波濤 林芙美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)雨《あめ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二本|錘《おもり》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)うね[#「うね」に傍点] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]序  私は、この波濤について、序文らしいものを書くのは苦痛で仕方がありません。去年の十二月の終りから書きはじめ、約五ケ月、朝日の朝刊小説としてつづきました。五ケ月と云えば、私にとっては長い歳月のようにも想えます。読みかえしてみますと、一日一日の小説が、波濤の作者である「私」の日記でもあり、私の覚書のようなものでもあるのです。  従軍六十日のあと、病気と闘いながら、二冊の本を出して、そののち、この小説へかかったのですから、貧しいストーリーであったかもしれませんけれど、私は、悔いなく、この作品に全力をそそぎました。  いままで書いたどれよりも、私は、この作品には愛と憎しみの心を持って向っています。何だか、そんなけわしい気持を、隠すことが出来ません。私は五ケ月の歳月のなかに、毎日、この小説を書いてゆきながら、女の作家としての、あらゆる苦悩も味いつくしました。  作中、女主人公の郷子を、私はほんとうは少しも愛してはいなくて、この女を書くときの苦痛は残酷なほど苦しいものでしたのに、この作が終って、一つの本にまとまると云ういま、主人公の郷子へ対して、何とない哀憐を感じはじめて来ました。  私が、この作品を書いたただ一つのなぐさめは、この作品の主人公佐山新一を、兎にも角にも一人のエンジニヤとして登場させて幕を閉じたことです。私は、傷兵軍人の希望を書きたかったのです。地味で暗い作品であったかも知れませんが、私は私なりに一種の自負を持って書きました。  波濤が終ってから、私は過労のため一ケ月ほど床につきましたけれど、小説の終った直後の四五日は、毎晩、夜中になると、私は飛びおきては机に向っていました。頭のなかを去来するものは、波濤のなかの人物の影法師のみ、汗みずくになって勉強出来たことをいまでは嬉しくおもっております。――  日支事変が始まると、間もなく出征して、ウースンクリークで右手をなくした、伊藤武雄氏の独唱会が先日ありましたので、憂々としていた私は、一夕、伊藤氏の歌を青年会館に聴きにゆきました。右手に手袋をした伊藤氏は、昔の若々しいおもかげとはすっかり変っていて、精神的にも肉体的にも、何かしっかりした樹木の年輪をみるようなたのもしさを、私は、舞台の伊藤氏に感じました。  伊藤氏は私の親しい友人の一人なのですが、傷病兵として内地へ帰られてより、一度も親しくお話する折もなく、ただ手紙でのみ、伊藤氏の心境を知るのみでした。その夜の伊藤氏の独唱は、波濤を書き終った私には、万感こもごもの気持でした。  伊藤氏は、一つも戦争の歌をうたわず、ハイネの歌とか、幼き頃への憧れとか、牝鶏と鯉、告別、そんな美しいロマンチックなもののみを選ばれていました。私は聴きながら、こころ涼しい涙の溢れるにまかせていました。――作家として、人生を理解することの不足を恥じ、井口氏の美しいピアノの伴奏を聴きながら、私は、また、新しく、第一歩から自分の仕事を始めようとさえ考えました。  この夏は、高齢に老いつかれた母と二人で、私はひそやかな水いらずな旅をしようとおもっております。私はものを書くときだけが自由で素直でした。従軍からかえって、私は私に向って、いい生活をしたとはどうしても考えられないものを持っております。独りのなかに、安々と落ちこみ、私は泥まみれになって、この波濤と闘い、いまは闘いつかれて、呆んやりしております。  一ケ月の病床生活は、私に様々な反省をさしてくれましたし、いま、ようやく、以前の平和な私にたちかえりつつあります。ヘッセの言葉のなかに、人間と云うものは実に妙なものである。たとえば新しい生活と、満たされた希望のただ中にありながら、孤独に対し、否それのみかつれづれと空虚な日々に対し、不思議にも刹那的な、ただかすかに模糊として感じられる郷愁にしばしば襲われるものである。私は、この言葉ににじんでいる切ないものを、両の手で掬い飲む気持でさえおります。  波濤を書いた半歳の間に、私の生活にも、いろいろなことがありました。色々な苦しみのなかをよく耐えて、この作品を書きあげた事は、自分でも、従軍の折の熱情があったからだろうとおもっております。 [#ここから2字下げ] 私は馬銜《はみ》を噛んでつっ立っている孤独な馬だ。 はらわたをきしませて千里を歩もうとはしてはいるけれど、 すばらしい騎手がないためか馬は哀しみの首を垂れてたたずんでいる。 風が吹いてゆく、 うすら寒い風が吹いてゆく。 [#ここで字下げ終わり]  私のいまの心境はこんな気持です。また、明るい真夏がおとずれて、爽かな大気のなかに、さっさっと馳れる日もあるでしょう。母と旅をして、ささやかながら、清澄な愉しさを味い、秋にはドイツへ旅立ちたいと思っております。   昭和十四年六月十日記 [#地から4字上げ]林 芙美子 [#改丁]  三週間このかた、雨《あめ》も降らない寒い日が続いた。土は乾いてぼこぼこに埃立《ほこりだ》っている。  郷子《くにこ》の出京の日である。  洟《はな》をすすりながら、桑の根《ね》ッこを炉にくべていたマツエが、急に大きい声で唱歌《しょうか》をうたい出した。  炉のそばの框《かまち》に腰をかけて、草履《ぞうり》に新しい鼻緒《はなお》をすげていた郷子は、 「ねえ、マッちゃん、姉さんがいなくなったら、どうする?」  ふっと振りかえって郷子《くにこ》がそんなことを云った。  マツエは急に唱歌《しょうか》をやめて、振り向いている姉《あね》の顔を凝っと見ていたが、きょとんとした表情で、(どうするって‥‥)唇《くち》のうちでつぶやきながら、 「いなくなるって、何処へいなくなるのさ?」 「もう、じき、私、いなくなるのよ‥‥」 「そいで、鼻緒《はなお》すげてるの?」 「うん」 「何処《どこ》へ行くのよ?」 「遠いところへ‥‥」  車戸のついた重い障子戸《しょうじど》を開けて、弟の敬太郎がむっつりして台所口《だいどこぐち》から這入って来た。マツエは框へ来て郷子のそばへ蹲踞《しゃが》むと、 「敬《けい》ちゃん、姉さんねえ、どっかへ行くンだって、――それで鼻緒《はなお》すげてるンだってよ」  框を上りながら、敬太郎は吊り鐘マントをぬぐと、土蔵《どぞう》へ行く暗い廊下の処まで黙って行きかけたが、 「マツエ、大きい声《こえ》でそんな事云うもンじゃないよ、黙ってるンだ」  マツエはぎくっとしたように敬太郎《けいたろう》の方を振りかえったが、すぐばたばたと大きい足音《あしおと》をさせて、店の間の方へ走って行った。 「もう、わかってもいいのに‥‥」 「‥‥‥‥」 「怒《おこ》ってるの?」 「あと、どの位あるンです? 荷物《にもつ》はさっき、駅《えき》へ持って行きましたよ。――マツエがおッかさん達に告げ口すると困《こま》るじゃありませんか‥‥」  郷子《くにこ》は黙って鼻緒《はなお》をすげていたが、すうすうと床下から吹きあげてくる冷い風に、やがてぶっつかって来ようとしている、これからの不安な運命を皮膚《ひふ》に感じている。 「さっき、お父さんが、僕に変《へん》なことを云ってましたよ。――草津《くさつ》から持って来た金が足りないと云ってましたがねえ‥‥」  郷子は鼻緒《はなお》をすげ終ると、草履の腹を擦《す》り合せて、ばたばたと泥をはらって、それを丁寧に新聞紙に包《つつ》んだ。 「盗《と》ったの?」 「仕方がないじゃないのッ」 「いくら盗《と》ったの?」 「どうして? ――どうして訊《き》くの、そんなこと‥‥」 「困る金《かね》らしいから‥‥」  郷子は桑《くわ》の根が白くじょう[#「じょう」に傍点]になった炉《ろ》の火に、炭箱から炭をついだ。――二十一年間、この土地やこの家から離れたことのない自分が、谷間の下流のようなところへ押《お》し流れようとしている。遠い道は、淋《さび》しく、不安だけれど、胸に血の焼けるような、そんな複雑な愉《たの》しさも、なんとなく、あるのだ。 「お父さん、騒《さわ》いでいた?」 「いよいよ無ければ、警察《けいさつ》へ届けなければいかんと云ってましたよ。預《あずか》って来たばかりの金だそうだし、――あれがあれば、店の品も、大分、豊富《ほうふ》にはなるンでしょう‥‥」  郷子《くにこ》は暫く黙っていたが、やがて顔を真紅《まっか》にして敬太郎を見あげた。 「店の品物も大切だけれど‥‥私も、もう、じき、働《はたら》いて送ります。すぐ、働いて送ればいいでしょう。――すぐ働きますよ、盗《と》ったの、黙っていて、ねえ‥‥」 [#9字下げ]○  息をきらして道を歩きながら、郷子は星が綺麗《きれい》だとおもった。乾いた寒い夜風が襟《えり》にしみるようだった。 「あの手紙を見たらお父さん、吃驚《びっくり》するでしょうね?」 「叱《しか》られるのは僕だなァ‥‥」 「わかってるわ、でも、東京へ行きさえすれば、私、すぐ何《なん》でもして働いて、送るわ‥‥」 「財布《さいふ》を落さないようにしなさい」 「ええ大丈夫よ。――お父さんを困《こま》らせたお金だもの、私、これで、きっと、うまく働いてみせるわ」 「あッ火事《かじ》だッ!」  敬太郎が立ちどまった。駅《えき》の方にぱっと炎《ほのお》があがった。小料理屋だとか、肥料倉庫だとか、鉄工所の並んでいる辺《あたり》だ。近い半鐘が鳴り始めた。 「お父さん、火事見舞に行くね?」 「後《あと》から来たらどうする?」 「お寺の横を通って行こう。――一寸《ちょっと》、暗いけど、あすこなら、誰も通らないよ‥‥」  小学校の暗い椹《さわら》の垣根の横を通って、桑畑のうね[#「うね」に傍点]に沿って小径へ出て行った。火の粉を噴《ふ》きあげて、炎《ほのお》がかっと燃えあがっている。 「何処《どこ》が燃えているンだろう? 長いこと雨が降らないから随分燃えるわね。――ねえ、敬ちゃん、私、きっと、働く、働いて、敬ちゃんに上《うえ》の学校へ行って貰うようにする。あんな家なんか、敬ちゃんには可哀想《かわいそう》だわ」 「うん、まだ、一年あるから、よく考えてみる‥‥」 「学校《がっこう》へ行くこと?」 「ううん、学校なんかどうでもいい、飛行機《ひこうき》の方をやってみたいンだ‥‥」 「何云ってるの、厭《いや》なひとだ。――飛行機だなンて怖いじゃないの?」 「怖《こわ》いもンか、ちっとも怖いことなンかないよ」  星がすっと流れた。郷子は炎の弾《はじ》ける遠い音をきいて、ぶるっと躯が震《ふる》えた。(東京へ働きに行く――あの火事のように逞《たくま》しく働くのだわ‥‥)径も畑も、長い間乾いているので藁《わら》のような土の匂《にお》いがしている。 「急《いそ》がなくちゃ‥‥走ろう――」 「時間がないの?」 「ほら、もう汽笛《きてき》がきこえている」  敬太郎も郷子も暗い径《みち》を小走りに走りはじめた。――駅へ行くと、敬太郎は財布《さいふ》から切符を出している郷子《くにこ》へ、(もう、なかまで送らないよ)と小さい声で云った。 「ええいいのよ。早く家へ帰って頂戴《ちょうだい》。――元気でいてね‥‥」  凄《すさ》まじい音をたてて汽車がホームへ這入って来た。敬太郎が改札口の処に凭《もた》れて、マントから片手を出して失敬《しっけい》をした。郷子は父に似た背の高い敬太郎の姿を遠く車窓から眺めて、唇《くち》のなかで嗚咽《おえつ》していた。(お父さん、私が悪いンです、ごめんなさい‥‥)汽車が動き始めた。すぐホームは見えなくなったが、ぽきんと立っていた敬太郎の姿《すがた》が、郷子に激しい涙をさそって来る。  火事はもうみえなかった。  十一時きっかり戸締《とじま》りをして、おやすみなさいと、毎晩奥へ云いに行く自分が、いまは、こうして汽車に乗っている。硝子窓《ガラスまど》の外には、黒い山の屋根が走っていたし、町の灯がぱっぱっと後の闇《やみ》へ消えてゆく。(お父さん、敬ちゃん、マッちゃん、みんなさよなら‥‥)  やがて、星明りの下に琵琶湖《びわこ》が見えはじめた。  郷子の前の座席に、子供を抱いている肥《ふと》ッた女が、郷子にたずねた。 「何処《どこ》までいらっしゃいますの?」 [#9字下げ]○  次の駅《えき》が長くなったのか、長い汽笛が鳴った。  ――日向の軒下に羅宇屋《らうや》を呼びとめて、煙管《きせる》を掃除させている、痩せた父親の平造の後姿が郷子の瞼《まぶた》に浮んで来る。やに[#「やに」に傍点]のどろどろした煙管の古い竹軸が往来へ捨てられて、新しい軸が替えられる。(なんぼうかな‥‥)平造が、腰の煙草入れの叺《かます》から、小銭をつまみ出している。―― 「お母《かあ》ァちゃん、おしっこ‥‥」  前の座席の女の子が、にゅっと郷子の膝《ひざ》のところへ小さい足をつき出した。郷子はふっと四囲《あたり》が展《ひら》けたように、前の座席を眺めた。 「一人で行ってらっしゃい、お便所《べんじょ》わかってるでしょう?」  女の子は座席から滑《すべ》り降りて、靴をつっかけると、一人でふらふらしながら便所の方へ行った。 「お一人でいらっしゃいますか?」  郷子は夢から覚《さ》めたような表情で、そっとうなずいた。小さな生涯の血路《けつろ》を拓いて、もう、ここまで来ている、そんなほっとした気持《きもち》で、郷子が顔をあげると、 「どちらへいらっしゃいますの?」  と、また肥った女は話しかけてきた。 「東京まで参《まい》ります」 「東京、――そうですか。私達《わたしたち》も東京まで行くンですのよ。――東京はどちらへ?」  郷子は黙《だま》って笑っていた。――東京の何処へ行くのか、それは自分でもわからない。東京と云う大きな機構《きこう》の都会へ、自分はいま餌《え》をあさりにゆく一羽の鳥のようなものなのだ。 「東京へは、この汽車《きしゃ》は何時に着くのでしょう?」 「さァ、何時でしょうか‥‥明日《あす》の九時何分とかですよ‥‥」  やがて女の子が便所から戻って来た。髪の毛の赤い、顔の小さい六ツ位の子供だ。 「まァ、お靴、そんなに濡《ぬ》らしちゃって、いやーなひとねえ‥‥」  肥った母親は膝《ひざ》の赤ん坊を座席にころがして、女の子の裾《すそ》をまくり、黒いズロースをしらべてやっている。  いまごろは、家じゅうでみんな騒《さわ》いでいることだろう、平造は敬太郎を怒鳴《どな》りつけているに違いない。(お前も次手《ついで》に出て行ったらいいだろう‥‥)そんなことを云われているかもしれない。継母《はは》は炉ばたに坐り、相変らず黙っていることだろう。郷子は、継母へも置手紙をしてくればよかったと思った。  汽車が駅へ停《と》まった。  後の方の車窓で、出征兵士を送る万歳の小さいどよめき[#「どよめき」に傍点]がきこえて来る。 「大変ですわね、――まだ、どんどん、出征するようですね‥‥」  郷子は黙っていた。女の子は眠そうに眼をこすっている。車内は灯火《あかり》が薄暗く、煙草《たばこ》の煙が霧立っているので、如何にも佗《わび》しい夜汽車の感じだ。 「私も、弟が戦死《せんし》をしましたものですから、一寸、田舎へ帰って参《まい》りましたンですよ。――何しろ、家族が多いものですからねえ、あとも大変なンですの‥‥」 「まァ、戦死をなさいましたンでございますか‥‥」  ガタンと汽車が動き始めた。郷子はまた呆《ぼ》んやり、暗い窓外を見ている。(東京はどちらでいらっしゃいますか‥‥)さっき、前の女に言われた言葉が妙《みょう》に胸につかえて来る。 「私《わたくし》、東京は始めてですけれど、駅の近所に宿屋なんかありますのでしょうか?」 「駅の近所《きんじょ》?――まァ、始めてでいらっしゃるンですか? 東京駅の近所になんて、宿屋なんかありませんですよ。――すぐ前は宮城《きゅうじょう》ですし、あとは大きなビルディングばかりで、それは、まるで、外国みたいな処ですよ‥‥」 [#9字下げ]○  激しい動悸《どうき》と、淋しい歓喜が、郷子をおちつかなくしている。寒いけれど、雲《くも》一つない一月の空の下に、郷子があんなに憧憬《あこが》れていた東京の屋根々々が車窓《しゃそう》に見えはじめた。横浜を過ぎると、鶴見、川崎、――大森、――品川駅のホームに汽車がごおっと這入《はい》って行くと、その辺の空気には都会の匂《にお》いがただよっていた。――呼吸《いき》をするたびに、石造りの建物の匂い、若い女や男達の匂い、機械油の匂い、そんなものが渦《うず》をなして郷子の息に吸《す》いこまれてくる。 「もうすぐですよ、――東京駅で降《お》りますとね、――大きい建物《たてもの》ばかりで、一寸、驚きますですよ」  二人の子供にマントや外套《がいとう》を着せて、肥った女は網棚《あみだな》から荷物を降し始めた。ホームの時計は八時四十八分。若いサラリーマン達が、次から次に這入《はい》って来る省線の電車に乗《の》りこんでいる。派手な服装《ふくそう》をした若い女達も身軽るそうに電車へ乗り込んでいる。(何《なん》と云う美しい女達だろう‥‥)郷子はホームを行き交う、若い女や男達の活溌《かっぱつ》な爽《さわや》かな歩調を凝っと眺めていた。来てよかったとも思い、また、軽い恐怖《きょうふ》を感じるような、そんな一|瞬《しゅん》が、舌の上に唾になって溜《たま》って来る。 「ねえ、ちっとも、遠慮《えんりょ》なんかないンですよ。――女一人で、広い東京でうろうろしてた日には、ろく[#「ろく」に傍点]な目にはあいませんよ。――一週間でも、一ケ月でも、馴《な》れるまで私のとこへいらっして、それから、どうともなさればいいじゃないの‥‥」 「はァ、有難《ありがと》うございます、――でも、初めての方のところに‥‥」 「初《はじ》めてって、これから、どうなさるの? お友達の方だって、そこにいらっしゃればいいけど、いらっしゃらなかったら困るじゃありませんか‥‥」  肥った女は、黒い紋織《もんおり》のコートの紐を結びながら、郷子に、 「私《わたし》にも、あなたのような時代があったンですもの――ね、わかるのよ、若いひとの色々な気持が‥‥」  汽車は動《うご》き始めた。  まるで獅《し》子が大きな口をあけているような怖ろしい都会の渦《うず》が、郷子の眼を驚かせている。――新橋のホームへ汽車が這入《はい》った時、郷子の両方の足はぶるぶる小刻《こきざ》みに震えて来た。(石に噛みついても働くのだわ、どんな苦《くる》しいおもいをしても、若い敬太郎だけは、自分の手で学校へも入れてやらなければならない)  崖《がけ》の崩れてゆくような古い家に鬱勃《うつぼつ》たる気持を燃やしている敬太郎と、その日その日を借金の穴埋《あなう》めに走りまわっている気の小さい父親のことを考えると、郷子はまた自分ひとり犠牲《ぎせい》になっても、この古い家の為に一生懸命働いてやりたいような湧《わ》きあがるものを感じるのだ。  白い大きな建物が車窓《しゃそう》に迫って来た。小さい窓がこの白い建物に蜂《はち》の巣のようにあいている。 「ほらそれが帝国ホテルですよ」  黄ろいくすんだ建物《たてもの》がすぐ窓の下に走って来た。黒い煙がむくむくあがっている、高い煙突がある。窓は空を写《うつ》して硝子が白く光っている。日の丸の旗や、武運長久《ぶうんちょうきゅう》の旗がビルディングの窓々にさがっていた。  枯《か》れた並木、灰色《はいいろ》に光った歩道、走っている大きなバス、電車、トラック、自動車、――郷子は、それらの走り来る都会の景色に、暫く茫然《ぼうぜん》としていた。  中央郵便局の白い建物が迫《せま》って来ると、汽車はすぐ赤煉瓦の薄暗《うすぐら》い東京駅のホームへ這入って行った。――郷子はあわてて立ちあがって白い肩掛《かたか》けを首に巻きつけていた。 [#9字下げ]○ 「あなた、疲《つか》れたでしょう?」 「いいえ、――でも、東京って、広い処でございますね」 「広いの何のって、この辺《へん》は以前は郊外だったンだけど、二三年前に、新《あたら》しく市内になっちゃって、――そりゃァ、一|日《にち》一|日《にち》拡《ひろ》がっていっているンですよ‥‥」 「あんまり大きい建物ばかりで、――何だか、吃驚《びっくり》しまして‥‥」 「ああ、さっきの、東京駅のところね、――でも、あんなところばかりじゃなく、こんなごみごみした処《ところ》もあるのよ。――東京ぐらい、日本じゅうの人のあつまっている処ってないわね」  曲り角へ来るたび、古《ふる》ぼけた自動車《くるま》はぎいぎと厭《いや》な音をたてた。  東京駅を出てから、自動車《くるま》で走って来るうちに窓外《そうがい》には様々な街があった。その街々を、若いひと達が活溌《かっぱつ》に歩いている。――田舎とかわりのない乾いた太陽が照っているのに、四囲《あたり》は水で濡らしたように清潔《せいけつ》で、ゆったりした鉛色の鋪道《ほどう》がつづいていた。  郷子は走り去って行く街の景色を凝っとみていたが、何時《いつ》とはなしに、母親の顔を思い浮べていた。 (お父さんが、りくは東京に奉公《ほうこう》しているンだそうだと云っていたけれど‥‥)  去年の夏、父親がそんなことを云っていたのを、郷子は小耳に挟《はさ》んでいた。  女学校へ行っている頃、郷子は膳所《ぜぜ》の町で、母親と二度ほど逢った。――始めの時は、まだ若くて丈夫そうな姿《すがた》であったが、二度目は、百姓の女のように汚れた着物《きもの》を着て、何となく疲れているようであった。その汚《きた》ない母親と別れたきり、郷子は女学校を出てからも、今日まで一度も母には逢わない。  唇《くちびる》が乾いて黄ろい色をしていた。細い眼尻に始終涙をためていた。頬や顎や、耳朶《みみたぶ》にまで黒子《ほくろ》のあった母の顔が郷子の瞼に浮んで来る。(敬太郎の母の方がよっぽど美しい)どうして、自分を父のもとに置いて、母が家を出て行ったのか、幼《おさな》い時のことなので、郷子は何も覚えていない。 (お母さんは、広い東京で何をしているンだろう‥‥)  やがて自動車《くるま》は郊外電車の踏切りを渡り、市場だの、商家だのの建てこんだ町へ這入って行き、軒にうずたかく桶の干してある、風呂屋《ふろや》と、郵便局の路地口に停まった。 「母ちゃん、――ヒロちゃんがあすこにいるわ‥‥」  女の子が、自動車《くるま》の窓から得意らしく、幼い友達に手を振っている。 「ああ、やっと帰って来ました。――やっぱり東京がいいわ」  郵便局の路地《ろじ》を這入って、静かな細い通りがあった。オルガンの音がしている。 「さァ、ここですよ。――どうぞ、遠慮《えんりょ》なんかしないで、私の家なんですから、荷物《にもつ》はそこへ置いてらっしゃい。いま、誰かに取りにやらせますから‥‥」  板塀《いたべい》に囲まれた二階家で、オルガンの鳴っている家であった。 「只今! ――誰か、一寸、荷物《にもつ》を持って来てくれませんか」  軒《のき》に国旗が出ていた。  郷子は汽車の中で識《し》りあった女のひとの処へ、あつかましくのこのこついて来たのが後悔されたけれど、いまさらどうにもならない。――そのくせ、さっきの街々《まちまち》の印象《いんしょう》は、奔流のような生活意力が、郷子の胸にほとばしり溢《あふ》れて来るのであった。 (当分《とうぶん》、私の家にいらっして、それから方針を定めてもいいでしょう)  そう云ってくれた、女のひとの親切に、郷子は一夜の宿りを感じた。「不安《ふあん》」の底には、藁をもつかむ、一|抹《まつ》の、利用をすると云った気持を、郷子は感じないでもないのだ。 [#9字下げ]○  夕御飯《ゆうごはん》をたべるとき、郷子ははじめて、大橋一家の家族に紹介《しょうかい》をされた。  女主人《おんなしゅじん》の義妹の一枝《かずえ》は、たったこのあいだアメリカの両親のもとから戻って来たばかりだそうで、何時も大きな足を投げ出して溜息《ためいき》をついている。 「さわれ、ふたりは世の常《つね》の、こい[#「こい」に傍点]にもまさる心もて、かたみに慕いおもいにき、――むつかしいわねえ、アラン・ポオのアンナベル・リイって、お姉《ねえ》さん、読んだことありますか?」 「なあーに、そんなむつかしいこと知るもンですか、――あなたはそんなくだらないことばっかり云ってて、少しは、何かこっちで出来《でき》そうなの?」 「出来《でき》そうにもあ、り、ま、せ、ん。――アメリカへ帰りたくて仕方がないのよ。日本なンて、私の働《はたら》けそうな処ってないでしょう?」 「あなたは、男のひととばかり遊《あそ》ぶことを考えてるから、そんなに退屈《たいくつ》なのよ」 「あら、だって、遊《あそ》ぶって、そんな遊ぶようなボーイなんか一人もいやしないわ‥‥」  郷子は二人の会話《かいわ》がことごとく珍しかった。膳の下に足を投げ出して、お喋《しゃべ》りをしながら食事をしている。何か思い出すと、すぐ立って行って、自分の部屋から、本を持って来て卓袱台《ちゃぶだい》の上に拡《ひろ》げてみている。 「ねえ、お姉さん、燻《くすぶ》るって、なァに? わからないのよ。――真黒い字なのね。くすぶるって、どんな意味?」  郷子は、一枝のはちきれそうな厚い美しい唇《くちびる》を見ていた。笑うたび皓《しろ》い歯がのぞく、皮膚は透《す》きとおって健康そうだった。 (このひとは、どんなものを食べているのだろう‥‥)  郷子は、時々英語でまくしたてる一枝《かずえ》を偉いものに思った。だけど、皮膚《ひふ》が白くて、英語がうまくて、如何にも西洋人《せいようじん》くさい一枝ではあるけれど、はれぼったい一皮眼《ひとかわめ》の瞼と、線のにぶい、ひくい鼻だけが、郷子《くにこ》にはおかしい気持だった。ざら[#「ざら」に傍点]にある日本の女の顔だったし、女学校の頃の友達の顔にも似《に》ていて、郷子は、わざと、この女は英語をつかって人を煙《けむ》にまいているのではないかと思われさえした。 「燻《くすぶ》るって、煤《すす》けることよ‥‥」 「すすける? ――すすけるって、なに?」 「煤《すす》けるって、焼けていぶったのよ」 「いぶるって?」 「厭《いや》よ、もう、知らないわッ」  一枝のせいか、食卓《しょくたく》はひどく賑やかだ。――郷子はこんな賑やかな食事を、学校以外は、いままでかつて一度も味《あじわ》ったことがない。  商人の家は商人らしく、何時も平造《へいぞう》にそう云われていた。台所の膳《ぜん》の前に、一寸でも長く坐っていると、(あほうくさい飯《めし》の食いようしているの誰かッ)と、郷子はよく呶鳴りつけられていた。  朝も昼も晩も冷《つめ》たい飯だったり、何日も同じおかずだったりしていて、こんな賑《にぎ》やかな食卓を郷子は知らないのだ。――平造はひじきと油揚《あぶらあげ》の煮たのが好きであった。継母《はは》が、何時か黒砂糖をほんのひとつまみ、ひじきの鍋へ入れているのを見かけて、平造がひどく叱《しか》ったことがあるけれど、ここでは、子供がパンの上へ、ふんだんに白砂糖《しろざとう》をつけて食べている。白い砂糖が硝子《ガラス》の壷《つぼ》へはいっている。銀色の匙が壷にはそえてある。パンを食べたあと、子供はのびのびと母親に御飯を要求している。  一|塊《かい》の黒砂糖に、父は二三日|継母《はは》とは口を利かなかったけれど、ここの家は、何と云う豊富さなのだろう。――田舎の家のように土蔵《どぞう》もなければ、広い庭も、がらんと煤《すす》けた台所もないではないか。 [#9字下げ]○  省線電車が、坂の下をひっきりなしに走《はし》っている。  ぽかぽかした陽《ひ》の射している乾いた道を、一枝と郷子はゆっくり坂《さか》の上の方へ歩いていた。 「ねえ、もっと、向うまで行ってみない?――あの陸橋《りっきょう》を渡って、上ノ原って云うところに、私の友達がいるのよ、一寸《ちょっと》寄《よ》ってみましょう」  一枝が口笛《くちぶえ》をやめて郷子をふりかえった。  東京へ出て三日目である。――郷子は一枝と散歩をしながらも焦々《いらいら》していた。噎《む》せそうな一枝の香水の匂いが、郷子の胸に旅愁《りょしゅう》をさそって来る。 「ねえ、あなた、働《はたら》くって、何をして働くつもり?」  陸橋の上に来たとき、石のてすりに凭《もた》れて一枝が郷子にきいた。 「何《なに》って‥‥いまのところ、まだ東京に来たばかりですから、――事務員でも、女中でもいいとおもうンですけど‥‥」 「そう‥‥でも、あなた、女ひとり、一ケ月、どの位で生活《せいかつ》してゆけると思う?――アパートか、それとも、どっか部屋をかりるとして‥‥」 「どのくらいあったら食べてゆけるのでしょう?」 「日本の女事務員《おんなじむいん》なンて、――いくらにもなりゃァしなくてよ。英文のタイプを打って、せいぜい四五拾円位なンですもの、――全く、悲しくなってしまうわねえ」  橋の下を天蓋《てんがい》にうっすりと雪をのせた山の汽車が激しい音をたてて通りすぎて行った。一枝は雪をのせた汽車を珍らしそうに眺《なが》めている。郷子はくるりと背中をてすりに凭《もた》れさして、空をみあげた。翼《つばさ》のぴかぴか光った飛行機が南へ点のように飛び去っている。  パイロットか、エンジニアになりたいと云っていた敬太郎の俤《おもかげ》が瞼《まぶた》に浮んで来た。――不意に、郷子は一枝に訊いてみた。 「普通の女事務員《おんなじむいん》って、どの位貰えるものなのでしょうかしら?」 「そうね――三拾円から三拾五円位じゃない?――牛乳を朝晩《あさばん》のんでたら、すぐなくなっちゃうわ」 (牛乳《ぎゅうにゅう》を朝晩? まァ、まるで外国人みたいだわ)  郷子は、赤いジャケツの胸《むね》のふくらんでいる、一枝の豊《ゆた》かな肉づきをそっと眺めていた。 「牛乳なんて、あんまり欲《ほ》しいとは思わないけど――私のような女ひとりの生活《せいかつ》って、どの位かかるものなのかしら? ――アパートって誰《だれ》にも借すンでしょうか?」 「そりゃァ、誰にだって借すでしょう。今日、友達のかえりに、一寸《ちょっと》みて歩きましょうか? きっと面白《おもしろ》いと思うわ。――私ねえ、サンフランシスコにいた頃、お友達と三人でアパートに住《す》んでたことがあるのよ。とても愉《たの》しかったわ。一人だけ歯科の学生で、私とあとの一人は新聞社の事務員なの、――みんな、三人とも、親《おや》の家をきらっていたのね。だって、うちのママったら、日蓮宗《にちれんしゅう》で、朝晩、団扇太鼓《うちわだいこ》をそっと叩いて満足しているのよ。パパは酔っぱらうと、私達を叱って、すぐ孝女白菊《こうじょしらぎく》って話をもち出すし、私達に、そんな孝行をしろったって無理じゃないの、――朝々、レモンを絞《しぼ》ったアイス・オォターを飲むと、パパは軽業屋《サーカス》に売り飛ばしてやるなンて、とても怒るの‥‥」  上ノ原の邸町《やしきまち》へ、二人はぶらぶら歩いて行った。ヒマラヤ杉や、もちの木や、松、ひばなんかの植込みがずっと続いている。豪奢《ごうしゃ》な自動車の停まっている鉄門の家もある。 「いま行くのは、サンフランシスコの新聞社《しんぶんしゃ》の頃の友達なの。そのひと、この間、南京《ナンキン》まで従軍記者で行って来たンですって。――お父さんが昔かたぎなひとで、そのひとにね、嘉兵衛《かへえ》さんなンて名前をつけたのよ」 [#9字下げ]○  こういうことは、どんなふうに一枝《かずえ》に伝えていいのか、郷子《くにこ》は歩きながら、何とかして、少しの月給でもいい「働《はたら》く」と云うことばかり考えていた。――働いて、早く父へ金を返さなければならない。困《こま》っている金だと云うこともよく承知《しょうち》していながら、自分はこんな処を、日向を浴びてのんびり歩いている‥‥。郷子《くにこ》は思わず路傍《ろぼう》の石を蹴《け》った。石はころころと、狭い路地の四ツ辻へ転んで行った。(どうぞ、真中《まんなか》でとまってくれますように、真中でとまってくれれば運が展けて来る‥‥)一|瞬《しゅん》、郷子はそんなことを考えていた。石は四ツ辻までは転《ころ》げて行かなかった。郷子は意地になって、また、その石を強く蹴《け》った。 「ねえ、一寸《ちょっと》待《ま》ってて、ここなの、――私、呼んでみるわ」  枯れた桜の木が二三本、新しい板塀《いたべい》の中に植《う》わっていた。一枝が口笛《くちぶえ》を吹きながら門を這入って行った。――郷子は、白く乾《かわ》いた道に立って、時々、自分の前を通って行くひと達を凝っと眺めている。抑制《よくせい》の出来ない佗しい孤独が、足の裏に酢《す》を踏《ふ》むような冷たさで迫って来る。何処《どこ》かでふっとローラアカナリヤが啼いた。  郷子は耳を澄《すま》した。  ローローロークックックッと、実に清麗《せいれい》な声音だ。郷子は頬に微笑がこみあげて来た。 (私は、兎に角、いろいろな処へ出向いて行って、街のなかを明日は探検《たんけん》して来てみよう。――カナリヤがあんなに啼《な》いているから、何かいいことがあるかも知れない)  郷子は、カナリヤの啼《な》くひば[#「ひば」に傍点]の垣根の前を行ったり来たりしていた。 「一寸、いらっしゃい、――いま、嘉兵衛《かへえ》さんはお昼を食べているところなの‥‥」  板塀《いたべい》の門から顔を出して、一枝が郷子を呼んだ。  階下は玄関から、本がぎっしり積《つ》んである。二階へ上って行くと、パンを焼く匂《にお》いがして、レコードが鳴《な》っていた。 「私《わたし》、山本嘉兵衛《やまもとかへえ》です‥‥」  顔の小さい背の高い男が、椅子《いす》の上に置いたかわいい火鉢でパンを焼きながら挨拶をした。 「こちら、植村郷子《うえむらくにこ》さん、東京へお出でになったばかりなのよ」  一枝はすぐ床《とこ》の間《ま》のレコードのそばへ行った。  壁には汚れた腕章《わんしょう》を巻いた緑色の服がかかっている。廊下の籐椅子の上には、大きな、リュック・サックも置いてある。 「嘉兵衛さん、戦争《せんそう》、どうだったの?」  新しく針《はり》をかけながら、一枝が後向きにそんなことを訊いた。 「たいへんだった‥‥」 「たいへんだったって?――嘉兵衛さんは弾《たま》のなかをくぐって来たの?」  長閑《のどか》に遠くでカナリヤが啼いている。  郷子は廊下の欄干《てすり》に凭れて立っていた。廊下の突きあたりには、色々なラベルを張った大きなトランクが二ツ重ねてあった。 「嘉兵衛《かへえ》さん、ピストルを持って行った?」  ジイ‥‥と針《はり》の音がして、スメタナの「わが祖国」の曲が鳴り始めた。 「ピストルなんか持って行かない。――ママのくれたお守りと、日の丸の旗《はた》を持って行った‥‥」 「危《あぶな》いことあった?」 「そんな危いところへ、あまり行かない‥‥」 「そう、何処に一番ながくいたの?」  嘉兵衛はパンを頬《ほお》ばりながら紅茶を淹《い》れていたが、ふっと郷子の方をむいて、 「植村さんは、お砂糖《さとう》、いくついれますか?」  と訊ねた。  廊下に柔《やわらか》い風が吹きあげてきた。 [#9字下げ]○  四角い白砂糖が二つ、熱い紅茶《こうちゃ》茶碗の中でじゅうと溶けていった。レコードが静かに鳴っている。 「上海《シャンハイ》へは何時行くの?」 「まだ判らない、――でも、明日出発せよと云う電報《でんぽう》が来ないともかぎらないし、どんなふうになるのか、判らないね」 「そう‥‥私、嘉兵衛さんが上海《シャンハイ》へ行くときについて行こうかしら?」 「どうして?」 「ちっとも働《はたら》くところみつからないンですもの、――上海へ行けば、私の働く処ぐらいあるでしょう?」 「うん、でも、上海《シャンハイ》へ行く位だったら、アメリカのママの処へ帰った方がいいよ、――上海だって、いま、君のようなひとの働き場所《ばしょ》があるかどうかねえ‥‥」 「貴方《あなた》の新聞社でつかってくれない?」  嘉兵衛は黄と白の横縞《よこじま》のジャケツの胸のポケットに、日の丸の旗を小さく折りたたんで入れていた。日の丸の紅い色が、花を差しているように洒落《しゃれ》てみえた。 「僕もそうだけど日本語の読《よ》み書《か》きが出来なきゃ、こっちの新聞社ではむつかしいね。――一二年、勉強しなけれゃ駄目だ」  一枝は廊下の籐椅子《とういす》に腰をかけると、両手の指をくしゃくしゃと髪の中へつっこみながら、如何にもつまらないと云った様子で肩を狭《せま》くすぼめている。  日本へ帰って来て、日本の生活《せいかつ》に迷《まよ》っていると云った、外国生れの女を、郷子はしげしげと眺める感じであった。(私はまだ、このひとよりは幸福な境涯《きょうがい》かもしれない‥‥)郷子は匙《さじ》で紅茶をかきまぜながら、のびのびした一枝《かずえ》の大きい脚《あし》を見ていた。――レコードがやむと、嘉兵衛はすぐ賑やかなジャズものをかけて気軽《きがる》に口笛であわせている。 「ねえ、私、ママの処《ところ》へ帰ろうかしら?」 「一枝さん、踊《おど》ろう‥‥」 「ふふん、アイ・アム・ソウリィよ‥‥」  嘉兵衛はふっと郷子の方へ、如何ですかと云って来た。郷子は吃驚《びっくり》して固くなっている。 「駄目よ。――そんなに陽気《ようき》になったって、私のこと考えてくれなくちゃァ‥‥」 「アメリカへ帰《かえ》ればいいじゃないの、――昔、ママやパパたちがアメリカへ行って、すぐその日から働けたようにはいかないんだものね。――僕達《ぼくたち》は全く、日本のことなんか何にも知ってやしないし‥‥パパやママの話してる日本と大違《おおちが》いなんだもの、――僕は二三年したら、今度は勉強《べんきょう》に帰って来ようと思ってる‥‥」  蓄音機の針をとめて、嘉兵衛が一枝の後へ行き、悄気《しょげ》ている一枝の肩を優しく叩《たた》いてやった。 「ねえ、銀座《ぎんざ》へ行きましょうか?」  一枝は急に悄気《しょげ》た表情をぱっとひらいて、活々《いきいき》と笑い出すと、もう、机の鏡の前へ行き髪かたちをなおしている。  郷子は銀座《ぎんざ》と云う処を知らない。 「私は失礼《しつれい》します‥‥」 「いいでしょう?」 「ええ、でも、一寸、用事もありますし‥‥」  嘉兵衛も一緒にいいでしょうとすすめてくれたけれど、郷子はどうしても心が軽く変転自在《へんてんじざい》にならない。――東中野の停車場《ていしゃじょう》まで一緒に歩き、郷子は、駅の前で二人に別れた。肩を水平《すいへい》にして、のびのびと大股にホームを歩いて行く二人に、郷子は道ぎわの木柵《もくさく》から丁寧に頭をさげた。  一|瞬《しゅん》だけれど、悄気《しょげ》て哀れをみせていた一枝のさっきの表情が、駅へ来るまでにはもう活々と立ちなおって元気な姿に戻っている。郷子はふっと波の荒い逆巻《さかま》くような東京の生活を感じた。 [#9字下げ]○  寒い晩《ばん》だ。  郷子は電車道からそれて、何と云うこともなくふらふらと賑やかな新宿裏《しんじゅくうら》の狭い路地のなかへはいって行った。  魚を焼く匂い、玉葱《たまねぎ》を煮るような匂い、やるせのないジャズの音が、この狭《せま》い路地のなかに立ちこめている。  赤や青のネオン・サインが、昼《ひる》の水《みず》の底のようにきらきら光っている。――品川や、新橋の朝の駅々でみたサラリーマンのような男達が、この狭《せま》い路地のなかでは何となく酔《よ》いどれたように歩いている。  谷間《たにま》のように暗くて、うそ寒い大きな建物の裏へ来ると、足もとのふらふらした若い男が、 「おいッ、おばさん、一寸《ちょっと》観《み》てくれッ!」  と、そこに出ている占いの露店《ろてん》の灯へにゅっと手を出した。  大きい声だったので、郷子は思わずそこへ立ちどまった。薄汚《うすよご》れたかなきんの台の上に、ほとほと提灯《ちょうちん》のあかりがゆれている。 「いくらでもようございますよ。――くわしく観てあげますよ」 「うん、くわしくね‥‥くわしく観てくれッ、――一|週間《しゅうかん》ほどしたら、俺は出征するンだから、一つ、生きるか死ぬるか、よく観《み》てくれ‥‥」  頭は刈りたてのぐりぐり坊主《ばうず》、寒いのか、時々、外套《がいとう》の襟に首をすくめている。 「出征なさるンですか? さよですか、それでしたら、なおさらくわしく観てあげますよ、――いくらで観るなンて吝《けち》なことは云いません。――両方の掌を観せて下さい」 「両方の掌《て》?」 「私のは、独特《どくとく》の手相を観るのですから、世間いっぱんのとは、少しばかり違います。――お年は、二十八ですか、ああ、いい掌《て》ですね、厚味《あつみ》のある‥‥」  占師《うらないし》は洟《はな》をすすった。  郷子は二三歩そばへ寄《よ》って行った。 「あなたの生命線《せいめいせん》は非常に長い。――まず、天理にしたがい人道をつくして果てると云う手相です‥‥」 「うん」 「ただ、左の掌の、この情操線《じょうそうせん》には、いま、焼剣《やけみ》の相が出ていて、あなたの現在の生活には、色々と悩悶《のうもん》があることとおもいます。――性格は単純ですね‥‥」 「莫迦《ばか》を云え‥‥」 「どんなに転んでも米麦蔬菜《べいばくそさい》をつかむ‥‥」 「いや、戦争へ行くンだよ、――生きるか、死ぬるかを観てくれりゃいいんだ‥‥」 「生命線《せいめいせん》は非常に豊かなのですが‥‥」 「天理にしたがい、人道《じんどう》を尽して果てるか‥‥いや、人道を尽して、兵隊らしく果てるかも知れんなァ‥‥」 「遠い処《ところ》へいらっしゃいますね‥‥」 「遠い処へねえ‥‥」  若い男は、ふっと、のぞいている郷子《くにこ》の方を振り返った。眼が大きくて、よく光っている。郷子へ、 「遠くへ行くんだそうですよ」  と云った。  郷子は暖《あたた》かいものを感じた。 「この一年、運命《うんめい》は定まらないが、これは何時でも立ちなおれる自信《じしん》と健康を、あなたは持っています。――人には敬《けい》せられる」 「うん、戦争《せんそう》へ行くンだから、運命は定まらんかも知らンなァ」 「物質には得失《とくしつ》なし、――そうですねえ、戦争にいらっしても、小さなお怪我をなさることがあるかも知れないけれど、まず、芽出度く、がいせん[#「がいせん」に傍点]なさる相《そう》が出ていますね」 「ふふん、凱旋《がいせん》をする?」 [#9字下げ]○  占師は天眼鏡《てんがんきょう》をのぞいて、また洟《はな》をすすった。 「凱旋か‥‥兎に角、生きるか死ぬるか、俺《おれ》の気持《きもち》はきまっているんだ。――怪我をするなンてのはあんまりよくないね、本当かい?」 「いや、それもほんの一寸したことですよ。――大した希望《きぼう》がこの二三日うちに降って来ると云う卦《け》が出てますね‥‥」 「へえ、戦争へ行く前にいいことがあるって? そうかね、――昨夜《ゆうべ》は一晩じゅう眠れなかったが、いいことがあると云うのならそりゃァ一つ愉《たの》しみに待っていよう」 「まだ、お独《ひと》りですね?」 「ああ、まだ独りさ、――女房《にょうぼう》なんかありゃしないよ。ぱりぱりの独り者さ。――さっきも床屋の奴が、俺の髪《かみ》の毛を半紙に包んでくれたンだけどねえ、誰にも残《のこ》しておく者がないンで捨てちゃった。――一|握《あく》の、床の塵《ちり》とはなりにける、さ‥‥」  路地の建物《たてもの》の上には小さい月が出ている。寒い風が吹いた。郷子がこんこんと咳《せき》をすると、酔った男は、また振《ふ》りかえって、 「どうです? あなたも観《み》てもらいませんか‥‥僕は、今夜《こんや》は、非常に勇ましい気持でいるンだ。そこにもここにも進軍喇叭《しんぐんラッパ》が鳴り響いているようなンだ。全く、いい晩だ。――僕は、もう、あと一週間で兵隊ですよ‥‥」  郷子の後から半纏着《はんてんぎ》の男が覗《のぞ》きこんでいたが、すぐまた次の占師の方へ去って行った。――誰もあたりには見ているひとがない。郷子は思いきって左手《ひだりて》を出してみた。  提灯の灯火《あかり》の下に郷子の手がうすあかくみえた。 「おいくつです?」 「二十一‥‥」 「二十一ですか、そうですね、いままでは大した変化《へんか》はなかったけれど、家庭的にはあまりめぐまれていない、――あなたの性格は、収穫《しゅうかく》を前にして着々と鎌の刃を研《と》ぐと云った、実直な性質で、迂闊《うかつ》なところがない。――だけど、そうですね、最近、一つの運命《うんめい》が、あなたの生涯をゆりうごかすでしょうね。――あなたの運命線《うんめいせん》は、いま非常に乱れています‥‥」  運命線が乱れていると云われて、郷子は自分の掌《てのひら》をじっとみつめた。 「鎌《かま》を研《と》ぐとは、おばさんも面白いことを云うねえ。冗談《じょうだん》みたいだが、――さっきの小さい怪我なんか本当かい?――まァ、何でもいい、過《か》もなし、不過もなしの中庸《ちゅうよう》のところで一つ、よく観《み》てあげなくちゃ駄目だよ‥‥」  台の上へ、若い男は、五拾|銭銀貨《せんぎんか》を一個ぽんと放った。 「どんな職業《しょくぎょう》についたらいいでしょうか?」 「そうですね‥‥まァ、あなたには水商売《みずしょうばい》はむきませんね。――学校の先生とか、事務員とか、そんなところでしょうね‥‥」 「そうかねえ‥‥そんなところ[#「そんなところ」に傍点]と云うこたァないだろう? そんなところか、は、は、は、は‥‥」  郷子は赧《あか》くなった。 「まあ、あわてないで、はじめにいいと思った職業に飛びこむのがいいでしょうね。――病身なのがいけませんね‥‥」 「あら、病身《びょうしん》じゃないわ‥‥」  郷子は小さい声で抗議《こうぎ》した。 「もう、その辺《へん》で手を引っこめた方がいいですよ‥‥さァ、二三日すれば喜びごと来《きた》るだ。こちらは、中運《ちゅううん》、中吉《ちゅうきち》、――おばさん、五拾銭でいいのかい?――今日は友人に銭別を貰ってねえ、まだ唸るほど残っているンだ。部屋代を払って、月賦代《げっぷだい》を払ってもまだ残る‥‥」 [#9字下げ]○  路地の中ほどに、灯火《あかり》の明るい洗濯屋《せんたくや》があった。占師の前をはなれて、二人は黙々と歩いていたが、洗濯屋の前へ来ると、若い男は立ちどまってマッチをすった。咥《くわ》えている煙草に火をつけると、若い男は郷子の方へむきなおって、お茶《ちゃ》でものみませんかと云った。 「寒《さむ》いですねえ‥‥」 「ええ」 「東京は初《はじ》めてですか?」 「はァ、――はじめてで、まだ、何もわからないものですから、毎日《まいにち》仕事《しごと》を心配して歩いています」  一週間たったら出征《しゅっせい》をすると云う、このぐりぐり坊主の男に、郷子はお茶でものみませんかと云われても、そんなに不安《ふあん》なおもいを感じなかった。溺《おぼ》れているものが、一筋の藁《わら》にでもすがるような、そんな泌《し》みるような気持でもあったのだ。  暗い路地を抜けて、轟々《ごうごう》と電車や自動車の鳴り響く、明るく賑やかな広い通へ出て行った。