつたので、寢ながら手さぐりに煙草を探した。寢臺《しんだい》の、枕もとのてすり[#「てすり」に傍点]にぶらさげた腕時計《うでどけい》が、キラキラ月に光つてゐる。  煙草を吸ふことも、マツチをすることも、右手《みぎて》だけしかつかへないので非常に不自由《ふじいう》である。  傷がふさがると、X光線の寫眞を撮つて貰つて、骨折《こつせつ》を發見されると、すぐに、針金の外轉《ぐわいてん》副木《そへぎ》をしてもらふのださうだけれど、佐山の創はなかなかふさがらなかつた。  だが、このごろ、痛みは非常《ひじやう》に輕《かる》くなつてゐる。 「俺は、働《はたら》かなくちや食へンからなア‥‥」 「何でも、自信《じしん》を持つことだよ、俺はこのごろ、妙に、なにくそツと思ふやうになつた。自信さへあれば、何とか、どうにか出來るよ‥‥」  煙草を吸ひながら、佐山は隣の兼松達《かねまつたち》の會話をきいてゐたが、(自信を持つ)と云ふことは、佐山もひどく同感《どうかん》であつた。 [#9字下げ]○  魚屋をしてゐる律子の叔父が、召集令状《せうしふれいじやう》を受けて出征することになつた。  女ばかりでは店をやつてゆけないので、家族は一應叔父と一|緒《しよ》に佐賀《さが》へかへることになり、律子は急に部屋《へや》を探さなければならなくなつた。  律子が部屋を探《さが》すと云ふことをきくと、郷子も一枝も、三人で一軒の家を借《か》りた方が經濟だと云ふことに話がまとまり、暑《あつ》い日中を三人で家を探して歩いた。  東京の中心へあまり時間《じかん》のかゝらないところ、電車賃《でんしやちん》の安いところ、近所のうるさくないところ、――三人はまづ、牛込の矢來《やらい》の邊をぶらぶら歩いてみた。 「いざとなると、中々、貸家《かしや》つてないものねえ‥‥」  律子が、ハンカチで額の汗をおさへながら、貸家探《かしやさが》しにへこたれてゐるかたちだつた。 「夕方まで歩いてみませうよ‥‥」  郷子は、脚氣《かつけ》の方もだいぶよくなつてゐたので、歩くのは愉《たの》しかつた。つくだ煮屋の横をはいつてみたり、本屋の横をはいつてみたり、路地《ろぢ》のなかの、わかりにくい隅々《すみ/″\》まで歩いてみたが、結局探しあてたのは、藥王寺町《やくわうじまち》の、小さい洋服屋の裏にある、四部屋ばかりの平家《ひらや》を、三人はきめることにした。  西陽のあたる縁側《えんがは》に三人は腰をかけてしばらくやすんでゐた。差配《さはい》は路地口の經師屋で、人のよささうな老夫婦だつた。 「この、八|疊《でふ》の部屋は誰のにするの?」  一枝が、がらんとした部屋を爪先立《つまさきた》つて歩きながら尋ねてゐる。 「全く、この部屋だけがよくて、あとは不公平《ふこうへい》ね、――誰が誰つてこともなアーし、いゝでせう?」  だいぶ空家になつてゐたのか、四圍《あたり》は濕つてかび[#「かび」に傍点]臭い。庭の隅《すみ》には赤いサルビアの花が乾いたやうに咲いてゐた。古い家だつたが、板塀《いたべい》だけが新しかつた。  近所も、板塀つゞきの一寸した邸町で、家が古いので家賃《やちん》も割合安かつた。  郷子は二三日前から、芝にある大河内電線《おほかうちでんせん》の營業部に事務員として通つてゐた。誰の紹介もなく、新聞廣告《しんぶんくわうこく》で行つてみたのである。 「此部屋に、可愛《かあい》いスタンドを置いて、三人でお茶をのんだり、話をしたり、愉しいぢやないの?」  一枝はとてもよろこんでゐた。 「そして、私が、みんなに、支那語《しなご》を教へるわね‥‥」  律子は、簡單《かんたん》な白いワンピースを着てゐたが、裾《すそ》をつまんで、埃のざらざらした臺所をひととほり自分一人で檢査《けんさ》をしてまはつてゐた。  郷子の月給《げつきふ》は非常に安かつた。  物價《ぶつか》はあがる一方だつたし、當分、岡部に借《か》りた百圓の金も拂へさうにはなかつたが、郷子は夜は夜で、洋裁《やうさい》でも勉強しようかとも思つてゐた。 「ねえ、さつき、敷金《しききん》、三ツだつて云つてたわねえ、どうするの?」  一枝が、髮《かみ》をうるささうにかきあげながら、縁に腰《こし》をかけてゐる郷子にたづねに來た。 「何とか、三人で奮鬪《ふんとう》しなくちやならないわね‥‥」 「奮鬪つて、さうね、まア、兎に角、努力《どりょく》しませう‥‥」  律子が臺所《だいどころ》から戻つて來ると、三人は縁の雨戸を閉めて路地へ出た。 「ねえ、さつきも一枝さんと話したンだけど、敷金《しききん》が三ツだつて、どうするの?」 「あら、そんなこと、二人とも、私にまかしておいていゝわ、戰時《せんじ》なンですもの、少しぐらゐ待つて貰《もら》つたつていゝぢやアないの――女三人ですもの借さないつてことないわよ」 [#9字下げ]○  郷子達が藥王寺《やくわうじ》へ引越した日は日曜日であつた。  夕方から雨が土砂降《どしやぶ》りに降つて來た。三人とも風呂から歸つた處だつたので、八|疊《でふ》の部屋に一枝の小さいスタンドを取りつけて、三人は蕎麥《そば》を取つて食べた。 「ねえ、私、このごろ、女の一生つて小説を讀んでゐるンだけど、はじめの章《しやう》が、何だか、こんな大雨《おほあめ》の日なのよ‥‥」  沛然《はいぜん》とした雨が、庭の汚れた土の上を叩きかへすやうに降つてゐる。板塀の内側のひば[#「ひば」に傍点]の木はまるで踊《をど》つてゐるやうにゆれ動いてゐて、軈て遠くに雷鳴さへしてゐた。  一枝は、蕎麥の丼《どんぶり》に水を汲んで來て、美味《うま》さうに飮んでゐた。 「ジヤンヌと云ふ大地主で貴族の娘がねえ、修道院《しうだうゐん》を卒業して、田舍へ歸つて若い子爵と結婚するンだけど、新婚旅行《しんこんりよかう》から歸つてしばらくして、良人が女中と關係があるのを、發見するのよ、――その女中は、ジヤンヌの部屋で産氣づいて子供《こども》を生んでるのに、若いジヤンヌは良人の子供だつてこと知《し》らないから、とてもかばつてるンだけど‥‥或晩、良人《をつと》のベツドに女中の寢てゐるのを發見して、良人に絶望《ぜつばう》を感じてしまふの。子供だけを愛《あい》すやうになるのね、――良人は女中のほかにも、或る貴婦人《きふじん》と戀におちて、羊を運ぶ車の上で逢引《あひびき》をしてゐる日に、貴婦人の良人が、大變《たいへん》な力で、車を引つぱつて、山の上から谷底《たにそこ》へ、それをつきとばしてしまふの。――えゝ、二人とも死《し》んでしまふわ。ジヤンヌは、良人に失望《しつばう》してゐるから、すぐ哀《かな》しみも忘れて、子供ばかり可愛《かあい》がるンだけどその子供が、大きくなつて、都會の學校《がくかう》へ行き女をつくり、母のジヤンヌを捨てゝしまふの、――私、それを讀《よ》んだら、女つてみじめなものだとつくづく[#「とつくづく」は底本では「つとくづく」]思つたわ、身近《みぢか》に、そんな一例もあつたし‥‥」 「あら、良人に失望《しつばう》なンかしないで、怒ればいゝぢやないの?」 「だつて、結婚式《けつこんしき》の當時から、ロザリイつて女中と交渉《かうせふ》があるンですもの、若い奧さんは良人に失望してしまふのあたりまえよ、一枝さんは、ぢやア、とても怒《おこ》る方《はう》なのね?」 「えゝ、私、毆《なぐ》つちまふわ、そんなの‥‥」 「律子《りつこ》さんはどうするかしら?」  郷子が、蕎麥《そば》を口もとへ持つてゆきながら尋ねた。 「さうね、私《わたし》は、どうするかしら?――でも、ジヤンヌつて女も、私にはあきたりないわ、何だかもろくて、淡《あは》くつて‥‥」 「ジヤンヌつて、だけど、汚《よご》れにそまない、とても美しい女なのよ‥‥」 「ぢやア、郷子さんが結婚《けつこん》した場合、郷子さんの良人が、そんな事をしたらどうする?」 「そりやア、勿論《もちろん》、許さないわ、私、すぐ、別れてしまふわ‥‥」 「毆《なぐ》らないの?」  一枝が、丼《どんぶり》を兩手でかゝへて訊いてゐる。 「毆るのも汚《けが》らはしいのぢやないかしら‥‥」 「もしも、子供《こども》があつたら、どうして?」  律子はのび[#「のび」に傍点]た蕎麥《そば》を、箸でほぐしながら、にやにや笑つてゐた。郷子は負けない氣で、 「子供があつても、私、別《わか》れてしまふわ‥‥」  と、強《つよ》く云つた。 「ジヤンヌが、結婚しない娘の頃の、朝の寢覺《ねざ》めとか、ものおもひのところなンか、とてもよく書けて、私達、若い女が、得體《えたい》の知れない惱みに惱むの、誰にでもあるンだと思《おも》つて、何だかとても、安心したの‥‥」 「よオーし、あたしも讀んでみよう‥‥」  一枝がさう云つて、手拭《てぬぐひ》で頭をしばりながら隣りの部屋から蒲團《ふとん》の包みを引つぱつて來た。  律子はハンドバツグから、やつと集めた敷金《しききん》の金を、疊の上へ並べて、ゆつくり計算《けいさん》を始めてゐる。 [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ]  ――お躯《からだ》の工合は如何でいらつしやいますか。此間も、お手紙《てがみ》しましたやうに、小見山樣から、御負傷《ごふしやう》なさいましたことをうかゞひ、私は、どんなに吃驚《びつくり》しましたことでせう。さゝやかながら夏の下着類《したぎるゐ》を、少しばかりお送りしたりして、どんなにか、戰場《せんぢやう》での、あなたの御健在を祈つてをりましたのに‥‥御負傷《ごふしやう》なさいましたとうかゞひ、走つて行けますものなら、走つて行つて御《ご》かいはう申しあげたいとおもつてをります。  健全《けんぜん》な道に生きるやうにとの、御言葉《おことば》、身に沁みて嬉しく、たゞいまは、女の友人と三人で小さい家を持ち、私は電線工場《でんせんこうぢやう》の營業部の事務員として働いてをります。月給は手當とも三十八圓ばかりでございますが、毎日、元氣で働《はたら》いてをります。  此樣《このやう》な時勢にあつて、生活《せいくわつ》は苦しいものではありますけれど、元氣に進んでゆくより道《みち》はないとぞんじてをります。  街で、白い着物の傷病兵《しやうびやうへい》の方をみかけますと、もしや、あなたさまではと、おもはず立ちどまつてしまふことも度々でございます。街《まち》で會《あ》ふ、傷病兵の方が、みんな、あなたのお友達のやうな氣もされて、何でもしてさしあげたい感激《かんげき》でいつぱいになります。  私は、何時も、お元氣《げんき》でいらつしやるやうに神樣に祈つてをります。ボートを漕《こ》いで下すつた、あの強いお手が、いまは傷ついてゐられる‥‥私は戰場でのあなたの御樣子《ごやうす》を空想してゐます。  路傍《ろばう》の男としてみて下さいと書いてありましたこと、私は、そんなことはどうしても厭《いや》です‥‥。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、新一への音信を、こゝまで書きかけて來ると、涙が溢《あふ》れて仕方がなかつた。  この一週間、律子が夕飯《ゆふはん》をつくる順番にあたつて、律子《りつこ》は臺所でライス・カレーをつくつてゐる。  一枝は、黄昏《たそがれ》の薄陽《うすび》をたよりに、縁側で『女の一生』を一心に讀み耽つてゐた。 「さア、もう支度出來てよ。お膳《ぜん》を出してね」  律子が臺所《だいどころ》から二人を呼んでゐる。 「ねえ、この、ジヤンヌつて娘、コルシカへ新婚旅行《しんこんりよかう》するつて洒落てるわね。――でも、男つて、結婚すると、急に吝《けち》になるものかしら、奧さんの小遣《こづか》ひまで取りあげちやつたりして、幻滅だわねえ‥‥」 「あゝ、そこンところを讀んでるの?」 「えゝ、新婚旅行で、晝日中《ひるひなか》、ホテルの部屋へ、良人が平氣でジヤンヌを連れてはいるの、私にはわからないわ、卑《いや》しいわね」  一枝は一人でジヤンヌの良人《をつと》を責めてゐた。  郷子は手紙《てがみ》を書き終ると、東京のヱハガキを二枚ばかり、新一の手紙の中へ同封《どうふう》しておいた。  軈て食事の支度が出來ると、三人は各々《おの/\》團扇《うちは》をもつて、膳の前へ坐つた。  律子は、明日は、鎌倉へ海水浴《かいすゐよく》に行くのだと云つてゐる。 「郷子さんも行かない?」 「私とても行けないわ、泳ぎたいと思はないもの‥‥それに、明日《あす》日曜日《にちえうび》だから、ひよつとしたら弟が來るかも知《し》れないし‥‥」 「さう、一枝《かずえ》さんは八の日でなくちや、お休《やす》みぢやないし、――一人で行くわ、私一人で‥‥」  律子の話では、大野の事務所もいまでは、大野《おほの》の弟があとを繼いでゐて、小見山《こみやま》が月に一度位は上京して來る模樣《もやう》であつた。 「これからは、一にも健康、二にも健康《けんかう》よ、――私は、明日、溺《おぼ》れるまでじやぶじやぶ海で泳いで來よう‥‥」 [#9字下げ]○  朝、郷子が臺所口《だいどころぐち》で洗濯をしてゐると、敬太郎《けいたらう》が霜降の職工服姿で訪ねて來た。  久しぶりに見る敬太郎は、血色《けつしよく》もよくなつてゐて、だいぶ太つてゐる。  律子は鎌倉《かまくら》へ海水浴に行つてゐない。  一枝は出勤してゐる。蝉が、裏の邸の庭樹《にはき》でジイジイ鳴きたてゝゐた。――郷子《くにこ》は弟に砂糖水をつくつてやつたり、馬穴に冷しておいた梨瓜《なしうり》を剥いてやつたりした。 「お母さんから、姉《ねえ》さんへ手紙が來てゐますよ」 「あら、ぢやア、あんたの寄宿舍《きしゆくしや》の方へよこしたのね?」  義母の手紙には、郷子の結婚問題に就いて書いてあつた。――送《おく》つて貰つた百圓の金《かね》では、何とも方法《はうはふ》つかず、近々に店は閉《とざ》してしまふより仕方がないと云ふことや、大阪の雨宮と云ふ、綿布問屋の次男の嫁に、郷子を貰ひたいと、瀬田《せた》の親類の橋渡《はしわた》しで云つて來たと云ふことなんかゞ細々《こま/″\》と書いてあつた。  今度の事變《じへん》では、その雨宮と云ふ家は、陸海軍《りくかいぐん》に、二千圓づゝも、獻金したりして、中々しつかりした家柄でもあるので、お父さんも、この話には、大變《たいへん》滿足《まんぞく》してゐるし、何《なん》とか近いうちに一度、歸郷《ききやう》してみてくれないかと云つて來てゐた。 「ねえ、敬ちやん、お母さんは、私に歸《かへ》つて來ないかつて云《い》ふのよ」 「ふうーん、大阪《おほさか》のお嫁さんの口だらう?」 「えゝ、あんたにも、さう云つて來た?」 「何だか、姉《ねえ》さんに、歸《かへ》るやうにすゝめてくれつて、僕に云つて來てゐましたよ」 「私、いま、歸りたくないわ。しかも、結婚《けつこん》なンて、まだ、考《かんが》へたこともないもの‥‥」 「大阪の、その雨宮《あめみや》つて云ふひとは、姉《ねえ》さんを見たことがあるンださうですよ――マツヱがそんなことを書いてよこしたけど‥‥」 「ねえ、どうして、あんな小《ちひ》さな店《みせ》が、うまくやつてゆけないンだらう?」 「だつて、そりやア、姉さん、田舍は、この一二年、とても不景氣《ふけいき》なンだし、僕達《ぼくたち》の學校だつて、隨分《ずゐぶん》やめるものがあるンだもの、――マツヱだつて、學校をたうとうよしてしまつたンですからねえ‥‥」 「ほんとに、マツちやんだけは、何《なん》とかして、學校《がくかう》へやつてやりたかつたンだけどねえ、それも、どうにもならないし‥‥」 「近いうち、一度、歸《かへ》れませんか?」 「まア! そんなに簡單に田舍へ歸れやしないことよ、――それに、私《わたし》、いま結婚《けつこん》どころぢやないもの‥‥」 「――僕に來た、お母《かあ》さんの手紙《てがみ》では、姉さんが、一應、雨宮さんに會つてくれゝば、向ふのひとがのぞんでゐるのだから‥‥さうすれば、家の方も、大阪《おほさか》へ出て行つて、何か新《あたら》しい商賣をする道《みち》もつくだらうし、マツヱも何とか女學校《ぢよがくかう》へ行けるなンて書いてありましたけど、――尤も、これは、お母さんらしい勘定高《かんぢやうだか》い意見ですがね‥‥」  郷子は敬太郎《けいたらう》の横顏をぢつと眺めてゐた。  自分のやうなものにも、人並らしく結婚《けつこん》の話が持ちこまれるのかと、郷子《くにこ》は急に重苦しい十字架を背負《せお》はされてゐるやうな、そんな氣がしてならない。  自分の生活へ出發して、自分の生活のなかで發見した良人《をつと》を求めることが理想《りさう》でもあり、幸福でもあるやうな氣が此頃《このごろ》しきりに考へられるのは、女《をんな》の一生の、みじめなジヤンヌの生涯を讀んでからであらうか、――親《おや》の選んでくれた結婚《けつこん》なんかには、郷子はいまのところ、心服して[#「心服して」は底本では「心服 て」]ゆく氣にはならなかつた。 「私が、その、雨宮《あめみや》と云ふ商人の方の處《ところ》へ、お嫁にでも行けば、家のもの、みんなが、幸福に[#「幸福に」は底本では「幸福 」]なると云ふのねえ?」 「いや、そりやア、お父さんと、お母さんだけの考《かんが》へですよ。本人の姉《ねえ》さんが厭ならば、それで、何も文句《もんく》はないぢやありませんか‥‥」 [#9字下げ]○  秋すぎるまで、父《ちゝ》や、義母や、瀬田の親類《しんるゐ》から、手をかへ、品をかへて、郷子に結婚のことに就いての手紙《てがみ》が何度か來た。  瀬田の叔母からのは、親が困つてゐる状態を、平氣《へいき》でみすごしてゐる郷子の冷《つめ》たさを、何か他に原因《げんいん》があるのではないか、それだつたら、何《なん》でも打ちあけてくれるやうにと云つた、奧齒にものゝはさまつた手紙《てがみ》もあつた。  待ちこがれてゐる、佐山からの手紙《てがみ》は、この二ケ|月《げつ》あまりふつゝりと來なくなり、郷子は、時々やけになる氣持《きもち》も湧かないではないのだ。  相談すべき、岡部は、一ケ月前から、富士山頂《ふじさんちやう》の氣象觀測所にゐる友人《いうじん》を尋ねて登つて行つたきり、まだ三鷹《みたか》へは歸つて來《き》てゐない。――好天でも風速三十メートルぐらゐで、酸素の不足で時々頭がづきづきするが、富士山頂の神々しさは、あなたを案内《あんない》したい位だと、岡部《をかべ》は山から、たつた一度|音信《たより》をよこしたきりだつた。  今日も郷子は、とつおいつ、色々なことを考へながら會社《くわいしや》から戻つて來ると、路地口《ろぢぐち》に自動車がとまつてゐて、そのなかに、奈津子《なつこ》が、たつた一人で、硝子窓から戸外をのぞいてゐた。 「まア! 奈津子《なつこ》さんぢやないの? どうしたンです‥‥いつたい?」  奈津子は泣き出しさうな顏をして自動車《じどうしや》から降りて來た。 「いま、運轉手《うんてんしゆ》のひとに、植村さんのこと、探《さが》して貰つてたの‥‥おばあさんにお許しうけて來たのよ」  運轉手が戻つて來たので、郷子は自動車は歸つて貰ひ、奈津子《なつこ》を家へ連れて行《い》つた。  律子《りつこ》も一枝もまだ戻つてゐない。 「御隱居樣お元氣《げんき》ですの。――お咲さん、まだゐますか?」 「ねえ、小さいお家に引越したのよ、お咲《さき》さんは田舍《ゐなか》へ歸つちやつて、いま、おばあさまと、私と二人《ふたり》きりなの‥‥」  郷子は羊羹を切つて、お茶を淹れて出しながら、その後の奈津子《なつこ》の生活も、考《かんが》へたほど、あまり幸福《かうふく》なものではないと云ふことがさつしられた。 「前から、植村《うゑむら》さんとこへ行くつて、おばあさまにねだつてたのよ――だつて‥‥みんな急にゐなくなつて淋しいンですもの‥‥」 「ほら、何時か、お葬式に行つた澁谷《しぶや》のお家《うち》ね、あれからいらつした?」 「うゝん、一度も行《い》かないの‥‥行つちやいけないンだつて‥‥」  何時《いつ》か、律子の口を通して、大野夫人が、氣持の定《さだ》まるまでは、大野《おほの》の隱してゐた子供なンか見たくもないと怒《おこ》つてゐると云《い》ふことをきいて、それもまた大野夫人らしいし、仕方のないことだと郷子は思つてゐた。郷子が、家庭教師《かていけうし》に行つてゐたことも夫人《ふじん》は不快がつてゐるときいて、郷子《くにこ》はちゞかむ思ひだつたのだ。 「御飯をたべて行くでせう? いま澤山、お姉さん達が戻《もど》つて來ますよ、そしたら、みんなで御飯食べませうね‥‥私《わたし》、送つてゆくからいゝでせう?」  郷子は、奈津子の人なつゝこい眼や表情《へうじやう》を眺めながら、どことなく、大野《おほの》のおもざしに似てゐるのにほろりとしてゐる。 「お臺所するンだから、奈津子《なつこ》さんもみてゐてね」  郷子がヱプロンの紐を結びながら臺所へ行くと、がらがらと玄關《げんくわん》の格子を開《あ》けて、電報配達夫が、郷子の名を呼んで、電報《でんぽう》を配達して行つた。 (何處からだらう?)  ―チチ ヤマイワルシ スグカヘレ ハハ  郷子は、何度も電文《でんぶん》を讀みかへして行《い》きながら、ぢつと紙片をみつめてゐた。腑に落ちないところもあつたが、病弱な父を知つてゐるので、此《この》電文《でんぶん》はあり得ることだとも信《しん》ぜられる。 [#9字下げ]○  十月の初め、佐山《さやま》はなつかしい東京《とうきやう》へ歸つて來た。  小倉、廣島の陸軍病院を經て、秋の氣配すがすがしい東京《とうきやう》の空を見た時、佐山《さやま》は病院自動車の窓から、街道《かいどう》を通りすぎてゆく女の美しさに驚いてゐた。  街の音を聽き、街の匂ひを嗅ぎ、流動《りうどう》する街の姿を佐山はぢつと見《み》てゐる。――あんなにわくわくと胸を躍《をど》らしてゐたはずの東京《とうきやう》へ着いて、佐山は急に戰場への思慕で興奮して來る自分を感じてゐた。  街の辻々には名士達《めいしたち》の演説會と云《い》つたものや、戰場視察談、大陸視察談の立看板があつちにもこつちにも立つてゐて、それらの立看板を眺めながら、佐山《さやま》は空漠とした旅愁《りよしう》にとらはれてゐたものだ。  東京へ歸つてからも、佐山は誰にも手紙《てがみ》を出さなかつた。たゞ信州《しんしう》の父と弟へだけ、歸つて來たと云ふことを知らせておいた。  いまは創《きず》もふさがりだんだんよい方へ向つてゐた。  さうして、食慾もなかなか旺盛《わうせい》だつた。  部屋には四ツのベツドが、二臺づつ頭を内側《うちがは》にして並べてあつた。佐山《さやま》は一番奧のベツド。  お茶《ちや》がのみたいと云《い》ふと、かゝりの看護婦は茶を淹れて持つて來てくれたりする。  隣りのベツドには、河南省の、蘭封東門附近で、左脚《ひだりあし》に貫通銃創を受けたと云ふ、廣瀬《ひろせ》と云ふ伍長が寢《ね》てゐた。 「敵前三十メートルのところで、敵を看守中《かんしゆちゆう》、小銃で左の方《はう》からこゝをやられましてねえ、それでも、始《はじ》めはやられたなンて思《おも》はなかつたなア。氣が張つてたンですね‥‥」  今朝も佐山は前庭へ散歩に出て、ベンチに腰《こし》をかけて白い菊の花畑《はなばたけ》を眺めてゐた。 「此頃お痛《いた》みになります?」  胃腸をこはしてゐる佐山に、朝晩、水藥を持つて來てくれる若い看護婦《かんごふ》が、佐山の前《まへ》を通りかゝつて優《やさ》しくきいてくれた。  菊の花を眺めて、夢現《ゆめうつつ》[#ルビの「ゆめうつつ」の一つ目の「つ」は底本では転倒]でゐた佐山は、ふつと顏《かほ》を擧げて、若い看護婦《かんごふ》を眺めた。  朝の光を浴びて、清潔《せいけつ》な白い服が、きらきらと佐山の眼にまぶしい。  いまは、この看護婦の姿だけが信頼《しんらい》のおける友人《いうじん》のやうにも思へる。 「ありがたう、時々|微痛《びつう》がするきりで、いまのところ大丈夫です‥‥」 「氣候の變りめは、お大事になさらないと、こちらは濕氣《しつき》が多くて冷《ひ》えますから‥‥」 「――もう、ぢき、よくなるでせう、明日《あす》あたり、副木《そへぎ》も取つてしまつて、これから、電氣をあてたり、按摩《あんま》にでも根氣《こんき》よくかゝれば少しぐらゐ手を動かすことが出來るンぢやないでせうか」 「ほんとに、お大切《たいせつ》になさいますやうに‥‥」  佐山は關西辯の拔けない、この看護婦のアクセントをきいてゐて植村郷子《うゑむらくにこ》が、時々こんなアクセントをつかふことを思《おも》ひ出してゐた。 (あの看護婦《かんごふ》も京都邊のひとかも知れないな‥‥)  名前は何と云ふのか、別にきゝもしないが、佐山《さやま》は郷子の事を想ひ、何となく郷子《くにこ》に逢ひたい氣持《きもち》もあつたけれど、――小倉《こくら》へ歸る船中で佐山は、郷子から貰つたコンパクトを玄海の海へ放り投げてゐた。もしや、小見山と結婚《けつこん》してゐるかも知れないとも考《かんが》へられたし、自分の手の負傷《ふしやう》の事を思ふと、女に戀々《れん/\》としてゐる場合でもなく、生きてゆく、これからの生活を考へなければならないと思ふのだつた。  病院を出たならば、山深《やまぶか》い鑛山へ技師《ぎし》として働く道はないものかと、佐山はベンチから立ちあがると、ゆつくり歩きながら、先輩《せんぱい》へ手紙を出してみようと思《おも》つた。 [#9字下げ]○  夕飯《ゆふはん》[#「ゆふはん」は底本では「けふはん」]のあと、水藥《すゐやく》を持つて何時もの看護婦が佐山達の部屋へ這入つて來た。  佐山はベツドに寢轉び、高《たか》く澄み透つた星空《ほしぞら》をみてゐた。 「看護婦《かんごふ》さん、あの星は何と云ふのか知《し》つてゐますか?」  水藥をのみながら、佐山が空を指差《ゆびさ》した。 「どれですの?」 「眞東《まひがし》から、たて[#「たて」に傍点]に三つ見えるでせう? あれ、オリオンですよ、――赤つぽいのが、ペテルギユースと云つたかな、こつちの青《あを》いのがリゲル‥‥」 「まア、よくごぞんじですのね、私の知つた方にも星の專門家《せんもんか》があるンですよ、三鷹《みたか》に務めていらつしやるンですけれど‥‥」 「へえ? 三鷹の天文臺《てんもんだい》にですか?」 「えゝ、私の學校友達のその友達《ともだち》なンですの、やつぱり、星を研究《けんきう》していらつしやるらしいンですけど、何《なん》て云つたかしら?――さうさう、ダニヱル彗星《すゐせい》とかつて云ふのあるンでせうか?」 「へえ、こりア驚《おどろ》いた、――ぢやア、その男は岡部《をかべ》つて云ひませんか?」 「まア、御ぞんじなンですか?」 「知つてゐますとも、私の親密《しんみつ》な友人ですよ‥‥」 「まア! さうですか、道理で、星のことなンか、よく知《し》つていらつしやると思《おも》ひましたわ。――ほんとに、このごろ、忙《せ》はしくて、私達《わたしたち》、星なんかめつたに眺めたことありませんの」  佐山は枕もとから、岡部が戰地に送つてくれた、兵用天文《へいようてんもん》の「星で方角《はうがく》を知る法」と云ふ小さい本を出して來《き》た。 「晩秋、機動演習の頃の初夜、このオリオン座は壯觀《さうくわん》な光りをはなつとあるでせう。この星は僕は一番好きだなア、勇士《ゆうし》が腰に劍を佩き、左手《ひだりて》で獅子の皮の楯を翳し、頭上高く、ほらあんなに棒を振《ふ》つてるでせう‥‥向ふの方が大犬座、こつちが小犬座‥‥」  佐山が説明をしてゐると、部屋のなかの、起きられる傷病兵達《しやうびやうへいたち》は、みんな窓へ寄《よ》つて來て蒼々と光る星を眺《なが》めてゐる。 「岡部を知つてゐるとは奇遇《きぐう》ですね。お故郷《くに》はどちらですか」 「關西ですの、大津《おほつ》です‥‥」 「へえ?」  佐山は、なるほどと、うなづく氣持《きもち》であつた。ほんとにお躯をお大切《たいせつ》になさいますやうにと、よく云つてくれる、この看護婦の言葉のアクセントが、如何《いか》にも、郷子のアクセントに似《に》てゐると思つてゐたのだ。 (ぢやア、植村郷子《うゑむらくにこ》と友人なのだな‥‥)  佐山は、案外なところに引つかゝりがあるものだと思ひ、看護婦《かんごふ》の顏の向ふに郷子《くにこ》の顏を思ひ浮べてゐた。 「――僕《ぼく》はおもふんだけどねえ、吾々|兵隊《へいたい》は、激しい活動をしてゐる太陽のやうなものだつたンだよ、――かうして負傷してしまふと、今度は休息《きうそく》の星さ、精神的《せいしんてき》にも、徹し光るには、まア、これからだな、問題《もんだい》は‥‥あの星の光度《くわうど》が見えるか見えないかゞまづ僕達の修業だよ‥‥」  看護婦《かんごふ》は靜かに部屋の外へ出て行つた。  隣りのベツドの廣瀬は頭をもちあげて、兵用天文《へいようてんもん》の本をばらばらとめくつてゐたが、急《きふ》に本を置いて寢轉《ねころ》ぶと、 「私は小學校教師だけれども、もしも、再び教壇《けうだん》に立つことが出來《でき》るならばですね、――熱心に子供に向へる自信《じしん》はありますよ。むしろ、脚《あし》のあつた時よりも眞劍に教へることが出來るだらうと思ひますが、どんなものでせう?‥‥」  佐山も、昔のやうにボートは漕げなくても、昔《むかし》のやうに自由闊達に兩手《りやうて》は振れなくても、兼松のやうな自信《じしん》は、自分にもあり、前《まへ》よりも生一本に仕事に向へると考へてゐた。 [#9字下げ]○  蒲田區仲《かまたくなか》六|郷《がう》二|丁目《ちやうめ》矢野方《やのかた》――黄昏頃に、郷子はやつと母の住居を探しあてることが出來た。  新開の工場街らしい、がらんとした町裏の染物工場の塀に「矢野《やの》」と大きく看板《かんばん》が出てゐる。 「郷子さんが、東京《とうきやう》に出てゐるつて、瀬田《せた》の家から知らせて來てゐたけど、何時か尋ねてくれるだらうと思つて、私は樂《たの》しみに待つてゐたンですよ」  郷子が、大きくなつて、見違《みちが》へるばかりに美《うつく》しくなつたと、りくは眼をそばだてゝゐた。 「お母さん、やつぱりずつと務《つと》めてゐるの?」 「あゝ、ずつとねえ、――こゝでお世話《せわ》になつてゐるのさ‥‥」 「あなた、一寸《ちよつと》出られますか?」 「あゝ、さう斷つてくれば何とか‥‥でも、上《あが》つていゝんですよ、お茶《ちや》ぐらゐは出せるンだから」 「えゝ、でも、出ていらつしやいよ」  二人は薄暗《うすくら》くなつた工場街《こうぢやうがい》を歩きながら、長いあひだたまつてゐた話をしあつた。大津の義母には云へないことまで、何でも心おきなく話せる心安《こゝろやす》さは、親子の血《ち》のきたなさであらうか。 「ねえ、お父《とう》さんが、このごろ、ずつと惡いの知つてる?」 「へえ、知らないねえ‥‥」 「電報《でんぽう》がこの夏から、四|通《つう》も來てゐるのよ、――昨夜、敬ちやん、夜行で歸つて行つたンだけど‥‥」 「おや、敬太郎《けいたらう》さんも東京へ來てゐたのかい?」 「えゝ、春からずつと飛行機製作所《ひかうきせいさくじよ》へ入《はい》つてるのよ、私《わたし》よりもお金とつてるの‥‥」 「へえ‥‥さうかねえ、ぢやア、お父《とう》さん、よつぽど惡《わる》いのかねえ?」 「えゝ、惡《わる》いらしいわ、もともと、胃癌《ゐがん》の氣のあつたひとですからね、――マツちやんの手紙だと、躯が惡いくせに、油《あぶら》つこいものをほしがるンだつて‥‥」  ばらばらと雨《あめ》が降り始めて來た。時雨《しぐれ》かもしれないとおもつてゐたが、だんだん雨脚が強くなつて來たので、郷子は市場のそばの下駄屋《げたや》へ寄つて、一番安い雨傘《あまがさ》を一本買つた。 「ねえ、お母《かあ》さん‥‥」 (お母さんと云ふ言葉《ことば》を、私は何年《なんねん》ぶりでつかふのだらう、――早く、尋ねて來て上げればよかつた)  女學校のころ、百姓女のやうに疲れた姿で、母のりくが、校門《かうもん》のところで娘《むすめ》に逢ひたさに待つてゐたのを郷子《くにこ》は思ひ出したが、いまのりくの姿は案外《あんぐわい》年《とし》もとらずに元氣さうである。 「ねえ、私、お父さんが病氣《びやうき》だつてことも、昨夜《ゆふべ》の電報で本當だつてわかつたンですけれど、本當は、私の結婚《けつこん》の話もあるの‥‥大阪《おほさか》のひとなンですつて‥‥」  家運が下向きになつてゐることや、素人の生兵法《なまびやうはふ》に、父が株に手を出したり、その上《うへ》あつちこつちに小金の借財《しやくざい》もかなりあるらしいことも郷子は、りくに打ちあけて話した。 「重いだらう。私《わたし》持《も》ちませう?」  傘の柄を握つてゐる郷子の手の下に、りくが冷く乾《かわ》いた手を持つて來《き》た。 「それで、あなたは、お嫁《よめ》さんにゆく氣持あるの?」 「うゝん‥‥今夜、遲い汽車で、一應、大津《おほつ》へ戻つてみようかと思《おも》つてゐるンですけど、とても胸がいつぱいで不安《ふあん》で仕方がないのよ、――私《わたし》は、いま、そんな結婚どころぢやないし、折角、お友達《ともだち》とも家を持つてうまくいつてゐるンですもの‥‥」 「敬太郎《けいたらう》さんのお母さんは、世帶には如才のないひとなんだがねえ、どうしてうまくゆかないンだらう‥‥」  二人は足袋《たび》をぬいで、暗い六郷の堤《つゝみ》の方へ雨の中を歩いて行つた。 [#9字下げ]○  今日は、神田《かんだ》の學士會館で、天文臺長《てんもんだいちやう》の宮城《みやぎ》から招待を受けてゐたので、岡部は夕方から會へ出向いて行つた。五六人の質素な集りで、顏《かほ》ぶれは何時も同《おな》じである。  會食なかばで、窓外《さうぐわい》に雨の氣配を感じた。  軈て、食後のコーヒイが出て、岡部は窓ぎはの椅子《いす》へ席をかへて、呆んやり秋《あき》の夜の光つた雨を眺《なが》めてゐた。 「おい、佐山君が、陸軍病院《りくぐんびやうゐん》へ戻つてゐるつて、きいたかい?」  岡部の肩を叩いて、やはり、三鷹の國際報時所の部屋にゐる、今城《いましろ》と云ふ男が、先達《せんだつ》て學校の或る先輩《せんぱい》のところに行つたら、佐山《さやま》からたよりがあつたらしいと教へてくれた。 「佐山がねえ?」 「ボートの佐山《さやま》だらう? 學校《がくかう》でよく逢つたことがあるよ‥‥」  今城が臺長の方へ行つてしまふと、岡部は急に焦々《いら/\》して來た。 (佐山《さやま》が歸つてゐる‥‥ふうん俺《おれ》にだけは知らせさうなものだがなア‥‥どうしたンだらう)  會が果てたのは九|時頃《じごろ》だつた。  臺長は千駄ケ谷に自宅を持つてゐて、三人の令孃が父博士《ちゝはかせ》を待つてゐる。上の二人《ふたり》は女子大を出て、それぞれ職業《しよくげふ》を持つてゐると云《い》ふことをきいてゐたが、臺長は中の娘の雪江と云ふのを岡部にやりたい意志があるらしかつた。岡部は二三度、雪江《ゆきえ》と云ふ娘に會《あ》つたこともあつたが、お互はそんなに惡い印象《いんしやう》でもなかつたのだ。  