遠い処から行軍をして来たような兵隊の行列《ぎょうれつ》が、軍歌を勇ましく高らかに歌って、灯のような鋪道《ほどう》を歩いて来ている。若い男は立ちどまってこの軍列をじっと視《み》ていた。郷子も、兵隊の行軍をみていると、胸のわくわくするものを感じた。戦闘帽《せんとうぼう》をかぶった沢山の兵隊が、白い息を吐きながら軍歌《ぐんか》をうたってゆく。――灯の明るい映画館の前では、「祝出征」の小旗をもった若い女が呆《ぼ》んやり映画のスチールを眺《なが》めていたり、千人針を持って立っている女達は、二人、三人、四人、と、激《はげ》しい人通りのなかに白や、黄の木綿《もめん》の布をひらひらさせていた。 「千人針《せんにんばり》はお持ちになりましたか?」 「いや、そんなものは持っちゃいませんよ。親父と弟が故郷《くに》にいるきりで、そんなものは別に誰も考えちゃくれませんよ。――この頃《ごろ》、デパートへ行くと、ちゃんと、千人針を売ってるって云うじゃありませんか‥‥」  二人は電車通りの大きい喫茶店《きっさてん》へ這入って行った。菓子の箱がうず高く積み重ねてある。大きい陳列の硝子箱《ガラスばこ》のなかには美味しそうな菓子がずらりと並べてある。  白い天井の反射で、四囲《まわり》の灯《ひ》は皎々と明るかった。部屋の隅のボックスに向きあうと、郷子ははじめて正面《しょうめん》に男の顔を見た。  眼《め》がきらきら光っている。 「何しろ、ホテルも映画館《えいがかん》も、デパートも、こんな茶を飲むところも人がいっぱいで、全く、戦争は何処にあるのかと思うようですね」 「ほんとうですわ、――故郷《くに》でも一時、出征が大変だったンですけど、東京へ来《き》てみますと、まだまだ大変な出征でございますね」 「兎に角、まァ、大いに働いて下さい。――一|週間《しゅうかん》したら、僕も、さっきのような兵隊なのですが、どっか遠い処へ行ったら手紙ぐらい下さい。――僕は行くのだったら、ソ満《まん》国境《こっきょう》あたりへ行ってみたいと思っているンですよ。――この一月二月は吹雪《ふぶき》の激しい頃でしょうし、何か、そんな処へまっしぐらに進んで行きたいですね」  ふちに赤い線のはいった紅茶茶碗《こうちゃちゃわん》が二つ、二人の前に運ばれて来た。郷子は白い肩掛をはずして、小さい声でいただきますと云った。 「どうぞ‥‥」  男は乱暴に、銀の砂糖壷《さとうつぼ》から、粉砂糖を一杯自分の茶碗へすくっていれると、茶碗をかきまわして、熱い紅茶をぐっぐっと音をさせて飲んだ。郷子も、銀の壷《つぼ》から砂糖をすくった。 「おい、もう一杯紅茶くれないか‥‥」  男は大きい声で二杯目の紅茶を註文《ちゅうもん》している。 [#9字下げ]○  名刺には佐山新《さやましん》一と書いてあった。大久保の百人町に下宿をしていて、郷里は信州だと話していた。 「お家《うち》に無断で上京《じょうきょう》をされて、これから、どんな職業を持たれるのか知りませんが、ぽつんと、東京に一人で来られても、おいそれと、気に入った職業《しょくぎょう》はみつからないようにおもいますがねえ‥‥」 「ええ、でも、何とかしてやってみるつもりでおります‥‥」 「何《なん》とかねえ、――いま、どちらへいられるンですか?」 「私ですか?」  郷子は郷里を出てから、今日までの生活を簡単《かんたん》に佐山《さやま》に話した。 「私は、何とかして、自分で自分の生活《せいかつ》をきずきたかったのです‥‥、――土をつかんでも、独立独歩《どくりつどくほ》の生活をしたかったのです。――いまさら、家へも帰れはしませんし、義理の弟ですけれど‥‥私のたった一人の弟ですから、それを学校《がっこう》へも入れてやりたいとおもっておりますの‥‥」 「大丈夫《だいじょうぶ》かなァ、――あなたのような若いひとが、こんな広い東京で仕事をみつけると云うことは‥‥」 「あら、大丈夫ですわ。きっと、いい仕事《しごと》がみつかると思いますけど。――みつからなかったら、一時、喫茶店《きっさてん》のような処へ住みこんでもいいと思っていますの‥‥」 「いや、それはいかん、それは賛成《さんせい》しませんねえ、――堅実な職業を探してみて下さい、僕も二三人の友人にたずねてみてあげましょう‥‥」  二人は長《なが》いこと、そこへ腰をかけていた。  佐山は、もうじき、兵隊へ出て行くと云う感情《かんじょう》があるせいか、偶然に逢った郷子にロマンチックな若い感傷《かんしょう》をそそられてもいた。――郷子もまた、名状しがたい悲しい孤独な漂泊から、春の風を吸《す》うような気持を感じていた。お互いはお互いをまぶしそうに時々そっと眺《なが》めあっている。 (質素《しっそ》でしっかりした女だ‥‥)  佐山は時々郷子が眼を細めて笑うのを仏像《ぶつぞう》のように美しい表情だと思った。顎《あご》の線がはっきりしていて、耳は肉が厚くふっくらとしている。如何にも関西《かんさい》の女らしく肩の線がなだらかで、襟《えり》もとに束ねた髪も癖がなくて素朴な風姿だった。 「どうですか? 僕の家《うち》へいらっしゃいませんか‥‥」  佐山が勘定書《かんじょうが》きを取ってそう云った。 「ええ」 「それとも、その辺《へん》をすこし歩いて、送りましょうか?」  郷子は黙《だま》っていた。 「何だか、もうすこし歩きたいなァ、――明日も明後日も、友人が送別会《そうべつかい》を開いてくれるンですよ。――今夜は、何だか無茶苦茶《むちゃくちゃ》に歩きたくて仕方がない‥‥」  二人は外へ出た。歩道は凍《し》みるように寒く、少しばかり風《かぜ》が出ていた。新宿駅の方へ歩いて行った。  佐山は酒の酔《よ》いもさめたのか、もう、しっかりした足どりで歩いている。 「寒《さむ》いから、バスに乗って、僕の家へ行きませんか。――何でもあなたの好きなものを御馳走しますよ‥‥」 「ええ、ありがとうございます、――でも‥‥」 「帰りは送《おく》って行ってあげますよ――女の方に僕の処へ来ませんかと云うのは、失礼でしょうかねえ?――だけど、このまま、ここで、さよならをするのは、いかにも残念だな‥‥」  郷子も、何となく残念《ざんねん》だと思った。 [#9字下げ]○  バスを降りると、佐山《さやま》はパン屋へ寄って、洋菓子を買った。明るい灯火の下で、陳列台《ちんれつだい》に片肘ついた佐山の後姿を、郷子は、長いあいだ親しかったひとのように凝《じ》っと眺めている。  小さい月《つき》がガードの上に光っていた。  郷子がふうっと息を吐くと、寒いので息《いき》が凍《こ》って白く煙っている。郷子はふうっふうっと息を吐きながら、佐山の出て来るのを待っていた。 「さァ、熱い茶を淹《い》れて貰ってこれを食べましょう‥‥」  佐山《さやま》が出て来ると、二人は肩を並べて歩いた。  佐山は時計屋《とけいや》の二階を借りていた。――裏口から梯子段をあがって行くと、狭《せま》い板の間の壁に、帽子や蝙蝠傘《こうもりがさ》がさがっていた。 「いま、火《ひ》を貰《もら》って来ますから、待っていて下さい。――じき、あたたかになりますよ」  菓子の包みを机《つくえ》の上へ置いて、佐山はすぐ階下へ降りて行った。  小さい床の間には積《つ》み重ねた本や、鞄や、造花《ぞうか》の色あせた花が乱雑に置いてあった。  部屋は六|畳《じょう》、南に大きい硝子窓がある。粗末《そまつ》な本箱には、郷子の知らないむつかしい本ばかり並んでいた。銀色の優勝《ゆうしょう》カップなんかも二ツ三ツはいっている。 「さァ、熱い茶を貰って来ましたよ」  佐山が十能《じゅうのう》と、鉄瓶をさげて上がって来た。火の粉がぱちぱち弾けている。郷子はすぐ火箸を握って、火鉢《ひばち》の固い灰をならした。 「男の部屋って、殺風景《さっぷうけい》でしょう?」 「いいえ‥‥」 「もう、一ケ月位、掃除《そうじ》をしないんですからねえ‥‥」  郷子は、火鉢のなかの煙草の古い吸殼《すいがら》を、一つ一つ鼻紙にひろった。 「もう、じき、この部屋《へや》も引きあげだものですから、何も彼もほっちらかしなンですよ」 「でも、落ちつけそうな、とてもいいお部屋ですわ。――昼間《ひるま》はとてもあたたかでございましょう?」 「はあ、とてもあたたかですよ、窓《まど》の下が植木屋《うえきや》でしてねえ、――中々、のんびりした部屋なンです。よかったら、昼間《ひるま》も遊びに来て下さい。僕は、明日一日会社へ出たら、あとはもう、ここにいます」 「あら、お故郷《くに》へはお帰りではございませんの?」 「ええ、来月の三日に発《た》って、一晩泊って、すぐまた出て来ます」 「信州《しんしゅう》って遠いンですか?」 「遠かありませんよ。八時間位かな‥‥」  佐山は外套《がいとう》をぬぐと、不器用な手つきで茶を淹れた。 「さァ、菓子も食《た》べて下さい」  佐山が、床の間から写真《しゃしん》ブックを出して来た。中学生の頃のや、大学生《だいがくせい》の頃、兵隊の頃、会社員になってからのもの、郷子は一枚一枚佐山に説明を求めながら、佐山《さやま》の生活《せいかつ》を知ることに、何とない微笑を感じていた。  山毛欅《やまぶな》の森のなかで、こんな青年の一生を語りあう物語りを、女学校の頃、誰かに読んで貰ったことがあった。佐山の中学生の頃の写真は、弟の敬太郎《けいたろう》によく似ている。――凝っとみていると、その写真は、何時《いつ》か、弟の顔になり、(姉さんが黙《だま》って家出をしたンで、僕はとてもお父さんに叱《しか》られているンですよ)と云ってる風に、ぱくぱく写真の敬太郎が口を開けているように見える。 「寒くはありませんか、――とても寒いから、この外套《がいとう》を肩へおかけなさい‥‥」  郷子は一つの写真を眺《なが》めたなり、何時までも黙っていたので、顔を挙《あ》げるなり、急に激しい動悸《どうき》が打ちはじめ、赧《あか》くなった。 [#9字下げ]○  佐山《さやま》はしばらく黙《だま》っていたが、郷子がハンカチで洟をかみおわるのを待って、 「じゃァ、そのアパートへ、いまから一寸行ってみましょうか? 気楽《きらく》な処ですよ、――安いし、清潔《せいけつ》で、日当りのいいアパートですよ‥‥」  郷子は洟《はな》をかみながら、鼻の芯《しん》に熱いものがこみあげて来て仕方がなかった。――大橋の家に、何時までも寄食《きしょく》しているのは厭《いや》だったし、自分ひとりになって、自分だけの部屋を持って、元気に職業《しょくぎょう》につきたかったのだ。  東京までの切符《きっぷ》を買ったほかにまだ参拾四五円の金が財布《さいふ》にはあった。――ひとりで、鬱々と考えていたことを佐山にみんな話してしまうと郷子は、東京の生活を、窓硝子《まどガラス》を開けて眺めわたすような晴々した気持ちになった。 「何《なに》にしても、早く職業《しょくぎょう》をみつけなくちゃいけませんね。――いったい、その、お家の金を、いくら位持って来たンです?」 「いいえ、――とても少しなンですけど、家《うち》が困っているものですから、とても気がとがめてしまって‥‥」 「だけど、弟さんも仲へはいられて困《こま》っていられるでしょう?――兎に角、その大橋《おおはし》さんと云うお家《うち》を出て、小さい部屋に落ちついたらいいじゃありませんか?」  郷子は佐山の友人がいたことがあると云う近くのアパートに案内《あんない》をして貰った。――二人が階下へ降りて行くと、丁度《ちょうど》店《みせ》の時計が八時を打っている。  戸外《そと》は寒い砂風が吹いていた。  どこかで義太夫《ぎだゆう》のラジオがきこえている。  アパートは佐山の家から二丁ばかりの処で、病院と自動車屋《じどうしゃや》の狭《せま》い路地の中にあった。広い玄関には下駄《げた》や靴が沢山ぬいであった。――佐山《さやま》が管理人の部屋へ行ってすぐ汚れたジャケツを着た男を連れて来た。 「女のひと、独りだから、狭《せま》くてもいいんだ」 「さァ‥‥お気《き》に入《い》りますか、どうですか、――空いている部屋は二ツ三ツあります――」  その、二ツ三ツの部屋を案内《あんない》されたうちに、二階の廊下の突きあたりに、四|畳半《じょうはん》の可愛い部屋があった。畳《たたみ》は古びて、ところどころ焼けこげがあったが、郷子には気に入った。 「ここでいい?」 「ええ――ここにしますわ」  どちらからともなく、自然《しぜん》になごやかな言葉が出た。  佐山がすぐその部屋《へや》をきめてくれた。――郷子は押入れを開けてみた。湿気《しっけ》た匂いがしたが、越して来て風を通《とお》せば、そんなものは吹きとばしてしまう。畳もぼこぼこしていたが、引越して来て、雑巾《ぞうきん》馬穴《ばけつ》に酢《す》をまぜて拭けば、これも、もっと清潔にはなる。窓にはクリーム色の新しいカーテンがさげてあった。 「そこの窓を開けてごらんなさい。――寺の庭ですよ――」 「あら、お墓《はか》がみえますの?」 「いや、墓は見えなかったようだった――」  郷子は少しばかりの手付《てつ》けの金を置いて、佐山に東中野の駅まで省線で送《おく》ってもらった。 「何だか、偶然《ぐうぜん》、おめにかかってこんな御面倒をかけたりしまして――ごめん下さい――」 「‥‥‥‥」  佐山は郷子と並んで吊革《つりかわ》を握《にぎ》っていたが、 「明日《あした》、何時頃、引こして来ますか?」  と訊いた。  ふっと佐山の外套《がいとう》の匂いがした。郷子は、佐山の部屋の様々が鮮《あざや》かに瞼《まぶた》に浮んで来た。  電車はガードの上に来たのか、すさまじい音《おと》をたてて、ごうごうと、車輪《しゃりん》が鳴り響いて来た。 [#9字下げ]○  新一は歌《うた》っていた。 (――妻をめとらば、才《さい》たけてぇ――みめうるわしく、情《なさけ》あるゥ‥‥)  眼の上に拳固《げんこ》をつくって、その腕をのばしてみたり、縮《ちぢ》めてみたりしながら、昨夜、東中野の駅へ送って行った、郷子《くにこ》のことをじっと考えていた。 (俺は、もう、じき、戦争へ行くンだ、――何も彼も、このまま、俺の一生《いっしょう》は消《き》えてしまうかもしれない‥‥気の毒だが、お前の生涯《しょうがい》は、もう、この辺までだ、――ふん、何《なに》をくそッ! 真剣に戦うのだ、悔いなく、――だが、悔《く》いなく、本当に、進《すす》めるかな?)  新一はむっくりと、蒲団《ふとん》の上へ腹這いになると、机の上へ手をのばして、煙草と灰皿《はいざら》を取った。  雪《ゆき》でも降りそうな空あいである。  煙草に火をつけて、新一はまた呆んやり、昨夜《さくや》の女の顔を瞼《まぶた》に描いていた。――肩も、胸も、膝も何時も控《ひか》え目に、きちんと固《かた》くなっていた。笑うと、えくぼ[#「えくぼ」に傍点]があった。  風に帆《ほ》をはらませた、沢山の船が、すいすいと新一の呆んやりした眼に、漂々《ひょうひょう》と走って来る。 (おい、一寸待ってくれ、――そう、一時に走って来ても、繋《つな》ぎ場所がないぞ‥‥)  煙草の灰がぼろりと畳《たたみ》の上におちた。新一は、あわてて煙草を吸うと、煙草の煙《けむり》をふうふうと二口三口窓の方へ吹いた。  戦局《せんきょく》はだんだん拡大《かくだい》してきている。南京《ナンキン》陥落《かんらく》のあと、何かほっとしていた気持も束の間、金《きん》、銅、鉄鋼《てっこう》、石炭、石油、――あとからあとから、これらのものを国外にしぼりだしているような、そんな苦しい現実の経済戦《けいざいせん》を、新一は煙草の煙のなかに、とりとめもなく呆んやり考え描《えが》いていた。 (俺も、ついに、征《ゆ》くのだ‥‥)  戦場《せんじょう》へ行ってみなければ、この戦争の現実はわからないけれど、何か、気持をゆすぶられるような満々《まんまん》たる思いが湧きあがって来つつある。  新一は一高を出て、帝大の採鉱治金学科《さいこうやきんがっか》を出ていた。  学校にいた頃は、一高の時から短艇部《たんていぶ》にいて、水の上にいることが何よりも好きだった。七月末の三高との戦いの日の、瀬田川《せたがわ》の思い出が、ふっと新一の心に迫《せま》るような、なつかしいものを誘って来る。  瀬田川の青い水の上に、オールの先だけを眺《なが》めて暮した一週間の生活も、もう若き日の夢でしかない‥‥。 (昨日の女《おんな》は、たしか、膳所《ぜぜ》と云う処《ところ》だと云っていたが、琵琶湖畔の朝夕は愉《たの》しかったなァ‥‥)  新一は、朝の蒲団《ふとん》の中で色々なことを考えていた。――(そうだ、今日は、一寸会社をのぞいて、それから荷造《にづく》りもしなければならない)  煙草を灰皿《はいざら》へねじこむと、新一は起きてうううッと大きなのびをした。寝巻の袖からむき出た手、はだけた胸の皮膚《ひふ》、柱鏡に写っている自分の表情が、新一には自信満々《じしんまんまん》として見えた。 「佐山さん‥‥」 「はい‥‥」 「お客様ですよ」 「はァ?」 「植村《うえむら》さんって、女の方がお見えですよ」  階下のおばさんが、梯子段《はしごだん》の中途から新一を呼んだ。一寸、誰だかわからなかったが、新一は、昨夜の女だったと思うと、あわてて柱鏡《はしらかがみ》の方へ行ったり、机の前へ坐ってみたりした。  頭がすうすうと寒い。机の上のポマードや櫛《くし》が妙《みょう》な感じだ。新一は立って行って、 「どうぞ、お上ンなさい、――もう引越《ひっこ》して来たのですか?」  と、階下《かいか》へ声をかけた。 [#9字下げ]○  凝っとちぢかむようなおもいで、郷子はペアの船ばたを両手でしっかりささえていた。新一が、棒杭に手を支えて、短艇《ボート》をすっと後へずらせた。ぴちゃぴちゃと船底に水の音がしている。 「僕はこれでも正選手《レギュラー》なンだから安心していらっしゃい、但し、こんな貸ボートじゃ僕の力量をお目にかけられませんがね、――白鬚《しらひげ》の方へ行ってみましょう? 寒かったら、僕の、その外套を着て下さい‥‥」  さっき、駒形橋《こまがたばし》から見た時は、青黒くて、海のような水の色だったけれど、水の上へ出て見ると、蜜柑《みかん》の皮や、木片が汀にきたなく浮いていて、水は石油色に光《ひか》っていた。 「ここが、隅田川《すみだがわ》ですか?」 「そうですよ、――あれが、松屋、こっちがビール会社、その鉄橋《てっきょう》が、日光《にっこう》行《ゆ》きの電車の通る処ね‥‥」  霙《みぞれ》まじりの雪がばらばらと降りはじめた。両岸の景色を黄昏色《たそがれいろ》に染めて、寒い河霧の中に、水の上はにぶく光っている。  郷子は耳が熱《あつ》くもえて仕方がなかった。  ギィギィとオールの音が、二人の会話を、まるで、千万《せんまん》も語ってくれているようだ。  河風は寒かったが、新一の胸には壮烈《そうれつ》な喜びが湧きあがって来た。オールを握る手に力をいれた。――レールが壊《こわ》れているので、シートの工合は悪かったが、それでも、この小さなボートは無尽蔵《むじんぞう》に、速いスピードを出す。水流に抗していながら、船はぐっぐっと進み正確な、艪先の水泡《みなわ》が、水に白い花を置いたようだった。  大運河《だいうんが》のように、郷子には水の上が広々として見えた。スピードが出るにつれ、新一の顔は熱して赤くなってきている。――郷子は咽喉《のど》に痰《たん》のからまるような変な息苦しさを感じた。 「おや、どうしたの?」  郷子が急にハンカチで鼻《はな》をおおって、膝の上にそっと首《くび》を曲げた。  オールをぐっと水からあげて、新一が郷子《くにこ》の方へのぞきこんで来た。 「――おや、鼻血《はなぢ》だ‥‥ねえ、僕の外套にハンカチがあるから、それでお拭きなさい‥‥」 「ええ、もう、何でもないンですの‥‥」 「何でもなくはないですよ、――そのまましばらく、あおむいていらっしゃい‥‥」 「ええ‥‥」  郷子は、袂《たもと》からハンカチを出して鼻をおおった。ごく、ごく、と、生あたたかい血が咽喉《のど》に流れ込んで来る。厭《いや》な気持だった。 「少し、寒かったかな‥‥」  白鬚橋の下に来て、石柱《いしばしら》の、ぬめぬめした石崖に手をやり、ぐうっと左に船《ふね》をまわすと、ポンポン蒸汽《じょうき》が、ボートの横を近々と通り、荒い水沫《みずしぶき》が、さっと二人の肩の上へ降りかかった。  二人は思わず顔を見合《みあわ》せて笑った。  五日たって、出征してゆく人間とも思えないような、長閑《のどか》な青春《せいしゅん》が、新一の胸に愉しいものを誘って来る。  朝、会社の食堂で、珈琲《コーヒー》を一杯飲んだきりだったが、新一は別に腹は空いてはいなかった。どこかで、があんがあんと鉄《てつ》を打つ音がしている。 「僕の、その外套《がいとう》を、頭からかぶっていらっしゃい‥‥」 「ええ‥‥」 「寒いから、――遠慮《えんりょ》をしないでかぶっていらっしゃい」  郷子は、新一の外套を頭からすっぽりとかぶった。外套の内側は草《くさ》の葉《は》のような匂いがしていた。 [#9字下げ]○  白鬚橋の橋詰《はしづめ》の交番の処へ来て、新一は、はじめて河岸に灯《ひ》がついているのに気がついた。  小雪が降《ふ》っていた。 「あんまり歩いて、疲《つか》れたでしょう?――どこか、あたたかい処で、御飯をたべましょう‥‥」 「はァ‥‥」 「もう、頭《あたま》は痛くありませんか?」 「ええ、もう、すっかり‥‥」  新一は通りかかった自動車《くるま》を呼びとめて、駒形までやってくれと云った。――郷子は東京へ出て来て、自動車《くるま》へ乗るのはこれが二度目である。  寺島三丁目の、堤のような道を抜けて、三囲神社《みめぐりじんじゃ》の暗い町並へ来ると、どうしたのか自動車《くるま》の中の灯《ひ》がぽっと消えた。そとはまだ黄昏の雪あかりで四囲《あたり》はあかるかったが、新一も郷子も落ちつかない気持だった。  新一は学校を卒業した頃、友人に誘《さそ》われて、女を知ったことはあったが、それは新一にとって不愉快な思い出だった。――躯《からだ》の関係のない、清純《せいじゅん》な恋の思い出も、一つ二つ、ないではなかったけれど、この、眼の前にいる、郷子のように、新《しん》一の心をゆりうごかして来た女は、かつて一人もなかったと云っていい。  さっき、寒い水の上で、子供のように、素直《すなお》に空を向いて、鼻にハンカチをあてていた、郷子の咽喉《のど》の白さを思い出して来る。象牙色の咽喉の皮膚が透きとおってみえた。寒さで、躯は小刻《こきざ》みにぶるぶる震えていた。――寒いでしょうと云えば、いいえと云って笑《わら》う。 「駒形《こまがた》のどこですか?」  運転手が訊《き》いた。 「ああ、あのねえ――橋を渡って‥‥金田、知ってる? 鶏屋《とりや》だよ」  自動車《くるま》は鉛板の上を行くように、広い橋の上へ出た。雪が窓に降りかかり、河向うの松屋のネオン・サインが光っていた。 「風邪《かぜ》をひかしたかな?」 「いいえ、大丈夫ですの‥‥」  郷子が遠慮《えんりょ》そうに肩掛けの中でこんこんと咳をしているのを、新一はボートに乗せて風邪をひかせたかと心配している。  松屋の横を這入って、金田《かねだ》の前へ自動車《くるま》がとまった。――敷台を上ると、景気よく束ねてある土産物《みやげもの》の風船が眼につく。  桃割に結った小女が、二人を狭い部屋へ案内して行った。障子《しょうじ》の腰硝子《こしガラス》の向うに、暗い庭が見える。部屋の隅には、吊古銅《つるしこどう》に寒木瓜《かんぼけ》と春蘭が活けてあった。 「寒《さむ》かったでしょう?」 「そんなでもありませんわ‥‥」 「そんなでもないもンですか、随分《ずいぶん》、がたがた震《ふる》えていましたよ」 「あら‥‥」 「酒《さけ》を一本だけ飲んでもいいかなァ?」 「どうぞ、‥‥どうぞ召しあがって下さいまし‥‥」  やがて、鍋物《なべもの》や、銚子が運ばれて来た。  新一は、郷子には酒をすすめなかった。腹《はら》が空いていたせいか、腹の底に浸《し》みわたるような酒だった。 「どうです? あの部屋《へや》は‥‥」 「今朝、早く、駅から、チッキの荷物《にもつ》を取って来ましたの――で大橋さんのところで、とてもよくして下すって、お蒲団《ふとん》なンかも借して下すったンですのよ」 「そりゃァよかったですね‥‥」  どこかの部屋で、出征を送る宴《えん》でもあるのか、賑やかな軍歌の合唱がきこえる。 「私、いま、こんな処へ来ていて、何だか、嘘《うそ》みたいですわ‥‥」 「どうして?」  新一は盃《さかずき》をカチッと茶向台《ちゃぶだい》の上へ置いた。 [#9字下げ]○  新一が、渋谷の二|葉《ば》へかけつけた時は、もう八時前であった。 (夢中にのみ、よろこびあり‥‥夢中にのみ、吾《わ》が人生《じんせい》在《あ》りか‥‥)  出鱈目《でたらめ》をくちずさみながら、新一がボーイに案内をされて、庭口から這入って行くと、縁側の硝子戸が乱暴《らんぼう》にがらがらと開いて、 「おい! 佐山ァ、罰金《ばっきん》ものだぞッ、――どうしたンだ? もう、みんな待《ま》ちくたびれて、少し荒《あ》れていた処なンだぞォ‥‥」  新一と仲のいい小見山幾太郎《こみやまいくたろう》が、新一の肩をつかんだ。 「やァ、遅《おく》れて、済まん、済まん、――あやまるよ。何や彼やと忙わしくてねえ‥‥」 「忙《せ》わしいも糞《くそ》もあるものかッ、――みんな、お前の為に、仕事を放っちらかして出て来《き》とるンだぞッ! ――さっきから、勝って来るぞで、みんな咽喉《のど》をつぶしてしまった‥‥」  小見山に押されて、新一が部屋へ上ってゆくと、四五人の友人達は、わっと喚声《かんせい》を挙げた。  新一は床の間を背《せ》にして坐らせられた。 「佐山新一は、不埓《ふらち》な奴《やつ》でして、――いまごろ、のこのこやって来ましたが、本人の申しまするところでは、何や彼《か》やと忙《せ》わしかったと云うことを信《しん》じまして、――あらためて、佐山新一の出征を祝《しゅく》す、いや、送る、会にうつります‥‥」  幹事の小見山が、洗《あら》いたてのような、さらさらした髪を、時々うしろへかきあげて挨拶《あいさつ》をした。 「いや、全く、済まんよ‥‥」 「おい、佐山、済まん次手《ついで》に、ひとわたり飲んでくれ‥‥」  佐山の手に、忙わしく杯《さかずき》がまわった。  オードブルの汚れた皿《さら》が取り去られて、また新しいオードブルの皿が運ばれて来た。 「明日は日本料理だそうだから、俺《おれ》の方はハイカラにしたンだよ。――うんと食《く》ってくれ‥‥」  新一は一座のみんなに杯《さかずき》をかえした頃、居ずまいを正して、 「――いま、小見山が、僕に、何か、一言、挨拶《あいさつ》をしろと云うのでありますが、――ええ、出征しますについて、一|死報国《しほうこく》、征《い》って参りますと云うよりほかには、どうも云いようがありません。――正直のところ、いまは、万感《ばんかん》こもごも、昨夜まで、厳《きび》しいものが臍のあたりをかけめぐっていたのでありますが‥‥、兎に角、元気《げんき》で征《い》って来ます!」  荒い拍手《はくしゅ》が鳴《な》った。――新一は胸に熱いものを感じたが、ぐっと杯をほすと、左隣にいた、女学校の教師《きょうし》をしている小見山の兄の正住《まさずみ》に杯をさした。新一から杯をさされると、その杯を一寸ささげて、 「おい、幾太郎《いくたろう》、お前、友人代表で、佐山さんを送るについて、一言《ひとこと》しゃべったらどうだ?」 「僕が、ですか?」 「うん、まァ、お前やってくれ‥‥」  あとのものも賛成《さんせい》の拍手を送っている。  幾太郎は一度きちんと坐りなおすと、ぺろりと唇《くちびる》をなめて、 「ええっ‥‥今夜は皆さん、――佐山《さやま》の為に、おあつまり下さいまして、ありがとうございます‥‥」 「おい、小見山――、そんなことはどうでもいいぞ、何か激励《げきれい》の歌でもうたえッ」  三|鷹《たか》の天文台《てんもんだい》へ勤めている岡部は呶鳴った。  料理の皿数はすくなかったが、小人数《こにんずう》な、なごやかな会合である。それぞれ詩吟をやったり、歌をうたったりした。小見山の兄は、 「こんな洋食屋《ようしょくや》でなしに、――おい、幾太郎、どこか、らく[#「らく」に傍点]な処で二次会をやろうじゃないかね‥‥」  と、時計《とけい》を出してみている。  新一は、冷たくなった徳利《とくり》を引きよせて、手酌《てじゃく》で二三杯、冷い酒をぐいぐいと飲んだ。 [#9字下げ]○  佐山が電話《でんわ》をかけてくれたのか郷子がエレベーターであがってゆくと、小見山が扉のところで待っていた。 「やァ、――植村《うえむら》さんですか?」 「はァ‥‥」 「私、小見山《こみやま》です、――さっき、佐山から電話がありましてねえ、――兎に角おめにかかってみるからと、電話したンですが‥‥」  小見山が、狭《せま》い応接間《おうせつま》へ郷子を連れて行った。 「履歴書《りれきしょ》をお持ちですか?」 「はァ、持って参りました。――何だか、書きかたも出鱈目《でたらめ》で‥‥これで、よろしゅうございましょうか?」 「――いや、どうだっていいンですよ。ただ形式《けいしき》で、やっぱり、履歴書は見せなければなりませんのでね、――佐山も、いま忙《いそ》がしいでしょう?」 「はァ、何だか、ごたごたしていらっしゃいます。――明日の晩《ばん》、一寸、信州《しんしゅう》の方へいらっしゃいますとか‥‥」 「そうですか、――明日の晩ねえ送《おく》ってゆけそうもないなァ‥‥」  小見山は卓子《テーブル》に肘《ひじ》をついて、郷子の履歴書を凝っとみていたが、 「おや、あなたは、大津《おおつ》ですか?」 「はァ、生れたのが大津で、いま両親《りょうしん》は膳所《ぜぜ》におります‥‥」 「そうですか、――僕は生れは京都ですよ‥‥佐山とは一|高時代《こうじだい》からの友人でしてねえ」 「まァそうでございますか‥‥」 「あいつ、風変《ふうがわ》りな男で、夏なんか、京都の僕の家へ来ると、一日水を見に出掛《でか》けて行くんですからね‥‥」 「ボートの選手をしていらっしたンでございますって‥‥」 「そうですよ、おききになりましたか?」 「はァ‥‥」  小見山は神経質に、瞼《まぶた》をぱちぱちとまばたきさせる癖がある。  履歴書を持って、小見山が事務室《じむしつ》の奥へ消えてゆくと、郷子は、そこへ腰をかけたまま、固く眼をつぶっていた。 (神様《かみさま》、どうぞ、首尾《しゅび》よく、私にこの職業を与えて下さいますように‥‥)  何時か、晴れた日に、東中野《ひがしなかの》の上ノ原で、ローラア・カナリアの啼《な》く音をきいたことがあったけれど、眼をつぶっていると、何処《どこ》からともなく、カナリアの啼いているような、そんな気がしてきて仕方《しかた》がない。――何となく、首尾よく、職業《しょくぎょう》につけるような気もする。 「やァ、お待たせしました。――明日《あす》から、来てみてごらんなさいと云うことですよ。働いてみますか?」 「まァ! ほんとに嬉《うれ》しゅうございますわ‥‥私、一|生懸命《しょうけんめい》に働きます‥‥」 「いや、そんな、一生懸命でなくてもいいのですが、――まァ、やってごらんなさい、給料《きゅうりょう》の方は、まだ確定《かくてい》したこと云えませんが――三十七八円位とおもっていて下《くだ》さればまちがいないでしょう‥‥」 「はァ、ありがとうございます‥‥」  郷子は小見山に、エレベーターの処まで送られて、階下《した》へ降《お》りて行った。  歩道《ほどう》へ出ると、わっと迫《せま》るように、悠々とした青い空がひらけていた。ビルディングをあおぐと、四階の窓に、大野建築事務所《おおのけんちくじむしょ》と金文字で書いてある。 (明日《あす》から、あの窓の中で私は働くのだ‥‥)  郷子は、日比谷《ひびや》の停留所《ていりゅうじょ》の方へ歩きながら、自分の足に、一二三、一二三、と口のうちで号令をかけていた。三十七八円も貰えば、何《なん》だか、それだけで、一|生涯《しょうがい》食《た》べてゆけそうな、そんな、子供らしい勇気《ゆうき》が湧《わ》きあがってくるのだ。 [#9字下げ]○  郷子が、銭湯《せんとう》からかえってくると、夕陽を正面にして、新一が、まぶしそうに、車庫《しゃこ》の前を歩いて来ているのに出あった。  新一の下駄《げた》の音が高く響いている。 「さっき、うかがいましたら、お留守《るす》だったンでございますよ」 「ああ、――郵便局《ゆうびんきょく》へ行ってたのかな‥‥。上って、待っていて下さればよかったンだのに‥‥」  新一が郷子と肩を並べると、郷子の風呂《ふろ》あがりの体臭が、乳のように匂《にお》った。――右の手に持っているニッケルの小さい金盥《かなだらい》の上に、白いタオルがたたんではいっている。 「小見山《こみやま》の方は、うまくゆきましたか?」 「ええ、ほんとに有難《ありがと》うございました。――明日から来てみてはどうかって‥‥」 「月給《げっきゅう》はどのくらい?」 「まだ、はっきりしないンだそうですけど、――三十七八円にはなるだろうって、おっしゃっていました。――いい方《かた》でございますね」 「小見山でしょう?――あいつは、一|高時代《こうじだい》の友人でねえ、家は京都《きょうと》ですよ‥‥」 「そうですって‥‥」 「何《なに》か云ってましたか?」 「佐山さん、ボートの選手で、水を見にゆくと、二時間でも三時間でも、呆《ぼ》んやり、水をみていらっしゃるってお話、うかがいましたわ‥‥」 「あッははは‥‥、そんなことを云ってましたか、――小見山は、あれは書斎派《しょさいは》でねえ、何時も家の中にばかりいるンですよ、――弟妹《きょうだい》も沢山あって、中々幸福な家庭《かてい》ですよ」  新一よりさきに、郷子はいそいで部屋《へや》へ上って行った。がらがらとすぐ窓《まど》をあけている。 「炭団《たどん》をくべといたンで、あたりが、一寸臭いますでしょう?」  新一が上って来るなり、郷子はそう云って、火鉢《ひばち》の火をほじくっている。 「これ、拝借《はいしゃく》して、とても便利していますの、――何も彼も、これで煮炊《にた》きが出来ますし‥‥」  新一の火鉢《ひばち》がここへ転《うつ》って来ていて、黒い藁灰《わらばい》があたたかそうにはいっている。 「小見山さんは、兵隊《へいたい》さんは、どうなンでございますか?」 「ああ、あれは、兵役《へいえき》の方はなかったンじゃないかな。――体格《たいかく》がよくないンでねえ‥‥」 「お弱《よわ》そうですね?」 「いや、あれで、中々、芯《しん》は強いンですよ」 「あら、そうでございますか‥‥」  新一は夕陽《ゆうひ》の明るい窓《まど》に腰をかけて、寺の庭で遊んでいる子供達をみていたが、ふっと思い出したように云った。 「三十七八円で、食《た》べてゆけるかなァ‥‥」  郷子は、隅田川《すみだがわ》へ行った時の、鼻血《はなぢ》で汚れたハンカチを二枚、風呂で洗ってきたのか、小さく折りたたんでは、両の掌《て》でぱんぱん叩《たた》いていた。 「でも、何《なん》とか、やってゆけると思いますけど‥‥」 「まァ、よく、色々と勘定《かんじょう》をしてみるンですね。――郷里《くに》の方へ送ると云うのは、それだけの月給じゃァ、大変《たいへん》なことですからねえ‥‥」  しゅんしゅんとやかん[#「やかん」に傍点]の湯《ゆ》がわきはじめた。郷子はきもちのよさそうな風呂あがりの薄紅い手で、茶を淹《い》れている。  新一は、焦々《いらいら》して、急に、窓から腰をあげたが、火鉢《ひばち》のそばへ寄るのもてれくさく、また、窓ぶちへ腰《こし》をおろした。 「僕の、会社の方だって、そのくらいの給料《きゅうりょう》ならありそうですがねえ‥‥」  新一が貸してやった机の上に、金蓮花《きんれんか》の花をさしたコップが置いてある。――壁には、郷子の新しい大島の羽織《はおり》が、衣紋《えもん》かけにきちんと吊してあった。 [#9字下げ]○ 「あら、いい部屋《へや》じゃないの‥‥」 「そうでしょうか?」 「これ、いくらぐらいなの?」  大橋久子は、部屋へ這入って来るなり、手袋《てぶくろ》をぬぎながら、郷子に部屋の値段《ねだん》をきいた。一枝は襟の立った茶色《ちゃいろ》の外套を着ている。  小さい火鉢《ひばち》をかこんで、久子と一枝が坐ると、郷子は押入から茶道具《ちゃどうぐ》を出して来た。 「お務《つと》めがきまったンですってね?」 「はァ‥‥」 「何時から?」 「今日がはじめての日ですの、――楽《らく》な仕事ですから‥‥」 「そう‥‥よかったわ」 「佐山さんて、どんな方《かた》?」  一枝《かずえ》がたずねた。 「どんな方って、――帝国鉱業《ていこくこうぎょう》って、会社に務めてる方なンですの‥‥さっき、夕方の汽車で、郷里《きょうり》の方へおかえりになったンですの‥‥」  郷子はもうかなり出来ている千人針《せんにんばり》の布を押入から出して来て、久子と一枝に縫《ぬ》って貰った。――お使いに行くにも、銭湯《せんとう》へ行くにも、一寸の間も利用して、郷子は佐山《さやま》への千人針を持って歩いていたのだ。  銭湯では着物《きもの》を着かけているひとも、裸《はだか》のひとも、こころよく郷子の千人針をとおしてくれた。 「嘉兵衛《かへえ》さんも、二三日前に上海《シャンハイ》へ行ったのよ。――戦争はもっと続くンですってね‥‥」 「ひどくなるのでしょうか?」 「支那も、長期抗戦《ちょうきこうせん》なンて云うンだから、やっぱり、当分、続くンでしょうね‥‥」  そう云って、久子が坐《すわ》ったままコートをぬいでいる。 「赤《あか》ちゃん達、どうなさいまして?」 「ああ、子供達《こどもたち》?――小さい女中が来たンで置いて来ちゃったの、――ところで、あなた、その会社どの位くれるのよ?」 「ほんの少し‥‥」 「――少しって‥‥まァ、やれるンならいいわ。――そうね、当分《とうぶん》、独《ひと》りで、せっせとお働きなさい。恋愛《れんあい》なンかしないでね‥‥」 「あらァ、そんなこと‥‥」 「ほんとうよ、――二十四五までは、せっせと働《はたら》くといいわ。――それこそ、貯金でも出来るようだったら貯金《ちょきん》してね。――男のひとより、お金の方が大切よ、自分で働いてりゃァ、びく[#「びく」に傍点]ともすることなンかないわ‥‥」 「お姉《ねえ》さんたら、すぐ、あんなこと云うのよ‥‥」  一枝が舌の上の茶殼《ちゃがら》を指でつまみながら笑っている。  郷子は(恋愛《れんあい》なンかしないでね)と云った、久子の言葉に、何と云うこともなく、汽車に乗って行った新一のことを考えていた。  煙草にマッチの火をつける時、煙草を咥《くわ》えた下唇《したくちびる》をつきだす癖がある‥‥(佐山さんは、もう、どの辺かしら‥‥)郷子は、久子の言葉に、額《ひたい》に冷い滴《しずく》のかかったような気持になった。 「私なンか、いまの気持《きもち》が若いときにあったらねえ、もっと幸福な道を歩《あ》ゆンでいたと思うわ‥‥」 「お姉さん、だから、口惜《くや》しいって云うのでしょ‥‥」 「ええ、ほんとう、――私が、あなたたちのようだったら、もっと、もっと、色んなことに努力《どりょく》するわねえ‥‥」  どこかの部屋でヴァイオリンの音がしている。風が出たのか、硝子窓《ガラスまど》ががたがたゆれている。 「郷子さん、ここから、全線座《ぜんせんざ》って、近いでしょう? ニュースでも観にゆかない?」  久子が自分の腕時計を眺《なが》めて云った。  郷子は、映画《えいが》をみる気持にはなれなかった。弟へあてて書いた手紙を袂《たもと》にして、久子と一枝を、バスの通りまで送ってゆこうとおもった。 [#9字下げ]○  今日は立春《りっしゅん》である。あたたかい陽射《ひざ》しが、窓下の鋪道にきらきら光っていた。 (佐山さんは、いまごろ、長野《ながの》に着いたころかしら‥‥)  郷子は呆《ぼ》んやり事務机に凭《もた》れて、窓の外を眺めていた。走ってゆく電車、自動車、バスやトラック、すべてがあわただしい。  昨夜《ゆうべ》は節分だったのか、事務机の前の、狭《せま》い書類立の横に、大豆の弾《はじ》けたのが一つころがっていた。 (鬼は外、福は内‥‥)  敬太郎が桝《ます》の豆を手づかみにして、家のなかをぽそぽそと撤いて歩いているのが瞼《まぶた》に浮んで来る。  平造は神棚《かみだな》や仏壇にお光《あか》りを上げているだろう。継母《はは》が煮〆を煮ている。マツエが風呂を焚きつけている‥‥。節分の晩は、豆を撤《ま》いたあと、一年の厄《やく》おとしに、家じゅうで風呂へ這入るのが家の習慣《しゅうかん》であった。  今年の節分はどんなだろう。――父が怒《おこ》った顔をして、郷子の古い箪笥《たんす》や机の上に、節分の豆を叩きつけているところがちらちらする。  郷子は眼の前にころがっている豆をひろって、前歯《まえば》で噛《か》んだ。乾いた豆だったが、噛むと田舎の土のような味《あじ》がした。 「植村《うえむら》さん」  小見山が、今日は新しいダブルの、紺の背広《せびろ》を着て、郷子のいる事務室へ這入《はい》って来た。窓ぎわへ立って、ポケットからセーム革《がわ》を出して、眼鏡《めがね》をはずして拭きながら、 「佐山は、明日ですか? 戻《もど》って来るのは‥‥」  と訊いた。 「はァ、何だか、明日の晩、上野《うえの》へお着きになりますとか、おっしゃっていらっしゃいましたけど‥‥」 「あいつも、中々、忙しいンですね‥‥帰る時間《じかん》はわかっていますか?」 「――ええ、時間をおききしたのですけど、いいンですよッて、時間をおっしゃらないンですもの――明日《あす》、夜、うかがってみようと思うンですけど、それに、荷造《にづく》りをなさる、お手伝いもありますし‥‥」 「荷造りもまだなンですか?――仕様《しよう》がないなァ‥‥」  郷子は、新一とボートに乗ったりしたことを考えて赧《あか》くなった。――部屋の隅でタイプを打っている宮田《みやた》と云うタイピストが、時々小さい声で鼻唄《はなうた》をうたっている。  郷子は机のひきだしから、千人針の布《きれ》を出して小見山に見せた。 「へえ――短日月《たんじつげつ》に、よく出来ましたねえ‥‥みんな出来たンですか?」 「はァ、すっかり、――何もさしあげるものがないンで、一|生懸命《しょうけんめい》大馬力《だいばりき》でやりましたの‥‥」  けたたましく昼のサイレンが鳴《な》った。  小見山は眼鏡をかけると、セーム革を腰のポケットにしまい、腕時計《うでどけい》をサイレンにあわせている。 「どうです、御飯《ごはん》を食べに行きましょうか?」 「ええ‥‥私、お弁当《べんとう》を持って来ているンですけど‥‥」 「――いいじゃありませんか、外《そと》はぽかぽかしてるし、お茶でも喫《の》みに行きましょう‥‥」  給仕や小使が、黒い薬鑵《やかん》をさげて扉を出たり這入ったりしている。ついたての向うの製図《せいず》を描いていた二三人の社員《しゃいん》が、がたがた机から離れている様子だった。 「おい、宮田さん、お茶でも喫《の》まない?」  小見山が声をかけると、グリンのジャケツを着《き》た宮田《みやた》が、男のようにううっと大きな伸《の》びをしてこっちを向いた。 「今日は四日かな‥‥ねえ、兎に角、戸外《そと》へ出ましょう、――日比谷公園《ひびやこうえん》でもぶらついて来ようじゃありませんか、木や草をみて日向《ひなた》ぼっこもいいですよ‥‥」 [#9字下げ]○  東京へ戻《もど》ってみると、東京は雪もなく、信州《いなか》よりずっとあたたかい。机の上には二三通の祝電が来ていた。  新一は着物に着替《きか》えて、電気のコードをひくくさげて、本箱や、押入《おしい》れのなかを整理しはじめた。 「おい、何時《いつ》戻《もど》ったンだい?」  小見山と岡部が、大きい跫音《あしおと》をさせて梯子段《はしごだん》をあがって来た。――荷造りを早く済ませて、郷子をさそって、何処かで晩飯《ばんめし》でもたべようと考えていたところだったので、新一はどぎまぎしながら、襖《ふすま》をあけた。 「おい、何時戻ったンだ?」 「やァ、さっき、帰って来たンだ‥‥」 「荷造《にづく》りは出来たのかい?」 「いや、まだだよ、――いま、やりつつあるんだ‥‥」 「手伝《てつだ》ってやるよ、――田舎はどうだった!」 「うん‥‥」 「いやにはっきりしないじゃないか‥‥」  岡部がインバネスを壁《かべ》にかけながら云った。  小見山は風邪《かぜ》をひいたとかで、マスクの下で咳《せき》をしている。――階下でおぼえのある戸のあけかたをして、郷子の声がしていた。新一はすぐ梯子段《はしごだん》のところへ行った。郷子が、走《はし》って来ましたのよ、と云って、白い息《いき》を吐《は》いて梯子段をあがって来ている。  新一は、自分の胸で郷子の躯《からだ》を受けとめてやりたいような、焦々《いらいら》した、せっぱ[#「せっぱ」に傍点]つまったものを感じ、そこへつっ立《た》っていた。 「あら、お客様《きゃくさま》でいらっしゃいますか?」 「小見山君《こみやまくん》と、もう一人‥‥」 「よろしゅうございますの?」 「どうぞ‥‥」  郷子も何かあわただしい気持《きもち》だった。そのあわただしさが、両の膝小僧《ひざこぞう》をがたがた震わせている。 「やァ、いらっしゃい‥‥」  小見山がマスクを取って郷子に挨拶《あいさつ》をした。立っていた岡部も小見山に紹介《しょうかい》をされて、あわてて郷子に挨拶をした。 「この荷物《にもつ》はひとまず、俺の方へ運んでいいんだな?」 「うん、明日、運送屋《うんそうや》をむけるから――どこへでもほうりこんでおいてくれよ‥‥」  小見山はさっきから床《とこ》の間へ腰をかけて、時々、(こんなものも読んでるのかい、驚《おどろ》いたねえ‥‥)と云いながら、積み重ねてある本の頁《ページ》をめくっている。 「小見山の処へ、いっぺんに運《はこ》べんようだったら、俺のとこへも預《あず》かっていいよ‥‥」  岡部が行李《こうり》に細引をかけながら云った。新一は黙って、電気のそばにつっ立っている。郷子は白いショールを、震《ふる》える膝《ひざ》の上でくるくるとたたんで、袂を八ツ口のなかへたぐしこんでいた。 「あなたは、そこで見ていらっしゃい、――この、二人の男に任《まか》しておけば沢山《たくさん》ですよ‥‥」  新一がひび[#「ひび」に傍点]のはいった火鉢にしゃがんで、ぶっきらぼうに煙草《たばこ》に火をつけている。何気なく、郷子が新一の方へ顔《かお》を挙げると、新一の眼が熱っぽくみえた。郷子は震《ふる》える膝を強く畳に押しつけて坐《すわ》りながら、小さい声で、 「でも、何か、お手伝いさせて戴《いただ》きますわ‥‥何でもさして戴くつもりで来たンですもの‥‥」 「おい、佐山、細引《ほそびき》が足りないぞォ‥‥」  岡部が、羽織をぬぎながら、行李《こうり》に馬乗《うまの》りになっている。 「私、買《か》って参りましょう‥‥」  郷子が立ちあがると、新一が怒《おこ》ったように云った。 「あなたは、そこへじっ[#「じっ」に傍点]としていらっしゃい! 