岡部は、佐山が戻つてゐるときいて、いまもふつと郷子《くにこ》の事を思ひ出《だ》してゐたが、考へてゐると、郷子と雪江《ゆきえ》の顏が妙にダブつて來て仕方《しかた》がない。 (家を越したさうだが、――佐山《さやま》の歸つたのを、植村郷子《うゑむらくにこ》は知つてゐるのかな?)  會果てゝ雨《あめ》の中を、岡部は藥王寺《やくわうじ》の郷子の家を探して行つてみた。  やつと探しあてゝ格子を開けると、眼の可愛《かあい》い娘が玄關へ出て來《き》た。 「あら、郷子《くにこ》さんですか、たつたいま、田舍《ゐなか》へ歸りましたのよ、十一時何分とかの汽車なンですけど‥‥」 「田舍へ? 何しに歸《かへ》つたンです?」 「お父さんがお惡《わる》いンですの‥‥」 「一人で?」 「いゝえ、もう一人、友達《ともだち》が驛まで送つて行きましたわ‥‥」 「十一|時何分《じなんぷん》ですか?」 「時間表をみてみませうか?」  一枝が奧へ引つこみかけると、岡部《をかべ》はそれをとめて、これから自動車《くるま》を飛ばして東京驛へかけつけてみようと云つた。 「ほんとに、さつきだつたンですのに‥‥あのウ、どなたさまでいらつしやいますかしら‥‥」 「あゝ、僕《ぼく》ですか、僕は郷子さんの友人《いうじん》で、岡部つて云ふ者です‥‥僕達共通の友人が戰地から戻つて來たときいたものですから、明日郷子さんと見舞《みま》ひに行かうと思《おも》つたンですよ‥‥」  一枝は、郷子《くにこ》の何時か云つた、星《ほし》を見て暮してゐると云ふのは此人だなと、何と云ふこともなく動搖《どうえう》して來る心を感じてゐる。 「大丈夫《だいぢやうぶ》でせうか? 郷子さんに逢《あ》へますかしら?」 「大丈夫ですよ、――自動車《じどうしや》を探して飛《と》ばしますから‥‥」  岡部は雨の路地《ろぢ》を走り拔けて行つた。  郷子へ對する、燃えるやうな感情に抗しながら、岡部は東京驛《とうきやうえき》[#「とうきやうえき」は底本では「とうきやうゑき」]まで自動車を走《はし》らせたが、入場劵を手にしてホームの階段《かいだん》を馳け上つて行くと、下關行《しものせきゆ》きの夜汽車がごとんと、大きく搖れて靜かに動《うご》き出してゐる處であつた。 [#9字下げ]○  律子の姿《すがた》が小さくなるまで郷子《くにこ》は車窓から顏を出してゐたが、ホームを出はづれると、車窓に雨がびしやびしや降りかゝつて來たので、郷《くに》子は靜かに硝子戸《ガラスど》を降ろした。  東京《とうきやう》を去るとなると、急に藥王寺《やくわうじ》[#「やくわうじ」は底本では「やくわうぢ」]の家がなつかしかつた。雨ゴートをぬいで郷子が膝の上でたゝんでゐると、誰か郷子《くにこ》の肩を叩く[#「肩を叩く」は底本では「叩を肩く」]ものがある。 「まあ? 何時《いつ》乘つていらつしたンですの?」  岡部が滴のしたゝつてゐる蝙蝠傘《かうもりがさ》を片手に、郷子を見降ろしてゐた。郷子《くにこ》はしばらく口がきけなかつた。 「汽車《きしや》が動き出したら、急に二等車の方へ飛《と》び乘《の》つちやつたンです‥‥」 「まア!」  郷子は動悸《どうき》がしてゐた。人の愛情と云ふものを、こんなに正直にみせられた事《こと》がないだけに、郷子は、呆れて岡部《をかべ》の顏をみあげてゐた。 「食堂《しよくだう》へ行きませうか?」 「えゝ、でも、どうして、此|汽車《きしや》がわかつたンでせう? ――どうして乘《の》つていらつしたのですの?」 「佐山《さやま》が東京の病院へ戻つて來てゐるンですよ、知《し》つてゐますか?」 「まア! ほんとですか? 知《し》りませんわ‥‥」 「僕も今日|友人《いうじん》に聞いたンですよ、――どうして知《し》らせてくれないのか、僕には、一寸解せないのですがねえ、――明日《あす》、あなたを訪ねて、佐山を驚かせてやらうと思《おも》つたンですよ‥‥」 「それで藥王寺《やくわうじ》へいらつしやいましたの?」  二人は食堂へ行つて、空《あ》いてゐる席へ向ひあつた。富士山で雪燒《ゆきや》けしたのか、岡部は色が黒くなつてゐた。 「だつて、お歸《かへ》りになつてゐるのに、佐山さん、どうして知らせて下《くだ》さらないのでせう?」 「どう云ふ心境の變化《へんくわ》ですかねえ‥‥僕は、佐山が、色んな意味《いみ》で惱んでゐるンぢやないかと思《おも》ふンだけど‥‥」 「でも、東京《とうきやう》へ戻つていらつして、私達に何も知《し》らして下さらないてありませんわ‥‥」  二人の前に熱い紅茶《こうちや》が運ばれて來た。  岡部が郷子の紅茶へ砂糖を入《い》れてくれた。 「お父さんがお惡《わる》いンですつて?」 「えゝ‥‥」 「大變ですねえ、――それで、當分《たうぶん》あつちにゐられるンですか?」 「父《ちゝ》の病状によつてゞすけれど‥‥」 「お父《とう》さんもよくなられるといゝですね」 「――岡部さんには、拜借《はいしやく》しつぱなしで、私、さつき、お手紙を三鷹の方へ出しておきましたンですけど‥‥」 「まア、そりやアいゝでせう。早《はや》く歸つていらつしやい、――明日、僕は佐山《さやま》に逢ひに行きますよ」  郷子は急に匙を白い卓布《テーブルクロス》の上に置いて、雨の降つてゐる窓外を眺《なが》めてゐた。泣くまいと思つても眼尻に涙《なみだ》がよつて來る。 「僕は横濱《よこはま》で降りませう」  岡部はどの邊かしらと暗《くら》い外をのぞきこんでゐた。 「私、このまゝ、東京《とうきやう》へ歸りたいけど‥‥」 「お父さんが惡《わる》いンだもの仕方がないぢやアありませんか、明日《あす》、僕から佐山によく云つておきませう、――いま、小見山《こみやま》は大阪にゐるンですが、まア、次手《ついで》でもあつたら、小見山の事務所も尋《たづ》ねてごらんなさい」 「えゝ有難《ありがた》うございます‥‥」  横濱へ着くと雨《あめ》はやんでゐたがホームは寒い風が吹いてゐた。岡部《をかべ》は濕つた帽子を振つて郷子を見送《みおく》つてくれた。 [#9字下げ]○ 「私は、なにもねえ、そのお金《かね》がどうつて云ふのぢやありませんよ、――いまどきの若いひとは、どうして、さうした、ぬけぬけとしたことが平氣《へいき》なンだか、私は、それを怒つてゐるのよ‥‥」  律子はさつきから一言も返事《へんじ》が出來なかつたが、大野夫人が、そんなに郷子《くにこ》を憎んでゐるのかと、いまさら吃驚《びつくり》してゐた。 「あなたの叔父《をぢ》さんが出征なさるから、それで友達《ともだち》と家を借りるから‥‥そんなお話だつたんでせう? その敷金《しききん》と云ふのは?」 「えゝ」 「まさか、郷子さんと一|緒《しよ》だなンて思ひませんよ。――何《なに》か知らないけど、それを聞いて、私むかむかして仕方《しかた》がないのよ、私、お人良しで、みんなにからかはれてるみたいぢやないの?」  良人《をつと》が亡くなつてから、良人の八九年間の祕密《ひみつ》が夫人の前へさらけ出されると、持つてゆきやうのない腹立《はらだ》たしさを、夫人は櫻木町の家の者や、そこに住《す》んでゐた郷子へ、露骨に感じてゐる。 「戸田が、郷子さんを櫻木町《さくらぎちやう》へ連れてつたンですつてね?」  律子《りつこ》は、少しばかりの敷金を夫人に用立つて貰つたばかりに、こんなに叱《しか》られなければならない理由が莫迦々々《ばか/\》しかつた。  夫人はどんなにか良人《をつと》を愛してゐたのだらうとは思はれるけれども、九|年間《ねんかん》も良人にだまされつゞけてゐる人の良さは、律子《りつこ》には大野夫人に、何か缺陷があるやうにも思《おも》へるのだ。 「奈津子《なつこ》だつて、私のところへは一度も來《き》やしないのよ、――あのおばあさん私を何だと云つて、あの子供《こども》に吹きこんでゐるンでせうねえ‥‥」 「――あら、だつて、奈津子《なつこ》さん、こちらへ來ると、奧さまに叱られるつて思つてるンぢやないでせうか?」 「まさか、尾を振《ふ》つて來る犬は撲たれないつて云ふぢやないの、――郷子《くにこ》さんだつてさうよ、一度位は、私に、あやまりに來《き》たつていゝと思ふの、――少しお高《たか》くかまへてますよ、あのひとは‥‥」  小見山との問題《もんだい》までかつぎ出して、夫人は怒つてゐるのだなと、律子はにやにや心で笑《わら》つてゐた。  夫人は黒い羽織《はおり》を着て、ソフアに凭れてゐたが、律子は不圖、未亡人《みばうじん》になつた、この美しい夫人は、これからさき、生涯《しやうがい》一人でゐるのかしらと考《かんが》へてゐる。  十年近く、良人《をつと》には戀人があつて、しかも、その間には可愛い子供《こども》までこしらへて、二人は死んでしまつてゐる。全く、惡《わる》いことには、今は、憎さも憎しの相手の二人は亡《な》くなつてゐるのだ。――老人《らうじん》や子供相手では、この夫人も敵打《かたきう》ちをするわけにはゆかないぢやないの、と、律子が卓子の上にある煙草《たばこ》を一本取つて、勢よくマツチをすると大野夫人は驚いたやうな顏をして、 「まア! 宮田さん、あなた、煙草を喫《す》ふやうになつたの?」  と呆《あき》れてゐる。 「うゝん、別《べつ》にほしくはないンですけど、こゝへあんまり澤山|這入《はい》つてるンで‥‥だつて、澤山あると、一寸|誘惑《いうわく》されちやふわ」 「あなたたち、いつたい、女《をんな》三人で、どんな生活をしてるンでせうねえ、――出征《しゆつせい》なさる時、あなたのとこの叔父《をぢ》さんがみえて、とても心配《しんぱい》だつて、云つてたわ‥‥」 「何時でも、くだらない心配《しんぱい》してるンですよ。姪《めひ》のことより、魚のくさらない用心《ようじん》しなさいつて喧嘩《けんくわ》してやるンですの‥‥」  律子は不器用《ぶきよう》な手つきで、煙草を一口喫つてみたが、煙《けむり》を咽喉に入れたのか、急にこんこん‥‥と激しい咳《せき》をしだした。 [#9字下げ]○  十月二十六日、武漢陷落《ぶかんかんらく》の號外が全國を火の粉のやうに飛んだ。 「どれよ? 一寸、見《み》せて、見せて頂戴!」  座敷の壁に張《は》りつけてある、支那全圖の前に立つて、律子が、漢口《かんこう》のところへ、赤鉛筆で日の丸の旗《はた》を小さく描いてゐる。一枝と奈津子は見せて見《み》せてと、律子の横から地圖を覗きこんで來た。 「ねえ、素晴《すば》らしいぢやないの‥‥ほら、上海から手で計《はか》つたつてこんなに遠いわ、日本つて強《つよ》いわねえ‥‥」 「アメリカのママ達も、嬉《うれ》しがつてるわ、きつと、――律子さんの叔父さん、どの邊《へん》に征つてらつしやるの?」 「さア、どの邊《へん》でせうねえ、――叔父さんは歩兵《ほへい》なのよ、がんばりの強い人だから、大丈夫だと思《おも》ふンだけど‥‥」 「私達も行《い》つてみたいわね、――うちの店も、大陸進出《たいりくしんしゆつ》のプランをねつてゐるらしいのよ、北京と天津と、上海《シヤンハイ》に店を出すンですつて‥‥」 「一枝さん、そしたら行《い》けばいゝぢやないの‥‥上海つて行つてみたいわねえ、何《なに》か私達にも出來《でき》ることはないかしら? ぢつとしてゐられないわ――」  律子は心のうちで、一足飛びに戰地《せんち》へ行つてみたいと思つてゐた。 「私の學校友達で、陸軍《りくぐん》の方のタイピストで、上海へ行つてる方《かた》があるの、――いまごろ、もう漢口へ發《た》つてるかもわからないけど、私にも、來《こ》ないか、來ないかつて、よく云つて來たンだけど‥‥」 「行《い》けばよかつたのに‥‥」 「えゝ、今から思《おも》へば行けばよかつたと思ふわ」  律子は勝氣で、誰《たれ》にも弱氣なところをみせるのが好《す》きではなかつたので、律子がひそかに小見山を愛してゐることなぞ誰も知《し》らなかつた。  小見山が郷子に求婚《きうこん》をしたと云ふ事を知つて以來、律子は、大野《おほの》の事務所に務めてゐるのも心苦しかつたのだけれど、心苦《こゝろぐる》しいと云ふことに負けて、他に職業を求め探《さが》す事は律子の自尊心が許《ゆる》さなかつた。  小見山が大阪へ行《い》つてしまふと、律子はかへつて吻《ほ》つとした氣持でゐた。 「ねえ、植村さんも、漢口陷落《かんこうかんらく》知つてゐるかしら?」  奈津子が、律子《りつこ》の肩に負ぶさるやうにして聞いてゐる。奈津子は郷子達《くにこたち》の、この小さい家がすつかり氣に入《い》つてしまつて、此頃では一人で電車《でんしや》に乘つて遊びに來てゐた。――大野が、受取人を奈津子の名義にして、ひそかに保險《ほけん》をかけてゐたことも、大野夫人は口惜《くや》しがつてゐたし、どんなに名義人《めいぎにん》が奈津子のであらうとも、そんな金を、自分《じぶん》の知らない子供へやるのは厭だと云つて、大野が亡くなつて以來《いらい》、夫人は櫻木町へ一錢の資送りもしないのだと事務所《じむしよ》の評判になつてゐた。 「植村さん、早く歸《かへ》つて來るといゝわね」  奈津子《なつこ》が待ち遠しさうに云つた。  一枝は臺所で夕飯の支度《したく》をしてゐたが、急に大きい聲で、 「ねえ、律子《りつこ》さん、私、上海のお店の支店が出來たら行つてみようかと思《おも》ふのよ、どうかしら?」  と尋ねてゐる。  律子は、玄關《げんくわん》へ國旗を出して來ると、泊つて行くと云ふ、奈津子《なつこ》をからかひながら、大野の家の誕生日《たんじやうび》の夜を思ひ出してゐた。 「ねえ、奈津子さんは一等|誰《たれ》が好き?」 「お父《とう》さんよ、それからお母さん‥‥それからおばあさん‥‥」 「それから?」 「――それから? それからか‥‥植村《うゑむら》さん‥‥」  律子は、笑ひながら、こつん[#「こつん」に傍点]と奈津子の頭を本《ほん》で叩いた。 [#9字下げ]○  郷子は湖上《こじやう》をゆく白い周遊船を二階から眺めてゐた。父は病氣《びやうき》で寢ついたが、東京へ電報を打つやうな状態《じやうたい》でもなかつたのだ。  先へ歸つてゐるはずの敬太郎《けいたらう》は戻つてゐなかつた。  大阪の雨宮との結婚話《けつこんばなし》がとんとん拍子に運んで、十二月の佳い日を選《えら》んで、もう式を擧げるところまで手順《てじゆん》がきまつてゐるのだと、父にきかされ、郷子は茫然《ばうぜん》としてゐた。  嘘をついた敬太郎にも腹《はら》をたてゝゐたが、郷子は自分の意志《いし》をたしかめもしないで、こゝまで獨斷できめてゐる父と義母《はは》に、云ひやうのないふんまん[#「ふんまん」に傍点]を持つてゐた。  晝から、瀬田《せた》の叔母と、郷子は大阪へ見合《みあ》ひに行くことになつてゐる。  郷子はさつき、寢てゐる父の枕《まくら》もとで、佐山への日頃の氣持《きもち》を打ちあけたのだけれど、平造はぶつきらぼうに、 「それはお前の勝手《かつて》にきめたことで、そんなことは許されんなア‥‥名譽《めいよ》の負傷をしたひとではあつても、それとこれとは違《ちが》ふ‥‥將來のことを考へたら、こゝのところは一|家族《かぞく》がよい[#「よい」に傍点]ときめた方へ進んでゆくのが、お前の道《みち》だよ、――うちの事かて、よう考へて貰《もら》はんことには仕方がない。あんたも女學校《ぢよがくかう》まで出て、よう、ものゝ善惡《ぜんあく》知つてるンやないか、敬太郎はまだ、これからのもので、海のものやら、山《やま》のものやらようわからんところへ持つて來《き》て、あんたが働いたところで、せいぜい自分《じぶん》が食つて通るだけのもンやぜ‥‥」 「私が、どうして、こゝの家をそんなに責任《せきにん》を負はなくちやならないンでせうか?」  平造はぢつと郷子の顏を見てゐたが、急に起きあがると、郷子《くにこ》の髮をつかんで引ずりまはした。枯れたやうな父の手首《てくび》を、郷子は兩手でしつかりつかんで默《だま》つて泣いてゐた。藥袋をさげて這入つて來た義母《はは》が、二人のなかへ割りこんで來たが、郷子《くにこ》は、髮を引ずられてゐた方が、父と娘《むすめ》の氣持をぢかにぶつつけ合つてゐられるやうな、そんな、親子《おやこ》らしいものを感じてゐたのだ。  二階のマツヱの部屋へ郷子《くにこ》が上がつてゆくと、すぐ義母があとから上つて來《き》て、もう、何も彼も行き詰つてしまつてゐる状態《じやうたい》を説いて、今日、大阪へ行つて見合ひだけは濟《す》ましてくれと頼《たの》んでゐる。  家も土地もとつくに人の名前《なまへ》になつてゐることを郷子はきいたけれど、こんな古い家《うち》なんかのために、自分が知らない家へ嫁《よめ》に行かなければならない理由《わけ》がどこにあるだらうと、心で反|抗《かう》してゐた。 「お父さんは、その兵隊《へいたい》さんのこと、とても反對《はんたい》なンですよ、――しかも、こんなことを云つては濟まないのだけど、負傷《ふしやう》をなすつていらつしやれば、なほさら、郷子《くにこ》さんの將來を考へるンだつておつしやるンだけどね、これも無理《むり》のないことぢやないかしら?」  義母が階下《した》へ降りてゆくと、郷子はあんまり泣いたので頭《あたま》が痛くなつてゐた。  あんなに待つた佐山《さやま》は、東京へ戻つて來てゐる‥‥、行き違ひでついに逢《あ》ふことも出來なかつたが、郷子はいまにも飛《と》んで行つて佐山に逢《あ》ひたかつた。  階下では瀬田の叔母《をば》が來たのか、大きい笑ひ聲がしてゐた。晝《ひる》の支度の、魚を燒く臭ひがして來《く》[#「く」は底本では「き」]る。  郷子は大阪へ出たら、大阪《おほさか》から夜汽車にでも乘つて東京へ歸つて行かうと思《おも》つた。トランクから財布を出して中味《なかみ》をしらべてみたが、五圓札が一枚しか殘《のこ》つてゐない。  郷子は、妹の机を開けて、財布《さいふ》はないかと探してみた。――始《はじ》めて東京へ出るとき、父の金を盜んだことを思ひ出して淋《さび》しい氣持だつた。――妹の財布の中の二三枚の銅貨《どうくわ》を見ると、郵便局に勤めては、家に貢いでゐるマツヱの眞率な日常に、郷子は精《せい》も盡き果て、そこへ坐つてしまつた。 [#9字下げ]○  郷子は、叔母《をば》に連れられて大阪へ行《い》つた。  西成區の[#底本では字下げなし]玉出本通りにある、小西《こにし》と云ふ小さい旅館で、雨宮達に逢ふことになつてゐた。  郷子は叔母が、今日《けふ》の日の爲につくつてくれたと云ふ、さや形に小菊《こぎく》ちらしの錦紗の羽織を着てゐた。  奧まつた二階の部屋《へや》に、塗り桶の手焙りが三ツ四ツ置いてあつて部屋には香《かう》がたきしめてある。郷子は狹い縁側《えんがは》に出てみた。  屋根の上に植木棚がつくつてあつて、植木《うゑき》が煤けた色をしてゐた。 「郷子さん、まだ、時間《じかん》があるから、あんた、顏を洗はして貰《もら》ひなさいよ‥‥」  叔母《をば》が袂から朝日を出して吸ひつけながら云《い》つた。  郷子は朝から蒼い顏《かほ》をしてゐたのだ。 「――何べんも汽車で云《い》ふてあげたやうに、くよくよせんで、もう皆《みんな》が、えゝと云ふはうにしたらいゝのよ、雨宮さんとこへ嫁に行《い》つたら、あんたは、そのうち、叔母さんにお禮《れい》を云ふやうになりますよ」  郷子は默つてゐた。庭の筧の水が、大きな手洗《てあら》ひのなかへ滿々と溢れてゐるのを、郷子《くにこ》は二階から眺め降《お》ろして、このまゝこゝから逃げてしまつてやれと云つた氣持《きもち》がしきりだつた。  一時間ほどして、雨宮《あめみや》の來たことを女中が二階へ知《し》らせに來た。  軈て梯子《はしご》段のあたりがざわざわして來《く》ると、郷子は急に膝をたてゝ、叔母の耳もとに唇《くち》をよせて、 「やつぱり、私、顏《かほ》を洗つて來ます」  と、さつき御不淨へ行く時に降りて行つた裏梯子《うらばしご》から急いで階下へ降りて行《い》つた。 「あれが雨宮の息子《むすこ》さん? 隨分耳の大きいひとですなア‥‥」  玄關で女中達《ぢよちゆうたち》がそんなことを云つてゐる。郷子は素知らぬふりをして玄關《げんくわん》に出て行き、女中に下駄を出してくれと云《い》つた。 「どこぞへお使《つか》ひですか?」 「えゝ、一寸、そこまで、用事《ようじ》がありますの、すぐ戻つて來ますわ」 「お使《つか》ひでしたら、番頭さんゐますから‥‥」 「えゝ、ありがたう、大丈夫《だいじやうぶ》ですわ、すぐなンですもの‥‥」  女中が郷子の草履《ざうり》を出してくれると、郷子はそれをつゝかけて犬走《いぬはし》りの石道を走るやうに門の外へ出て行《い》つた。  どの家にも日《ひ》の丸の旗が出てゐて、祝武漢陷落の幕が、商店《しやうてん》の軒に張りめぐらしてある。  郷子は一生懸命、狹い街道りや、路地《ろぢ》の中や、電車道をごたごたと歩《ある》きつゞけた。 (私はもう、完全にたつた一人《ひとり》になつた、もう、これから、どうすることも出來《でき》ない‥‥)  黄昏頃《たそがれころ》の街の灯が、郷子には益々あわたゞしい氣持《きもち》である。  濕つた風が吹《ふ》いて、寒い黄昏だつた。出鱈目に幾臺かのバスへ乘《の》つたりして、郷子は何時か廣い御堂筋を歩《ある》いてゐた。  大津へ歸ることも出來《でき》なければ、東京へ戻ることも出來ない。絶體絶命《ぜつたいぜつめい》だと思ふと、流石に郷子は迷子《まひご》になつた子供のやうにわくわくしてゐる。  堂島にあると云ふ、小見山《こみやま》の事務所を郷子は思《おも》ひ出して、ハンドバツグから小見山の名刺を出してみたりした。(厚《あつ》かましいのだけれど、何とか頼つてみるより仕樣《しやう》がないわ)郷子は自動電話を探して、小見山の事務所へ電話《でんわ》をかけてみた。 「皆さんお歸《かへ》りで、どなたもいらつしやいませんが‥‥」  がちやつと話が切《き》れた。  郷子は砂《すな》まぶれに汚れてゐる電話の臺の上へ、肘をついて、いつとき呆《ぼ》んやりしてゐた。  心配と疲勞と空腹《くうふく》で、郷子はそこへよろよろとたふれさうになつてゐた。 [#9字下げ]○  郷子は大阪驛《おほさかえき》に近い金龍館と云ふ宿屋に泊つた。  昨夜は一晩ぢゆう眠《ねむ》れなかつたが、朝も早くから起きて、郷子はしよんぼりと火鉢《ひばち》にあたつてゐる。  机の上には、書《か》きそんじの電報用紙が何枚か載つてゐた。律子《りつこ》へあてゝ現在の事情を報じたかつたのだけれど、少い字數のなかでは何一つ滿足《まんぞく》に書けないのだ。  隣室《りんしつ》との境になつてゐる襖に、天高うして高きこと窮らず、地厚《ちあつ》うして厚きこと極り無しと古ぼけた文字が書《か》いてあるのを、郷子は心が定《さだ》まるまでいつとき讀みかへしてゐた。  東京と大阪と、どんな違《ちが》ひがあるのかわからないけれども、郷子は東京《とうきやう》へ出て行つた時のあの大膽《だいたん》さはみぢん[#「みぢん」に傍点]もなくて、いまは大阪《おほさか》と云ふ都會に妙におびえてゐる。  晝近くなつて、郷子は帳場《ちやうば》のそばの電話室から、小見山の事務所へ電話《でんわ》をかけた。小見山の聲がすぐ郷子の耳《みゝ》についた。 「何時、大阪《おほさか》へ來たンです?」 「昨日、夕方、お電話《でんわ》したンですけど、もう、お歸《かへ》りになつたあとでしたのよ――いろいろ、思《おも》ひあまつてしまつて‥‥」 「どうしたンです? いつたい?」  小見山はすぐ來《き》てくれると云つた。  郷子は部屋《へや》へ戻つて鏡臺の前へ坐つてみたが、旅空《たびぞら》で小見山に逢ふことが、心にとがめる氣持でもあつた。  小見山はすぐたづねて來《き》てくれた。 「しばらく‥‥どうしたンです? こんな處《ところ》へ來てゐるなンて知《し》らなかつたなア‥‥」 「ほんとに、私《わたし》だつて、どうしていゝンだか判《わか》らないンですもの‥‥」  郷子《くにこ》は率直に今度の見合の話を小見山に話《はな》した。 「驚《おどろ》いたひとだなア! 叔母さんも吃驚してゐますよ、それぢやア相手方《あひてがた》も驚いたゞらうなア‥‥でもまア、自殺《じさつ》なンかしなくてよかつたですね」  小見山が冗談を云ひながら、にやにや笑《わら》つてゐる。 「晝飯《ひるめし》、どつかで食べませうか?」 「えゝ、有難《ありがた》うございます‥‥」 「まだでせう? 大阪は魚が美味《おい》しいンですよ、――何《なに》がいゝかな?」  小見山も、郷子《くにこ》も、「三保」のことには少しもふれあはない。  宿の勘定を濟まして、二人《ふたり》は戸外で自動車をひろつた。 「あのウ、佐山《さやま》さんね、東京へ歸つていらつしやつてるンですつて‥‥」  賑やかな、「祝漢口陷落《しゆくかんこうかんらく》」の旗飾りを眺めて、郷子が、佐山の歸《かへ》つて來たことを話した。 「へえ? 何時《いつ》です? 逢つたの?」 「いゝえ、――私、大津《おほつ》へ歸る時、岡部さんにうかゞひましたのよ‥‥」 「さうですか、佐山は歸《かへ》つて來てゐるンですか?」 「私も、行《い》きちがひでお逢ひ出來ませんでしたけれど、そのうち、東京《とうきやう》へ歸つたら、病院へうかゞはうと思《おも》つてゐます‥‥」  小見山は、佐山が、もう郷子と結婚《けつこん》してゐるとおもひこんでゐるのではないかと、心《こゝろ》の中で苦笑してゐたけれど、かうして、近々と郷子と並《なら》んでみると、急にまた「三保《みほ》」での想ひが激しく戻つて來て、男の面目《めんぼく》にかけても、郷子とは結婚したい慾望に燃《も》えた。  自分の身近《みぢか》なところで、郷子が息をしてゐる。まぶしさうな眼で埃立つた街を見《み》てゐる。耳朶《みゝたぶ》[#「みゝたぶ」は底本では「みゝたば」]がほてつてゐて、首《くび》すぢがすつきりしてゐる。  小見山《こみやま》は、自分にいけないぞ、いけないぞと云ひきかしてゐたが、「男《をとこ》の血《ち》」が斧に撃たれたやうな痛さで熱く全身に渦卷いて來《き》た。 [#9字下げ]○  佐山は四圍《あたり》を眺めながら、樂々とした氣持でソフアに腰《こし》をおろした。 「やア、今度は御苦勞でしたね、――でも、思《おも》つたより元氣で何よりだ。女房も、今日《けふ》、君が見えると云ふンで、何か一|生懸命《しやうけんめい》つくつとるやうですよ‥‥」 「いやア、有難《ありがた》うございます」 「鐵道修理とか、警備《けいび》の方なんか、中々|危險《きけん》なンださうですねえ?」 「はア、何しろ、六七人位で修理《しうり》とか警備についてゐるものですから、時々匪賊や敗殘兵《はいざんへい》にやられましてねえ‥‥」 「大變だねえ、――腕は大分《だいぶ》いゝ方なの?」 「はア、もう、このごろ大分|快方《くわいはう》に向ひまして、少しづつでも手が動《うご》くやうになつてゐるンですから‥‥」 「そりやアいゝ、切斷《せつだん》しないで濟んだのは何よりですよ」  佐山は今日外出許可を得て、同郷《どうきやう》の先輩である、實業家の遠藤を、赤坂丹後町《あかさかたんごまち》の自邸へ尋ねて行つたのである。 「釜石の方へ入《はい》りたいと云ふ君の希望は中々結構だと思ふし、製鐵所《せいてつじよ》の方にも、知人がゐるので、二三日前に手紙《てがみ》を出しておいたンだがね‥‥その返事《へんじ》が來るんだらうと思つてゐますが‥‥」 「僕の專門《せんもん》の方でもありますし、――僕は、一生懸命働いてみたいと思《おも》ひます。只、腕がこんなだものですから、心配《しんぱい》されるンぢやないかと懸念《けねん》してゐるンですが。――何とか、御便宜を計つて戴《いたゞ》けませんでせうか?」 「そりやア、出來るかぎり盡力《じんりよく》はしますよ。釜石《かまいし》なんて選んだのはどうしたの?」 「いや、學生の頃、一ケ月ばかり講習《かうしふ》に行つたことがありましてね、生々《いき/\》脈搏《みやくう》つてゐるやうな鑛山の生活や、土の動《うご》きをみてゐると、僕は學校を出たら、釜石へ就職運動《しうしよくうんどう》をしてみようと思つた位《ぐらゐ》です‥‥」 「うん、そりやア、釜石は中々《なか/\》活氣《くわつき》のある町だし、現在の君の心境《しんきやう》にはいゝ場所かも知れんなア‥‥」  そこへ遠藤《ゑんどう》の妻や娘が菓子や茶を運んで來た。 「ほら、これが問題の佐山君、――佐山君、家内《かない》と娘です、――娘の名前《なまへ》はキヌ子と云ふンだが、性格は木綿絲のやうな剛健派《がうけんは》でしてねえ‥‥」 「あら、お父樣、ひどいわア‥‥」  三|輪田女學校《わたぢよがくかう》の五年生だと云ふ、娘のキヌ子が、母の後へそつと隱れた。  軈て女中が、食事の用意が出來たと知らせに來たので、佐山は客間《きやくま》へ案内《あんない》されたのであつたが、彫刻《てうこく》の見事な食卓につくと、戰場へ行つたことが夢のやうな氣持だつた。 「武漢《ぶかん》も陷ちたし、佐山君の健康も恢復《くわいふく》したし、一つ、こゝで乾杯をしよう」  晝の食卓とはおもへないやうな、なごやかな雰圍氣《ふんゐき》なので、佐山は家庭的なもてなし[#「もてなし」に傍点]を嬉しいものに思つた。  キヌ子は、佐山の隣りに坐《すわ》つて、箸《はし》を割つたり、小皿に料理を取りわけてやつたりしてゐる。  制服の姿態《したい》がのびのびしてゐて、箸を持つてゐる手が透きとほるやうな美しさだつた。  床の間には、何流と云ふのか、薄紅《うすあか》い山茶花《さゞんくわ》の花が鐵の大きな壺《つぼ》に活けてある。 「左の御手、まだ、全然《ぜんぜん》駄目《だめ》ですの?」  キヌ子がたづねた。 「えゝまだ、此邊《こんへん》までしきや動かないンですよ」 「あら、ぢやア、お茶碗《ちやわん》はまだ、お持ちになれないのねえ‥‥」  キヌ子は、眉《まゆ》と眉の間に、佛樣のやうな小さい黒子《ほくろ》があつた。  笑ふと深い靨《えくぼ》がある。  佐山は鯛の刺身《さしみ》を、さつきからキヌ子の醤油皿へひたして、盛んにぱくついてゐる。キヌ子は時々佐山の手元を盜見《ぬすみみ》してゐた。 [#9字下げ]○  食事なかばに、女中が來客を知らせて來たので、遠藤は中座《ちゆうざ》して應接間《おうせつま》に出て行つた。 「佐山さんは、御兄弟《ごきやうだい》はいらつしやいますの?」  キヌ子が佐山に林檎《りんご》を剥《む》いてやりながらきいてゐる。 「弟が一人ゐます」 「あら、私も小さい弟が一人ゐますのよ、――佐山さんは戰爭《せんさう》へいらつして、どんな事を考へていらつした?」 「戰爭へ行つてゞすか? 別にどんな事つて、そりやア色々《いろ/\》考《かんが》へますけれど、何時でも最前線へ出てみたいと思つてゐましたねえ、それから、亡《な》くなつた母親の夢《ゆめ》をよく見ましたよ。父や弟のこともよく考へますね。――弟は農學校《のうがくかう》の方へ入つてゐるンですが、家が貧《まづ》しいので、滿足なこともしてやれず、兄として面目《めんぼく》ないわけです。――退院《たいゐん》したら、一寸、田舍へ歸つてみようかとも思つてゐます」 「釜石《かまいし》にいらつしやるつて、どうして?」 「僕はもともと專門《せんもん》がその方ですから‥‥こんなに不自由な躯になつても、僕は、働ける自信はあるンですよ。――手足が滿足《まんぞく》の奴だつて働けない人間もゐるンだし、僕は、この不自由《ふじいう》な躯《からだ》で、釜石あたりへ行つて、今までの何倍かの馬力で働いてみようと思ふンです。――都會《とくわい》にゐて、形式だけで勞《いた》はられるのはかなはないですからねえ。鑛山《やま》の中へ這入れば、くだらん惱みはなくなると思ふンですよ。僕は、もう都會《とくわい》は厭《いや》だなア‥‥」 「私も、都會《とくわい》はあまり好きぢやありませんわ。父の田舍へ行くたびに信州《しんしう》はいゝところだつて思ひますもの‥‥」 「そりやア、一寸、旅行をして田舍を眺《なが》めるのはいゝけれど、田舍の百姓の生活はとても慘《みじ》めですよ。戰友のなかにも百姓が澤山《たくさん》來《き》てゐましたが、田舍の生活は辛《つら》いとこぼしてゐますからねえ、何時の時代だつて、百姓は氣《き》の毒《どく》ですよ‥‥」 「でも、今年は木綿の統制《とうせい》で、絹がいゝつてきゝましたけど、田舍《ゐなか》はどうなんでせう?」 「大《たい》したこともありませんね‥‥」 「さうでせうか?」 「信州《しんしう》へはよくいらつしやいますか?」 「えゝ、年《ねん》に二三回‥‥」 「ぢやア、愉《たの》しい歸省旅行ですね」 「皮肉《ひにく》ねえ、私だつて、田舍の生活には感謝してましてよ」 「感謝《かんしや》か‥‥まアしないよりはいゝでせう」 「まア憎《に》くらしい‥‥」  キヌ子の母が這入《はい》つて來た。  晝過ぎに婦人會の用事で外出するので、佐山にゆつくり遊《あそ》んで行つてくれと云つてゐる。 「お母樣は、毎日、婦人會《ふじんくわい》、婦人會でとてもお忙《せ》はしいのよ。お父樣とそれで何時でも喧嘩《けんくわ》なの‥‥最後はお母樣が愛國者《あいこくしや》で、お父樣が非國民《ひこくみん》でけり[#「けり」に傍点]がつくの‥‥」 「何です、そんな‥‥ほんとに仕樣がないンですよ、このごろ口が惡《わる》くなつて‥‥」  キヌ子の母が出て行くと、玄關《げんくわん》で自動車の音がしてゐる。 「ガソリンは血の一|滴《てき》だなンて云つても、うちの母さんは、あゝして毎日婦人會なンですもの‥‥」 「釜石《かまいし》へ行くやうになつたら、一度、ぜひ遊びに來て下さい。僕は一ケ月あそこにゐた事があるンですよ」  時計を氣にして佐山《さやま》が立ちあがると、キヌ子が、 「もつと遊《あそ》んでいらつして、病院へ自動車でお送りしますわ」 と云つた。 「自動車? ははゝゝ‥‥ガソリンは血《ち》の一|滴《てき》つて、今あなたに、教はつたばかりですよ。僕は歩いて歸りますよ」 [#9字下げ]○ 「おい、戰友《せんいう》、今日は、第二病棟で、音樂會があつたンだぜ」  佐山が病室へ戻ると、隣のベツドの廣瀬が絽刺《ろざ》しをしながら報告してくれた。 「また、凄《すご》いのが來たンだらう?」 「あゝ眞赤な洋服《やうふく》を着てね、腕も胸もまる出しの心臟《しんざう》の強いのが來たよ‥‥」 「ビフテキみたいな歌をうたつたらう?」 「眼《め》にも耳《みゝ》にも毒だね、あんなのは‥‥」 「あゝ、少し疲《つか》れた‥‥」  洗面臺《せんめんだい》のところで、佐山がうがひ[#「うがひ」に傍点]をしてゐると、同室の小山が手紙を讀みながらぽろ/\泣いてゐた。 「戰友、どうしたンだい?」  佐山がベツドへ寄《よ》つて行くと、 「家の馬がねえ、戰死《せんし》したと云つて來たンですよ、ほら、これが尻尾《しつぽ》ださうですが、見ておくンなさい」  ばさ/\に乾いた馬の尻尾《しつぽ》を、小山はつまみあげて佐山に見せた。 