細引《ほそびき》なンか、何でもいいよ、足りなきゃ、そのままでいいじゃないか、大したものも這入《はい》っちゃいないンだから‥‥」 [#9字下げ]○ 「よし、俺が、細引きを買って来る。次手《ついで》に何かいるものはないか?」  岡部が羽織《はおり》を着て、壁のインバネスを肩にひっかけた。 「ああ、煙草を買って来てくれ、――それから蜜柑《みかん》でも少し、どうだ?」  小見山が、小銭《こぜに》を出しながら火鉢のそばへ来た。佐山はさっきから黙《だま》っている。郷子は散らかっている新聞や、紙屑《かみくず》をまるめていたが、妙に膝頭《ひざがしら》が震えて仕方がなかった。 「煙草《たばこ》は何だい?」  岡部が襖《ふすま》に手をかけてきいた。 「うん、光《ひかり》だ。おい、これで三ツほどたのむ‥‥あとは蜜柑だぜ」 「よし、光だねえ‥‥」  岡部が降りて行くと、佐山は坊主《ぼうず》になった頭を火鉢の上へ突き出して、二三度、雲垢《ふけ》をおとすような恰好《かっこう》をしながら、 「いよいよ、明日だなァ‥‥」  と云った。 「面白いもンだねえ、だんだん、また興奮《こうふん》して来ているンだ。――新聞をみていても、石油臭い、臭気《しゅうき》だけが、つんつん眼に来るんンだ。吹雪《ふぶき》のなかを走っている処ばかり頭に浮んで来て仕方がない。」 「いや、いざ、兵隊《へいたい》になってしまえば、また、違った落ちつきが出て来るンじゃないかなァ、――義兄《ぎけい》が‥‥これは海軍の軍人なンだがね、この間、久しぶりに戻って来て、まァ、一|緒《しょ》に飲んだンだけど、厭《いや》に肚《はら》が据っていて、僕と同じ年なンだが、云うことが、まるでもう大人《おとな》なンだよ‥‥」 「うん、――いや、兵隊になってしまえば、それは、また、それとして、落《お》ちつくンだ。――郷里へ戻って、久しぶりに親爺《おやじ》にも逢ったが、家の中へ這入るなり、早く戦場《せんじょう》へ出たいと思ったなァ‥‥今度は、まァ、出征するンで僕《ぼく》に云いたいことも黙《だま》っていたようだったけど、――弟の方だけは農学校へでもやって、手元《てもと》へ置くと云うンだ。自分で、勝手に僕を東京へ手放《てばな》しといて、僕を冷《つめ》たい奴だと云うンだからねえ‥‥」 「赤坂《あかさか》の方へも長く行かないが、今度、別れに行ったの?」 「ああ、叔母も僕には、もう、手《て》を焼《や》いてるさ‥‥この間、一寸、寄《よ》ってみたら、少しはこたえたらしくて涙ぐんでいたがね」 「美智子君《みちこくん》はどうなンだい?」 「うん、相変《あいかわ》らず、きゃっきゃっやってたよ‥‥」  小見山がふっと立って、階下《した》の便所へ行った。郷子はすぐ、部屋の隅に置いた風呂敷包《ふろしきづつ》みをほどいて、千|人針《にんばり》の包みを新一のそばへ出した。 「あのう、何も出来ませんのでね、――私、一|生懸命《しょうけんめい》に、千人針をつくりましたの‥‥お荷物のなかへ入れて、持って行って戴《いただ》けませんでしょうか‥‥」  新一は、一寸《ちょっと》頭《あたま》をさげたが、すぐ、火箸《ひばし》を握って、固い灰の火をかきたてている。一分、二分、三分、湯が噴《ふ》きこぼれるような速さで、時間がたってゆく。階下《した》から沢山の時計のセコンドが、チクチク畳《たたみ》の底から、聴えて来るようだった。 「いろいろ済みません‥‥」 「いいえ‥‥もっと、何《なに》か持って行って戴《いただ》きたいンですけど‥‥」  郷子は風呂敷《ふろしき》をたたむと、手の所在に困って、片手をそっと、火鉢《ひばち》のふち[#「ふち」に傍点]に持って行ったが、自分の手の指《ゆび》があまり震えていたのでそっとまた膝へ手を戻して、乾いた咳《せき》をした。 「まァ、元気で、やっていて下さい‥‥」 「はァ、もう、一生懸命で働《はたら》くつもりでございます‥‥」  まだ小見山は上って来ない。いびつに高く積《つ》み重ねてあった床《とこ》の間の本が、不意にどしんと、畳へ雪崩《なだ》れ落ちて来た。 [#9字下げ]○  小雨《こさめ》のきそうな、どんよりした空であった。郷子は早く起きて、佐山の下宿《げしゅく》へ行ったが、佐山はもう起きていて、背広姿で、階下《した》の茶の間でかどで[#「かどで」に傍点]の酒を祝って貰《もら》っていた。 「お早うございます‥‥」 「やァ、早《はや》いですねえ‥‥どうも有難う」  階下の時計屋の親爺《おやじ》さんが、板の間に腰をかけている郷子にも杯《さかずき》を持って来た。大きな杯の底には、ぶっちがいの日の丸の国旗の模様《もよう》がついていた。 「やァ、おじさん、どうも有難う――元気《げんき》で征《い》って来ますよ、おばさんも、早くよくなられンといかんですねえ、今日は熱はどうですか?」  膳の前に中腰になって、新一が襖《ふすま》の向うへ声をかけている。 「やァ、どうも、済《す》みません――もう、小見山達もやって来る時でしょう‥‥」  新一が先に二階へ上がって行った。部屋《へや》の真中に、中学生の持つような白いズックの鞄《かばん》が一つあるきりで、町内から貰ったと云う佐山新一の名前を書いた、薄《うす》い絹《きぬ》の小旗が二本、がらんとした床《とこ》の間に立てかけてあった。――新一は、大きい音をさせて窓《まど》を開けると、軒の紐に吊した濡れ手拭をつかんで、力まかせに、ぎゅうぎゅう絞《しぼ》って滴《しずく》をきっていた。  郷子は、この間《あいだ》、一枝に貰ったアメリカのチョコレートの紙包みを、そそくさと、鞄のそばへ持って行った。ぱんぱんと、濡《ぬ》れ手拭をはたいて、顔《かお》を拭いていた新一は、立ちあがる郷子の肩をつかんだ。ふっと石鹸《せっけん》の匂《にお》いがした。郷子は一|瞬《しゅん》、眼を大きくみはったけれど、すぐ、袂を顔におおった。  梯子段《はしごだん》を踏む音がしている。  新一はまた窓《まど》を開《あ》けた。郷子はそこへ坐った。 「佐山さん‥‥」 「はァ‥‥」 「町内の人へ、挨拶《あいさつ》して貰えませんかねえ、――何でもいいのですよ、一言、何か、喋《しゃべ》って下さいな‥‥」  階下の親爺さんが、梯子段《はしごだん》の途中から新一を呼んでいる。  新一は窓《まど》を閉《し》めると、小さい声で、 「何か、あなたの、何時《いつ》も持っているものを下さい‥‥」  と、ぶっきら棒《ぼう》に云った。階下では、町内の人の出入りがあるのか、子供達の歌う、まちまちな軍歌《ぐんか》の声がしている。 「何《なに》もないですけど、‥‥何がいいンでしょう?」 「何でもいいンです‥‥」  郷子が、周章《あわ》ててハンドバッグを開けた。ハンカチ、小さい鏡、コンパクト、紅、財布、どれも新しいものではない。 「ああ、これ、これは新しいンですのよ‥‥」  郷子が花模様《はなもよう》のある、白いコンパクトを出して、一寸、帯の上にあてた。 「じゃァ、それを下さい‥‥」  階下に岡部《おかべ》の声がしている。新一は郷子のコンパクトを、すぐ、胸のポケットにしまった。 「おーい‥‥」  岡部が、沢山《たくさん》の署名《しょめい》のはいった、派手な日の丸の旗を持って、階下の土間《どま》に立っていた。新一は、明るくぱっと開いたような表情《ひょうじょう》で、 「じゃァ、握手《あくしゅ》!」  と、郷子の前へ大きな手をひらいた。 「元気で‥‥」 「ええ‥‥」 「手紙《てがみ》、下さい‥‥」 「はァ‥‥」  新一はすぐ、ポケットから、赤い応召《おうしょう》のたすきを出して肩へかけた。 [#9字下げ]○ 「おい、小見山、銀座《ぎんざ》に出て茶でも喫《の》むか?」 「うん」 「どうだ、何処《どこ》がいい?」 「何処だっていいよ」 「何処だっていいよっていったところで、お前の方が通《つう》なンじゃないか‥‥」 「いや、銀座《ぎんざ》はあまり好かんから、何処も知らンねえ――」 「ふうん‥‥それじゃ、日比谷辺《ひびやへん》だけかい、知っているのは?」 「まあ、そんなものだね‥‥」  岡部と小見山は銀座へ出て、鳩居堂《きゅうきょどう》の硯《すずり》の展覧会を一寸覗いて、二人は不二屋の二階へ上がって行った。  窓近くの椅子《いす》へ腰《こし》をおろすと、岡部はすぐ、荷物と帽子を空いた椅子に放って、 「おい、銀座と云うところは、不思議《ふしぎ》な人種が歩いているねえ‥‥」  と、如何にも感にたえたように、賑やかな鋪道《ほどう》を見降している。 「全く、どこに戦争《せんそう》があるのかと思うようだ。――みんな、何の目的でああぞろぞろ歩いているのかねえ?」 「うん‥‥」 「ここにいる奴《やつ》たちも、何のために、ああガツガツ食っているンだい?」 「知らんよ」 「ねえ、あすこにいる、赤いジャケツの年増《としま》は、眼をつぶって食っとるよ‥‥」 「おい、紅茶《こうちゃ》か、コーヒーか?」 「俺か、――俺はコーヒーだ、一寸《ちょっと》、腹《はら》も空いたなァ‥‥」 「あのパンは美味《おいし》かったねえ‥‥」 「兵隊も親切《しんせつ》なものだなァ――兵隊にはいると、すぐ、ああして食事をくれるんだねえ――パン拾個《じっこ》佐山、見送《みおく》りの友に分けか‥‥」 「何だ。そりゃァ?」 「パン拾個。の説明《せつめい》さ‥‥」  やがて、二人の前へ、コーヒーが二つ運ばれて来ると、岡部がランチを二|人前《にんまえ》註文《ちゅうもん》した。 「今日はどうするンだ?」 「どうするって、こんな大きな風呂敷包《ふろしきづつ》みをさげてちゃァ歩けンじゃないか‥‥」 「うん‥‥どうして、佐山は、赤坂《あかさか》をあんなにきらうのかねえ――学資はあすこから出たんだろう?」 「そんな話だねえ、程のいい養子《ようし》みたいなもンだといっていたが、あんな悠々たる大乾坤居士《だいけんこんこじ》が、きらうンだから、あの叔母さんにはよほどのけっかんがあるンだろう‥‥」 「その荷物《にもつ》は俺が預《あずか》るとして、お前、今日は三鷹へ帰るにしても、俺の処へ泊って行かんか?」 「何かいいことでもあるのかい?」  ランチが運ばれて来ると、岡部は辛子《からし》と塩《しお》をふんだんに肉にまぶしている。 「おい、岡部、見てみろ、高島田《たかしまだ》の国防婦人会が行くぞ‥‥」 「うん、あの割烹着《かっぽうぎ》は、中々勇壮活溌でいいじゃないか――芸者だねえ‥‥」  岡部はパンをむしり、野菜《やさい》を頬《ほお》ばり、水を飲んだ。 「おい、幾太郎《いくたろう》」 「何だよ?」 「中々《なかなか》、いいねえ‥‥」 「何が?」 「郷子という女性《じょせい》さ‥‥佐山も酔っぱらうと、あんなひろいものをして来るんだねえ」 「まァ、それも、これも人生《じんせい》というところだろう‥‥」 「お前、佐山に頼《たの》まれたそうだが、大丈夫かねえ? お前は塵尾居士《ほっすこじ》だからなァ‥‥」 「塵尾居士《ほっすこじ》とは何だ?」 「いや、すぐ、なむあみだぶつと払《はら》うからさ、はッははは‥‥どうだ、胸に覚えがあるだろう?」 [#9字下げ]○  士官学校《しかんがっこう》の馬場《ばば》では、白い上着を着た生徒が、十四五人ばかり、馬を乗りまわしていた。堤の上へ上って、通行人がのんびり眺《なが》めている。  岡部と小見山も暫らく教練《きょうれん》を眺めていたが、岡部は荷物を左の手に持ちかえると、 「おい、もうすこし暖《あたた》かくなったらまた馬に乗ろうじゃないか?」  と、堤《どて》からゆっくり降りて来た。小見山は光《ひかり》を吸《す》いつけながら交番の横の路地へはいって行っている。 「馬もいいぞ‥‥」 「うん‥‥」 「おい、小見山《こみやま》」 「何だ?」 「こうしているところは、質屋《しちや》から帰りのようだねえ。まさか、佐山新一のぬけがら[#「ぬけがら」に傍点]をかかえて歩いているようには見えンだろう‥‥」  商店の硝子戸に、二人の姿が飄々《ひょうひょう》と写っている。 「どっか、そのうち、高い山へでも登《のぼ》るかな‥‥」 「山もいいが、馬《うま》もいいよ。――長期建設《ちょうきけんせつ》には馬にかぎる‥‥」 「馬は金《かね》がかかるよ‥‥」 「山の方がよっぽど金がかかるぞ、――それこそ、山が荒れて、麓《ふもと》の温泉場《おんせんば》なンかで長期建設でもしてみろ、大した金がかかるぞ」  四谷坂町の、狭《せま》い段々の多い路地へ、二人ははいって行った。どこからか沈丁花《ちんちょうげ》の花の匂いがただよって来る。狭い空地で、子供達がたこを揚《あ》げていた。空地《あきち》に対して、小見山のアパートがある。  木造《もくぞう》の、緑《みどり》のペンキ塗りだが、古びていて壁には枯れたつた[#「つた」に傍点]が這っていた。  部屋は東向きの明るい八畳、大きな机《つくえ》が真中に置いてあって、本や雑誌が壁《かべ》ぎわに積み重ねてある。 「時々、正住《まさずみ》先生《せんせい》はやって来るのかい?」 「いや、めったに来ないよ」  小見山は籐椅子の上へ外套《がいとう》をぬぐと、すぐガスストーヴに火をつけた。 「佐山の女性《じょせい》は、あれはいくつ位だ?」 「いやに気にするねえ、――お前こそ、塵尾居士《ほっすこじ》じゃないのかな‥‥」 「莫迦《ばか》をいえ‥‥」 「――一|応《おう》は東京へ出て来るンだね‥‥」 「そりゃァ、男も女も同じさ‥‥ただ、この都会《とかい》に勝つか負けるかだ、――だが、よく空拳《くうけん》で出て来たもンだ、ねえ‥‥」  岡部は部屋の隅に積み重ねてある五枚の座蒲団《ざぶとん》の上に腰を降ろした。北の壁には、 [#ここから2字下げ] 齷齪《あくせく》と名誉のみ求めて ただ最高《さいこう》のものと信ずる者は 天の広き空間《くうかん》を見よ 又地上の狭《せま》き区域《くいき》を あわれ人間の如何なる盛名《せいめい》も その小範囲《しょうはんい》をさえ充し得ぬ [#ここで字下げ終わり]  と、ペンで走り書きした紙片が鋲《びょう》で張りつけてあった。 「こりゃ何だ?」 「うん‥‥」 「また、例《れい》の感《かん》ずるところありてか‥‥あわれ人間の如何なる盛名も、その小範囲をさえ充し得ぬ‥‥なるほどねえ、こんなのは、国に敗れた奴の歌だろう?」 「うん、まあね‥‥ボエティウスだ」 「ふうん‥‥ボエティウスとは何だ?」 「国に敗《やぶ》れた奴さ‥‥」 「少し国に敗れる奴も出て来ンといかんねえ、糞《ふん》づまりになるよ‥‥後進の青春が、灰朽ちてしまう、そう思わないかね?」  岡部は手をのばして、机の上に放ってある女文字《おんなもじ》の絵ハガキを取った。 「植村郷子《うえむらくにこ》か、就職の礼状だね、――中々しっかりした文字だなァ‥‥」 [#9字下げ]○  汽車はしばらく、轟々《ごうごう》と凄まじい音をたてて鉄橋の上を走っていた。  新一はふっと眼をあけて、暗《くら》い窓のそとを覗《のぞ》いてみた。雪が降っている。 「おい、雪《ゆき》だねえ‥‥」  新一と同じ伍長の、前の席にいた兵頭《ひょうどう》が、胸のポケットからニッケルの新しい煙草《たばこ》ケースを出して煙草を一本、唇《くち》に咥《くわ》えた。 「みぞれみたいだねえ、いやに、しゃぶしゃぶしている‥‥」  新一は、兵頭《ひょうどう》の煙草にマッチをすってやり、自分も一本咥えた。 「おい、〇〇へ着くのは何時頃《いつごろ》になるンだい?」 「そうさ、どこへも停《とま》らないんだそうだから、明日の夜までには着くだろう‥‥」  兵頭《ひょうどう》は煙草を美味《うま》そうに吸いこみながら、白い襟布を窮屈《きゅうくつ》そうに指でゆるめていたが、 「まァ、何だねえ、これも大きな運命《うんめい》というのかねえ‥‥」  と、思い出したようにそんなことをいった。さっきまで軍歌《ぐんか》をうたって騒《さわ》いでいた兵隊も、おおかたは居眠《いねむ》りを始めている。便所に近い席にいる二、三人の兵隊《へいたい》だけが軍歌をくちずさみながらトランプをしていた。スチームがとおっているので、車内は革臭《かわくさ》い匂いがしている。 「おい、あの旗《はた》は誰のだ?」  兵頭《ひょうどう》が、すぐそばの網棚の上からぶらさがっている日の丸の旗を顎《あご》でさした。新一がふりかえってみると、田中君子《たなかきみこ》とか、桜井芳江とか、近藤千代子とか、女の名前ばかり書いた旗《はた》がさがっていた。 「うん、俺の班《はん》の奴だよ、――親爺が女学校《じょがっこう》の小使をしているンだそうだ‥‥」 「ははん、女学生のサインか‥‥中々《なかなか》洒落《しゃれ》たものだねえ‥‥」  新一はもう一度ふりかえって、日の丸の旗《はた》をみあげた。 (郷子《くにこ》というサインはないな‥‥)  五、六日前、あわただしく別れた日の、郷子の固くなった表情《ひょうじょう》が瞼《まぶた》に浮んで来る。だが、しっかり瞼を閉じていないと、あの仏像《ぶつぞう》のような顔はなかなかはっきり浮んで来ない。 (写真《しゃしん》でも、一枚貰って来ればよかった‥‥)  握手《あくしゅ》をした時、まつわりつくような冷たい柔かい手だった。膳所《ぜぜ》の女だといっていたが、膳所の町から眺めた比良《ひら》の夏の峰が、新一にはいまはなつかしく思い出される。 「おい、琵琶湖《びわこ》は、朝になるのかねえ?」 「――さァ、夜明《よあ》けごろじゃないかな」  兵頭《ひょうどう》は節《ふし》をつけた声を出してあくびをした。国を立つ日の万歳《ばんざい》に‥‥すぐそばでうす眼を開けて軍歌を歌《うた》っている兵隊がいる。  新一は小さいズックの鞄《かばん》の中から、新しいハガキを一枚出していた。(一|瀾《らん》を追えば、千瀾走るだ。今はまさにそんな時代になって来た。大律《たいりつ》はこばむことは出来ない。僕はいま、征途《せいと》への車中にあって、君《きみ》のことを考えている。)――君のこと‥‥新一は君のことの文字で息《いき》が詰ってしまった。ええいっそ、岡部《おかべ》に出してやれ、郷子へはまたあとのことにしよう‥‥。(非常に元気だ。近来、こんな壮健な精神状態《せいしんじょうたい》になったのはまれ[#「まれ」に傍点]なことだ。何馬力というのか知らないけれど、溢《あふ》れるばかりの元気さでいる。俺は戦争に行く資格《しかく》のある男だという自信もついた。この間は、いざさらば、雪見《ゆきみ》に転ぶところまでといったが、いざ、こうして軍服《ぐんぷく》を身につけてみると、いざ征かん、雪見に進まん大陸へだよ、――消極的《しょうきょくてき》な気持が吹きとんでしまって、いまは実に正確なゼンマイをすえつけたような積極的《せっきょくてき》な気持でいる。植村郷子のことは、一|応《おう》君《きみ》にもよろしく頼《たの》む。)  東京《とうきょう》市外《しがい》三|鷹《たか》‥‥、新一はペンで表を走り書きしていたが、おもい出したように郷子をよろしく頼むの所は消《け》してしまった。 (あの女《おんな》はあの女でしっかりと一人歩きをすればよいではないか‥‥) [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ]  ――僕はどんなに叱《しか》られたかしれません。お父さんとは、ずっと口も利《き》かないのです。お母さんの話によりますと、実際《じっさい》困《こま》った金でもあったようです。昨夜も、お父さんは酒を少しのんで帰ってマツエに学校をやめるように呶鳴《どな》っていました。  何時も姉さんと歩いた、義仲寺《よしなかでら》の前の、今西油店の空地の処ね、あそこへ昨日《きのう》はぶらぶら散歩して、崖《がけ》の下の汀で、いっとき姉さんのことを考えていました。  いま、比良《ひら》の雪はとても綺麗ですよ。小石の一つ一つ数《かぞ》えられそうな水をみていると、僕は、こんな狭いところにいるのが厭《いや》になりました。――帰り、義仲寺《よしなかでら》へ行って、あすこの芭蕉塚のところで、姉さんを殴《なぐ》った子供の時のことなんか思い出しました。同封の枯れた芒《すすき》は、旭将軍《あさひしょうぐん》の墓前にあったものです。流矢にあたったり、泥田にはまるのは厭だけど、僕も、義仲のような迫力《はくりょく》を持ちたいものだとおもっています‥‥。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は流れ落ちる涙を、指《ゆび》で子供のようにこすりながら、弟の清純《せいじゅん》な手紙を読んで、自分の躯《からだ》が、いまは、ぼろぼろに錆《さ》び果てているようにおもえた。  剣《けん》のように光った、比良《ひら》の峰《みね》の雪を、毎年、あの茶の間の窓から眺めたものである。湖上を行く、白いスキー船の灯《ひ》を、弟と二人で、二階からおーい、おーいと呼んだ日の記憶《きおく》もよみがえって来る。敬太郎が塩津《しおつ》の親類から山鳥をもらって、得意そうにスキー船で浜大津《はまおおつ》に戻ったのをマツエと二人で迎《むか》えに行ったこともある。  手紙のなかの、枯れた芒《すすき》の穗を郷子は何度も嗅《か》いでみた。――もりもりと働きたいと思っている気持は、いまも燃えるばかりではあるけれど、何かしら、苦しい思いが、段々《だんだん》心《こころ》の底に沈んで来ている。  固く握手して、コンパクトだけを記念《きねん》に、戦場へ持って行った新一への思慕《しぼ》が、日夜、郷子の若い胸《むね》をゆすぶって来る。 (私は、あのひとが好《す》きなのかも知れない‥‥)  郷子は手紙を事務服《じむふく》のポケットへしまうと、日比谷公園の裏通りから、長駆《ちょうく》して宮城の方へ歩いて行ってみた。  昼の丸の内は、三々五々、サラリーマンの群が、昼食後《ちゅうしょくご》の散歩をこころみている。楊子《ようじ》を咥えている者、腰のポケットに両手《りょうて》をつっこんでいる者、肩をつなぎあって、歌《うた》をうたいながら行く、若い女事務員の群――郷子は自分もグリーンの事務服《じむふく》を着て、ゆっくり歩いているのがほこらしい気持だった。  出征者の家族《かぞく》のひと達なのだろう、旗を持った老人達が宮城《きゅうじょう》を拝んでいる。  郷子も敬々《うやうや》しく遥拝《ようはい》してから、そこへ立って二重橋をじっと眺めた。森々《しんしん》としたおもいが胸に溢れ、郷子は暫く、瞑目《めいもく》していた。  晴れて暖かな日だった。宮城前の広場《ひろば》の松も、枝々はしたたるばかりに濃い緑《みどり》だったし、芝生の黄《きい》ろい色も、まぶしく光って見える。  郷子は、広い宮城前《きゅうじょうまえ》の道を、車道の方へ歩いてゆきながら、さっきまでの、とらえどころもなかった空漠《くうばく》さが、いまでは、雲散霧消《うんさんむしょう》して、晴々として来ているのを感じた。 (どんな場合もくじけ[#「くじけ」に傍点]ないで焦《あせ》らず、急がずに、悠々と働くことだって、佐山さんはおっしゃった‥‥)  占《うらな》いを観てもらった、あの夜の新一との邂逅《かいこう》を、郷子は微笑して考えてもいる。――敬太郎も、あの町《まち》から何かを求めて出たがっているのだ。 (私達は若いのだもの、これから、努力《どりょく》さえすれば、どんな資格《しかく》だって得られる。――お父さんは、長いこと生きていらっしたのだもの、娘や息子《むすこ》の気持も、いまに了解《りょうかい》して下さる時もあるだろう、きっとあるはずだわ‥‥) [#9字下げ]○  雑木林《ぞうきばやし》の向うに、焚火の煙があがっていた。春をひそめた土に勾《にお》いがしている。黒土の畑の向うをトラックが一|台《だい》走《はし》っていた。 「完全な、頑強《がんきょう》な、あなたの云ってる、つまり、新しい意志《いし》を持った若い女の生活‥‥へえ、そんなもの、私、ちっとも信《しん》じないわ。――そうじゃない? 何年か、東京に暮《くら》してみると、山の手式にポーズを持って生活してるものと、持たないで、浅草式《あさくさしき》に生活してるものと、この二ツね。――いったい、いまの収入《しゅうにゅう》だけで、私達は、どんな生活や、希望《きぼう》を持てるって云うのよ‥‥」  宮田律子が、外套《がいとう》を持ちかえてこんなことを云った。――日曜日で、ぽかぽかした天気《てんき》である。郷子は宮田律子《みやたりつこ》に誘われて、南沢の松林のなかを散歩している。亭々《ていてい》とそびえた松林のなかを、二人はゆっくり歩いている。青い空に、赤肌《あかはだ》の松の木が昼《ひる》さがりのにぶい陽をうけて、描いたように赤く光っていた。 「かなしいわねえ‥‥」 「何がかなしいのよ?」 「ううん、何《なん》でもないの‥‥」  急に、郷子の瞼《まぶた》の裏に、むくむくと雲のように湧《わ》きあがる沢山の新一の顔があった。戦闘帽をかぶっている顔、ぐりぐり坊主《ぼうず》の顔、郷子が肩掛《かたか》けを鼻さきへ持ってゆくと、思い出をさそうような古い肩掛《かたか》けの匂いがした。 「いやな植村《うえむら》さんねえ、――何もかなしがったりすることなンかないじゃないの? いまはこうして散歩を愉《たのし》ンでればいいのよ。身辺のことは、考えたって仕方がないことよ‥‥私達、若いンですもの、遊びたいわ‥‥」  また、二人は松林のなかへ這入《はい》って行った。自由学園の男の子が二三人、自転車《じてんしゃ》で松林を抜けている。新しい自転車がキラキラ光っていた。 「ねえ、宮田さん、戦争《せんそう》はまだよっぽど続くかしら?」 「どうして?」  律子《りつこ》はうつむいて靴の紐をむすびかえながら、 「そうね、随分《ずいぶん》長《なが》びくかも知れない、とも思うわね」  と、云《い》った。 「ねえ‥‥」 「なあに?」 「私、お金《かね》がほしい‥‥」 「お金?」 「ええ‥‥」 「随分、沢山《たくさん》?」 「ううん、そんなに沢山でもないの、――五六拾円ほど‥‥」 「そうね‥‥」  律子《りつこ》はにやにや笑っていたが、急に立ちどまって、 「じゃァ、それだけ借《か》してあげたら、あなた何時、そのお金、かえしてくれる?」  癖《くせ》のある律子の大きい眼に、郷子はまぶしいものを感じた。 「何時って‥‥そうね、随分《ずいぶん》かかりそうね」 「あら厭《いや》だ、心細《こころぼそ》いひとだ。――借りるひとがそんなじゃァ、誰も借さないことよ」  二人は肩《かた》を寄せて笑った。 「小見山《こみやま》さんに云ってみたらいいじゃないの?」 「あら、いやだわァ、そんなの‥‥」 「だって、あのひとは、京都《きょうと》のお家いいンでしょう? しかも事務所じゃ、別格《べっかく》のひとなンですもの、――私、あのひとに、云ってみてあげましょうか?」  郷子は急にハンドバッグを小脇《こわき》にはさんで、耳を両手でふさぐようにして、畑の小径《こみち》を走りはじめた。律子は吃驚《びっくり》した表情だったが、すぐ郷子のあとを追って行った。 「植村《うえむら》さんてば! 厭なひとねえ、急に走ったりなンかして‥‥どうしたのォ?」  律子が追《お》いついて郷子の肩をつかむと、郷子は、眼にいっぱい涙《なみだ》をためてハァハァ息をついている。 [#9字下げ]○  昨夜、風をまじえて、降《ふ》りとおしていた雨も霽《は》れて、海の上はまぶしい位に青く光っている。デッキに出て新一は水の上を凝《じ》っと見ていた。 (闘志を旺盛《おうせい》にして、一致協力、目的の貫徹に邁進《まいしん》することだと、漕艇部長の梶さんがよく云っていたが、自分は、学生生活《がくせいせいかつ》にも別れて、一兵士として戦場《せんじょう》へ向っているのだ‥‥。梶さんの云った、ボートの精神もまた、いま、征《ゆ》きつつある、戦場の精神《せいしん》でもあるのだ。一クルーとして、水上《すいじょう》を走っていた自分は、また、ここにも、一クルーとしての団結《だんけつ》、滅私を感じつつある‥‥。)  新一は、いまは兵隊《へいたい》であるけれども、戦場は初めてなのだ。十|字《じ》砲火《ほうか》の集中するなかを描いてみたり、轟然たる戦車の進撃《しんげき》ぶりを空想してみたりしている。  かなり、長い羽根《はね》を持った鳥が二羽、白い空の向うへ抜けて行った。エンジンの音が非常《ひじょう》に長閑《のどか》である。 「おい、船と云うのは支那語《しなご》でどう云うのだい?」 「船《ふね》?」  兵頭《ひょうどう》が、板のサンダルをつっかけて、手拭《てぬぐい》でうしろ鉢巻をして、さっきから一人で体操をしていた。右舷にも左舷《さげん》にも日向ぼっこの兵隊《へいたい》でいっぱいだ。 「船‥‥と、一寸《ちょっと》待《ま》ってくれ、いま、帳面《ちょうめん》をしらべてみる‥‥」  兵頭《ひょうどう》が小さいノートをポケットから出して、太い指《ゆび》で頁をめくっている。 「あった、あった、チォアンと云うンだ‥‥」 「船《チォアン》‥‥なるほど、じゃァ、海はどうだ?」 「はッははは‥‥大した試験問題《しけんもんだい》ですな、そりゃァ、上海《シャンハイ》のハイだろう‥‥」 「なるほど‥‥」  東北の林檎園《りんごえん》の主人である、この兵頭の粗朴《そぼく》なひととなりを新一は愛していた。兵隊の雑談のなかにことひとたび、林檎《りんご》の話が出ると兵頭は膝を乗り出して、林檎の話に夢中《むちゅう》になった。スターキングとか、デリシャスとか、林檎の新種《しんしゅ》について口角《こうかく》泡《あわ》をとばして一席林檎談をやりはじめる。林檎《りんご》の話が席からそれてしまうと、兵頭《ひょうどう》は、もう、気が抜けたように黙ってしまい、妙に呆んやり老《ふ》けこんでしまうのでもあった。  兵隊達《へいたいたち》は、林檎の兵頭さんと蔭《かげ》で呼んでいた。 「こんな、よい天気《てんき》は、支那語でどう云ったらいいンだ?」 「よい天気かね、よい天気と‥‥あった、あった、天気很好《ティエンチーヘンハオ》と云うだろうな‥‥」 「ふうん‥‥それじゃァ、春天暖和《チコンティエンノアンホー》と云うのはわかるかい?」 「何? わからないなァ、一寸《ちょっと》、ここへ書いてみておくンなさいよ‥‥」 「春天暖和《しゅんてんだんわ》、つまり、春はあたたかいですねと云《い》うンだそうだ」 「佐山伍長《さやまごちょう》はうまいことを知ってるねえ‥‥」  船艙からあがって来た二三人の兵隊《へいたい》が、デッキの上の、バラック造りの便所《べんじょ》へ這入って行ったが、声をそろえて軍歌《ぐんか》をうたっている。 「おや、あの船《ふね》は何だろう‥‥」 「ああ、あれも向うへ進《すす》んでるねえ‥‥」 「御用船《ごようせん》かな?」 「そうかも知れない‥‥ぽかぽかして、いい天気《てんき》だなァ、軍服《ぐんぷく》を着ていないと、どっか旅行でもしているようだ‥‥」  海は果てしなく展がり、空《そら》は晴れて、淡い白雲が悠々《ゆうゆう》と流れている。  頑張れ、頑張《がんば》れ、艇速がのびて、オールがギラギラ光っている‥‥淡青《たんじょう》の旗がひるがえっている。そんな過ぎた日の或一|場面《ばめん》が、水の上に鮮かに浮《うか》んできていた。  耳の奥で、号砲《ごうほう》のポンが鳴る。  敵艇を後にした時の快味《かいみ》が、海を見ている新一の舌《した》をごくっと鳴らした。 [#9字下げ]○ 「おい、当番《とうばん》、一寸来てくれ」  デッキへ上る梯子段《はしごだん》の下で、当番が下士官《かしかん》の靴をみがいていた。 「おい、一寸《ちょっと》、俺の眼を見てくれンか‥‥」 「どうしたのですか?」 「うん、石炭《せきたん》の粉のようなものが、眼にはいったンだ、――さっきから気色《きしょく》が悪くて仕方がない‥‥」  電灯の真下へ行って、佐山《さやま》はコンパクトを出して眼を見ていた。薔薇《ばら》ともつかず、水仙ともつかずの、粉白粉《こなおしろい》のふくいくたる匂いが鼻さきをかすめる。  アルコールで手を拭いて、若い当番《とうばん》が佐山の眼をのぞきこんだ。  白眼《しろめ》のところが紅《あか》くなって、涙がぽろぽろと下瞼《したまぶた》に溢れていた。 「軍医殿《ぐんいどの》に云って来ましょうか?」 「いや、いいよ、小児科の先生《せんせい》にはわかるまい‥‥」  佐山《さやま》が唇辺で笑ってみせた。 「ああ、ありました、ありました、とても大きい奴ですよ‥‥」  佐山の新しいハンカチの先きですくいとるようにして、当番《とうばん》は大きな石炭殼の粉を瞼《まぶた》の裏からとり出《だ》してくれた。 「ああ、清々《せいせい》した。――大きいねえ、これじゃァ痛《いた》いはずだ‥‥」  兵頭は、風邪気《かぜけ》だと云って、点呼《てんこ》が済むと、すぐ毛布《もうふ》をかぶってうつらうつらしている。電灯には黒い裂がかぶせてあり、銭型《ぜにがた》の光が積みかさねてある救命具《きゅうめいぐ》の上をぽっと照している。  当番がガーゼで不細工《ぶさいく》な眼帯をつくって来てくれた。佐山《さやま》は眼帯をしてうすべりの上へ寝転ぶと、また、コンパクトを出して右の眼《め》を凝っと眺《なが》めている。 (われ語《かた》らず、われおもわず、われただ限りなき愛、魂の底に湧出ずるを覚《おぼ》ゆべし‥‥)  一つ覚えに覚えていたうた[#「うた」に傍点]をくちずさみながら、新《しん》一はコンパクトから、小さいパフを出して鼻《はな》のそばへ持って行った。  パフのぐるりは菫色《すみれいろ》の絹糸でかがってある。 「おい、何時《なんじ》だい?」 「さァ、十|時《じ》頃《ころ》かな‥‥」  兵頭が小さい声で浪花節《なにわぶし》を唄っていた。デッキの上《うえ》では、ざわざわと靴の音がしている。 「おい‥‥」 「何《なん》だい‥‥」 「この船は、○○を出て随分《ずいぶん》になるが、どの方面《ほうめん》へ行くンだろうね‥‥」 「台湾《たいわん》だって云う話もあるぜ‥‥」  新一はコンパクトを眺めながら、兵頭《ひょうどう》に話しかけた。兵頭は躯《からだ》に毛布を巻きつけて腹這《はらば》いになると、錻力《ぶりき》の灰皿を引きよせて煙草《たばこ》に火をつけた。  日記をつけているもの、手紙《てがみ》を書いているもの、どの兵隊も森閑《しんかん》としている。  新一は毛布《もうふ》を足に巻いて、救命具に凭《もた》れると、暗い灯火《とうか》をみつめながら、 「もう、そろそろ蕗《ふき》の薹《とう》の食えるころだなァ‥‥」  と云った。 「蕗の薹はいいなァ、あれは、あんた、油味噌《あぶらみそ》にすると、とても美味《うま》いンだぜ。ぷんと香りがあってほろ苦味《にが》くてね‥‥」 「兵頭伍長《ひょうどうごちょう》!」 「何《なん》です?」 「果物《くだもの》でも食べたいなァ、かりッと、林檎《りんご》かなんかにかぶりつきたいよ‥‥」 「林檎か、――よろしい。とっておきのが、まだ二つある。満紅《まんこう》と云ってねえ、とても美味《うま》い奴《やつ》なンだ‥‥」  兵頭が毛布を蹴って起きあがった。デッキで兵隊《へいたい》が大声で何か呶鳴って走《はし》っていた。 [#9字下げ]○  小見山《こみやま》がベルを押している。律子《りつこ》が肩をすくめて、 「ねえ、とても、いいお宅《うち》でしょう‥‥」  と云《い》った。  ひくい石塀《いしべい》のなかから、大きな木の枝が往来《おうらい》へはみ出ている。玄関まで続いた石道を女中が走って来ているようだった。邸《やしき》のなかではさかんに犬が吠《ほ》えたてている。  正門《せいもん》は開かなくて、鉄の耳門《くぐり》ががらがらと開いた。 「いらっしゃいませ、――さっきからお待ち兼ねでいらっしゃいますわ」  女学生《じょがくせい》のような若い女中《じょちゅう》が出て来た。郷子は一番うしろから耳門《くぐり》を這入って行ったが、庭園へ廻るところに、温室のような小さい建物《たてもの》が見えて、その建物の硝子戸《ガラスど》が、月の光りでキラキラ光っていた。玄関《げんかん》には瓦のような石が敷《し》きつめてあり、下駄や靴が四五足ぬいである。 「あら、いらっしゃい‥‥正住さん、さっきから謡《うたい》をやってて、みんなだれ[#「だれ」に傍点]ぎみだったところなのよ‥‥」  大野夫人《おおのふじん》が玄関まで三人を迎《むか》えに出てくれた。これが、所長さんの奥さんなのかと、郷子は意外に質朴な姿である大野夫人に、何《なん》とない親しいものを感《かん》じていた。  座敷《ざしき》の方で、正住が、大きい声で笑っている。  大野|尚志《なおし》は、子供がなかったので、夫婦の誕生日《たんじょうび》には、事務所の誰彼《だれかれ》をよんで、若いひとたちに御馳走《ごちそう》をするのが愉《たの》しみであった。今日は夫人の方の誕生日である。  床の間には、背の高い白い薔薇《ばら》が、大きな鉄の花瓶《かびん》にざっくりと活けてあった。 「この方なの? 植村《うえむら》さんて‥‥」  夫人は、立っている三人の席をつくってやりながら、郷子《くにこ》の方へ視線《しせん》を向けた。 「おい、幾太郎《いくたろう》、二人の佳人《かじん》をたずさえて来るのはいいが、時間励行をしないとは不都合だぞ‥‥」  床の間を後に、小見山《こみやま》の兄の正住は、もうだいぶ御機嫌《ごきげん》だった。大野は軽く壁へ凭れて、眼をつぶっている。今年は丁度、五十になるのだそうだけれど、血色《けっしょく》がよくて、背が高《たか》いので、年よりはずっと若《わか》く見えた。眉と眼《め》がせまっていて、頬骨が青年のように張っている。夫人は小柄でよく太っていて、色のあさぐろい女《おんな》だった。  日本風《にっぽんふう》な紙笠を透かして、電灯《でんとう》の色が、如何にも春の部屋らしい感じである。郷子は律子の隣に坐《すわ》った。 「今夜は支那料理《しなりょうり》ですか?」 「ええいけなかった?」 「いや、満足至極《まんぞくしごく》ですよ‥‥」  小見山は、大野の横へ坐ると、眼鏡《めがね》をずりあげて、郷子《くにこ》を呼んだ。 「そんな、遠くへいないで、こっちへいらっしゃい‥‥」 「ほんと、若《わか》いひとは、もっと、真中《まんなか》に出て下さらないと‥‥」  夫人が気軽に律子と郷子を追いたてに来て、郷子達を良人《おっと》の前に坐らせた。――大野《おおの》はすぐ老酒《ラオチュ》をつぐ杯に砂糖《さとう》をすくって、郷子と律子《りつこ》の前へ置いた。床の間には古淡な水墨の軸がかかっている。 「植村さんは膳所だそうですね、――昔、盆栽《ぼんさい》を見に行ったことがあったが‥‥浜大津《はまおおつ》なんかも、いまはすっかり変《かわ》ってしまったんでしょうね?」  郷子が顔を挙げると、小見山が凝っと郷子の方を見ていた。眼鏡《めがね》の底の細い眼が、別人《べつじん》のように、激しい光《ひかり》をおびている。郷子《くにこ》はあわてて老酒の杯を両手でささげた。杯の中には、白い砂糖の粒々《つぶつぶ》が、ゆるやかに溶けていっている。 [#9字下げ]○ 「私はどんなに苦しいことがあっても、幸福《こうふく》がすぐまた、近くに、やって来《き》てくれるような気がするのよ‥‥」 「そりゃいい‥‥まだ、貴女たちは若いから、色々《いろいろ》なことを考えられるし、失敗《しっぱい》をしてもすぐ起《お》きあがれる」 「ええ、そりゃァ勿論《もちろん》、だけど、希望《きぼう》がないことには、失敗も失敗にならないわけね、――いったい、私達、どうして生きてゆくンですの、あれもいけない、これもいけないなンて‥‥いったい、どれが、本当《ほんとう》の生きかたなのかしら‥‥」  十|時《じ》を過《す》ぎていた。  郷子と律子は、小見山に送られて、渋谷《しぶや》の駅へぶらぶら歩いて行った。芽の萌《も》えるような、春の柔い夜気《やき》が感じられる。その夜気《やき》のなかには、花の匂いも感じられた。海水の匂い、山脈の匂い、あらゆる人間の匂い、そんなものが、この都会《とかい》に吹きつけて来《き》ているようだ。  大自然《だいしぜん》の土や木や石も、人間《にんげん》のように遠く運ばれて来て、この都会のわく[#「わく」に傍点]の中に息苦しく生きている。  律子は九州の佐賀《さが》で生れて、幼い時に東京《とうきょう》へ出て来たのだそうである。郷子は、律子のすくすくした性格《せいかく》に好意を持っていた。 「ねえ、植村さん、――大野さんの御家庭《ごかてい》、幸福だと思《おも》えた?」 「どうして?」 「どうしてって、――幸福かどうか、あなたの直感《ちょっかん》で云ってみて頂戴《ちょうだい》」 「幸福《こうふく》なのじゃない?」 「そう、あなた、そう思《おも》うの‥‥」  ネオン・サインが、あまり明るいので月の光が沈んでみえる。小見山《こみやま》は真面目な顔《かお》をして鼻唄をくちずさんでいたが、 「あの家庭《かてい》を不幸だと思《おも》ってる?」  と、律子《りつこ》に尋ねた。 「小見山さんの御親類で、こんなこと云うの何《なん》だけど、――でも、私、大野《おおの》さんはちっとも幸福そうな方《かた》じゃないと思《おも》うわ‥‥」 「何《なに》か聞いた?」 「何を? 何もききませんわ‥‥だけど、大野《おおの》さん、だいぶおあそびになるって云うじゃありませんか‥‥」 「ふン、そりゃァ、あのひとの仕事上《しごとじょう》、そんな場合もあるかも知《し》れないけど、あそぶから、かならずしも、あの家庭《かてい》が不幸だとは断定《だんてい》出来《でき》ないね、あんな年齢の男達は、そう、単純ではないから‥‥」 「そうかしら、でも男《おとこ》のひととしては、私、大野《おおの》さんはきらいなひとじゃないわ‥‥」 「おやおや、宮田君《みやたくん》も隅におけないなァ‥‥」  律子《りつこ》は笑いながら小さいくしゃみをした。  郷子は、駅の高いホームの上で、万歳々々《ばんざいばんざい》と云う、人《ひと》のどよめきをきくと、アパートの、狭い淋しい部屋《へや》へ戻ってゆくのがたまらない気持《きもち》である。 「ねえ、宮田《みやた》さん‥‥」 「なァに?」 「今夜、私《わたし》のとこへ泊《とま》ってゆかない?」 「あなたのところ‥‥そうね――泊ってもいいけど一寸《ちょっと》、家へ寄ってくれれば断《ことわ》って行くわ」  律子《りつこ》は千駄ケ谷に住んでいた。魚屋《さかなや》をしている叔父の家に寄食しているのだと云っていた。 「たまには、なまぐさくないところへ泊るのもいいわね。――一寸《ちょっと》、寄ってらっしゃいよ、干物のうまいの貰《もら》って行くわ‥‥」  僕も女だったら、泊めて貰うンだがな、と小見山《こみやま》は冗談を云いながら、駅《えき》の前で一袋の甘栗を二人《ふたり》に買ってくれた。――小見山《こみやま》に別れて二人が千駄ケ谷に降りると、律子は、あァあ、と溜息をついて云《い》った。 「ねえ、植村さん‥‥あなた、おくに[#「おくに」に傍点]にいらっした頃《ころ》、好きなひとは一人《ひとり》もなかったの?‥‥」 [#9字下げ]○  郷子《くにこ》がエレヴェータァを降りると同時《どうじ》だった。白い沫《しぶき》をあげつつざあっと音をたてて雨が降りはじめた。  朝はいい天気だったので、郷子は傘も持たず、コートも持《も》って来なかった。玄関《げんかん》に立ったまま、煮えこぼれるような激《はげ》しい雨脚を郷子は呆《あき》れて眺めている。  律子は一足さきに用事《ようじ》があると一人で戻《もど》って行ったし、残っている事務所の連中も、たいていは傘なしで来ている者ばかりだろうと、郷子は雨が小降《こぶ》りになるまで、廻転扉になった玄関《げんかん》の硝子戸に、じっと顔《かお》をくっつけて鋪道《ほどう》を眺めていた。  柔いクリーム色の自動車がすっと玄関《げんかん》の前に停った。中のクッションに紅い毛布《もうふ》がかけてある。郷子はあんな自動車《くるま》に誰が乗るのだろうと眺めていた。 「ごめん下《くだ》さい」  後に美しい声がして、中年の背の高い女が廻転扉《かいてんとびら》をあけて外へ出て行った。運転手《うんてんしゅ》が傘をさしかけて、その女を自動車《くるま》へ案内して行くと、扉《とびら》はパタンと閉されて、激しい雨煙のなかへ、自動車は小魚《こうお》のようにすーと消えて行《い》ってしまった。 (あんな、不自由《ふじゆう》のない生活《せいかつ》をするひともある‥‥)  郷子は雨を待っているのがたまらなくなって、足袋《たび》をぬいだ。走って停留所《ていりゅうじょ》へ行って、何処行きの電車《でんしゃ》でもいいから乗ってゆけばいいと云った焦々《いらいら》した気持で、蹲踞《しゃが》んで足袋を包みのなかへしまっていると、 「やァ、植村《うえむら》さん、――傘《かさ》がないンでしょう」  と、エレヴェータァから出て来た大野《おおの》が、郷子を呼《よ》んだ。 「待っていらっしゃい、いま、自動車《くるま》が来ますから‥‥」 「はァ、ありがとうございます。――でも、もう、じき、やみ[#「やみ」に傍点]ましょうから‥‥」 「いや、夜《よる》まで続くかもわかりませんよ、この分《ぶん》だと‥‥」  やがて黒い自動車が玄関先でぎいと停った。運転手《うんてんしゅ》が濡れながら、自動車《くるま》の扉を開けている。 「さァ、いらっしゃい、――待ってたってやみ[#「やみ」に傍点]ッこありませんよ‥‥」  大野《おおの》がせきたてるので、郷子はあわてて、受付《うけつけ》の机の蔭にゆき、また足袋をはいた。  郷子が自動車《くるま》へ乗ると、すぐ自動車は動《うご》きはじめた。 「おい、こっちじゃないンだ、――植村《うえむら》さんのお家は大久保《おおくぼ》の方でしょう?」 「いいえ‥‥その近《ちか》くですけど、どっか、電車《でんしゃ》でも、省線のところでもいいのです‥‥」 「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、お家まで送《おく》ってあげましょう‥‥」  大野は匂いのいいハンケチで鼻《はな》をかみながら、 「おい、戸塚の方だそうだ、そっちへ廻って、それから、松濤《しょうとう》へやって貰《もら》いたいなァ‥‥」  と、運転手《うんてんしゅ》に云った。  郷子は固くなっている。半蔵門の濠端《ほりばた》へ来ると、前を行く新宿行《しんじゅくゆ》きのバスが、ぐうぐうと左へ滑りかけていた。 「雨《あめ》の日は、滑《すべ》るンだろうね?」  大野が煙草に火をつけながら運転手《うんてんしゅ》にきいている。クリーナァが動《うご》かないので、運転手はむっつりしていた。  雪の日を、佐山と二人で、駒形橋を自動車《くるま》で渡ったことがあったが、佐山《さやま》は、いま、どの辺に行っているのだろうと、郷子《くにこ》は雨の窓外を眺《なが》めていた。 「植村《うえむら》さんは、何時、東京《とうきょう》へ来たの?」  大野が思い出したようにたずねた。手袋をぬいでいる大野《おおの》の手の甲に、青い静脈《じょうみゃく》が浮いている。 [#9字下げ]○ 「このあいだは、あれからすぐ帰りましたか?」 「はァすぐ帰《かえ》りました。――たいへん御馳走《ごちそう》さまになりまして‥‥」 「いや、何もなくて、――植村《うえむら》さんは、どうして小見山君《こみやまくん》を知っているの?」 「――私《わたし》の知った方の、お友達《ともだち》だものですから‥‥」 「小見出君のアパートはこの辺《へん》じゃなかったかな‥‥」  自動車は士官学校の馬場の横を走っている。郷子は小見山《こみやま》のアパートは知《し》らなかった。こんなところに、小見山《こみやま》さんは住んでいるのかとおもった。かっぱ坂を上り、坦々とした道へ出ると、雨はますます激《はげ》しくなって、遠くで雷鳴《らいめい》がしている。 「ひどい降りだねえ‥‥」  自動車は水沫《しぶき》をあげて走っている。激《はげ》しい雨なので、二人は森閑と黙ってしまった。織機のような音をたてて自動車《じどうしゃ》の泥よけが鳴っている。 「この雨《あめ》があがったら、いっぺんに暖《あたたか》くなりますね」  郷子が思い出したようにそう云った。薄茶の外套《がいとう》を着た大野の横顔《よこがお》が、ほのぐらいせいか疲れたように見えた。びん[#「びん」に傍点]のへんに白いものが沢山《たくさん》まじっている。郷子はあわてて窓の方を向いたが、急に活々《いきいき》した大野の表情が、郷子の顔の皮膚《ひふ》に感じられた。 「植村さんは、親類《しんるい》のお家にでもいるンですか?」 「いいえ‥‥」 「一人《ひとり》?」  郷子は笑《わら》っている。  ガードを越して、ガレージの前まで来ると、郷子《くにこ》は包みを胸に抱いて、運転手《うんてんしゅ》に云った。 「ここなンです、――ここですけど‥‥」  自動車《じどうしゃ》は強いブレーキをかけてぎいぎいと速度《そくど》をゆるめた。 「この路地の奥《おく》なンですの‥‥」 「大丈夫ですか、濡《ぬ》れますよ」 「走《はし》って行きますから‥‥」  郷子は雨の中をガレージの軒へ走ってゆき、濡れながら挨拶《あいさつ》をした。自動車が動《うご》きはじめると、大野が帽子《ぼうし》を取った。  袂を頭にかざしながら、郷子が路地を走って行くと、路地《ろじ》のなかを豆腐屋《とうふや》が走って行っている。  がらがらと硝子戸を開《あ》けると、管理人《かんりにん》のおばさんが、 「さっきから、女のお客様《きゃくさま》が待っていらっしゃいますよ」  と云った。 「女のお客様《きゃくさま》? 誰かしら‥‥あなた、鍵《かぎ》をあけてあげたの?」 「よく知ってる方《かた》だってね、おっしゃったものですから‥‥」 「よく知っているって、どんなひとかしら‥‥」  郷子は無断《むだん》で部屋の鍵《かぎ》なンか開けたりするおばさんに、ぷりぷり腹をたてながら、二階へ上って行った。  ドアを開けると、一枝が紅い雨ゴートを着たまま火鉢《ひばち》に凭れて泣《な》いていた。 「まァ! 一枝《かずえ》さんなの、誰かと思ったわ」  一枝は身動きもしないで嗚咽《おえつ》している。郷子は吃驚した表情《ひょうじょう》で、ドアを閉めると、濡《ぬ》れた羽織をぬぎながら、 「一枝さん、どうしたのよ? ええ‥‥」  と、一枝のそばへ蹲踞《しゃが》んだ。一枝はまっかに泣き腫《は》れた眼をあげて、 「ごめんなさい‥‥何処も行くとこがなかったの‥‥何処《どこ》も‥‥お昼から、私《わたし》は、三軒もデパートを歩いて時間《じかん》をつぶしてたのよ」  一枝はまた子供《こども》のようにくっくっと泣きだした。 [#9字下げ]○  別にこれと云う職業《しょくぎょう》もないし、遊んでいるのも退屈《たいくつ》だったので、一枝は銀座裏の喫茶店に、姉には無断《むだん》で務めていたと云うのである。 「近所のひとがみつけて、お姉さんに告げ口したのよ、――とても叱《しか》るのよ、どうして悪《わる》いのか云ってくれないの‥‥」 「だって、そりゃァ、あなたが、お姉《ねえ》さんに相談《そうだん》しないのがいけないわ――ねえ、そうじゃない?」 「私だって、色《いろ》んなもの買わなくちゃならないし、遊《あそ》んでたってつまらないじゃないの」 「勉強して、お姉《ねえ》さんの云うとおりしてればいいのよ‥‥」 「あなた、そのとおり出来る? ――私、もう女学生《じょがくせい》じゃないのよ、喫茶店《きっさてん》で働くって、どうしていけないのかしら?」  どうしていけないかは郷子《くにこ》も返事が出来《でき》なかった。一枝はもう、姉の家には帰らないのだと云って外套《がいとう》をぬいだ。 「泊めて頂戴《ちょうだい》‥‥」 「ええ、そりゃァいいわ、――いくらでも泊っていらっしゃい」  雨は小降《こぶ》りになったが、まだ雷鳴《らいめい》がしている。郷子は階下にある共同の炊事場へ米を洗いに行った。高い天井《てんじょう》に裸の電気がにぶくとぼっている。 (いくら何でもデパートを三軒もほっつき歩いて、ひとの部屋《へや》へ入って泣《な》いてるなんて‥‥)  郷子《くにこ》は米を洗いながら、一枝《かずえ》のことを考えていた。樋をつたう雨の音がそうぞうしかった。 「植村さん郵便《ゆうびん》ですよ‥‥」  管理人のおばさんがハガキを持《も》って来《き》た。  郷子は濡れた手でハガキのふちをつまんだ。――佐山《さやま》新一――の文字が稲妻《いなずま》のように眼の前を走った。 [#ここから1字下げ]  元気《げんき》ですか。昨日、僕達《ぼくたち》は陸へあがり、○○へ来ました。非常に元気です。ここはほんの二三日の滞在らしく、まだまだこれより遠くへ移動《いどう》してゆくものとおもっております。いまところ、僕達《ぼくたち》は、どこへ編成《へんせい》されるかわかりませんが、当分表記の部隊名です。頃日《このごろ》、如何《いかが》おくらしですか、コンパクトはありがとう、一日の喜憂《きゆう》はこの鏡《かがみ》とともに――。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、二三度|新《しん》一からのハガキをくりかえして読《よ》んだ。読んでゆくうちに瞼に熱いものがつきあげて来た。  暗い硝子戸《ガラスど》には、雨の粒々が、光《ひか》っては流れ、また新しく光っては消えていったりしている。新一と別《わか》れて、もう二十日ばかりになる。  米を洗い終えて二階へあがってゆくと、一枝はもう、小さい声《こえ》でサンタルチアを唄《うた》っていた。 「おなかが空《す》いたでしょう?」 「ええ、とても空いちゃったわ‥‥何も食べないのよ、――今度《こんど》、私、ビフテキが食《た》べたい‥‥」 「あら、私《わたし》のとこ、何もありませんよ‥‥」  郷子は新一のハガキを袂から出して、帯《おび》の間へしまった。七輪《ひちりん》に火をおこして、ニュームの鍋をかけると、一枝《かずえ》はぷっと吹き出して、 「あら、これだけで足りるかしら?」  と心配《しんぱい》そうな顔をしている。 「大丈夫《だいじょうぶ》よ。とても沢山《たくさん》になるのよ。――パンだってあるわ‥‥」  郷子は小さい膳の脚をたてて電灯の下へ持って行った。一枝《かずえ》は一二寸窓を開けて鼻《はな》さきだけ出すようにして、暗《くら》い雨を眺めていたが、くるりと、郷子《くにこ》の方を向いて云った。 「早く夏になるといいわねえ、――私、裸になって、じゃぶじゃぶ泳《およ》ぎたい‥‥息《いき》がつまりそうだ、私《わたし》だけかしら、息《いき》がつまりそうなの?」 [#9字下げ]○  鼻《はな》のあたまに、白いあぶらをためて、一枝《かずえ》がすやすや眠っている。枕許の腕時計は六時すぎていた。  まだ雨《あめ》が降っているのか、樋《とい》をつたう雨の点滴の音がする。郷子はシーツのあいだに入れておいた新一の手紙《てがみ》をもういちど読んでみた。  大きな文字から、男らしい感情《かんじょう》が溢れているようだった。――喜《よろこ》びも憂いも、あの貧しいコンパクトと共にあると云ってくれている言葉《ことば》は、郷子の胸を波立《なみた》たせていた。 (元気《げんき》よくかえってくれて、それからもっと、色々なことを話しあいたい‥‥)  ハガキを枕と頬のあいだにさしこみ、じっと眼をつぶっていると雨の点滴《てんてき》が、何時か小銃《しょうじゅう》の音のようにきこえて来《く》る。 「植村《うえむら》さん‥‥」  管理人のおばさんが、こつこつと扉《とびら》を叩いている。 「植村《うえむら》さん、お客様ですよ」 「はい、いま、参《まい》ります‥‥」  郷子はあわてて机の鏡に向い、寝巻きの上から羽織《はおり》をひっかけた。扉《とびら》の鍵を開けて、誰だろうと、顔《かお》をそっと出すと、敬太郎《けいたろう》がマントを着て、風呂敷包みをさげて廊下につっ立っていた。 「まァ! 敬ちゃんじゃないの‥‥いったい、どうしたの?」  管理人《かんりにん》のおばさんが降りて行くと、敬太郎《けいたろう》は小さい声で、 「一寸、早《はや》いと思ったンだけど、試験《しけん》のこともあったから‥‥」 「学校《がっこう》は大丈夫なの?」 「ああ大丈夫《だいじょうぶ》、――」 「そう、それならいいけど、――まさか、私《わたし》みたいにして来《き》たンじゃないでしょうね?」 「僕《ぼく》はちゃんとして来ましたよ‥‥」 「さァ、まァ、おはいンなさい‥‥」  一枝はまだすやすや眠《ねむ》っていた。 「お客様《きゃくさま》なのよ、――昨夜の汽車?」 「ああ」 「よく、ここがわかったわねえ‥‥」 「東京駅で降りて、電車《でんしゃ》で来たンだけど、案外《あんがい》、何でもなかった‥‥」 「そう、――まァ、マントでもぬいで、そこへくつろぐといいわ‥‥」  郷子は自分の蒲団《ふとん》をたたんで押入《おしい》れにしまいながら、敬太郎の沈んだ表情を見ていた。 「みんな、かわりはないの?――憤《おこ》ってる?」 「仕方《しかた》がないでしょう‥‥」 「そう、そうね‥‥」  一枝がふっと眼をあけて、部屋の隅の来客《らいきゃく》の後姿に吃驚《びっくり》しているようだった。 「試験って、何処《どこ》の試験《しけん》を受けるのよ?」 「色んなところ、――田舎《いなか》でじっと考《かんが》えてたって始まらないとおもって、出て来たンだけど、僕ねえ、飛行機《ひこうき》の製作所に始めはいってもいいなと思ってるンですよ、どうかしら‥‥」 「職工《しょっこう》になるの?」 「ああ」 「そうね、それもいいかもしれないわね、――何処《どこ》か、大学《だいがく》を受けてみる気はないの?」 「大学《だいがく》? うん、大学ねえ‥‥今のとこ、ちっとも考えてもいないなァ、――飛行機の方をやってみたいンだけどね、――ほんとうは、霞《かすみ》ケ浦《うら》の少年航空兵《しょうねんこうくうへい》になりたかったンだけど、もう歳が歳《とし》だし‥‥」 「歳が歳だって、あんなこと云ってるわ‥‥」  一枝はそっと起きて靴下《くつした》をはき、髪をときつけている。 「あなた、旅費《りょひ》はどうしたの?」  郷子が火鉢《ひばち》の火を吹きながら聞いた。 [#9字下げ]○ 「支那にも虎《とら》はいたのかい?」 「どうして?」 「この毛布《もうふ》をみてくれ‥‥」  隣のベッドに兵頭《ひょうどう》が寝ている。昨夜は暗くてわからなかったが、なるほど、赤地《あかじ》の毛布いっぱい、黄と黒の縞のはいった虎の模様《もよう》が新一にはおかしかった。 「なるほどねえ、――朝鮮《ちょうせん》には虎がいるンだから、支那は地続きでやっぱり、いるンかも知れンね‥‥」  もとは小学校《しょうがっこう》だったのだそうだけれど、まるで寺のような建物で、三階の新一達の部屋《へや》の壁には、我還好、とか、遥隣故園菊、応傍戦場開、とかの落書《らくがき》がしてある。 「おい、内地《ないち》の煙草はないか?」 「もう、ないよ‥‥」 「それでは仕方もないな、煙咽来来《シャンインライライ》か‥‥」 「煙草《たばこ》は歩いちゃ来ないよ‥‥」 「いや、すごいのがあるンだ、――昨夜《ゆうべ》、七|班《はん》の川田上等兵から、エローバットと云うのを貰っておいたンだ、まずいにゃまずいがね」  兵頭《ひょうどう》が雑嚢《ざつのう》のなかから、黄ろい箱のバットを一つ出して来た。 「雨か?」 「ああ雨だ。――昨夜《ゆうべ》はうちの林檎園《りんごえん》の夢をみてねえ――陽にあててある奴がみんな腐って、底がばさばさに乾いているンで、女房を呶鳴《どな》りつけてやったンだ‥‥」 「女房《にょうぼう》はいくつだ?」 「女房か‥‥女房は‥‥辰《たつ》の歳《とし》はいくつだいな?」 「ふうん、辰歳《たつどし》か、凄いだろう?」 「いや、そんなに凄くもないがね‥‥」  昨夜《ゆうべ》、遅くここへ着いたので、今日は、一日、この無錫《むしゃく》の兵站《へいたん》宿舎《しゅくしゃ》に休養をとることになった。窓の下に何匹も驢馬《ろば》が繋いであったので、夜中に、女のすすり泣くような驢馬の啼き声を聴いて、兵頭《ひょうどう》は吃驚《びっくり》していた。 「あれかい? 驢馬《ろば》の啼き声って云うのは‥‥」 「厭《いや》な声だなァ‥‥」 「石を投《な》げてやるか‥‥」 「まァ、いいよ、啼《な》かしとけ」 「日本馬の方が、啼《な》くにもさっぱりしているよ、ねえ‥‥」  一晩じゅう、佐山も兵頭《ひょうどう》も、そのほか同室の兵隊達は驢馬《ろば》の啼き声に閉口していた。  朝起きて、煙草を喫《す》っていた新一は、おもい出したように窓を開《あ》けて、 「おい、驢馬《ろば》はもう一匹もいないぞ、何処かへ出発して行ってしまったぞ‥‥」 「へえ、一匹もいない、そうかねえ‥‥」  雨の中を、鉄道の警備兵が四五人、泥濘《ぬかるみ》の道を歩いて行く。水桶《みずおけ》を一輪車に乗せた土民が、腕に腕章《わんしょう》をつけて、雨のなかを濡れながら、町の方へ行っている。 「ここは工場地帯《こうじょうちたい》なンだね」 「賑やかそうかね‥‥」 「一寸《ちょっと》したところらしいぜ」  大きな建物は崩れていて、廃墟《はいきょ》の感じであったが、難民はほとんど戻っていた。細い雨が降っている。 「あの、長い竹《たけ》は何にするンだろう?」 「どれ?」 「ほら、子供達《こどもたち》が竹をかついで行ってるじゃないかね」 「何にするンかね‥‥随分、長い竹竿《たけざお》だなァ‥‥」  新一は煙草を吸い終ると、吸殼《すいがら》を後庭へぽんとほって、汚《よご》れた硝子戸を閉めた。 「さァ、明日はいよいよまた御出発か、――応《まさ》に戦場に傍《そ》うて開くべしだねえ、故園《こえん》の菊も遠いなァ、――ところで、兵頭、ここには野戦《やせん》郵便局《ゆうびんきょく》はあるのかい?」 [#9字下げ]○  夕方から雨が霽《は》れた。新一は、兵頭と杉本一等兵と三人で難民区《なんみんく》の方へ行ってみた。穢い店がごたごたと並んでいる。 「おい、あれは何だ? 蹲踞《しゃが》んで何か計っとるようだぞ‥‥」  兵頭が指差《ゆびさ》した方を見ると、割栗石《かちぐりいし》を敷いた狭い空地で、焼酎を計り売りしている男がいた。酒好きな杉本一等兵は、焼酎《しょうちゅう》を計り売りしている男の手つきを、愉《たの》しそうに眺めている。平べったい、口の小さい壷《つぼ》から、っんと鼻をさすような匂《にお》いがした。 「おい、買って帰るか?」 「大丈夫かねえ‥‥」  杉本一等兵が兵頭と相談をしている。焼酎売《しょうちゅううり》の男は小さい素焼《すやき》の壷に、赤い紙のふた[#「ふた」に傍点]をしたのをふりあげて、買って行けと三人に愛嬌笑《あいきょうわら》いをしていた。路地口では、靴を縫っている男だの、南京豆《なんきんまめ》や煙草を売っている娘だのが、何か早口に喋りあっている。 「いったい、こいつ[#「こいつ」に傍点]たちは、戦争とは何だろうと考えたことがあるンかねえ?」  新一が兵頭《ひょうどう》に云った。 「さァどんなものだかねえ‥‥ああしてにこにこ笑っとるところはまるで隣のひとみたような心安さだね、――敵であろうと、味方であろうと、まァ、商売繁昌《しょうばいはんじょう》であればいいんだろうさ‥‥」  杉本一等兵が満足《まんぞく》そうな表情で、赤いふた[#「ふた」に傍点]をした焼酎の壷《つぼ》を持って来た。 「いくらで買った?」 「五拾銭《ウーモーチェン》で買いましたよ‥‥」 「ウーモウチェン? だいぶ暴《ぼ》られたな‥‥」 「いや、中々《なかなか》、安いンだと本人は云ってましたよ‥‥」  三人が表通りへ出ると、鉄道警備《てつどうけいび》の兵隊が十四五人驢馬を四五匹連れて、軍歌をうたいながら、石塘湾《せきとうわん》の方へ行った。 「明日、俺達は南京《ナンキン》まで直行かねえ?」  兵頭が呆んやり、夕焼《ゆうや》けを眺めながら云った。みんなの顔が、夕陽で酒《さけ》を飲んだようにあかい。  日の丸の腕章《わんしょう》をつけた土民が、水牛を追いながら畑の土を掘《ほ》りおこしていた。もう、畑のところどころが苔《こけ》のような生色にかわり、なまあたたかい春の風が、広い畑《はたけ》の上を吹いている。往来の土は黒い穢《きたな》い泥濘だったが、畑の土は錆びた黒砂糖《くろざとう》のような、乾いた色をしていた。 「兵頭さん、一つ、どうです、ここへ林檎園《りんごえん》でもつくったら‥‥」 「いや、こんな処は果実類《かじつるい》は駄目だな‥‥植えるにしても、まず大変な肥料代《ひりょうだい》で食われてしまう‥‥」 「あれは何を植《う》えるンで、あんなにたがやしているンかね?」  新一は雨ざらしになっている、むきだしの棺桶《かんおけ》を叩きながら、遠い畑地を呆んやり見ていた。胡麻《ごま》を撒いたように烏が飛んでいる。 「麦《むぎ》かな?」 「麦? おい、莫迦《ばか》な奴だなァ、麦はお前、十月か十一月頃植えるンだぞ、いくら、戦争で遅れたとは云え、いまごろ麦でもあるまい?」  兵頭と杉本が冗談《じょうだん》を云っている。  水牛を連れた百姓女が、バサバサに乾いた髪《かみ》をなでつけながら、ゆっくり、畑地《はたち》を行ったり来たりしていた。 「おい、杉本、何を植えるのか、お前《まえ》聞《き》いてみろ‥‥」 「うん、聞いてみろ云うたところで、言葉《ことば》が通じンでねえ‥‥」  三人は苦笑しながら、荒寥《こうりょう》とした畑地を眺めていた。 「薯《いも》を植えてるンだよ‥‥」 「薯《いも》?」  遠くで弱い銃声《じゅうせい》がした。新一は二人の会話をききながら、ぴゅうぴゅうと鋭く口笛を吹いていた。 [#9字下げ]○  敬太郎《けいたろう》は青い空を見上げて、 「ほら、あれ、あれがロックヒードですよ‥‥」  と、郷子の肩《かた》を叩いている。  ぶうんと、固《かた》いうなりをたてて、飛行場の真上に、銀色の翼《つばさ》が、すっと敬太郎と郷子の頭上を通りすぎて、建物《たてもの》の向うへ飛んで行った。 「一寸、凄《すご》いなァ‥‥」  敬太郎は、いっとき、何もない空を見上《みあ》げている。 「早《はや》く、あんなのを飛ばせるようになるといいわねえ‥‥」 「――大丈夫、五年ですよ、五年間、みっちり勉強《べんきょう》すれば、あんなの、わけないですよ」 「そうかしら?」 「大丈夫、きっと、やってみます‥‥」  郷子は、小見山の友人だと云う、内海《うつみ》飛行士《ひこうし》に、小見山から紹介状《しょうかいじょう》を貰って、今日は敬太郎を連れて、羽田《はねだ》の飛行場へ来たのだった。  内海は、今日は夜間飛行《やかんひこう》で、昼間、一寸暇があると云って、喫茶部《きっさぶ》に二人を連れて行ってくれた。陽焼けして歯《は》の皓《しろ》い小柄な内海に、二人は何となく頼もしいものを感じている。 「小見山は元気ですか、――随分《ずいぶん》逢《あ》わないんですよ‥‥」  飛行家《ひこうか》とも見えない、如何にも気軽な背広姿で、内海はにこにこ笑っていた。 「中学校《ちゅうがっこう》は出られたのですか?」 「はァ、‥‥」 「すぐから、飛行機の方は中々やれないけど、――お姉さんの云われる、飛行機《ひこうき》製作所《せいさくじょ》の方へ、当分、入《は》ってみてはどうです?」 「――ええ、このあいだも、職業紹介所《しょくぎょうしょうかいじょ》へ行って、中岡飛行機製作所へ、頼んではみましたンですけど、いま、いっぱいのようでして‥‥」 「そうでしょうね。いま、こんな時世《じせい》だから、志望者も沢山あるンでしょうね‥‥」  内海《うつみ》は、敬太郎に、そのうち一人で家へ遊びに来ないかと云ってくれた。 「何か、勉強の出来るいい方法《ほうほう》を考えておきましょう‥‥まァ、なるべく、姉さんの懐《ふところ》を苦しめないようなね‥‥」  内海はそう云って、ぐっと、紅茶《こうちゃ》をのみほすと、飛行機を見ていらっしゃいと、二人を、飛行場の方へ案内して行った。 「わァ、さっきのロックヒード、あれですよ、ほら、――すっきりしてるなァ‥‥」  敬太郎は、わくわくした表情《ひょうじょう》で、郷子の肩を押した。郷子は何かしら、気持を激《はげ》しくゆすぶられる感じで、弟の顔をみあげている。――澄んだ青い空に、敬太郎《けいたろう》をのしあげたいような、そんな、むくむくした情熱《じょうねつ》が湧きあがって来た。敬太郎は如何にも愉しそうに、あれが中島式エーティ、こっちのが、ダグラスと指差《ゆびさ》している。 「ダグラスって大きいのね‥‥」 「うん、あれ二十何人位乗れるンだって、あんなの運転《うんてん》出来《でき》たらいいね」 「そう、その時は私も乗せて頂戴《ちょうだい》‥‥」 「勿論《もちろん》さ、――早く、あんなのを自由にしてみたいなァ‥‥」  坦々とした広い飛行場《ひこうじょう》の土は、乾いたビスケットのような色をしていた。並《なら》んでいる飛行機の翼が、午後の陽《ひ》にきらきら光っていた。旅客待合所には、飛行機《ひこうき》を迎えに来ている人達なのか、二三人の陸軍将校のひとたちや、子供連《こどもづ》れの婦人達が空をみあげていた。  郷子は、どんな辛《つら》いおもいをしても、敬太郎を、あの杳々《はるばる》とした大空に飛ばして、自分も、そこの迎えの人達のように、敬太郎《けいたろう》の操縦《そうじゅう》する飛行機を待ちたいものだと思った。  耳鳴りのような音をさせて、一台、青い空の向うに機影《きえい》が見えた。風見《かざみ》の赤と白の吹きながしが高《たか》い空の上で西の方へすっと尾を引いている。 [#9字下げ]○  飛行場のかえり、省線電車のなかで、敬太郎は思い出したように、学生服《がくせいふく》の胸のポケットから、細かく折りたたんだ紙片《かみきれ》を出して、 「姉《ねえ》さんのお母さんのとこ、聞いてきましたよ」  と、その紙片《しへん》をひろげて、郷子の顎のところへ持って来た。 「えッ?」  向う側の、窓の彼方《かなた》に走って行く景色を、郷子は呆《ぼ》んやり眺めていたので、敬太郎が、(姉さんのお母さん‥‥)と云ったことが、一寸《ちょっと》はわからなかった。 「何《なん》なの?」 「おばさんの所《ところ》がきを書いて来たンですよ」  ノートを破った用紙に、蒲田区仲《かまたくなか》六|郷《ごう》二丁|目《め》矢野方《やのかた》と書いてあった。 (蒲田《かまた》って、――お母さんはひとの家にいるのかしら‥‥)  郷子は一瞬、胸苦しい気持だった。紙片《しへん》をたたみかけて、またもう一度、丁寧《ていねい》にひろげてみた。 「誰にきいたの?」 「ううん、瀬田《せた》の叔母さんのところに年始状が来てたのをね、叔母さんが書いてくれたンですよ‥‥」 「あなた、お別《わか》れに行ったの?」 「ああ、――学校《がっこう》はまだ一年あるけど、叔母さんは、上の学校へいかンのなら、早く、その飛行機の職工にでも何でもなった方がいいだろうって、――お銭別《せんべつ》に二円貰った」 「へえ、そいで、お母さんの所を書《か》いてくれたのね‥‥私のことを何か云ってた?」 「別に‥‥でもね、お嫁《よめ》さんへ早くやった方がいいって、この間も、お父さんに、姉さんを呼《よ》び戻したらどうかって云ってましたよ‥‥」 「おお厭《いや》なことだわ‥‥本気で瀬田のおばさん、そんなことを云ってるの?」 「本気でしょう‥‥」 「お父さんの意見《いけん》はどうなの?」 「お父さんは、このごろ、どうも焦々《いらいら》していて、――この間も、育てた子が、みんなよそ[#「よそ」に傍点]へ行ってしまうンなら、もう、みんな早くよそ[#「よそ」に傍点]へ行ってしまってくれ、――酒を飲んでて呆《ぼ》んやり死ねたら、有難いもんだなンて云ってますよ。――お父さんは気《き》が小さくて、僕の将来《しょうらい》のことなンか、僕が話しだすのを、怖《こわ》がってるンですからねえ‥‥」 「飛行機の方は、お父さん賛成《さんせい》なの?」 「ええ、まァね‥‥だけど、心から賛成《さんせい》はしていないでしょう‥‥何しろ、ぐち[#「ぐち」に傍点]っぽくなって、お母さんは叱《しか》られてばかりいます‥‥」  郷子は鼻のなかへ涙《なみだ》がいっぱいつまったような、そんな佗《わび》しい気持だった。電車から降りても胸のなかには、風がすうすうはいりこんでいるようだった。 「蒲田《かまた》って遠いンですか?」 「羽田《はねだ》に近い方《ほう》よ、――お母さん、何をしてるのかしら?」 「叔母さんは、働《はたら》いてるンだろうって云ってましたけどねえ‥‥」 「ねえ、敬ちゃん、――この間の規則書《きそくしょ》でみると、職工になれたらあなた、寄宿舎《きしゅくしゃ》へはいるンでしょう?」 「ああ」 「敬《けい》ちゃんと、ずっと二人でいられるといいわ、――一度、内海さんとこへ、夜でも遊びに行ってらっしゃいよ」  郷子は急に、子供のように切《せつ》ない気特になって、新一の下宿していた大久保の時計屋《とけいや》の前を、敬太郎と二人《ふたり》で歩いてみたくなった。  遠まわりして、時計屋《とけいや》の前へ来ると、 「ねえ敬《けい》ちゃん、――ほら、話したでしょう‥‥佐山さんって方《かた》の下宿、ここの二階だったのよ、とてもいい方なの、いま兵隊さんよ‥‥」 [#9字下げ]○  小見山は事務所の仕事で、一週間ほど秋田《あきた》の方へ行っていたけれど、今朝《けさ》ほど戻って来たと云う電話が事務所《じむしょ》にあり、その序《ついで》に郷子にも、弟さんの飛行機の話《はなし》はどうなったかときいてきた。 「植村さんですか? 僕、今朝《けさ》かえりました。――どうでした内海《うつみ》の方は?」 「おかえンなさいませ、――色々と有難《ありがと》うございました‥‥たいへん親切《しんせつ》におっしゃって戴いて、そのうち、弟にも、ゆっくり内海さんの御宅《おたく》の方へ遊びに見えるようにって、おっしゃって下すって、――弟《おとうと》も何だか張りきってますの、飛行場の方もみせて戴《いただ》きましたわ。――一度、ゆっくり、小見山さんに、お礼《れい》にうかがいたいと弟と話《はな》していますのですけど‥‥」 「いやァ‥‥そうですか、内海《うつみ》には、そのうち、僕からも頼んでおきましょう。信頼《しんらい》出来《でき》る奴ですから、弟さんの事も本気で考えてくれるでしょう。――どうです? 今夜《こんや》、御飯でも一|緒《しょ》にたべませんか?」 「はァ、有難うございます‥‥」 「弟さんを連《つ》れて、御一緒にいらっしゃい、いいでしょう?」 「ええ、でも、お疲《つか》れじゃございません?」 「かまいませんよ、――きっと、いらっしゃい‥‥」 「はァ、――じゃァ、うかがわせて戴きます。――あのゥ、佐山《さやま》さんから、この間、おたよりがございましたのよ」 「へえ‥‥何て云って来ました? 岡部《おかべ》だの、植村さんの処へはよこして、僕の処《ところ》へはよこさないンだなァ‥‥」 「あら、ハガキなンですよ。――御無事《ごぶじ》ですって、どこへ編成《へんせい》されるか、まだわからないけれど、近いうち、遠くの方へ移動《いどう》してゆくだろうって書いてありましたけど、――佐山さんは、何の方《ほう》でいらっしゃるンでしょうか?」 「そうですが、元気《げんき》のようですか、――あいつは工兵ですから、鉄道《てつどう》の方をやるのかも知れませんね‥‥」 「まァ、工兵《こうへい》さんですの? じゃァたいへんですわねえ‥‥」 「鉄道修理《てつどうしゅうり》でもやって行くンじゃないかな、元気そうな文面でしたか?」 「はァ‥‥」  その夜、郷子は敬太郎と新宿《しんじゅく》へ出て、何時か大橋久子に教わった花園《はなぞの》まんじゅうを少しばかり買って、四谷坂町の小見山のアパートを訪《たず》ねて行った。  何処かで、重くるしい沈丁花《ちんちょうげ》の匂いがしている。果物屋《くだものや》の路地口の灯火《あかり》で、敬太郎の襟あしが妙に汚《よご》れてみえた。 「ねえ、敬ちゃん、明日、あなた床屋《とこや》へ行ってらっしゃいよ。――髪《かみ》が随分のびてるわ、刈って貰って来るといいわねえ‥‥」 「うん‥‥」 「何だか、そうしてると、お父さんの後姿《うしろすがた》によく似てるわ、じじむさいことよ‥‥」 「刈《か》って来ますよ」  敬太郎はまんじゅうの包《つつ》みをぶらぶらさげて歩いて行く。  アパートはすぐわかった。小見山の部屋には岡部《おかべ》が来合せていた。 「いやァ、久しぶりですね‥‥」  岡部がすぐ二人に座蒲団《ざぶとん》を出してくれる。岡部は、このごろは体力《たいりょく》の長期建設だと云って、テニスをしているのだと云っていた。 「佐山から音信《たより》があったンですって?」 「はァ‥‥」 「僕ンとこにも、この間、来ましてね、一|瀾《らん》を追えば、千|瀾《らん》走《はし》るなンて、ひどく、支那的なことを云って来ましたよ」 [#9字下げ]○  岡部は、このごろ、ひま[#「ひま」に傍点]があるとニュース映画ばかり観《み》て歩くと云っていた。 「あれは君《きみ》、十銭玉一つで、実にすみやかに、我々《われわれ》にうったえてくれるからね‥‥もっぱら、新宿へ出かけるンだけど‥‥ニュースはいいよ。――この間は、雨のなかを行軍《こうぐん》してゆく兵隊を見たンだが、観ていて涙《なみだ》が出て困った‥‥」 「うん、どこのニュース小舎《ごや》だって大入り満員だねえ‥‥三鷹なンかにいて、よくそんなひま[#「ひま」に傍点]があるもンだ‥‥」 「ひま[#「ひま」に傍点]って、そりゃァ‥‥機《き》を得《え》て出掛けるわけさ‥‥」  窓を開けひろげていても、そんなに寒くはなかった。窓下の町の灯火《あかり》が涼《すず》しそうに見える。もう、やがて、草や木の芽も萌《も》えるだろう‥‥郷子は、女学校のころ、雪融《ゆきど》けの比良《ひら》の山へ登って、登攀記《とはんき》を書いたことを思い出していた。ここまで沈丁花の匂いがただようて来る。苦味《にが》い郷愁《きょうしゅう》が、窓から吹いて来る春の風とともに、胸にいっぱいこみあげて来た。  窓の向うの広い空には、夜の雲《くも》が飛んでいた。月はみえなかったが、明《あか》るい空だった。 「おい、三河屋へ、牛肉《にく》でも食べに行かないか?」  小見山が、机の抽斗《ひきだし》から財布《さいふ》を出して袂へ入れている。岡部は窓ぶちへ腰をかけていたが、思い出したように云った。 「おい、こうしていると、佐山が、戦争《せんそう》へ行っているとは思えないねえ‥‥」 「うん‥‥」 「行くときにねえ、僕と二人きりで吉祥寺《きちしょうじ》の雑木林《ぞうきばやし》のなかを歩きながら‥‥おい、日本は全く可愛い国だぞ、このごろになって、戦争へ行くと云うことがきまって、初《はじ》めて、俺《おれ》は、日本がよくて仕方がないと云うンだ‥‥生死《せいし》のほどはわからんが、深くこんなに、自然万物《しぜんばんぶつ》を愛せたことはないと云ってたよ。――そうそう、赤紙《あかがみ》を手にした時、どうだったと訊《き》いたら、何と云うこともなく、新宿の遊廊《ゆうかく》を歩きたかったと云うンだからふるってるよ‥‥」  郷子は赧《あか》くなった。  綺麗《きれい》な流れが、急に止まったように、息が咽喉《のど》で詰った。 「工兵って、襟《えり》はどんな色なンでしょうか?」  郷子は話《はなし》をそらして、そんなことをきいた。 「工兵ですか、たしか、海老茶色《えびちゃいろ》だったかな‥‥あいつは躯が堂々としているから、一寸、あの軍服姿《ぐんぷくすがた》はあなたに見せたかったな。――軍服を着ると、みな堂々とするねえ‥‥」  小見山は部屋の隅《すみ》にある狭い台所で、ごそごそ茶を淹《い》れていた。郷子のまんじゅうが机の上にひろげられている。 「おい、もう、壁《かべ》には何も貼《は》りつけてないンだねえ?」  岡部はねじれたネクタイをぎゅっと締《し》めながら笑《わら》っていた。 「ああ、君のような男《おとこ》に、そんなものを見せたってつまらんから、君の来る時は、貼《は》らないのさ‥‥」 「いや、壁へなンか名文《めいぶん》を貼るのはよした方がいいね、少年臭《しょうねんしゅう》があっていけない」 「少年臭《しょうねんしゅう》か‥‥こりゃァ驚いた」  小見山が苦笑《くしょう》しながら皆に茶をついだ。 「小見山《こみやま》さん、電話ですよ‥‥」 「おい、電話だとよ‥‥」  岡部が返事をした。小見山はすぐスリッパを引っかけて廊下《ろうか》へ出て行った。 「弟さんは飛行機《ひこうき》の方をやられるンですか?」 「はァ‥‥」 「そりゃァいいですね」  桜《さくら》も桃もいっぺんに咲きそうなあたたかい晩である。 「おい、大野夫人《おおのふじん》が、いま、バスに轢かれたンだそうだ‥‥」  小見山が跫音《あしおと》荒《あら》く走って戻って来た。 [#9字下げ]○  大野夫人が入院していると云う、四谷大番町の津田病院《つだびょういん》へ、小見山と郷子はかけつけて行った。  私立の小さい外科病院《げかびょういん》だったが、相当有名な病院らしく、玄関には自動車が三台も停めてあって、狭い応接間《おうせつま》には、患者やつきそいの人がこみあっていた。――大野夫人は二階の七|号室《ごうしつ》ですと、受付にきいて、二人が冷い革《かわ》のスリッパを引っかけて梯子段《はしごだん》をあがって行くと、暗い廊下の向うから、大野の家の女中《じょちゅう》が走って来ていた。 「大変《たいへん》でしたねえ、――奥さん、どうなンです?」 「ほんとに、私、吃驚《びっくり》しましたわ。私もそばにいたンですの‥‥右の手をお怪我なすって‥‥」 「右の手、――それで意識《いしき》は大丈夫なンですか? 皆さんみえてる?」 「はァ、お元気《げんき》はお元気ですけど、まだ、呆んやりしていらっしゃいます‥‥旦那《だんな》さまもさっきお見えになりまして‥‥」  女学生《じょがくせい》のような女中は、自分も吃驚しているらしく、ぼおっとしている風だった。病室へ這入ると、案外広くて、ぷんと薬臭《くすりくさ》い匂いがただようていた。 「やァ、大変《たいへん》でしたねえ‥‥」  小見山が静かに、夫人のベッドの枕《まくら》もとに行くと、大野はすぐ立って来て、 「バスに弾《は》ね飛《と》ばされたンだそうだ。右の腕を一寸痛めたらしいけれど、――まァ、このまま一週間もすれば大丈夫《だいじょうぶ》だろうって話だがね‥‥」 「バスって、いったい何処でやられたンです?」 「大木戸《おおきど》のところまで使いに行ってねえ、――何しろ、眼の近いひとだから‥‥」 「あぶなかったですねえ‥‥」  夫人は鼻まで蒲団《ふとん》をかぶって昏々《こんこん》と眠っていた。郷子も静かに大野へ挨拶をした。 「丁度《ちょうど》、植村さんも、弟さんと遊びにみえてたものですから‥‥」 「いや、どうも有難う‥‥」 「ほんとに、驚きましたよ‥‥」 「どうも、騒《さわ》がせちゃって‥‥丁度、僕も門を這入《はい》った処だったンだ。――まァ、でも、このぐらいの災難《さいなん》でよかった‥‥秋田の方はまだ寒いだろう?」 「ええ、まだ、とても寒いですね」 「そうだろうなァ‥‥ところで、君達、晩飯《ばんめし》はどうなの? まだじゃない?」 「ええ、周章《あわ》てましてねえ、飛び出して来たもンですから‥‥」 「そんなら、ここで取って貰うのも何だから、何処か、近所《きんじょ》で食べて来よう‥‥」 「じゃァ、――私、ここでお留守《るす》をしています」  郷子《くにこ》がそう云った。 「いや、いま、派出看護婦《はしゅつかんごふ》のひとが来てくれたから、大丈夫ですよ‥‥貴女も一緒に、どうです?」  大野の話した派出看護婦が、検温器《けんおんき》や吸飲みを持って病室へ這入って来た。 「まァ!」 「あらァ‥‥まァ、戸田《とだ》さんじゃないの‥‥」  大津《おおつ》の女学校で、一級上の戸田安子《とだやすこ》の看護婦姿をみて、郷子はしばらく呆気《あっけ》にとられている。 「まァ、しばらく‥‥」 「何時《いつ》、こっちへいらっしたの?」  小見山も大野も、女二人の奇遇《きぐう》を微笑して眺めていた。 「女学校時代のお友達《ともだち》なんですの‥‥」  郷子が小見山と大野へ小さい声で紹介《しょうかい》した。安子はベッドのそばへ行って、夫人の手を取り脈《みゃく》を診《み》ながら、じっと時計を見ている。 [#9字下げ]○  女中は、渋谷の家へ夫人の家具《かぐ》や寝巻《ねまき》を取りに行っていたし、大野と小見山は病院の近所へ遅《おそ》い夕飯をたべに出掛けていた。 「まァこんな処《ところ》で逢うなンて――あなたが、看護婦《かんごふ》さんなンかしているとは思わなかったわ‥‥」 「驚《おどろ》いたでしょう? でも、私だって、あンたが、東京へ来てるとは思わなかったわ――いま、どうしてるのン?」 「どうしてる云うてねえ、あなたと同じように職業婦人《しょくぎょうふじん》よ‥‥田舎を、黙って出て来ちゃったの‥‥」 「へえ‥‥そう、おうちのひと、心配してるでしょう?」 「そら、もう、叱《しか》られてるの承知《しょうち》だわ――でも、弟も出て来たのよ、飛行機の方をやりたいなんて云ってるンだけど、何しろ、私だって出て来《き》たばかりだし、どうにもならないの‥‥あなた、それで、何時から、こんなことをしているの?」 「学校を出るとじき東京に来て、ずっと、叔父《おじ》さんとこにいたの‥‥割合忙がしいのよ、この仕事‥‥」 「でも、この病院《びょういん》にいるンじゃないでしょう?」 「ええ、日本橋《にほんばし》の方に会があってね、私、いままで、子供のひとについてたンだけど、今日、こちらに振りかえられちゃったのよ‥‥ここの若い先生も、代診《だいしん》の方も出征してしまって、いまは老先生《ろうせんせい》お一人だものだから、忙わしいの何のって‥‥」  桜模様《さくらもよう》の金具のぴかぴか光るバンドを、細い腰にきっちり巻いて、白い看護服《かんごふく》の袖を、安子はきりりと二の腕《うで》までたくしあげていた。 「奥様《おくさま》、大丈夫かしら?」 「ええ大丈夫よ、一週間ほどして、どこか、温泉《おんせん》にでもいらっしゃればいいのじゃないかしら‥‥」 「でも、さっき、沢山《たくさん》、血のついたガーゼを見て吃驚《びっくり》したわ‥‥」 「舌《した》をお噛みになったのね‥‥」 「まァ、舌《した》を? 大丈夫かしら?」  郷子は大野夫人の白い掛蒲団《かけぶとん》の裾を、そっと叩きながら、 「学校《がっこう》のひと達も、東京へ随分来てるンでしょうね?」  と云った。 「私、学校《がっこう》のひと達なンか、誰《たれ》にも逢いたくないわ‥‥ただ時々、校舎から眺めた、比良の白い雪の山を憶《おも》い出すの、いまごろ、いいでしょうねえ‥‥」 「ねえ、ほら、よく窓に凭れて歌ったじゃないの、ともよあつまれ、まなびの庭《にわ》に、白き董《すみれ》の花束《はなたば》つくり‥‥なンて、――よく、夕方《ゆうがた》、唄いながら、あの校庭を歩いたものね」  二人は小さい声で、なつかしい昔を語りあった。――手《て》にはとらえられないけれど、風《かぜ》の中にでもまじっているような、美《うつく》しい青春が、郷子の耳朶《みみたぶ》を仄かにかすめて来る。都会の、底知れぬ空漠さの中に、旧友《きゅうゆう》にめぐりあったことは、孤独の幹からあふれおちる花弁《はなびら》のようなものであった。 「いま、私《わたし》は、会の方に寝泊《ねとま》りしているのよ。叔父さん達、大阪へ帰ってしまったので、ずっと会の方にいるの、一度、遊《あそ》びに来て頂戴、御馳走《ごちそう》するわ‥‥」 「ええ、ありがとう‥‥私も、弟の身の始末《しまつ》がついたらほっとするから、そしたら、時々《ときどき》泊りに来て頂戴《ちょうだい》、――でも、あなたは、元気《げんき》で羨ましいわ、活気があって‥‥」 「そうかしら、この間も、会の連中で話したンだけど、私達《わたしたち》も何とかして、戦場《せんじょう》へ行きたいって‥‥いまからでも遅《おそ》くはないなンて、みんな猛烈《もうれつ》に勉強してるのよ‥‥」 [#9字下げ]○  医者《いしゃ》が云ったように、大野夫人《おおのふじん》は一週間ほどして起きられるようになり、大野夫人の実家である三保の松原へ、夫人は保養かたがた帰って行くことになった。事務所《じむしょ》の帰りには病院《びょういん》へ見舞に行っていた郷子《くにこ》の性質を、夫人《ふじん》はことのほか気に入ってしまって、十日ばかり、つきそってくれるようにとの事で、郷子は、夫人のお供《とも》で、三保の松原《まつばら》へ行くことになった。  敬太郎《けいたろう》のことも気《き》にかからないではなかったが、敬太郎は案外気軽に、 「行って来なさいよ、――姉さんが旅行《りょこう》するなンて、めったにないンでしょう‥‥僕《ぼく》はそのあいだに、内海《うつみ》さんのとこへも行くし、方々《ほうぼう》あるいてみます。――どうしてもいけなかったら、電信局でもいいと思ってるンだから、兎に角、安心《あんしん》して行ってらっしゃい‥‥」  事務所《じむしょ》では、小見山も賛成《さんせい》してくれた。 「あなたが三保にいる間に、僕も、見舞《みま》いかたがた遊びに行きましょう‥‥三保の松原《まつばら》なンていいなァ、――春《はる》の海をゆっくり見ていらっしゃい」  郷子はみんなに賛成されると、急に長襦袢《ながじゅばん》の裾をつくろったり、着物《きもの》の襟をキハツで拭いたりして旅の用意《ようい》にかかった。  何でもないのに、時々胸の動悸が激しく打って来たり、舌に生唾《なまつば》が沢山たまって来《き》たり、郷子は旅《たび》をすると云うことが何《なん》となく嬉しくて仕方がないのだ。 「ねえ、敬ちゃん、私、お金はいらないから、みんな置いて行《ゆ》きますよ。――出来《でき》るだけ運動してみて頂戴《ちょうだい》‥‥もし、保證人《ほしょうにん》でもいるようだったら、大野さんにでも、小見山さんにでも頼めばいいから‥‥」 「うん」 「どら、その洋服《ようふく》、かしてごらんなさい、釦《ボタン》がはずれかけてたわ。胸のとこのが‥‥」 「ねえ‥‥」 「何《なに》?」 「三保って、あすこにも飛行場《ひこうじょう》があるンですよ‥‥」 「そう‥‥」 「たしか、そこには航空灯台《こうくうとうだい》があるはずなンだ‥‥」 「ふうん‥‥」  みすぼらしい鞄《かばん》しかないので、郷子《くにこ》は新しい風呂敷に寝巻や化粧品を包んだ。敬太郎が、まるで、遠足みたいだと冷かしている。郷子の胸には旺盛《おうせい》なものが、ふくれ上って来て、鏡《かがみ》をみていても何となく笑《わら》いがこみあげて来て仕方《しかた》がない。  東京駅へは、敬太郎《けいたろう》が送って来てくれた。 「何時《いつ》も。僕は見送り役なンだなァ‥‥」 「何故?」 「だって膳所《ぜぜ》の駅だってそうでしょう‥‥」 「そうね、――いいわ、お土産持って来るわ‥‥それから、お父《とう》さんへは、当分《とうぶん》辛抱《しんぼう》して下さいって、手紙《てがみ》出して置いて頂戴《ちょうだい》――それから、マッちゃんに、東京のエハガキ沢山貰っといたから、序《ついで》に送っといてやってね‥‥」  婦人待合室には大野夫妻が来ていた。夫人は右手《みぎて》を三角巾で首から吊《つ》っていた。 「やァ、どうも、有難《ありがと》う‥‥」  大野は薄茶の外套を着て、ステッキをついている。郷子は、敬太郎《けいたろう》を夫妻に紹介《しょうかい》した。 「まだ、大変《たいへん》な出征ですね‥‥」  出征を送る人のどよめきをきいて、夫人が大野に、戦争《せんそう》はまだまだ大変《たいへん》なンでしょうねときいている。  静岡《しずおか》へは十時頃着くのだそうだ。静岡《しずおか》の夫人の定宿へ一泊して、明日三保へ行く予定なのだと、夫人が教えてくれた。やがて時間が来ると、大野は青い切符《きっぷ》を郷子の掌に握《にぎ》らせてくれた。 [#9字下げ]○  横林《おうりん》へ鉄道修理に来て、新一の班《はん》は、もう、ここに十日ばかりも駐在している。街道から南へ這入った百姓家に、新一達は八人の兵隊《へいたい》と共に寝泊《ねとま》りをしていた。  風の強《つよ》い晩だった。  みんなは日が暮れると、庭の隅にある穀倉へ集って、土間《どま》の真中に焚火《たきび》をした。大した百姓家ではなかったが、それでも部屋《へや》は六ツ七ツある。どの部屋も壁《かべ》が落ちてがらんとしていた。  穀倉《こくぐら》だけは砲弾があたっていないので、窓《まど》に茣蓙を吊して、焚火のあかりが外へ漏れないようにしていた。  兵頭は小隊長《しょうたいちょう》と一緒に、無錫から丹陽《たんよう》に先発してしまったので、ここのところ、新一は話し相手もなく淋《さび》しいのだ。 「月《つき》が出ていますよ」  杉本一等兵が、罐詰の空罐に湯をわかして、部屋《へや》の隅のローソクの灯火《あかり》で熱心に髯を剃っている。 「おぼろ月夜《づきよ》かな?」  杉本を誰《たれ》かがからかっていた。  新一は縄で編んだ汚い寝台の上へ、藁や毛布を敷いて、さっきから寝転《ねころ》がって手紙《てがみ》を書いていた。  鉄道警備《てつどうけいび》の兵隊が、時々《ときどき》、小声で唄をうたいながら堤の上を通って行く。 「佐山伍長殿、氷砂糖《こおりざとう》はどうですか?」  新聞をごそごそさせて、新一の手のそばへ、誰かが氷砂糖《こおりざとう》をひとかけ置《お》いてくれた。  新一は物憂《ものう》そうに顔を挙げて、氷砂糖《こおりざとう》をがぶりと唇《くち》に入れたが、 「おい、この氷砂糖《こおりざとう》は、いやに、石油臭いがどうしたンだ?」  と、みんなの方を振《ふ》りかえった。 「今日《きょう》、トラック隊の兵隊《へいたい》に少し分けて貰ったんです」  杉本が煮〆たような手拭で、安全剃刀《あんぜんかみそり》の刃を拭きながら云った。――夕方《ゆうがた》、杉本は、どこからか四角いローソクを二|本《ほん》探《さが》して持って来ていた。汚《よご》れた石炭の塊《かたまり》のような、ローソクだった。  新一は奥歯でこりこり氷砂糖を噛みくだきながら、煤《すす》を吐きながら燃《も》えているローソクの灯を、凝《じ》っと見《み》ている。  近くで銃声《じゅうせい》が二三発したが、誰《たれ》も気にかけるものもない。四五日来、行き来をしている、鉄道守備の兵隊が三人、新一達の穀倉《こくぐら》へどやどやと遊《あそ》びにやって来た。 「今晩《こんばん》は‥‥」 「やァ、今晩《こんばん》‥‥」 「いらっしゃァーい」  焚火は激しい火力でぱちぱち弾けている。守備《しゅび》の丘隊が、支那酒《しなしゅ》をビールの瓶に詰めて持って来てくれた。 「テンハオだな‥‥(大変《たいへん》よろしい)」  みんな拍手《はくしゅ》をした。  