「私が召集《せうしふ》されると間もなく、家の馬も召集受けましてねえ、――私も戰場では家の馬には逢へんもンかと、何時《いつ》も注意しとつたものです‥‥こいつは、始《はじ》めは家で百姓に使つとつたンですがね、あとで私が馬力に使ひ出したら、とても力《ちから》がありましてねえ、召集《せうしふ》されて行つても、力のある奴だからと安心《あんしん》しとつたンですよ、――坂へなどかゝりますとね、一|旦《たん》立《た》ちどまつて、それからガツと力を入れて引出《ひきだ》す力持ちでして、軍用になれば、ハモ[#「ハモ」に傍点]を外して、腹《はら》で引かなければならンので、力が出るかどうか、案じてゐたら、この手紙《てがみ》では家の馬が部隊《ぶたい》一番の力持ちと賞めて下すつてるンですよ。丁度《ちやうど》今年八歳でしてね、全く、惜《を》しいことをしたと思つてゐます。も少し生きてをれば、力持《ちからも》ちですから、部隊でも助かつたンだらうにと思《おも》ひます」 「何處《どこ》で死んだンだい?」 「黄梅《くわうばい》と云ふ處ださうですよ、――夜明けに脚と腹をやられたらしいですね」  揚子江《やうすかう》北岸《ほくがん》の、黄梅と云ふところを、佐山は壁の地圖で眺めながら、 「黄梅か‥‥こゝは激戰地《げきせんち》だからねえ、名譽の戰死だもの、僕達のやうに惱みがないだけでもいゝ譯《わけ》さ」  佐山が自分のベツドへ歸つて行くと、廣瀬《ひろせ》は、絽刺《ろざし》を膝の上に置いて、 「をかしな話《はなし》でねえ、さつきも隣室《となり》へ遊びに出かけたら、脚のない奴が、爪が痛むと云ふンで、面白いもンだと話しあつたンだよ、結局は、肉體《にくたい》の郷愁《きやうしう》と云ふ奴だらうと落ちがついたンだが、隣室《となり》のそいつは、中々元氣者で、どんな心境なのか、悠々《いう/\》たるものなンだぜ‥‥」 「それやア、見上《みあ》げた人物だねえ」  佐山は、枕元《まくらもと》にある郷子から來た手紙にふと眼《め》をとめた。 [#ここから1字下げ] ――お歸りなさいませ。 私はいま、大阪へ來てをります。私に運《うん》がないのか、お歸りをお迎《むか》へにも參れませんで、東京出發の日に、お歸りを、岡部樣《をかべさま》にうかゞひましたやうなわけです。何《なに》も彼も岡部樣にうかゞつて戴《いたゞ》けたらとぞんじますが、私は、お恨《うら》みしてならない貴方を、自分で勝手にお恨《うら》みしてみたり、自分の不甲斐《ふがひ》なさを自分でくやんでをります。いまでは永久《えいきう》にお目にかゝれさうもございません。 [#ここで字下げ終わり]  佐山は手紙を二度ばかりくりかへして讀んでゐたが、激《はげ》しい怒りと熱情《ねつじやう》[#「ねつじやう」は底本では「じやうねつ」]が湧きおこつて來て、手紙をぴりぴりに破《さ》き捨てた。 (何故馳け戻《もど》つて逢ひに來てくれないンだ!)  佐山は十日程前に、岡部に逢《あ》つて郷子のその後の生活をきゝ、郷子の戻つて來る日を心待《こゝろま》ちにしてゐたのであつたが、いまでは永久に逢へないと云ふ文面《ぶんめん》を見ると、佐山は(誰が逢ふものか!)と心で怒鳴《どな》つてゐた。 [#9字下げ]○  郷子は小見山の家に寢《ね》かされてゐた。  堂島の裏町にある百姓亭《ひやくしやうてい》とか云つた料理屋へ小見山と夕飯をたべに行つて、此日頃《このひごろ》の心勞がこたへたのか、郷子は輕い腦貧血《なうひんけつ》をおこして、そこへたふれてしまつた。  郷子はすぐ自動車で豐中《とよなか》の小見山の家へ連れて行かれて、客間に床をとつて貰《もら》つて、横になつてゐるのだ。  郷子が眼を覺ますと、若い醫者が枕元《まくらもと》に坐つてゐた。 「いま、注射《ちうしや》を打つて下さるさうですから、ゆつくり、眠るといゝですね」  小さい女中と婆やが、金盥《かなだらひ》や手拭を病室へ運んで來てゐた。  郷子は寒さで躯《からだ》ががたがた震へてゐる。左の腕に注射をして貰つて、暫《しばら》く眼をとぢてゐたが、郷子は頭の芯《しん》が厭にはつきりしてゐて、深い悲しみが、涙になつて、耳朶《じだ》に溢れ落ちて來た。  醫者が歸つて行くと、小見山は郷子の枕元《まくらもと》に坐つて、 「どうして、そんなに考《かんが》へてばかりゐるのです? くだらない事なんか考へないで、ぐつすりよくお眠ンなさい、――東京へは僕《ぼく》もどうせ行かなくちやならない用事《ようじ》もあるンですから、一緒に行《ゆ》きますよ」 「‥‥‥‥」 「元氣を出すンですよ、元氣を、――そんな弱《よわ》い氣で、どうするンです?」 「えゝ、でも、こんな、お世話《せわ》をかけたりして、ほんとに濟みません‥‥」  庭の木に夜風《よかぜ》が吹きつけてゐた。 「何も心配《しんぱい》することはありませんよ、あなたはあんまり考《かんが》へすぎるところがあつていけない。もつと力を出さなくちやいけませんよ。――あなたは自分《じぶん》の感情《かんじやう》のなかだけに生活しすぎる人ですね」 「さうでせうか?」 「或る有名《いうめい》なひとがこんなことを云つてるンですがねえ、錨さへしつかりしてをれば、どんなに世の波風が荒からうとも、私は泳《およ》ぎ切る。けれど、何と澤山の幸福《かうふく》が私から失はれたかは、あなたも認《みと》めるだらうと云ふ言葉なンです。今のあなたは丁度《ちやうど》それなンだ‥‥」 「えゝ‥‥よくわかりますわ。でも、私《わたし》は、いまの私は、そんな考《かんが》へでもないンですのよ」 「ぢやア、どうなンです?」  郷子はぱつと眼をあけた。  小見山の眼鏡《めがね》の奧の眼がきらきら光《ひか》つてゐる。 「あなたが、そんなに佐山を愛《あい》してゐるとは思《おも》ひませんでしたよ‥‥」  小見山《こみやま》はふつとさう云つて、火鉢《ひばち》に震へる手をかざしてゐた。 「僕も佐山には一度逢ひたいし、あいつは、僕の一|番《ばん》信頼《しんらい》してゐる友人《いうじん》なんですからねえ‥‥」  郷子はぢつと小見山《こみやま》の顏を見上げてゐたが、 「私が、佐山さんに持つてゐる氣持は、一つの尊敬なのです。お逢《あ》ひした動機は實に淺《あさ》い男と女の間柄《あひだがら》であつたかわかりません‥‥けれど、あの時《とき》、藁でもつかみたかつた、私の不安な感情のなかに、佐山さんが手をのばして下すつた運命《うんめい》には、私、とても感謝《かんしや》してゐるンです。――こんな女心《をんなごころ》つてをかしいでせうか?いけないのでせうか?」 「ちつともをかしかありませんよ」 「私は始めて都會《とくわい》へ來て、痩せ犬《いぬ》のやうにうろうろしてゐたのですからねえ、佐山さんへは、私、何より、感謝の氣持がいつぱいなンですもの。――でも、佐山《さやま》さんからは最後《さいご》にきびしいお手紙《てがみ》を戴きましたわ。あなたは、あなたで積極的《せつきよくてき》に自活するやうにつて、――でも、私は佐山さんへの尊敬や、愛情を殺してまで、このまゝお逢ひしないで濟《す》ませるの厭《いや》なのです――」 [#9字下げ]○ 「小見山《こみやま》さん、私は、此頃《このごろ》、一度だつて死んでしまひたいなンて思つたことはありませんのよ。――どんなに不幸な目にあつても、私は生きてゆかうと思《おも》つてゐます。こんな生《い》きかただつてあり得るし、私《わたし》はまだ本當に若《わか》いンですもの、私が少しばかりでも幸福になることがあれば、きつと、怒つてゐる肉親の者達だつて許してくれると思《おも》ふンですの、――私が、不安《ふあん》な生活をしてゐるから、みんなが、私《わたし》を怒つたり心配《しんぱい》したりするンですわねえ‥‥短い間でしたけど、私、東京の生活《せいくわつ》で色々なことを學びましたわ」  だいぶ夜が更けてゐる。小見山は東京行きの列車の時間表《じかんへう》を時々めくつてゐた。中々《なか/\》寢《ね》られないのだ。 「――私《わたし》、父にも義母にも、佐山《さやま》さんのことを話しましたのよ、だけど、とても反對だつたンですの‥‥今度の事變に深い關心を持ち、さま/″\な形で、兵隊さん達に感謝の表現を演じてゐる世間にも、いざ、個人の問題になつて來ると、自分たちの利害を考へてしまふ人も相當にあるんぢやないかしら、私の父や義母《はは》だつてさうなンですから、今度《こんど》の戰爭で、色々な問題《もんだい》があるだらうと思ひますわ」 「そりやア、ありますね。根本的なものがないンだ。臺石《だいいし》のないところへ柱《はしら》を建てようとしてゐるやうな情勢《じやうせい》ぢやないのですかね、末梢的《まつせうてき》な言葉の上のみにとらはれて、人間的な、大切なものがとゝのつてゐないし、あなたの場合は、昔《むかし》からのことなかれ[#「ことなかれ」に傍点]の結婚《けつこん》を、御兩親が選ばれたと云ふのも、これは、あなたの家庭《かてい》のみぢやないと思ひますよ‥‥」 「えゝ、私もさう考へて無理のないことだとは思《おも》ひますけれど、私の躯《からだ》と、お金と換へるやうな結婚《けつこん》、考へたゞけでも吐氣《はきけ》がしますわ。――父に逆《そむ》くことは惡いことかも知れませんけれど、月日がたてば、きつといまの不孝を報いかへす時《とき》が來ることもあると思《おも》つてゐますの‥‥」 「あなたの氣持《きもち》を、僕も佐山に傳へますよ」 「えゝ、有難《ありがた》うございますわ。でも、あの方、とても勝氣な方、何だか、それこそ變なこだはり[#「こだはり」に傍点]を持つてゐらつしやるンですのよ。このまゝ佐山《さやま》さんのお手紙通《てがみどほ》りにするやうだと、私も佐山さんも永遠《えいゑん》に路傍の人《ひと》なンですからねえ、――私は、あの方が、どんなにひどい躯になつて歸つていらつしても、私、ちつとも驚かないつもりですわ。時々《とき/″\》、そりやアひどい不具《かたわ》になつた佐山さんの夢《ゆめ》を見るンですけど、私《わたし》、かへつて、その佐山さんに、私の氣持は走つて行つてゐるンですの‥‥」  ごうごうと風の吹きつける音がしてゐる。電燈《でんとう》が小さくまたゝいてゐたが、ふつと灯が消えて四圍が暗くなつた。 「只今、あかりを持つて參《まゐ》ります‥‥」  階下《かいか》で婆やの聲がしてゐる。  風の音がいつそう凄《すさ》まじくなつた。  小見山は息苦しさをはらひのけるやうに、梯子段《はしごだん》の方へ手探りで出《で》てみた。 「おい、早く蝋燭《らふそく》を持つて來てくれよ」 「あのう、旦那さま、お電話《でんわ》でございますが‥‥」  階下に、急にぼおーつと蝋燭の灯がたゞよひ、婆やが電話《でんわ》を知らせに來《き》た。 (こんな、ひどい風《かぜ》の晩に、いつたい誰だらう‥‥)  小見山が階下へ降りて電話口《でんわぐち》へ出ると、 「私、宮田《みやた》ですのよ、いま、こつちへ着きましたよ‥‥」 「何だ、律子さんか、――何處《どこ》にゐるの?」 「梅田《うめだ》の驛にゐますのよ、これからぢきうかゞつていゝでせうか?」 [#9字下げ]○  十二月にしては、珍《めづ》らしくからつと晴れた、暖い日であつた。  神宮外苑のなかを、岡部は天文臺長の娘の雪江《ゆきえ》と、その妹の千鶴子《ちづこ》とぶらぶら歩いてゐた。  千鶴子はまだ女學生《ぢよがくせい》で、自轉車に乘《の》つてゆるゆると姉の横にくつゝいて來てゐる。 「それで、佐山さんは、何時、釜石《かまいし》へいらつしやるンですの?」 「正月にはもう出掛《でか》けると云つてゐますがね」 「正月つて云ふと、もう、一週間もないぢやアありませんか、――お躯は大丈夫《だいぢやうぶ》なのかしら?」 「とても元氣《げんき》ですよ、働くことを考《かんが》へると力が湧いて來ると云ふンだから、大したものですよ‥‥」 「ねえ、岡部《をかべ》さん」 「えゝ?」  千鶴子がひよいと自轉車《じてんしや》から飛び降りて、 「此間、病院へお見舞ひに行つたンだけど、傷病兵の方《かた》、とてもお元氣《げんき》ね、――田舍《ゐなか》の方《かた》がいつぱいいらつして[#「いつぱいいらつして」は底本では「いつぱいらつして」]、色《いろ》んな言葉《ことば》で話していらつしやるのよ。誰も知つた方がないンで淋しいンだつて‥‥」 「色んな階級《かいきふ》の人間が來てゐるンでせうからね。どの方面《はうめん》で負傷したひとが多かつたですか?」 「あら、私、そんなこときかなかつたわ」 「たよりないお見舞《みま》ひですねえ」  千鶴子はまた自轉車に乘つた。そして、ちりんちりんとベルを鳴《な》らして野球場の方《はう》へ行つてしまつた。 「あの頃《ころ》が一番いゝわ。戰爭《せんさう》のことをどんなに考へてゐるンでせうね。私このごろ、新聞を讀んで、日本が勝つてゐると云つても、妙に不安で仕方《しかた》がないの‥‥ねえ、私、貴方《あなた》と結婚しても、まだ職業《しよくげふ》を捨てないでゐたいと思《おも》ふんですけど、いゝでせうか?」  岡部は雪江の歩調と合はせてゆつくり歩いてゐたが、何か急《きふ》にとまどひしたものを感《かん》じて赧くなつた。 「これからの私達《わたしたち》の社會は、どんなに變化《へんくわ》して行くかわからないと思ひますの、私は、これより良い方へ變化してゆくとは、當分考へられないと思《おも》ふンですけれど、岡部《をかべ》さん、どう、お考へになります? 私《わたし》、まだ、四五年は職業《しよくげふ》を持つてゐたいと思ひますけど‥‥」 「僕は、先日、貴女のお父さんに呼ばれて、貴女《あなた》のことをうかゞつたのですが、勿論《もちろん》、貴女が職業《しよくげふ》に就いていらつしやりたければ、僕《ぼく》は、それに不賛成はとなへませんよ」 「ぢやア、少しはお厭《いや》な處もあるのね?」 「いや、厭ぢやありませんよ。ただ、二人の理想通りに行《ゆ》けばいゝと云ふ不安《ふあん》だけですがね‥‥僕は、貴女が職業《しよくげふ》を持つて下さることにはむしろ賛成なんです」 「ねえ‥‥」 「何です?」 「私、先《せん》だつて貴方のお部屋《へや》へうかゞつた時、不思議に思つて、あすこの婆やさんに尋ねたンですけど、あんなに澤山あつた御本を、みんな本屋《ほんや》に賣つておしまひになつたンですつてね?」  岡部は、本《ほん》がなくなつてゐると云ふ、そんなところにまで眼のとゞく雪江に驚きながら、 「婆さんは何《なん》と云《い》つてゐました?」 「えゝ?」 「えゝつて‥‥貴女《あなた》がきいたことを云つて下さい」 「貴方は、お好きな方の爲に、その御本をお賣《う》りになつたンぢやありませんの? 何《なん》だか、そんな風なことをきゝましたわ」  岡部はしばらく默つて歩いてゐた。  赤いジヤケツの千鶴子《ちづこ》が、落葉松《からまつ》の向うを、自轉車《じてんしや》を光らせて走つてゐる。 [#9字下げ]○  千鶴子《ちづこ》が自轉車を愉しさうに乘《の》りまはしてゐる。雪江は時々、千鶴子に手を擧げてやりながら、ゆるい歩調《ほてう》で岡部に話しかけてゐた。 「別に、さつき、お話したこと、氣にかけてなンかゐませんけど、どんな女《をんな》の方《かた》かと思《おも》つて、――でも、あんなに澤山《たくさん》あつた御本が消《き》えてしまつてゐて吃驚したものですから‥‥」  雪江の黒い外套の裾が時々柔かい風《かぜ》にひるがへつて[#「ひるがへつて」は底本では「ひるがへて」]ゐる。  岡部は、郷子を佐山から紹介されたことや、郷子が金錢《きんせん》のことや家庭のことで苦《くる》しんでゐること、本を賣つた金は郷子《くにこ》へ與へたことまでくはしく話した。 「さうして、いま大阪《おほさか》にいらつしやるの?」 「いや、このあいだこつちへ戻つて來ましたよ、――非常《ひじやう》に神經質な娘で、誰《たれ》か、そばについてゐてやらなければ、何《なん》だかあぶない感《かん》じのする人なンです‥‥」 「いま、その方《かた》、どうしていらつしやいますの?」 「現在《げんざい》は勤めてゐるやうです。――戰場《せんぢやう》から戻つて來た佐山の感情が彼女に向つて、まるきり冷たくなつてしまつてゐるやうだし、何度も逢ひに行つたンですけどねえ、何度《なんど》行つても佐山は逢はうとしないし、昨日《きのふ》、目出度く、病院《びやうゐん》を出て、すぐ信州へ發つて行つたンだけど、彼女に、除隊《ぢよたい》を知らせてくれるなと云ふンですからねえ‥‥」 「まア! どうして、そんなお氣持《きもち》におなりになつたンでせう?」 「佐山《さやま》ですか?」 「えゝ」 「心では非常《ひじやう》に愛してゐるンですがねえ‥‥自分《じぶん》の體を卑下してるだけぢやなく、何かじつくり考へてゐるらしいンですね。釜石へ行つてからの、物凄《ものすご》い俺の働きをみてくれと云《い》つてゐるンです‥‥」 「――ねえ、私、實際《じつさい》考《かんが》へてるンですけど、今度《こんど》の戰爭で、佐山さんのやうな方が澤山あると思ひますのよ、立派な、國家の設備も大切でせうけれど、その方達《かたたち》に對する社會の人達《ひとたち》の大きな愛情や尊敬も大切《たいせつ》だと思つてゐるンですのよ、――何《なん》だか、何時でも、上から呼びかけられてすることは、結果は何時の場合でもしみつたれたものになるのね‥‥下《した》からにじみ出《で》るやうな力がなくちや「大協力《だいけふりよく》」とか「總和《そうわ》」といふことはむつかしいのぢやないかしら?」 「さうですよ、――だけど、星《ほし》ばかり見てゐる僕だつて、この時代《じだい》に、何か一役、働きたいと云ふ氣持《きもち》があるンだが、さて、それをどんな風に具體的に現はしていゝか、佐山《さやま》のやうに、せめて出征《しゆつせい》する場合でもあつたら‥‥」 「召集《せうしふ》は來さうですの?」 「來るでせう」  雪江はふつと顏を染《そ》めて、 「ねえ、お父樣は、とても、結婚式《けつこんしき》をお急ぎになるの‥‥あなたに、召集があるものとして、早く、式を濟《す》ましておいた方がいゝでせうか?」 「貴女は?」 「私? 私、濟《す》ましておいてもいゝのぢやないかと思つてゐますわ‥‥」  岡部は胸《むね》が熱くなつてゐた。 「もしも、僕が戰死《せんし》でもしたらどうします? 悲劇ぢやありませんか?」 「あら、そんなのは悲劇ぢやないと思ひますわ、――今だけの感傷《かんしやう》かも知れませんけど、その時は、私、貴方《あなた》を追つて死んでしまふかも知れませんわ。悲劇《ひげき》と云ふのは、お互に愛がないときに起る何《なに》かを云ふのぢやないかしら‥‥私、わからないけど‥‥」  何時か、千|駄《だ》ケ谷《や》の驛へ來てゐた。  岡部が省線へ乘るので、二人は千鶴子《ちづこ》を待つてゐたが、誰にもわからない早さで、岡部《をかべ》は手袋に包まれた雪江の手をしつかりと握《にぎ》つた。 [#9字下げ]○  電氣が皎々《こう/\》とついてゐる廣い部屋で、四十人ばかりの若い女がタイプライターのキイを叩いてゐる。  郷子も今日で三日、このタイプライター教習所《けうしふじよ》の夜間部へ通つて來てゐるのだ。ガチヤガチヤと激しいタイプの音が間斷《かんだん》なく耳にさうざうしかつたが、郷子は、キイを叩きながら、指の先にまで元氣《げんき》の滿ちあふれてゐる自分を感《かん》じてゐる。  こゝを二ケ月で卒業《そつげふ》すると、こゝから色んな會社や官廳に就職《しうしよく》してゆくことが出來た。滿州や、臺灣や朝鮮《てうせん》あたりからの申し込みが多くて、教習所《けうしふじよ》の壁には何時も就職先の會社や官廳からの求人の貼《は》り出しが出てゐた。  郷子は電線工場の歸り、日頃の憂悶《いうもん》を拂ひのける爲に、タイプライターを習《なら》ひ始めたのである。  四階の教習所の窓から、有樂町《いうらくちやう》の驛のホームが見える。ネオン・サインがキラキラ光つてゐる暮の街を眺めて、郷子は、時々佐山の面影《おもかげ》を描いてゐた。  七時半には新橋《しんばし》の驛で、郷子は岡部に逢ふことになつてゐたが、郷子は、段々《だん/\》岡部《をかべ》に逢ふことが苦しくなつてゐた。  ガチヤガチヤガチヤ‥‥金屬《きんぞく》の音が、間斷なく響いてゐる。紙《かみ》を引きちぎる音、臺を置きかへる音、郷子は或る貿易商會《ぼうえきしやうくわい》[#「ぼうえきしやうくわい」は底本では「ばうえきしやうくわい」]の、麻繩輸出の書類を今日は叩《たゝ》かせられてゐた。 「あなた、どこか、お勤めしていらつしやるの?」  隣りに昨夜《さくや》から一緒に同席してゐる、斷髮の娘が郷子に話しかけて來た。 「えゝ、芝の電線工場に勤めてゐますの」 「あら、さう、いゝのねえ、私は、これから職業《しよくげふ》を探すのよ‥‥」 「どんな處《ところ》へお勤めなさりたいの?」 「私? 私は朝鮮《てうせん》から來てるンですけど‥‥父も兄も出征してゐて、私、祖母と母と妹《いもうと》二人と、全く、大變なンですもの、やつぱり朝鮮へ勤《つと》めますわ」 「まア! お父樣《とうさま》も出征していらつしやるンですか?」 「えゝ、父は大尉で、いま北支の方に行つてゐますけど、兄は、特務兵《とくむへい》でこの間出て行きましたわ‥‥」  青いジヤケツを着て、度の強い近眼鏡《きんがんきやう》をかけてゐるこの娘は、渡利鈴子《わたりすゞこ》と云つた。晝は神田に簿記《ぼき》を習ひに行き、夜はかうしてタイプライターを習《なら》ひに來てゐるのだと話してゐた。  黒板の上の電氣時計《でんきどけい》が七時を廻ると、郷子は歸り支度を始めた。 「私も歸りますわ‥‥」  渡利鈴子が古い外套《ぐわいたう》を着て、郷子の後から立つて來た。  洗面所へ行つて手を洗ひ、二人が昇降機《エレベエター》のところへ行くと、もう昇降機は停つてゐた。  二人は、寒いビルデイングの階段《かいだん》を一階づつ降りて行きながら、何時とはなしに同じ歌を唄つてゐた。   のぼりくだりの隅田川《すみだがは》   かひの滴《しづく》も花と散る‥‥  郷子は比良《ひら》の雪の山々を想ひ出してゐた。 「女學校のころの歌《うた》つて、なつかしいのね、渡利さんは、學校は何處《どこ》ですの?」 「私は京城《けいじやう》です」  ビルデイングの下へ降りて行くと、谷間《たにま》のやうな寒い風が吹きつけてゐた。  日劇のところで二人は別れて、郷子は數寄屋橋《すきやばし》の交叉點から土橋の方へ歩いて行つた。  岡部に會つて、兎に角、佐山《さやま》のことを相談してみよう、さうして、なほかつ、佐山が、自分に逢つてくれないと云ふのならば、郷子は蒲田《かまた》の母を引きとつて、佐山が逢《あ》つてくれるまで、一生でも待つ決心《けつしん》でゐようと思つてゐる。 [#9字下げ]○  新橋の驛の入口で岡部《をかべ》は郷子を待つてゐた。  若々しくて、元氣《げんき》のいゝ岡部の姿を見ると、郷子は走つて行つて兩手《りやうて》にぶらさがりたいやうなしみじみしたものを感《かん》じてゐた。 「お待ちになりました?」 「あゝ、五分位かな‥‥」  二人は銀座《ぎんざ》の方へぶらぶら歩いて行つた。  歩きながら岡部は、郷子の横顏《よこがほ》をながめ、しやくれた子供らしい顎に哀感《あいかん》を覺え、女一人が、かうした大都會に生きることのむつかしさを同情せずにはゐられなかつた。――かつては、いや、たつたこの間までは自分も郷子に切《せつ》ない哀慕《あいぼ》の氣持を持つてゐたのであつたが、いまは最早その思ひも虚空《こくう》の彼方に流星のやうに逝つてしまつた。 「ねえ、郷子さん、今夜は貴女《あなた》に逢はせる人があるンですよ、逢《あ》つてくれますか?」 「あら! どんな方ですの?」 「女の人《ひと》です」 「女の人つて‥‥どんな方? どうして逢《あ》はなければいけないンですの?」 「いや、そんな固苦しい人ぢやありませんよ。――女子大《ぢよしだい》を出てねえ、そのひとは、いま外務省へ勤めてゐるンです。是非、郷子さんを紹介《せうかい》してほしいといふので‥‥」 「まア! 私をどうして知つていらつしやるンでせう?」 「その人は天文臺長《てんもんだいちやう》の二番目の娘さんで、僕が時々、貴女のことを話すからですよ、――とてもいゝひとでしてね、郷子《くにこ》さんがきつと喜んでくれると思《おも》ふンだがなア‥‥」  郷子は暫く默《だま》つて歩いてゐたが急にむつとした表情で、 「そんな立派《りつぱ》な女の方なンかと、私、お話なンか出來ませんわ」  といつた。 「立派とか、立派でないとか、そんなひとぢやありませんよ。貴女《あなた》のいゝ友達になれさうなひとだから、僕が逢つて下《くだ》さいといふンです」  岡部は、時計《とけい》を氣にしながら、エスキモーで待つてゐる雪江《ゆきえ》の姿を考へてゐた。 「ところで、佐山が信州《しんしう》へ歸つたのを知つてゐますか?」  郷子はふと歩みをとめて、驚《おどろ》いたやうな表情で岡部を眺《なが》めた。 「信州の温泉《をんせん》に暫くゐて、それから、來春早々釜石の鑛山へ行くンださうです‥‥」 「‥‥‥‥」 「戰爭から歸つて、あんなに人生觀《じんせいくわん》の變つた奴もないが――國家を助けるものは、百の議論《ぎろん》よりも、素朴《そぼく》の人民の、個々の實行よりほかにはないといふのです。戰場から戻《もど》つて來た日の淋しさは永久に忘《わす》れられないといつてゐましたよ。――釜石《かまいし》へ行つて、男らしく働きたいンださうです、あの躯《からだ》で大丈夫かどうですか‥‥」  郷子は、いまでは、佐山との遠い距離《きより》を感じてゐた。 「――こんなこともいつてたな、農夫は糧《かて》を、職工は物をつくり、鑛夫《くわうふ》は坑道を探り、それから、兵士は外敵《ぐわいてき》に對して内を護るし、司法官や行政官は個人《こじん》と社會の利害を統制しですね、商人は交易を、學者と藝術家は優秀《いうしう》な理想の馬を買ひこんで來る‥‥まア、この中の一つでもが狂つて來ると大變なことになつて來る。佐山にいはせると、内地《ないち》は腐敗《ふはい》して狂つてゐるといふンです‥‥利害《りがい》を自分個人にのみ考へすぎて、國を見失《みうしな》ひつゝありはしないかとさかんに心配してゐましたがねえ‥‥これから鐵に關《くわん》するあらゆる研究をして、僕達を驚《おどろ》かすンださうです‥‥」 「だつて腐《くさ》つてゐるなンて、内地の生活《せいくわつ》だつて、いまのところ、どうにもならないンぢやないでせうか、――私達、どうすればいゝのか、それを誰かに正直《しやうぢき》に訊きたいンですけど‥‥」 [#9字下げ]○ 「佐山さんが逢つて下さらない氣持ね、このあひだ、偶然《ぐうぜん》に、私の友達の戸田《とだ》さんていふのが陸軍の看護婦《かんごふ》になつて、しかも佐山さんの部屋の係りだつたものですから、私、その戸田さんに逢つて聞いてみたンですの‥‥」 「あゝ、何時《いつ》かバスの中で逢つた人ですね? 一|緒《しよ》にソーダ水を飮んだあの人でせう?」 「えゝ、さうですわ、――佐山さん、何もおつしやらないンですつて‥‥」 「どうです? 郷子さんは、いつそ信州《しんしう》へ行つてみませんか?」 「佐山さんのお郷里《くに》ね‥‥でも、私、そんなことしない方がいゝンぢやないかしら? 訪ねて行つたら叱《しか》られさうですもの‥‥」 「さうでもないと思ふがなア‥‥」 「私、當分、一|生懸命《しやうけんめい》で働きますわ。何も彼もやりなほしで、――そして、母と二人で暮さうと思ひますの。やつと、東京の生活《せいくわつ》にもなれて來ましたし、このごろ、もう、私、捨身《すてみ》なのよ。――佐山さんも人生觀《じんせいくわん》がかはつたかもしれないけど、私だつて、やつと、此頃《このごろ》、色んなことがわかりましたわ」  二人がエスキモーへ這入つて行くと、雪江《ゆきえ》が笑ひながら手を擧げてゐた。 「隨分待ちましてよ、お紅茶《こうちや》を二杯戴いたの‥‥」  郷子は、中高《なかだか》な品のいゝ雪江の顏を見て、固《かた》くなつてしまつた。雪江もマネの繪にあるやうな、ふくよかな郷子の姿を見て、ちらと、岡部に妬ましいものを感じたが、何時も癖《くせ》でする、つむつてはぱつと大きく眼をみはる表情《へうじやう》で、郷子を優しく眺めてゐた。  岡部の紹介が濟むと、郷子は手洗《てあらひ》へ行つたが、雪江は惡戯《いたづら》ツ子《こ》のやうに肩をすぼめて、 「植村《うゑむら》さんて綺麗な方ねえ、本をお賣りになつたのも無理がないわ‥‥」  と笑つた。  岡部は一寸《ちよつと》赧《あか》くなつたが、怒つたやうに、 「何です? それは皮肉《ひにく》ですか?」 「いゝえ、皮肉《ひにく》ぢやないことよ、――でも、二人で這入つていらつしやるところ、おだやかでなかつたから‥‥」 「紹介《せうかい》しろといつたのは誰です?」 「そりやア、私でせう‥‥」 「私でせうはないでせう、――女の人つて、怖《こは》いからなア‥‥」 「だつて、私は、男のお友達《ともだち》なンかに、本を賣つてまで助《たす》けてさしあげたつてことがないでせう? 男のひとは、女の方に、安々《やす/\》とそんな處があるのね。――どんな方かしらと思つたの、――あんまり綺麗《きれい》な方なンですもの‥‥」 「もうおよしなさい、そんな話‥‥」 「えゝよしますわ、でも、あの方と、私、どんな話《はなし》をしてもいゝ?」 「星の話《はなし》でもしたらいゝでせう」 「ふふ‥‥貴方も人が惡いわ、千鶴子がいつてたわ、岡部《をかべ》さんはお姉さんと結婚《けつこん》しても、あのひとは何時《いつ》も地球の外にゐるつて‥‥」 「どんな意味《いみ》かな?」  その時、郷子が二人《ふたり》の席へ戻つて來た。  郷子がどつちの席に腰をかけようかととまどひ[#「とまどひ」に傍点]してゐると、雪江《ゆきえ》は自分の横に席《せき》を空けて、ぢつと岡部《をかべ》の眼の行方をたしかめてゐる。 「岡部さんにうかゞつたンですけど、植村《うゑむら》さんは、タイプを習《なら》つていらつしやるンですつてね?」 「はア、まだ、でも、二、三日ですの」 「東京へは何時《いつ》いらつしやいましたの?」 「此、正月に參《まゐ》りました」  郷子は返事に困つて、まぶしさうに時々《とき/″\》うつむいてゐる。  軈てボーイが食事《しよくじ》を運んで來た。  雪江はなれた手つきでパンにバタを塗つてゐた。郷子《くにこ》はふつと、岡部《をかべ》の顏をみつめ、戰爭はどこにあるのかと思《おも》つた。 [#9字下げ]○  今日《けふ》は、正月二日、長閑な陽射《ひざ》しが、新しい障子にぱつと明るくはえて、落葉松の谷間を渡る鶯の聲が、何とも云ひやうのない涼しい聲音《こわね》だつた。  炬燵にもぐつて、薄雪のかゝつた谷間の景色を見てゐた佐山は、鐵道案内《てつだうあんない》を櫓の上に置《お》いて、ぱらぱらと地圖《ちづ》をめくつてゐる。  峠越えには馬と駕籠《かご》があるのださうだ。  海拔八八七米の仙人峠を、默々と登つてゐる自分《じぶん》の姿を佐山は微笑して考《かんが》へてゐた。  製品年産額、銑鐵《せんてつ》十八萬五千|瓲《トン》、鋼材《かうざい》九萬五千瓲、鋼塊十二萬五千瓲、佐山は鉛筆で地圖をたどりながら、何時か遠野の舊城阯にある鍋倉神社《なべくらじんじや》に參拜した學生の日のことを考《かんが》へてゐた。太平洋の波の荒い三|陸沿岸《りくえんがん》の風景もなつかしい。 「佐山樣、東京《とうきやう》からお客樣でございます」 「お客樣? 誰《だれ》です?」  佐山が梯子段を降りて行くと、遠藤氏の娘のキヌ子が、小さい弟を連れて、スキー姿《すがた》で玄關に立つてゐた。 「やア、いらつしやい、お父《とう》さん一緒ですか?」 「いゝえ、途中で別れて、私と章《あきら》ちやんと、佐山さんの温泉《をんせん》訪問《はうもん》に來たのよ、――去年《きよねん》もこゝの十二澤のゲレンデで滑《すべ》つたの、ね、章ちやん‥‥」  佐山《さやま》は暮から、上林温泉の關屋《せきや》へ泊つてゐるのであつた。小さい宿だつたが、學生時代から泊りつけてゐるので、佐山は氣兼《きがね》なくこゝで療養することが出來た。  キヌ子は二階の佐山《さやま》の部屋へ這入つて來るなり、遠慮《ゑんりよ》もなく鶯の鳴き聲を眞似して笑つてゐる。章《あきら》と云ふ弟の方は赧くなつてはにかんでゐた。 「お手《て》はいゝ?」 「とてもよくなりましたよ、そのうち、暖《あたゝ》[#「あたゝ」は底本では「あたゝか」]かになつたら、ボートにでも乘《の》せてあげるかな‥‥」 「あら! 素的《すてき》、ボートをおやりになるの? さつき、傷病兵《しやうびやうへい》の方でねえ、右脚のない方が、スキーをしていらつしたわ、私達、拍手《はくしゆ》したのよ‥‥」 「貴女達《あなたたち》、もう滑つて來たンですか?」 「えゝ、宿屋に落ちつくと、出掛《でか》けるのおつくうなンですもの‥‥」 「今日《けふ》は泊るの?」 「あら、だつて、お迎へが來るのよ、お父樣《とうさま》夕方《ゆふがた》までに村へ戻つて來《く》[#「く」は底本では「き」]るやうにつておつしやつたの‥‥冬の田舍《ゐなか》は退屈ね」  章が階下へ遊びに降りて行くと、キヌ子はふつと惡戯《いたづら》さうに、眼をみはつて、櫓《やぐら》の上に頬杖をついた。 「佛樣《ほとけさま》みたいだ」  佐山がキヌ子の眉の間の黒子をさして冗談《じようだん》を云ふと、 「いゝわ、何でも‥‥今年、卒業したら、私も釜石《かまいし》へ行つて、佐山さんをいぢめに行くから‥‥」 「釜石《かまいし》なンかへ女が來たつて、何《なに》もありませんよ‥‥」 「貴方《あなた》がゐるぢやないの‥‥」  キヌ子は赧くなつて、急いで温泉《をんせん》へ降りて行つた。  佐山は口笛を吹きながら、往來の見える方の廊下《らうか》へ何氣なく出て行つたが、ゆるい坂《さか》になつた宿の前《まへ》へぐつぐつとバスが登《のぼ》つて來て、宿の前で客が二三人降りるのが見えた。 (おや! 岡部ぢやないかな、へえ、小見山《こみやま》の奴もゐるぞ‥‥)  佐山が急いで店へ降りて行くと、岡部も小見山も眞面目《まじめ》な顏で、宿へ這入《はい》つて來るところだつた。 「おーい、どうしたんだい、二人連《ふたりづれ》で?」 「やア、ゐたのか、――揃つて見舞《みま》ひに來たンだぜ‥‥中々《なか/\》いゝところだねえ、こゝは‥‥」 [#9字下げ]○  夕方から吹雪《ふぶき》になつた。  炬燵の櫓の上には、厚い板の臺が置いてあり、その臺《だい》の上には廣い朱塗《しゆぬ》りの膳が出てゐた。  佐山は、岡部《をかべ》や小見山が温泉からあがつて來ると、 「どうだ、山の中《なか》もいゝだらう?」  といつた。 「支那には温泉《をんせん》はないのかい?」  岡部がたづねた。 「南京の近くに有名なのがあつたかな、だけど、こんな山紫水明《さんしすゐめい》ぢやアないぜ、――支那《しな》の景色は大味《おほあぢ》で美しいとは思はねえ」  三人は炬燵をかこみ、杯を手にしたが、佐山《さやま》は創の爲に惡いので酒《さけ》は飮まなかつた。 「おい、こゝは藝者《げいしや》は何處から呼ぶンだい?」  小見山《こみやま》は少し醉つて來《き》たのか、そんなことをきいた。 「湯田中あたりから來るンだらう? あの、太鼓《たいこ》の音でも聽いて我慢《がまん》しろ」  岡部も愉《たの》しさうに醉つてゐる。佐山《さやま》はむつゝりして床柱に凭れてゐた。    旅館寒燈ひとり眠《ねむ》らず    客心《きやくしん》何事《なにごと》ぞうたゝ凄然たり    故郷今夜 千里《せんり》をおもふ    霜鬢《さうびん》明朝《みやうてう》 又一年  岡部は酒にも飽いたのか、詩を吟じながら、雪|※[#「日+熏」、第3水準1-85-42]《ぐも》りしてゐる暗《くら》い外を、障子の腰硝子《こしガラス》から覗いてゐた。 「おい、佐山《さやま》!」 「何だ?」  小見山《こみやま》は冷えた酒をついで一氣にぐつとあほると、 「君はどうして植村郷子《うゑむらくにこ》に逢つてやらないンだ?」 とたづねた。 「逢ひたくないからさ‥‥」 「逢ひたくない? 彼女は隨分《ずゐぶん》君《きみ》に逢ひたがつてゐるンだがねえ‥‥」 「逢ひたかつたら、自分一人で逢ひに來たらいゝぢやないか、――君《きみ》こそ、どうして彼女《かのぢよ》と結婚しないンだ?」 「彼女に斷《ことわ》られたからさ‥‥」 「ふうん‥‥不體裁《ふていさい》な話だねえ」 「僕は君に遠慮してゐたンだぜ、だが、まア、皆《みな》、過ぎたことだ、――岡部《をかべ》と來たのは、一つは郷子君《くにこくん》を君に進めに來《き》たンだよ、――赤坂の美智子さんの問題もあるだらうが、それは何とかなるとして、釜石《かまいし》へ行く前に一度、逢《あ》ふ氣はないかねえ‥‥」 「ないねえ、――僕は、いま、女房《にようばう》もほしくなくはないが、まだ、氣持《きもち》がそこまで行かないし、何《なん》にしても、まづ働きたいと思ふことでいつぱいだよ。――戰場《せんぢやう》から戻つて來た氣持《きもち》も整理されてゐないし、この氣持《きもち》は、戰場へ行つたものゝみに分るンぢやないかと思《おも》ふが、寂寥たるものだね‥‥軍隊には鐵則があるが、社會《しやくわい》には、はつきりした鐵則《てつそく》がないよ‥‥」 「藝者をよんぢやア鐵則《てつそく》にそむくかな?」 「――おい小見山、お前と俺とは一|度《ど》大喧嘩《おほげんくわ》をしないといかンらしいぞ‥‥」 「喧嘩か、喧嘩《けんくわ》はきらひだよ」 「さうか、喧嘩の出來ン人間に、喧嘩《けんくわ》を吹つかけたつて仕方《しかた》がないな‥‥」  小見山《こみやま》は思ひ出したやうに階下《した》の乾燥室へ降りて行き、スキーにアイロンをあてゝゐるキヌ子達のそばに行つた。 「吹雪でたうとうお迎へが來ないさうですね、それが濟《す》んだら僕達の部屋《へや》へ來ませんか?」  と、キヌ子をさそつてゐる。  部屋に殘つた佐山《さやま》と岡部は暫《しばら》く默つてゐたが、お互にしみじみしたものを感じ合つてゐた。 「佐山、今夜《こんや》はこれは積るぞ‥‥」 [#9字下げ]○  小見山は外套《ぐわいたう》を引つかけると、夜汽車《よぎしや》で歸ると云つて宿を出て行つた。  雪はやんでゐたが、森々と寒い晩で、泥醉の頭の中は水樽《みづだる》をのせてゐるやうに重苦《おもくる》しかつた。 (佐山は幸福《かうふく》な奴だ、どんな希望《きばう》だつて、あの力量だつたら押しきれるだらう‥‥)  一番頼りにしてゐた大野の死に會つて、小見山《こみやま》の新しい事務所は此頃《このごろ》あまり思はしくなかつた。郷子との戀愛《れんあい》に破れたことも一つの原因《げんいん》ではあつたが、事業に報いられない小見山は、此頃、しばしば自殺《じさつ》のことを考へてゐる。  小見山は山を下りるつもりでゐたが、足は廣業寺《くわうげふじ》の方へ向いてゐた。  雪あかりのした凸凹《でこぼこ》の道を、雪を踏《ふ》んでキシキシ歩いてゐると、小見山は潮《しほ》に浮いてゐる烏《からす》のやうな自分《じぶん》を感じる。  さつき、佐山の部屋で小見山は泥醉《でいすゐ》の果、佐山や岡部に喰《く》つてかゝつてゐたことを思ひ出した。 「おーい、小見山《こみやま》!」  岡部の聲が後から呼《よ》んでゐる。  時々、落葉松の梢にたまつた粉雪が、風に吹《ふ》きつけられて、ぱらぱらと小見山《こみやま》の顏に降りかゝつて來《き》た。 「おい、小見出! 何だ、その恰好は‥‥おい、戻《もど》つて來いよ、佐山も心配《しんぱい》しとるぢやないか‥‥」 「佐山か、あいつは幸福《かうふく》な奴だよ、幸福な人間《にんげん》に俺の氣持なンか判らん‥‥」  岡部が小見山の腕をつかむと、小見山は岡部の胸を押して、自分《じぶん》だけよろけながら廣《ひろ》い坂道をどんどん歩いて行つた。 「おい、岡部《をかべ》! お前も幸福《かうふく》な奴だぞ‥‥今夜は、山の上のホテルに泊るからなア、佐山にさう云つといてくれよ、――さつき、植村郷子《うゑむらくにこ》の問題で喧嘩《けんくわ》したが、あれはどうでもいゝンだ。結婚《けつこん》してみせると云つたが、酒《さけ》の上の冗談だ。よろしく云つてくれ‥‥」  岡部はよろけて歩いてゐる小見山の肩を抱き、靜《しづ》かに歩行の向きを變《か》へてやりながら、 「どうして、そんなに行き詰《つま》つてゐるンだ? さつきから聞《き》いてゐると、お前一人で莫迦なことばかり云つてるぢやないか‥‥」 「さうかい?」 「あゝ、お前一人|莫迦《ばか》なことを云つてるぞ。佐山《さやま》も、郷子さんを早く君と結婚さしたら、明るくなるだらうと、さつき云つてたよ‥‥」 「明るくか? 明《あか》るくなンかなるものか‥‥疊《たゝみ》べりにねえ、ライオン、シルケツト、なンてあるンだとよ、油も高い、糸も高《たか》いだ、第一、間に合《あ》はないンでござんすときたね‥‥」 「何《なに》を云つてるんだい? 莫迦《ばか》だなお前は‥‥」 「うん、いや疊屋の奴がね、この戰時で、第一疊べりが出來《でき》なくて弱つてゐるンだ。油《あぶら》も麻糸も高くなつて、疊《たゝみ》一枚に二十五本の糸《いと》がいるだらう‥‥建築家も樂ぢやないよ、はつはつはは‥‥」 「大阪《おほさか》の方はうまく行かないのかい?」 「うまくゆかないねえ、當分は息を詰めてゐるさ――そのうち大陸《たいりく》にでも進出《しんしゆつ》するかな‥‥」 「進出の氣勢《きせい》を持つてゐるだけでもいゝよ」 「いや、有難う!」  小見山《こみやま》は岡部の肩につかまり、岡部《をかべ》の肩の雪に顎をつけた。 「キヌ子孃、君《きみ》におそれをなしてゐたぜ」 「あゝ、あれは佐山《さやま》に參つてるねえ‥‥」 「だが、ねえ、いつたい、君《きみ》は本氣で植村郷子《うゑむらくにこ》をそんなに想つてゐるのか?」 「‥‥‥‥」 「佐山は俺が仲人《なかうど》になると云つてたぜ‥‥」 [#9字下げ]○  朝早く、遠藤氏《ゑんどうし》がキヌ子達を迎へに來た。  佐山の部屋で、岡部もキヌ子達も朝飯《あさめし》をたべてゐる處だつた。 「やア、賑《にぎ》やかですねえ‥‥キヌ子達《こたち》もお邪魔してるンだねえ」 「えゝ御飯《ごはん》たべて、これからまた滑りに行くのよ‥‥」  遠藤はモンペ姿であつたが、色が白くて肥えてゐるせゐか、その姿《すがた》が中々意氣に見《み》えた。 「昨夜は久しぶりに村會《そんくわい》へ出ましてねえ、何彼と大議論《だいぎろん》を戰はしたものだから、こゝへ登つて來られなかつたンですよ、章《あきら》はおとなしかつたかい?」  遠藤の家は村でも名望家で、父祖代々村長をしてゐる。遠藤《ゑんどう》は若い時から村《むら》をきらつて、臺灣だとか滿州《まんしう》だとかの、鑛山を探《さが》して渡り歩いてゐる男であつた。  キヌ子達が朝食のあとゲレンデへ行つてしまふと、佐山《さやま》は近々中支の方へ視察に出掛《でか》けて行くといふ遠藤《ゑんどう》に、岡部を紹介して、 「もう一人、こゝへ友人が來てゐるンですが、――近々《きん/\》中支《ちゆうし》の方へいらつしやる遠藤《ゑんどう》さんに、是非、何とかそいつを紹介《せうかい》したいンですけど、逢《あ》つて戴けませんでせうか?」 「來てゐられるンですか?」 「はア、昨夜、醉つぱらひましてねえ、隣りの部屋《へや》でまだ、寢《ね》てゐるンです。――とても、頭のいゝ奴で、親類の建築事務所《けんちくじむしよ》に働いてゐたンですよ。ところが、急にその親類の男に死なれてしまひましてね、大阪で小さい事務所《じむしよ》を持つてみたりしたンですが、年が若《わか》い上に、地盤のない土地《とち》ですし、しかも、この戰時下《せんじか》で、かなりな借財をつくつてしまひましてねえ‥‥少し行詰つてるンですよ。――本人は非常に海外《かいぐわい》へ出て行きたいらしく、此間も青島《チンタオ》の紡績工場建築の仕事《しごと》があつたンださうですがね‥‥」  佐山《さやま》は、かなり、澤山の手蔓《てづる》を持つてゐる同郷先輩の遠藤氏に、小見山の現在の苦境を話して救つて貰《もら》はうと思つた。 「さうですか、そんな方なら、私も、お逢ひしてみませう――今朝《けさ》も、村のものが、百姓をしてをつても苦《くる》しいからと、いろいろ、支那《しな》や、滿州のことをきゝに來たンですがねえ、あんまり、日本人が外へ出拂つてしまつてもどうかと思ふよと笑《わら》つて來たところです。が、皆、支那《しな》、滿州のことをきゝたがつてゐますね、佐山《さやま》さんとこの弟さんも見えてゐましたぜ‥‥」  小見山《こみやま》はさつきから眼が覺めてゐて、隣室《りんしつ》の佐山達の話をきいてゐた。  手をのばして枕もとの眼鏡を取ると、障子《しやうじ》の腰硝子の向ふに笠ケ嶽の頂と青《あを》い空が見える。 「おい、小見山《こみやま》!」  佐山が褞袍姿《どてらすがた》で小見山の部屋へ這入《はい》つて來た。 「どうした?」 「天氣《てんき》か?」 「いゝ天氣だ、――頭《あたま》は痛くないか?」 「いや大丈夫だ‥‥」 「君《きみ》に逢はせたい人が來《き》てるンだがねえ、起きて來ないか‥‥」 「誰だ?」 「俺を釜石に紹介《せうかい》してくれた人だよ」 「あゝ、キヌ子孃のお父《とう》さんかい?」 「うん」  小見山は寢床の中から、懷手した佐山《さやま》の左の肩つきをじつと眺《なが》めてゐた。 「いま起《お》きて行くよ」  やがて、顏を洗つて小見山が佐山の部屋へ這入《はい》つて行くと、岡部と遠藤《ゑんどう》は炬燵の上で將棋を指してゐた。 「こちらが遠藤《ゑんどう》さんだ」  遠藤は、親しみ深い眼で、小見山に名刺《めいし》を出した。 [#9字下げ]○ 「この事變《じへん》以來《いらい》、私は、製鐵の生産力擴充の促進《そくしん》を考へ、資源會社の設立を計畫してゐるンですよ、代議士《だいぎし》連中《れんちゆう》もより/\集《あつま》つてはくれるンですが、いまのところ、まだ目鼻がついてゐないのです」  さうざうしい太鼓と三味線の合間に、遠藤氏《ゑんどうし》は盃をおいてしみじみ話《はな》してゐる。  下男《げなん》の迎へが來てキヌ子達が山《やま》を降りて行くと、遠藤氏は今宵佐山の新しき首途を祝ふのだといつて、旅館塵表閣の宴會場を借りて素朴《そぼく》な藝者の手踊《てをどり》をみせてくれた。 「建築《けんちく》の方だつて、鐵材購入は中々のことですし、鑄鋼《ちうかう》とか、鍛造品の闇相場はすさまじいものですからねえ‥‥」  小見山はすつかり遠藤氏《ゑんどうし》の人物に參つてしまつて、如何《いか》にも愉しさうに話してゐる。  五六人の藝妓が次々に新しい踊を踊つてゐるのだが、男達《をとこたち》は藝妓の踊にあまり興味《きようみ》もなささうであつた。  佐山は割箸《わりばし》の中から出て來た辻占《つじうら》を讀んでゐる。――かたいぢな、もうおよしなさい、あひたいくせに――佐山はをかしくなつて、冷えた汁椀《しるわん》を口もとへ持つて行つたが、太鼓《たいこ》や三味線の音のせゐか、急に郷子《くにこ》に逢ひたくなつてゐた。 「おい、佐山、どうだ、あとで温泉へはいりに行かうか、二人の開發《かいはつ》人物《じんぶつ》は、中々話が盡《つ》きさうもないぞ‥‥」  岡部《をかべ》が、もうこれより一杯も飮めぬといつた恰好《かくかう》で黒塗りの膳の前に力んで坐つてゐる。 「あら、逃げちやだめだよ、さて、これからが、面白《おもしろ》い踊があるンですよ」  若い妓が無理矢理《むりやり》、岡部に盃を差してゐる。  手踊が一|區切《くぎり》ついたのか、藝妓達がぱつと男達《をとこたち》のところへ寄つて來《き》た。  小見山《こみやま》は思ひ出したやうに酌《しやく》をする藝妓達と一々握手をしながら、 「兎に角、どこまでもやつてみるつもりです。僕達《ぼくたち》ヤンガーゼネレーシヨンが動《うご》き出さないことには大陸《たいりく》開發《かいはつ》もどうにもならんでせう、遠藤さん‥‥」  と熱してゐる。  遠藤もいけるくちなのか、たてつゞけに飮んでふらふらと立《た》ちあがると、屏風《びようぶ》の前へ坐つて常磐津の狐忠信《きつねたゞのぶ》を歌ひ出した。 「おい、佐山《さやま》、飮めよ‥‥」 「いや、俺《おれ》は飮みたくない‥‥」  小見山が佐山のそばへ來て坐《すわ》つた。 「どうして飮まないンだ?」 「創《きず》がまだよくないからねえ‥‥」 「あゝさうか、そりやアいけない、――本當に、僕は感謝《かんしや》してゐるよ、これから遠藤《ゑんどう》さんに引つぱりまはして貰《もら》つて、少し洋々たる人生《じんせい》を感じて來るからな‥‥」 「よかつたねえ、遠藤が援助をしようといつたら、かならず援助《ゑんじよ》をしてくれる人《ひと》だから、――君がいま支那《しな》へ行くのはいゝことだと思ふよ‥‥」 「全く、昨夜までは女々しい氣持でゐたンだ、何《なに》も彼もあて[#「あて」に傍点]が外れどうしでねえ、――計畫したことが、一つも成功《せいこう》しなければ、人間、腐りもしようぢやないか‥‥」 「あら、また、降《ふ》つてるわ‥‥」  廊下《らうか》でおゝ寒いといふ藝妓《げいしや》の聲がしてゐる。岡部は一人で温泉へ降りて行つた。玄關の廣庭で、宿の小さい女中が、雪の中で繩飛《なはとび》をしてゐた。  軈て佐山も手拭をぶらさげて玄關へ降りて來たが、雪の降る中で繩飛《なはとび》をしてゐる可憐《かれん》な女中の姿《すがた》にみとれてゐる。 「おい、岡部、小見山は、今夜《こんや》愉快《ゆくわい》さうだぜ」 「奴《やつこ》さん、取つておきの小唄《こうた》が出てるぢやないか」 [#9字下げ]○ [#ここから2字下げ] 谷あひの笹の斑雪《はだれ》は日のひかりともしくさしてとくることなし [#ここで字下げ終わり]  志賀高原は、こんな歌のやうに靜かなところですが、おひまでもあつたら、山《やま》へお出《で》かけになりませんか、僕《ぼく》は今日、佐山の宿へ來ました。佐山《さやま》も非常に元氣です。と云ふ岡部の手紙を貰つて、郷子は矢もたてもたまらず、山行《やまゆ》きに一枝を誘つた。  郷子は六日まで正月休みを持つてゐたので、急に旅支度《たびじたく》をして昨夕の汽車《きしや》に乘り、今朝早く長野《ながの》へ着いたのだ。  一枝はスキー姿《すがた》である。  驛へ着くと、坂になつた街通りに薄陽《うすび》が射してゐた。 「ねえ、郷子さん、あの林檎を買つてゆきませうよ、温泉《をんせん》にはいつて冷い林檎《りんご》を噛るの、とてもお美味《いし》いことよ‥‥」  驛の前の、旅館の軒先きに出てゐる果物屋から、一|籠《かご》林檎《りんご》を買つて、二人は湯田中《ゆだなか》[#「ゆだなか」は底本では「ゆたなか」]の長野電鐵に乘《の》りかへた。  雪の善光寺平野のまんなかを、電車《でんしや》は一つ一つ町や村に停りながら走《はし》つてゐる。  車窓《しやさう》[#「しやさう」は底本では「しやそう」]からは、飯綱や、戸隱、黒姫《くろひめ》、高社山の峨々とした山峰が眺められた。 「山つていゝのねえ、ほら、あの紫色の山なんか、大きな屋根《やね》みたいね‥‥」 「朝から晩まで職業々々《しよくげふ/\》で、疲《つか》れきつてゐる處へ、たまにこんな旅行をすると、生きのびたやうな氣持よ、――私、とても長生きをしたいわ、郷子《くにこ》さんはどう?」 「私だつて長生《ながい》きをしたいわ、平和《へいわ》にね‥‥」  沿道には桑畑が何時《いつ》までも續いてゐた。  郷子は、山に圍まれた佐山の古里に泌《し》みるばかりのなつかしさを感《かん》じてゐる。  時々、出征《しゆつせい》の旗をたてゝゐる百姓家も見えた。  須坂と云ふところから、黒眼鏡をかけたスキー姿の美しい少女が電車へ乘《の》りこんで來た。襟もとをチヤツクで止めた紺《こん》のスキー服に、紅《あか》いマフラを首に卷いたのがなかなか意氣で、一枝も郷子も、その少女《せうぢよ》にみとれてゐた。  少女は入口の處へ立つたなりで、窓《まど》の外を眺《なが》めてゐる。 「きれいなひとね?」 「さうね‥‥」  一枝と郷子は少女《せうぢよ》の美しさをさゝやきあつてゐた。  車内では、百姓風の女達が高聲で、村も貧《まづ》しくてやりきれないから、村の往來《わうらい》についてゐる電燈を消してしまつたンだと話《はな》してゐた。 「――男手が少なくなり、これからの農村《のうそん》も大變《たいへん》でせうね」  と、郷子《くにこ》が廣い雪の桑畑《くはばたけ》をみつめて云つた。 「そのうち、農村には女ばかり殘るやうになるかも知れないわね。最惡《さいあく》の場合に處する覺悟《かくご》はしておいていゝだらうつて、此間《このあひだ》うちの工場で講演《かうえん》があつたンだけど‥‥どうなるンでせうね?」 「さうね、この戰爭《せんさう》の後、恢復するのには何《なん》十|年《ねん》かゝるかわからないつて、――でも、それでも、日本は大きな飛躍をしたンだつて友達が話してゐたわ、――世界《せかい》が、いま大變《たいへん》なんですもの、村の電燈《でんとう》を消しても勝たなくちやいけないものね‥‥」  湯田中へ着くと、山行きのバスに乘り、正午《しやうご》近《ちか》くに二人は上林へ着《つ》いた。 「ねえ郷子《くにこ》さん、私達、どこか違《ちが》ふところへ泊らない? それからお尋ねしてもいゝぢやないの‥‥」  二人はバスの中の廣告を見てゐたので、電鐵直營《でんてつちよくえい》の温泉旅館に宿《やど》をとつた。  部屋《へや》には板の臺を載せた炬燵《こたつ》がつくつてある。  遠くでかすかに鶯《うぐいす》の啼く聲がした。  まるで初旅のやうな二人は、きまり惡《わ》るさうに宿の褞袍《どてら》に着替へた。 [#9字下げ]○  一枝《かずえ》はゲレンデへスキーをかついで行《い》つた。  郷子は一人になると、佐山の宿へ、岡部《をかべ》をたづねて電話《でんわ》をかけてみた。  電話《でんわ》はおもひがけなく佐山《さやま》の聲であつた。 「植村《うゑむら》でございます‥‥」 「あゝ‥‥郷子《くにこ》さん?」 「えゝ! いま、さつき、こちらへ着いたばかりで‥‥お元氣《げんき》でございますか‥‥」 「岡部《をかべ》はさつき、小見山《こみやま》と東京へ歸りましたよ、――一人で來たの?」 「いゝえ‥‥お友達《ともだち》と來たンですけど‥‥」  郷子は鼻や唇に溢れる涙を、そのまゝ溢《あふ》れるにまかせて、受話器《じゆわき》を一生懸命握つてゐた。  佐山は暫く默《だま》つてゐたが、 「僕はいま、あなたに、逢つても仕方《しかた》がないンだけど‥‥」 「‥‥‥‥」 「晝の食事《しよくじ》は濟んだのですか?」 「えゝ、‥‥」 「さう、ぢやア、僕《ぼく》はこれから散歩《さんぽ》に出るンですが、――あなたも少しその邊を歩いてみますか?」  郷子は夢ではないかと思つた。支度をして、やがて佐山《さやま》の宿の方へ歩いて行くと、佐山《さやま》がステツキをついて宿《やど》の低い軒の下《した》から出て來るところであつた。  久しぶりで逢ふ佐山は眼の光が鋭くなり、出征《しゆつせい》當時《たうじ》のおもかげとは變《かは》つてゐるやうに見えた。  谷あひの笹の斑雪《はだれ》は日のひかりと、岡部《をかべ》の手紙にあつたやうに、午後の薄陽が、雪のたまつた藪かげを美《うつく》しく照してゐる。  褞袍の上にインバネスを着てゐるせゐか、佐山は以前《いぜん》よりふとつて逞《たくま》しく見えた。  郷子《くにこ》はまぶし氣に佐山の後《うしろ》から歩いて行つたが、瞼に涙がつきあげて來て仕方がない。 「寒くなかつたら、地獄谷の方へ案内《あんない》してあげませう、これから二キロあるンだけど、歩《ある》けるかしら?」 「え、大丈夫《だいぢやうぶ》です‥‥」  固く蹈みかためた、キシキシした雪の山徑を二人《ふたり》は暫く默つて登《のぼ》つて行つた。  谷あひの一面の落葉松《からまつ》の梢に、薔薇色の雪《ゆき》が風に吹きつけられてゐた。時々、藪かげから小鳥が飛び立つて來る。 「何故、一人《ひとり》で來なかつたの?」 「‥‥‥‥」  佐山は振りかへつて後からついて來る郷子《くにこ》にふつとこんなことをいつた。 「ステツキを貸してあげませう‥‥」  郷子は、佐山のおもひがけない優しい言葉《ことば》にめぐり合つて、恥《はづ》かし氣にとまどひしてゐた。 「病院《びやうゐん》では、戸田安子さんといふ看護婦《かんごふ》さんにお世話になりましたよ、あなたの女學校友達だつて?」 「えゝ、私《わたし》もこの間逢ひました」  あんなに、千も萬も話すことを胸にためてゐたはずの郷子《くにこ》は、思ひがけなく、山《やま》の上で佐山と二人《ふたり》きりになつてしまふと何《なに》もいふことがみつからない。  左の手は外套の下に隱れて見えなかつたけれど、郷子《くにこ》は心もち肩を吊《つ》りあげたやうな佐山の後姿に何か痛々《いた/\》しいものを感じてゐる。 「急に用事が出來て、岡部も小見山もさつき歸つた處《ところ》なンですよ――僕《ぼく》がこんなところに來てゐるつて誰に教《をそ》はつたンです?」 「岡部さんから、おたより戴きましたので、私、急《きふ》に來たくなつて、一緒にゐるお友達《ともだち》を誘つて來ましたの、――一|生懸命《しやうけんめい》で來たンです‥‥」 [#9字下げ]○  地獄谷には小さい宿屋《やどや》が一軒あつた。  別棟に温泉《をんせん》があり、青い湯が滿々と浴槽《よくさう》から溢れてゐた。  川床には、硫黄が一面に吹いてゐて、遠くから硫黄《いわう》の色が澤庵《たくあん》の糠《ぬか》をぶちまけたやうに見える。谷《たに》あひの中なのに、少《すこ》しも寒くなかつた。 「小見山は天津《てんしん》へ行くことになりましたよ」  佐山はさういつて、郷子《くにこ》をふりかへつた。  滿目皚々とした谷のなかに、モータアのやうな地獄《ぢごく》の地鳴りの音《おと》がしてゐる。  佐山《さやま》は石をひろつて、右手《みぎて》で、地獄から吹きあげる熱い湯氣の上へ石を投げてゐた。 「釜石へいらつしやいますつて、何時《いつ》いらつしやいますの?」 「さア、この下旬頃《げじゆんごろ》になるかもわかりませんね。――冷えると、まだ少しいけませんからね‥‥」  戰場で考へてゐた郷子への激しい思慕が、内地《ないち》へ戻つて來てからは、妙《めう》によそよそしくなつてゐたが、おもひがけなく二人《ふたり》で、靜かな山の中へ來てみると、佐山《さやま》は、郷子に對する氣持がまた變《かは》つて來つゝあるのを感《かん》じた。 「釜石へいらつしたら、もう、長いこと、東京《とうきやう》へはお歸りではございませんのですか?」 「えゝ、まア、當分《たうぶん》釜石《かまいし》にゐるつもりです。氣《き》が向いたら遊びに來て下さい」  郷子は默《だま》つてゐた。  何かいへば、自分の考へてゐることゝはとても正反對《せいはんたい》なことばかりいつてしまひさうで、それが二人の距離《きより》になり怖い氣持《きもち》だつた。 「御負傷なすつたの、もう、元氣《げんき》でお働けになるンでせうか?」 「手ですか? 大分いゝンですよ。手當てがよかつたために、化膿《くわのう》もなくて、切斷《せつだん》しなくて濟んだですから‥‥」 「支那《しな》つてどんな處でせう?」 「はつはつはは‥‥唐天竺《からてんぢく》といつて遠い處《ところ》ですね‥‥」  二人は、淵になつた川床の熱い湯の溢れてゐるところで、宿の娘《むすめ》が蕗の薹を洗《あら》つてゐるのを見てゐた。 「お茶《ちや》でも飮まして貰《もら》ふかな‥‥」  店の間の炬燵にはいつて、二人は熱い茶を飮み干菓子《ひぐわし》を食べて、猿が時々やつて來《く》るといふ谷川の向ふの雪《ゆき》の山を見てゐた。 「今度は、私の故郷も引きはらつて、親爺達と釜石《かまいし》の方へ永住のつもりで行《ゆ》くンですよ、――此頃思ふンだけど、十把ひとからげの文明思想《ぶんめいしさう》にはもう飽々《あき/\》してしまひましたからねえ、戰場から戻《もど》つて、特にさう感《かん》じたのかもわからないけど、――朝、晝、晩、と、擴められる淺い波紋のやうな思想文化は、いまに、すべての人類《じんるゐ》をほろぼしてしまふかもわからないと思《おも》ひますよ‥‥僕達《ぼくたち》は火花のやうに飛散る新聞《しんぶん》やラヂオの知識を何の判斷もなく吸收して、なんの得るところもなく無責任に忘れてしまつてゐるでせう?――僕《ぼく》はもうこれから鑛山《くわうざん》へこもつて、孤獨になつて、一|生懸命《しやうけんめい》、積極的に一塊の鑛石《くわうせき》にぶちあたつて行くつもりです‥‥」  佐山は煙草を吸ひながら興奮《こうふん》してゐた。  郷子は一家族で釜石へ引きはらつてゆくといふ佐山の決心《けつしん》をきくと、急に激しく氣持《きもち》をゆすぶられてゐる。  軈《やが》て、日の暮れぬうちにと、二人は茶代《ちやだい》を拂つて山を降り始めた。薄陽は消えて、風が吹きはじめてゐた。  時々、炭燒《すみや》きの男が、炭俵を背負《せを》つてスキーで降りて行くのに出逢ふきりで山徑は森閑としてゐる。  郷子は何時の間にか、佐山の左袖をつかんで歩いてゐた。風《かぜ》の吹くたびににぶく光《ひか》つて四圍の雪が散つてゐたが、佐山も郷子も默つて歩いてゐた。二人《ふたり》の愛情のリズムが、少《すこ》しづゝ寄り添つてゐた。 [#9字下げ]○  四圍は黄昏《たそがれ》てきてゐる。  薄い墨のなかで呼吸をしてゐるやうな、靜かな雪の山徑《やまみち》で、郷子は激しい感情《かんじやう》の爲に、躯が宙に浮いてゐるやうな氣持《きもち》だつた。  佐山も、呼べば答へる近さにゐる郷子の躯を身近に感じて、熱い飛沫《ひまつ》を浴びたやうな動悸《どうき》を感じてゐた。  水かさの増した川のやうに、二人は自然《しぜん》に寄り添ひ、いまは遠慮《ゑんりよ》もとれてゐるかたちだつた。 「ほら、もう、上林《かみばやし》の灯が見え出しましたよ」 「あら、きれいだ‥‥私、まだ、この温泉《をんせん》にはいりませんけれど、さつきの地獄谷《ぢごくだに》のお湯、とてもきれいでしたのね」 「郷子さんは、何日位《なんにちぐらゐ》、ゐられるの?」 「二日ほど、明後日《あさつて》歸《かへ》らうかとおもつてゐます‥‥」 「どうして、一人で來なかつたンです? 僕は東京《とうきやう》にゐる時だつて、あなたが一人《ひとり》で來てくれるのを待つてゐたンだ‥‥」  寒い雪まじりの風が吹きつける坂道《さかみち》へ來ると、佐山《さやま》は立ちどまつて、郷子にインバネスを着せかけてやり、不圖《ふと》郷子《くにこ》の肩を片手で抱《だ》いた。  郷子は佐山の胸の中へよろけて固くなつてゐたが、兩足《りやうあし》は熱く、ガタガタ震《ふる》へてゐる。  炭燒《すみや》きの女が、背中に炭俵《すみだはら》を載せて、スキーで佐山達の横を發電所の方へ滑つて行つた。  一瞬のはかない抱擁だつたけれど、郷子《くにこ》は、ふつふつと燃えたぎる生命《せいめい》を感じてゐる。 「釜石《かまいし》へは私も、そのうち寄《よ》せて戴きます‥‥」 「どうぞ、その時は、一人《ひとり》で遊びに來て下《くだ》さい‥‥」 「えゝ、お父樣《とうさま》も、弟さんも御一緒にいらつしやいますの?」 「今度は、この、祖先の土地を捨てゝ釜石へ永住の覺悟《かくご》で行くンですよ――郷子《くにこ》さん、私の家はね、先祖代々《せんぞだい/\》百姓だつたンですよ、父は百|姓《しやう》をきらつて、小學校の教師になつたンですよ。私が出來《でき》ると、私を東京の親類《しんるゐ》へ養子にやつてしまつて、私に勉強をしろしろと、田舍から追ひ出してしまふ理想家型《りさうかがた》のひとで、今では、私も、本當《ほんたう》は東京の、その養家を繼がなければならないのですが、――大學を出る一寸前から、養家《やうか》とは喧嘩別れのやうな状態《じやうたい》になり、僕の妻になるべき娘《むすめ》も、僕にはなじめないものですから、僕《ぼく》は大久保に部屋をみつけて、一人で暮してゐたンです‥‥」 「まア!」 「養家《やうか》の方へも、少しづゝ返濟《へんさい》しなければならず、親爺の方も、仕送りをしなければならず、僕は當分こんな躯でも、働かなければならないンです‥‥今まで働《はたら》いてゐた會社の方の給料《きふれう》もみんな赤坂《あかさか》の養家に送《おく》つてゐたのですからね‥‥」  郷子は現在の自分の生活とあまり大差のない佐山の生活《せいくわつ》の状態をきくと、自分《じぶん》はどんなことがあつても、佐山とゝもに釜石《かまいし》へ行きたいと思つた。 「見ていらつしやい、これから、エンジニヤとして、もりもり働《はたら》きますからねえ、――僕達《ぼくたち》みたいな採鑛冶金出《さいくわうやきんで》はねえ、一塊の鑛石《くわうせき》を見ても積極的に、社會や事業を考へる癖があるンです‥‥これは戰場にゐても、この癖は何彼《なにか》とありましたがね、――面白《おもしろ》いことには、地質學科を出た奴は、鑛石《くわうせき》を見ても、何だか消極的《せうきよくてき》で、まア學問的に見る癖があるンですね‥‥僕の同郷の先輩の遠藤《ゑんどう》といふひとが、僕の決心《けつしん》と、この癖を買つてくれて、今度の職場を世話してくれたわけなンです‥‥」  十二澤のゲレンデには、スキー小舍の前に燈火《あかり》が晄々とついて夕方でもスキーをしてゐる者があつた。 「ねえ、私、釜石《かまいし》へ、ついて行《い》つていけないでせうか?」  郷子は、佐山に外套《ぐわいたう》を返しながらそつときいた。 [#9字下げ]○ 「釜石《かまいし》へ來て下すつても、僕の生活《せいくわつ》は、さつきもいつたやうに、いまはどうにもならないし、――僕は、戰爭前までは、一日しのぎに、會社勤《くわいしやづと》めをして、夜は時々《とき/″\》醉《よ》つぱらつたりの、ぐうたらな生活《せいくわつ》だつたンですが、戰爭《せんさう》から戻つて來ると、僕はすつかり考へが變つて來てゐるンですよ。――あなたとの生活も愉しく空想《くうさう》しないでもないけれど、僕はいま、係累《けいるゐ》が多くて結婚の資格《しかく》がないと思つてゐるし、國家の爲にも、僕の地味《ぢみ》な仕事を役立てたいと思つてゐます‥‥」 「えゝよく分りますわ、でも、どうしてゞせう? 私、今日《けふ》まで、一|生懸命《しやうけんめい》待《ま》つてゐましたのに‥‥」 「有難《ありがた》う、――それは、とても有難《ありがた》いのですが、――どうにもならないなア‥‥」 「私が、おいやなンでせうか?」 「莫迦《ばか》だなア、そんなンだつたら、こんなに苦《くる》しむことはないぢやありませんかツ‥‥」  宿の前まで來ると、佐山は食事《しよくじ》が濟んだら遊《あそ》びにいらつしやいといつてくれた。 「友達といらつしやるさうだから、御飯《ごはん》はお呼びしませんよ、――僕は郷子さんと二人《ふたり》で食べるのなら愉しいけれど、雜音《ざつおん》がはいるのは厭だからなア‥‥」  と笑つて歸《かへ》つて行つた。 (どうして、もつと、もつと、色んなことを話《はな》して下《くだ》さらないのだらう‥‥)  地獄谷《ぢごくだに》の、あの湯の奔騰《ほんとう》するなかに、いつそ顏をにじりつけて、悶死してしまひたいやうな悲しみを、郷子は、宿屋の廣い梯子段を上りながら味《あぢは》つてゐた。あてどもない、宇宙《うちう》の空白のなかに、さまよひ歩く星《ほし》のやうな佗しさである。  岡部は、何時の場合も優しく力づけてくれた。今度《こんど》の、この山行の機會《きくわい》も、岡部が力を與へてくれたのだ。――佐山《さやま》は何故、一人《ひとり》で來なかつたといつてくれるけれど、若い郷子には、そこまで考へが及《およ》んでゐなかつた。  何時か岡部に、天は何處まで廣くて、宇宙《うちう》とは何でせうと、子供らしいことを尋《たづ》ねて笑はれたけれど、郷子《くにこ》は、佐山に對する氣持《きもち》もいまは、天のやうであり、宇宙のやうに思へる。 (戰爭といふものは、そんなに人の心を變化《へんくわ》させるものだらうか?)  部屋《へや》に這入ると、一枝は褞袍姿《どてらすがた》で炬燵にあたつてゐた。 「何處へ行つてたのよ? 私《わたし》、お腹が空《す》いてぺこぺこだわ‥‥」  一枝は菓子盆《くわしぼん》の煎餠をぽりぽり食べてゐる。 「ねえ、ほら、今日、電車で逢つた黒眼鏡《くろめがね》のお孃さんね、ゲレンデのお友達《ともだち》になつたのよ、とてもスキーがうまいの‥‥」  軈て、女中《ぢよちゆう》が膳を運んで來た。  郷子は一枝を見て、佐山が、雜音がはいるのは厭《いや》だといつたのを思ひ出《だ》して、ふつとをかしかつたが、段々《だん/\》それが悲しさにかはつてゐた。 「どうして、御飯《ごはん》たべないの?」 「少しもほしくないンですもの‥‥」 「その方《かた》と、喧嘩をしたンでせう?」  一枝は食後の蜜柑《みかん》を剥きながら、心配《しんぱい》さうにたづねてゐる。  急に、机の上の電話《でんわ》のベルが鳴つた。 「あゝ、もしもし、佐山さんとおつしやいます方から電話《でんわ》でございます‥‥」  郷子は袖で受話器《じゆわき》を握つて、佐山の聲を待つてゐた。 「郷子《くにこ》さん?」 「えゝ‥‥」 「あのねえ、御飯《ごはん》は濟んだの?」 「えゝいま濟みました」 「ぢや、遊《あそ》びにいらつしやい、こつちにも來客《らいきやく》があるから、よかつたら、お友達も連れていらつしやい‥‥」  受話器《じゆわき》の向ふで、どなたなのと、若い女の聲がきこえてゐる。 [#9字下げ]○  郷子と一枝が信州《しんしう》へ發つて行くと、律子《りつこ》は一人で映畫を觀に行つたり、大野夫人のところへ遊びに行つたりして、憂々《うつ/\》と愉《たの》しまない氣持《きもち》をまぎらしてゐた。  今日も律子は事務所の歸り、大野夫人の家へ寄ると、小見山《こみやま》の兄の正住が來てゐて、律子《りつこ》を見るなり、 「いまも奧《おく》さんと、貴女のことを話《はな》しとつたところですよ、今度、急に、弟が支那へ行きますのでね、色々、貴女に御相談《ごさうだん》があつたのです‥‥」  と、何《なに》かこみいつた話しぶりであつた。  大野夫人も、もう、近々事務所の方から、手を引いてしまつて、三保《みほ》へ歸つて當分《たうぶん》靜《しづ》かな生活をするのだと云ふことであるし、一人《ひとり》ぽつちの大野夫人は何時《いつ》かな心も折れたのか、櫻木町の奈津子《なつこ》を引きとり、奈津子の祖母《そぼ》は田舍へ歸してしまつてゐた。 