疲労でしめっぽくなっていた一座のものたちは、急《きゅう》に元気な表情《ひょうじょう》になり、とっておきの仔豚の脚を焚火《たきび》に焙ったり、南京《ナンキン》豆を出して来るものもあったりした。  杉本は戦帽の上から手拭で頬かぶりをして、焚火《たきび》のなかへ割り込《こ》んで来た。 「いやに不景気《ふけいき》な恰好じゃァないか?」 「いや、いま、髯を剃ったら寒《さむ》くて仕方《しかた》がないンだ」 「折角の髯《ひげ》を剃らんでもいいだろうに‥‥」 「いや、急にガリガリとやりたくなったンだよ、――たまには変化《へんか》がなくちゃね」  やがて、寝転《ねころ》んでいる新一のところにも、鼻をさすような支那酒が、ニュームのコップに廻されて来た。コップにはごみ[#「ごみ」に傍点]が浮いていたが、新《しん》一は、冷い奴を一気に飲《の》んだ。舌の先で、唇を吸うようにして、最後《さいご》の雫を飲み干すと、新《しん》一は急に、郷子をおもい、戸外の風のなかをやみくも[#「やみくも」に傍点]に歩いて来たいような気持《きもち》になった。 [#9字下げ]○ 「追撃《ついげき》、また、追撃‥‥で、無錫《むしゃく》まで敵を追って来て、それから上海へ、蘇州河を下ったのが去年の十二月始めです。――それから、広東の敵前《てきぜん》上陸《じょうりく》をするはずで、上海を出発《しゅっぱつ》したンだけどね、何《なん》だかとりやめになっちまってさ、クリスマスの朝、溪州へ上陸したようなわけですよ‥‥」  右の小指に繃帯《ほうたい》をしている警備の兵隊が、煙草《たばこ》に火をつけながらしんみり話している。  新一は寝台《しんだい》の上へ起きあがって壁に凭れた。 「今年の正月は江陰砲台で迎えましたよ‥‥あすこは河風《かわかぜ》が吹いて、寒いの何《なん》のって、全く話にならない‥‥」 「この横林《おうりん》にはどのくらい居るンですか?」  杉本一等兵が頬《ほお》かぶりを取りながらたずねている。 「ここですか、もう二ケ月ばかりいます。――これからまた、何処へ移動《いどう》して行くかは依然《いぜん》としてわかりませんね‥‥」  新一は、十日ばかりの駐在《ちゅうざい》で、退屈しきっている自分《じぶん》を一寸ばかり恥じた。 「貴方《あなた》はどこですか? お故郷《くに》は‥‥」 「私は甲府の在《ざい》のものですが、長らく東京《とうきょう》で商売をしています」  新一がこの兵隊に故郷《こきょう》をたずねた。  甲府と云うところは知らなかったけれど、山の素朴《そぼく》な兵隊に、新一はこみあげて来《く》る親しいものを感《かん》じた。 「ウースン上陸《じょうりく》は凄かったでしょう?」 「凄いには凄かったが、まァ、あんな華々しい戦争《せんそう》はみたことがないね‥‥」 「よく生命《いのち》がありましたね」 「私は、生命のあるなしなンか考えなかった。夢中《むちゅう》だったなァ‥‥この頃《ごろ》になって、かえって生命のことを考《かんが》える時があります――。私の家は木炭商《もくたんしょう》ですが、今度、帰還することが出来たら、支那炭を一つ、大いに勉強《べんきょう》しようかと思っています‥‥」  日本の狭い土地で産出《さんしゅつ》する炭の量は知れたものだと云《い》うのであった。 「支那《しな》へ来て、でかい[#「でかい」に傍点]事を考《かんが》えるようになっただけでもひろいものですよ。――これで、内地まで生命があれば、花に団子《だんご》と云いたいところでしょうな‥‥」  みんな焚火《たきび》の火を見ている。  新一の班の今野上等兵が遊底《ゆうてい》のこわれた支那の銃剣《じゅうけん》をひろったと云って、それをみんなに見せていた。 「あの銃声《じゅうせい》は何だ?」 「匪賊でもやって来たンじゃないかな、大《たい》したことはないさ‥‥」  支那酒《しなしゅ》が、もう一度、新一の前へ廻《まわ》って来た。新一は一息にぐっと飲んだ。咽喉《のど》を焼くように、冷い酒が腹《はら》へ浸みてゆく。  新一は、急に、郷子へ手紙《てがみ》を書きたくなった。  横林へ来ての荒寥たる十日間は新一にとって、強力《きょうりょく》なエネルギーを蝕《むしば》まれているような、そんな淋《さび》しい日々である。最前線《さいぜんせん》へ出て砲火をまじえるといった、出征の日の、あの華々しい空想のなかには、こんな退屈な陣中生活は夢想《むそう》だにしていなかったのだ。――新《しん》一は、手紙を書きながら、郷子《くにこ》から貰ったコンパクトを出して唇へ押しつけた。  固い金属《きんぞく》のすべらかな感触《かんしょく》が、久しぶりに飲んだ、たった二杯の酒のせいか、激しい粗笨《そほん》な情熱をさそって来る。 (この手紙は、何時ごろ、彼女《かのじょ》にとどくかな‥‥)  新一は、手紙を封に入れて、穀倉の床に散らかっている、もみがらを一|粒《つぶ》手紙《てがみ》のなかへ入れておいた。  ―植村郷子様《うえむらくにこさま》―表に宛名を書《か》いていると、ローソクの灯の下に、郷子の白粉の匂いがただようている。  郷子へあてた新一の手紙《てがみ》は、求愛に近い文面であった。 [#9字下げ]○  郷子《くにこ》は夫人と三保へ来た。  三保の松原は、郷子が考えていたほど、雄大《ゆうだい》ではなかったが、海と黒い松林《まつばやし》が、一日見ていて、眺め飽きることのない景色《けしき》だった。  朝は根岸飛行場のところまで夫人と時々散歩、昼からは読書《どくしょ》をしたり、編物《あみもの》をしたりして、四五日は過ぎた。  雨の来そうな或夕方《あるゆうがた》、電気もつけないで階下《かいか》の座敷で、夫人と呆んやり話しこんでいると、夫人はふっと思《おも》いついたように、郷子にこんなことを云った。 「ねえ、郷子さん‥‥」 「はァ?」 「あのねえ、――あなた、結婚《けっこん》する気持ありませんか。是非《ぜひ》、あなたを欲しいってひとがあるの‥‥それはもう、大変《たいへん》なおもいようなのよ‥‥」  郷子は卓子《テーブル》の上の燐寸箱をいじっていたが、吃驚《びっくり》したように顔を挙《あ》げた。 「誰だかあててごらんなさい‥‥」  郷子は、耳の中へ蝉の大群《たいぐん》を押しこまれたような、そんなそうぞうしいものを感じている。 「ねえ、とても、いい縁だと、私、おもってるンだけど、――昨日《きのう》、そのひとから手紙《てがみ》が来て今度の日曜日《にちようび》うかがうから、それまでに、是非《ぜひ》、あなたの返事をきいておいて下さいって云うの‥‥」  郷子は、小見山《こみやま》だと思った。  急に耳朶《みみたぶ》が熱くなって膝頭が震えて来る。 「そう云えば、誰だか、判《わか》るでしょう? 小見山さんなのよ、――どうかしら‥‥気心《きごころ》の判った方だし、大野の遠縁《とおえん》にもあたるひとですし、――それはもう、あのひとの、いい気質《きしつ》は、あのひとの小さい時から、私《わたし》、よく知っているの‥‥」  黄昏《たそがれ》の部屋のなかは、灯火もなく薄暗《うすぐら》かったので、郷子は、しばらくは、暮れてゆく障子《しょうじ》の薄明りに眼をすえていた。 「大野も大賛成《だいさんせい》だろうと思うの‥‥あなたを非常に気に入っているようだし、とう[#「とう」に傍点]から、小見山さんのお嫁《よめ》さんのことを心配していたンですもの‥‥」  障子の向うには、遠く松風《まつかぜ》の音がしている。海の音も地鳴《じな》りのようにきこえて来る。郷子は戦場にある新一の姿をひそかに胸に描《えが》いていた。  夫人は愉《たの》しそうに話している。首から吊《つる》した白い三角布が、夫人の胸のへんに、仄白《ほのじろ》く浮き出ていた。怪我《けが》はもうだいぶいいようだ。――郷子は立って電気《でんき》をつけてから返事をしようと思った。  郷子が燐寸《マッチ》を卓上に置いて立ち上った。 [#9字下げ]○  近所の、赤屋根の別荘で鶯《うぐいす》が鳴いている。  小見山《こみやま》は、いまごろ、もう、夫人の部屋へとおっている頃かもしれない。  郷子は小見山に逢うのが怖《こわ》かったので、誰にもことわらないで、松林《まつばやし》のなかを抜けて、ひとりで根岸飛行場《ねぎしひこうじょう》の白い建物の見える方へ歩いて行った。見覚えのある飛行場の犬が二匹砂地を愉しそうに転《ころ》げまわっている。  海が明るく青いので、郷子は時々、その景色《けしき》に見惚《みと》れ、生きているたのしさを感じていた。――料理屋のような、粋《いき》な家の崖下《がけした》を通り、飛行場の建物の前へ来ると、郷子はまたきびす[#「きびす」に傍点]をかえして、羽衣《はごろも》の松の方へ行った。  近くで郷子《くにこ》を呼んでいるような声がする。郷子は急に歩調《ほちょう》を早めて、松林のなかの小径《こみち》へ這入って行った。 「郷子さん‥‥」  小見山が不意《ふい》に、別荘の横から出て来て松林の方へやって来た。  郷子はふっと立ちすくンだ。小見山の表情《ひょうじょう》は、何時も眼鏡のなかに消《き》えているけれど、痩せた神経質《しんけいしつ》な姿からは、何となく圧《あっ》せられるものがある。 「随分探しましたよ‥‥」 「まァ‥‥何時《いつ》、お着きでいらっしゃいましたの?」 「たったいま、奥さん、風呂《ふろ》だったものだから、あなたを探《さが》しに来たンです‥‥」  郷子は無意識《むいしき》に歩いていた。  小見山も肩を並《なら》べて歩いて来ていたが、家の庭口《にわぐち》が見えると、小見山は、急に立ちどまった。 「郷子さん、もういちど、海《うみ》の方へ行ってみませんか?」 「ええ」 「僕は、こんな聳《そび》えるような海の色は初めてですよ‥‥聳えるって云うとおかしいかも知れないが、青い陽炎《かげろう》ですね、この海は‥‥」  郷子は松葉をひろって嗅いでいた。細い針《はり》のような葉の匂《にお》いは、湿って苦味《にが》くむせそうだった。 「まだ、風呂《ふろ》からあがられないでしょう、――一寸、散歩《さんぽ》して来ると云ってあるから、大丈夫、海の方へ行ってみませんか?」  郷子はこばむことも出来ないで、風もない森閑《しんかん》とした松林のなかを、小見山と汀《なぎさ》の方へ行ってみた。しばらくは、二人とも黙《だま》って歩いている。  郷子はひろった松葉《まつば》を、一本ずつに裂《さ》きながら、(何故、貴方は、そんなに遠くなったンでしょう? 何故、手紙《てがみ》を下さらないの‥‥)と、戦場《せんじょう》の新一へ向って、子供のようにすねる気持でもいた。 「――おききになりましたか?」 「えッ?」 「奥《おく》さんは、――僕のことを、何か云っていませんでしたでしょうか?」  郷子は赧《あか》くなっている。 「おききになったでしょう?」 「ええ‥‥」  飛行場の犬が前脚《まえあし》を折るようにして汀《なぎさ》を走りたわむれている。 「四五日前、佐山にも、僕の気持《きもち》を云ってやったンですが、戦場のことだから、その手紙が無事《ぶじ》に着くかどうか、――この、一ケ月、僕は、随分《ずいぶん》考《かんが》えていたンですよ‥‥」  松林の出口で、小見山は草の上へ腰《こし》を降《お》ろした。――郷子は、夫人から、小見山の求婚《きゅうこん》の話をきかされてから、この二三|日《にち》色々《いろいろ》考《かんが》えあぐねていたけれど、いま、小見山の口からはっきり云われてみると、自分はどんな返事《へんじ》をしていいのか、わけがわからなくなって来る。 「僕は、あなたが、三保《みほ》へ行かれるときいて、急に、せっぱつまった気持《きもち》になったンです、――奥さんに、一応、僕の気持を報告《ほうこく》しておいたンですが‥‥本当は、こんな、誰《たれ》もいない処で、いろいろの事をあなたに打ちあけたかったンです‥‥」 [#9字下げ]○  小見山は、郷子への土産《みやげ》に時計を買って来たのだと云って、ポケットから、紫《むらさき》ビロードの薄手な小さいケースを出した。  蓋をあけると、ふくらんだ白襦子《しろじゅす》の上に、小さい銀色の時計が光っていた。 「バルケンと云うンですがね、気《き》に入るかどうか‥‥」  海を見ていた郷子の眼には、時計の硝子が清潔《せいけつ》な感じだった。郷子は、リボンの汚《よご》れている自分の腕時計を、何気《なにげ》なく右手でおさえた。 「どら、一寸、かしてごらんなさい‥‥」  小見山がそう云って、小さい時計《とけい》のネジをまわしながら、自分の腕時計と時間《じかん》をあわせている。 「そんな立派《りっぱ》なもの、貰うことありませんもの‥‥」 「どうして? たいしたもンじゃありませんよ。僕が、どうしても郷子さんに贈《おく》りたいンだから、取っておいて下さい」  徐《しず》かに小見山が立ちあがった。  郷子は黙《だま》って歩きだした。 「そんな、ひとりで帰ったりしちゃァ厭《いや》ですよ‥‥」  小見山が郷子の肩《かた》をつかんだ。振りかえった郷子の表情が、泣き出しそうな赧《あか》い顔だったので、小見山は激《はげ》しくゆすぶられるような情熱《じょうねつ》を感じた。 「どうしたンです? 急に‥‥」 「奥《おく》さま、心配していらっしゃいますから‥‥」 「海へ行ってることは知っているンだからいいですよ、――あなたは、僕に対《たい》して、何か、こだわっていることでもあるの?」 「いいえ‥‥」 「なら、何も、そんな、遠慮《えんりょ》なンかしないで、この時計を取っておいて下さい。意味《いみ》があって上げるンじゃないもの‥‥」  肩《かた》をつかんでいた手で、すぐ小見山は郷子の左の腕《うで》をとった。 「だって、私《わたし》、時計、持っているンですもの」 「持ってたっていいでしょう、――これはまた、しまっといて、僕《ぼく》のをして下さい‥‥」  風が出たのか、松林の梢《こずえ》がごおッと鳴っている。羽衣《はごろも》の松を見物に来た女学生の一群が、歌をうたいながら、向うの汀《なぎさ》を行く。  新しい時計の感触《かんしょく》が、郷子には、腫物《はれもの》でも出来たような感じだった。紫のケースに、古い時計をしまって、小見山が郷子の手に渡《わた》してくれた。 「僕は、あなたがいいと云ってくれるまで待《ま》っていますよ。――ひょっとしたら、あなたは、佐山に対して、何か、感情《かんじょう》を持っていられるかも知れない、と、僕は思《おも》わぬではなかったンだけれど、――佐山が出征の時に、何気《なにげ》なく、冗談《じょうだん》まじりに云った言葉のなかに、職業は勿論、いい縁談もまた、彼女《かのじょ》の為によろしく頼むと云ったことがあるンです。――だから、僕《ぼく》は、佐山に率直《そっちょく》に、僕の気持を手紙に書いてやったンですよ‥‥」  遠くで喇叭《ラッパ》の音《おと》がしている。  郷子は淋しい気持で松葉《まつば》をひろっていた。佐山へあてて、このごろの生活《せいかつ》を書きおくろうとしていた気持が、いっぺんに無情《むじょう》の風のなかへ吹きながれていった。 「佐山さん、そんな、余計《よけい》なことまで、おたのみになったのですか? いやだわ、あたし‥‥」  松林《まつばやし》のなかを、二人を呼びに来ている女中の姿が見えた。 「私、かえります‥‥」  郷子が堤《どて》をあがって行くと、小見山も大股について来て、 「ねえ、結婚《けっこん》のことを進めてもかまいませんね? 返事をして下さい‥‥」  と風の中で云った。 [#9字下げ]○  小見山がしずかに二|階《かい》へあがって来た。  郷子は縁側《えんがわ》の硝子戸に凭《もた》れて、ひとりで月を眺めていた。 「階下《した》へ、どうして来ないンですか?」  小見山が、てすり[#「てすり」に傍点]に腰をかけて、郷子の顔に向きあって来た。南をふくんだ潮風《しおかぜ》が、時々、近くの松林の梢《こずえ》を鳴らしている。 「僕は、さっき浜辺《はまべ》では、何時までも待ちますと云ったけれど‥‥何だか、もう、持てないなァ、――はっきりしてほしいンだけど‥‥」  夕食の時に、小見山は、佐山が養子《ようし》の身分であることや、佐山の許嫁《いいなずけ》の女の話なんかを何気なくしていたのを、郷子はいまも呆《ぼ》んやり考えていたのであった。  佐山新一とは浅《あさ》い知りあいで、郷子とは、何を話しあうひまもなく出征してしまい、赤坂《あかさか》に許婚のひとがいると云うことも、別《べつ》にききはしなかったけれど、郷子は、佐山《さやま》が出征して行く朝の、あの一瞬の、激《はげ》しい感情《かんじょう》を、若い二人の通りすがりな感傷とは受けとらなかったのだ。  何も話しあわず、約束もしなかったけれど、二人には、固《かた》いきずな[#「きずな」に傍点]が出来ているようにも郷子は自惚《うぬぼ》れていた。――さっき、小見山に、佐山の身上《みのうえ》をさりげなくきかされてみると、あの一瞬の感激《かんげき》は、やっぱり、出征してゆく、若い男の一時の感傷《かんしょう》だったのかと、郷子は(私でなくてもあの場合は、どんな女《おんな》のひとでもよかったのかも知れない‥‥)と、遠い戦地《せんち》にある佐山に、郷子は、もう、さよならと云いたい気持だった。  月に向いた郷子の大きい眼が、黒くつやつやと光っていた。小見山は立ちあがって、黙《だま》ってる郷子の肩《かた》に手をかけ、子供のように可愛くしまった郷子の白い顎《あご》をみつめていた。郷子は、一瞬、固くなったが、すぐ、さりげなく灯火《とうか》のあかるい座敷の方へ行った。  朝、夫人と郷子と二人で、五|目並《もくなら》べをして遊んだかや[#「かや」に傍点]の碁盤《ごばん》が座敷の真中においてある。郷子は小見山のけわしい表情《ひょうじょう》をさけて、碁盤の向うへ逃げて行った。小見山は眼鏡《めがね》を光らせて、蒼白《そうはく》な顔をしていた。 「郷子《くにこ》さん、――あなたは佐山を愛しているンでしょう?」 「いいえ‥‥」 「そう、――じゃァ、ほかに、あなたの心にあるひとでもあるの?」 「‥‥‥‥」  小見山は徐《しず》かに碁盤《ごばん》をよけて、郷子のそばへやって来た。郷子は、ひとりで、ながいこと、月を見ていた幼《おさな》い感傷が、急に切なく涙となって溢《あふ》れ出そうだったけれど、ぐっと、その切ない気持を踏み耐《こら》えて、碁盤の前に静かに坐《すわ》った。 「僕は、事務所《じむしょ》の方も、この頃、あなたがいないので、何だか呆《ぼ》んやりしているンですよ‥‥だから、急に、奥さんに相談《そうだん》をしたンです」  小見山も碁盤《ごばん》の前へ坐った。畳の上に置いてあるつぼ[#「つぼ」に傍点]から、白い石をつかみ出して、小見山は、盤の上へざらざらと石を盛りあげては、崩《くず》している。 「もう、僕だって二十九ですからねえ。こんな弱味《よわみ》をさらけ出してまで、あなたがほしいと云うのは、よくよくなンだと、僕自身《ぼくじしん》呆《あき》れかえっています‥‥」  白い石が、郷子の膝《ひざ》へ一つこぼれて来た。  郷子は急に、小見山から貰った腕の時計《とけい》をはずして、 「私、この時計、どうしても戴《いただ》けませんわ‥‥どうしていいかわかりませんけど、――兎に角、二三日うちに、私、かえります‥‥」 「郷子さん!‥‥まさか、あなた、事務所《じむしょ》をやめるンじゃないでしょうねえ?」  盤の上に時計《とけい》をのせて郷子は立ちあがった。小見山は急にその時計を引《ひ》ったくると、白い碁石の山の中へ、腹立《はらだ》たしそうに、小さい時計を、ごちやごちやと混《ま》ぜこんでしまった。 [#9字下げ]○  郷子が東京へ着いたのは昼《ひる》すぎだった。  アパートへ帰ると、敬太郎は外出していて、いなかった。入口の狭《せま》い土間《どま》に手紙が二通ほうりこんである。  一通は新一からので、一|通《つう》は妹のマツエからのであった。郷子は、風呂敷包《ふろしきづつ》みを部屋の真中に置き、すぐ、がらがらと窓《まど》を開けた。窓の下の寺の庭では、子供達が戦争《せんそう》ごっこをして遊んでいる。 [#ここから1字下げ]  元気でいますか。だいぶ仕事《しごと》にもなれたでしょう。――僕の方は、別に華々《はなばな》しい報告も出来ませんが、至って壮健《そうけん》です。  早いもので、もうやがて四月が来ようとしています。この手紙《てがみ》が着くころは、東京もぽつぽつ桜のころでしょう。こちらもとても暖《あたた》かですよ。匪賊《ひぞく》の襲来も二三回ありましたが、だんだんなれて来ました。――あなたは、戦争と云えば、砲火とどろく、大激戦《だいげきせん》を考《かんが》えるでしょう。僕のやっている鉄道修理《てつどうしゅうり》だの、鉄道の守備隊《しゅびたい》になると、ほんの四五人で、ぽつんぽつんと荒漠《こうばく》たるところを守るのですから、これも中々あぶない兵隊なのです。地味で、目立つことはありませんが、これも第一線だと、必死《ひっし》で守っているわけです。  この辺は工場地帯《こうじょうちたい》で、もう、ほとんど難民《なんみん》も戻って来ております。紡績工場からは機械の音も時々きこえて来ています。  まァ、平凡な職務かも知《し》れませんが、精励勤勉《せいれいきんべん》でなくてはなりませんね。  時々|手紙《てがみ》を下さい。  あなたの写真を一枚送って下さい。夜なんか実に退屈《たいくつ》で、たとえようもない寂寥《せきりょう》を感じます。匪賊《ひぞく》でも出て来れば活気《かっき》づくのですが、もう、みんな家族の話、女房の話、子供の話、そうして、その、家族や女房や子供の話が、すえて[#「すえて」に傍点]鼻もちがならなくなるまで、僕達《ぼくたち》はむしかえし、むしかえし、同じ話《はなし》に慰められているのですよ。――僕は、いま、一番、あなたに逢いたい。[#地から4字上げ]佐山生    植村郷子様 [#ここで字下げ終わり]  寺の庭をかすめて春風《はるかぜ》が吹きこんで来《く》る。郷子は何度も何度も新一の手紙を読みかえしてゆきながら、胸のなかは、動悸の打つような満ち足りた気持《きもち》になった。  敬太郎《けいたろう》は中々戻って来ない。  郷子は事務所の律子の処《ところ》へアパートから電話《でんわ》をかけてみた。 「あら、郷子《くにこ》さん? 何時、戻って来たのよ。――私、そのうち、お休みの日に、三保へ行ってみようと思ってたのに‥‥」 「あのねえ‥‥私、事務所《じむしょ》をやめてしまおうと思《おも》ってるンですけどね‥‥」 「まァ! どうして? 厭《いや》ねえ、そんなに早く飽《あ》いたりして‥‥」 「飽《あ》いたりなンかじゃないの、ねえ、色々《いろいろ》と云えない気持でなのよ‥‥」 「ふうん、まァ、何でもいいわ、ね、久《ひさ》しぶりだから、あなたのとこへ寄《よ》る、いいでしょう?」 「ええ来て下さるの、嬉《うれ》しいわ」  電話室《でんわしつ》を出ると、大橋久子《おおはしひさこ》が、一枝を連れて郷子を訪ねて来ていた。 「まァ、いったい、何処へあなた行っていたンです? 随分《ずいぶん》、会わなかったわねえ‥‥何時《いつ》かは、このひと、御心配《ごしんぱい》かけたりして、ほんとにありがとう‥‥」  一枝は地味《じみ》な縞のスーツを着ていた。  久子は羽織のない軽々とした姿《すがた》で、窓に腰をかけるなり、 「私ねえ、いよいよ、遠くに行くことになったンですよ、――何処《どこ》だと思う? 満州《まんしゅう》へ行くのよ、新京《しんきょう》なの‥‥」  急に、佐山《さやま》から借りた枕時計《まくらどけい》が机の上で激しい音をたててりりーんと鳴り始めた。 [#9字下げ]○  隅田の河風《かわかぜ》が、歩きつかれた郷子と安子《やすこ》の顔に、薄荷のように涼しく吹いて来た。 「一度、田舎へ帰ってみたらどうなのよ? ――職業《しょくぎょう》もなくて、しかも躯《からだ》を悪くしちゃァ、何にもならないじゃないの?」 「ええ、――でも、私《わたし》は、どうしたって帰れやしないわ、どんなことがあっても‥‥」 「一寸、郷子さん、そこへ腰をかけてごらんなさい、――ひょっとしたら、あなた、脚気《かっけ》じゃないかしら?」 「どうして?」  公園の並木《なみき》の桜がいま満開《まんかい》で、ベンチの上にも花びらが吹きこぼれている。  郷子はベンチに腰《こし》を降ろした。  安子がしゃがんで、着物の上から、しずかに郷子《くにこ》の右の腓腸部《はいちょうぶ》をつかんだ。 「痛《いた》い?」 「そうね、一寸《ちょっと》痛《いた》い‥‥」 「そう、ここはどうなの?」  今度は膝蓋骨《しつがいこつ》の下を叩いてみた。安子《やすこ》は二度も三度も叩いていたが、郷子の脚はほんの一寸しかあがらない。 「少し、やっぱり、悪《わる》いようよ‥‥」 「そう、あなたが診てくれるンだから、私、その気《け》があるのかも知《し》れないわね。――いやァね、脚気《かっけ》だなンて‥‥」 「大丈夫よ、そのうちすぐよくなってよ。――オリザニン注射《ちゅうしゃ》なンかいいと思うンだけど、まァ、せいぜい、麦の御飯《ごはん》でも、召し上れ‥‥」 「冗談はさておいて、――私、ずっとこの様《よう》なありさまでしょう? 今日《きょう》、あなたから電話《でんわ》があってとても嬉《うれ》しかったの‥‥何《なん》でもいいわ。その池田さんてお宅へ紹介して頂戴!」  郷子は大野の事務所をやめて二週間ばかりになる。弟の敬太郎は、内海の紹介《しょうかい》で、武蔵野飛行機製作所の寄宿舎《きしゅくしゃ》に入っていた。小見山とは三保で別れたきり郷子はずっと逢わない。 「ねえ、郷子さん、――小間使兼《こまづかいけん》家庭教師《かていきょうし》のようなものなの‥‥そのお嬢さん、まだ小学生なのよ」 「いくつ?」  十一か二でしょう、とてもいい娘だわ、私、半年も派出《はしゅつ》してて、そこの奥様《おくさま》についてたんだもの、もうお亡くなりになったけれど‥‥」 「――じゃァ、甘《あま》えて、私、行《い》ってみるわ。いいかしら? 住込んでしまえばアパート代もいらないし、助かるわねえ‥‥」 「――大野《おおの》さんの奥様、三保《みほ》へいらっしたって、大分、よくなっていらっした?」 「ええ、とてもいいの、もう、こっちへ戻《もど》って来ていらっしゃるンじゃないかしら‥‥」  もや[#「もや」に傍点]のこめているような、茄子色の河の上を、ボートが二|艘《そう》、すいすいと河上の白鬚橋《しらひげばし》の方へ行っている。  郷子は、雪《ゆき》の降る日に、新《しん》一と、ここでボートに乗ったことを思い出した。 「安子さん‥‥私、ねえ、東京へ来た時、占《うらな》いに観てもらったのよ。そしたら、私《わたし》のことを病身だなンて云ったけど、ほんとに、あたったわ‥‥」  郷子はさやがた[#「さやがた」に傍点]の紫銘仙《むらさきめいせん》に更紗模様の帯を締《し》めていた。安子は灰色のワンピースを着ている。  二人は城東バスに乗って上野桜木町へ行った。花《はな》どきだったのでバスのなかは満員《まんいん》だった。  バスは千束《せんぞく》の通りを走って、入谷《いりや》を抜け、埃っぽい風のなかをぐんぐん走っている。 「東京《とうきょう》って、何処まで行っても街《まち》があるのねえ‥‥」 「広いでしょう? ――兎《と》に角《かく》、これから、たいへんよ、あなた‥‥」 「そうねえ‥‥」  郷子《くにこ》が、右の頬に何気ない人の視線《しせん》を感じたので、ふっと振りかえって四囲を見まわしていると、佐山の友人の岡部《おかべ》が、郷子の方をみてにこにこ笑《わら》っていた。 [#9字下げ]○  応接間《おうせつま》のピアノの上に、少女の写真が掛けてあった。 「ねえ、安子さん、あのお嬢《じょう》ちゃん?」 「そう、――可愛《かわい》い子供でしょう、奈津子さんって云うのよ」  二人が待っているところへ、賑やかな跫音がして、奈津子《なつこ》と、奈津子の祖母が這入《はい》って来た。安子は、この老夫人《ろうふじん》のことを御隠居様と云っている。  広い家ではなかったが、何となく品のいい構えで、狭《せま》い庭にはさるすべりの木や躑躅《つつじ》が植っている。 「奈津子さん、お淋《さび》しいでしょう?――御隠居様《ごいんきょさま》、その後お躯は如何でいらっしゃいますか?」  安子が奈津子《なつこ》を膝にしてたずねている。 「ええ、ありがとう、だいぶいいンだけど、まだねえ‥‥でも、陽気《ようき》がよくなったンでほっとしてますよ。――ところで、大野《おおの》の奥さん、もう、よくおなりになったかしら?」  奈津子の横顔《よこがお》をそっと眺めていた郷子《くにこ》は(おや?)とおもった。  安子は、はきはきした口調《くちょう》で、 「はァ、もう、こっちの方へおかえりになっている御様子《ごようす》ですけれど‥‥」 「あら、そうなの、それはよかったわねえ」 「この方、植村郷子《うえむらくにこ》さんて、私と女学校時代のお友達《ともだち》なンでございますのよ‥‥」 「このあいだのお話《はなし》の方でしょう? さァ、こんな、甘《あま》えン坊をみて下さるかしら?」  奈津子がくすりと笑った。膝小僧の出た短い空色の服が、栗色《くりいろ》の肌に似合って可愛《かわい》い。 「大野の奥さんと、三保《みほ》へ行っていらっしたンですって?」  郷子は大野を知っているらしい、老夫人のくちぶりに、けげんな表情《ひょうじょう》で、 「はァ、一|週間《しゅうかん》ばかり‥‥」 「そうですか、――まァ、この方だったら、長くいて貰《もら》えれば‥‥ねえ、奈津子《なつこ》さん、よろしくって、おじぎ[#「じぎ」に傍点]をなさらないの?」  奈津子はまたくすりと笑って、ぺこりとおじぎをした。郷子《くにこ》は、奈津子の笑った表情《ひょうじょう》から、誰かに似ているおもざしを感《かん》じた。  二三日してうかがいます、と云う約束をして、郷子と安子が戸外《こがい》へ出たのは、丁度《ちょうど》岡部《おかべ》と約束をした四|時半《じはん》きっかりだった。  寛永寺坂の花屋の前で、岡部が二人《ふたり》を待っているのが見えた。 「ねえ、安子さん‥‥」 「なァに?」 「なァにって、――あのおばあさん、大野《おおの》さんを知ってるンじゃないの?」 「えゝ‥‥」 「親類《しんるい》なの?」 「ううん‥‥」 「じゃァ、何よ? あの、奈津子さんて云うの、大野《おおの》さんに似てるわねえ‥‥」 「大野さんのお嬢《じょう》さんだもの‥‥」 「まァ! いやな、安子さん、――どうして、いままで黙ってたの?」 「だって、そんなこと、あなたが、気に入って住み込めば、報告《ほうこく》するし、自然《しぜん》にわかることじゃないの‥‥」 「だって、――大野《おおの》さんの奥さまには子供《こども》さんないじゃありませんか‥‥」 「ええ、そうよ、――大野《おおの》さんの奥《おく》さまにはないけど、ほかの女の方にあったの、たったこの間、肺が悪《わる》くて、その方、お亡くなりになったけど‥‥」  きいていて、郷子は足の裏《うら》が熱くなるような気持《きもち》だった。  岡部が向うで片手を挙げている。郷子は岡部にあうのが急に厭《いや》な気持《きもち》だったけれど、戦地での佐山の消息《しょうそく》もきいてみたかった。 [#9字下げ]○  ここは小さいミルクホール。岡部《おかべ》は椅子に腰《こし》をかけるなり、煙草を咥えて、 「小見山《こみやま》に逢いましたよ」  と云った。 「何時《いつ》ですの?」  郷子は、安子を紹介して腰をかけるなり、岡部《おかべ》が小見山の話を持ち出《だ》したのでどぎまぎしている。 「小見山も不都合《ふつごう》な奴は奴なンだが、悄気《しょげ》てはいましたよ。‥‥一度、貴女のおうちを訪ねたって云ってましたがね‥‥」 「まァ! 何時《いつ》でしょう? 私、ちっとも知りませんでしたわ‥‥」  三人の前にソーダ水が来た。安子はストローを捨《す》ててコップからソーダ水《すい》を飲んでいる。 「佐山《さやま》さんから、何か、おたよりございましたでしょうか?」 「いや、それが、――その、佐山の手紙も貴女《あなた》に見せたいンだ‥‥小見山の手紙《てがみ》を見たことについて、自分《じぶん》の気持を述べて来ていますがね‥‥」 「まァ! どんなことでしょう?」  岡部《おかべ》は、急に黙った。  安子は腕時計を見ていたが、ソーダ水をすっかり飲《の》み干《ほ》すと、 「あのウ‥‥私、一寸、時間《じかん》で行かなくちゃならない処《ところ》があるのよ、――おさきに失礼さして戴いていいかしら」  立ちあがって、安子は二人へ挨拶《あいさつ》をした。 「まだ、いいじゃありませんか、――どうです、御《ご》一|緒《しょ》に上野でも歩《ある》いてみませんか?」  岡部が、安子《やすこ》をとめている。郷子《くにこ》は、佐山の手紙のことが気にかかって黙っていた。 「ええ、でも、さっき、郷子さんと二人で隅田公園《すみだこうえん》を歩いて来ましたの、――いずれ、また‥」  安子《やすこ》はそう云って、郷子《くにこ》の肩を叩いて、またそのうち逢いましょうねとミルクホールを出て行った。  何処からかレコードがきこえて来る。 「なかなかしっかりしたひとですね‥‥」 「ええ、学校時代《がっこうじだい》から、――一寸、冷《つめた》いひとだったンですけど、その冷さが、あのひとをしっかり者にしてるのだとおもいますわ‥‥」  少時《しばらく》してから岡部は、 「佐山は、小見山と郷子さんの結婚を、まことに結構《けっこう》なことだと云って来《き》てるンですよ。勿論、小見山の手紙《てがみ》を見てからの、僕への所感《しょかん》なンですがね。――だから、小見山には、もう、結婚おめでとうの、佐山の手紙が着いてる頃でしょう‥‥、僕の所へ昨日《きのう》、来たンですからねえ、――さっきも、友人《ゆうじん》を尋ねましてねえ、勿論《もちろん》、小見山も、佐山も、僕とも共通の学校時代の友人なンですが‥‥佐山は、そりゃァ、養子は養子の身分《みぶん》だが、全然本人に許婚のひとを愛《あい》している気持はないし、許婚《いいなづけ》の方のひとも、また、僕達《ぼくたち》がみるところ、佐山に対して、あまり好意は持っていないようだし、――まァ、云わば、自然解消《しぜんかいしょう》のかたちで、佐山も一人住《ひとりずま》いしていたンですからねえ‥‥そいつは、仕方《しかた》ないさと云ってましたよ」 「小見山さん、怒っていらっしゃいましたでしょう?――色々お世話《せわ》になりっぱなしで、御挨拶もしないで飛《と》び出して来《き》たりしまして‥‥」 「いやァ、まァ、いいでしょう‥‥それもこれも人生《じんせい》ですからねえ‥‥」  郷子は躯《からだ》の悪いせいもあったが、今朝《けさ》、田舎の義母から来た手紙だの、岡部の話だので、何となく、心細くなって来て、死んでしまいたいような気持《きもち》になっていた。  郷子《くにこ》が上京する時に盗んだ父の金が、いまだに返済も出来《でき》ず、しかも、大津の大資本の商店には押されてしまって、昔《むかし》ながらの郷子の家は、もう、間もなく閉《し》めてしまわなければならないだろうと云うたよりである。埃をかぶった故郷《こきょう》の雑貨屋の前に、郷子の魂はふらふらと飛《と》んで行っていた。 [#9字下げ]○  郷子が部屋《へや》をかたづけていると、奈津子がそっと郷子を覗きに来《き》た。 「あら! おはいりになりません?」 「ええ」 「おばあさまは?」 「お部屋《へや》よ‥‥」 「あの、女中さんの名前《なまえ》は何て云うの?」 「お咲《さき》さん‥‥」 「奈津子さんはピアノ習《なら》っていらっしゃるの?」 「ええ、でも、むずかしく閉口《へいこう》しちゃうわ‥‥」 「まァ! あンなこと‥‥」 「お父《とう》さま、時々弾くのよ‥‥」 「お父さま、何時《いつ》、おかえりになるの?」 「時々《ときどき》、‥‥お父様、――植村さんを知《し》ってるンですってね?」 「ええ、何時《いつ》、おききになった?」 「ゆうべ‥‥」  何時か、大野夫人の誕生日《たんじょうび》のかえり、小見山と律子と三人歩きながらの対話《たいわ》に、律子が大野さんはだいぶお遊《あそ》びになるンですってねと小見山に尋《たず》ねていたことがある。小見山は、それに就いて弁解をしていたようだったけれど、郷子《くにこ》は、大野の生活の裏面をみて、男《おとこ》の心と云うものが、何となく底知《そこし》れなく怖ろしいものにも思われて来た。  大野はどんなにして自分《じぶん》に会うだろう‥‥安子が云《い》ったけれど、 「ねえ、平凡《へいぼん》に働けばいいのよ、私達は私達なのよ、清濁あわせのまなくちゃァ、都会では、生きてゆけないことよ」  郷子は奈津子《なつこ》の愛くるしい顔をじっとみつめながら、 「奈津子《なつこ》さんは、いくつ?」  と尋ねた。 「九ツ」 「そう、何が一等お好《す》き?」 「――お林檎《りんご》よ」  郷子は、奈津子の亡くなった若い母親《ははおや》のことをききたかったけれど、それは惨酷《ざんこく》でようたずねなかった。 「ねえ、植村《うえむら》さんだなンて云わないで、郷子さんて呼《よ》んで頂戴‥‥」 「だってエ‥‥」 「どうして?」 「大きいひとに――きまりが悪《わる》いわ」  郷子は急に奈津子が可愛《かわい》くなって、白い割烹着の上《うえ》から奈津子を抱きあげた。 「ああ重《おも》い、とッても重いわ‥‥」 「お母さま、死《し》ぬ時、奈津子を抱いたのよ、重《おも》くって、どうにもならないって‥‥」  郷子は、安子の云ったとおり、自分《じぶん》の仕事に忠実に働けばいいとおもった。  表庭の躑躅《つつじ》の赤い花が、造花のように咲《さ》きほうけている。  郷子の部屋は応接間《おうせつま》の隣の四畳半で西向きに古風な丸窓がある。佐山《さやま》に借りた火鉢も机も持って来た。 「ねえ、植村さん、こんど、動物園に行《ゆ》きましょうよ」 「ええ、行《ゆ》きましょう‥‥」 「浅草《あさくさ》もねえ‥‥」 「ええ行きましょう、――学校のお休《やす》みの日にねえ‥‥」  むしむしする日だった。郷子《くにこ》は押入へ火鉢をしまい、割烹着をぬいでいると、奈津子《なつこ》が急に玄関へ走《はし》って行った。 「お父様! お父様《とうさま》でしょう! お咲さん‥‥」  と女中を呼んでいる声《こえ》がしている。  郷子は動悸《どうき》がして仕方がなかった。 (どんな風に、御挨拶《ごあいさつ》していいかしら‥‥)  玄関の開《あ》く音がして、奈津子のはしゃいでいる声《こえ》がしている。郷子は濡手拭で顔を拭《ふ》いて、静かに廊下へ出《で》てみた。 [#9字下げ]○ 「戸田さんから、家庭教師《かていきょうし》に来てくれるひとを、貴女ではどうかと、持ち出された時《とき》は、一寸吃驚したンだけど――小見山との問題もあって、貴女《あなた》が素直に来て下さるかどうか、実《じつ》は、私は心配していたンですよ」 「はァ、――あの時《とき》は、何ですか、我ままなことばかり、いたしまして‥‥」 「いや、まァ、いいでしょう、――でも、小見山《こみやま》は非常に、貴女のことを考えていましてねえ、この間も二人で夕飯《ゆうめし》を食べたンですが、その時、郷子さんに、拒絶《きょぜつ》されるにしても、こんな、ぶっきらぼうな別れかたはしたくなかった、なンてさかんに云っていましたよ。――貴女《あなた》のことだけじゃないだろうが‥‥酒量《しゅりょう》も強くなって、困った状態《じょうたい》だと思っています‥‥」  奈津子はさっきから、腰《こし》をかけてみたり立ってみたりしてピアノを弾《ひ》いている。窓辺の大野の背中《せなか》にレースのカーテンが風にふわふわゆれていた。 「吃驚《びっくり》したでしょう、ここへ来てみて‥‥」 「はァ‥‥」 「どうです? 小見山《こみやま》の問題なンか、さらりとして戴いて、奈津子の面倒をみて戴《いただ》けますか?」  郷子は三保で何日かをともに暮《くら》していた大野夫人のことを思《おも》い出していた。お嬢さんけの抜けきらない、のびのびした夫人のことを考《かんが》えるにつけて、郷子は、もう、これきり夫人《ふじん》には堂々と逢えないような気《き》もしてならなかった。 「小見山にも、ここのことは、全然|知《し》らしてありませんし、――何《なん》とか、この子供の面倒をみてやって下《くだ》さい‥‥」 「ええ‥‥」 「貴女が三保から帰られた当時《とうじ》、小見山と私とで、貴女のアパートへお訪《たず》ねしたことがあったンですよ、ききましたか?」 「まァ! ちっとも知《し》りませんでしたわ。小見山さんがおいでになったことは、ひとからききましたけれど‥‥」 「何時《いっ》だったかな、雨の日、貴女を送って行《い》ったンで、覚えていたンですよ‥‥」  郷子もいま、丁度、その日《ひ》のことを思い出《だ》していた。 「奥《おく》さまは、私のことを怒っていらっしゃいますでしょう?」 「いや、別に怒《おこ》ってもいないが、がっかりしている様子ですね、――貴女《あなた》と云うひとは、女にも男にも好意《こうい》を持たれる、何かがあるンだなァ、家内《かない》は、いまだに、貴女の話をしているンですよ」 「ほんとに、いい奥《おく》さまですわ、――私は、随分、お世話になりまして‥‥何《なん》だか、そのまま帰って来たりして、済まない気持《きもち》でおります‥‥」  その済まなさの気持のなかには、偶然《ぐうぜん》とは云え、大野の蔭の生活のなかにいる、子供の、家庭教師になって来《き》てしまった自分の、あつかましさを反省《はんせい》してであった。 (だって、こんなこと、私《わたし》の知ったことじゃないもの‥‥)郷子は自分の心《こころ》に云いわけもしてみた。  奈津子が、ピアノの蓋《ふた》をぱたんと閉めて窓へ行《い》った。 「ああ涼《すず》しい」 「ねえ、奈津子、晩《ばん》は、おばあさんや、植村さんみんなで、何処《どこ》かへ、御飯を食べに行きましょうか?」 「御飯? だって、今日《きょう》、学校の先生、いまは非常時だって云《い》ったわよ、――でも、今日だけいいかしら‥‥」  大野は、にやにや笑《わら》っていたが、郷子は妙《みょう》に笑えなかった。 「ねえ、非常時《ひじょうじ》って、いいことなの、いけないことなの?」  奈津子が、卓子の煙草《たばこ》セットをいじりながら、二人に何気《なにげ》なく尋ねている。 [#9字下げ]○  天文台の裏門《うらもん》のところで、郷子たちが、バスを降りると、岡部が、小舎《こや》のようなバスの待合所のところで待《ま》っていた。 「ほんとに来《き》ましたね‥‥」 「ええ、お忙《いそ》がしいンじゃございません?」 「いや、いま、丁度、お昼《ひる》で、いいとこなンですよ」 「空気が綺麗《きれい》だし、木が多くて、せいせいしますね」 「田舎ですよ、このへんは、――そのお嬢《じょう》さんですか?」 「ええそう、奈津子さんておっしゃるの」  奈津子《なつこ》は麦藁帽子をあみだ[#「あみだ」に傍点]にかぶって、黄ろい洋服《ようふく》を着ていた。 「奈津子さん、疲《つか》れましたか?」 「いいえ‥‥」 「そう、疲れないンなら、その辺《へん》を、みなさんで、歩いてみましょうか、――金曜日《きんようび》だと、天文台のなかを観《み》せてくれるンですがね、それも紹介がなくちゃァ、中々|参観《さんかん》出来ないンで‥‥まァ、外からだけでも見て行《い》って下さい‥‥」  何時か小見山が云っていたけれど、岡部《おかべ》はダニエル彗星再発見とかで、近く、協力者《きょうりょくしゃ》のひととともに天文学会から表彰《ひょうしょう》されると、きいたことがあったが、如何《いか》にも、それにふさわしい人物だと、郷子は、岡部の後姿を眺めながらほほえましい気持《きもち》だった。 「あの青い塔が、アインシュタイン塔《とう》、――時々、僕はあの塔の上へ登って雀の巣を取《と》って来るンですよ」 「まァ! 雀の巣《す》?」 「雀が沢山《たくさん》いるのね‥‥」  奈津子も、久しぶりに雑木《ぞうき》の多い田舎の景色をみて愉《たの》しそうだった。 「ほら、かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]みたいなおうちがあるわ、郷子さん、あれ、なァに?」 「どれ?」 「ああ、あれは、子午環室《しごかんしつ》、時を調べるところですよ、子午儀だの、報時室《ほうじしつ》だのあるンですよ――こっちの、銀色の円屋根ね、あすこが六十五糎赤道儀室、一寸、お伽話《とぎばなし》のお家みたいでしょう?」 「自転車で、あのひとたち、何処《どこ》へ行くのかしら?」  奈津子が不思議《ふしぎ》そうに一々たずねている。 「ああ、あのひとたちは、官舎へ昼御飯を食べに帰《かえ》るンですよ、――何《なに》もありませんけど、僕の合宿へも来《き》て下さいね」  天文台の本館前で、岡部《おかべ》は、自分の自転車を引き出して来て、乗《の》りもしないで、郷子達の方へゆっくりついて来た。本館前の広《ひろ》いロオタリイのような処には、シュロの木や、躑躅《つつじ》や、青木が植《う》えこんであった。赤や白の躑躅がびっしり咲《さ》いていた。 「あら、あの、車《くるま》のついたおうちはなァに?」  奈津子が指差《ゆびさ》した方には、まるで独逸の田舎にでもあるような、床《ゆか》につむぎ車《くるま》のような、大きな車輪のついた小舎がレールの上へ乗《の》っかっていた。 「ああ、あれは、ここを通《とお》る子午線で時を計る処《ところ》なンですよ‥‥」  岡部は、片手《かたて》で自転車を持ち、片手でラケットを振る真似《まね》をしている。 「――手紙に、心苦しいお願いの用事《ようじ》なンてありましたが、何のことです?」 「ええ、あとで‥‥」  郷子は奈津子に気を兼《か》ねて一寸黙っていた。 「何でも、僕で出来ることなら、遠慮《えんりょ》なく云って下さい。――ほら、あすこに、女《おんな》のひとが行くでしょう?」 「ええ綺麗《きれい》な方《かた》ですね」 「あのひとは暦《こよみ》の計算をしているンですが、タイプも打つし、中々《なかなか》しっかりしたひとですよ。――僕はほんとうは、植村さんのようなひとは、こんな処《ところ》へ来て働いてくれるといいなと思ったンですけどねえ‥‥」 [#9字下げ]○ 「郷子さん、蝉《せみ》が鳴いているのね」 「蝉じゃないでしょう、地虫《じむし》か何かじゃないかしら‥‥」  岡部の部屋は二階で、窓に蒲団《ふとん》が干してあった。奈津子は額《ひたい》にびっしり汗《あせ》をかいていた。郷子が、ハンカチで奈津子《なつこ》の額を拭いてやっていると、岡部がサイダーとコップを持って二階へ上って来た。  粗末《そまつ》な書棚に、フランス本がぎっしりならべてある。机の上にはレコードも積み重《かさ》ねてあった。 「佐山はいま、常州《じょうしゅう》と云うところへ行っているようですね。この間、ハガキが来《き》たンですが、郷子さんの処《ところ》には来ませんか?」 「ええ、もう、長いこと来《き》ませんけど、私も、色々御相談をしたい事《こと》があるンですけどねえ、――戦地にいらっしゃる方に、くだらないことをお知《し》らせしてもと思いまして‥‥」  「でも、手紙《てがみ》はたびたび出してやって下さい‥‥」 「はァ、二三日前も、建築事務所《けんちくじむしょ》の方をやめたことだけはお知らせしましたけれど、――小見山さんには、私が家庭教師《かていきょうし》をしているなンて、おっしゃいませんでしょう?」 