「大野の事務所の方も、まんざらやめてしまふわけにもゆかないので、此際《このさい》、ぐつと引き締めて、地味《ぢみ》にやつてゆく方針《はうしん》なンですよ、――大野でも生きてゐるのだつたら、何とか出來るンだけど、いまはどうにもならないでせう‥‥今度、小見山《こみやま》さんも、或方の御紹介《ごせうかい》で、近いうち、上海《シヤンハイ》へいらつしやるンですつて。有《いう》名な草野組の建築事務所に、今度は一介のサラリーマンで行くわけなンだけど、條件もいゝし、希望のある仕事だからつて、お兄さんも、とてもよろこんでいらつしやるの――それでね、いまお話《はなし》をしてたのだけれど、あんな氣の弱《よわ》い人だから是非、お嫁《よめ》さんを持たしてから、お嫁《よめ》さんと一緒に上海へ行つて貰はうと云ふことになつて、それが、律子《りつこ》さんではどうかしらと云ふことになつたのよ‥‥」  律子は大阪へ郷子を迎ひに行つた夜のことを思ひ出してゐた。小見山《こみやま》に逢つて郷子《くにこ》のことを相談するつもりでゐたが、偶然《ぐうぜん》にも、小見山の家で、病氣《びやうき》でたふれてゐる郷子を見た時、律子は、小見山に對する愛情《あいじやう》を、そこでふつゝりたちきられたやうな氣持《きもち》でゐたのだ。 「若い男が、一人で上海のやうな植民地《しよくみんち》に行つたつて、ろく[#「ろく」に傍点]なことはないと思ふわ。結婚《けつこん》して、二人で行くところに意義《いぎ》があると思ふンだけど‥‥」  大野夫人は、亡くなつた良人の祕密がよつぽど辛《つら》かつたと見えて、小見山《こみやま》が一人で上海へ行くことを感心《かんしん》してゐない樣子である。 「あら、小見山さんのお嫁さんになるやうな方は、私《わたし》のやうな職業婦人《しよくげふふじん》でなくとも、どこからでも、いゝお孃《ぢやう》さんがいらつしやると思ひますわ」  律子が應へのなささうな返事《へんじ》をすると、正住がやつき[#「やつき」に傍点]になつてゐる。 「いや、いまも、奧さんの云はれたやうに、是非、貴女《あなた》のやうな方に來て戴《いたゞ》けたらと云つてゐたのです‥‥」 「小見山《こみやま》さんは、いま、信州なんでせう?」 「昨日戻つて來《き》ましたよ‥‥」 「小見山さんは、私《わたし》のやうなお嫁さんは厭《いや》だつておつしやいますわ‥‥」  律子は肩をすぼめて、くすりと笑ひながら、歸り支度《じたく》を始めた。正住も澁谷《しぶや》の省線まで一緒にと云ふので、二人《ふたり》はぶらぶら、省線《しやうせん》まで歩いてゐたが、律子は事務所を捨てゝ一介のサラリーマンとして上海へ行くと云ふ小見山の心境《しんきやう》に涙ぐましいものを感《かん》じてゐた。 「小見山《こみやま》さんは、何時、お發《た》ちになりますの?」 「弟ですか? 何だか、チブスの注射だとか、警察の證明《しようめい》とかで一週間位したら手續《てつゞ》きが濟むだらうから、そしたらすぐ發《た》つと云つて、いま、私《わたし》の家にをりますよ、――よかつたら、寄つて行きませんか、貴女《あなた》が來て下さればとても喜ぶと思ひますがねえ‥‥」 [#9字下げ]○  翌日、律子は、夕方、事務所《じむしよ》で小見山に會つた。  事務所も、二三人の出征者があつたり、色々な移動《いどう》があつたりして、大野《おほの》が亡くなつてからは、何彼と消極的《せうきよくてき》であつたが、それでも、大野《おほの》の知人や、縁者が集まつて、近々、假事務所をつくつて、紡績工場の建築《けんちく》を請負ふといふ話もあつた。  律子も何時かは、この事務所をやめなければならないだらうとは考《かんが》へてゐたが、周章《あわ》てゝ職を搜す氣《き》にもなれず、萬一やめなければならなくなつた場合《ばあひ》は、少しばかりの貯金で、一ケ月位、九州へ歸つて、唐津《からつ》の海邊で靜養して來てもいゝと思つてゐた。 「上海《シヤンハイ》へいらつしやるンですつてね?」  小見山がつか/\と律子の事務机の方へやつて來たので、律子《りつこ》は立つて明るく挨拶《あいさつ》した。 「近《ちか》いうち發ちます、――もう、歸《かへ》つていゝ時間でせう? どうです、一緒に、お別れの御飯でも食べませんか‥‥」  律子は氣持《きもち》よく小見山の言葉を受けて、二人は黄昏《たそがれ》の街へ出た。 「昨夜、兄《あに》に逢つたンだつて?」 「えゝ」 「何《なに》かいはなかつた?」 「――結婚《けつこん》の話ね‥‥」  谷間のやうに寒い、大阪ビルの方へ二人はゆつくり歩《ある》いてゐた。律子は、二度も三度も寒《さむ》い中で深呼吸《しんこきふ》をした。 「上海へどの位《くらゐ》行《い》つてるンです?」 「僕?」 「えゝ」 「さア、どの位かな、まア、當分は戻《もど》れないだらうと思つてゐますがね。――律子《りつこ》さんも行かないかな?」 「冗談にでせう?」 「冗談《じようだん》ぢやないさ‥‥」 「さう‥‥」 「行く意思《いし》はないの?」 「ないこともないけど――、何だか、まだ、よく考《かんが》へてないの‥‥」  誰も人通《ひとどほ》りのないガレーヂの前で、小見山は不圖《ふと》立ちどまつて、律子の腕をとつた。 「私ねえ、此頃、胸が惡いンぢやないかと思《おも》つてゐるの、何だか寢汗《ねあせ》をかくのよ」  小見山《こみやま》は、それでも律子の腕《うで》をはなさなかつた。律子も坦々と小見山の腕に自分の腕をまかせてゐた。  橋の上へ來ると、狹《せま》い河の兩岸の灯が、暗い空に模樣《もやう》のやうに光つてゐた。 「郷子さんのことは、どんなになつたの?」 「あのひとは、あのひとの道《みち》を行くだらうさ‥‥」 「小見山さん、今晩、あなたは、隨分《ずゐぶん》、私に亂暴な言葉《ことば》をつかふのね‥‥」 小見山《こみやま》は、律子の腕をとつたまゝ、手は律子《りつこ》の掌を手袋ごとしつかり握つてゐた。 「私は、好《す》きだけど、――あなたは、急《きふ》に私を好きになれるかしら?」 「好きならいゝぢやないか?」 「さうかしら?」 「一緒に上海《シヤンハイ》へ行つてくれるといゝな?」 「私も、お兄さんと、大野の奧さんにそれを昨日《きのふ》いはれたの、――まだ、お二人《ふたり》からいはれた時は何だか、仄々《ほの/″\》してたンだけど、あなたからいはれると、急に行きたくなつたわ‥‥」 「引つぱつてでも行く‥‥」 「まさか、――ねえ、今晩《こんばん》、お酒でも召しあがれ、そしたら氣持《きもち》が晴れるでせう‥‥」 「注射《ちうしや》に惡いから、今日は御飯《ごはん》だけだ‥‥」  律子は急にをかしくなつてきて、小見山から握《にぎ》られてゐる汗ばんだ手の、手袋《てぶくろ》をぬいだ。 [#9字下げ]○  郷子と、一枝が、信州《しんしう》から歸つて來たその夜、八疊の部屋《へや》に、三つの寢床を並べて、何時ものやうに律子を眞中《まんなか》にして三人は寢床についた。  三人とも枕元《まくらもと》に二三册の本を置いてゐる。  律子の枕元には相變らず日記帳と、支那語《しなご》の本とが重ねてあり、一枝は一ケ月前《げつぜん》から默阿彌の鼠小僧を面白《おもしろ》いと云つて讀んでゐた。  郷子は「女の一生」を讀んでから、モーパツサンの名前《なまへ》を覺えて、いまは「水《みづ》の上」だの「ピエールとジヤン」なんかを枕元《まくらもと》に置いてゐる。  郷子は疲《つか》れてゐたので、本を讀《よ》む氣にもなれず、律子の枕元のスタンドの燈火がまぶしいので、瞼に腕をのせて、佐山と別れた日の山の上の會話《くわいわ》を、これが永久の別《わか》れになるのではないかと、胸《むね》で噛みしめて味つてゐた。 「眞是造化(本當に幸福ですね)‥‥眞是造化《チエンシーツアオホア》‥‥」  律子は、何時《いつ》ものやうに支那語《しなご》の發音を、小さい聲でくりかへしてゐる。一枝は汗ばんだ顏を子供のやうに枕に押しつけて、もう、すやすや寢息《ねいき》をたてゝゐた。  郷子も、いまは心身《しんしん》ともに疲れ果て、何時かうと/\としてゐた。そして、壁の方へ寢返りを打つゝもりで、郷子がふと眼をあけると、胸の上に本を擴《ひろ》げてゐる律子の白い腕《うで》に見覺えのある時計《とけい》がキラキラ光つてゐるのを見た。 (おや、よく似た時計《とけい》だこと‥‥)  郷子が、ぢつと自分の時計を眺めてゐるともしらないで、律子《りつこ》は一生懸命發音を勉強《べんきやう》してゐる。 「我明《ウオミン》天上《テイエン》上海《シヤンハイ》去《チユイ》(私は明日上海へ參ります)‥‥」  三保の松原で、小見山が、自分《じぶん》の腕につけてくれたヴアルケンと云ふ時計《とけい》によく似てゐる。――  さうおもひながら、郷子は、何時《いつ》かまたそのまゝ眼をつぶつた。 「郷子さん、もう寢《ね》てる?」 「なア――に?」  郷子が眼をあけると、律子が、支那語の本を枕元《まくらもと》に伏せて、枕に頬杖《ほゝづゑ》をついた。 「私、あなたに相談《さうだん》があるの‥‥きいてくれる?」 「私に?」 「えゝ‥‥」 「何なの? 急《きふ》にあらたまつたりして‥‥」 「私、二三日前、小見山《こみやま》さんに逢つたのよ、――あのひと、近《ちか》いうち、上海へ行くンだつて‥‥」 「さうですつてね」 「私にも上海へ行かないかつて云ふのよ、――小見山《こみやま》さんと、結婚《けつこん》してなの、――何だかをかしな話でせう、郷子《くにこ》さん笑ふ?」 「――いやな律子さんねえ、笑《わら》ひなンかするもンですか‥‥」 「だつて、あのひと、一度は、あなたを好きだつたンだもの、――いまでもさうかも知れないけど、――でも、何《なん》でもいゝわ、一寸、この、私の日記《につき》を見て頂戴、――私、小見山さんと結婚しようと思《おも》つてるンだから‥‥」  律子が、日記帳《につきちやう》を開いてよこした。 [#ここから1字下げ] ――日  私は、自分《じぶん》の狹い眼だけで、人間を視、社會《しやくわい》を視てゐる。私の眼は、十分に消化して、社會のあらゆるものを視てゐるとは思はないけど、このごろ、少《すこ》しづつでも、色々《いろ/\》なものが判りかけて來た。崩壞《ほうくわい》と、循環と、生殖《せいしよく》の三つしかない單純な世界だけを、私はかたくなゝ[#「かたくなゝ」に傍点]幼い頭で、何時も失望的に考へてゐたやうだ。自分が病身《びやうしん》であるせゐかも知《し》れない。今日もKに逢つて、結婚《けつこん》なんかつまらないと云つて笑《わら》はれてしまつた。若い私達は、いまこそ勇氣を出さなければいけない時だとはげまされた。さつそく、郷里《きやうり》へ、大野夫人から手紙《てがみ》を出して貰ふ。私は、Kを愛《あい》してゐる。 [#ここで字下げ終わり] 「――それで、私、急に、上海《シヤンハイ》へ行くことにきめたの、かまはない?」 「まあ! とてもいゝ話ぢやないの、かまはない、なンて、私《わたし》に何をそんなに遠慮《ゑんりよ》してゐるのよ、私だつてとても嬉《うれ》しいことよ‥‥」 [#9字下げ]○  律子《りつこ》がいよいよ小見山と結婚《けつこん》することがきまると、この藥王寺の女ばかりの小さい家もたゝまなければならなくなつた。  一枝は一枝でひよつとしたら、天津へ新しく進出《しんしゆつ》するデパートの支店へ、赴任《ふにん》させられるかも知れないといふので、郷子は蒲田《かまた》の母と一緒になつて、一軒、小さい家《うち》を持たうと思つてゐた。  工場のかへり、何時《いつ》ものやうに、タイプライターの教習所《けうしふじよ》へ行くと、壁には新しい求人のビラが貼りつけてあつた。奉天の或る車輛會社《しやりやうぐわいしや》で大量のタイピストを求めてゐて月給《げつきふ》は七十五圓と書いてある。郷子《くにこ》は暫くその前につゝ立つてゐた。  郷子のほかにも十二、三人、そのビラの下に立つて、タイピスト募集《ぼしふ》の文字をじつと眺めてゐた。 「だつて、奉天《ほうてん》は、とても家がなくて、物價《ぶつか》の高い處ですつて、生活出來るかしら‥‥」  といふものもゐた。 「でも、内地《ないち》にゐるより、働き甲斐《がひ》はあると思ふけど、誰か行かない、誰か行けば、私も行くけど‥‥」  同行の士を求めてゐる娘《むすめ》もあつた。  郷子は、山から歸つて來ての苦味《にが》い氣持を忘れるために、自分も奉天《ほうてん》に行つてみようかと思つた。  佐山《さやま》のところで逢つた先輩《せんぱい》の娘だといふ、美しいキヌ子といふライバルを見て、郷子は、色んな意味で、もう、何も彼もに自信《じしん》がなかつた。  岡部へ返濟の金も氣にかゝる一方だつたし、ビラに書いてある、旅費《りよひ》支給《しきふ》の文字にも、何となく、誘惑《いうわく》されて仕方がなかつた。  郷子は座席へかへつて、タイプライターのキイを叩《たゝ》きはじめた。 「植村《うゑむら》さん、どなたか、あなたをたづねて來ていらつしやいます‥‥」  受付の少女が人が來たことを、知らせに來たので、誰《だれ》が來たのかと入口《いりぐち》へ出て行つてみると、學生服の敬太郎《けいたらう》が立つてゐた。 「まア! 敬ちやんぢやないの? どうしたの?」 「藥王寺へ行つたら、こゝだつて教《をそは》つたンで尋ねて來《き》たンですよ‥‥」 「さう、何か用事《ようじ》? 一寸待つて頂戴‥‥」  郷子はそゝくさと支度《したく》をして出て來た。  久しぶりに見る敬太郎は大きくなつて、すつかり大人《おとな》びて逞ましくなつてゐた。 「僕、姉《ねえ》さんに、今夜は何か御馳走《ごちそう》したいな」 「あら、そんなにお金があるの? ――家へ送《おく》つてる?」 「毎月《まいつき》送《おく》つてますよ‥‥」  二人は賑やかな銀座裏へ出て、小さい壽司屋《すしや》へ這入つた。 「家では怒《おこ》つてゐるでせう」 「何ともいつて來ません。――叔母《をば》さんは非常に怒つてゐるさうですよ‥‥」 「さうでせうね、でも、仕方《しかた》がないぢやないの、お父さんも怒《おこ》つてるかしら?」 「お父さんは、親子だもの仕方がないと思《おも》つてゐるでせう‥‥ところで、僕は、今年《ことし》は霞ケ浦の少年航空兵の試驗《しけん》を受けるつもりでゐるンですよ、内海《うつみ》さんに相談に行つたら、何でも教へてやるから、がんばつてみろといつて下すつて、とても、僕《ぼく》元氣《げんき》が出ちやつた‥‥」 「そりやアいゝわねえ、うんとがんばつて頂戴《ちやうだい》‥‥私もね、敬ちやん、いつそ、遠《とほ》くへ行つてしまはうかと思《おも》つてるンだけど、――奉天《ほうてん》にお務め口があるのよ、どうかしら、私、何だかじいつとしてゐられない氣持なのよ、敬ちやんには、姉《ねえ》さんの淋《さび》しさなんかわからないでせうが‥‥」 [#9字下げ]○  郷子は奉天の車輛會社《しやりやうぐわいしや》へタイピストで行かうと思つた。  履歴書を[#底本は字下げなし]書いて、それを教習所に送つておくと、弟《おとうと》から借りた金を、岡部へ返《かへ》しに天文臺へ出掛けて行《い》つた。  日曜日で、岡部は丁度《ちやうど》テニスに行くところだつた。 「やア、いらつしやい、――どうしたんです? わざわざ‥‥」  岡部の部屋《へや》へ這入つて行くと、清楚《せいそ》な洋服姿の雪江の寫眞が机の上にたてかけてあつた。 「信州《しんしう》へ行つたンですつて?」 「えゝ‥‥」 「佐山から手紙《てがみ》が來てゐましたよ」 「何時、あつちへいらつしやるんでせうか?」 「もう、ぢき發《た》つんでせう? 家を引《ひ》きあげて行くらしいンで、中々大變だと云つて來てゐました‥‥」  郷子は青《あを》い空をみてゐたが、何時《いつ》かくつくつとむせて來て、頬に涙が溢れてゐる。岡部は默つて、しばらく郷子の氣持《きもち》をいたはつてやつてゐた。  郷子は子供のやうに手の甲で瞼をおさへ、指で涙《なみだ》をぬぐつてゐたが、ふつと思《おも》ひなほしたやうに、 「何だか、急に涙《なみだ》が出ちやつて――ちつとも悲《かな》しくないのに涙が出ちやつて‥‥」  さう辯解をしながら、郷子《くにこ》は肩をすぼめて淋《さみ》しさうに笑つた。 「そんなに、急にがつかりしちやアいけませんよ‥‥」 「えゝ、――濟みません、何だか、もう、呆《ぼ》んやりしてしまつて‥‥今日《けふ》は、私、ながく拜借したものを、半分《はんぶん》でもと思ひまして、お返《かへ》しに來たンですのに‥‥」 「金ですか?」 「えゝ」 「いゝんですよ、――僕は別《べつ》に返して貰はうと思つて用立《ようだ》てたンぢやないンだから‥‥」 「でも、とても、あれで助かつたのですもの‥‥」 「どうしたンです?」 「弟が持《も》つて來《き》てくれたンですの‥‥」 「まア、そんなお金ならば、とくに、貴女《あなた》、持つていらつしやい‥‥僕《ぼく》は返して貰はうとは思はないし、いま、困《こま》つてゐないから大丈夫ですよ」 「あのね、私、近いうち、ひよつとしたら奉天《ほうてん》へ行くかもわかりませんから、――このお金《かね》はどうしても取つておいて戴《いたゞ》きたいのですけれど‥‥」 「奉天へ何《なに》しに行くンです?」 「車輛會社にタイピストで行くンですけど、條件《でうけん》もいゝし、いまの私の氣持《きもち》としては、東京に、此まゝぢつとしてゐたくないンです。やつと、此頃《このごろ》、弟の方の安定《あんてい》もつけましたし、――少し遠くへ行つて、私《わたし》、家の方へ送れゝば、それで、何《なに》も云ふことはないのですから‥‥」 「そりやア、奉天へ行くこともいゝでせうが、郷子さんの氣持《きもち》としては本當《ほんたう》に行きたいのかなア?」  岡部はどうせ夕方|東京《とうきやう》へ出るのだから、一緒に新宿《しんじゆく》まで出て、ニユースでも觀ないかと誘つてくれた。  岡部は机の上に、石鹸箱や安全剃刀や、鏡《かゞみ》を置いて、髯を剃《そ》りはじめてゐる。 「奉天《ほうてん》へ行くなンて‥‥そんな熱情《ねつじやう》があれば、どうして、郷子さんは釜石へ行かないンですか?」 「えゝ?」 「近いうち、一寸、佐山も東京《とうきやう》へ出て來るかも知れませんがね‥‥僕《ぼく》も、佐山に、いつそ、ついて行つてやらうかとも思《おも》つてゐるンです‥‥」 「――奉天への就職の方は、もう、私《わたし》、願書も履歴書《りれきしよ》も出してしまひましたのよ‥‥」 [#9字下げ]○  佐山が、東北本線《とうほくほんせん》の花卷へ着いたのは、朝の十時頃であつた。  荷物は小さいトランクと、リユツク・サツクにステツキ。花卷《はなまき》は南部領で、明治維新《めいぢゐしん》まで城代のあつたところださうで、如何《いか》にものんびりした驛路である。  驛の前の蕎麥《そば》やの角で曲ると、釜石鐵道の煤《すゝ》けた驛があつた。  連絡には一時間ばかり間があつたので、佐山は角の蕎麥《そば》やに這入つて、そばを註文《ちうもん》した。 「千|人峠《にんたうげ》まで、こゝからどの位ありますか?」  茶を汲んで來た女中に、佐山は釜石《かまいし》までの道中を尋ねてみた。 「さうでございますね、はア、遠野まで三|時間《じかん》かゝりますさうですから、遠野《とほの》から一時間もかゝりますでせうか‥‥」 「へえ‥‥隨分《ずゐぶん》遠いンだねえ――ぢやア、いまから乘《の》つても、夜になつて着くンだね?」 「お客樣《きやくさま》は釜石《かまいし》さ、いらつしやるのですか?」 「うん、釜石へ行くンだけど、その、遠野《とほの》といふところから、笛吹峠《ふえふきたうげ》をバスで行くのがいゝのか、それとも、千|人峠《にんたうげ》を歩いて、鑛山鐵道で釜石《かまいし》へ降りて行くのがいゝのか、いつたい、どつちが便利なンだらう?」 「さア、私、知らないけれど、いま、聞《き》いて來ませう‥‥」  頬の紅いもんぺ[#「もんぺ」に傍点]をはいた女中が、帳場へ釜石行《かまいしゆ》きをきゝに行つてくれた。床《ゆか》のひくい、座敷の框《かまち》に、佐山は腰を降ろして、運《はこ》ばれて來た熱い蕎麥の丼を膝へのせた。  蕎麥を食べ終ると、外套《ぐわいたう》をぬいでリユツク・サツクのなかへそれをしまひ、佐山《さやま》は山越えの仕度を始《はじ》めた。  昨日、日鐵の本社へ寄つた時は、千|人峠《にんたうげ》を越える方がいゝだらうと教《をし》へてくれたので、佐山は、後から來る父達《ちゝたち》に荷物をたのんで、輕々とした恰好《かつかう》で來たのであつた。 「遠野《とほの》も、いま、峠の上は雪がありますでね、自動車《じどうしや》はあぶないかも知れませんですから、お客樣は、はア、やつぱり千|人《にん》さ越えられた方がよろしいさうです‥‥」  佐山は有難うといつて、いよいよ峠越えの覺悟《かくご》でゐた。  驛には玩具のやうな小さい列車が這入つてゐた。狹い車内《しやない》にはストーヴの火が燃《も》えてゐる。  此《この》地方《ちはう》の百姓達や、小學校の教員風な乘客《じようきやく》が、佐山にはなつかしい感じだつた。沿線の小さい驛々には材木が目立《めだ》つて澤山積みあげてあつた。  何といふ河なのか、流れの激しい廣い河が、石床《いしどこ》を蹴つてそう/\と流《なが》れてゐた。  鱒澤《ますざは》といふところでは、出征《しゆつせい》を送りに來てゐたのか、小學生が手に手に旗を持つて野良道を歸つてゆくのを佐山は車窓《しやさう》から眺めてゐた。  ふつと佐山《さやま》は戰地の兵頭から來た手紙《てがみ》に、杉本一等兵が、鐵道修理の際、機關車の急停車で、機關車が蒸氣を噴きあげ、全身火傷をして野戰病院《やせんびやうゐん》へ行つたといふ手紙《てがみ》をポケツトから出して讀みかへしてみた。  杉本一等兵の笑顏が髣髴《はうふつ》として浮んで來る。[#「來る。」は底本では「來る、」] 「釜石《かまいし》へお出でになりますのかね?」  佐山に、鑛夫のやうな男が話《はな》しかけて來た。  遠野を過ぎて、青笹、關口あたりへ來ると車内《しやない》も淋しくなり、乘客も退屈《たいくつ》して來る。 「こんな不便《ふべん》な土地に、よく、釜石《かまいし》のやうな、大きな鑛山を發見したものですねえ、發見したのは、何でも享保《きやうほ》ですか?」  佐山も退屈だつたので、煙草を鑛夫《くわうふ》にすゝめたりした。 「へえ、そんなに古いところでございますかねえ、私は、北海道の輪西《わにし》から來やして、釜石の鑛山へ働《はたら》きに行くところです」 [#9字下げ]○  千人峠の驛へ着いたのは四|時頃《じごろ》だつた。  谷の底のやうな暗い驛から、峠を見上げると、荷物《にもつ》を運ぶ空中のクレインが、佐山《さやま》には如何にも鑛山《くわうざん》へ來たといふ感じだつた。セメント樽《だる》のやうなものを二つ載せて高い空中線を、鉛色の匙のやうなものが、山の彼方《かなた》へ流れて行つてゐる。  茶店で汁粉を食つて、佐山はトランクを驛《えき》から釜石《かまいし》までチツキにすると、リユツクサツク一つの身輕《みがる》さになり、ちらほら峠越《たうげご》えする人達の後から山徑へかゝつた。   あゝゆうべ見た夢《ゆめ》   大《おほ》きい夢だ よいやさ   煙突《えんとつ》ズボンで汽船《ふね》が靴   ソレ汽船が靴《くつ》   みなと釜石、榮《さか》えてゆく  空《から》の駕籠をかついだ駕籠屋が、こんな唄をうたつて山徑《やまみち》を降りて來た。 「先生は左《ひだり》の手をどうなすつたンですかい?」  後から荷物をふり分けにして登《のぼ》つて來た、さつきの鑛夫《くわうふ》が佐山に尋ねた。 「あゝ、これはねえ、戰爭《せんさう》に行つて負傷したンですよ‥‥」 「へえ‥‥今度の戰爭に出征《しゆつせい》なすつたンですかい? そりやア、大變《たいへん》でございましたねえ、――わしの弟もいま廣東《カントン》の方へ行つとりやすが、何の音信もなくて、まア無事に御奉公《ごほうこう》してりやいゝがと心配《しんぱい》してをります‥‥」  珍らしく晴れた天氣で、安外樂な登りであつたが、積雪《せきせつ》の深いのには驚《おどろ》いてしまつた。  佐山は學生《がくせい》の頃、實習に來て、遠野から釜石《かまいし》へ這入つて行つたことはあつたけれど、千人峠を越えるのは初めてであつた。  深い雪を眺めてゐると、積雪《せきせつ》は浮雲のやうに溢れ、林《はやし》の上はからりと霽れあがり、黄昏の前の寒さに襟《えり》をちゞめるといつた、古い漢詩《かんし》を佐山は思ひ浮べてゐた。  時々、積雪をステツキでピシツと拂ひのけながら、佐山は背中《せなか》のリユツクも輕々《かる/″\》と、狹い疎林のなかを登《のぼ》つて行つた。  峠の頂上に着いた時は、もうにぶい光の日輪《にちりん》も沒しかけてゐて、霧《きり》が立ちこめたやうに、山の彼方にちらツと太平洋《たいへいやう》が見えた。  頂上には茶店があつて、着物《きもの》に長靴をはいた三人連れの娘《むすめ》が休んでゐる。  上林の温泉《をんせん》で別れたきり、東京《とうきやう》へ出ても、佐山は郷子に逢つて來なかつたけれど、岡部の話では、郷子は奉天《ほうてん》へ行くのださうだ。  佐山は山の向ふの遠い太平洋を眺めながら、しみじみとした氣持《きもち》を味つてゐた。山《やま》の上での一瞬の感傷《かんしやう》かも知れなかつたけれども、佐山《さやま》は、いまこそ、深く郷子を愛してゐる自分をさとつてゐる。  遠藤氏からキヌ子を貰つてくれないかといふ話も出發《しゆつぱつ》の時にあつたけれど、――佐山《さやま》は、氣持のさだまらない、キヌ子の、少女《せうぢよ》らしい愛情には、幾分閉口してゐて、荒々《あら/\》しい、あの率直な愛情《あいじやう》には、敗けてしまひさうな弱い氣持の時も時々《とき/″\》あつたのだ。佐山はすべてをふりすてゝいまは人生《じんせい》の峠の上に立つてゐる。  しかも、また、現實の上でも、佐山《さやま》はいま、峠の頂上《ちやうじやう》に立つてゐるのだ。 「先生《せんせい》、ぼつぼつ下りませんか? 下りが大變ださうですぜ‥‥」  鑛夫は耳が寒いといつて帽子《ばうし》の上から手拭《てぬぐひ》で頬かぶりをした。 「君、ずつとこつちで働くの?」 「へえ、この鑛山《やま》に友達がをりましてね、それの手引《てびき》で來たンでございます――私達《わたしたち》も、まア、これからは銃後の戰士《せんし》でござんすからねえ‥‥」  若い鑛夫は、思ひがけなく、いゝ音色で口笛《くちぶえ》を吹きはじめた。 [#9字下げ]○  下りは何でもないだらうとたか[#「たか」に傍点]をくゝつてゐたが、頂上から、谷底《たにそこ》の大橋驛までは九十八折《つゞらをり》の凄い下り徑で、輪西《わにし》から來た鑛夫も、佐山《さやま》も、なるほどこれでは仙人峠だわいと驚いてゐた。  ケーブルの唸りと、梢を渡る風の音が森閑《しんかん》とした山にひゞいてゐた。 「君は酒《さけ》はいけるのかい?」 「えゝ、まア、飮む方ですねえ、――先生《せんせい》はどうですい?」 「僕も少しは飮む方だけど此頃、戰爭《せんさう》から戻つては、一|滴《てき》も飮まなくなつたなア‥‥」 「少しは飮《の》んだ方が晴々しませんかね? 何《なに》しろ、八九時間も穴の中へへえつてゐるんですから、外へ出《で》たときア、キユーツとやりたくなりますね‥‥」  遠い谷底に、鑛山の燈火がキラ/\光つてゐた。佐山《さやま》は鑛山の燈火を眺《なが》めて、こんな山間僻地に住んでゐて、營々《えい/\》と地脈を掘りあてゝゐる人達《ひとたち》に、泌みるやうな尊敬を持つた。  こゝは、新山《しんざん》と、佐比内の採鑛場を總稱して、鑛山《くわうざん》と云はれてゐた。 「先生はづつと、釜石《かまいし》の町までお下りですかね?」  佐山達が、鑛山の大橋驛へ下りたのは日の暮れであつた。鑛石《くわうせき》をよる女工達が驛の線路《せんろ》づたひに山の上から戻《もど》つて來てゐる。  驛の後にある鑛山事務所《くわうざんじむしよ》の燈火が皎々と活氣を呈《てい》してゐた。  佐山はこゝで、峠越えをして來た鑛夫と別れて、日本《につぽん》では東京横濱間の次に敷設《ふせつ》されたと云ふ、歴史的《れきしてき》な鑛山鐵道で、釜石《かまいし》の町へ下りて行つた。  釜石は昭和十二年五月五日に市制をしかれ、新しい「市《し》」になつたところで、この戰時下《せんじか》にます/\發展《はつてん》してゐる町になつてゐた。明治《めいぢ》の初年に、鑛山が國營となつてから、海路もとみに開けて、今日の發展までには、この釜石は三|陸海岸《りくかいがん》の主要な港であり、此頃《このごろ》はさかんに外國船も港《みなと》にはいつて來てゐるやうである。  佐山は製鐵所《せいてつじよ》直營《ちよくえい》の鈴子旅館と云ふ宿に泊つた。  太平洋の海風が吹きつけるのか、空氣《くうき》は凍るやうに冷くて、雪の山越《やまご》えをして來た佐山には、肩の創口《きずくち》が一寸づきづきする氣持だつた。  大きな薪のやうな炭火《すみび》が、火鉢にいつぱい熾《お》こつてゐる。夕食《ゆふしよく》が濟むと佐山は外套を肩へひつかけて戸外《こぐわい》へ出てみた。  製鐵所の工場の中では窓々に燈火が皎々《くわう/\》とついてゐるし、鐵を打つ音《おと》が、があん、があんと大きく四圍に響《ひゞ》いてゐる。  熔鑛爐の炎は、谷間の暗い町の上に、明《あか》るい火の粉を散《ちら》してゐる。  佐山は小高《こだか》くなつた町はづれの、丘《をか》の方へ上がつてゆきながら、華々しく火を噴いてゐる熔鑛爐の炎を眺めてゐた。青い炎、赤い炎、町の賑やかな燈火《あかり》、暗い丘の上から町《まち》をみてゐると、さながら、上海《シヤンハイ》の夜のやうにも思《おも》へた。――ガーデンブリツヂをへだてゝ外人租界の灯の華々しさを、上海の病院を去る前日眺めたことがあつたけれど、佐山は、まるで支那《しな》にゐるやうな錯覺《さつかく》でゐた。  永久《えいきふ》に消えることなく絶ゆることなく燃《も》えつゞけて來てゐる熔鑛爐の炎を眺めて、佐山は、 「よオーし、もりもり働《はたら》くぞオ‥‥」と云つた。  力の湧くやうな氣持だつた。よし、躯《からだ》は傷つくとも、この精神力《せいしんりよく》で、「鐵」をつくらなければならない‥‥明日は、遠藤氏の添書を持つて製鐵所《せいてつじよ》へ行くのだけれど、自分《じぶん》の傷ついた躯について、佐山は、一|瞬《しゆん》荒涼《くわうりやう》としたおもひを感じてもゐた。  宿へ戻つて來ると、製鋼課技師の尾形と云ふひとの名刺《めいし》が、佐山の部室《へや》に置いてあつた。 「何《なん》だか、一寸《ちよつと》待《ま》つてみるとおつしやつてましたけど、さつきお歸りになりました」  風呂を知らせに來た女中《ぢよちゆう》がさう云つて來た。 [#9字下げ]○  旅館は製鐵所《せいてつじよ》の直營なので、どの部室《へや》も、鑛山や製鐵所關係の客でいつぱいだつた。  佐山の部室にも、相部室《あひべや》の客が遲く着いて、女中《ぢよちゆう》[#「ぢよちゆう」は底本では「ぢよゆちう」]があわてゝ佐山の寢床《ねどこ》のそばにもひとつ寢床を敷いた。  帝大の經濟《けいざい》を今年卒業で、卒業前《そつげふまへ》に早々とやつて來たのだという青年が、佐山と同じやうにリユツク姿《すがた》で這入つて來た。  その青年は蟇目明治《ひきめめいぢ》といふ名刺をくれた。 「僕は製鐵所の文書課《ぶんしよくわ》の方へ入るンです」  蟇目青年は朗かに佐山に話《はな》しかけて來た。 「仙人峠《せんにんたうげ》を越えて來ましたか?」  佐山が尋ねると、蟇目は宿の褞袍《どてら》に着替へながら、 「いや、朝がた越えたのですが、社宅に知人《ちじん》があつて、いまゝでそこで御馳走《ごちそう》になつてゐたンです。――貴方も製鐵所《せいてつじよ》へお勤めですか?」 「はア、僕も製鐵所へ來たンですが、まだ、所長《しよちやう》に逢ふといふ難關《なんくわん》があるンで、うまく入れるかどうか‥‥」 「いや、同樣《どうやう》ですよ、何でも、文書課長《ぶんしよくわちやう》といふひとが非常に面白い人物で、このひとの人物試驗にパスすれば大丈夫《だいぢやうぶ》なンださうですよ‥‥」  二人は火鉢《ひばち》を圍み、人生を論じ、社會《しやくわい》を論じあつた。 「僕は學校を出たてに、人生の搖籃地として、釜石《かまいし》に來られたことは愉快《ゆくわい》でならないんです。――本社《ほんしや》で、釜石へ行けといはれた時は一寸《ちよつと》吃驚《びつくり》しましたがね、峠を越えてあの深い谷底を二粁も曲《まが》りくねつて降りて來る時は、實際《じつさい》考《かんが》へざるを得なかつたのですよ。今日も先輩の友人が、明日、課長に逢つたら、すぐ、お前は人と喧嘩《けんくわ》をしたことがあるか、人を毆《なぐ》つたことがあるかと尋ねるかも知れない。君《きみ》は、さういふ時、どう答《こた》へるかといふンです。――課長はこの製鐵所に十六年もゐるひとで福岡《ふくをか》の人なンださうですが、中々の人格者《じんかくしや》ださうですよ‥‥」  喧嘩《けんくわ》をしたことがあるかと、のつけ[#「のつけ」に傍点]に聞くといふ課長《くわちやう》の人となりを、佐山は面白いと思つた。佐山が戰爭《せんさう》へ行つた話をすると、 「さうですか、戰爭へ行かれたのですか?――だけど、負傷《ふしやう》をされて、よく、こんな鑛山《くわうざん》の製鐵所で働かれる氣持《きもち》になりましたですねえ?」  と蟇目がきいた。 「いや、負傷《ふしやう》といつたところで大《たい》したことぢやアないですよ、――僕は負傷をしたからといつて、それが手柄だとも何とも思つてゐないし、むしろ殘念《ざんねん》に思つてゐる位です。内地《ないち》へ戻つて來ても氣に食はないのは、世間《せけん》が、傷病兵を概念的《がいねんてき》にとりあつかつて、消極面にのみ働かせようとしてゐることですよ。僕は、それが厭なンだ。手のないもの、脚《あし》のないもの、眼《め》の見えないもの、それ相當《さうたう》に、積極的な働きは出來《でき》ると思ふのです。――この頃、新聞を見ると、軍需工場に働いてゐるものは景氣がいゝから貯金《ちよきん》しろとか、出てゐるぢやアありませんか。平和産業《へいわさんげふ》にたづさはつてゐる者の百圓と、軍需工場《ぐんじゆこうぢやう》に働いてゐる者の百圓は同じなンだ。平和産業《へいわさんげふ》にゐる者だつて浪費《らうひ》をしてゐる者があるかも知れない。小楊枝《こやうじ》でほじくるやうなことをしないで、もつと、總體的《そうたいてきに》に、積極的に、この戰時《せんじ》は乘りきらないと、僕は、いまにひどい目にあふンぢやないかと思ひますね。――政治にしても、文化《ぶんくわ》にしてもこの頃はたゞ「天《てん》」はかうだと小さい聲でいふきりで、本當《ほんたう》の「人」を教へないから、肚《はら》の底から、僕達は希望が持てないンぢやないかと思ふンです、――手脚のない負傷兵《ふしやうへい》だつて、僕はぐん/\積極的《せつきよくてき》に働けると思ふし、兵隊だつて、働きたい希望《きばう》の者が多いと考へてゐます‥‥」 [#9字下げ]○ 「負傷した兵隊《へいたい》だつて、ぐん/\積極的《せつきよくてき》に働けることが出來ると思ふンです。それを、消極的な勞《いたは》られ方をするのは實に不快ですからねえ。負傷《ふしやう》したからといつて、小手先の事を急に教へこまれるのは厭《いや》ですよ。むしろ「人《ひと》」をつくつてほしいと思ふンですが、どうでせうか? 負傷《ふしやう》したからといつて、急《きふ》にげそつ[#「げそつ」に傍点]となるやうなのは、これから社會《しやくわい》に出たつて結局駄目なんです‥‥左の手がなければ、右の手で働ける仕事や能力は出ると思ふし、不具者《ふぐしや》になればなる程、積極的《せつきよくてき》な熱情が燃えなければ、僕《ぼく》はむしろ戰死《せんし》をした方がよかつたと思つてゐます。――東京の陸軍病院にゐた時、脚のない男で、小學校《せうがくかう》の教員志望の兵隊《へいたい》がゐましたが、僕はどん/\やつてみろと勢ひをつけてやつたンですが、この間も、うまく這入《はい》れさうだといふ手紙《てがみ》をよこしてました‥‥」  佐山《さやま》の眼はきら/\燃えてゐた。  蟇目は純眞な表情で、佐山の言葉《ことば》を聽いてゐる。 「僕は、かうして、左の腕が全然《ぜんぜん》駄目《だめ》なンですが、エンジニヤとして、完全《くわんぜん》に仕事をしてみようと考へてゐますし、努力してみるつもりでをります。やらうと燃《も》えたつてする精神《せいしん》は、科學だつて何だつて、不具者《ふぐしや》だつて負けやしないと思《おも》ひますよ、――いつたい、この社會が、何時まで、僕達のこの負傷を記憶《きおく》してくれてゐると思ふンです? 要《えう》するに長く記憶してくれるのは、この躯《からだ》で働いた僕の「仕事《しごと》」だらうと思ふンです。――僕は、戰場から轉々と病院をうつゝて東京まで戻つて來ましたが、僕は、社會の樣々《さま/″\》な勞りを全身に浴びながら、肚《はら》の底では、實に將來《しやうらい》への反省で、欝々《うつ/\》としてゐたのですからねえ、――この間もある、小説家が、傷病兵を慰問したら、案外暢氣さうで朗らかだつたので吃驚《びつくり》したと書いてありましたが、僕達《ぼくたち》は、戰場でたふれた當時《たうじ》の氣持を忘れないし、そんなに何時《いつ》までもじめ/\してゐられませんよ、――女性の慰問者だつてさうですからねえ、僕達がしんこく[#「しんこく」に傍点]な顏をしてゐないのでがつかりしたといふやうな、馬鹿《ばか》げた事をいふ奴もゐて、本當《ほんたう》の肚の底の氣持は淺い頭の人間には汲みとれないンです‥‥」  夜はだん/\更けて來た。二人《ふたり》の話は盡きなかつた。  大學を出たばかりの、純眞な蟇目に、佐山は好感《かうかん》をもつて話すことが出來《でき》たし、かうした、僻地の鑛山《くわうざん》で大學を出たばかりの男と部屋《へや》をともにしたことを、佐山は實に愉快だと思つてゐた。 「佐山さんはお故郷《くに》はどちらですか?」 「僕ですか、信州《しんしう》です‥‥」 「あゝ、さうですか、僕は廣島《ひろしま》ですよ‥‥」  蟇目はリユツクから、廣島から持つて來たのだといつて、艷々《つや/\》としたネーブルを出《だ》して來た。  蜜柑《みかん》の香りがぷんと鼻《はな》をかすめた。  蟇目はまだ少年らしい面影があつて、笑《わら》ふと、皓い齒が清潔《せいけつ》だつた。 「獨身者は、里仁寮《りじんれう》といふのに這入《はい》るンださうですが、佐山さんは結婚してをられるのですか?」 「ははは‥‥まだ獨り者です、その里仁寮組《りじんれうぐみ》ですよ。――そのうち暖かくなつたら、親爺《おやぢ》がやつて來ることになつてゐます‥‥」 「知人《ちじん》の話によりますと、釜石《かまいし》といふところは、いまのところ、家も部屋もないさうで、一軒の家に三世帶も、四|世帶《しよたい》もゐるんださうですね‥‥」 「さうでせうねえ‥‥狹いところにぎし/\の感《かん》じでしたよ、――さア、明日《あした》はその難關の課長に逢つて、喧嘩《けんくわ》をしたかと尋《たづ》ねられますかね、――どうです? 釜石の生活も何だか僕は非常に愉しいと思《おも》ふンですがねえ‥‥」 [#9字下げ]○  佐山も蟇目《ひきめ》も六時には飛び起きた。  釜石といふところは烏《からす》の澤山ゐるところなのか、窓《まど》に迫つた低い山のあたりで實に騷々《さう/″\》しく烏が鳴《な》いてゐる、  ううううう‥‥と、山脈に木靈するやうに工場の六時の汽笛《きてき》が響きわたり、佐山は爽快《さうくわい》な朝を感じた。  太平洋《たいへいやう》の汐風を含んだ朝の冷い空氣《くうき》を吸つて、佐山は廊下で深呼吸をしてゐる。 「今日は新社員《しんしやゐん》が大分這入るらしいですね」  蟇目はさういひながら鏡臺《きやうだい》の前でネクタイを結んでゐる。  軈て食事が運ばれ、佐山も蟇目も思ひ思ひに、今日《けふ》會《あ》ふ課長のことを考《かんが》へてゐた。 「佐山さんは喧嘩《けんくわ》をしたことがありますか?」  蟇目が尋《たづ》ねた。 「さうですね、喧嘩なンか厭だし、人を毆《なぐ》ることもつまらんことだが、また、喧嘩《けんくわ》も、人を毆ることも出來《でき》ン奴もつまらんですね、――まア、昔《むかし》はよく喧嘩をした方かな‥‥」 「僕は人を毆らうと思ふと震へて仕方《しかた》がないですよ‥‥」 「それでいゝンですよ、課長《くわちやう》が訊いたら、さういへばいゝぢアないですか、はははは‥‥」  仕度が出來ると、二人は製鐵所へ出掛けて行つた。宿《やど》を出ると、目の前に工場《こうぢやう》の煙突が林立してゐて、黄色《きいろ》や、灰色、紫色、茶色と、色々《いろ/\》な煙がもく/\と晴れた空にたなびいてゐる。鐵を打つ音もしてゐる。元氣さうな職工達《しよくこうたち》も工場へ急いでゐる。  佐山は課長《くわちやう》に會ふ前に、遠藤に紹介《せうかい》された製鋼課技師の尾形氏に會ひたいと、受付で名刺を通じて貰ふと、尾形氏《をがたし》はすぐ玄關へ出て來てくれた。緑の國防服《こくばうふく》を着て、戰鬪帽のやうな帽子をかぶつた尾形氏は、京都帝大を出て、この釜石《かまいし》に十年エンジニヤとして働《はたら》いてゐるといふ地味な人物《じんぶつ》であつたが、その風貌《ふうばう》は少年のやうに初々しく感じのいゝ人であつた。  白壁の廣い事務室のなかは、まるで、大《だい》ビルデイングのホールのやうで、事務《じむ》をとつてゐる人達の机が一目に見渡《みわた》せる。 「遠藤さんから、くはしい手紙《てがみ》が來てゐましたので、私は愉《たの》しみに待つてゐたんです」  遠い山川《やまかは》を越えて來た佐山には、尾形氏《をがたし》のこの言葉は無量な嬉しさだつた。 「傷ついた躯ですが、一|生懸命《しやうけんめい》働いてみたいと思《おも》つてゐます‥‥」 「やつて下さい! 帝大を出られたンださうですね? こゝにも、三、四人、貴方《あなた》の先輩がゐられますよ、製鐵課長《せいてつくわちやう》の久慈さんといふ方《かた》もさうですが、いづれ、あとで御紹介しませう‥‥」 「昨夜《ゆふべ》は宿へお出で下さいましたさうで‥‥」 「えゝ一寸、旅館のホールで會があつたものですから、女中《ぢよちゆう》に訊いてみたンです、散歩《さんぽ》に出られたとかで‥‥」 「失禮《しつれい》いたしました」  尾形氏《をがたし》は時計を見てゐたが、ちよつと課長《くわちやう》に僕から通じませうといつて、佐山を課長室に氣輕に連れて行《い》つてくれた。  課長は兵頭一夫といふ人で、もう、この釜石《かまいし》に十六年もゐるのださうである。佐山《さやま》が空想してゐた人とはまるきり正反對《せいはんたい》の、温厚な紳士で、兵頭氏も國防服《こくばうふく》を着てゐた。頭髮は白髮がまじつて、實《じつ》にハイカラな感じの人である。 「昨夜來たンですか? 君《きみ》はどつちのコースを取つて來《き》たの?」 「仙人峠《せんにんたうげ》を越えて來ました‥‥」 「あゝ仙人峠をねえ、僕も十六年前、あすこを駕籠《かご》で越えて來たものだ、仙人峠《せんにんたうげ》を越えたのならばきつと、あすこで、何か考《かんが》へたに違ひない‥‥」 [#9字下げ]○  佐山は尾形氏《をがたし》の盡力で、いよ/\製鐵所《せいてつじよ》にエンジニヤとして正式に働くことになつた。  二日目には、旅館を引きはらつて、獨身者《どくしんしや》の寮になつてゐる里仁寮《りじんれう》に移つた。  町には貸家《かしや》だの空部屋がないといふので、暖《あたゝ》かになるまで、父の出發を見合はせさせ、佐山は文書課に入つた蟇目と共に、里仁寮で、相部屋《あひべや》の六疊を割りあてられた。  狹い廊下には、二階にも階下にも、スキーや、かんじき[#「かんじき」に傍点]や、リユツク・サツクが置《お》いてあつた。  部屋々々の書棚《しよだな》には、バルザツクもトルストイも、鑛石《くわうせき》も數學も雜居で、「青年」の部屋にふさはしい新鮮《しんせん》なものが佐山に感じられた。蟇目《ひきめ》は送つて來た新しい行李に腰をかけて、 「さて、釜石といふところには、可愛《かあい》い娘がゐるでせうかね、――美《うつく》しい娘のゐるところに青春あり、青春《せいしゆん》のあるところに成長ありですよ‥‥」  と、面白《おもしろ》いことをいつてゐる。  佐山は一應部屋の中が片づいてしまふと、晝から尾形氏《をがたし》の案内で製鐵所《せいてつじよ》のなかを見せて貰ふことになつてゐたので、一人で工場《こうぢやう》へ出掛けて行つた。  尾形氏は平爐《ひらろ》にゐるといふので、佐山が工場《こうぢやう》のなかの平爐のところへ上《あが》つて行くと、尾形氏は紫眼鏡《コバルトグラス》で、地獄《ぢごく》のやうに炎を卷きあげてゐる爐の火色《ひいろ》を、職工達と一心に視つめてゐるところであつた。 「いらつしやい、もう、ぢき、取鍋《とりべ》に流し込むンですよ‥‥」  紫眼鏡をかけた熟練工が、千八百度の高度《かうど》に煮えたぎつてゐる爐の炎《ほのほ》を見てゐる。  一人の職工《しよくこう》が、柄の長い鐵の柄杓《ひしやく》で、開けてゐる裝入口扉から、試料《サンプル》として少量の熔鋼を汲み取つてゐる。こまかい火の粉が、花火《はなび》でも見るやうに柔い線を描《ゑが》いて飛び散る。その煮えた鐵の湯を固《かた》めて水に浸すと、それを職工達は尾形氏《をがたし》のところへ持つて來て、鋼質を檢査して貰ふのだ。 「これから、マンガンを投入《とうにふ》します」いよ/\出鋼口から取鍋へ、壯麗《さうれい》な湯出しをするのだと、尾形氏は、脱酸の説明まで佐山に説明《せつめい》してくれた。  軈て、突棒で出鋼口の孔が開けられると、耐火粘土《たいくわねんど》で出來た樋をつたはつて、溢《あふ》れるやうな勢で眞赤《まつか》な鐵の湯が大きな圓筒《ゑんとう》のやうな取鍋に流しこまれた。  取鍋《とりべ》に流れ込む湯出しの火の粉《こ》があぶないので、みんな階下へ降りて、取鍋から遠く離れた。下から見る赤い湯瀧は、まるで日輪《にちりん》が湧き溢れるやうな華麗《くわれい》なものだつた。 「夜なんか、かうして湯出しをしてゐると、時々《とき/″\》濱《はま》から海猫が飛んで來て、此《この》取鍋《とりべ》の火のなかへ飛び込《こ》むことがあります」  尾形氏は紫眼鏡を胸のポケツトに大切《たいせつ》にしまひながら、佐山にそんな話《はなし》もしてくれた。 「鳥なんかいつぺんに消《き》えてしまふでせう?」 「いや、それがねえ、一寸《ちよつと》の間だけれど、中々《なか/\》煮《に》えないで黒い點になつて浮きあがつて來ますよ、火力《くわりよく》が強いので、よせつけないンですね‥‥」 「さうですかねえ、僕はまた、あなやもなく霧消《むせう》するのかと思《おも》つてゐました」 「霧消《むせう》はよかつたなア、――ところで、これから僕達《ぼくたち》が困るのは防空演習の時ですよ、如何にして、この大きな炎を隱すかといふので、防空演習《ばうくうえんしふ》の時は、僕達も職工も決死の覺悟《かくご》でやるンです、――夏《なつ》なンか、工場の中では何人《なんにん》かばた/\たふれる職工がありますが、ちらつとも火炎が外にもれないのですからねえ、その時は、この製鐵所《せいてつじよ》は戰場と同じですよ、熔鑛爐《ようくわうろ》の炎さへ見えなくしてしまひます‥‥」 [#9字下げ]○ 「この取鍋《とりべ》は、外側は鐵板で覆はれてゐて、内側は耐火煉瓦《たいくわれんぐわ》で裏積してありますが、この種類の取鍋で、最も重要な所は、湯口《ゆぐち》と、ストツパーの部分ですね、――熔鋼《ようかう》の漏れないやうに、擦り合せを十分完全にして、開閉を順調にする注意が大變です‥‥」  佐山は、尾形氏《をがたし》の説明をきゝながら、取鍋に溢れこぼれてゐる眞赤な鐵の湯瀧《ゆたき》に、精神をゆりうごかされるものを感じてゐた。  尾形氏は、生れながらのエンジニヤらしく、默々《もく/\》とした地味な態度《たいど》で、 「いまは、我々《われ/\》も職工も、銃後の戰場《せんぢやう》といつた氣持ですよ。上の方から、何をつくれといふ命令は一つもありませんが、たゞ、默々として、私達《わたしたち》は毎日かうして鐵を研究《けんきう》して、鐵を造つてゐます。職工《しよつこう》もいま一生懸命です‥‥だから、熟練工《じゆくれんこう》が戰場へとられてしまふと困つてしまひますよ」 「釜石鑛山の鐵の埋藏量《まいざうりやう》は豐富なンでせふか?」 「そりやア豐富ですね、實に優秀《いうしう》なものです」  佐山はコツトレル式電氣收塵裝置も見せて貰つた。こゝは、熔鑛爐《ようくわうろ》から出る瓦斯《ガス》のうちに、澤山含有してゐるダスト(煙塵《えんぢん》)を除くために、高爐《かうろ》の瓦斯を、高壓放電中を通過させて、ダストを集積《しふせき》沈下《ちんか》させるところだ。 「佐山君はあつちで大冶《だいや》鐵山《てつざん》を見て來たの?」 「いゝえ、見て參りませんでした。私達《わたしたち》の時は、まだ徐州戰《じよしうせん》の前でしたから‥‥」 「あゝさう、大冶《だいや》も中々規模が大きいらしいですね」 「私も、負傷《ふしやう》しないで、もつと支那《しな》にゐたのでしたら、專門がその方ですから、大冶鐵山までは長驅して、自分も何とか、そこで働《はたら》いてみたいと考《かんが》へてゐたのです‥‥」 「私《わたし》も、一度何とかして、大冶《だいや》鐵山《てつざん》には行つてみたいと思つてゐますがね‥‥」  製鐵所の中は廣くて、どの部署も脈々と活氣《くわつき》が流れてゐた。熔鑛爐へぐる/\と、運《はこ》びこまれるベルトコンベアの上の鑛石《くわうせき》の流れ、構内に敷かれた澤山《たくさん》のレール、山と積まれた鐵材――壓延工場のロールで、ネオンサインのやうに壓延《あつえん》された火の帶、佐山は部署々々《ぶしよ/\》を一つづゝじつくりと見て行つた。  丸鋼とか、山形鋼《やまがたかう》、溝形鋼、鋼板、軌條《きでう》なんかに造られた鐵製品が、壓延工場のまはりに澤山積みあげてある。  その夜、佐山は寮へ戻つて、岡部へ手紙《てがみ》を書いた。自分は十年でも、二十|年《ねん》でも、この釜石に住んで、いゝエンジニヤになりたいと思《おも》ふし、一つ、釜石の鐵通信《てつつうしん》をこれから、度々書き送らうと書いた。  ダニエル彗星《すゐせい》再發見《さいはつけん》も大切なことだらうが、鐵の研究《けんきう》報告《ほうこく》もまた、君のやうな男には愉しみに待つて貰へると思《おも》ふともつけくはへた。  隣室ではレコードで、青《あを》きダニユーブがきこえて來る。  佐山は、鐵を眺めてゐるうちに、いつの間にか十年をこゝで過《す》ごしてしまつたといふ素朴《そぼく》な尾形氏の言葉《ことば》に共感を持てたし、自分も仙人峠《せんにんたうげ》で思ひ噛みしめた感情をいつまでも忘れまいと思つた。  蟇目は鑛山へ友人を訪ねて來たのだが、あの鑛山《くわうざん》の中に、思ひがけないやうな立派《りつぱ》な人物が澤山ゐるのに驚《おどろ》いた驚いたといつてゐた。 「僕は釜石へ來て、淋しい處へ來たと驚いてたンだが、今日《けふ》鑛山《くわうざん》へ登つてみて、また驚《おどろ》いちやつたンですよ、社宅《しやたく》と事務所と、坑道《かうだう》しかないやうな淋しい山の中に、逢ふ人、逢ふ人がみんな立派な人物で、社員も坑夫も「總親和《そうしんわ》」といふンですかねえ‥‥あいあいとしてゐるンですよ」 [#9字下げ]○  佐山が、釜石の製鐵所《せいてつじよ》へ來て、丁度一ケ月たつた。  釜石の町も、何となく春めいて來て、からりと晴《は》れた日が續《つゞ》いた。  今夜は、里仁寮《りじんれう》にゐる、若い新社員《しんしやゐん》に、文書課長が、鈴子旅館の食堂で、夕食を御馳走してくれると云ふので、若い社員《しやゐん》はみな張りきつてゐた。  佐山は蟇目とゝもに、早々とホールに出て課長《くわちやう》の來るのを待つた。 「里仁寮《りじんれう》と云ふのは、いつたいどんな意味《いみ》なンです?」  誰かゞ、古參のものに、里仁寮《りじんれう》の由來を尋ねてゐる。 「さア、何でも、論語の中とかにある文句《もんく》ださうでして、道徳《だうとく》のあるところに、かならず里ありとか云ふンんだときゝましたよ‥‥」  佐山も蟇目《ひきめ》も、そんな意味の里仁寮なのかと感心《かんしん》してゐる。  軈て、課長《くわちやう》が和服姿で食堂へ出て來た。  長身の如何にも紳士と云つた感じの兵頭課長《ひやうどうくわちやう》は、 「いや、今晩は、諸君と、飯でも食ひながら、氣樂に、この鑛山《くわうざん》の感想や將來を話《はな》しあひたいとこんな會《くわい》をつくつたのです、――みんな、のんびりと話して下さい」  と、若い社員にへだて[#「へだて」に傍点]のない挨拶《あいさつ》をした。  卓上《たくじやう》にはチユーリツプや、金蓮花の花が活けてある。  佐山は蟇目《ひきめ》と並んで課長の側の卓子についた。 「私は、この釜石に丁度十六年ほどゐますが、住めば都《みやこ》で、こゝが私にとつて一|番《ばん》なつかしい住みいゝ土地《とち》です、――私はこゝへ來て、製鐵所《せいてつじよ》のものすべて、一家族だと云ふことを説いて來てゐますせゐか、諸君は、こゝへ赴任《ふにん》して來られて、親しみの深《ふか》いなごやかなものを感じられたらうと思ひますが、どうでせうか‥‥」  若い女中達《ぢよちゆうたち》が、卓子へ和食の膳を運《はこ》んで來た。  課長の横顏を見てゐた佐山は、ふつと、戰場《せんぢやう》の兵頭のことを思出《おもひだ》してゐた。おもかげは似てゐないけれど、名前《なまへ》が同じせゐか、佐山は林檎《りんご》の兵頭を思ひ出して眼頭が熱くなつてゐた。  林檎の兵頭はまだ戰場から戻つて來てゐない、自分《じぶん》だけが、悠々と戻つて來《き》てゐるやうに思へて、佐山は苦しい氣持《きもち》でゐる。  課長は續《つゞ》けて云つた。 「よく、製鐵所なンかにも、實習生や偉い參觀人がやつて來ますが、案内《あんない》してゐると、かならず從業員《じうげふゐん》は何人ゐるかと聞くンですね、私《わたし》は、そんな淺い質問は感心しないのです。職工や鑛夫の人數をきいて、事業の規模をきめようとするが、何も、職工《しよくこう》や鑛夫の數が多《おほ》いばかりは自慢にならない、人數《にんずう》はなるべく少い方がいゝと思《おも》つてゐます。――末梢的な枝や葉ははらひ捨てゝこの事業は根本《こんぽん》の幹がぐんぐん太く逞しくならなければいけない、それには、どんな事業《じげふ》だつて、事業本體《じげふほんたい》の根本を見詰めて、指導精神《しだうせいしん》を植付けなくてはなりません。たゞ、職工や鑛夫なンかにいまは戰時だから、緊張しろ、奮鬪《ふんとう》せよと云つたところで、いつたい、どの方向《はうかう》にむいて緊張努力《きんちやうどりよく》するンだか、方向のない樂しみのない仕事《しごと》は、どんなに賃金がよくても滿足がないと思ひます。――即ち、この製鐵所はかうするのだと云ふ、共同目標《きようどうもくへう》を示さなければ働《はたら》くものは、夢中《むちゆう》だけでは息が續かない、事業《じげふ》もまた教育だと、私は考へてゐる者です。教へたり教へられたりですよ、だから、私は、今夜、諸君《しよくん》からも、大いに心持《こゝろもち》をきゝたいと思つてるのです。云つて惡いことはないかと云つた、諸君の學校《がくかう》で受けた消極教育はさらりと、太平洋《たいへいやう》の海に捨てゝもらつて、何《なん》でも吐露して私を教《をし》へて下さい。こゝには、戰場から戻られた、吾等の戰友もゐられるし、私は、今夜《こんや》はよい會をしたいと思ひます‥‥」 [#9字下げ]○ 「私は帝大の經濟《けいざい》を出たものであります。この一|週間前《しうかんぜん》に、仙人峠を越えて來たのでありますが、どんなに山《やま》を降りても、山を降りても谷底の鑛山《くわうざん》へたどりつけない時の、あの氣持を生涯忘れることは出來ません――いまかうして課長のお話をきゝ、私《わたし》も、こゝへ來るまでは、釜石《かまいし》に就いての數量ばかりを勉強《べんきやう》して來たことを恥《は》づかしくおもひます。作業概要とか、製品の數量とか、施設なんかを勉強してみましたが、さつきも、佐山《さやま》さんが云はれましたやうに、鑛山事業《くわうざんじげふ》は、年と共に生長《せいちやう》して、生々脈打つて活きて進《すゝ》んでゐるとおつしやつた言葉に、大變教示されるものがあり嬉しくおもひました‥‥」  新しく來たばかりの、おろしたての背廣を着てゐる社員《しやゐん》が立つて素朴な表情《へうじやう》で話してゐる。  さつき佐山《さやま》は指名されて、戰場での氣持《きもち》や、傷病兵として内地へ歸つた時の寂莫さや、いよいよ製鐵所へ來てからの氣持を正直に話して、課長《くわちやう》や青年達の感激《かんげき》をかつた。 「――私達《わたしたち》は、たゞ事業だけでも生長《せいちやう》出來《でき》ないと思ひますし、また、分析だけでも生長は出來ないと思ひます。分析は進歩の爲の研究であり、これを綜合《そうがふ》して、改善進歩への推進力《すゐしんりよく》を與へなければならないと思《おも》ひます。こゝには色々な部門《ぶもん》を出た方があつまつてゐられて、大變愉快なンですが、分析と綜合、これをくりかへして、事業《じげふ》に向つていけたら、課長《くわちやう》の云はれる、内容の充實《じうじつ》に向へるのではないかと思《おも》ひます‥‥過去の寫眞を見て、その寫眞を眺め暮す必要はないのです。事業《じげふ》も山も生々《せい/\》脈打《みやくう》つて生きてゐるところに面白さがあり、私は、この仕事に這入つて來られた自分を愉快《ゆくわい》に考へるのです」  佐山の挨拶《あいさつ》はこんなものであつた。  課長は滿足さうな表情《へうじやう》だつた。  軈て、ビールが運ばれ、課長は、歌ふもよし、喋《しやべ》るもよしと云つて、女中《ぢよちゆう》にビールをつがしてまはつた。 「諸君は春風《はるかぜ》のやうなものだ。非常《ひじやう》に今夜は愉快です‥‥まア、これから、サラリーマンとしての第一歩だが、この土地は幸ひに大都會でなく、末梢的《まつせうてき》な精神過勞もなく、諸君《しよくん》をしなびたサラリーマンにはしないと思ひます。鑛山《くわうざん》に來たからには、皆、大馬鹿《おほばか》にならないと駄目、小利巧では發展《はつてん》しない。佐山君の云はれたやうに、仕事上《しごとじやう》には鐵の命令系統を守つて、氣持の上では春風の如く、しかも、こゝは銃後の戰場《せんぢやう》であると云ふ氣持を持つて貰《もら》へば何も云ふことはない。私《わたし》はとても嬉しくて萬歳《ばんざい》を叫びたくなります‥‥」  一座のものも、しなびたサラリーマンになるなと云ふ言葉《ことば》には同感《どうかん》であつた。  その夜、佐山《さやま》は、蟇目とゝもに、海岸通《かいがんどほ》りを散歩してみた。 「ねえ、佐山《さやま》さん、こゝは女《をんな》の少ないところなンですねえ?」 「そんなことはないでせう‥‥」 「あゝ、僕《ぼく》は、どうも、美しい女性《ぢよせい》に逢ひたい。いなづまやこの傾城にかりまくらか‥‥海岸通りはいやに暗《くら》いですねえ」  魚市場まで行つて、再び税關の方へ引きかへし、二人《ふたり》はぶらぶら只越《たゞごえ》の賑やかな方へ散歩をこゝろみた。  霧がたちこめてゐて、四圍は森閑《しんかん》としてゐる。映畫館の前で、佐山は郷子《くにこ》によく以た女の後姿を見た。胸さわがしいものを感じて、佐山は女《をんな》の行く方へふらふらと追つて行《い》つてゐたが、こつちを振《ふ》りかへつた女の顏《かほ》は郷子とはまるきり違つてゐた。  蟇目はにやにや笑《わら》ひながら尋ねた。 「知つてるンですか?」 「いや、後姿《うしろすがた》がよく以たひとがあつたンで‥‥」 「この夜霧《よぎり》のせゐですね‥‥」 「實際、人間の氣持と云ふ奴は我がまゝなものだ‥‥あの女は吃驚《びつくり》してゐましたよ」 [#9字下げ]○  小見山《こみやま》と律子は、東京でさゝやかな結婚式《けつこんしき》を濟ませると、律子の古里である佐賀に立ち寄り、昨夜、二人はやつと、長崎の平野屋《ひらのや》旅館《りよくわん》に落ちついた。  今朝《けさ》は八時頃起きて、二人《ふたり》は春らしい朝風呂を浴びて茶を飮んでゐる。 「こつちは、とても暖いねえ‥‥」 「えゝ、だつて、九州はもう、櫻の季節《きせつ》ですもの‥‥」 「今日《けふ》は何日かな?」 「三月二十五日よ‥‥」 「三月二十五日か、始めて電燈《でんとう》のついた日だな‥‥明治《めいぢ》何年《なんねん》に電燈がつくやうになつたか、君は知らないだらう?」 「そんなこと知《し》らないわ‥‥」 「知らないことで威張《ゐば》つてるぜ。明治十一年さ‥‥」  律子は、夫婦らしいと云ふのはこんな氣持《きもち》を指して云ふのではないかといつた、なごやかなものを、頬のあたりに感《かん》じてゐた。 「ふふふ‥‥岡部さんが、貴方のことを開發居士《かいはつこじ》と云つてらしたけど、私《わたし》なんか、さう、あんまり、澤山《たくさん》のことを知る必要《ひつえう》もないでせう‥‥」 「どうして? いゝぢやアないか、開發居士《かいはつこじ》結構《けつこう》だよ、――人類の慾望を滿足《まんぞく》させるものはすべて資源《しげん》であつて、慾望を滿足《まんぞく》せしむるには、人間の體力なり、智能で障碍を乘越えて資源の開發利用が行はれるンだよ、つまり、その、開發利用《かいはつりよう》の可能性《かのうせい》のあるものは、すべて、これ資源だと、アメリカのカロライナの教授《けうじゆ》が云つてゐるが、人間、飮《の》んで、食つて、ぶつぶつ云つてるだけぢやア、つまらないぢやないか、何《なん》でも知つてゐて、それに向つて進歩《しんぽ》してゆくのは、ちつともさしつかへないだらう‥‥」 「えゝ、だから、貴方《あなた》が、何でも知つてゝ進歩《しんぽ》して下さればいゝのよ、私は私なりに、別に覺えることもあるでせうし、忘れてしまふこともあつてさしつかへないでせう‥‥」  小見山《こみやま》は妻の腕に光つてゐる時計《とけい》を眺めて、思ひがけなく、ふつと郷子の事を考へた。 「急に默りこんで、厭《いや》な方、――何を考《かんが》へていらつしやるの?」 「何でもないよ、まだ船には間があるから、君とどつか見物《けんぶつ》に行かうと思《おも》つてるのさ」 「本當《ほんたう》? 嘘よ、何か他のことを考《かんが》へていらした眼よ、その眼は‥‥」  律子は、良人が何を考へてゐるのかわからないながらも妬《ねた》ましいものを感《かん》じた。さうして、男と女との間の感情《かんじやう》の狹さに、ふつと不安《ふあん》を感じて、自分だけの氣持が宙にたゞようてうろうろしてゐるのが佗しかつた。  頼んでおいたヱハガキを女中《ぢよちゆう》が持つて來たので、律子は机に凭《もた》れて、一枝や郷子に長崎だよりを書いた。  小見山は矢鱈《やたら》に煙草をふかして、木蓮《もくれん》の咲いた庭の方を眺めてゐる。  いまだに、まだ、郷子を想つてゐる自分が不甲斐《ふがひ》なかつたが、逃げた魚は天空《てんくう》いつぱいに擴がつたほど大《おほ》きく見える。赤や金や黒の鱗《うろこ》がキラキラ光つてさへ見えて來る。  律子の姿の後に、小見山《こみやま》は、もう一人郷子を置いて眺《なが》めてゐた。 「ねえ、郷子《くにこ》さんにハガキを書《か》いたンですけど貴方、何かお書きになる?」  律子が笑ひながら、小見山《こみやま》の方へヱハガキを持つて來《き》た。 「僕は何《なに》も書くことはないよ、君《きみ》が出したらいゝぢやないか‥‥」 「あら、どうしてそんなに怒《おこ》るの、――郷子《くにこ》さんに、まだ、こだはつてらつしやるンでせう? いやな方ねえ、昨夜《ゆうべ》、あんなに大丈夫《だいぢやうぶ》だつておつしやつて‥‥」  律子は駄々ツ子のやうに、小見山の吸つてる煙草《たばこ》を庭へ放つて、小見山の兩手《りやうて》を不器用に強くゆすぶりながら、聲《こゑ》をたてゝ泣きはじめた。 [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ]  ――これから船に乘るところです。波は青くて、如何にも爽《さわや》かな航海《かうかい》です。この水の上はあらゆる意味《いみ》で、いゝ休息を私達《わたしたち》に與へてくれると思ひます。  出發の時は、あなたのお見送りを心から感謝《かんしや》しました。上海《シヤンハイ》へ着きましても、小見山は休むひまもなくすぐ仕事《しごと》にかゝるのださうで、私も、當分《たうぶん》は知らない土地でまごまごしなければならないでせう。相變らず、支那語《しなご》を猛烈に勉強してゐます。躯も元氣《げんき》です。  カステラを少《すこ》しばかり送りました。一枝さんとお二人《ふたり》で召しあがつて下さい。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、律子から來た長崎のヱハガキを、湯殿《ゆどの》で髮を洗つてゐる一枝に讀《よ》んでやりながら、カステラの包みをといた。 「律子さんは、幸福《かうふく》さうね‥‥」  一枝は、風呂桶《ふろをけ》もない、がらんとした湯殿《ゆどの》で、シユミイズ一枚になつて髮を洗つてゐた。 「お湯、もつとわかしてあげようか?」 「えゝ、濟《す》みません、もう一|度《ど》ゆすぐわ‥‥」  郷子がガスに火をつける音がしてゐる。一枝は濡れた頭《あたま》を擧げて、小窓《こまど》の向うを見てゐたが隣りの庭《そこ》のこぶし[#「こぶし」に傍点]の花が、蝋燭《らふそく》のやうに白く咲いてゐた。 (嘉兵衞さんは、どうして私に手紙《てがみ》をくれないンだらう、――たつた一度でいゝから、私《わたし》に手紙をくれたら、私は、もつと張りきつて元氣《げんき》になるンだのに‥‥)  一枝は急に哀しい氣持《きもち》になつて來て、水道《すゐだう》の蛇口をひねると、冷い水を頭から躯へ、まるでシヤワアのやうに浴びた。  初めは皮膚《ひふ》が、痺れて凍るやうにヅキヅキ痛くて、息《いき》の根が止りさうだつた。  濡れた白いシユミイズが、乳房《ちぶさ》や腹にぴつたり張りついてくる。一枝《かずえ》は、わけのわからない聲を擧げて、きらきら光る水泡沫《みづしぶき》を肩に浴びた。爽快な氣持《きもち》だつた。子供のやうにきやつきやつと騷いでゐる。一枝の樣子《やうす》に、郷子はいぶかりながら、 「何してるの?」  と、湯殿《ゆどの》へ走つて來た。 「まア! 莫迦なひとねえ、風邪《かぜ》をひくぢやないの‥‥狂人《きちがひ》みたいだわ」  一枝は藻草《もくさ》のやうな、重《おも》たく縮《ちゞ》れて垂れさがつた髮の間から、惡戯ツ子らしい眼を輝かせて、 「あゝ、いゝ氣持《きも》ちだわ、ぽかぽかして來たの‥‥」  さう云つて、また水道の水を激しく出して、童女《だうぢよ》のやうに頭から浴《あ》びてゐる。  湯殿の中の三和土《たゝき》の上に、硝子戸越《ガラスどご》しに、仄明るい光線が射しこんで溜つた水の色が、池のやうに暗く見《み》えた。  郷子はタオルと乾いたシユミイズを取つて來てやりながら、自分《じぶん》も裸足で湯殿《ゆどの》に飛び降り、急いで水道《すゐだう》の栓を止めた。 「水なんか浴びて、躯に毒ぢやありませんかツ、莫迦《ばか》なひとねえ‥‥」  一枝は濡《ぬ》れた躯のまゝ默《だま》つてゐたが、頬には涙が光つて落ちてゐた。  郷子は、頭髮を露切りのタオルで拭いてやり、濡《ぬ》れたシユミイズもぬがして、浴衣《ゆかた》を肩へ引つかけてやると、一枝は灰色《はひいろ》の壁に濡れた頭《あたま》を押しつけて、いつときうつうつと躯を震はせて泣いてゐた。 「さア、カステラでも食べませうね、熱《あつ》いお紅茶を淹れてあげるから待《ま》つていらつしやい‥‥何て、莫迦な眞似《まね》をするンでせう‥‥」  一枝は浴衣の上に、郷子の羽織《はおり》を引つかけて、座敷《ざしき》にごろりと横になつた。  郷子は臺所《だいどころ》へ行き、紅茶々碗を二つ並べながら、自分も何時《いつ》か涙ぐンでゐるのだ。(こんなに、苦しみあへいでゐる女の世界《せかい》も、私達だけではないだらうけれど、何處《どこ》へ行けば、いつたい希望があるのだらう‥‥) [#9字下げ]○  渡利鈴子《わたりすゞこ》も奉天の車輛會社へ行つてしまつた。タイプライターの教習所《けうしふじよ》は、また新しい顏ぶれの娘達で席が埋《うづ》まり、郷子も教習所を出たおかげで、工場でも、いまではタイプを打《う》つ方へ廻されてゐた。  今日は月給日、郷子は釜石《かまいし》にゐる佐山へ、何か想ひのこもつたものを贈《おく》りたいと思ひ、銀座に出て菓子《くわし》を買つた。  久しぶりに映畫《えいぐわ》を觀《み》たかつたけれど、一人で觀る氣もしないので、一寸した買物を濟《す》ませて、藥王寺《やくわうじ》の家へ戻つて來ると、家の前で、瀬田《せた》の叔母がマツヱを連れて呆《ぼ》んやり郷子の歸るのを待つてゐた。 「あら!」 「あゝ郷《くに》ちやんか、えらい探しましたえ、あゝ、しんど[#「しんど」に傍点]かつた。――なんぼう‥‥一時間ほども待つたかいな」  と、一人でまくしたてゝ郷子が鍵《かぎ》を開けるのをもどかしさうに待《ま》つてゐる。 「マツちやん、どうして電報《でんぽう》など打つてよこさんのよ? 急に、どうしたン?」  郷子が、マツヱに小さい聲でたづねると、マツヱは赫《あか》い顏をして、齒科醫專《しくわいせん》を受驗してみようと、叔母《をば》に頼んで上京したのだと云つた。 「マツちやんが、どうしても、もつと勉強《べんきやう》したいと云ふもンで、まア、連れて來たンやけど、今度はなア、雨宮《あめみや》さんも一緒どすえ」  郷子は吃驚《びつくり》してゐた。 (大阪での、あの仕打《しう》ちを、まだ了解《れうかい》しないのだらうか?)  瀬田の叔母は部屋々々を覗《のぞ》いてみながら、こじんまりしたえゝ家やと感心《かんしん》してゐた。 「今度は、おりくさんにも逢うて歸らうと思うてるし、――雨宮《あめみや》さんにも、是非とも郷《くに》ちやんに逢うて貰《もら》はンならんと思つてますえ、よろしか? 年寄《としより》[#「としより」は底本では「とりより」]の云ふことは案定《ちやんと》きいておくもンや‥‥」  マツヱはセーラーのスカートをいじりながら、部屋の隅《すみ》にきちんと坐つてゐる。 「マツちやん、あんた、郵便局《いうびんきよく》の方はやめてしまつたの?」 「うちね、默《だま》つて來たの、兄さんからも、學校の方は受けてみるだけ受《う》けてみたらいゝ云うて手紙來たの‥‥」 「お父さんやお母さんも賛成《さんせい》なの?」 「行きたいのやつたら仕方《しかた》がないつて‥‥」  雨宮《あめみや》は商用で來てゐるらしく本郷の湯島《ゆしま》の方へ宿をとつてゐると云ふことだつた。  叔母とマツヱが錢湯《せんたう》へ出掛けて行くと、一枝《かずえ》がたゞいまと歸つて來た。 「お客樣?」 「えゝ、不意《ふい》に、叔母と妹が來たのよ‥‥あゝ、私、奉天《ほうてん》へ行つとけばよかつたわ、叔母は自分一人で胸算用《むなさんよう》してるンですもの、本當に厭になつちまふ[#「なつちまふ」は底本では「ならちまふ」]‥‥」 「何しにいらつしたの‥‥」 「妹は、齒科醫專《しくわいせん》とか受けるンですつて、それはいゝンだけど、叔母の方は、例《れい》の、私の結婚問題をまたむしかへしに來たらしいのよ、しかも、相手《あひて》の、その男のひともこつちへ來《き》てるンですつて‥‥」 「まア、困つたわねえ‥‥」  その夜、叔母には、雨宮《あめみや》の宿へ行つて貰ひ、郷子は久しぶりに妹と一|緒《しよ》に寢た。 「お父さんは怒《おこ》つてゐるでせう?」 「うゝん、もう、お姉さんの氣持に任《まか》せると云うてはつたわ。いまは、兄さんから少しづつ送つて來てるし、こんな御時世《ごじせい》やから、兄さんや、姉さんや、うち[#「うち」に傍点]が幸福《かうふく》やつたら、もう、それでえゝとせないかン云うてはるの――お姉さん雨宮《あめみや》さんに會ふの?」 「厭《いや》なことだわ‥‥」 「私の學費《がくひ》を出してやらうと云うてるのよ」 [#9字下げ]○  今日は、神田の學士會館で、岡部と雪江の結婚式《けつこんしき》の日である。  時節柄、簡素《かんそ》にと云ふ、雪江の父、臺長の意向で、ほんのわづかな肉親知友《にくしんちいう》に圍まれて、岡部と雪江は、仲人《なかうど》の田中海軍少將夫妻につきそはれて、中央の卓子《テーブル》についた。  雪江は、黒地に、白い折鶴《をりづる》が無數に飛んでゐる振袖姿《ふりそですがた》で、何時もの洋服姿の雪江とは違つた美しさである。  岡部は時々、固《かた》さうなカラーに手をあてながら、きちんとかしこまつてゐる。花婿《はなむこ》花嫁《はなよめ》の前には、温室咲きの華麗《くわれい》な牡丹《ぼたん》が活けてあつた。  郷子は、かうした晴《は》れがましい席へ招待《せうたい》されるのは生れて初めてなのだ。岡部や雪江《ゆきえ》に無理矢理に招待されて、郷子は、去年《きよねん》瀬田《せた》の叔母がつくつてくれた、さや形に小菊散《こぎくちら》しの錦紗の羽織を着て、片隅《かたすみ》の席についてゐた。  出される皿《さら》には、少しも手をつける氣がしないほど、郷子は宙《ちう》をみつめて呆《ぼ》んやりしてゐる。思ひ出したやうに卓子《テーブル》スピーチの拍手《はくしゆ》がわいた。 「新郎新婦とも實に似合ひのお二人であつて、この時局下《じきよくか》における、今日《けふ》の結婚式は、お二人の上に、かならず、無量《むりやう》な感慨《かんがい》があるはずと思はれます。しかも、岡部君は、來月中旬には應召なさることになり、今日の此式は、岡部君《をかべくん》夫妻《ふさい》の新しい出發を祝すめでたい日でもあり、應召される岡部君の壯途《さうと》を祝ふ記念すべき日でもあるわけであります‥‥」  郷子は、何と云ふこともなく、宙《ちう》をみつめてゐた眼を岡部の方へ向けた。岡部《をかべ》はかしこまつて、仲人《なかうど》の田中少將の話をきいてゐるやうであつたが、ふつと眼をあげて郷子の方へ顏を向けた。  温い美しい眼の表情《へうじやう》だつた。郷子は岡部の、何時もに變らない、淡々《たん/\》として表情の中から、胸の熱くなるやうな親愛《しんあい》を感じてゐる。  晝間の結婚式だつたので、肉親知友《にくしんちいう》の卓にスピーチも二三人だけの簡單《かんたん》なものであつたが、最後に、たつた一つ、短い、電報《でんぽう》が、岡部の友人によつて披露《ひろう》された。 「キミノヨキヒヲ、ハルカニシユクス、サヤマシンイチ」 (佐山新一!) 郷子は驚《おどろ》きの眼を瞠《みは》つて、讀まれた電文を、何度も胸の中に折《を》り疊《たゝ》んでゐた。  式が終《をは》ると、岡部はすぐ郷子のところへやつて來て、 「今日は本當に有難う、雪さんも大變《たいへん》よろこんでゐますよ、――明日《あした》、飛行機で大阪まで行つて、それから、和歌山《わかやま》へ歸ります」 「出征《しゆつせい》なさいます日までに、東京へお歸りになりますの?」 「えゝ歸つて來ます、――元氣《げんき》でいらつしやい‥‥」 「えゝ、有難うございます」 「何でも、困《こま》ることがあつたら、これからは雪さんに云つて下さい。貴女《あなた》が何でも相談してくれゝば、あのひとはきつと喜《よろこ》ぶでせうし、郷子さんが、今日《けふ》來《き》てくれて、とても、あのひとは喜んでゐるンですよ」 「佐山さんから、お電報《でんぽう》がありましたのね」 「――さつきも、僕も、はるかに祝すと云ふ、はるか[#「はるか」に傍点]と云ふ電文《でんぶん》にほろりとしてゐたンです。負けずぎらひの[#「負けずぎらひの」は底本では「負けぎらひの」]奴《やつ》だから、元氣で働いてゐると思ふンだけど、何しろ、はるかな土地《とち》に、たつた一人でですからねえ‥‥」  郷子は默《だま》つてゐた。  雪江がにこにこ笑ひながら妹の千鶴子《ちづこ》と、二人のそばへやつて來た。 「ほんとに、よく來て下すつたわ、千鶴ちやんたら、あの綺麗《きれい》なひとに紹介して頂戴つてきかないのよ」  千鶴子はオレンヂ色の服の胸を兩手《りやうて》でおさへて、しとやかに郷子に挨拶《あいさつ》をした。 [#9字下げ]○  岡部の結婚式《けつこんしき》の歸り、郷子は歩きながら、涙が溢《あふ》れて仕方がなかつた。  何か愛情に飢《う》ゑた氣持で、郷子は、久しぶりに、生母《はは》のそばへ行つて、膝に頭をつけて子供のやうに泣《な》きたい氣持だつた。  そのまゝ藥王寺《やくわうじ》へは歸らずに、郷子は、蒲田のりくの奉公口《ほうこうぐち》へ尋ねて行つた。りくは二日前から、肺炎《はいえん》で、近所の病院に入院してゐると云ふので、郷子はすぐ病院の住所《ところ》を聞いて、生母《はは》を尋《たづ》ねて行つた。  病院の二階にある、藥臭《くすりくさ》[#「くすりくさ」は底本では「くすりさく」]い汚い部屋で、りくは熱つぽい哀《あは》れな姿で寢てゐた。 「お母さん! 私ですよ‥‥」  郷子が頬《ほゝ》を押しつけるやうにして、りくの耳もとに唇《くちびる》をつけて呼んだが、りくは、魚のやうなどろんとした眼をしてゐた。 「平造《へいざう》さんかえ? 平造さんが怒《おこ》つてゐるンで歸ることが出來ないよ‥‥」  熱に浮《う》かされたやうに、りくは遠い昔に別れた郷子の父の名を呼《よ》んでゐる。  郷子は、女の性根《こゝろ》のなかには、どんなに年を取つても、昔別れた男の生命《せいめい》が、かくまでに熱く激しく流《なが》れてゐるのかと不思議な氣持だつた。 「お母さん、何を云つてるの、誰《だれ》も、あなたを怒《おこ》るひとは一人もゐなくてよ、――元氣にならなくちや駄目《だめ》ぢやないの!」  郷子は派手《はで》な羽織をぬいで、それを袖だたみにして、甲斐々々《かひ/″\》しく、兩の袖を帶〆に挾《はさ》んだ。  ほんの少し前までは、華やかな結婚式《けつこんしき》に行き、いまは、病氣の母の枕元《まくらもと》で、ぢつと坐つてゐるのが郷子には變《へん》な氣持である。  假裝の群のなかにまぎれこんでゐる、惡魔《あくま》のやうなものに向つて、郷子は激《はげ》しい怒りの眼をむけるのであつた。  軈《やが》て看護婦と醫者が注射《ちうしや》をしに來てくれた。  長いこと、芥子《からし》で濕布《しつぷ》をしていらして、こんなに皮膚《ひふ》が燒けてゐますよと、醫者が母の胸を擴げてみせてくれた。しなびた乳房《ちぶさ》が、郷子には哀しい想ひ出を呼びおこしてくれた。 「お父さんがねえ、下駄《げた》で私を打つンだよ‥‥」  りくは熱のなかで、とりとめもないことを喋《しやべ》つてゐる。  注射を終つて、醫者《いしや》は駄目かもしれないと云つた。もう、四五時間が境《さか》ひだと云つて、看護婦と部屋を出て行つたが、郷子は、母が死《し》ぬとはどうしても信《しん》じられなかつた。  女學校のころ、門《もん》のところで、自分の出て來るのを待つてゐた母のおもかげが急《きふ》に郷子の胸によみがへつて來る。  良人に別れてからのりくは、今日まで一度も結婚《けつこん》しないで、廣い東京で、かうして病み朽《く》ちるまで働きつゞけてゐるのだ。  郷子は女學校の頃、百姓のやうな姿《すがた》でゐた母の姿に、父は別れて、自殺《じさつ》しかねまじき母のはげしいおもひを、いまこそしみじみと解つた氣持《きもち》であつた。  廊下のそとで、ばたばたと、襖《ふすま》や硝子戸《ガラスど》に何かぶつかる音がしてゐる。  郷子がそつと襖を開けると、狹《せま》い廊下に雀が飛び込んでゐて、硝子戸に躯《からだ》をぶちあてゝ出口を探《さが》してゐた。  硝子戸《ガラスど》がほんの少し開いてゐる處から、雀が飛び込んで來たのだらう。郷子は、硝子戸を大きく開けてやつた。雀は黒い點《てん》になつてすさまじく黄昏《たそがれ》の空へ飛んで行つた。 「あゝ、氷《こほり》が飮みたいでなア‥‥」  りくが呼んでゐる。  郷子は、蟲《むし》が知らせるとでも云ふのか、偶然《ぐうぜん》に生母《はは》を尋ねて來た今日の運命が、怖い氣持だつた。  靜かに生母の手を握《にぎ》つてやりながら、郷子はその「運命《うんめい》」に祈つてゐる。 [#9字下げ]○  岡部たちの乘るロツクヒードは、早朝《さうてう》七時に離陸するのだ。  雪江は、風見《かざみ》の赤と白の吹きながしを見上げながら、 「お母さま、今日は、富士山《ふじさん》がよく見えますわ」  子供《こども》のやうな事を云つてゐる。  雪江の母と妹の千鶴子が、姉《あね》の出發を見送りに來てゐた。  兩翼《りやうよく》に日の丸を描いた銀色のロツクヒードが、何時でも飛び立てる表情《へうじやう》を示してゐる。  岡部は待合室《まちあひしつ》のソフアに腰をかけて煙草を吹かしてゐた。廣い飛行場が硝子越《ガラスご》しに見える。  雪江は、黒いハーフコートに、白手袋《しろてぶくろ》をした涼し氣な姿で、母や妹に、三四|臺《だい》の飛行機を指差して何か教へてゐる樣子だ。岡部は暗雲《やみぐも》に煙草の煙を吐《は》いてゐたが、しみじみとした幸福の想ひが胸に湧《わ》きあがつて來るのを覺えた。  昨夜、――雪江は、時々、岡部の出征《しゆつせい》を想ひ出して、眼に涙《なみだ》をいつぱいためてゐたが、今朝も家を出る時、ほんの一瞬の接吻《せつぷん》のあと、 「もう、和歌山《わかやま》へ行つたら、何もお話出來ないけど、――私、元氣でお還《かへ》りを待つてゐますわ。それに、私、お務《つと》めがあるから、氣持の散《ち》りやうもないし‥‥」  雪江はさう云つてまた涙《なみだ》ぐんでゐた。  岡部は、硝子越しに新妻《にひづま》の朗らかさうな姿を眺めながら將來のことを色々《いろ/\》と考へてゐる。自分が出征しても、務めてゐてくれゝば、經濟的《けいざいてき》にも、そんなに、里へ心配をかけることもないだらうし、本人も活氣《くわつき》のある生活に這入れていゝだらうと思へた。  軈《やが》て準備が出來たのか、紺のスーツを着た可愛いエアガールが案内《あんない》に來た。 「ぢやア、お大事に‥‥」  雪江の母は岡部達に挨拶《あいさつ》をした。  千鶴子も、新しい義兄《あに》の岡部と握手をしながら、[#底本では読点なし] 「お着きになつたら、電報を頂戴《ちやうだい》ね」と云つてゐる。  乘客を見送《みおく》りに來た人達が飛行機をとりまいてゐた。  プロペラがブウンと硝子《ガラス》の棒のやうに光つて廻り始めた。  雪江は飛行機の窓から、母や妹を眺《なが》めてゐたが、急に理由のない涙が噴《ふ》きあげて來た。 「おい、ねえ、あれは、郷子さんぢやないかねえ?」 「えゝ?」 「あすこから出て來たの‥‥」 「あら、郷子さんだわ、さうよ、郷子さんよ‥‥まア、見送《みおく》りに來てくれたのねえ‥‥」 「僕達がわからないンだね、呆《ぼ》んやりした眼をしてゐるよ」 「もう降りられないかしら?」 「もう駄目だ‥‥」  二人は、小さい窓から手を振《ふ》つたり、ハンカチを振つたりした。すると、雪江《ゆきえ》の母や千鶴子は、自分達に振つてゐるのだと思ひ違ひして、いつそう激《はげ》しくハンカチを振つてゐる。  ガクツと機體《きたい》が動き始め蹴《け》るやうな感觸がして、機體はすつと空へ舞ひあがつた。 「もう見えないわ‥‥」  雪江が窓から顏をはなすと、向ふ側の席にゐる岡部は、默《だま》つて地上を見てゐた。  隅田川も海も光つてゐる。家の屋根々々《やね/\》は何處も工場のやうに煤《すゝ》けてゐるけれど、機體の飛翔が高くなるにつれて、山蔭《やまかげ》や川添ひの畑地の麥の色が、眼に浸《し》みるばかりの明るい緑《みどり》であつた。  雪江は初めて飛行機に乘つたのだけれど、中々《なか/\》乘工合《のりぐあひ》のいゝものだと思つた。  岡部はおもひがけない郷子の見送《みおく》りの姿を窓から眺めて、胸の痛いおもひである。 [#9字下げ]○  飛行機が、青い空の彼方《かなた》へ小さく消えてゆくまで、郷子はぢつと機影《きえい》をみつめてゐた。 (ほんとにいゝ方だつた‥‥)  岡部達に逢ふことも出來ないでほんの一足違ひで飛行機《ひかうき》は飛び去つてしまつたけれど、郷子は、そのまゝ飛行場を立ち去るにしのびない氣持《きもち》だつた。  岡部の結婚式《けつこんしき》に會つた雪江の妹や、雪江の母が、何か一生懸命話しあひながら、郷子の前を通つて行つた。  郷子は走つて行つて挨拶《あいさつ》をしようと思つたけれど昨夜《さくや》亡《な》くなつた母のことを考へ遠慮して、[#「遠慮して、」は底本では改行]郷子はそのまゝ默《だま》つてゐた。  岡部には海山《うみやま》世話《せわ》になつた事を考へると、どうしても逢ひたい氣持で、郷子は、佛《ほとけ》を敬太郎に頼んで、今朝飛行場へ走《はし》つて來たのであつた。  たしか、今朝の福岡行《ふくをかゆ》きのロツクヒードは、内海《うつみ》飛行士が操縱《さうじゆう》してゐるのだと敬太郎が話してゐたけれど、郷子は、乘客《じようきやく》の岡部と、操縱士の内海が、お互ひに小見山《こみやま》の友人でありながら、何も知らないで、空中《くうちゆう》を飛んでゐることを考へると、岡部のよく云ふ、それもこれもまた人生だと思はざるを得《え》なかつた。  佐山と一番つながり[#「つながり」に傍点]の深かつた岡部も空の彼方《かなた》へ行つてしまひ、小見山もまた律子《りつこ》と結婚して上海《シヤンハイ》へ去つてしまつてゐる。  あまつさへ、長い間、不幸《ふかう》な暮しにゐた母も、たうとう昨夜《さくや》、亡くなつてしまつたのだ。  郷子は、また新しく涙の溢《あふ》れるおもひであつた。  昨日は、宵に雀が飛びこんで來て、幸福《かうふく》なことがあるのだと、一人合點に喜んでゐたのも束の間――生母《はは》は急性肺炎《きふせいはいえん》で、五時頃には酸素吸入《さんそきふにふ》も間にあはずに亡くなつてしまつた。  藥王寺の一枝にあてゝは、急用《きふよう》あつて歸れぬ、妹頼むと云ふ電報を打つておいて[#「打つておいて」は底本では「打つて、おいて」]敬太郎《けいたらう》にだけは電話《でんわ》をかけて來て貰つた。  りくの奉公先《ほうこうさ》きの同輩が三人と、郷子と敬太郎が、昨夜、病院でりくの通夜《つや》をしたのであつた。  昨夜は一|睡《すゐ》もしてゐなかつたし、心配や、哀しさで胸《むね》はふたぎ、郷子は道を歩きながらもふらふらと眩暈《めまひ》がしさうだつた。  建築場の圍ひになつた板塀《いたべい》に凭《もた》れて、郷子はいつとき晴れた空を見てゐたが、何時か郷子はそこへ背をかゞめて蹲踞《しやが》んでしまつてゐた。  このまゝ消えて亡くなれるものなら、消えてしまひたいやうな落莫《らくばく》とした思ひが、往來の砂風とゝもに、胸の中の冬の枯木立《かれこだち》をゆすぶつてゆくやうであつた。  飛行場歸りのハイヤーが何臺か郷子の前を通《とほ》つて行く。  ――りくは、植村郷子の名前で、二百圓ほど郵便貯金《いうびんちよきん》をしてゐた。新しく書きかへられた通帳を眺めて、郷子は、こんなに一人ぼつちでゐても、遠くにゐる娘が可愛《かあい》かつたのかと、いまさら、生母《はは》の大きな愛情を感じないではゐられなかつた。  芥子《からし》の濕布で紅く燒けた、母の痩《や》せた乳房を、郷子は痛々しく眺めたが、大きな母の愛を、いまこそ思ひ知つた氣持《きもち》である。  我儘一途な父に別れてからも、なほかつ孤獨《こどく》に生き拔いて來た生母の生涯《しやうがい》に、郷子は、しみじみと教へられるやうな女心を感《かん》じた。 「――お母さん、何《なに》もしてあげられなくてごめんなさいね‥‥」 「郷ちやんや、平造《へいざう》さんは何處までお使ひに行つたンかねえ?」 「もうぢき歸つていらつしやるから、元氣《げんき》を出してゐらつしやい‥‥」  亡くなる前の、哀れな生母の表情が、砂風《すなかぜ》の中に蹲踞んでゐる、郷子の眼に呆《ぼ》んやり寫つてゐた。 [#9字下げ]○ 「敬ちやん!」 「何?」 「うゝん、何でもないわ‥‥」 「何か、だつて、云ひかけたゞらう?」 「えゝ、お母さん、幸福《かうふく》だと思つて、だつて、かうして、私と敬ちやんが佛樣《ほとけさま》のそばにゐるンだもの‥‥」  暗い葬儀《さうぎ》自動車《じどうしや》の中に、棺と一緒に、郷子と敬太郎が乘つた。外はからりと晴《は》れてゐるのに、葬儀自動車の暗い天井からは、郷子の膝《ひざ》の上に冷い滴《しづく》がぽとりぽとりと落ちてゐる。 「東京で、葬儀《さうぎ》自動車《じどうしや》に乘るとは思はなかつたなア‥‥」 「さうね、出世前の敬ちやんを乘せて大丈夫《だいぢやうぶ》かしら?」 「かへつていゝンだよ、――おばさんも喜んでるだらう‥‥」 「さうね‥‥」  棺の上には、白い綸子《りんず》の裂《きれ》がかゝつてゐた。その上に、郷子は、淋しい生涯の人だつたから華やかにと、赤いカアネーシヨンの花を四五|本《ほん》置《お》いておいた。 「此自動車の窓硝子《まどガラス》は黄色いのね‥‥」 「外が黄色《きいろ》く見えるね」  水滴は相變《あひかは》らず、ぽとりぽとり郷子の膝に落ちてゐた。郷子は敬太郎の方へ寄り添《そ》ひながら、 「暗くて、何も見えやしないわ。――後《うしろ》でお母さんが何か云つてるみたい‥‥」 「この、自動車も、色々な人物《じんぶつ》が乘つたことだらうな‥‥」  運轉手席も見えない、暗《くら》い箱の中で、郷子と敬太郎は手を握《にぎ》りあつてゐた。  姉弟《きやうだい》が、何年ぶりかでしみじみと寄り添つたやうな、温いものを感じた。故郷《こきやう》を出るときの、火事の晩《ばん》が、郷子にはふつとなつかしかつた。 「今日、飛行場へ行つたら、敬《けい》ちやんは、何時、あゝして飛《と》べるのかと思つたわ」 「内海《うつみ》さんに逢つた?」 「うゝん、逢はない、――私《わたし》が行くと一緒に飛行機が飛《と》んぢやつたンだもの‥‥」 「僕は、いまに戰鬪機《せんとうき》へ乘るンだよ‥‥近々内海さんに霞《かすみ》ケ浦《うら》へ連れてつて貰ふンだ‥‥」 「さう、いゝわね、しつかり勉強して頂戴《ちやうだい》」  桐ケ谷の火葬場《くわさうば》へ行く道――公設市場や、郵便局や、自轉車屋、病院、そんな建物《たてもの》が、葬儀自動車の黄色《きいろ》い窓から見える。 「ねえ、敬ちやん!」 「何さ?」 「私、叔母さんの方をどうしようかと思つてるの‥‥」 「大阪の話《はなし》だらう?」 「えゝ、それもあるけれど‥‥さつきも、おりくさんは、貯金《ちよきん》でもしてゐなかつたかつて、しつこく聞くのよ、――大阪の人のことは、考へても厭《いや》なのよ‥‥」 「貯金《ちよきん》なンかなかつたと云へばいゝだらう‥‥」 「えゝ、何もないつて云つたわ、――ねえ、私《わたし》、このお金は、お母さんが私にくれたンだから、私、これで、佐山《さやま》さんのところへ行かうかしら‥‥マツちやんは、もし、學校へはいれたら、寄宿舍《きしゆくしや》へでもいれてやつて‥‥」 「――お母さんも、姉さんの時と違《ちが》つて、やつぱり、マツヱは自分の子だから、學校《がくかう》でも何でも入れてやりたいらしいんだね‥‥」 「學費《がくひ》は何とかなると云つてたけど、何とかなるのかしら?」 「瀬田の叔母さんが小金《こがね》を出すンだらう、自分の本當の姪《めい》だからね‥‥」  後《うしろ》ではガタガタ棺がゆれてゐた。 [#9字下げ]○  月が路地の上へ出てゐて、美しい月夜《つきよ》であつた。  白い裂《きれ》で包んだ母の遺骨《ゐこつ》をかゝへて、藥王寺へ郷子と敬太郎《けいたらう》が戻つて來たのは八時頃だつたらう。――郷子の机の上へ一枝《かずえ》の心盡しなのか、白い百合《ゆり》が花瓶に活けてあり、茶飮茶碗に灰を入れて、線香《せんかう》がたてゝあつた。  郷子が部屋へ這入《はい》つて行くと、縁側の障子ぎはに、若い和服《わふく》の男が坐つてゐた。  不圖《ふと》、郷子と、その若い男の眼が合つたけれど、郷子はすぐその眼色《めいろ》を除けて、遺骨を机の上に置いた。 (あれが、叔母さんの連れて來た雨宮《あめみや》と云ふ男なのだわ‥‥)  藍《あゐ》[#「あゐ」は底本では「あゆ」]がかつた結城《ゆふき》の揃ひを着てゐるのが、郷子の眼に寫《うつ》つた。 「お母さんの話をしたらなア、雨宮さんも、ぜひ御燒香《ごせうかう》さしてほし云やはつて、わざわざ來ておくれやしたンどすえ‥‥」  仕方がないので、郷子は雨宮の方へ丁寧《ていねい》に挨拶をしたが、雨宮は、瀬田《せた》の叔母を通して考へたやうな惡どい感《かん》じの男ではなかつた。  如何にも商家で育つたと云ふ油つこい處と、富裕《ふゆう》な商家の息子《むすこ》らしい落ちつきがある。  ――郷子は母の寫眞も飾《かざ》れない貧しい佛前に坐つて、燒香のあといつとき合掌《がつしやう》をしてゐたが、心の中では風の吹きすぎるやうな空漠《くうばく》としたおもひでゐながら、はらはらと涙が手の甲《かふ》を傳つてゐた。  母の遺骨《ゐこつ》とたつた二人でゐたかつたのだけれど、いまはどうにもならない。  軈て、雨宮も立つて机《つくゑ》の前に行き、佛に合掌《がつしやう》してくれた。郷子は雨宮の白い足袋を眺めると、大野の葬儀《さうぎ》の時をふつと思ひ出してゐた。  いまでは、大野も母も、虚空《こくう》の彼方に消えてしまつたけれど、郷子は遺骨《ゐこつ》を抱いて、路地を這入る時、月《つき》の光をあふいで、何と云ふこともなくふつふつと生命に對する執着《しうちやく》が湧いて來るのを感じたのである。 (どんなことがあつても、死んでしまつては何にもならない、――一|生懸命《しやうけんめい》で、生き拔いて生き拔《ぬ》いて行きますよ、お母さん‥‥)  郷子は月に祈る氣持《きもち》であつたのだ。  机の百合はよく匂《にほ》つた。  ――肌理《きめ》の細い皮膚、澄んだ黒い眼、品のいゝ唇、雨宮は、さつきから郷子の横顏《よこがほ》をぢつと眺《なが》めてゐる。  此女を得るにはいくらぐらゐかゝるだらうかと、雨宮は眞面目《まじめ》に胸算用をしてゐた。昔逢つた時よりも、いつそう美しく磨《みが》かれてゐて、愼《つゝ》ましい姿が、雨宮には胸をとゞろかすやうな魅力があつた。  郷子が女事務員《をんなじむゐん》をしてゐると聞いて、女事務員かいなと、一寸馬鹿にしてゐたいまゝでの氣持も、いまはすーつと消《き》えてしまつて、郷子の美しさに、雨宮は、大阪の宿の見合《みあひ》の不始末も忘れてしまふ位であつた。  雨宮は月の射《さ》し込む廊下へ出て、紙入れから紙幣《しへい》を出していくらか紙に包んでゐたが、 「一寸《ちよつと》、をばさん」  と、瀬田の叔母を呼《よ》び、 「御香料《ごかうれう》をなア、二十圓包んでおきましたけど、――何ぞ、要るンやつたら、遠慮せんで云《い》うて下さい」  と云つた。  叔母は嬉しさうに、たぶたぶした白い手の甲《かふ》を唇《くち》もとへ持つて行つてゐたが、ふつと小さい聲で机《つくゑ》のそばの郷子を呼んだ。 「郷ちやん、一寸《ちよつと》‥‥」 「はい」  郷子が縁側へ立つて行くと、雨宮《あめみや》は香奠の包を郷子の懷《ふところ》へ挾み込みながら云つた。 「もつと、何でも要《い》ることがあつたら云つて下さい、遠慮されると水臭《みづくさ》いおもひますよ、――これは佛《ほとけ》さんにお花でも買《か》うて下さい」 [#9字下げ]○  郷子は、雨宮が、經濟的《けいざいてき》な援助をして、自分達におつかぶさつて來ようとしてゐる、その單純さと、無智《むち》な叔母のおせつかいに腹をたてずにはゐられなかつた。  雨宮のくれた香奠を無雜作《むざふさ》に机の上に置くと、郷子は一枝を誘つて戸外《そと》へ買物に出た。 「私、お晝《ひる》から何も食べてゐないのよ、おなかゞ空《す》いてるやうでもあるし、空かないやうでもあるし‥‥」 「ぢやア、何か召上《めしあが》れよ、ねえ、――ところで、律子さんはもう上海へ着いたかしら?」 「そりやア、もう着いてるわよ」 「こんな月夜《つきよ》に、船に乘つてみたいわねえ。そのうち、新京《しんきやう》のお姉さんのところへ行つてみようかと思つてるの、――だつて、うちのデパートぢや、なか/\支那《しな》へ進出してゆく氣配《けはい》もないし、私このまゝ此《この》仕事《しごと》を續けてゐようとも考へてゐないわ‥‥」 「房子さんには御無沙汰《ごぶさた》してゐるけど、お元氣かしら?」 「お姉さん、とても元氣で、色々苦しいこともあつたけど、心配も愉《たの》しみのうちだつて、そんなこと云つて來たわ。子供を連れて結婚《けつこん》したンですつて‥‥」 「まア! 何時《いつ》?」 「うゝん、たつたこのあひだなのよ、――お婿《むこ》さんと云ふのが、初婚《しよこん》の方で、もう四十七八のひとなンですつて、吉林《きちりん》の鐵道へ勤めてる方で、近いうち吉林へ行くンだつて書《か》いてあつたわ‥‥」  赤い月の光が、何となく狹《せま》い街を賑かにみせてゐる。  郷子は神樂坂で餠菓子《もちくわし》を少し買つて、郵便局に這入つて行つた。坂の中途《ちゆうと》にある、大きい郵便局の建物の眞上《まうへ》に、月がゆつくり二人を追ひかけて來てゐる。 「電報《でんぽう》打《う》つの?」 「えゝ、一寸《ちよつと》これ持つてゝ頂戴‥‥」  郷子は餠菓子の包みを一枝に渡して、局員から頼信紙《らいしんし》を一枚貰ふと、六|角机《かとつくゑ》のところへ行つて、電文《でんぶん》を書いた。  四圍はがらんとしてゐる。間斷《かんだん》なく、カチカチカチ‥‥と電信を打つ音が、しいんとした局内に響いて、煌々《くわう/\》とついてゐる電氣の下では、夜業の局員達《きよくゐんたち》が忙《せ》はしさうに事務を執つてゐた。 [#ここから2字下げ] イワテケン カマイシシ リジンリヨウ サヤマシンイチ 二三ヒシテユキタシ オユルシコフ クニコ [#ここで字下げ終わり]  今では、佐山の感情《かんじやう》なんか、少しも考へてゐられなかつた。岡部の結婚式《けつこんしき》にあてゝ「君のよき日をはるかに」と云つた、そのはるかな[#「はるかな」に傍点]ところから吹きつけて來る佐山の息吹《いぶ》きを、いまの郷子は必死《ひつし》になつて追ひすがりたいのである。  小さな卑下《ひげ》が、何時も※[#「易+鳥」、第4水準2-94-27]《いすか》の嘴《はし》の喰ひ違ひにばかりなつてゐて、人間的な迷ひや、肉親の非難に、若い郷子はもう疲《つか》れきつてゐたし、不測の禍《わざはひ》のなかにゐるのが耐へられない氣持でもあつた。  本當は明日發つの電文《でんぶん》を書きたいやうな、せまつた思ひであつたのだ。  郷子は電報を書き終ると、切手《きつて》を買ひ、それを電信受付へ持つて行つた。  戸外へ出ると、郷子は二三日して釜石《かまいし》と云ふ處へ行くかも知れないと一枝《かずえ》へ話すと、一枝は、 「そりやアいゝわ、――私だつて、近《ちか》いうちお姉さんの處へ行くか、アメリカのマヽの處《ところ》へ一度歸るかしようと思つてゐたンですもの、――腐《くさ》らない水を尋ねて、常に流れて行くのもいゝぢやアないの、お姉さんは、私達のことを、勿體《もつたい》ないほど若いつて羨《うらや》ましがつてるのよ」 [#9字下げ]○  鑛山へ行く列車の沿線《えんせん》は、すつかり春景色で、桃も櫻もほころびかけてゐる。  小學校の庭には、徴發馬《ちようはつうま》の檢査があるのか、逞《たく》ましい馬が十四五頭も杭《くひ》に繋いであつたり、街道を檢査場へ馬を挽《ひ》いてゆく若い女がゐたりして、佐山も蟇目《ひきめ》も珍らしさうにそれらの風景を眺めてゐた。箱《はこ》のやうに小さいがたがた汽車は、一つ一つの驛々《えき/\》に止つては進んでゆくのだ。 「佐山さん、あの馬達も戰地《せんち》へ行くンでせうね?」 「大方、出征するンでせう、――何處も非常時《ひじやうじ》だが、此邊は、女も子供も馬も非常時ですね、子供が隨分畑で働《はたら》いてゐますよ‥‥」 「へえ、さうですか?」  薄紅く紫雲英《げんげさう》の咲いてゐる田圃を、子供が牛をひいて、土を鋤《す》いてゐるのを眺めると、佐山は無錫の兵姑宿舍での黄昏《たそがれ》を思ひ出してゐた。  支那の農婦《のうふ》が、戰ひのさなかにあつても、せつせと、廣い畑地《はたち》を耕作して、來春の備へにしてゐる甲斐々々《かひ/″\》しい姿を、佐山は忘れることが出來なかつた。  いま眼の前に、農村《のうそん》の子供の働いてゐる姿を見ると、佐山は無性《むしやう》に涙が溢れて來さうで仕方がない。  今日は日曜日、ぐじぐじしてゐた天氣《てんき》も晴れて、今日は、蟇目《ひきめ》に誘はれて佐山はハイキング姿で鑛山へ遊びに來たのだ。一緒に仙人峠《せんにんたうげ》を越えた、北海道の輪西《わにし》から來たと云ふ鑛夫にも、會へれば會ひたいと思つてゐた。  大橋の驛へは、蟇目《ひきめ》の友人だと云ふ、事務所に働いてゐる佐藤と云ふ男が迎へに來てゐた。  煤けた驛には、近くの農村から來てゐる選鑛婦《せんくわうふ》が四五人、リユツクを背負つた佐山達を珍らしさうに眺《なが》めてゐる。  佐山達は、事務所の横にある倶樂部《くらぶ》へ案内されたが、倶樂部と云つても日本間の暗い部屋で、如何にも下宿屋の下座敷《しもざしき》と云つたところであつた。 「こゝの鑛山管理をしてをられる課長の本間と云ふ方は、この鑛山《やま》に十六七年もをられる方ですが、非常に地味《ぢみ》な人で、この鑛山では信望のある人です。――僕は、こんな「土《つち》の人格者《じんかくしや》」に、何故、政府が禮をもつて報いないのかと不思議《ふしぎ》に思つてゐるンですよ、――釜石の鐵は無盡藏にあるンださうですが、どうして、外國から屑鐵《くづてつ》なんか買つたりするんだらうかと、きくと、本間さんは、如何に鐵が無限《むげん》に出るからと云つても、禪坊主が齋《とき》に會つたやうに、貪《むさぼ》り喰ふことは、即ち、計畫もなく採り盡すことは、胃腸《ゐちやう》障害《しやうがい》を起す原因だと云ふンです‥‥」  佐藤は縁側《えんがは》で茶をすゝりながら面白い話をしてゐた、――こゝでは、尾形氏《をがたし》の後輩である京都帝大の冶金出の荒城《あらき》氏が、佐山達を坑内《かうない》へ案内してくれた。  日曜日だつたけれど、獨身《どくしん》の荒城氏は、宿舍にゐても仕方がありませんから、僕《ぼく》もお供さして戴きますと、佐山、蟇目《ひきめ》、佐藤、荒城の四人の青年達と、ぶらぶら十二|番坑《ばんかう》の方へ山を登つて行つた。  山の狹間《はざま》を溪流が淙々《そう/\》と流れてゐる。黄い砂地のやうな山徑《やまみち》を、蟇目と佐藤、佐山と荒城と云ふ風に並んで登《のぼ》つてゐる。  右側の斜面には、鑛夫《くわうふ》や社員の新しい社宅が並んでゐた。日曜日なので、鑛山《くわうざん》の子供達も、社宅の路地々々で賑《にぎ》やかに遊んでゐる。 「佐山《さやま》さんは帝大《ていだい》を出られたンださうですね? ボートをやつてをられたンだとかつて‥‥」 「いやア、誰《だれ》にお訊きになりました?」 「僕も實は京都でボートをやつてゐたンですよ、鑛山《くわうざん》へ來たら、河童が陸へあがつたも同然《どうぜん》で‥‥まア、まだ、あなたは、海《うみ》が見られるだけでも羨《うらや》ましいですよ‥‥」 [#9字下げ]○ 「僕は學校《がつかう》を出たてのほやほやですが、どうも、このごろ、卒業《そつげふ》技術《ぎじゆつ》と云ふものが、いかに役に立たないかと云ふことをつくづく悟りました。――學校で學んだわづかの技術が、全《すべ》てだと云ふ觀念《くわんねん》を持つて鑛山へ來ると、とんだ誤算《ごさん》をしなければなりませんね、さつきも佐藤君がいつてたやうに、こゝの本間さんは、全く人格者《じんかくしや》でしてねえ(技術《ぎじゆつ》の粹)といふことを、よく口癖におつしやつてゐられる方ですが、あらゆる事實《じじつ》から、學理といふものが生れ、出來《でき》た學理を應用《おうよう》して、新しい事實を創造《さうざう》するのが(技術の粹)なのださうです。僕は、この言葉を非常に敬服してゐます‥‥」  無口さうな荒城《あらき》青年《せいねん》が、ぽつりぽつり、山を登りながら話してゐる。  十二番坑の新しい坑道の入口には、トロツコが、鑛石《くわうせき》をいつぱい積んで暗い坑内《かうない》まで續いてゐた。  明るい陽が、山肌《やまはだ》を反射させ春の山々《やま/\》は、七寶のやうに草木が光つてゐる。十七八の、選鑛婦らしい、美しい娘が、紺飛白にもんぺ姿で、仔犬《こいぬ》とたはむれながら、坑道《かうだう》入口《いりぐち》にある番小舍のやうな處《ところ》へ上がつて來た。  