「云《い》うもンですか」 [#ここから1字下げ]  虞美人草《ぐびじんそう》を送ってくれて有難う、おもいがけない慰問品《いもんひん》に感謝、武蔵坊弁慶が、法科にいたと云う皮肉は、中々|愉快《ゆかい》なり。帝大の採鉱冶金でも出ていたら弁慶《べんけい》もいまごろは七ツ道具をさげて、工兵《こうへい》伍長位になっているかな。※[#「女+尾」、第3水準1-15-81]々《びび》としてつづく藤尾物語は、現在《げんざい》の自分には少々シゲキが強《つよ》すぎる。小見山と郷子君の問題、よくわかった。いまのところ、それに触《ふ》れたくなし。――この頃、僕も、だんだん天体《てんたい》を観るくせ[#「くせ」に傍点]がついた。星を見られるだけでもこの頃は愉しい。ダニエル彗星《すいせい》のその後の消息、報告《ほうこく》ありたし。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、こまかく書《か》かれた佐山のハガキを暫く、何度《なんど》も読みかえしていた。 「このハガキでみますと、佐山《さやま》さんには、私の気持は少しも通じていませんのね――一|度《ど》、私はくわしくお手紙《てがみ》をさしあげたンですのに‥‥」 「そうですか? ――何《なに》しろ、僕からの手紙だって何時《いつ》もくいちがいのありさまですからねえ‥‥でも、着《つ》いてはいるでしょう‥‥」  奈津子は、岡部に、サイダーを抜《ぬ》いて貰ってごくごく飲んでいる。 「私だって、色々《いろいろ》のことがあったンですもの‥‥貴方《あなた》へ、先日、お手紙書きましたように、変なめぐりあわせで、いまの職業《しょくぎょう》についたンですけど‥‥」  郷子は、鼠が猫《ねこ》に追いつめられたような現在ですと云って、岡部に、故郷《こきょう》の家庭の事情も打ちあけてしまった。 「いまの御主人《ごしゅじん》に云えば、それは何でもなく拝借願えるかも知《し》れませんけど、――私、何だか、それが厭《いや》なンですの、小見山さんには勿論ですし、――働《はたら》いて、いまにも故郷へ送れるつもりで出て来た私《わたし》が、今日まで、自分一人の生活がやっとなもンですから‥‥」 「建築事務所で、どの位|貰《もら》ってたンです?」 「ほんとに少《すこ》し、四拾円ほどですわ‥‥」  大野に対して、何度《なんど》か、借金を申し込んでみようと思《おも》ったと云う話もした。 「それに、弟がこちらへ参りましたりして、私、益々《ますます》つらい生活でしたの‥‥物価は段々|高《たか》くなってゆくばかりですし、――何度か、もっと低《ひく》いところへ落ちていって、お金の取れる仕事をと考《かんが》えてみないこともございませんでしたけど‥‥」  奈津子は窓に凭れて唱歌《しょうか》をうたっている。  岡部は泡の消えたサイダーをくちもとへ持《も》って行きながら、 「その位《くらい》のことだったら、何とか、僕が考《かんが》えてみましょう」  と小さい声《こえ》で云ってくれた。 [#9字下げ]○  久しく新宿《しんじゅく》の街をみないので、郷子は天文台の帰り、新宿駅へ降りて、奈津子《なつこ》と二人で、本屋の紀伊国屋までぶらぶら歩《ある》いて行った。 「何を買《か》うの?」 「本を買うのよ、待《ま》ってて下さいね‥‥」  郷子は何を買《か》いたいと云う目的もなかったけれど、日常、孤独で乾《かわ》いている気持を、読書によって慰《なぐさ》めてみたいとおもい、奈津子の手を握って、文庫《ぶんこ》の並んでいる書棚にじっと眼を晒していた。奈津子は小さい声《こえ》で、ドミニックとか、プチ・ショウズとか、読《よ》みやすい本の題字をひろって読《よ》んでいる。  郷子は、ふっと(女の一|生《しょう》)と云う題に眼《め》をすえていた。 (女《おんな》の一生、モーパッサン、――いったいどんなことが書いてあるのかしら)  郷子は、それを一|冊《さつ》買った。  岡部の部屋にも、佐山《さやま》の部屋にも、小見山の部屋にも様々な本が沢山《たくさん》あったものだったが――岡部はこの様《よう》な時代にあっては、ただ、自分の研究の、星の世界《せかい》を探究している時だけが、生甲斐を感《かん》じているんだと云って、いまは本を読むにも、音楽《おんがく》を聴くにも、何となく目標が失せてしまって、私の書斎《しょさい》は埃にまみれたままですよと云っていたのを、郷子《くにこ》は色々な本に眼をさらしてゆきながらおもい出《だ》している。 「一寸! 植村《うえむら》さんじゃありませんか?」  郷子が振りかえると同時《どうじ》だった、――大野夫人が黒いレースの肩掛《かたか》けを唇にあてて、ほんの、眼と鼻《はな》のところに、にこにこ笑ってつっ立っていた。 (まァ!)  郷子は心のなかで驚《おどろ》き呆れながら、おもわず奈津子の小さい手をぎゅっと握《にぎ》りしめた。 「しばらく‥‥どうしたの? あれっきり、かえってしまって――事務所《じむしょ》の方もやめちゃって、私とても心配《しんぱい》していたの‥‥小見山さん、大野《おおの》と、あなたのところにうかがったりしたのよ‥‥‥」  郷子は腋《わき》の下に汗《あせ》が出そうだった。  女店員が夫人の買物《かいもの》を持って来たので、郷子はほっと息をつきながら、奈津子《なつこ》の手を静かにはなした。 「いやな方《かた》ねえ‥‥黙って、やめちゃったりして、小見山《こみやま》さんからきいたンですけど、色々な御事情《ごじじょう》があったりしたンですってね? ――いま、何処にいらっしゃるの?」  夫人は、郷子を発見《はっけん》したよろこびで、如何にもわくわくしていると云った表情だった。 「もう買い物《もの》なすって?」 「はァ‥‥」 「じゃあ、出ましょう、お茶《ちゃ》でもいかが?」 「ええ、――また、この次《つぎ》に、一寸、急ぎますものですから‥‥」  夫人《ふじん》は奈津子をみていた。 「可愛《かわい》いお嬢さんね、――どなた?」  郷子は黙《だま》っていた。 (大野さんのお嬢さんだなンて、どうして云《い》えるだろう‥‥)  郷子は、何《なん》となく白けたおもいで固くなっていた、都会《とかい》で生活するには、清濁あわせのまなくちゃいけないと安子《やすこ》が云ったけれど、郷子はその清濁の濁の中に身をちぢめて生きている自分がおぞましく、一瞬の利己的《りこてき》な気持から、幼い奈津子の手を放した自分に、何《なん》とない矛盾を感じていた。 「今日はいいお天気《てんき》ねえ‥‥大野は、今日は、関西へ出掛けて行って留守《るす》なの、どう? いらっしゃらない?」 「はァ、でも、今日《きょう》は連れもありますし、いずれまた‥‥」 「そう、残念《ざんねん》だわ、じゃァ、郷子さんのいまいる処を書《か》いといて頂戴」  郷子はせっぱつまって、蒲田区《かまたく》仲六郷二丁目と、東京へ来て、まだ逢いに行かない、生母《はは》の住所を紙片《しへん》へ書いて、夫人へ渡した。 [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ] ―お手紙、二|通《つう》ともみました。務めておられるところをよされるそうですが、その後《ご》の生活はどうしてやってゆきますか。  小見山の問題も、貴女《あなた》が、気持がすすまなければ仕方もないことでしょう。戦時下《せんじか》にある内地の生活《せいかつ》は、女一人、しかも弟さんをかかえて生活は大変《たいへん》なことだとおもわれます。だが、しかし、もっと、沢山《たくさん》の犧牲を払っているひとたちの事も考えてみて下《くだ》さい。――僕は二通目の、貴女《あなた》の手紙にある、何時までも待っていて下さると云う御気持《おきもち》には、千万感謝しますが、僕は、戦場《せんじょう》へ来て、猛々しくなったと云うのか、一つの観念《かんねん》が生れたと云うのか、結婚も、恋愛感情《れんあいかんじょう》も、現在は、何等のおもいも胸にありません。戦場へ来《き》て、いまこそ青年らしい沃野を発見《はっけん》したかたちです。強靱《きょうじん》なものを、ひしひしと感じています。  幻滅をひけらかし、僕の精神的《せいしんてき》な不毛地の哀感を、貴女にも甘えて誘《さそ》いかけていましたが、もう、佐山新《さやましん》一は、路傍の男としてみて下さい。  四五日前に、僕達は、本部隊《ほんぶたい》と別れて鎮江へ来ました。近日、また、前進《ぜんしん》して行くことでしょうが、ここは落《お》ちついたいい町です。勿論、家と云う家はこわれていますが、楊柳《ようりゅう》は芽吹き時々僕達の宿舎の庭に、大《おお》きい蜂が沢山飛んで来ます。  兎に角、御精励《ごせいれい》御自重《ごじちょう》を祈ります。先日も、弟よりの通信によると、父が風邪《かぜ》で寝ているとありましたが、そんなことも、わずかな金《かね》を送金してやるのみで、ここからは何も出来《でき》ないのです。高齢《こうれい》ですから、病状も、僕の方へは軽く云って来《き》ているのではないかとうたぐってみたり、そんなことも考《かんが》えています。  貴女は貴女《あなた》の健全な道に生きて下さい。乱暴な言《い》いかたをしたかもしれませんが、僕のいまの気持《きもち》のなかには、大きな氷河のようなものが流《なが》れているのです。しびれそうに冷い流れです。死ぬるにしても、生《い》きるにしても、安心して、この流れに全霊を託《たく》せる気持です。――二三日前も、戦友《せんゆう》が一人病気でたおれました。たおれながらも、生気《せいき》をふつふつとほとばしらせているのを見て、僕は何かを噛《か》みしめて味いつくした感じです。  万人の詩人《しじん》がうたった恋愛の詩も、いまは雲のなかに消えた風《かぜ》のようなものです。こんな無慈悲なことを書く僕の気持《きもち》に驚かれるでしょうが、いまの、いつわりのない、僕《ぼく》の気持をここに書《か》いたのです。お許し下さい。 [#ここで字下げ終わり]  廻送《かいそう》されて来た新一の手紙を、郷子は泣きながら読《よ》んでいた。  奈津子は学校《がっこう》へ行っていなかったし、御隠居様は練馬の広徳寺《こうとくじ》に女中づれで墓参りに出掛けて行って、郷子はたった一人|留守番《るすばん》をしていた。 (あなたは、私《わたし》のコンパクトを肌身につけていると云って下すって、いまはこんな冷《つめた》いことをおっしゃったりして‥‥)  何時も食《く》い違《ちが》いのように行き交いしている二人の手紙を、郷子は運命的《うんめいてき》なものに考えている。  新《しん》一の父が病気だと云うことも気がかりであった。沢山《たくさん》の犧牲をはらっているひとの事も考えてみて下さいと云《い》う、きびしいところを読みかえしてみながら、郷子《くにこ》は、自分が、何の努力もしないで、のうのう[#「のうのう」に傍点]としている風にも反省《はんせい》されるのだった。  田舎を出る時《とき》の、あのぎりぎりした気持が都会の生活のなかでは、少《すこ》しずつぼやけて来ているのに気《き》がつく。郷子は急に蒲田にいると云う生母に逢《あ》いたくて仕方がなかった。 [#9字下げ]○  律子《りつこ》が、ゴムの長靴をはいて、路地口から出て来た。 「あら、いらっしゃい、どうしたのよ? 急《きゅう》に手紙くれたりして吃驚したわ‥‥でも、よく来たわねえ」 「ううん、何《なん》だか、とても逢いたくて?――お友達さそって来《き》たの、いいかしら?」 「どなた?」 「大橋一枝《おおはしかずえ》さんて、アメリカで生れた方なの、――お嫂《ねえ》さんが、この間|新京《しんきょう》へいらっして、いま独《ひと》りぽっちなのよ‥‥」 「可愛い方《かた》じゃないの、――なまぐさいところだけど、よかったら、御遠慮《ごえんりょ》なく、どうぞ‥‥」  一枝は、魚の並べてある店先《みせさき》に立って、面白そうに眺めている。夕飯時《ゆうはんどき》で。店先では四五|人《にん》の女客が、それぞれ魚を註文《ちゅうもん》していた。 「今日は土曜日だものだから、早く帰《かえ》って来たのよ、――私ねえ、毎週一回|支那語《しなご》をやってるの‥‥」  律子が梯子段《はしごだん》を上りながら云った。  二階は三|部屋《へや》ばかりあるらしかったが、律子の部屋《へや》は三畳で、ベッドや、机や、藤椅子が几帳面《きちょうめん》に置いてある。 「魚屋さんの二|階《かい》ともおもえないわね‥‥」  本箱の上には山のエハガキが、二三|枚《まい》、鋲でとめてあった。 「支那語をやってるンですって? 支那《しな》へでも行くの?」 「行くンじゃないけど、習《なら》っておきたいのよ、きっと役に立つ時があると思《おも》うわ、――だって、勤めから帰《かえ》って、ぽかんとしてるのも厭だし、丁度《ちょうど》いい先生があったものだから‥‥」 「いいわねえ、私も、何か勉強《べんきょう》したいわ‥‥」  一枝《かずえ》が、支那語ってむずかしいでしょうと律子に訊《き》いている。 「いま、天文だの地理《ちり》だの習っているンだけど、発音より文字《もじ》の方が、とても覚えやすいのよ、――こんな山脈のことを、山脈《シアンモー》、お月様のことを、月亮《ユエリアン》、きれい[#「きれい」に傍点]だって云うのは、好看的《ハオカンデ》、ね、とても面白《おもしろ》いのよ‥‥」 「羨《うらや》ましいわ、いいのねえ、貴女は元気《げんき》があって、――何だか、じっ[#「じっ」に傍点]としていられない方ね、――私も、何《なに》かやらなくちゃいけないッて思うんだけど、その何《なに》かがわからないのよ‥‥どうすればいいンだろう?」  律子《りつこ》は小さい硝子戸のはまった本箱から、円《まる》いチョコレートの箱を出して、藤の卓子へ置いた。 「一《イー》、二《アル》、三《サン》、四《スウ》、五《ウー》、六《リュウ》、七《チー》、七ツあるわ、どうぞ召しあがって頂戴」 「驚《おどろ》いたひとねえ‥‥」  郷子が目《め》をまるくしている。  一枝は笑いながら、遠慮《えんりょ》なくチョコレートに手を出した。  積極的《せっきょくてき》に、何をかやろうとしている律子の弾んだ表情《ひょうじょう》に、郷子は強く動かされる気持だった。 「大橋さんは、二三|日《にち》うちに、デパートにお務《つと》めになるのよ」 「まァ、いいわねえ、――外人《がいじん》の方の係りか何かですの?」 「さァ、まだわかりませんけど、試験《しけん》だけ受けてみましたわ‥‥」  やがて律子は紅茶《こうちや》を淹れて来ると、おもい出したように、 「ねえ、小見山《こみやま》さんのこと、知っていらっしゃる?」 「いいえ?」 「近いうちに大阪《おおさか》へいらっしゃるンだって、みんなで送別会をしようと云《い》ってるンだけど、――とても、何だかおかわりになったわ‥‥植村《うえむら》さんのせいだって誰かが云っててよ‥‥」 「まあ! あんなこと‥‥」 「ほんとよ、――何《なん》だか、すさまじい勢で働いていらっしゃるわ、大阪に新《あたら》しく事務所が出来るンですってね‥‥」 [#9字下げ]○  六月にはいって佐山達《さやまたち》の部隊は、蕪湖の近くの大橋と云《い》うところへ行っていた。  江南《こうなん》鉄道の修理と守備を兼ねて、この部落に駐在していたが、ここへ来《き》て二日目の夜中に、佐山達は敗残兵《はいざんへい》の夜襲に遭《あ》った。  海南線の横林《おうりん》や、呂城にいた時も、度々匪賊や敗残兵の襲撃に出遭《であ》っていたので、佐山はあまり驚きはしなかった。杉本《すぎもと》一|等兵《とうへい》が、 「夜襲《やしゅう》ぞオ!」  と小さい叫び声《ごえ》を挙げている。土間の兵隊達は、昨日《きのう》は鉄橋修理で大分疲れていたので、杉本の「夜襲ぞオ!」の声では中々眼が覚《さ》めなかったが、間もなく歩哨が走って来た。小銃《しょうじゅう》の音がヒュウヒュウと屋根《やね》をかすめている。 「おい兵頭《ひょうどう》! だいぶ近いぞ‥‥」 「うん、竹林の向うからやって来《き》たらしいぜ」  誰《たれ》かが曳火手榴弾が埋めてあるから気をつけろと叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]している。戸外は、昼間《ひるま》と違って涼しかったが、それでも、風はなまぬるい熱気《ねっき》を持っていた。  暗い竹林《ちくりん》の向うに発火信号のような、あるかなきかの青い火が弾けていた。部落《ぶらく》の屋根の上には小さい星が三ツ四ツ光《ひか》っている。  暗《くら》がりのなかで、敵は百四五十もおるらしいぞと云う声《こえ》もきこえて来る。池のそばの樹に繋いである、馬のいななく声《こえ》も、妙に不吉な声だった。  二、三日前から下痢をしていた佐山は、杉本《すぎもと》を入れた班の兵と共に、装備《そうび》もがっしりと小隊長につづいて、百七八十|米《メートル》もある竹林の方へ進んで行った。 「何《なん》だ、もう、支那兵は逃げ出しているじゃないか」  佐山が、古いこわれた堡壘のところまで来《く》ると、竹林のなかで、わずかな鉄道守備隊《てつどうしゅびたい》のものすごい追撃《ついげき》が始っていた。堡壘を越えて佐山達も勢よく進《すす》んで行ったが、堡壘を越えて五六米も進むと佐山は石塊のようなもので、厭《いや》と云うほど、左肩を殴られたような強い衝撃《しょうげき》を受けた。麦畑《むぎばたけ》の中へがくっとたおれながら、佐山は、自分だけ、木の枝《えだ》にでも突きあたったのかと思った。  躯を何度かおこしてみたが、左《ひだり》の肩《かた》に、何か重いものがぶらさがっている感《かん》じだ。しばらくすると、首筋《くびすじ》や背中に、針金でも突き刺されたような激《はげ》しいうづき[#「うづき」に傍点]がした。佐山は、寝転びながら、右手で左の肩をおさえてみた。軍服《ぐんぷく》の肩は乾いていて、肩章が手に触《ふ》れるだけである。  無理に左手《ひだりて》を挙げようとすると、牛か馬に踏みつけられてでもいるかのように、左《ひだり》の手《て》はびくともしないのだった。  ヒュウヒュウと、暗い空を小銃《しょうじゅう》の弾が飛んでいる。 「おい! 誰《だれ》だ? どうした?」  佐山の唸り声をききつけて、佐山《さやま》の班の兵隊が二人、佐山のそばへ這《は》うように走って来た。  佐山はすぐ、二人《ふたり》の兵隊に小舎の中へ運びこまれたが、もう、捕虜がつかまったのか、遠くで、哀願するような支那語の声《こえ》もきこえていた。 「創は左肩《さけん》だが、どうなっている?」  佐山が班の兵隊に尋《たず》ねた。  杉本一|等兵《とうへい》が小銃をかかえるようにして小舎へ飛《と》びこんで来たが、佐山の声をきくと、 「佐山伍長殿、何処《どこ》におられますかッ!」  と呼《よ》んでいる。  服の上から、兵隊に、しっかり手拭《てぬぐい》でしばって貰っていた佐山は、咽喉《のど》に焼けつくような渇きをおぼえ、右手《みぎて》で腰の水筒を探していた。  左の腋下に湯のようなものが、じくじく浸《し》みわたって来ている。 「水《みず》はないか?」  佐山には返事もしないで、杉本《すぎもと》は黙って土間に膝《ひざ》をついていた。  仄々《ほのぼの》と夜がしらみかけて、池のまわりの樹の梢《こずえ》が、さやさや葉ずれの音《おと》をたてている。 [#9字下げ]○  兵頭が、佐山の枕もとで佐山《さやま》の病床日誌をよんでいる。 「――左肩胛部ノ貫通銃創《かんつうじゅうそう》ニシテ、射入口左肩胛骨背面、小指頭大《しょうしとうだい》、射出口左上膊上部ニアリ、大キサ鳩卵大ニシテ、消息スルニ四糎|進入《しんにゅう》ス、創面漿液ノ分泌アリ、か――たいへんだなァ、どうだ? だいぶいいか?」  衛生隊《えいせいたい》にうつって今日で三日目である。以前、この家は薬屋《くすりや》か何かであったらしく、ぷんと薬臭い匂いがする。 「顔色《かおいろ》はだいぶいいな‥‥」 「そうかねえ、ずーと下痢《げり》をしていたンで、弱っていたンだ、――まァ、すべて、没法子《メイファーズ》だよ。(仕方《しかた》がない)こんな創は軽いうちだろう‥‥」  蠅がうるさく飛びまわって、まるで炭《すみ》の粉《こな》を撒いたようだ。 「明日《あす》、南京へ戻るンだが、――徐州が陥ち、蘭封が陥ちたので、津浦線《しんぽせん》の方へ廻るンじゃないかと考えるンだがねえ‥‥」 「うん、南京に戻るンなら、そうかも知《し》れンなァ‥‥厭だなァ、こんな処《ところ》へ残るなンて‥‥」 「まァ、仕方《しかた》がないさ、今野上等兵は手榴弾で、両脚《りょうあし》やられたンだからねえ‥‥」 「ふうん‥‥」  衛生兵がガーゼ挿入に廻《まわ》って来てくれた。ぼろぼろの生綿を敷いた寝台に、佐山《さやま》は右肩を下にして横《よこ》たわっていた。泥や汗の臭いでむっとしそうだった。蠅《はえ》はうるさくそのへんを飛びまわっている。  衛生兵も泥だらけの服を着《き》ていた。  パンクロームを塗布《とふ》して、繃帯を巻いて貰うと、佐山《さやま》はすこしばかり軽やかな気持になって、兵頭に煙草をつけて貰った。 「ルビークインか、何処から手に入れた?」 「うん、今朝がた、衛生兵のひとから貰《もら》ったンだよ‥‥」  佐山《さやま》は一息吸いこむと、頭の芯《しん》に煙が浸《し》みわたる様に美味《うま》かった。 「おい、この病床日記《びょうしょうにっき》の、留守担当者って云うのは、何だい」 「俺《おれ》の身柄引受人さ」 「そうか、じゃァ、この佐山義蔵と云うのは親父《おやじ》さんだね」 「うん、君のように、辰歳《たつどし》の女房なンか持っとらんよ‥‥」 「莫迦《ばか》ッ‥‥」 「おいおい、その病床日誌は、中々|大切《たいせつ》なンだぞ、雑嚢へしまっておいてくれよ、あとで取《と》りに来《こ》られるンだから‥‥」 「あ、そうか、――ところで罐詰《かんづめ》ぐらいのもンだが、三ツ四ツ持って来《き》たから置いて行くよ、杉本もあとで小隊長《しょうたいちょう》と見舞に来るような話だった。――今野《いまの》はあのぶんだと脚を切断しなくちゃならないだろうねえ‥‥」 「そうかねえ、大分弱っている様子《ようす》かい?」 「いや、中々《なかなか》元気《げんき》のいい奴だから弱っちゃいないが、時々《ときどき》、脚が重い重いと云っとったぜ‥‥」 「ふうん‥‥」 「佐山の創《きず》なンか軽い方さ‥‥」 「そうだねえ、だが、まァ、なるべく、手《て》なンか切断したくないからねえ、――自分《じぶん》じゃァ、明日にでも君達《きみたち》と一緒に行ける気持なンだぜ‥‥」 「夕陽がじりじり中庭に照《て》りつけている。蝉も鳴きたてている。 「罐詰《かんづめ》は何だ?――パイナップルはないか?」 「パイナップルか‥‥そんなものはないよ、鰯《いわし》ばっかりだ‥‥」 「そうか、――内地《ないち》へ帰れたら、清麗な山水《やまみず》を一|升位《しょうぐらい》飲みたいモンだなァ‥‥」 「おい、水筒《すいとう》の茶じゃァどうだ?」  佐山は顔を挙げて兵頭から水筒《すいとう》の茶を少しずつ飲ませて貰った。ぬるくて泥くさかったが、舌に浸《し》わたる美味《うま》さだった。 [#9字下げ]○  小見山《こみやま》が、いよいよ、明日は大阪へ発つと云う日、岡部は小見山を誘って、麻布の興都庵《おきつあん》で小見山の送別会《そうべつかい》をしてやった。  たった二人きりの気兼のない会食《かいしょく》だったせいか、二三本の酒に、二人はいい気持《きもち》に酔っぱらっていた。  今年は長い梅雨《ばいう》つづきで、今夜もべとべとしたような雨《あめ》が降っている。 「うん、まァ、何《なん》でもないとは云《い》いきれないね‥‥だがねえ、人が与えなければ、吾々《われわれ》はこれを取《と》るのだ、曰く、最上の栄養、至純な大気、そして最《もっと》も力強い思想、最も美しい女達‥‥ニイチェの言葉をかりて来《く》るまでもなく、僕達青年はだねえ、このぐらいの気がまえは持《も》っていいだろう?」 「ふう――ん、中々結構な事さ、だが、これからまだ、距離《きょり》のあることだよ‥‥」 「ところで、東京《とうきょう》を去るにあたってだ、何も云《い》うことなしさ‥‥」 「何でも云うことがあったら云《い》って行けよ‥‥近々、僕も、召集令状《しょうしゅうれいじょう》が来るかもわからないンだぜ‥‥」 「へえ――、そうか、――ところで、佐山《さやま》も、もう、だいぶになるなァ‥‥このごろ、ずっと音信《たより》はあるのかい?」 「いや、この頃《ごろ》来《こ》ない‥‥」 「佐山も戦争へ行って、人間《にんげん》がだいぶ変ったねえ、郷子君の問題《もんだい》について、いい手紙をくれたよ」  皎々と明《あか》るい電灯の笠に、固い羽音をさせて虫《むし》が飛んで来ている。 「どうだ、これから、僕《ぼく》につきあわないか?」 「二|次会《じかい》か?」 「いや、親類の家へ寄《よ》るンだがねえ‥‥」 「何だ‥‥そんなのはつまらんよ、今日《きょう》は僕が送別会をしているンだから、まァ、ゆっくり肚をすえて飲《の》んだらいいだろう、――この頃は、何時何時《いつなんどき》、召集《しょうしゅう》が来ないともかぎらないからねえ、まァ、ゆっくり、ここで話《はな》した方がいい‥‥」 「うん、そうか、それもそうだ‥‥」  小見山はワイシャツ姿になって、団扇《うちわ》をつかっている。 「君はいいさ、大阪へ行ったって、家《うち》は近いし、――聞くところによると、資本《しほん》も大半は家から出して貰《もら》うンだと云うじゃァないか‥‥それに、この戦時下《せんじか》に、大阪は大した景気だと云うし、建築家もまんざら[#「まんざら」に傍点]じゃないねえ‥‥」 「そんなことはないよ、まァ、これは好《す》きな道で、独立して、建築屋で十|分《ぶん》食《た》べてゆけるかどうか、道楽《どうらく》にやるようなものさ‥‥」 「何でもいいよ、まァ、勇《いさ》ましくやってくれ‥‥」 「――植村郷子の消息をこの間きいたンだが、――一|度《ど》、逢《あ》いたいねえ‥‥」 「ふうーん、まだ恋々《れんれん》としているのかい」 「うん、してるよ、――僕の知人の細君が、新宿《しんじゅく》で逢ったと云うンだ‥‥」 「まァあきらめた方《ほう》がいいだろう‥‥郷子さんは、佐山を思《おも》っているンじゃないかねえ‥‥」 「僕《ぼく》は、全く、恋々としているようだけれどもだ、あのひとを見ていると力が出て来《く》るンだ。――三保へ行った時、僕は彼女《かのじょ》に時計を買って行ったンだがね、始《はじ》めはちゃんと受取ってくれたンだぜ‥‥」 「そりゃァ、仕方《しかた》なく頂戴したのさ‥‥」 「僕の自惚れかな、――郷子君が佐山を熱愛《ねつあい》し、僕が彼女を熱愛しているとした場合《ばあい》、これはいったいどうすればいいンだ?」  岡部《おかべ》は柱へ背を凭れさして脚を卓子の下へのばした。簾《すだれ》の向うの庭木へ、雨が光って降っている。  岡部はそそられるような雨《あめ》の音をきき、自分もまた、郷子《くにこ》への愛慕の気持をどうすることも出来《でき》なかった。 [#9字下げ]○ 「私、つくづく、男の方《かた》って、怖いと思いますわ‥‥」 「私《わたし》を、みてでしょう?」 「ええ‥‥」 「――私は、始めから、こんな風になろうとは思《おも》っちゃいませんよ。始め、奈津子が出来《でき》た当時は何も彼も家内《かない》に云ってしまうつもりでいたンですが、奈津子の母親が、どうしても厭だと非常に隠して、いたがってたのです」 「奈津子様のお母様は、奥様とはお知《し》り合《あ》いだったンですか?」 「いや、ぜんぜん知《し》りません。――貧しい家庭の娘で事務員《じむいん》をしていたンですよ。肺が悪くて亡《な》くなったンですがねえ‥‥」 「とても、お好《す》きだったンでしょう?」 「そりゃァ、まァ、愛していたからこそ、九|年間《ねんかん》も、お互に苦しんで来《き》たのですよ」 「奥様へのお気持《きもち》はどうなンですの?」 「家内ですか? これはもう、自分《じぶん》の肉親のような気持ですね、――一|種《しゅ》の空気のような、何か、安心したものを持《も》っています‥‥」 「まァ、――何だか、怖いお話《はなし》ですわねえ‥‥」  朝鮮簾《ちょうせんすだれ》を吊した縁側で、郷子は、弟への小包《こづつみ》をつくりながら、寝転んでいる大野と話をしている。 「奥様は、一度も、この御生活《ごせいかつ》、ごぞんじないのでしょうか?」 「知《し》っていますよ?」 「えッ?」 「だけど、ここにいると云うことは知《し》ってはいないでしょう‥‥でも、僕《ぼく》に女のいると云うことは知《し》っているようですね」 「奈津子さんの事もですか?」 「子供のことは知《し》らないでしょう。――気の毒なほど、私《わたし》を信頼しているンですからね、全く、いいひとなンだ‥‥」 「どうして、そんないい方を、淋《さび》しがらしたり、お苦しめになるンです?」 「男《おとこ》と云うものはねえ、得手勝手な奴なンだ。安全《あんぜん》な妻があればあるほど、何か、他所を摸索している‥‥」 「おおいやだ、じゃァ、安心《あんしん》して、男の方って愛してゆけませんのね‥‥」 「好《す》きなひとがあるの?」 「まァ‥‥好きなひとってありませんわ‥‥」 「私はどうも、郷子さんにお説教出来るような人間《にんげん》でなくなっているので、何も云《い》えないが、――結婚《けっこん》は、そんなに急がなくてもいいなァ‥‥」 「ええ、そりゃァ、私もそう思《おも》いますの、ほんとに、誠実《せいじつ》なひとがみつかるまでは‥‥」 「誠実《せいじつ》か‥‥なるほどねえ‥‥」  茶の間では御隠居様が、三味線《しゃみせん》をぽつりぽつり弾いている。――晨鐘の響《ひび》きは、生滅めつい[#「めつい」に傍点]、入相は、寂滅為楽《じゃくめついらく》と響くなり、聞いて驚く人もなし、我《われ》も後生の雲晴れて、真如の月を眺め明さん‥‥大野は唄の節をついてゆきながら時々《ときどき》ううと唸っている。 「陰気な歌ですね、御隠居様《ごいんきょさま》、お淋しいんですよ‥‥」 「淋《さび》しいンだろうな、だが、あれは娘道成寺で中々賑やかな唄《うた》なンですよ‥‥」 「ねえ、そこの柱の処に、奥様《おくさま》が坐っていらっしゃいますよ」 「えッ?」  大野がぎくっと頭《あたま》を持ちあげた。狭い庭の上に細《ほそ》い月がのぞいている。  郷子が、奥様の敵打《かたきう》ちですよと笑《わら》い出した。 「こいつッ!」  大野《おおの》はむっくり起きあがると、郷子の膝に這《は》いよって行き、郷子の白いまえだれ[#「まえだれ」に傍点]の膝に、子供のように頭をくっつけて行《い》った。 「あら、厭《いや》! 厭ですわ‥‥」  郷子は、小包の細紐を切っていた鋏《はさみ》で、大野の肩を強く押した。力《ちから》かぎり押しながら、郷子は大野《おおの》の、淋しそうな背中を呆れて眺めている。 [#9字下げ]○  郷子は鋏を握ったまま縁側《えんがわ》へ出ていた。 「――もう、何もしやしません、こっちへいらっしゃい‥‥あなたが、おどかすもンだから、私も子供《こども》っぽく甘えたりしたンです‥‥」  郷子は黙って、暗い庭をみていた。大野《おおの》は座敷の真中に胡坐《あぐら》を組んで、小包《こづつみ》をかがった細紐をたぐりよせていた。 「まさか、このまま、また、出て行くンじゃないでしょうね?――何《なん》とかもの[#「もの」に傍点]を云って下さい」  大野《おおの》が立ちあがると、郷子は急に跣足《はだし》のまま庭へ飛《と》び降りた。 「どうしたンです? 何《なに》もしやしませンよ‥‥まだ怒ってるンですか?」 「厭《いや》なンですもの‥‥」 「何が?」  郷子は跣足のまま縁側へそっと腰をかけた。大野《おおの》は白いカヴァのかかった座|蒲《ぶ》団を郷子《くにこ》の処へ持って行《ゆ》きながら、 「お上ンなさい、――もう、何《なに》も云いませんよ、拝むから、奈津子の面倒《めんどう》をみてやって下さい‥‥」 「私、黙《だま》っていましたけど、もう、せん、新宿で奥様《おくさま》におめにかかりましてね、とても、何だか気がとがめてて、ほんとうは毎日々々《まいにちまいにち》おひま[#「おひま」に傍点]を戴きたいと思《おも》っていましたの‥‥」 「あなたに逢《あ》ったって事は、家内からききましたよ。気《き》がとがめるなんて厭だなァ‥‥」 「だって、何だか、私、困《こま》るンですもの‥‥」  「――男には、私のようなのばかりはいないかも知《し》れないけど、こんな得手勝手な男の世界《せかい》もあるンです‥‥子供《こども》さえなかったら、私はべんべんとこんな二重な生活《せいかつ》はしていなかったと思うンですよ、子供は、私にとって絶対《ぜったい》なものだったし、本当を云えば、家内も、亡くなった女《おんな》も、子供にくらべたら、全《まった》く、はかないつながり[#「つながり」に傍点]なンですからね。――一|応《おう》は、奈津子のことも、そのうち、家内《かない》の耳に入れなければならないでしょうが、弱《よわ》いと云うのか、見得坊なのか、一日のばしにしていて、それが出来《でき》ないのです。――私がこのまま亡くなるようなことでもあれば奈津子が可哀想《かあいそう》だと思わぬでもないのですが、どうしても、まだ、家内に云う気《き》になれない‥‥」  郷子は、さっき、大野に膝に這《は》いよられた時《とき》の、あの、不思議なおもいにおののきを感じていた。一瞬の感情《かんじょう》ではあったが、何か、花粉を撒き散らすような、肉体的《にくたいてき》な苦しみが、薄い皮膚の下に、火の魂のように駈《か》けめぐっていたのだ。 (私のこの気持《きもち》は、いったい、どうしたのだろう‥‥)  鋏を縁側に置いて、郷子は立《た》ちあがった。 「何処《どこ》へ行くンです?」 「お台所《だいどころ》へ廻って、足を洗って来ますの‥‥」 「雑巾なら、持って来てあげますよ‥‥莫迦《ばか》なひとだなァ‥‥」  大野が、台所から、雑巾《ぞうきん》をつまんで持って来てくれた。 「当分《とうぶん》いてくれますね?」   大野が、敷居の処へ立って、小《ちい》さい声で云った。郷子は雑巾で足を拭《ふ》きながら、 「夏休《なつやす》みまでで、私、ほんとに、おひま[#「おひま」に傍点]戴《いただ》きたいンですもの‥‥」 「じゃァ、奈津子を、渋谷《しぶや》の家へ引きとったら、あなた、来《き》てくれますか?」 「だって、その時は、奥さまの方で、私《わたし》なンか御めんだとおっしゃいますでしょう?」  郷子は、何《なん》と云うこともなく、岡部に逢いたい気持でいた。何《なに》もかもぶちまけてこの苦しみを聞いてもらいたいような切《せつ》なさが、胸の中を、東西南北に駈けめぐっているのだ。異性《いせい》を知らない「肉体《にくたい》」の苦しみが、溢れるような感傷の流《なが》れになって、遠い山脈へ向って、山彦のように呼びあっている。 [#9字下げ]○  四五日して、郷子はひとまず一枝《かずえ》のアパートへ落ちついた。  狭い一枝《かずえ》のベッドに、郷子はクッションを枕がわりにして、寝《ね》ている。 「私、つくづく疲れちゃった‥‥東京《とうきょう》は、私にとって、何でもなかったわ‥‥」 「ねえ戦争《せんそう》って、何時までつづくンでしょうねえ?」  一枝が寝返りを打って、郷子《くにこ》の胸の上に手を置いた。 「厭《いや》よ!」 「重い?」 「ううん、重《おも》かないけど‥‥」  切《せつ》ないものがこみあげて来て、郷子《くにこ》は急に一枝のあらわな胸の上へ頭を埋《うず》めていった。 「私《わたし》を殴《なぐ》ってよ! 私の頭をうんと殴って頂戴!」 「まァ! どうしたの、郷子《くにこ》さん‥‥急に泣いたりなンかして」 「泣《な》いてなンかいないわ‥‥」 「ねえ、私、嘉兵衛さんと結婚しようかと思《おも》うの? いけないかしら? こんな生活《せいかつ》していたって、私ちっとも落《お》ちつかないンだもの、――女って、結婚《けっこん》のことを考えるようになると、何もかも成長《せいちょう》が止ってしまうのね。女って、結婚《けっこん》するまでが、せいいっぱいな処なのね」 「勝手に結婚なさい‥‥」 「どうしたのよ? そんなに怒《おこ》って‥‥」 「何《なん》でもいいのよ、その電気消して頂戴、暑っくるしくって寝《ね》られないじゃないの‥‥」  灯火《あかり》が消えると、郷子は、机《つくえ》の上《うえ》の蚊取線香の火をじっと眺めていた。  佐山が凱旋《がいせん》して来て、二人がささやかな結婚の式を挙げる‥‥そんな空想《くうそう》が愉しく浮んで来る。 「どうして、そっち向くの? 色《いろ》んな事を話したいわ、――ねえ、郷子さん、あなたの考《かんが》えてる事《こと》をみんな話して頂戴よ‥‥」 「私の考えてる事《こと》って、明日、お母さんに逢いに行こうかと考《かんが》えてるだけよ‥‥」 「嘘云ってるわ‥‥アメリカにいた頃《ころ》の友達って、どんな秘密だって話しあったわ。若《わか》い女が、苦しみを一人《ひとり》で苦しむなんて莫迦々々しいじゃないの‥‥何を考《かんが》えてるの?」  「明日、どっかへ泥棒にはいろうかと思《おも》ってるの‥‥」  一枝が急《きゅう》にあはあは笑い出した。 「ねえ、一枝さん、何《なん》だか、とても胸苦しいンだけど、どうしたンでしょう?」  一枝はベッドの上に腹這いになって、甘い声《こえ》で鼻唄をうたっていたが、思《おも》い出《だ》したように肘をついて、 「オレンジとアイス・ウォターの飲《の》めるアメリカのママの処《ところ》へ帰りたいわ」  と云《い》った。 「ねえ、明日、天文台へ連れてってあげましょうか?――私《わたし》の、とてもいいお友達《ともだち》のところ‥‥」 「ふうん、いいわねえ、連《つ》れて行って頂戴、どんな処だっておともして行《ゆ》くわ‥‥」 「そのひとはねえ、私にお金を貸してくれたのよ、――泥棒《どろぼう》なンかしないでもいいって云ってくれたの‥‥」 「ふうん、金持《かねもち》なのね」 「お金持じゃないわ、――天文学者なのよ、一|生《しょう》、星をみて暮しているひとなの‥‥」 「わあッ、そんなのつまらないわ‥‥空《そら》を見て暮してる男なンて、興味《きょうみ》ないじゃないの、私は闘争心の強《つよ》い男《おとこ》でなくちゃ厭だわ‥‥」  郷子は、大野の顔を想い浮べていた。その顔《かお》が、大きく拡がると、新一の顔になり、敬太郎《けいたろう》の顔になり、可愛《かわい》い奈津子の顔になった。 「郷子《くにこ》さん、もう眠っちゃった?」 「暑くて眠れないわ、――さっきから、お化《ば》けの夢《ゆめ》ばかり見てるのよ‥‥」 [#9字下げ]○  一枝《かずえ》がパンを焼いている。郷子は新聞の職業案内《しょくぎょうあんない》を見ていた。 「いいところあって?」 「これって云うところもないわねえ、――時局柄《じきょくがら》最適業《さいてきぎょう》余暇有《よかあり》ってどんなのかしら? 月収五拾円だって‥‥」 「ろく[#「ろく」に傍点]なところじゃないわよ‥‥」  一枝がパンにバタを塗《ぬ》って皿《さら》に並べている。 「おや、誰《たれ》かしら?」  扉をノックするひとがあるので郷子が気軽《きがる》にどなたと云いながら、扉を開《あ》けた。 「まァ、あなただったの?」 「とても探《さが》しちゃったわ、朝早くからごめんなさい‥‥」 「安子さん、どうしたのよ、叱《しか》りに来たンじゃない?」  安子は帽子《ぼうし》をぬぎながら汗ばんだ表情で郷子《くにこ》をみつめていた。 「ねえ、郷子さん、――大野《おおの》さん、昨夜、お亡くなりになったのよ、知ってる?」 「へッ! 大野《おおの》さんが? まァ‥‥どうしたの? ほんと?」 「あんまり急だったンで、――私、吃驚《びっくり》しちゃってるの。明日のお昼、告別式なのよ、私《わたし》、何だか信《しん》じられなくなって、自殺なすったンじゃないかと思《おも》った位だわ‥‥」  郷子は急に奈津子や、御隠居様《ごいんきょさま》のことを思い出した。安子は窓ぎわに坐ると、如何《いか》にも暑くるしそうに、帽子《ぼうし》で胸に風をいれている。 「安子《やすこ》さん、どうしましょう?」 「どうしましょうって、――だから、私、来《き》てあげたのよ、御隠居様、何《なに》もごぞんじじゃないわ、奈津子《なつこ》さんを、ひとめ、お父さんに逢わせてあげたいンだけど‥‥」  安子が大野夫人から電話《でんわ》で呼ばれた時《とき》は、あいにくと他へ派出中《はしゅつちゅう》で、かわりの看護婦が行つたのだそうだったが、その看護婦が行った時《とき》には、もう、かかりつけの医者が二人《ふたり》も来ていて、大野は亡くなっていたと云うのである。原因は脳溢血で、ほんの四五|時間《じかん》、床についたきりだと云うことだった。 「それでねえ、ほら、何時か、奥さんの病院《びょういん》でおめにかかつた、小宮山さんて方ね、あの方《かた》に御相談《ごそうだん》してみたらどうでしょうか?」 「――あなた、それで、もう、桜木町《さくらぎちょう》へは行って来たの?」 「まだなのよ、だって、御隠居様に、大野さんのお亡《な》くなりになったこと云うのしのびないじゃない? あなたは飛《と》び出してしまってるし、どうしてあげていいかわからないもの‥‥小宮山《こみやま》さんて方に、あなた、相談《そうだん》してみてくれない?」 「ええ‥‥」  郷子は、膝《ひざ》に這いよって来た、何時《いつ》かの大野の姿《すがた》を、ありありと胸に思い浮べながら、人の生命《いのち》の、もろさ、はかなさを考《かんが》えている。  安子《やすこ》はすぐ、これから渋谷の大野家へ行くと云うので、郷子も支度《したく》をして、安子に、ついて行く気になった。――小見山は、もしや、大阪《おおさか》へ発《た》ったあとではないかしら、それにしても、電報か何かで、いまごろは呼び出されているころかも知《し》れない、兎に角、小見山に逢《あ》って、奈津子のことを相談《そうだん》してみるのが一番いいことだと、三保でのことは何となく心苦《こころぐる》しかったが、郷子は安子と松濤の大野の邸《やしき》へ出向いて行った。  自動車が塀《へい》のそばに二三台とまっている。二人が内玄関から這入って行くと、郷子は客を送りながら、敷台《しきだい》に立っている小見山と、ばったり顔《かお》を合せた。パラソルを持っている手が何となく震《ふる》えて仕方がない。安子は、小見山に目礼をして、さっさと台所口の方へ一人で行ってしまった。 「お見舞《みまい》に来て下すったンですか?」 「ええ、ほんとに何て申しあげていいんですか、――この度《たび》は‥‥」 「よくわかりましたね?」  着物姿《きものすがた》の小見山が、郷子をひきたてて夫人の部屋へ連れて行ってくれた。 [#9字下げ]○  約束の九時に、小見山が自動車《じどうしゃ》で、郷子達を迎えにやって来た。奈津子《なつこ》は昨夜から眼を泣きはらしていたし、年寄《としよ》りは、気が抜けたように、部屋《へや》から部屋をふわふわ歩いていた。  郷子が応接間へ出て行くと、小見山はしばらく黙《だま》ってつっ立っていたが、 「郷子さん、報告《ほうこく》しておきたいンですが、今朝、岡部《おかべ》から電話がありましてね‥‥」 「何ですの?」 「驚いちゃいけませんよ‥‥」 「ええ‥‥」 「あのねえ、佐山から、負傷《ふしょう》したと云う通知《つうち》が、岡部に来たンだそうです‥‥」 「えッ?」  郷子はしばらくは口がきけなかった。椅子《いす》の背《せ》を両手でしっかり握《にぎ》り締め、じっと小見山の顔を見《み》ていた。 「左手《ひだりて》をやられたンだそうです、――今日の告別式には岡部も来てくれるでしょうから、くわしくきいてみますが、悪いことって、随分《ずいぶん》悪《あく》どく続くものですね‥‥」  郷子は、足の底から空気《くうき》が抜けてゆくような気がした。 「支度は出来ましたか? ――昨夜《ゆうべ》、夫人にあなたの話をしましたら、一寸《ちょっと》驚《おどろ》いたらしかったのですがね、兎に角、告別式《こくべつしき》にはお二人とも参列《さんれつ》していいと許してくれたンですよ。電報は遅くついたでしょう?」 「ええ、いろいろありがとうございました、いま一寸《ちょっと》お嬢《じょう》さん呼んで来ましょう」  廊下のそとへ出ると、郷子は、ふらふらと壁《かべ》へ凭《もた》れていった。  今日は夜明けから南風《はえ》が強くてしめった、暑《あつ》くるしい日である。 (佐山さんが負傷《ふしょう》なすったなンて、何てことだろう‥‥)  この二三日、何となく寝苦《ねぐる》しかったのは、こんな知らせがあると云うことだったのかと、郷子は眼尻《めじり》に湧く涙を指でおさえて、居間へ行った。  散らかった居間の真中では、奈津子《なつこ》が御隠居様の膝《ひざ》に腰をかけて、風の吹きつけている庭を呆んやりみている。 「さァ、そろそろ参りましょう、御隠居様《ごいんきょさま》お支度出来まして?」 「あのねえ、おばあさま、ねえ、行かないって‥‥頭《あたま》いたいンだって‥‥」 「植村《うえむら》さん、私、やっぱり留守番をしておりますから、奈ァちゃんだけ連れて行って下さいませんか‥‥」 「お留守番《るすばん》していらっしゃいますか?」 「ええ、お留守番していた方が気が楽です」 「そうですか、それでしたら、奈津子《なつこ》さんを、私がお連れしましょう」 「じゃァ、植村さん、私の喪服《もふく》を着て行って下さい、裄《ゆき》がみじかいかも知れませんよ‥‥」  郷子は借着《かりぎ》で服装《ふくそう》をととのえると、奈津子を応接間に連れて行った。 「よく似《に》てますね‥‥可愛い子だなァ‥‥」  小見山がしげしげと奈津子《なつこ》を見ている。  やがて三人は待《ま》たせてある自動車に乗ったが、郷子も小見山も無量《むりょう》な気持があった。 「佐山さん、それで、お怪我《けが》は大丈夫でございましょうか?」 「大丈夫らしいンですがねえ、――何しろ、とりこんで、ごたごたしてる最中《さいちゅう》に電話だもンで、くわしい事は今日《きょう》会《あ》ってきくことにしてるンですが、何でも南京《ナンキン》の陸軍病院まで戻っているらしいンです。手紙が、飛行便《ひこうびん》で来たンだそうですよ」 「まァ、――どうして、こんな厭《いや》なことがつづくンでしょう‥‥何処で負傷《ふしょう》をなすったンでしょうか?」 「岡部が、その手紙を、今日、告別式《こくべつしき》に持って来ますよ、――創は貫通銃創《かんつうじゅうそう》らしいですね‥‥」 [#9字下げ]○  佐山は六月の二十四日に蕪湖《ぶこ》から御用船に乗って、揚子江《ようすこう》を南京に下って行った。南京の病院に着いて、今日で十日近くになる。  今日も佐山は、窓《まど》の上を、飛行機の飛び立って行くのをベッドから眺《なが》めていた。  部屋にはベッドが六ツ並《なら》んでいて、佐山のベッドは窓ぎわにあった。支那人の雑役が裸足《はだし》のまま、部屋の隅の壁に凭《もた》れて居眠りをしている。 