蟇目は、おもひがけない美しい娘の出現に、藹々《あい/\》とした眼を向《む》けてゐる。  佐山達《さやまたち》は、この坑道の入口で日向《ひなた》ぼつこをしながら、持參の握り飯を開いた。佐藤や荒城にも分配して、山肌を眺めながら、愉しい食事《しよくじ》をとつた。  妻《つま》をめとらば、才《さい》たけてえ、―みめうるはしく情あるウ‥‥。  蟇目が與謝野鐵幹の歌をうたひ出したので、佐山も荒城達《あらきたち》も聲をそろへて歌《うた》ひ出した。 「海の彼方《かなた》で、戰ひがあるともおもへないほど、靜《しづ》かな日ですね‥‥」  蟇目はさう云ひながら、リユツクから寫眞機《しやしんき》を出して、若い選鑛婦《せんくわうふ》を寫してやつてゐる。 「ねえ、佐藤君《さとうくん》、この釜石は、たしか、津波《つなみ》のあつた處でしたねえ?」 「えゝ、さうですよ。僕は知りませんけど、何でも、入江《いりえ》の中に、漏斗形の斷層《だんそう》があつて、その關係で津波《つなみ》があるンださうですが‥‥此邊《このへん》の海の中は凄い段丘をなしてゐるンぢやないかと僕は思つてゐるんです」 「こんなところへ來て、鑛床を發見《はつけん》した人は偉《えら》いものですね‥‥」  佐藤はトロツコから鑛石《くわうせき》を一つ選り出して來て、それをみんなにみせた。佐山《さやま》は、この釜石鑛山を開拓《かいたく》した人のことを、しきりに感心《かんしん》してゐる。 「さア、リユツクはこの小舍《こや》へ預けて、坑内へ這入《はい》つてみませう‥‥」  荒城の案内《あんない》で、佐山と蟇目《ひきめ》は、小舍へリユツクを預け、手に手にランプを[#「ランプを」は底本では「_ンプを」]さげて暗い坑内へ這入つて行つた。ランプの炎が四ツ、雨のやうな滴《しづく》のしたゝる暗い中を進《すゝ》んでゆく。レールの敷いてある坑道《かうだう》は、びちやびちやの水溜《みづたま》りで、奧へ行くほど、天井から雨のやうに水滴がしたゝつてゐる。  四人の影が小さくなつたり大きくなつたりして、濡《ぬ》れた坑壁に寫《うつ》つてゐる。 「奧《おく》まで四キロ位《ぐらゐ》あるンですか?」  佐山《さやま》が尋ねた。 「いや、もつとあります、八キロ位《くらゐ》かな‥‥歸りは、トロツコで出《で》ませう‥‥」  暗いなかで、四人は、時々|鑛夫《くわうふ》に會つた。  佐山は鑛夫《くわうふ》に出會ふたび、ランプを高《たか》くさしあげてゐる。 「中々冷えますね、この水の中で、長時間、仕事《しごと》を續けてゆく鑛夫《くわうふ》も偉いもんだなア‥‥」  蟇目が感心《かんしん》してゐる。 「おーい、おーい、旦那《だんな》ぢやアありませんか‥‥」  後から、四人を追つかけて、若い鑛夫《くわうふ》の聲が走つて來《き》た。 [#9字下げ]○  若い鑛夫《くわうふ》はなつかしさうに佐山達《さやまたち》のところへ走つて來た。 「なにね、さつき、驛のところで、どうもよく似た先生《せんせい》だと思つて見《み》てをつたンですよ」 「いやア、そりやアどうも‥‥元氣《げんき》だつた?」 「へえ、お蔭樣《かげさま》で‥‥」  若い鑛夫は、自分も丁度二時から交代だと云つて、暗い坑道《かうだう》のなかを佐山《さやま》達について來た。 「君も、この十二|番坑《ばんかう》なのかい?」 「いゝえ、私《わたし》はもつと山の奧ですよ」  カアバイトの裸火が、天井から滴《しづく》を受けるたびに、炎《ほのほ》を裂くやうにして燃えたつてゐる。 「君は新《あたら》しく來たンだけど、この鑛山《くわうざん》の從業員達はどうなの? 輪西と同じやうですか?」 「へえ、つきあひは、とても樂でがすよ」 「こゝの從業員《じうげふゐん》の精神訓練は、何《なん》と云つても、やはり、形から心へ注入する方がよいやうですね。よその鑛山は知りませんが、こゝは、非常に和氣《わき》藹々《あい/\》として、毎朝《まいあさ》入坑前《にふかうまへ》に宮城遙拜をやつてゐます。――鑛山《くわうざん》へ來てからは、心氣《しんき》爽《さわや》かで、つまらん事にこだはる氣持が段々なくなつて來ました」  荒城が、鑛夫に變つて説明《せつめい》をしてくれた。  一時間ばかり、五人は坑内の作業状態を見て、歸りは鑛石《くわうせき》を積んだトロツコへ乘つて坑内《かうない》を出た。  爽かな山風《やまかぜ》が吹いてゐた。 「ぢやア、先生、お大事《だいじ》になすつて‥‥」 「あゝ有難《ありがた》う。君も、町の方へ遊びに來給へ」  若い鑛夫は、帽子の上から手拭で頬かぶりをして、乾《かわ》いた山徑を登《のぼ》つて行つた。  小舍《こや》の前には、もう、さつきの選鑛婦《せんくわうふ》たちはゐなかつた。四人は倶樂部へ歸り、澁茶をすゝつて、呆んやり寢轉《ねころ》んでゐた。  佐山はリユツクを枕に暫く夢現《ゆめうつゝ》でゐたが、耳のそばで、ヒユツ、ヒユツと小鳥《ことり》の鳴くやうな彈《たま》の音を聞いた。暫くすると、雪崩《なだれ》のやうな地響きをたてゝいん/\と砲聲《はうせい》がとゞろいてゐる。兵頭の顏、杉本《すぎもと》の顏、部隊長の顏、支那兵《しなへい》の顏、夜明けの竹林の景色なんかが、フラツシユで明るくなるやうに鮮《あざや》かに浮んで來る。 「さア、佐山《さやま》さん、そろそろ歸《かへ》りませうか‥‥」  蟇目の呼ぶ聲で、佐山はふつと飛び起きたが、佐山《さやま》にとつて、こんな、眞晝《まひる》の夢は初めてゞある。額に汗《あせ》がにじんでゐた。 「さつき、山の方ですごい音《おと》がしてゐましたが、ハツパでもかける音《おと》ですか?」  蟇目が、荒城《あらき》に尋ねてゐる。  佐山は煙草を出して口に咥へたが、さつきの夢の後味《あとあぢ》は、少年のやうな淋《さび》しいものをさそつてゐた。 「まア、鐵鑛《てつくわう》の埋藏量としては、北海道《ほつかいだう》とか、この岩手、それから新潟なんて主なものでせうが、島根とか九州方面にも相當の砂鐵があるさうです。朝鮮《てうせん》、滿州方面も非常《ひじやう》に良質なものが澤山ありますし、――現在《げんざい》の日本の製鋼法では、屑鐵《くづてつ》を澤山使つてゐるやうですが、政府としては目下のところ、銑鋼一貫作業を奬めて、屑鐵の使用《しよう》を少くする方法《はうはふ》を考へてゐるやうですね。ねえ佐山さん、砂鐵《さてつ》の利用は、電氣製鐵《でんきせいてつ》の方面のみ使はれてゐますが、砂鐵の研究はその後進歩してゐるやうでせうか?」  荒城が、熱心《ねつしん》に蟇目に話してゐたが、佐山が煙草《たばこ》を喫つてゐるのを見て、荒城は佐山にも話しかけて來た。 「さうですね、砂鐵の利用も、此頃は色々考へられてをつて、或程度《あるていど》まで進歩《しんぽ》してゐるンぢやないかと思《おも》はれますが?――これからの資源利用《しげんりよう》と云ふことは、科學研究の問題が、日本將來の資源の根本をなすものだと思ひますね。僕も、その砂鐵《さてつ》の問題はおそまきながら研究《けんきう》してみませう」 [#9字下げ]○  佐山と蟇目が、里仁寮《りじんれう》へ歸つて來たのは黄昏頃《たそがれごろ》であつた。  佐山の机の上に電報《でんぽう》がのつてゐる。  佐山は親爺でも來ると云ふ電報かなと、手《て》にとつて開いてみると、二三|日《にち》うちにそちらへ行くと云ふ郷子《くにこ》からの電報であつた。おもひがけない郷子《くにこ》からの知らせに、佐山は暫くそこへつゝ立つてゐた。  何度讀みかへしてもクニコと云ふ文字《もじ》が消えない。 (二三日うちに郷子《くにこ》が來る‥‥)  佐山は赧《あか》くなつてゐた。 「どうしたンです。郷里《くに》からですか?」  蟇目は手拭《てぬぐひ》と石鹸箱をとつて、 「どうです? 風呂へにでも這入《はい》りませんか」  と、佐山を誘つた。 「さきへ這入《はい》つてゐて下さい‥‥」  蟇目は、では、おさきにと廊下へ出て行つた。佐山《さやま》は一人になると、電報《でんぽう》を持つたまゝ本箱に凭れてみたり、机《つくゑ》に腰をかけてみたりして落《お》ちつかなかつた。  もう、すべては虚空の彼方に消えてしまつてゐるはずの、郷子《くにこ》の愛情が、この短かい電文《でんぶん》のなかには滿ち溢《あふ》れてゐるし、不具者《ふぐしや》になつてしまつてゐる、この自分に、かくまでも深くつきつめた愛情を持つてゐてくれるのかとおもふと佐山は、自分《じぶん》も(スグオイデコフ)の電報《でんぽう》を打ちたい思ひであつた。だけど、軈《やが》て、近々にやつて來る老父《らうふ》のことや、遠藤氏の娘の問題なんかを考へると一應は佐山《さやま》も考へざるを得ない。  郷子《くにこ》が二三日うちに來《く》るとしても、一應は手紙をやつてみようと佐山は思つた。二人とも愛しあつてゐるとは云ふものゝ、犬や猫の結婚のやうに簡單《かんたん》にはゆかない。――しかも佐山《さやま》は、自分の戰傷《せんしやう》の躯について少しも卑下《ひげ》する思ひはさらさらないとは云ふものの、一抹の淋しさが、まるで、駄々をこねるやうな氣持になつて、そつと頭《あたま》を持ちあげて來《き》てゐるのだつた。  頼信紙《らいしんし》を出して、(テガミダシタ、シユツパツオマチコフ)と何枚も書いてみたけれど、結局郷子の、純一な感情の溢れた電文《でんぶん》のやうにはゆかない、或るもどかしさを佐山《さやま》は感じてゐる。  食堂へ出ても、佐山は食慾《しよくよく》もなく、妙《めう》に落ちつかなかつた。 「佐山《さやま》さん」 「何だい」  給仕《きふじ》をしてゐる女中《ぢよちゆう》が笑ひながら、さつきの電文はどなたですと冷やかしてゐる。 「誰でもいゝさ‥‥」  蟇目は急《きふ》に眼を輝やかせて、 「そんな電報《でんぽう》なの?」  と給仕の女《をんな》に聞いた。  向ふの席では、二三人の女中達《ぢよちゆうたち》が、卓子で、雜談をしながら縫物《ぬひもの》をしてゐる。 「ねえ、女相撲《をんなずまふ》が來てるンですつてよ。佐山《さやま》さん、女相撲をごらんになつた事ありますか?」  一人の女中が佐山に女相撲《をんなずまふ》を見たことがあるかと訊《き》いた。 「へえー、女相撲《をんなずまふ》つて云ふのがあるのかい?」 「えゝ、こゝはねえ、女相撲と浪花節《なにはぶし》だつたら大入滿員《おほいりまんゐん》なンですよ‥‥蟇目さんもいかゞ? 今夜、行つてらつしやいましよ」  蟇目は、それは是非一見しておく必要があると云つて、佐山《さやま》や、食堂にゐる二三|人《にん》のものに盛んに同行《どうかう》をすゝめてゐる。  軈て蟇目は二三の友人と連れ立つて、暗い町へ女相撲《をんなずまふ》を見に出掛《でか》けて行つた。  佐山も食後《しよくご》、製鐵所の横を通つて、大渡川《おほわたりがは》[#「おほわたりがは」は底本では「おほとがは」]の橋のそばまで、散歩をこゝろみてゐたが、急に思ひ出したやうに、鈴子公園まで引きかへして、社宅《しやたく》に尾形氏を訪問してみようと思《おも》つた。郷子の問題を、尾形氏《をがたし》に相談してみるつもりであつた。 [#9字下げ]○  尾形氏《をがたし》はこんなことを云つた。 「――ねえ、佐山君、人間《にんげん》と云ふものは、あんまりながく、寂寥《せきれう》のなかにゐるものぢやありませんよ、寂寥のなかにながく齒を喰《く》ひしばつてゐると、狂人になるか、變質者《へんしつしや》になつて、何等の進歩《しんぽ》も求められなくなつてしまふ‥‥私は、この鑛山《くわうざん》へ來て、淋しくなつた時、自然に妻をもらひました。夫婦《ふうふ》だけで淋しがつてゐる時、子供が順々に出來て、また新《あたら》しい希望が湧いてきました。友人も出來たし、この土地《とち》も好きになつたし、――ところが、このごろ、また、なかだるみ[#「なかだるみ」に傍点]の年齡《とし》に達した僕に、今度の事變は驚くべき活素《くわつそ》を、僕の仕事に興へてくれましたよ‥‥」  尾形氏の奧さんが林檎《りんご》を剥いて持つて來た。  縁側にはベビーオルガンが一臺|置《お》いてある。オルガンの椅子の背に、女の子の赤い服《ふく》が引つかけてあつた。 「その女性が見えたとしても、生活《せいくわつ》はまた何とかなるものだし、――君にも似合《にあ》はない、元氣を出すさ、元氣《げんき》を‥‥」  さう云つて尾形氏は、次の部屋《へや》から將棋盤をかゝへて持つて來た。 「一戰|如何《いかゞ》ですか?」 「いゝですね‥‥」  二人は盤に向《むか》ひあつた。  紅茶《こうちや》を淹れて來た奧さんは、電氣のコードを盤面《ばんめん》へさげてくれた。佐山は、何と云ふこともなく、尾形氏の日常のこの生活《せいくわつ》を羨ましいと考へてゐる。  河原の砂《すな》のなかに咲いてゐる花のやうな、そんな靜かな尾形氏《をがたし》の奧さんは、灰皿を二つ持つて來て、一つづつ盤の横《よこ》へ置くと、そのまゝ靜かに次《つぎ》の部屋へ引こんでしまつた。 「遠藤氏《ゑんどうし》の娘さんの方は、いくらでも斷われるではありませんか、えゝ? 娘《むすめ》が女學校を卒業して、すぐ結婚生活《けつこんせいくわつ》に這入ることは、いまの社會《しやくわい》では一寸冐險だし、何も、君が、義理を感じることもないでせう‥‥もつとも、君《きみ》が、そのお孃さんを愛してゐるのならば別問題《べつもんだい》ですがね」 「いやア、愛《あい》するも愛さないも、――私はまだ、遠藤さんの令孃《れいぢやう》に對しては何の感情もありません、――たゞ彼女は、偶然《ぐうぜん》、手近に僕を發見したンで、そんな風な氣持になつたのだと思《おも》ひます‥‥」  盤の上を見つめながら、二人《ふたり》はぽつりぽつり語りあつてゐた。 「植村《うゑむら》郷子さんはいくつです?」 「さア、二十二か三かと思ひますが‥‥」 「ふうん、落《お》ちついた人らしいですね。――お故郷《くに》はどちら?」 「滋賀縣《しがけん》です」 「滋賀縣は何處《どこ》です?」 「大津《おほつ》ださうです‥‥」 「へえー、それはなつかしいなア、僕は、濱大津《はまおほつ》の驛の近くの、藏橋町と云ふ處へ下宿《げしゆく》をしてゐた事がありますよ。郵便局《いうびんきよく》[#「いうびんきよく」は底本では「ゆうびんきよく」]の近くでしたがね」 「ほう、さうですか、私は、學校にゐた頃《ころ》、ボートをやつてゐたものですから、瀬田川《せたがは》には時々遠征にゆきましたが、琵琶湖《びはこ》のあの邊りは、實にのんびりしていゝ處《ところ》ですね」 「えゝ昔はね、――いまは、湖畔《こはん》も色んな會社が出來て段々變つて來《き》てゐるでせう‥‥去年家族を連れて石山見物《いしやまけんぶつ》に行つて來たンですが、粟津ケ原にレーヨン會社なンか建《た》つてゐてあの邊も隨分變つたものだと吃驚《びつくり》しましたよ」 「さうですかねえ、――ところで神田《かんだ》八段を眞似てと、こゝは四四角と捌《さば》きますかな‥‥」 「はつははは‥‥神田《かんだ》八段はよかつたな、さアてと、‥‥」  尾形氏が煙草《たばこ》をつけた。  佐山も「光」を口に咥へた。縁側《えんがは》の暗い硝子戸の向ふに、日も夜も、かつかつと燃《も》えさかつてゐる熔鑛爐《ようくわうろ》の火が、天を焦すやうに噴きあげてゐる。まるで炬火《たいまつ》のやうに華々しい炎であつた。 [#9字下げ]○ [#ここから3字下げ] さかしい眼《め》をするあをい狐よ 夏葦《なつあし》のしげるなかに おまへの足《あし》をやすめて うららかに光明の心《しん》をきる 草間の風《かぜ》を その豐麗な脊《せ》にうけよ 脊にうけよ。 [#ここで字下げ終わり]  再び戻つて來た故郷の湖《みづうみ》は綺麗な春の景色であつた。  障子を開《あ》けると、白い周遊船が湖の上を走つてゐる。郷子は風呂《ふろ》からあがつて、足の爪をきつてゐた。妹の机《つくゑ》の上に、「藍色の蟇」と云ふ、青《あを》い革の詩集が置いてある。妹はもう、こんなものを讀んでゐたのかと、郷子《くにこ》はぱらぱらとその本をめくりながら、不圖《ふと》、こんな詩が眼にとまつた。  夏葦のしげるなかに、おまへの足《あし》をやすめて‥‥郷子は、のしあがるやうな愉《たの》しい思ひで、この詩集の大手拓次《おほてたくじ》と云ふひとを考へてゐる。 (さうなンですよ、私は夏葦《なつあし》のしげるなかに、素足を樂々と冷《ひや》してやすみたいのです)  りくの遺骨《ゐこつ》を、郷子ははるばると故郷へ持つて歸《かへ》つたのだ。  家のものたちは誰も苦情《くじやう》は云はなかつたけれど、りくの遺骨は本當《ほんたう》の家に歸つて來ても、何となく淋《さみ》しさうだつた。  その夜、郷子は、店の間で父《ちゝ》とながいあひだ話をした。 「私は、明日、佐山さんの處へ發《た》つてゆかうと思ひますけど‥‥」 「お前の勝手《かつて》にしたらよからう、お母さんも、仕方《しかた》がないと云ふとる‥‥」 「お母さんは、私は義理《ぎり》の子供ですもん、私に就いては、色々|御心配《ごしんぱい》もあるでせうけれど、私かて、どうせ、どつか[#「どつか」は底本では「どつかい」]行く躯《からだ》なンですから、それはもう、あきらめて貰《もら》はなければ‥‥啓ちやんも、一年早う東京《とうきやう》へ出て來ましたけど、いまはもう大丈夫《だいじやうぶ》な處まで行つてゐますし、マツちやんも學校《がくかう》は受かつたし、お母さんの身にすれば、ほんとに幸福《しあはせ》や思ふンですけどねえ‥‥」  平造《へいざう》は默つてゐた。 「お父さん、おかあさんはねえ、うちの名前《なまへ》で貯金してくれはつたのよ、――何だか、貯金帳みた時、とても哀《かな》しかつて、おかあさん云ふひとは、ほんまに氣《き》の毒《どく》や思ひました‥‥」 「なんぼうしとつたンかい?」 「二百圓と一寸、――それでなア、お葬式《さうしき》も濟ませましたンよ、――まア、濟《す》んだことは仕方がないけど、おかあさんも苦勞《くらう》して死んで、ほんまにつまらんわねえ‥‥」 「瀬田のが、大阪《おほさか》のと行つとつたさうぢや云うてたが‥‥」 「えゝ、雨宮《あめみや》さんでせう、家へ來てくれはつて、二十圓|香奠《かうでん》を貰ひました。でも、うち、あんなひと好かんわ、――何で、お父さんは、あんなひとがいゝのかしらん‥‥」 「うん、瀬田のが、えらい惚《ほ》れこんでしまうとるよつてなア‥‥」  病後のせゐか、平造《へいざう》は、郷子に前ほどとげとげしくなかつた。これも、みんな、りくの遺骨が守つてくれてゐるのかも知れないと、郷子《くにこ》は亡くなつた生母《はゝ》に感謝してゐる。 「明日、お寺へお骨を納《をさ》めて、うち夜行で發《た》ちますよ」 「まア、えゝやうにしなさい。後悔《こうくわい》のないやうに‥‥ところで、戸田の娘は、今度《こんど》、看護婦で支那へ行くのやさうなが、段々、此頃の女子《をなご》もきつうなつたもンやなア‥‥」 「まア、安子《やすこ》さんが支那へ行くンですか? あつちから云つて來《き》たのかしら?」 「いや、一|週間位《しうかんぐらゐ》前かいな、そんなたよりが來た云うて、戸田《とだ》で話をしとつた‥‥」  うららかに光明の心《しん》をきる草間《くさま》の風よ! 郷子は明日の出發が、湧《わ》くやうに愉しかつた。 [#9字下げ]○  郷子は朝の食事《しよくじ》が濟むとすぐ、驛へ釜石までの切符《きつぷ》を買ひに行つた。  釜石へ行くには、仙人峠《せんにんたうげ》までしか、切符がないのださうで、如何にも、講談本《かうだんぼん》に出て來るやうな古《ふる》めかしい土地の名に、郷子は佐山のゐる處《ところ》までを、はるばると遠いものに感じてゐる。  人の想ひつめる氣持《きもち》は、こんなにも激しい力や、心を、神樣《かみさま》が與へてくれるものなのかと、郷子《くにこ》は仙人峠までの切符を、汚れないやうに塵紙につゝンで小さい財布《さいふ》へしまつた。  驛のかへり、義仲寺へまはつて、郷子は今西油店の空地《あきち》の横を通つて湖畔の方へ降りて行つた。  空地の横には、遲れ咲きの菜種《なたね》の花が咲いてゐる。  白い蝶々《てふ/\》が五六匹もひらひら飛んでゐた。  琵琶湖の水は、どうしてこんなに綺麗《きれい》なんだらう、郷子はひたひたと小波《さゞなみ》をよせてゐる水を手ですくひながら、遠く比良《ひら》の山を眺めてゐた。  何年《なんねん》さきに、この景色のなかへ戻つて來られるかはわからないけれど、郷子《くにこ》は湖上を吹く柔い風に、ぢつと眼を細《ほそ》めて長い間ぢつとしてゐた。  貧しくつて、何一つ持《も》つてゆけるのではないけれど、こんなに考《かんが》へてゐる女の思ひを、あのひとは素直《すなほ》に受けてくれない筈はない‥‥郷子は、四圍に誰もゐなかつたので口笛《くちぶえ》を吹いてみた。  口笛は男の子のやうに上手《じやうず》に鳴らなかつたけれど、ひゆう、ひゆう、と吹《ふ》いてゐると、たどたどしい音色が、比良の山に木靈してゐるやうにも思《おも》へる。  軈て、家へ戻《もど》つてくると、家の前に自動車がとまつてゐた。  雨宮《あめみや》が一人で訪ねてきてゐた。  郷子が二階へ上がつて行くと、階下《かいか》から父の聲がして、郷子を呼《よ》んでゐる。  郷子は夕方までに、りくの遺骨を寺へ持つて行《ゆ》かなければならなかつたので、寺の歸《かへ》りを、そのまま驛《えき》へ行くつもりで、妹の鏡の前に立つて着物を着替《きが》へてゐた。  母は用事に出かけて留守《るす》――支度をして階下へ降りて行くと、父は母を呼《よ》びに行つたのか、雨宮が洋服姿《やうふくすがた》で立つてゐた。 「いらつしやい‥‥」 「今日、あンた、東京《とうきやう》へ行くンだつて、いまお父さんにきゝましたが、本當《ほんたう》?」 「えゝ、今夜《こんや》、夜行で發ちます‥‥」 「そんな、そんな莫迦《ばか》な話があるもンですか! 東京へは、何時《いつ》でも行けます――瀬田の叔母さんを頼《たよ》つてゐたンでは埓があかんので、今日、僕、自動車《くるま》で京都から來《き》たンでつせ‥‥」 「叔母さんが、何か勝手《かつて》に、私のことを、あれこれしてはつても、私《わたし》の知つたことぢやないぢやアありませんか‥‥」 「そら、知つたことぢやないでせうけど、こゝの植村《うゑむら》さんの家の問題に就いては、もうせんから、僕が相談《さうだん》を受けてゐるンですよ、今度の妹のマツヱさんの[#「妹のマツヱさんの」は底本では「マツヱさんの妹の」]上京に就《つ》いても‥‥」  郷子は眼《め》を瞠つてゐた。  雨宮《あめみや》はぢつと郷子の顏を見おろしてゐたが、不意《ふい》と郷子の手をとつた。  郷子は激しい力で、雨宮の手《て》をはらひのけると、臺所の柱《はしら》の後へ行つた。 「いくら逃《に》げたつて、僕は郷子さんをあきらめること出來ん‥‥」  さう云つて、雨宮《あめみや》は、郷子のそばへ近よつて來た。雨宮は大きい耳《みゝ》をしてゐた。郷子は近寄つて來る雨宮の顏に、氣味が惡《わる》くなつて、いつとき柱につかまつてゐたが、 「雨宮さんつて、大嫌《だいきら》ひだわ」  と、一|生懸命《しやうけんめい》で云つた。 [#9字下げ]○  こんな氣持《きもち》になつたことに、むつかしい説明《せつめい》はつけられないけれど、郷子は、もしも、佐山が歸つてくれと云つても、どうしても動《うご》かないつもりで、ふところに、しつかりと仙人峠《せんにんたうげ》行の切符《きつぷ》をしまつてゐる。  上野の、西郷さんの銅像《どうざう》を後にして、郷子は一枝と二人で、賑《にぎ》やかな街の灯を見てゐた。 「丁度、一|年《ねん》と一寸ね‥‥」 「何《なに》が?」 「うゝん、私が東京《とうきやう》にゐたのよ、――色んなことがあつたけど、もう、釜石《かまいし》へ行つたら、當分、東京へも戻《もど》つて來られないわね」 「たうとう、あの雨宮さんて方、郷子《くにこ》さんとは駄目だつたのね‥‥」 「あら、考《かんが》へただけでも厭だわ、とても、耳の大きいひとよ、氣持《きもち》が惡いわ‥‥」 「耳の動《うご》くひとがあるンですつてね‥‥」 「おゝ氣持が惡《わる》い‥‥」 「佐山さんて方の耳《みゝ》はどうなの?」 「まア! そんなの知らないわよ、――明日《あす》、行つたらよく見てみるわ」 「報告《はうこく》して頂戴ね」  二人は女學生《ぢよがくせい》にかへつて、耳の話でくつくつと笑《わら》ひこけた。 「嘉兵衞《かへゑ》さんはまだ、おたよりない?」 「えゝ梨のつぶてなの、――アメリカへ歸つたのかも知れないわ、私《わたし》は、もういゝのよ、若《わか》いンだから、そのうち戀人《こひびと》をみつけの‥‥」  職工らしい若い男が、ハモニカを吹いて公園《こうゑん》の方へ行つた。 「一寸、郷子《くにこ》さん手を出してごらンなさい」 「何かくれるの?」 「うん、いゝものあげるわ‥‥」  郷子が手を出すと、一枝は郷子の手を強く握つて、郷子《くにこ》の手の甲に接吻《せつぷん》をした。 「何も上げるものがないから、友情《いうじやう》のキツス、――さて、時間《じかん》は大丈夫?」  郷子は、何かにつまづいたやうに胸が熱くなり、一枝《かずえ》の優しさを嬉しいものに思《おも》つた。柔い一枝の唇《くちびる》が手の甲にふれた時、郷子は、こみあげて來る哀しさが瞼に沁みた。 「今夜このまゝ別れるの、つまらないわねえ‥‥」 「あんな口のうまいこと云つてるわ、心のうちでは、一|足飛《そくと》びに佐山さんに逢《あ》ひたいくせに、――逢つたら、郷子《くにこ》さんは、何て云ふの?」 「來ましたつて云ふわ‥‥」 「ぷツ、來ましたなンての變《へん》よ、そんなのをかしいわ‥‥」 「お歸ンなさいなンて云はれたら、私《わたし》、どうしようかと心配《しんぱい》してるのよ‥‥」 「お歸ンなさいなンて云ふもンですか、郷子《くにこ》さんのやうなひとが追《お》ひかけて行つて、歸れなンて云ふ男《をとこ》のひとだつたら、一寸《ちよつと》氣《き》が變なのよ、――よく勉強しすぎた人で、そんなのゐるぢやない?」 「まア、厭な一枝さんねえ、さア、もう、驛《えき》へぼつぼつ[#「ぼつぼつ」は底本では「ぽつぽつ」]行《い》かなくちやア‥‥」  郷子はお嫁入《よめい》りだと云ふので、白い、小さい薔薇《ばら》の造花を髮にさしてゐた。髮を額の眞中から分けて、ゆるくふくらました束髮《そくはつ》が、横顏を中高にみせて清楚《せいそ》な感じである。 「あゝ、もう十五分しかないわ、郷子《くにこ》さん走らなくちやア‥‥」  石の段々《だん/\》を、二人は走つて降りてゐたが、最後《さいご》の段々のところで郷子は何かにつまづいて石道に膝をついた。 「いやーね、轉《ころ》んだりして‥‥」 「だつて、十五|分《ふん》だなンて云《い》ふンだもの‥‥」 「痛《いた》かつた?」 「痛《いた》かつたわ」 「今夜、汽車《きしや》の中で、その痛いのを味《あぢは》つて、さすつていらつしやい‥‥」 [#9字下げ]○  車窓《しやさう》[#「しやさう」は底本では「しやそう」]からのぞいてゐると、白い雲《くも》が風に吹かれて、遠い山の向ふや、畑地の上に樣々な姿で流れてゐる。  郷子は花卷で、仙人峠行の小さい輕便鐵道《けいべんてつだう》に乘りかへたが、行《ゆ》けども行けども、野や畑ばかりの窓外《そうぐわい》の景色に、段々心細さを感《かん》じはじめてきた。  隣席の農婦《のうふ》のやうなおばあさんに、 「仙人峠まで、まだ、どの位《くらゐ》ありますのでせうか?」  と、訊いてみた。 「はア、まだ、三|時間《じかん》か四時間はあるのでねえかね‥‥」 「まア、そんなにあるンでせうか?」  小さい汽車に、四時間もゆすぶられて、新一が、この線《せん》を通つて釜石《かまいし》へ行つたのかと考へると、郷子は、激しい熱情《ねつじやう》を持つて、仕事《しごと》へ突き進んで行つた佐山に、子供のやうな妬み心を感じてゐる。 「釜石へ行くのですが、仙人峠《せんにんたうげ》から、まだよほどあるでせうか?」  車掌《しやしやう》が通りかゝつたので、郷子《くにこ》は聞いてみた。 「釜石に行かれるのでしたら、仙人峠よりも、遠野《とほの》と云ふ處で降《お》りられて、それからバスに乘られた方《はう》がよろしいとおもひます。――仙人峠《せんにんたうげ》も、まだ頂上には雪がありますから、駕籠屋でも頼んでをられゝばいゝですが、さうでないと大橋の鑛山《くわうざん》まで行くのに夜《よる》になつてしまひますよ」 「まア‥‥その、遠野《とほの》と云ふ處から、釜石行《かまいしゆき》のバスがすぐ出てゐるでせうか?」 「はあ、それは、もう、此汽車《このきしや》と連絡してをりますから‥‥」  郷子は、こんなことなら、いつそ、仙人峠へ着く時間《じかん》を佐山に知《し》らせておけばよかつたと思つた。  軈て、汽車は遠野《とほの》と云ふ驛で停つた。  風《かぜ》が吹《ふ》いてゐた。  如何にも、古い宿場《しゆくば》のやうな町である。  驛員に尋ねたとほり、驛の前の自動車の車庫《しやこ》に行き、郷子は釜石《かまいし》行のバスの切符を買つた。――緑《みどり》に塗つた、大きい乘合バスを空想《くうさう》してゐた郷子には、普通の自動車に、五六人も壽司詰めに乘るのを見て、釜石《かまいし》までの遠さを考《かんが》へてゐる。  郷子は助手臺《じよしゆだい》へ乘つた。  自動車の窓はこはれてゐて、硝子戸が開けつぱなしだつた。自動車《じどうしや》にスピードがついて來《く》ると、砂風《すなかぜ》が吹きこんで來たが、その風《かぜ》は田舍《ゐなか》の匂ひがしてゐて郷子にはなつかしかつた。  笛吹峠の九十九折のやうな山坂を、自動車《じどうしや》はぐうんぐうんと唸《うな》りをたてゝ登つて行く。  芽をふく前の、雜木の山蔭《やまかげ》は、薄紅い色をしてゐた。  こんな淋しい山の向ふに、鐵をつくつてゐる賑《にぎ》やかな町があるとは、郷子《くにこ》にはどうしても考へられない。  笛吹峠《ふえふきたうげ》を越えて、溪流《けいりう》の音のきこえる岩山を降りると、炭燒小屋のやうな小さい小學校があつた。此邊の部落を青木村と云ふのだと運轉手《うんてんしゆ》が云つてゐた。 「炭燒きの子供達が、おもに、此學校へ行くのですがね、――先生《せんせい》が一人、生徒《せいと》が二十人位のものでせう‥‥」 「釜石《かまいし》までは、まだ遠《とほ》いンでせうか?」 「えゝ、まだかなりあります。夜になりませうな」  後では、釜石《かまいし》行《ゆ》きの乘客達は居眠《ゐねむ》りをしてゐた。  軈て、七時近くになつて、自動車《じどうしや》は山蔭の小さいトンネルを過《す》ぎた。 「お客《きやく》さん、ほら! あれが釜石です」  トンネルを出ると、火の海のやうな釜石《かまいし》の町が、郷子の顏をぱつと赤《あか》く照した。 [#9字下げ]○ 「釜石《かまいし》を、こんな處だとは思《おも》はなかつたでせう?」 「えゝ、賑やかな町で、吃驚《びつくり》しましたわ」 「夜はとても綺麗《きれい》ですからねえ‥‥熔鑛爐《ようくわうろ》の炎が凄かつたでせう?」 「えゝ‥‥山の上から見た町の灯は、まるで龍宮《りうぐう》へ來たみたいでしたわ‥‥」  郷子は昨夜《さくや》、里仁寮へ佐山を尋ねて、鈴子旅館《すゞこりよくわん》で食事を濟ませると、佐山の案内で尾形氏の家へ泊めて貰《もら》つたのである。  佐山は、今日は晝まで製鐵場で働き、晝すぎ、仕事服《しごとふく》のまゝで郷子を尾形氏《をがたし》の家へ迎ひに來て、昨夜《さくや》郷子《くにこ》の來た山の上の方へ二人《ふたり》でぶらぶらと歩いて行つた。  太平洋の、沁みるばかりの色《いろ》が、ぎらぎら春の日に光《ひか》つてゐる。  何處からか琴《こと》の音が流れてきた。  暫く二人《ふたり》は默つて歩いてゐた。  郷子はつまづきさうな山徑《やまみち》を、佐山に遲れないやうに後《うしろ》から登つて行く。 「ねえ、一週間ほど、あの、尾形《をがた》さんの家に厄介《やつかい》になつてゐられる?――そのうち、小さい家を何とかみつけようと思《おも》つてゐるンだけど‥‥」  東京へ歸れ、と云はれはしないかとびくびくしてゐた郷子《くにこ》は、愛情の溢《あふ》れた佐山の言葉《ことば》に、吃驚《びつくり》したやうにそこへ立ちどまつた。  そこへ蹲踞《しやが》んでしまひたいやうな嬉《うれ》しさだつた。 「岡部は飛行機で新婚旅行をしたンだつてね、生意氣《なまいき》な奴だなア‥‥郷子さんが、飛行場《ひかうぢやう》へ來てくれてうれしかつたと云つて來てましたよ‥‥」 「岡部さんも御出征《ごしゆつせい》なンですつて‥‥」 「昨日《きのふ》あたり行つてるはずだな‥‥」  今日も昨日と同じやうに、激しい風の日だ。白い雲が、海の彼方《かなた》へ流れてゐる。佐山《さやま》は海の見える、松の根方《ねかた》へ腰をかけた。  郷子も、佐山から少し離れた草原《くさはら》へ坐つた。  茫漠《ばうばく》[#「ばうばく」は底本では「ぼうばく」]とした遠い水平線《すゐへいせん》が、青い一色の虹の輪のやうに光つてゐる。 「だけど、二人《ふたり》は、よく生きてゐたものだ‥‥」  ふと、佐山は何氣《なにげ》なくそんなことを云《い》つた。  眉の太い、眼の光つた佐山の横顏を眺めて、郷子は幸福《かうふく》なおもひだつた。いまはふさふさと髮を生やしてゐる佐山《さやま》に、何だか違つた人のやうな恥《はぢ》らひも感じてゐる。  自動車が一臺、眼の下の山路《やまみち》を下つて行つた。――これからの、生活《せいくわつ》の設計に就いて、二人は何一つ話しあふではなかつたけれど、郷子も佐山も、軈《やが》て來る二人だけの日を、お互《たが》ひの胸の中では、あれこれと考へあつてゐた。 「どうして、そんな、遠《とほ》くへ居るの?」 「えゝ、だつて‥‥」 「もつと、こつちへいらつしやい‥‥」  郷子の額《ひたひ》が汗ばみ、赧くなつてゐる。  佐山は帽子をぬいで、その帽子の中で煙草《たばこ》に火をつけようとしてゐたが、左手《ひだりて》が不自由なので、マツチの火は度々《たび/″\》風《かぜ》に吹き消されてゐた。  郷子は、見兼ねて、ふつと佐山のそばへ行き、帽子を兩手《りやうて》で支へてやつた。帽子《ぼうし》は汗ばんで革臭い匂《にほ》ひがしてゐる。 「アヽ、煙草《たばこ》なンか、もうどうでもいい!」  佐山は、帽子を支へてゐる郷子の柔い指を、右手《みぎて》で、自分の膝へ強《つよ》く押した。  烏《からす》がよく鳴きたてゝゐる。  製鐵所の鐵を打つ音が、があんがあんと山へ響《ひゞ》いてゐたし、熔鑛爐《ようくわうろ》の紫色の煙が、東へもくもくと流れてゐる。  短い接吻《せつぷん》のあと、郷子は、佐山の帽子《ぼうし》をひろひ、砂をはらひながら、 「太平洋《たいへいやう》つて、私、初めて見るンですけど、廣い海《うみ》ですのねえ」  まぶしさうに白い手を額《ひたひ》にかざして、郷子《くにこ》は、海をぢつと見てゐた。 [#地から4字上げ](終) 底本:〈戦時下〉の女性文学 第2巻 波濤、ゆまに書房    2002(平成14)年5月23日発行