「内地へ近々《ちかぢか》送《おく》られるンだそうだぞ‥‥」  隣りのベッドの兼松上等兵《かねまつじょうとうへい》が寝返りをうちながらそんなことを云っている。兼松上等兵は蕪湖の近くで負傷をして、左の脚《あし》を膝の下から切断《せつだん》していた。「暑いねえ、おい、窓はそれでいっぱい開けてあるのかい?」  兼松が、脚の痛みと暑さに焦々《いらいら》している。  佐山は左肩に震動《しんどう》が来ないように、ゆっくり起きあがって、方々の窓を静かに開けに行った。 「おい、今度の戦争で、負傷者《ふしょうしゃ》はいったいどのぐらいになるだろうなァ‥‥随分《ずいぶん》な数にのぼるだろうねえ、――いったい、俺達はどうなるンだい?」 「無辺《むへん》の精神《せいしん》を頼りに生活して行くのさ‥‥」 「おいおい無辺の精神とは何だい?」 「そうだなァ、精神《せいしん》のふるさと、精神の素《もと》へ帰って、そこから、また、一歩ずつやりなおしてゆくより仕方あるまい‥‥」  兼松が入口に寝ている。昨日来た負傷兵と話している。昨日来た兵隊は、背中一面を手榴弾の破片でやられていたが、昆布《こんぶ》のように巻いた毛布《もうふ》を抱いて、何時も伏さって寝ていた。 「痛《いた》むんだろう?」 「うん、夜、森《しん》と静かになると、痛みがはっきりして困る‥‥」 「俺はもう、このごろは何も考《かんが》えンことにしとるよ、何かしらんが考え出すと、理《り》におちたことばかりで、むしゃくしゃして来て仕方がない‥‥」  佐山は、南京《ナンキン》まで戻ってみると妙に、内地へ帰りたい気持が失せてしまっている。この戦争のあと何か旺盛《おうせい》なものが滔々と流れ込んで来るであろう予測《よそく》はされるが、さて、左手の利《き》かなくなった自分のこれからの出発《しゅっぱつ》は、どの方面から呼吸《こきゅう》をしていいのか、いまのところ、全く模索のありさまなのである。  何気なく雑嚢《ざつのう》からコンパクトを出していた。  色が青黒《あおぐろ》くなり、鏡のなかで、眼がらんらんと光っていた。パフを鼻へ持って行くと、夢のようにはかない香料《こうりょう》の匂がしていた。  兼松《かねまつ》は話にも飽《あ》きたのか、枕もとの日の丸の旗を両手で拡げて、沢山の署名を眺めながら気持をまぎらせているようである。 「おい、みんな、面白い唄《うた》をきかしてやろうか‥‥」  昨夜《ゆうべ》来た兵隊が、腹《はら》がしびれるのか、腰《こし》をあげて四ツ這いになっている。兼松が、日の丸の旗を拡《ひろ》げたなりで、やがて、うたいだした。   寝《ね》たか、寝ないだァか   枕《まくら》にとえばよウオ   枕こたえて、寝《ね》たと云うたよウオ 「何だい、そりゃァ? 子守唄《こもりうた》かい?」  佐山が口《くち》のなかで笑っている。  兼松は、それから小さい声でおけさを唄い、木曽《きそ》のなかのりさんを唄い、軍歌まで唄いつづけた。 「暑いのオ、背中《せなか》は破れるようだぞ‥‥」  廊下を、看護婦《かんごふ》に手をとられた負傷兵が、そう云いながら歩いて行っている。  部屋の中の洗面所《せんめんじょ》からは水が一滴も出なかった。 「俺は鉄橋警備の黒い天幕《テント》の中で、三日と云うものは、飲《の》まず食《く》わずの時があったが、とてもぴんぴんしていたもンだ。――内地へ戻って、まァ、気がゆるまなきゃいいと思ってるよ」  兼松《かねまつ》が唄をやめてそんなことを云った。 [#9字下げ]○  佐山は、大橋で分隊とも別《わか》れてしまい、南京《ナンキン》に駐止していたら、病院へ見舞いに行くぞと云ってくれた兵頭《ひょうどう》ともずっと逢わなかった。  兵頭が、徐州《じょしゅう》の方へ行くらしいと云っていたので、あるいは、もう、部隊は、その方面へ進発しているのかも知れない。  林檎の話をする時は、少年のように生々《いきいき》と膝《ひざ》をのりだして来る兵頭との陣中生活を、佐山は時々、ベッドの上で考《かんが》えている。  ベッドの上の一日一日は、実に退屈《たいくつ》で仕方がなかった。  昼近くになると、軍医の回診《かいしん》があり、看護婦に、硼酸水《ほうさんすい》をひたした脱脂綿で、創口を拭いてもらう、そのあとをマーキロクロームか、パンクロームを塗布《とふ》して、リバノールガーゼを挿入してもらうと、また、窓の方を向いて寝転《ねころ》び、夕方まで飛行機の飛ぶ空をみている。窓《まど》の下は広い道一つへだてて陸軍の飛行場だったので、何時《いつ》もプロペラの音が耳についていた。  ひどい風《かぜ》の日も、雨の日も飛行機は飛んでいた。 (とうとう、俺も、こんな処に寝るようになった。あの飛行機のように、自由闊達《じゆうかったつ》に飛翔することは出来なくなったが、スポーツマンとしての団結滅私《だんけつめっし》を遂行《すいこう》したことにおいては、漕艇部の梶《かじ》もよろこんでくれるだろう‥‥だが、青い水の上を走ることが出来なくなったのは何としても残念《ざんねん》で仕方がないぞ‥‥)  佐山は、尾久《おく》の艇庫《ていこ》のあるところや、瀬田川のボートレースなんかを思い出している。烈日の下で、矢のように走って行く水上の快味《かいみ》を、佐山は思い描《えが》きながら、たまらない、胸苦しさを感じるのだった。朝の病室は、幾分《いくぶん》でも気分をまぎらす事が出来たが、夜になると、奈落《ならく》におちこむような、たまらない寂寞《せきばく》たるものを感じた。  月夜の晩は、寝《ね》ながら月をながめて、六ツのベッドに月光を浴《あ》びながら、六人で、故郷の話や、戦場での、それぞれの手柄話《てがらばなし》を語ることも愉《たの》しいことであったが、月もない、熱気《あつけ》でむせかえるような暑い夜更けなんかは、みんな気むずかしく黙《だま》りこくって、将来の生活や、家族《かぞく》のことや、戦後《せんご》の社会のことに、それぞれじっと思い耽るのであった。  眼のあたりにも、耳《みみ》のあたりにも、頭にも足にも、全身《ぜんしん》で将来のことを考えつづけていながら、六人のものたちは、そんな話は妙に逃避《とうひ》して黙っていた。 「おい、戦友《せんゆう》、寝とるかね?」  兼松が、隣《となり》の兵隊に声をかけている。  今夜はいい月夜《つきよ》だった。 「いや、なかなか眠れない、――夕方、注射《ちゅうしゃ》を打ってもらっとけばよかったンだがなァ‥‥」 「とても、痛《いた》むのか?」 「うん‥‥」  佐山も寝《ね》られなかったので、寝ながら手さぐりに煙草を探した。寝台《しんだい》の、枕もとのてすり[#「てすり」に傍点]にぶらさげた腕時計《うでどけい》が、キラキラ月に光っている。  煙草を吸うことも、マッチをすることも、右手《みぎて》だけしかつかえないので非常に不自由《ふじゆう》である。  傷がふさがると、X光線の写真を撮って貰って、骨折《こっせつ》を発見されると、すぐに、針金の外転《がいてん》副木《そえぎ》をしてもらうのだそうだけれど、佐山の創はなかなかふさがらなかった。  だが、このごろ、痛みは非常《ひじょう》に軽《かる》くなっている。 「俺は、働《はたら》かなくちゃ食えンからなァ‥‥」 「何でも、自信《じしん》を持つことだよ、俺はこのごろ、妙に、なにくそッと思うようになった。自信さえあれば、何とか、どうにか出来るよ‥‥」  煙草を吸いながら、佐山は隣の兼松達《かねまつたち》の会話をきいていたが、(自信を持つ)と云うことは、佐山もひどく同感《どうかん》であった。 [#9字下げ]○  魚屋をしている律子の叔父が、召集令状《しょうしゅうれいじょう》を受けて出征することになった。  女ばかりでは店をやってゆけないので、家族は一応叔父と一|緒《しょ》に佐賀《さが》へかえることになり、律子は急に部屋《へや》を探さなければならなくなった。  律子が部屋を探《さが》すと云うことをきくと、郷子も一枝も、三人で一軒の家を借《か》りた方が経済だと云うことに話がまとまり、暑《あつ》い日中を三人で家を探して歩いた。  東京の中心へあまり時間《じかん》のかからないところ、電車賃《でんしゃちん》の安いところ、近所のうるさくないところ、――三人はまず、牛込の矢来《やらい》の辺をぶらぶら歩いてみた。 「いざとなると、中々、貸家《かしや》ってないものねえ‥‥」  律子が、ハンカチで額の汗をおさえながら、貸家探《かしやさが》しにへこたれているかたちだった。 「夕方まで歩いてみましょうよ‥‥」  郷子は、脚気《かっけ》の方もだいぶよくなっていたので、歩くのは愉《たの》しかった。つくだ煮屋の横をはいってみたり、本屋の横をはいってみたり、路地《ろじ》のなかの、わかりにくい隅々《すみずみ》まで歩いてみたが、結局探しあてたのは、薬王寺町《やくおうじまち》の、小さい洋服屋の裏にある、四部屋ばかりの平家《ひらや》を、三人はきめることにした。  西陽のあたる縁側《えんがわ》に三人は腰をかけてしばらくやすんでいた。差配《さはい》は路地口の経師屋で、人のよさそうな老夫婦だった。 「この、八|畳《じょう》の部屋は誰のにするの?」  一枝が、がらんとした部屋を爪先立《つまさきた》って歩きながら尋ねている。 「全く、この部屋だけがよくて、あとは不公平《ふこうへい》ね、――誰が誰ってこともなァーし、いいでしょう?」  だいぶ空家になっていたのか、四囲《あたり》は湿ってかび[#「かび」に傍点]臭い。庭の隅《すみ》には赤いサルビアの花が乾いたように咲いていた。古い家だったが、板塀《いたべい》だけが新しかった。  近所も、板塀つづきの一寸した邸町で、家が古いので家賃《やちん》も割合安かった。  郷子は二三日前から、芝にある大河内電線《おおこうちでんせん》の営業部に事務員として通っていた。誰の紹介もなく、新聞広告《しんぶんこうこく》で行ってみたのである。 「この部屋に、可愛《かわい》いスタンドを置いて、三人でお茶をのんだり、話をしたり、愉しいじゃないの?」  一枝はとてもよろこんでいた。 「そして、私が、みんなに、支那語《しなご》を教えるわね‥‥」  律子は、簡単《かんたん》な白いワンピースを着ていたが、裾《すそ》をつまんで、埃のざらざらした台所をひととおり自分一人で検査《けんさ》をしてまわっていた。  郷子の月給《げっきゅう》は非常に安かった。  物価《ぶっか》はあがる一方だったし、当分、岡部に借《か》りた百円の金も払えそうにはなかったが、郷子は夜は夜で、洋裁《ようさい》でも勉強しようかとも思っていた。 「ねえ、さっき、敷金《しききん》、三ツだって云ってたわねえ、どうするの?」  一枝が、髪《かみ》をうるさそうにかきあげながら、縁に腰《こし》をかけている郷子にたずねに来た。 「何とか、三人で奮闘《ふんとう》しなくちゃならないわね‥‥」 「奮闘って、そうね、まァ、兎に角、努力《どりょく》しましょう‥‥」  律子が台所《だいどころ》から戻って来ると、三人は縁の雨戸を閉めて路地へ出た。 「ねえ、さっきも一枝さんと話したンだけど、敷金《しききん》が三ツだって、どうするの?」 「あら、そんなこと、二人とも、私にまかしておいていいわ、戦時《せんじ》なンですもの、少しぐらい待って貰《もら》ったっていいじゃァないの――女三人ですもの借さないってことないわよ」 [#9字下げ]○  郷子達が薬王寺《やくおうじ》へ引越した日は日曜日であった。  夕方から雨が土砂降《どしゃぶ》りに降って来た。三人とも風呂から帰った処だったので、八|畳《じょう》の部屋に一枝の小さいスタンドを取りつけて、三人は蕎麦《そば》を取って食べた。 「ねえ、私、このごろ、女の一生って小説を読んでいるンだけど、はじめの章《しょう》が、何だか、こんな大雨《おおあめ》の日なのよ‥‥」  沛然《はいぜん》とした雨が、庭の汚れた土の上を叩きかえすように降っている。板塀の内側のひば[#「ひば」に傍点]の木はまるで踊《おど》っているようにゆれ動いていて、やがて遠くに雷鳴さえしていた。  一枝は、蕎麦の丼《どんぶり》に水を汲んで来て、美味《うま》そうに飲んでいた。 「ジャンヌと云う大地主で貴族の娘がねえ、修道院《しゅうどういん》を卒業して、田舎へ帰って若い子爵と結婚するンだけど、新婚旅行《しんこんりょこう》から帰ってしばらくして、良人が女中と関係があるのを、発見するのよ、――その女中は、ジャンヌの部屋で産気づいて子供《こども》を生んでるのに、若いジャンヌは良人の子供だってこと知《し》らないから、とてもかばってるンだけど‥‥或晩、良人《おっと》のベッドに女中の寝ているのを発見して、良人に絶望《ぜつぼう》を感じてしまうの。子供だけを愛《あい》すようになるのね、――良人は女中のほかにも、或る貴婦人《きふじん》と恋におちて、羊を運ぶ車の上で逢引《あいびき》をしている日に、貴婦人の良人が、大変《たいへん》な力で、車を引っぱって、山の上から谷底《たにそこ》へ、それをつきとばしてしまうの。――ええ、二人とも死《し》んでしまうわ。ジャンヌは、良人に失望《しつぼう》しているから、すぐ哀《かな》しみも忘れて、子供ばかり可愛《かわい》がるンだけどその子供が、大きくなって、都会の学校《がっこう》へ行き女をつくり、母のジャンヌを捨ててしまうの、――私、それを読《よ》んだら、女ってみじめなものだとつくづく思ったわ、身近《みぢか》に、そんな一例もあったし‥‥」 「あら、良人に失望《しつぼう》なンかしないで、怒ればいいじゃないの?」 「だって、結婚式《けっこんしき》の当時から、ロザリィって女中と交渉《こうしょう》があるンですもの、若い奥さんは良人に失望してしまうのあたりまえよ、一枝さんは、じゃァ、とても怒《おこ》る方《ほう》なのね?」 「ええ、私、殴《なぐ》っちまうわ、そんなの‥‥」 「律子《りつこ》さんはどうするかしら?」  郷子が、蕎麦《そば》を口もとへ持ってゆきながら尋ねた。 「そうね、私《わたし》は、どうするかしら?――でも、ジャンヌって女も、私にはあきたりないわ、何だかもろくて、淡《あわ》くって‥‥」 「ジャンヌって、だけど、汚《よご》れにそまない、とても美しい女なのよ‥‥」 「じゃァ、郷子さんが結婚《けっこん》した場合、郷子さんの良人が、そんな事をしたらどうする?」 「そりゃァ、勿論《もちろん》、許さないわ、私、すぐ、別れてしまうわ‥‥」  「殴《なぐ》らないの?」  一枝が、丼《どんぶり》を両手でかかえて訊いている。 「殴るのも汚《けが》らわしいのじゃないかしら‥‥」 「もしも、子供《こども》があったら、どうして?」  律子はのび[#「のび」に傍点]た蕎麦《そば》を、箸でほぐしながら、にやにや笑っていた。郷子は負けない気で、 「子供があっても、私、別《わか》れてしまうわ‥‥」  と、強《つよ》く云った。 「ジャンヌが、結婚しない娘の頃の、朝の寝覚《ねざ》めとか、ものおもいのところなンか、とてもよく書けて、私達、若い女が、得体《えたい》の知れない悩みに悩むの、誰にでもあるンだと思《おも》って、何だかとても、安心したの‥‥」 「よオーし、あたしも読んでみよう‥‥」  一枝がそう云って、手拭《てぬぐい》で頭をしばりながら隣りの部屋から蒲団《ふとん》の包みを引っぱって来た。  律子はハンドバッグから、やっと集めた敷金《しききん》の金を、畳の上へ並べて、ゆっくり計算《けいさん》を始めている。 [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ]  ――お躯《からだ》の工合は如何でいらっしゃいますか。この間も、お手紙《てがみ》しましたように、小見山様から、御負傷《ごふしょう》なさいましたことをうかがい、私は、どんなに吃驚《びっくり》しましたことでしょう。ささやかながら夏の下着類《したぎるい》を、少しばかりお送りしたりして、どんなにか、戦場《せんじょう》での、あなたの御健在を祈っておりましたのに‥‥御負傷《ごふしょう》なさいましたとうかがい、走って行けますものなら、走って行って御《ご》かいほう申しあげたいとおもっております。  健全《けんぜん》な道に生きるようにとの、御言葉《おことば》、身に沁みて嬉しく、ただいまは、女の友人と三人で小さい家を持ち、私は電線工揚《でんせんこうじょう》の営業部の事務員として働いております。月給は手当とも三十八円ばかりでございますが、毎日、元気で働《はたら》いております。  この様《よう》な時勢にあって、生活《せいかつ》は苦しいものではありますけれど、元気に進んでゆくより道《みち》はないとぞんじております。  街で、白い着物の傷病兵《しょうびょうへい》の方をみかけますと、もしや、あなたさまではと、おもわず立ちどまってしまうことも度々でございます。街《まち》で会《あ》う、傷病兵の方が、みんな、あなたのお友達のような気もされて、何でもしてさしあげたい感激《かんげき》でいっぱいになります。  私は、何時も、お元気《げんき》でいらっしゃるように神様に祈っております。ボートを漕《こ》いで下すった、あの強いお手が、いまは傷ついていられる‥‥私は戦場でのあなたの御様子《ごようす》を空想しています。  路傍《ろぼう》の男としてみて下さいと書いてありましたこと、私は、そんなことはどうしても厭《いや》です‥‥。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、新一への音信を、ここまで書きかけて来ると、涙が溢《あふ》れて仕方がなかった。  この一週間、律子が夕飯《ゆうはん》をつくる順番にあたって、律子《りつこ》は台所でライス・カレーをつくっている。  一枝は、黄昏《たそがれ》の薄陽《うすび》をたよりに、縁側で『女の一生』を一心に読み耽っていた。 「さァ、もう支度出来てよ。お膳《ぜん》を出してね」  律子が台所《だいどころ》から二人を呼んでいる。 「ねえ、この、ジャンヌって娘、コルシカへ新婚旅行《しんこんりょこう》するって洒落てるわね。――でも、男って、結婚すると、急に吝《けち》になるものかしら、奥さんの小遣《こづか》いまで取りあげちゃったりして、幻滅だわねえ‥‥」 「ああ、そこンところを読んでるの?」 「ええ、新婚旅行で、昼日中《ひるひなか》、ホテルの部屋へ、良人が平気でジャンヌを連れてはいるの、私にはわからないわ、卑《いや》しいわね」  一枝は一人でジャンヌの良人《おっと》を責めていた。  郷子は手紙《てがみ》を書き終ると、東京のエハガキを二枚ばかり、新一の手紙の中へ同封《どうふう》しておいた。  やがて食事の支度が出来ると、三人は各々《おのおの》団扇《うちわ》をもって、膳の前へ坐った。  律子は、明日は、鎌倉へ海水浴《かいすいよく》に行くのだと云っている。 「郷子さんも行かない?」 「私とても行けないわ、泳ぎたいと思わないもの‥‥それに、明日《あす》日曜日《にちようび》だから、ひよっとしたら弟が来るかも知《し》れないし‥‥」 「そう、一枝《かずえ》さんは八の日でなくちゃ、お休《やす》みじゃないし、――一人で行くわ、私一人で‥‥」  律子の話では、大野の事務所もいまでは、大野《おおの》の弟があとを継いでいて、小見山《こみやま》が月に一度位は上京して来る模様《もよう》であった。 「これからは、一にも健康、二にも健康《けんこう》よ、――私は、明日、溺《おぼ》れるまでじゃぶじゃぶ海で泳いで来よう‥‥」 [#9字下げ]○  朝、郷子が台所口《だいどころぐち》で洗濯をしていると、敬太郎《けいたろう》が霜降の職工服姿で訪ねて来た。  久しぶりに見る敬太郎は、血色《けっしょく》もよくなっていて、だいぶ太っている。  律子は鎌倉《かまくら》へ海水浴に行っていない。  一枝は出勤している。蝉が、裏の邸の庭樹《にわき》でジイジイ鳴きたてていた。――郷子《くにこ》は弟に砂糖水をつくってやったり、馬穴に冷しておいた梨瓜《なしうり》を剥いてやったりした。 「お母さんから、姉《ねえ》さんへ手紙が来ていますよ」 「あら、じゃァ、あんたの寄宿舎《きしゅくしゃ》の方へよこしたのね?」  義母の手紙には、郷子の結婚問題に就いて書いてあった。――送《おく》って貰った百円の金《かね》では、何とも方法《ほうほう》つかず、近々に店は閉《とざ》してしまうより仕方がないと云うことや、大阪の雨宮と云う、綿布問屋の次男の嫁に、郷子を貰いたいと、瀬田《せた》の親類の橋渡《はしわた》しで云って来たと云うことなんかが細々《こまごま》と書いてあった。  今度の事変《じへん》では、その雨宮と云う家は、陸海軍《りくかいぐん》に、二千円ずつも、献金したりして、中々しっかりした家柄でもあるので、お父さんも、この話には、大変《たいへん》満足《まんぞく》しているし、何《なん》とか近いうちに一度、帰郷《ききょう》してみてくれないかと云って来ていた。 「ねえ、敬ちゃん、お母さんは、私に帰《かえ》って来ないかって云《い》うのよ」 「ふうーん、大阪《おおさか》のお嫁さんの口だろう?」 「ええ、あんたにも、そう云って来た?」 「何だか、姉《ねえ》さんに、帰《かえ》るようにすすめてくれって、僕に云って来ていましたよ」 「私、いま、帰りたくないわ。しかも、結婚《けっこん》なンて、まだ、考《かんが》えたこともないもの‥‥」 「大阪の、その雨宮《あめみや》って云うひとは、姉《ねえ》さんを見たことがあるンだそうですよ――マツエがそんなことを書いてよこしたけど‥‥」 「ねえ、どうして、あんな小《ちい》さな店《みせ》が、うまくやってゆけないンだろう?」 「だって、そりゃァ、姉さん、田舎は、この一二年、とても不景気《ふけいき》なンだし、僕達《ぼくたち》の学校だって、随分《ずいぶん》やめるものがあるンだもの、――マツエだって、学校をとうとうよしてしまったンですからねえ‥‥」 「ほんとに、マッちゃんだけは、何《なん》とかして、学校《がっこう》へやってやりたかったンだけどねえ、それも、どうにもならないし‥‥」 「近いうち、一度、帰《かえ》れませんか?」 「まァ! そんなに簡単に田舎へ帰れやしないことよ、――それに、私《わたし》、いま結婚《けっこん》どころじゃないもの‥‥」 「――僕に来た、お母《かあ》さんの手紙《てがみ》では、姉さんが、一応、雨宮さんに会ってくれれば、向うのひとがのぞんでいるのだから‥‥そうすれば、家の方も、大阪《おおさか》へ出て行って、何か新《あたら》しい商売をする道《みち》もつくだろうし、マツエも何とか女学校《じょがっこう》へ行けるなンて書いてありましたけど、――もっとも、これは、お母さんらしい勘定高《かんじょうだか》い意見ですがね‥‥」  郷子は敬太郎《けいたろう》の横顔をじっと眺めていた。  自分のようなものにも、人並らしく結婚《けっこん》の話が持ちこまれるのかと、郷子《くにこ》は急に重苦しい十字架を背負《せお》わされているような、そんな気がしてならない。  自分の生活へ出発して、自分の生活のなかで発見した良人《おっと》を求めることが理想《りそう》でもあり、幸福でもあるような気がこの頃《ごろ》しきりに考えられるのは、女《おんな》の一生の、みじめなジャンヌの生涯を読んでからであろうか、――親《おや》の選んでくれた結婚《けっこん》なんかには、郷子はいまのところ、心服してゆく気にはならなかった。 「私が、その、雨宮《あめみや》と云う商人の方の処《ところ》へ、お嫁にでも行けば、家のもの、みんなが、幸福になると云うのねえ?」 「いや、そりゃァ、お父さんと、お母さんだけの考《かんが》えですよ。本人の姉《ねえ》さんが厭ならば、それで、何も文句《もんく》はないじゃありませんか‥‥」 [#9字下げ]○  秋すぎるまで、父《ちち》や、義母や、瀬田の親類《しんるい》から、手をかえ、品をかえて、郷子に結婚のことに就いての手紙《てがみ》が何度か来た。  瀬田の叔母からのは、親が困っている状態を、平気《へいき》でみすごしている郷子の冷《つめ》たさを、何か他に原因《げんいん》があるのではないか、それだったら、何《なん》でも打ちあけてくれるようにと云った、奥歯にもののはさまった手紙《てがみ》もあった。  待ちこがれている、佐山からの手紙《てがみ》は、この二ケ|月《げつ》あまりふっつりと来なくなり、郷子は、時々やけになる気持《きもち》も湧かないではないのだ。  相談すべき、岡部は、一ケ月前から、富士山頂《ふじさんちょう》の気象観測所にいる友人《ゆうじん》を尋ねて登って行ったきり、まだ三鷹《みたか》へは帰って来《き》ていない。――好天でも風速三十メートルぐらいで、酸素の不足で時々頭がずきずきするが、富士山頂の神々しさは、あなたを案内《あんない》したい位だと、岡部《おかべ》は山から、たった一度|音信《たより》をよこしたきりだった。  今日も郷子は、とつおいつ、色々なことを考えながら会社《かいしゃ》から戻って来ると、路地口《ろじぐち》に自動車がとまっていて、そのなかに、奈津子《なつこ》が、たった一人で、硝子窓から戸外をのぞいていた。 「まァ! 奈津子《なつこ》さんじゃないの? どうしたンです‥‥いったい?」  奈津子は泣き出しそうな顔をして自動車《じどうしゃ》から降りて来た。 「いま、運転手《うんてんしゅ》のひとに、植村さんのこと、探《さが》して貰ってたの‥‥おばあさんにお許しうけて来たのよ」  運転手が戻って来たので、郷子は自動車は帰って貰い、奈津子《なつこ》を家へ連れて行《い》った。  律子《りつこ》も一枝もまだ戻っていない。 「御隠居様お元気《げんき》ですの。――お咲さん、まだいますか?」 「ねえ、小さいお家に引越したのよ、お咲《さき》さんは田舎《いなか》へ帰っちゃって、いま、おばあさまと、私と二人《ふたり》きりなの‥‥」  郷子は羊羹を切って、お茶を淹れて出しながら、その後の奈津子《なつこ》の生活も、考《かんが》えたほど、あまり幸福《こうふく》なものではないと云うことがさっしられた。 「前から、植村《うえむら》さんとこへ行くって、おばあさまにねだってたのよ――だって‥‥みんな急にいなくなって淋しいンですもの‥‥」 「ほら、何時か、お葬式に行った渋谷《しぶや》のお家《うち》ね、あれからいらっした?」 「ううん、一度も行《い》かないの‥‥行っちゃいけないンだって‥‥」  何時《いつ》か、律子の口を通して、大野夫人が、気持の定《さだ》まるまでは、大野《おおの》の隠していた子供なンか見たくもないと怒《おこ》っていると云《い》うことをきいて、それもまた大野夫人らしいし、仕方のないことだと郷子は思っていた。郷子が、家庭教師《かていきょうし》に行っていたことも夫人《ふじん》は不快がっているときいて、郷子《くにこ》はちぢかむ思いだったのだ。 「御飯をたべて行くでしょう? いま沢山、お姉さん達が戻《もど》って来ますよ、そしたら、みんなで御飯食べましょうね‥‥私《わたし》、送ってゆくからいいでしょう?」  郷子は、奈津子の人なつっこい眼や表情《ひょうじょう》を眺めながら、どことなく、大野《おおの》のおもざしに似ているのにほろりとしている。 「お台所するンだから、奈津子《なつこ》さんもみていてね」  郷子がエプロンの紐を結びながら台所へ行くと、がらがらと玄関《げんかん》の格子を開《あ》けて、電報配達夫が、郷子の名を呼んで、電報《でんぽう》を配達して行った。 (何処からだろう?)  ―チチ ヤマイワルシ スグカエレ ハハ  郷子は、何度も電文《でんぶん》を読みかえして行《い》きながら、じっと紙片をみつめていた。腑に落ちないところもあったが、病弱な父を知っているので、この電文《でんぶん》はあり得ることだとも信《しん》ぜられる。 [#9字下げ]○  十月の初め、佐山《さやま》はなつかしい東京《とうきょう》へ帰って来た。  小倉、広島の陸軍病院を経て、秋の気配すがすがしい東京《とうきょう》の空を見た時、佐山《さやま》は病院自動車の窓から、街道《かいどう》を通りすぎてゆく女の美しさに驚いていた。  街の音を聴き、街の匂いを嗅ぎ、流動《りゅうどう》する街の姿を佐山はじっと見《み》ている。――あんなにわくわくと胸を躍《おど》らしていたはずの東京《とうきょう》へ着いて、佐山は急に戦場への思慕で興奮して来る自分を感じていた。  街の辻々には名士達《めいしたち》の演説会と云《い》ったものや、戦場視察談、大陸視察談の立看板があっちにもこっちにも立っていて、それらの立看板を眺めながら、佐山《さやま》は空漠とした旅愁《りょしゅう》にとらわれていたものだ。  東京へ帰ってからも、佐山は誰にも手紙《てがみ》を出さなかった。ただ信州《しんしゅう》の父と弟へだけ、帰って来たと云うことを知らせておいた。  いまは創《きず》もふさがりだんだんよい方へ向っていた。  そうして、食慾もなかなか旺盛《おうせい》だった。  部屋には四ツのベッドが、二台ずつ頭を内側《うちがわ》にして並べてあった。佐山《さやま》は一番奥のベッド。  お茶《ちゃ》がのみたいと云《い》うと、かかりの看護婦は茶を淹れて持って来てくれたりする。  隣りのベッドには、河南省の、蘭封東門附近で、左脚《ひだりあし》に貫通銃創を受けたと云う、広瀬《ひろせ》と云う伍長が寝《ね》ていた。 「敵前三十メートルのところで、敵を看守中《かんしゅちゅう》、小銃で左の方《ほう》からここをやられましてねえ、それでも、始《はじ》めはやられたなンて思《おも》わなかったなァ。気が張ってたンですね‥‥」  今朝も佐山は前庭へ散歩に出て、ベンチに腰《こし》をかけて白い菊の花畑《はなばたけ》を眺めていた。 「この頃お痛《いた》みになります?」  胃腸をこわしている佐山に、朝晩、水薬を持って来てくれる若い看護婦《かんごふ》が、佐山の前《まえ》を通りかかって優《やさ》しくきいてくれた。  菊の花を眺めて、夢現《ゆめうつつ》でいた佐山は、ふっと顔《かお》を挙げて、若い看護婦《かんごふ》を眺めた。  朝の光を浴びて、清潔《せいけつ》な白い服が、きらきらと佐山の眼にまぶしい。  いまは、この看護婦の姿だけが信頼《しんらい》のおける友人《ゆうじん》のようにも思える。 「ありがとう、時々|微痛《びつう》がするきりで、いまのところ大丈夫です‥‥」 「気候の変りめは、お大事になさらないと、こちらは湿気《しっき》が多くて冷《ひ》えますから‥‥」 「――もう、じき、よくなるでしょう、明日《あす》あたり、副木《そえぎ》も取ってしまって、これから、電気をあてたり、按摩《あんま》にでも根気《こんき》よくかかれば少しぐらい手を動かすことが出来るンじゃないでしょうか」 「ほんとに、お大切《たいせつ》になさいますように‥‥」  佐山は関西弁の抜けない、この看護婦のアクセントをきいていて植村郷子《うえむらくにこ》が、時々こんなアクセントをつかうことを思《おも》い出していた。 (あの看護婦《かんごふ》も京都辺のひとかも知れないな‥‥)  名前は何と云うのか、別にききもしないが、佐山《さやま》は郷子の事を想い、何となく郷子《くにこ》に逢いたい気持《きもち》もあったけれど、――小倉《こくら》へ帰る船中で佐山は、郷子から貰ったコンパクトを玄海の海へ放り投げていた。もしや、小見山と結婚《けっこん》しているかも知れないとも考《かんが》えられたし、自分の手の負傷《ふしょう》の事を思うと、女に恋々《れんれん》としている場合でもなく、生きてゆく、これからの生活を考えなければならないと思うのだった。  病院を出たならば、山深《やまぶか》い鉱山へ技師《ぎし》として働く道はないものかと、佐山はベンチから立ちあがると、ゆっくり歩きながら、先輩《せんぱい》へ手紙を出してみようと思《おも》った。 [#9字下げ]○  夕飯《ゆうはん》のあと、水薬《すいやく》を持って何時もの看護婦が佐山達の部屋へ這入って来た。  佐山はベッドに寝転び、高《たか》く澄み透った星空《ほしぞら》をみていた。 「看護婦《かんごふ》さん、あの星は何と云うのか知《し》っていますか?」  水薬をのみながら、佐山が空を指差《ゆびさ》した。 「どれですの?」 「真東《まひがし》から、たて[#「たて」に傍点]に三つ見えるでしょう? あれ、オリオンですよ、――赤っぽいのが、ペテルギュースと云ったかな、こっちの青《あお》いのがリゲル‥‥」 「まァ、よくごぞんじですのね、私の知った方にも星の專門家《せんもんか》があるンですよ、三鷹《みたか》に務めていらっしゃるンですけれど‥‥」 「へえ? 三鷹の天文台《てんもんだい》にですか?」 「ええ、私の学校友達のその友達《ともだち》なンですの、やっぱり、星を研究《けんきゅう》していらっしゃるらしいンですけど、何《なん》て云ったかしら?――そうそう、ダニエル彗星《すいせい》とかって云うのあるンでしょうか?」 「へえ、こりァ驚《おどろ》いた、――じゃァ、その男は岡部《おかべ》って云いませんか?」 「まァ、御ぞんじなンですか?」 「知っていますとも、私の親密《しんみつ》な友人ですよ‥‥」 「まァ! そうですか、道理で、星のことなンか、よく知《し》っていらっしゃると思《おも》いましたわ。――ほんとに、このごろ、忙《せ》わしくて、私達《わたしたち》、星なんかめったに眺めたことありませんの」  佐山は枕もとから、岡部が戦地に送ってくれた、兵用天文《へいようてんもん》の「星で方角《ほうがく》を知る法」と云う小さい本を出して来《き》た。 「晩秋、機動演習の頃の初夜、このオリオン座は壮観《そうかん》な光りをはなつとあるでしょう。この星は僕は一番好きだなァ、勇士《ゆうし》が腰に剣を佩き、左手《ひだりて》で獅子の皮の楯を翳し、頭上高く、ほらあんなに棒を振《ふ》ってるでしょう‥‥向うの方が大犬座、こっちが小犬座‥‥」  佐山が説明をしていると、部屋のなかの、起きられる傷病兵達《しょうびょうへいたち》は、みんな窓へ寄《よ》って来て蒼々と光る星を眺《なが》めている。 「岡部を知っているとは奇遇《きぐう》ですね。お故郷《くに》はどちらですか」 「関西ですの、大津《おおつ》です‥‥」 「へえ?」  佐山は、なるほどと、うなづく気持《きもち》であった。ほんとにお躯をお大切《たいせつ》になさいますようにと、よく云ってくれる、この看護婦の言葉のアクセントが、如何《いか》にも、郷子のアクセントに似《に》ていると思っていたのだ。 (じゃァ、植村郷子《うえむらくにこ》と友人なのだな‥‥)  佐山は、案外なところに引っかかりがあるものだと思い、看護婦《かんごふ》の顔の向うに郷子《くにこ》の顔を思い浮べていた。 「――僕《ぼく》はおもうんだけどねえ、吾々|兵隊《へいたい》は、激しい活動をしている太陽のようなものだったンだよ、――こうして負傷してしまうと、今度は休息《きゅうそく》の星さ、精神的《せいしんてき》にも、徹し光るには、まァ、これからだな、問題《もんだい》は‥‥あの星の光度《こうど》が見えるか見えないかがまず僕達の修業だよ‥‥」  看護婦《かんごふ》は静かに部屋の外へ出て行った。  隣りのベッドの広瀬は頭をもちあげて、兵用天文《へいようてんもん》の本をばらばらとめくっていたが、急《きゅう》に本を置いて寝転《ねころ》ぶと、 「私は小学校教師だけれども、もしも、再び教壇《きょうだん》に立つことが出来《でき》るならばですね、――熱心に子供に向える自信《じしん》はありますよ。むしろ、脚《あし》のあった時よりも真剣に教えることが出来るだろうと思いますが、どんなものでしょう?‥‥」  佐山も、昔のようにボートは漕げなくても、昔《むかし》のように自由闊達に両手《りょうて》は振れなくても、兼松のような自信《じしん》は、自分にもあり、前《まえ》よりも生一本に仕事に向えると考えていた。 [#9字下げ]○  蒲田区仲《かまたくなか》六|郷《ごう》二|丁目《ちょうめ》矢野方《やのかた》――黄昏頃に、郷子はやっと母の住居を探しあてることが出来た。  新開の工場街らしい、がらんとした町裏の染物工場の塀に「矢野《やの》」と大きく看板《かんばん》が出ている。 「郷子さんが、東京《とうきょう》に出ているって、瀬田《せた》の家から知らせて来ていたけど、何時か尋ねてくれるだろうと思って、私は楽《たの》しみに待っていたンですよ」  郷子が、大きくなって、見違《みちが》えるばかりに美《うつく》しくなったと、りくは眼をそばだてていた。 「お母さん、やっぱりずっと務《つと》めているの?」 「ああ、ずっとねえ、――ここでお世話《せわ》になっているのさ‥‥」 「あなた、一寸《ちょっと》出られますか?」 「ああ、そう断ってくれば何とか‥‥でも、上《あが》っていいんですよ、お茶《ちゃ》ぐらいは出せるンだから」 「ええ、でも、出ていらっしゃいよ」  二人は薄暗《うすくら》くなった工場街《こうじょうがい》を歩きながら、長いあいだたまっていた話をしあった。大津の義母には云えないことまで、何でも心おきなく話せる心安《こころやす》さは、親子の血《ち》のきたなさであろうか。 「ねえ、お父《とう》さんが、このごろ、ずっと悪いの知ってる?」 「へえ、知らないねえ‥‥」 「電報《でんぽう》がこの夏から、四|通《つう》も来ているのよ、――昨夜、敬ちゃん、夜行で帰って行ったンだけど‥‥」 「おや、敬太郎《けいたろう》さんも東京へ来ていたのかい?」 「ええ、春からずっと飛行機製作所《ひこうきせいさくじょ》へ入《はい》ってるのよ、私《わたし》よりもお金とってるの‥‥」 「へえ‥‥そうかねえ、じゃァ、お父《とう》さん、よっぽど悪《わる》いのかねえ?」 「ええ、悪《わる》いらしいわ、もともと、胃癌《いがん》の気のあったひとですからね、――マッちゃんの手紙だと、躯が悪いくせに、油《あぶら》っこいものをほしがるンだって‥‥」  ばらばらと雨《あめ》が降り始めて来た。時雨《しぐれ》かもしれないとおもっていたが、だんだん雨脚が強くなって来たので、郷子は市場のそばの下駄屋《げたや》へ寄って、一番安い雨傘《あまがさ》を一本買った。 「ねえ、お母《かあ》さん‥‥」 (お母さんと云う言葉《ことば》を、私は何年《なんねん》ぶりでつかうのだろう、――早く、尋ねて来て上げればよかった)  女学校のころ、百姓女のように疲れた姿で、母のりくが、校門《こうもん》のところで娘《むすめ》に逢いたさに待っていたのを郷子《くにこ》は思い出したが、いまのりくの姿は案外《あんがい》年《とし》もとらずに元気そうである。 「ねえ、私、お父さんが病気《びょうき》だってことも、昨夜《ゆうべ》の電報で本当だってわかったンですけれど、本当は、私の結婚《けっこん》の話もあるの‥‥大阪《おおさか》のひとなンですって‥‥」  家運が下向きになっていることや、素人の生兵法《なまびょうほう》に、父が株に手を出したり、その上《うえ》あっちこっちに小金の借財《しゃくざい》もかなりあるらしいことも郷子は、りくに打ちあけて話した。 「重いだろう。私《わたし》持《も》ちましょう?」  傘の柄を握っている郷子の手の下に、りくが冷く乾《かわ》いた手を持って来《き》た。 「それで、あなたは、お嫁《よめ》さんにゆく気持あるの?」 「ううん‥‥今夜、遅い汽車で、一応、大津《おおつ》へ戻ってみようかと思《おも》っているンですけど、とても胸がいっぱいで不安《ふあん》で仕方がないのよ、――私《わたし》は、いま、そんな結婚どころじゃないし、折角、お友達《ともだち》とも家を持ってうまくいっているンですもの‥‥」 「敬太郎《けいたろう》さんのお母さんは、世帯には如才のないひとなんだがねえ、どうしてうまくゆかないンだろう‥‥」  二人は足袋《たび》をぬいで、暗い六郷の堤《つつみ》の方へ雨の中を歩いて行った。 [#9字下げ]○  今日は、神田《かんだ》の学士会館で、天文台長《てんもんだいちょう》の宮城《みやぎ》から招待を受けていたので、岡部は夕方から会へ出向いて行った。五六人の質素な集りで、顔《かお》ぶれは何時も同《おな》じである。  会食なかばで、窓外《そうがい》に雨の気配を感じた。  やがて、食後のコーヒイが出て、岡部は窓ぎわの椅子《いす》へ席をかえて、呆んやり秋《あき》の夜の光った雨を眺《なが》めていた。 「おい、佐山君が、陸軍病院《りくぐんびょういん》へ戻っているって、きいたかい?」  岡部の肩を叩いて、やはり、三鷹の国際報時所の部屋にいる、今城《いましろ》と云う男が、先達《せんだっ》て学校の或る先輩《せんぱい》のところに行ったら、佐山《さやま》からたよりがあったらしいと教えてくれた。 「佐山がねえ?」 「ボートの佐山《さやま》だろう? 学校《がっこう》でよく逢ったことがあるよ‥‥」  今城が台長の方へ行ってしまうと、岡部は急に焦々《いらいら》して来た。 (佐山《さやま》が帰っている‥‥ふうん俺《おれ》にだけは知らせそうなものだがなァ‥‥どうしたンだろう)  会が果てたのは九|時頃《じごろ》だった。  台長は千駄ケ谷に自宅を持っていて、三人の令嬢が父博士《ちちはかせ》を待っている。上の二人《ふたり》は女子大を出て、それぞれ職業《しょくぎょう》を持っていると云《い》うことをきいていたが、台長は中の娘の雪江と云うのを岡部にやりたい意志があるらしかった。岡部は二三度、雪江《ゆきえ》と云う娘に会《あ》ったこともあったが、お互はそんなに悪い印象《いんしょう》でもなかったのだ。  岡部は、佐山が戻っているときいて、いまもふっと郷子《くにこ》の事を思い出《だ》していたが、考えていると、郷子と雪江《ゆきえ》の顔が妙にダブって来て仕方《しかた》がない。 (家を越したそうだが、――佐山《さやま》の帰ったのを、植村郷子《うえむらくにこ》は知っているのかな?)  会果てて雨《あめ》の中を、岡部は薬王寺《やくおうじ》の郷子の家を探して行ってみた。  やっと探しあてて格子を開けると、眼の可愛《かわい》い娘が玄関へ出て来《き》た。 「あら、郷子《くにこ》さんですか、たったいま、田舎《いなか》へ帰りましたのよ、十一時何分とかの汽車なンですけど‥‥」 「田舎へ? 何しに帰《かえ》ったンです?」 「お父さんがお悪《わる》いンですの‥‥」 「一人で?」 「いいえ、もう一人、友達《ともだち》が駅まで送って行きましたわ‥‥」 「十一|時何分《じなんぷん》ですか?」 「時間表をみてみましょうか?」  一枝が奥へ引っこみかけると、岡部《おかべ》はそれをとめて、これから自動車《くるま》を飛ばして東京駅へかけつけてみようと云った。 「ほんとに、さっきだったンですのに‥‥あのウ、どなたさまでいらっしゃいますかしら‥‥」 「ああ、僕《ぼく》ですか、僕は郷子さんの友人《ゆうじん》で、岡部って云う者です‥‥僕達共通の友人が戦地から戻って来たときいたものですから、明日郷子さんと見舞《みま》いに行こうと思《おも》ったンですよ‥‥」  一枝は、郷子《くにこ》の何時か云った、星《ほし》を見て暮していると云うのはこの人だなと、何と云うこともなく動搖《どうよう》して来る心を感じている。 「大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか? 郷子さんに逢《あ》えますかしら?」 「大丈夫ですよ、――自動車《じどうしゃ》を探して飛《と》ばしますから‥‥」  岡部は雨の路地《ろじ》を走り抜けて行った。  郷子へ対する、燃えるような感情に抗しながら、岡部は東京駅《とうきょうえき》まで自動車を走《はし》らせたが、入場券を手にしてホームの階段《かいだん》を馳け上って行くと、下関行《しものせきゆ》きの夜汽車がごとんと、大きく揺れて静かに動《うご》き出している処であった。 [#9字下げ]○  律子の姿《すがた》が小さくなるまで郷子《くにこ》は車窓から顔を出していたが、ホームを出はずれると、車窓に雨がびしゃびしゃ降りかかって来たので、郷子《くにこ》は静かに硝子戸《ガラスど》を降ろした。  東京《とうきょう》を去るとなると、急に薬王寺《やくおうじ》の家がなつかしかった。雨ゴートをぬいで郷子が膝の上でたたんでいると、誰か郷子《くにこ》の肩を叩くものがある。 「まあ? 何時《いつ》乗っていらっしたンですの?」  岡部が滴のしたたっている蝙蝠傘《こうもりがさ》を片手に、郷子を見降ろしていた。郷子《くにこ》はしばらく口がきけなかった。 「汽車《きしゃ》が動き出したら、急に二等車の方へ飛《と》び乗《の》っちゃったンです‥‥」 「まァ!」  郷子は動悸《どうき》がしていた。人の愛情と云うものを、こんなに正直にみせられた事《こと》がないだけに、郷子は、呆れて岡部《おかべ》の顔をみあげていた。 「食堂《しょくどう》へ行きましょうか?」 「ええ、でも、どうして、この汽車《きしゃ》がわかったンでしょう? ――どうして乗《の》っていらっしたのですの?」 「佐山《さやま》が東京の病院へ戻って来ているンですよ、知《し》っていますか?」 「まァ! ほんとですか? 知《し》りませんわ‥‥」 「僕も今日|友人《ゆうじん》に聞いたンですよ、――どうして知《し》らせてくれないのか、僕には、一寸解せないのですがねえ、――明日《あす》、あなたを訪ねて、佐山を驚かせてやろうと思《おも》ったンですよ‥‥」 「それで薬王寺《やくおうじ》へいらっしゃいましたの?」  二人は食堂へ行って、空《あ》いている席へ向いあった。富士山で雪焼《ゆきや》けしたのか、岡部は色が黒くなっていた。 「だって、お帰《かえ》りになっているのに、佐山さん、どうして知らせて下《くだ》さらないのでしょう?」 「どう云う心境の変化《へんか》ですかねえ‥‥僕は、佐山が、色んな意味《いみ》で悩んでいるンじゃないかと思《おも》うンだけど‥‥」 「でも、東京《とうきょう》へ戻っていらっして、私達に何も知《し》らして下さらないてありませんわ‥‥」  二人の前に熱い紅茶《こうちゃ》が運ばれて来た。  岡部が郷子の紅茶へ砂糖を入《い》れてくれた。 「お父さんがお悪《わる》いンですって?」 「ええ‥‥」 「大変ですねえ、――それで、当分《とうぶん》あっちにいられるンですか?」 「父《ちち》の病状によってですけれど‥‥」 「お父《とう》さんもよくなられるといいですね」 「――岡部さんには、拝借《はいしゃく》しっぱなしで、私、さっき、お手紙を三鷹の方へ出しておきましたンですけど‥‥」 「まァ、そりゃァいいでしょう。早《はや》く帰っていらっしゃい、――明日、僕は佐山《さやま》に逢いに行きますよ」  郷子は急に匙を白い卓布《テーブルクロス》の上に置いて、雨の降っている窓外を眺《なが》めていた。泣くまいと思っても眼尻に涙《なみだ》がよって来る。 「僕は横浜《よこはま》で降りましょう」  岡部はどの辺かしらと暗《くら》い外をのぞきこんでいた。 「私、このまま、東京《とうきょう》へ帰りたいけど‥‥」 「お父さんが悪《わる》いンだもの仕方がないじゃァありませんか、明日《あす》、僕から佐山によく云っておきましょう、――いま、小見山《こみやま》は大阪にいるンですが、まァ、次手《ついで》でもあったら、小見山の事務所も尋《たず》ねてごらんなさい」 「ええ有難《ありがと》うございます‥‥」  横浜へ着くと雨《あめ》はやんでいたがホームは寒い風が吹いていた。岡部《おかべ》は湿った帽子を振って郷子を見送《みおく》ってくれた。 [#9字下げ]○ 「私は、なにもねえ、そのお金《かね》がどうって云うのじゃありませんよ、――いまどきの若いひとは、どうして、そうした、ぬけぬけとしたことが平気《へいき》なンだか、私は、それを怒っているのよ‥‥」  律子はさっきから一言も返事《へんじ》が出来なかったが、大野夫人が、そんなに郷子《くにこ》を憎んでいるのかと、いまさら吃驚《びっくり》していた。 「あなたの叔父《おじ》さんが出征なさるから、それで友達《ともだち》と家を借りるから‥‥そんなお話だったんでしょう? その敷金《しききん》と云うのは?」 「ええ」 「まさか、郷子さんと一|緒《しょ》だなンて思いませんよ。――何《なに》か知らないけど、それを聞いて、私むかむかして仕方《しかた》がないのよ、私、お人良しで、みんなにからかわれてるみたいじゃないの?」  良人《おっと》が亡くなってから、良人の八九年間の秘密《ひみつ》が夫人の前へさらけ出されると、持ってゆきようのない腹立《はらだ》たしさを、夫人は桜木町の家の者や、そこに住《す》んでいた郷子へ、露骨に感じている。 「戸田が、郷子さんを桜木町《さくらぎちょう》へ連れてったンですってね?」  律子《りつこ》は、少しばかりの敷金を夫人に用立って貰ったばかりに、こんなに叱《しか》られなければならない理由が莫迦々々《ばかばか》しかった。  夫人はどんなにか良人《おっと》を愛していたのだろうとは思われるけれども、九|年間《ねんかん》も良人にだまされつづけている人の良さは、律子《りつこ》には大野夫人に、何か欠陥があるようにも思《おも》えるのだ。 「奈津子《なつこ》だって、私のところへは一度も来《き》やしないのよ、――あのおばあさん私を何だと云って、あの子供《こども》に吹きこんでいるンでしょうねえ‥‥」 「――あら、だって、奈津子《なつこ》さん、こちらへ来ると、奥さまに叱られるって思ってるンじゃないでしょうか?」 「まさか、尾を振《ふ》って来る犬は撲たれないって云うじゃないの、――郷子《くにこ》さんだってそうよ、一度位は、私に、あやまりに来《き》たっていいと思うの、――少しお高《たか》くかまえてますよ、あのひとは‥‥」  小見山との問題《もんだい》までかつぎ出して、夫人は怒っているのだなと、律子はにやにや心で笑《わら》っていた。  夫人は黒い羽織《はおり》を着て、ソファに凭れていたが、律子は不図、未亡人《みぼうじん》になった、この美しい夫人は、これからさき、生涯《しょうがい》一人でいるのかしらと考《かんが》えている。  十年近く、良人《おっと》には恋人があって、しかも、その間には可愛い子供《こども》までこしらえて、二人は死んでしまっている。全く、悪《わる》いことには、今は、憎さも憎しの相手の二人は亡《な》くなっているのだ。――老人《ろうじん》や子供相手では、この夫人も敵打《かたきう》ちをするわけにはゆかないじゃないの、と、律子が卓子の上にある煙草《たばこ》を一本取って、勢よくマッチをすると大野夫人は驚いたような顔をして、 「まァ! 宮田さん、あなた、煙草を喫《す》うようになったの?」  と呆《あき》れている。 「ううん、別《べつ》にほしくはないンですけど、ここへあんまり沢山|這入《はい》ってるンで‥‥だって、沢山あると、一寸|誘惑《ゆうわく》されちゃうわ」 「あなたたち、いったい、女《おんな》三人で、どんな生活をしてるンでしょうねえ、――出征《しゅっせい》なさる時、あなたのとこの叔父《おじ》さんがみえて、とても心配《しんぱい》だって、云ってたわ‥‥」 「何時でも、くだらない心配《しんぱい》してるンですよ。姪《めい》のことより、魚のくさらない用心《ようじん》しなさいって喧嘩《けんか》してやるンですの‥‥」  律子は不器用《ぶきよう》な手つきで、煙草を一口喫ってみたが、煙《けむり》を咽喉に入れたのか、急にこんこん‥‥と激しい咳《せき》をしだした。 [#9字下げ]○  十月二十六日、武漢陥落《ぶかんかんらく》の号外が全国を火の粉のように飛んだ。 「どれよ? 一寸、見《み》せて、見せて頂戴!」  座敷の壁に張《は》りつけてある、支那全図の前に立って、律子が、漢口《かんこう》のところへ、赤鉛筆で日の丸の旗《はた》を小さく描いている。一枝と奈津子は見せて見《み》せてと、律子の横から地図を覗きこんで来た。 「ねえ、素晴《すば》らしいじゃないの‥‥ほら、上海から手で計《はか》ったってこんなに遠いわ、日本って強《つよ》いわねえ‥‥」 「アメリカのママ達も、嬉《うれ》しがってるわ、きっと、――律子さんの叔父さん、どの辺《へん》に征ってらっしゃるの?」 「さァ、どの辺《へん》でしょうねえ、――叔父さんは歩兵《ほへい》なのよ、がんばりの強い人だから、大丈夫だと思《おも》ふンだけど‥‥」 「私達も行《い》ってみたいわね、――うちの店も、大陸進出《たいりくしんしゅつ》のプランをねっているらしいのよ、北京と天津と、上海《シャンハイ》に店を出すンですって‥‥」 「一枝さん、そしたら行《い》けばいいじゃないの‥‥上海って行ってみたいわねえ、何《なに》か私達にも出来《でき》ることはないかしら? じっとしていられないわ――」  律子は心のうちで、一足飛びに戦地《せんち》へ行ってみたいと思っていた。 「私の学校友達で、陸軍《りくぐん》の方のタイピストで、上海へ行ってる方《かた》があるの、――いまごろ、もう漢口へ発《た》ってるかもわからないけど、私にも、来《こ》ないか、来ないかって、よく云って来たンだけど‥‥」 「行《い》けばよかったのに‥‥」 「ええ、今から思《おも》えば行けばよかったと思うわ」  律子は勝気で、誰《たれ》にも弱気なところをみせるのが好《す》きではなかったので、律子がひそかに小見山を愛していることなぞ誰も知《し》らなかった。  小見山が郷子に求婚《きゅうこん》をしたと云う事を知って以来、律子は、大野《おおの》の事務所に務めているのも心苦しかったのだけれど、心苦《こころぐる》しいと云うことに負けて、他に職業を求め探《さが》す事は律子の自尊心が許《ゆる》さなかった。  小見山が大阪へ行《い》ってしまうと、律子はかえってほっとした気持でいた。 「ねえ、植村さんも、漢口陥落《かんこうかんらく》知っているかしら?」  奈津子が、律子《りつこ》の肩に負ぶさるようにして聞いている。奈津子は郷子達《くにこたち》の、この小さい家がすっかり気に入《い》ってしまって、この頃では一人で電車《でんしゃ》に乗って遊びに来ていた。――大野が、受取人を奈津子の名義にして、ひそかに保険《ほけん》をかけていたことも、大野夫人は口惜《くや》しがっていたし、どんなに名義人《めいぎにん》が奈津子のであろうとも、そんな金を、自分《じぶん》の知らない子供へやるのは厭だと云って、大野が亡くなって以来《いらい》、夫人は桜木町へ一銭の資送りもしないのだと事務所《じむしょ》の評判になっていた。 「植村さん、早く帰《かえ》って来るといいわね」  奈津子《なつこ》が待ち遠しそうに云った。  一枝は台所で夕飯の支度《したく》をしていたが、急に大きい声で、 「ねえ、律子《りつこ》さん、私、上海のお店の支店が出来たら行ってみようかと思《おも》うのよ、どうかしら?」  と尋ねている。  律子は、玄関《げんかん》へ国旗を出して来ると、泊って行くと云う、奈津子《なつこ》をからかいながら、大野の家の誕生日《たんじょうび》の夜を思い出していた。 「ねえ、奈津子さんは一等|誰《たれ》が好き?」 「お父《とう》さんよ、それからお母さん‥‥それからおばあさん‥‥」 「それから?」 「――それから? それからか‥‥植村《うえむら》さん‥‥」  律子は、笑いながら、こつん[#「こつん」に傍点]と奈津子の頭を本《ほん》で叩いた。 [#9字下げ]○  郷子は湖上《こじょう》をゆく白い周遊船を二階から眺めていた。父は病気《びょうき》で寝ついたが、東京へ電報を打つような状態《じょうたい》でもなかったのだ。  先へ帰っているはずの敬太郎《けいたろう》は戻っていなかった。  大阪の雨宮との結婚話《けっこんばなし》がとんとん拍子に運んで、十二月の佳い日を選《えら》んで、もう式を挙げるところまで手順《てじゅん》がきまっているのだと、父にきかされ、郷子は茫然《ぼうぜん》としていた。  嘘をついた敬太郎にも腹《はら》をたてていたが、郷子は自分の意志《いし》をたしかめもしないで、ここまで独断できめている父と義母《はは》に、云いようのないふんまん[#「ふんまん」に傍点]を持っていた。  昼から、瀬田《せた》の叔母と、郷子は大阪へ見合《みあ》いに行くことになっている。  郷子はさっき、寝ている父の枕《まくら》もとで、佐山への日頃の気持《きもち》を打ちあけたのだけれど、平造はぶっきらぼうに、 「それはお前の勝手《かって》にきめたことで、そんなことは許されんなァ‥‥名譽《めいよ》の負傷をしたひとではあっても、それとこれとは違《ちが》う‥‥将来のことを考えたら、ここのところは一|家族《かぞく》がよい[#「よい」に傍点]ときめた方へ進んでゆくのが、お前の道《みち》だよ、――うちの事かて、よう考えて貰《もら》わんことには仕方がない。あんたも女学校《じょがっこう》まで出て、よう、ものの善悪《ぜんあく》知ってるンやないか、敬太郎はまだ、これからのもので、海のものやら、山《やま》のものやらようわからんところへ持って来《き》て、あんたが働いたところで、せいぜい自分《じぶん》が食って通るだけのもンやぜ‥‥」 「私が、どうして、ここの家をそんなに責任《せきにん》を負わなくちゃならないンでしょうか?」  平造はじっと郷子の顔を見ていたが、急に起きあがると、郷子《くにこ》の髪をつかんで引ずりまわした。枯れたような父の手首《てくび》を、郷子は両手でしっかりつかんで黙《だま》って泣いていた。薬袋をさげて這入って来た義母《はは》が、二人のなかへ割りこんで来たが、郷子《くにこ》は、髪を引ずられていた方が、父と娘《むすめ》の気持をじかにぶっつけ合っていられるような、そんな、親子《おやこ》らしいものを感じていたのだ。  二階のマツエの部屋へ郷子《くにこ》が上がってゆくと、すぐ義母があとから上って来て、もう、何も彼も行き詰ってしまっている状態《じょうたい》を説いて、今日、大阪へ行って見合いだけは済《す》ましてくれと頼《たの》んでいる。  家も土地もとっくに人の名前《なまえ》になっていることを郷子はきいたけれど、こんな古い家《うち》なんかのために、自分が知らない家へ嫁《よめ》に行かなければならない理由《わけ》がどこにあるだろうと、心で反|抗《こう》していた。 「お父さんは、その兵隊《へいたい》さんのこと、とても反対《はんたい》なンですよ、――しかも、こんなことを云っては済まないのだけど、負傷《ふしょう》をなすっていらっしゃれば、なおさら、郷子《くにこ》さんの将来を考えるンだっておっしゃるンだけどね、これも無理《むり》のないことじゃないかしら?」  義母が階下《した》へ降りてゆくと、郷子はあんまり泣いたので頭《あたま》が痛くなっていた。  あんなに待った佐山《さやま》は、東京へ戻って来ている‥‥、行き違いでついに逢《あ》うことも出来なかったが、郷子はいまにも飛《と》んで行って佐山に逢《あ》いたかった。  階下では瀬田の叔母《おば》が来たのか、大きい笑い声がしていた。昼《ひる》の支度の、魚を焼く臭いがして来《く》る。  郷子は大阪へ出たら、大阪《おおさか》から夜汽車にでも乗って東京へ帰って行こうと思《おも》った。トランクから財布を出して中味《なかみ》をしらべてみたが、五円札が一枚しか残《のこ》っていない。  郷子は、妹の机を開けて、財布《さいふ》はないかと探してみた。――始《はじ》めて東京へ出るとき、父の金を盗んだことを思い出して淋《さび》しい気持だった。――妹の財布の中の二三枚の銅貨《どうか》を見ると、郵便局に勤めては、家に貢いでいるマツエの真率な日常に、郷子は精《せい》も尽き果て、そこへ坐ってしまった。 [#9字下げ]○  郷子は、叔母《おば》に連れられて大阪へ行《い》った。  西成区の玉出本通りにある、小西《こにし》と云う小さい旅館で、雨宮達に逢うことになっていた。  郷子は叔母が、今日《きょう》の日の為につくってくれたと云う、さや形に小菊《こぎく》ちらしの錦紗の羽織を着ていた。  奥まった二階の部屋《へや》に、塗り桶の手焙りが三ツ四ツ置いてあって部屋には香《こう》がたきしめてある。郷子は狭い縁側《えんがわ》に出てみた。  屋根の上に植木棚がつくってあって、植木《うえき》が煤けた色をしていた。 「郷子さん、まだ、時間《じかん》があるから、あんた、顔を洗わして貰《もら》いなさいよ‥‥」  叔母《おば》が袂から朝日を出して吸いつけながら云《い》った。  郷子は朝から蒼い顔《かお》をしていたのだ。 「――何べんも汽車で云《い》うてあげたように、くよくよせんで、もう皆《みんな》が、ええと云うほうにしたらいいのよ、雨宮さんとこへ嫁に行《い》ったら、あんたは、そのうち、叔母さんにお礼《れい》を云うようになりますよ」  郷子は黙っていた。庭の筧の水が、大きな手洗《てあら》いのなかへ満々と溢れているのを、郷子《くにこ》は二階から眺め降《お》ろして、このままここから逃げてしまってやれと云った気持《きもち》がしきりだった。  一時間ほどして、雨宮《あめみや》の来たことを女中が二階へ知《し》らせに来た。  やがて梯子《はしご》段のあたりがざわざわして来《く》ると、郷子は急に膝をたてて、叔母の耳もとに唇《くち》をよせて、 「やっぱり、私、顔《かお》を洗って来ます」  と、さっき御不浄へ行く時に降りて行った裏梯子《うらばしご》から急いで階下へ降りて行《い》った。 「あれが雨宮の息子《むすこ》さん? 随分耳の大きいひとですなァ‥‥」  玄関で女中達《じょちゅうたち》がそんなことを云っている。郷子は素知らぬふりをして玄関《げんかん》に出て行き、女中に下駄を出してくれと云《い》った。 「どこぞへお使《つか》いですか?」 「ええ、一寸、そこまで、用事《ようじ》がありますの、すぐ戻って来ますわ」 「お使《つか》いでしたら、番頭さんいますから‥‥」 「ええ、ありがとう、大丈夫《だいじょうぶ》ですわ、すぐなンですもの‥‥」  女中が郷子の草履《ぞうり》を出してくれると、郷子はそれをつっかけて犬走《いぬはし》りの石道を走るように門の外へ出て行《い》った。  どの家にも日《ひ》の丸の旗が出ていて、祝武漢陥落の幕が、商店《しょうてん》の軒に張りめぐらしてある。  郷子は一生懸命、狭い街道りや、路地《ろじ》の中や、電車道をごたごたと歩《ある》きつづけた。 (私はもう、完全にたった一人《ひとり》になった、もう、これから、どうすることも出来《でき》ない‥‥)  黄昏頃《たそがれころ》の街の灯が、郷子には益々あわただしい気持《きもち》である。  湿った風が吹《ふ》いて、寒い黄昏だった。出鱈目に幾台かのバスへ乗《の》ったりして、郷子は何時か広い御堂筋を歩《ある》いていた。  大津へ帰ることも出来《でき》なければ、東京へ戻ることも出来ない。絶体絶命《ぜったいぜつめい》だと思うと、流石に郷子は迷子《まいご》になった子供のようにわくわくしている。  堂島にあると云う、小見山《こみやま》の事務所を郷子は思《おも》い出して、ハンドバッグから小見山の名刺を出してみたりした。(厚《あつ》かましいのだけれど、何とか頼ってみるより仕様《しよう》がないわ)郷子は自動電話を探して、小見山の事務所へ電話《でんわ》をかけてみた。 「皆さんお帰《かえ》りで、どなたもいらっしゃいませんが‥‥」  がちゃっと話が切《き》れた。  郷子は砂《すな》まぶれに汚れている電話の台の上へ、肘をついて、いっとき呆《ぼ》んやりしていた。  心配と疲労と空腹《くうふく》で、郷子はそこへよろよろとたおれそうになっていた。 [#9字下げ]○  郷子は大阪駅《おおさかえき》に近い金龍館と云う宿屋に泊った。  昨夜は一晩じゅう眠《ねむ》れなかったが、朝も早くから起きて、郷子はしょんぼりと火鉢《ひばち》にあたっている。  机の上には、書《か》きそんじの電報用紙が何枚か載っていた。律子《りっこ》へあてて現在の事情を報じたかったのだけれど、少い字数のなかでは何一つ満足《まんぞく》に書けないのだ。  隣室《りんしつ》との境になっている襖に、天高うして高きこと窮らず、地厚《ちあつ》うして厚きこと極り無しと古ぼけた文字が書《か》いてあるのを、郷子は心が定《さだ》まるまでいっとき読みかえしていた。  東京と大阪と、どんな違《ちが》いがあるのかわからないけれども、郷子は東京《とうきょう》へ出て行った時のあの大胆《だいたん》さはみじん[#「みじん」に傍点]もなくて、いまは大阪《おおさか》と云う都会に妙におびえている。  昼近くなって、郷子は帳場《ちょうば》のそばの電話室から、小見山の事務所へ電話《でんわ》をかけた。小見山の声がすぐ郷子の耳《みみ》についた。 「何時、大阪《おおさか》へ来たンです?」 「昨日、夕方、お電話《でんわ》したンですけど、もう、お帰《かえ》りになったあとでしたのよ――いろいろ、思《おも》いあまってしまって‥‥」 「どうしたンです? いったい?」  小見山はすぐ来《き》てくれると云った。  郷子は部屋《へや》へ戻って鏡台の前へ坐ってみたが、旅空《たびぞら》で小見山に逢うことが、心にとがめる気持でもあった。  小見山はすぐたずねて来《き》てくれた。 「しばらく‥‥どうしたンです? こんな処《ところ》へ来ているなンて知《し》らなかったなァ‥‥」 「ほんとに、私《わたし》だって、どうしていいンだか判《わか》らないンですもの‥‥」  郷子《くにこ》は率直に今度の見合の話を小見山に話《はな》した。 「驚《おどろ》いたひとだなァ! 叔母さんも吃驚していますよ、それじゃァ相手方《あいてがた》も驚いただろうなァ‥‥でもまァ、自殺《じさつ》なンかしなくてよかったですね」  小見山が冗談を云いながら、にやにや笑《わら》っている。 「昼飯《ひるめし》、どっかで食べましょうか?」 「ええ、有難《ありがと》うございます‥‥」  「まだでしょう? 大阪は魚が美味《おい》しいンですよ、――何《なに》がいいかな?」  小見山も、郷子《くにこ》も、「三保」のことには少しもふれあわない。  宿の勘定を済まして、二人《ふたり》は戸外で自動車をひろった。 「あのウ、佐山《さやま》さんね、東京へ帰っていらっしゃってるンですって‥‥」  賑やかな、「祝漢口陥落《しゅくかんこうかんらく》」の旗飾りを眺めて、郷子が、佐山の帰《かえ》って来たことを話した。 「へえ? 何時《いつ》です? 逢ったの?」 「いいえ、――私、大津《おおつ》へ帰る時、岡部さんにうかがいましたのよ‥‥」 「そうですか、佐山は帰《かえ》って来ているンですか?」 「私も、行《い》きちがいでお逢い出来ませんでしたけれど、そのうち、東京《とうきょう》へ帰ったら、病院へうかがおうと思《おも》っています‥‥」  小見山は、佐山が、もう郷子と結婚《けっこん》しているとおもいこんでいるのではないかと、心《こころ》の中で苦笑していたけれど、こうして、近々と郷子と並《なら》んでみると、急にまた「三保《みほ》」での想いが激しく戻って来て、男の面目《めんぼく》にかけても、郷子とは結婚したい慾望に燃《も》えた。  自分の身近《みぢか》なところで、郷子が息をしている。まぶしそうな眼で埃立った街を見《み》ている。耳朶《みみたぶ》がほてっていて、首《くび》すじがすっきりしている。  小見山《こみやま》は、自分にいけないぞ、いけないぞと云いきかしていたが、「男《おとこ》の血《ち》」が斧に撃たれたような痛さで熱く全身に渦巻いて来《き》た。 [#9字下げ]○  佐山は四囲《あたり》を眺めながら、楽々とした気持でソファに腰《こし》をおろした。 「やァ、今度は御苦労でしたね、――でも、思《おも》ったより元気で何よりだ。女房も、今日《きょう》、君が見えると云うンで、何か一|生懸命《しょうけんめい》つくっとるようですよ‥‥」 「いやァ、有難《ありがと》うございます」 「鉄道修理とか、警備《けいび》の方なんか、中々|危険《きけん》なンだそうですねえ?」 「はァ、何しろ、六七人位で修理《しゅうり》とか警備についているものですから、時々匪賊や敗残兵《はいざんへい》にやられましてねえ‥‥」 「大変だねえ、――腕は大分《だいぶ》いい方なの?」 「はァ、もう、このごろ大分|快方《かいほう》に向いまして、少しずつでも手が動《うご》くようになっているンですから‥‥」 「そりゃァいい、切断《せつだん》しないで済んだのは何よりですよ」  佐山は今日外出許可を得て、同郷《どうきょう》の先輩である、実業家の遠藤を、赤坂丹後町《あかさかたんごまち》の自邸へ尋ねて行ったのである。 「釜石の方へ入《はい》りたいと云う君の希望は中々結構だと思うし、製鉄所《せいてっじょ》の方にも、知人がいるので、二三日前に手紙《てがみ》を出しておいたンだがね‥‥その返事《へんじ》が来るんだろうと思っていますが‥‥」 「僕の専門《せんもん》の方でもありますし、――僕は、一生懸命働いてみたいと思《おも》います。只、腕がこんなだものですから、心配《しんぱい》されるンじゃないかと懸念《けねん》しているンですが。――何とか、御便宜を計って戴《いただ》けませんでしょうか?」 「そりゃァ、出来るかぎり尽力《じんりょく》はしますよ。釜石《かまいし》なんて選んだのはどうしたの?」 「いや、学生の頃、一ケ月ばかり講習《こうしゅう》に行ったことがありましてね、生々《いきいき》脈搏《みゃくう》っているような鉱山の生活や、土の動《うご》きをみていると、僕は学校を出たら、釜石へ就職運動《しゅうしょくうんどう》をしてみようと思った位《ぐらい》です‥‥」 「うん、そりゃァ、釜石は中々《なかなか》活気《かっき》のある町だし、現在の君の心境《しんきょう》にはいい場所かも知れんなァ‥‥」  そこへ遠藤《えんどう》の妻や娘が菓子や茶を運んで来た。 「ほら、これが問題の佐山君、――佐山君、家内《かない》と娘です、――娘の名前《なまえ》はキヌ子と云うンだが、性格は木綿糸のような剛健派《ごうけんは》でしてねえ‥‥」 「あら、お父様、ひどいわァ‥‥」  三|輪田女学校《わたじょがっこう》の五年生だと云う、娘のキヌ子が、母の後へそっと隠れた。  やがて女中が、食事の用意が出来たと知らせに来たので、佐山は客間《きゃくま》へ案内《あんない》されたのであったが、彫刻《ちょうこく》の見事な食卓につくと、戦場へ行ったことが夢のような気持だった。 「武漢《ぶかん》も陥ちたし、佐山君の健康も恢復《かいふく》したし、一つ、ここで乾杯をしよう」  昼の食卓とはおもえないような、なごやかな雰囲気《ふんいき》なので、佐山は家庭的なもてなし[#「もてなし」に傍点]を嬉しいものに思った。  キヌ子は、佐山の隣りに坐《すわ》って、箸《はし》を割ったり、小皿に料理を取りわけてやったりしている。  制服の姿態《したい》がのびのびしていて、箸を持っている手が透きとおるような美しさだった。  床の間には、何流と云うのか、薄紅《うすあか》い山茶花《さざんか》の花が鉄の大きな壷《つぼ》に活けてある。 「左の御手、まだ、全然《ぜんぜん》駄目《だめ》ですの?」  キヌ子がたずねた。 「ええまだ、こん辺《へん》までしきゃ動かないンですよ」 「あら、じゃァ、お茶碗《ちゃわん》はまだ、お持ちになれないのねえ‥‥」  キヌ子は、眉《まゆ》と眉の間に、仏様のような小さい黒子《ほくろ》があった。  笑うと深い靨《えくぼ》がある。  佐山は鯛の刺身《さしみ》を、さっきからキヌ子の醤油皿へひたして、盛んにぱくついている。キヌ子は時々佐山の手元を盗見《ぬすみみ》していた。 [#9字下げ]○  食事なかばに、女中が来客を知らせて来たので、遠藤は中座《ちゅうざ》して応接間《おうせつま》に出て行った。 「佐山さんは、御兄弟《ごきょうだい》はいらっしゃいますの?」  キヌ子が佐山に林檎《りんご》を剥《む》いてやりながらきいている。 「弟が一人います」 「あら、私も小さい弟が一人いますのよ、――佐山さんは戦争《せんそう》へいらっして、どんな事を考えていらっした?」 「戦争へ行ってですか? 別にどんな事って、そりゃァ色々《いろいろ》考《かんが》えますけれど、何時でも最前線へ出てみたいと思っていましたねえ、それから、亡《な》くなった母親の夢《ゆめ》をよく見ましたよ。父や弟のこともよく考えますね。――弟は農学校《のうがっこう》の方へ入っているンですが、家が貧《まず》しいので、満足なこともしてやれず、兄として面目《めんぼく》ないわけです。――退院《たいいん》したら、一寸、田舎へ帰ってみようかとも思っています」 「釜石《かまいし》にいらっしゃるって、どうして?」 「僕はもともと専門《せんもん》がその方ですから‥‥こんなに不自由な躯になっても、僕は、働ける自信はあるンですよ。――手足が満足《まんぞく》の奴だって働けない人間もいるンだし、僕は、この不自由《ふじゆう》な躯《からだ》で、釜石あたりへ行って、今までの何倍かの馬力で働いてみようと思うンです。――都会《とかい》にいて、形式だけで労《いた》わられるのはかなわないですからねえ。鉱山《やま》の中へ這入れば、くだらん悩みはなくなると思うンですよ。僕は、もう都会《とかい》は厭《いや》だなァ‥‥」 「私も、都会《とかい》はあまり好きじゃありませんわ。父の田舎へ行くたびに信州《しんしゅう》はいいところだって思いますもの‥‥」 「そりゃァ、一寸、旅行をして田舎を眺《なが》めるのはいいけれど、田舎の百姓の生活はとても惨《みじ》めですよ。戦友のなかにも百姓が沢山《たくさん》来《き》ていましたが、田舎の生活は辛《つら》いとこぼしていますからねえ、何時の時代だって、百姓は気《き》の毒《どく》ですよ‥‥」 「でも、今年は木綿の統制《とうせい》で、絹がいいってききましたけど、田舎《いなか》はどうなんでしょう?」 「大《たい》したこともありませんね‥‥」 「そうでしょうか?」 「信州《しんしゅう》へはよくいらっしゃいますか?」 「ええ、年《ねん》に二三回‥‥」 「じゃァ、愉《たの》しい帰省旅行ですね」 「皮肉《ひにく》ねえ、私だって、田舎の生活には感謝してましてよ」 「感謝《かんしゃ》か‥‥まァしないよりはいいでしょう」 「まァ憎《に》くらしい‥‥」  キヌ子の母が這入《はい》って来た。  昼過ぎに婦人会の用事で外出するので、佐山にゆっくり遊《あそ》んで行ってくれと云っている。 「お母様は、毎日、婦人会《ふじんかい》、婦人会でとてもお忙《せ》わしいのよ。お父様とそれで何時でも喧嘩《けんか》なの‥‥最後はお母様が愛国者《あいこくしゃ》で、お父様が非国民《ひこくみん》でけり[#「けり」に傍点]がつくの‥‥」 「何です、そんな‥‥ほんとに仕様がないンですよ、このごろ口が悪《わる》くなって‥‥」  キヌ子の母が出て行くと、玄関《げんかん》で自動車の音がしている。 「ガソリンは血の一|滴《てき》だなンて云っても、うちの母さんは、ああして毎日婦人会なンですもの‥‥」 「釜石《かまいし》へ行くようになったら、一度、ぜひ遊びに来て下さい。僕は一ケ月あそこにいた事があるンですよ」  時計を気にして佐山《さやま》が立ちあがると、キヌ子が、 「もっと遊《あそ》んでいらっして、病院へ自動車でお送りしますわ」 と云った。 「自動車? はははは‥‥ガソリンは血《ち》の一|滴《てき》って、今あなたに、教わったばかりですよ。僕は歩いて帰りますよ」 [#9字下げ]○ 「おい、戦友《せんゆう》、今日は、第二病棟で、音楽会があったンだぜ」  佐山が病室へ戻ると、隣のベッドの広瀬が絽刺《ろざ》しをしながら報告してくれた。 「また、凄《すご》いのが来たンだろう?」 「ああ真赤な洋服《ようふく》を着てね、腕も胸もまる出しの心臟《しんぞう》の強いのが来たよ‥‥」 「ビフテキみたいな歌をうたったろう?」 「眼《め》にも耳《みみ》にも毒だね、あんなのは‥‥」 「ああ、少し疲《つか》れた‥‥」  洗面台《せんめんだい》のところで、佐山がうがい[#「うがい」に傍点]をしていると、同室の小山が手紙を読みながらぽろぽろ泣いていた。 「戦友、どうしたンだい?」  佐山がベッドへ寄《よ》って行くと、 「家の馬がねえ、戦死《せんし》したと云って来たンですよ、ほら、これが尻尾《しっぽ》だそうですが、見ておくンなさい」  ばさばさに乾いた馬の尻尾《しっぽ》を、小山はつまみあげて佐山に見せた。 「私が召集《しょうしゅう》されると間もなく、家の馬も召集受けましてねえ、――私も戦場では家の馬には逢えんもンかと、何時《いつ》も注意しとったものです‥‥こいつは、始《はじ》めは家で百姓に使っとったンですがね、あとで私が馬力に使い出したら、とても力《ちから》がありましてねえ、召集《しょうしゅう》されて行っても、力のある奴だからと安心《あんしん》しとったンですよ、――坂へなどかかりますとね、一|旦《たん》立《た》ちどまって、それからガッと力を入れて引出《ひきだ》す力持ちでして、軍用になれば、ハモ[#「ハモ」に傍点]を外して、腹《はら》で引かなければならンので、力が出るかどうか、案じていたら、この手紙《てがみ》では家の馬が部隊《ぶたい》一番の力持ちと賞めて下すってるンですよ。丁度《ちょうど》今年八歳でしてね、全く、惜《お》しいことをしたと思っています。も少し生きておれば、力持《ちからも》ちですから、部隊でも助かったンだろうにと思《おも》います」 「何処《どこ》で死んだンだい?」 「黄梅《こうばい》と云う処だそうですよ、――夜明けに脚と腹をやられたらしいですね」  揚子江《ようすこう》北岸《ほくがん》の、黄梅と云うところを、佐山は壁の地図で眺めながら、 「黄梅か‥‥ここは激戦地《げきせんち》だからねえ、名誉の戦死だもの、僕達のように悩みがないだけでもいい訳《わけ》さ」  佐山が自分のベッドへ帰って行くと、広瀬《ひろせ》は、絽刺《ろざし》を膝の上に置いて、 「おかしな話《はなし》でねえ、さっきも隣室《となり》へ遊びに出かけたら、脚のない奴が、爪が痛むと云うンで、面白いもンだと話しあったンだよ、結局は、肉体《にくたい》の郷愁《きょうしゅう》と云う奴だろうと落ちがついたンだが、隣室《となり》のそいつは、中々元気者で、どんな心境なのか、悠々《ゆうゆう》たるものなンだぜ‥‥」 「それゃァ、見上《みあ》げた人物だねえ」  佐山は、枕元《まくらもと》にある郷子から来た手紙にふと眼《め》をとめた。 [#ここから1字下げ] ――お帰りなさいませ。 私はいま、大阪へ来ております。私に運《うん》がないのか、お帰りをお迎《むか》えにも参れませんで、東京出発の日に、お帰りを、岡部様《おかべさま》にうかがいましたようなわけです。何《なに》も彼も岡部様にうかがって戴《いただ》けたらとぞんじますが、私は、お恨《うら》みしてならない貴方を、自分で勝手にお恨《うら》みしてみたり、自分の不甲斐《ふがい》なさを自分でくやんでおります。いまでは永久《えいきゅう》にお目にかかれそうもございません。 [#ここで字下げ終わり]  佐山は手紙を二度ばかりくりかえして読んでいたが、激《はげ》しい怒りと熱情《ねつじょう》が湧きおこって来て、手紙をぴりぴりに破《さ》き捨てた。 (何故馳け戻《もど》って逢いに来てくれないンだ!)  佐山は十日程前に、岡部に逢《あ》って郷子のその後の生活をきき、郷子の戻って来る日を心待《こころま》ちにしていたのであったが、いまでは永久に逢えないと云う文面《ぶんめん》を見ると、佐山は(誰が逢うものか!)と心で怒鳴《どな》っていた。 [#9字下げ]○  郷子は小見山の家に寝《ね》かされていた。  堂島の裏町にある百姓亭《ひゃくしょうてい》とか云った料理屋へ小見山と夕飯をたべに行って、この日頃《ひごろ》の心労がこたえたのか、郷子は軽い脳貧血《のうひんけつ》をおこして、そこへたおれてしまった。  郷子はすぐ自動車で豊中《とよなか》の小見山の家へ連れて行かれて、客間に床をとって貰《もら》って、横になっているのだ。  郷子が眼を覚ますと、若い医者が枕元《まくらもと》に坐っていた。 「いま、注射《ちゅうしゃ》を打って下さるそうですから、ゆっくり、眠るといいですね」  小さい女中と婆やが、金盥《かなだらい》や手拭を病室へ運んで来ていた。  郷子は寒さで躯《からだ》ががたがた震えている。左の腕に注射をして貰って、暫《しばら》く眼をとじていたが、郷子は頭の芯《しん》が厭にはっきりしていて、深い悲しみが、涙になって、耳朶《じだ》に溢れ落ちて来た。  医者が帰って行くと、小見山は郷子の枕元《まくらもと》に坐って、 「どうして、そんなに考《かんが》えてばかりいるのです? くだらない事なんか考えないで、ぐっすりよくお眠ンなさい、――東京へは僕《ぼく》もどうせ行かなくちゃならない用事《ようじ》もあるンですから、一緒に行《ゆ》きますよ」 「‥‥‥‥」 「元気を出すンですよ、元気を、――そんな弱《よわ》い気で、どうするンです?」 「ええ、でも、こんな、お世話《せわ》をかけたりして、ほんとに済みません‥‥」  庭の木に夜風《よかぜ》が吹きつけていた。 「何も心配《しんぱい》することはありませんよ、あなたはあんまり考《かんが》えすぎるところがあっていけない。もっと力を出さなくちゃいけませんよ。――あなたは自分《じぶん》の感情《かんじょう》のなかだけに生活しすぎる人ですね」 「そうでしょうか?」 「或る有名《ゆうめい》なひとがこんなことを云ってるンですがねえ、錨さえしっかりしておれば、どんなに世の波風が荒かろうとも、私は泳《およ》ぎ切る。けれど、何と沢山の幸福《こうふく》が私から失われたかは、あなたも認《みと》めるだろうと云う言葉なンです。今のあなたは丁度《ちょうど》それなンだ‥‥」 「ええ‥‥よくわかりますわ。でも、私《わたし》は、いまの私は、そんな考《かんが》えでもないンですのよ」 「じゃァ、どうなンです?」  郷子はぱっと眼をあけた。  小見山の眼鏡《めがね》の奥の眼がきらきら光《ひか》っている。 「あなたが、そんなに佐山を愛《あい》しているとは思《おも》いませんでしたよ‥‥」  小見山《こみやま》はふっとそう云って、火鉢《ひばち》に震える手をかざしていた。 「僕も佐山には一度逢いたいし、あいつは、僕の一|番《ばん》信頼《しんらい》している友人《ゆうじん》なんですからねえ‥‥」  郷子はじっと小見山《こみやま》の顔を見上げていたが、 「私が、佐山さんに持っている気持は、一つの尊敬なのです。お逢《あ》いした動機は実に浅《あさ》い男と女の間柄《あいだがら》であったかわかりません‥‥けれど、あの時《とき》、藁でもつかみたかった、私の不安な感情のなかに、佐山さんが手をのばして下すった運命《うんめい》には、私、とても感謝《かんしゃ》しているンです。――こんな女心《おんなごころ》っておかしいでしょうか?いけないのでしょうか?」 「ちっともおかしかありませんよ」 「私は始めて都会《とかい》へ来て、痩せ犬《いぬ》のようにうろうろしていたのですからねえ、佐山さんへは、私、何より、感謝の気持がいっぱいなンですもの。――でも、佐山《さやま》さんからは最後《さいご》にきびしいお手紙《てがみ》を戴きましたわ。あなたは、あなたで積極的《せっきょくてき》に自活するようにって、――でも、私は佐山さんへの尊敬や、愛情を殺してまで、このままお逢いしないで済《す》ませるの厭《いや》なのです――」 [#9字下げ]○ 「小見山《こみやま》さん、私は、この頃《ごろ》、一度だって死んでしまいたいなンて思ったことはありませんのよ。――どんなに不幸な目にあっても、私は生きてゆこうと思《おも》っています。こんな生《い》きかただってあり得るし、私《わたし》はまだ本当に若《わか》いンですもの、私が少しばかりでも幸福になることがあれば、きっと、怒っている肉親の者達だって許してくれると思《おも》うンですの、――私が、不安《ふあん》な生活をしているから、みんなが、私《わたし》を怒ったり心配《しんぱい》したりするンですわねえ‥‥短い間でしたけど、私、東京の生活《せいかつ》で色々なことを学びましたわ」  だいぶ夜が更けている。小見山は東京行きの列車の時間表《じかんひょう》を時々めくっていた。中々《なかなか》寝《ね》られないのだ。 「――私《わたし》、父にも義母にも、佐山《さやま》さんのことを話しましたのよ、だけど、とても反対だったンですの‥‥今度の事変に深い関心を持ち、さまざまな形で、兵隊さん達に感謝の表現を演じている世間にも、いざ、個人の問題になって来ると、自分たちの利害を考えてしまう人も相当にあるんじゃないかしら、私の父や義母《はは》だってそうなンですから、今度《こんど》の戦争で、色々な問題《もんだい》があるだろうと思いますわ」 「そりゃァ、ありますね。根本的なものがないンだ。台石《だいいし》のないところへ柱《はしら》を建てようとしているような情勢《じょうせい》じゃないのですかね、末梢的《まっしょうてき》な言葉の上のみにとらわれて、人間的な、大切なものがととのっていないし、あなたの場合は、昔《むかし》からのことなかれ[#「ことなかれ」に傍点]の結婚《けっこん》を、御両親が選ばれたと云うのも、これは、あなたの家庭《かてい》のみじゃないと思いますよ‥‥」 「ええ、私もそう考えて無理のないことだとは思《おも》いますけれど、私の躯《からだ》と、お金と換えるような結婚《けっこん》、考えただけでも吐気《はきけ》がしますわ。――父に逆《そむ》くことは悪いことかも知れませんけれど、月日がたてば、きっといまの不孝を報いかえす時《とき》が来ることもあると思《おも》っていますの‥‥」 「あなたの気持《きもち》を、僕も佐山に伝えますよ」 「ええ、有難《ありがと》うございますわ。でも、あの方、とても勝気な方、何だか、それこそ変なこだわり[#「こだわり」に傍点]を持っていらっしゃるンですのよ。このまま佐山《さやま》さんのお手紙通《てがみどお》りにするようだと、私も佐山さんも永遠《えいえん》に路傍の人《ひと》なンですからねえ、――私は、あの方が、どんなにひどい躯になって帰っていらっしても、私、ちっとも驚かないつもりですわ。時々《ときどき》、そりゃァひどい不具《かたわ》になった佐山さんの夢《ゆめ》を見るンですけど、私《わたし》、かえって、その佐山さんに、私の気持は走って行っているンですの‥‥」  ごうごうと風の吹きつける音がしている。電灯《でんとう》が小さくまたたいていたが、ふっと灯が消えて四囲が暗くなった。 「只今、あかりを持って参《まい》ります‥‥」  階下《かいか》で婆やの声がしている。  風の音がいっそう凄《すさ》まじくなった。  小見山は息苦しさをはらいのけるように、梯子段《はしごだん》の方へ手探りで出《で》てみた。 「おい、早く蝋燭《ろうそく》を持って来てくれよ」 「あのう、旦那さま、お電話《でんわ》でございますが‥‥」  階下に、急にぼおーっと蝋燭の灯がただよい、婆やが電話《でんわ》を知らせに来《き》た。 (こんな、ひどい風《かぜ》の晩に、いったい誰だろう‥‥)  小見山が階下へ降りて電話口《でんわぐち》へ出ると、 「私、宮田《みやた》ですのよ、いま、こっちへ着きましたよ‥‥」 「何だ、律子さんか、――何処《どこ》にいるの?」 「梅田《うめだ》の駅にいますのよ、これからじきうかがっていいでしょうか?」 [#9字下げ]○  十二月にしては、珍《めず》らしくからっと晴れた、暖い日であった。  神宮外苑のなかを、岡部は天文台長の娘の雪江《ゆきえ》と、その妹の千鶴子《ちづこ》とぶらぶら歩いていた。  千鶴子はまだ女学生《じょがくせい》で、自転車に乗《の》ってゆるゆると姉の横にくっついて来ている。 「それで、佐山さんは、何時、釜石《かまいし》へいらっしゃるンですの?」 「正月にはもう出掛《でか》けると云っていますがね」 「正月って云うと、もう、一週間もないじゃァありませんか、――お躯は大丈夫《だいじょうぶ》なのかしら?」 「とても元気《げんき》ですよ、働くことを考《かんが》えると力が湧いて来ると云うンだから、大したものですよ‥‥」 「ねえ、岡部《おかべ》さん」 「ええ?」  千鶴子がひょいと自転車《じてんしゃ》から飛び降りて、 「この間、病院へお見舞いに行ったンだけど、傷病兵の方《かた》、とてもお元気《げんき》ね、――田舎《いなか》の方《かた》がいっぱいらっして、色《いろ》んな言葉《ことば》で話していらっしゃるのよ。誰も知った方がないンで淋しいンだって‥‥」 「色んな階級《かいきゅう》の人間が来ているンでしょうからね。どの方面《ほうめん》で負傷したひとが多かったですか?」 「あら、私、そんなこときかなかったわ」 「たよりないお見舞《みま》いですねえ」  千鶴子はまた自転車に乗った。そして、ちりんちりんとベルを鳴《な》らして野球場の方《ほう》へ行ってしまった。 「あの頃《ころ》が一番いいわ。戦争《せんそう》のことをどんなに考えているンでしょうね。私このごろ、新聞を読んで、日本が勝っていると云っても、妙に不安で仕方《しかた》がないの‥‥ねえ、私、貴方《あなた》と結婚しても、まだ職業《しょくぎょう》を捨てないでいたいと思《おも》うんですけど、いいでしょうか?」  岡部は雪江の歩調と合わせてゆっくり歩いていたが、何か急《きゅう》にとまどいしたものを感《かん》じて赧くなった。 「これからの私達《わたしたち》の社会は、どんなに変化《へんか》して行くかわからないと思いますの、私は、これより良い方へ変化してゆくとは、当分考えられないと思《おも》うンですけれど、岡部《おかべ》さん、どう、お考えになります? 私《わたし》、まだ、四五年は職業《しょくぎょう》を持っていたいと思いますけど‥‥」 「僕は、先日、貴女のお父さんに呼ばれて、貴女《あなた》のことをうかがったのですが、勿論《もちろん》、貴女が職業《しょくぎょう》に就いていらっしゃりたければ、僕《ぼく》は、それに不賛成はとなえませんよ」 「じゃァ、少しはお厭《いや》な処もあるのね?」 「いや、厭じゃありませんよ。ただ、二人の理想通りに行《ゆ》けばいいと云う不安《ふあん》だけですがね‥‥僕は、貴女が職業《しょくぎょう》を持って下さることにはむしろ賛成なんです」 「ねえ‥‥」 「何です?」 「私、先《せん》だって貴方のお部屋《へや》へうかがった時、不思議に思って、あすこの婆やさんに尋ねたンですけど、あんなに沢山あった御本を、みんな本屋《ほんや》に売っておしまいになったンですってね?」  岡部は、本《ほん》がなくなっていると云う、そんなところにまで眼のとどく雪江に驚きながら、 「婆さんは何《なん》と云《い》っていました?」 「ええ?」 「ええって‥‥貴女《あなた》がきいたことを云って下さい」 「貴方は、お好きな方の為に、その御本をお売《う》りになったンじゃありませんの? 何《なん》だか、そんな風なことをききましたわ」  岡部はしばらく黙って歩いていた。  赤いジャケツの千鶴子《ちづこ》が、落葉松《からまつ》の向うを、自転車《じてんしゃ》を光らせて走っている。 [#9字下げ]○  千鶴子《ちづこ》が自転車を愉しそうに乗《の》りまわしている。雪江は時々、千鶴子に手を挙げてやりながら、ゆるい歩調《ほちょう》で岡部に話しかけていた。 「別に、さっき、お話したこと、気にかけてなンかいませんけど、どんな女《おんな》の方《かた》かと思《おも》って、――でも、あんなに沢山《たくさん》あった御本が消《き》えてしまっていて吃驚したものですから‥‥」  雪江の黒い外套の裾が時々柔かい風《かぜ》にひるがえっている。  岡部は、郷子を佐山から紹介されたことや、郷子が金銭《きんせん》のことや家庭のことで苦《くる》しんでいること、本を売った金は郷子《くにこ》へ与えたことまでくわしく話した。 「そうして、いま大阪《おおさか》にいらっしゃるの?」 「いや、このあいだこっちへ戻って来ましたよ、――非常《ひじょう》に神経質な娘で、誰《たれ》か、そばについていてやらなければ、何《なん》だかあぶない感《かん》じのする人なンです‥‥」 「いま、その方《かた》、どうしていらっしゃいますの?」 「現在《げんざい》は勤めているようです。――戦場《せんじょう》から戻って来た佐山の感情が彼女に向って、まるきり冷たくなってしまっているようだし、何度も逢いに行ったンですけどねえ、何度《なんど》行っても佐山は逢おうとしないし、昨日《きのう》、目出度く、病院《びょういん》を出て、すぐ信州へ発って行ったンだけど、彼女に、除隊《じょたい》を知らせてくれるなと云うンですからねえ‥‥」 「まァ! どうして、そんなお気持《きもち》におなりになったンでしょう?」 「佐山《さやま》ですか?」 「ええ」 「心では非常《ひじょう》に愛しているンですがねえ‥‥自分《じぶん》の体を卑下してるだけじゃなく、何かじっくり考えているらしいンですね。釜石へ行ってからの、物凄《ものすご》い俺の働きをみてくれと云《い》っているンです‥‥」 「――ねえ、私、実際《じっさい》考《かんが》えてるンですけど、今度《こんど》の戦争で、佐山さんのような方が沢山あると思いますのよ、立派な、国家の設備も大切でしょうけれど、その方達《かたたち》に対する社会の人達《ひとたち》の大きな愛情や尊敬も大切《たいせつ》だと思っているンですのよ、――何《なん》だか、何時でも、上から呼びかけられてすることは、結果は何時の場合でもしみったれたものになるのね‥‥下《した》からにじみ出《で》るような力がなくちゃ「大協力《だいきょうりょく》」とか「総和《そうわ》」ということはむつかしいのじゃないかしら?」 「そうですよ、――だけど、星《ほし》ばかり見ている僕だって、この時代《じだい》に、何か一役、働きたいと云う気持《きもち》があるンだが、さて、それをどんな風に具体的に現わしていいか、佐山《さやま》のように、せめて出征《しゅっせい》する場合でもあったら‥‥」 「召集《しょうしゅう》は来そうですの?」 「来るでしょう」  雪江はふっと顔を染《そ》めて、 「ねえ、お父様は、とても、結婚式《けっこんしき》をお急ぎになるの‥‥あなたに、召集があるものとして、早く、式を済《す》ましておいた方がいいでしょうか?」 「貴女は?」 「私? 私、済《す》ましておいてもいいのじゃないかと思っていますわ‥‥」  岡部は胸《むね》が熱くなっていた。 「もしも、僕が戦死《せんし》でもしたらどうします? 悲劇じゃありませんか?」 「あら、そんなのは悲劇じゃないと思いますわ、――今だけの感傷《かんしょう》かも知れませんけど、その時は、私、貴方《あなた》を追って死んでしまうかも知れませんわ。悲劇《ひげき》と云うのは、お互に愛がないときに起る何《なに》かを云うのじゃないかしら‥‥私、わからないけど‥‥」  何時か、千|駄《だ》ケ谷《や》の駅へ来ていた。  岡部が省線へ乗るので、二人は千鶴子《ちづこ》を待っていたが、誰にもわからない早さで、岡部《おかべ》は手袋に包まれた雪江の手をしっかりと握《にぎ》った。 [#9字下げ]○  電気が皎々《こうこう》とついている広い部屋で、四十人ばかりの若い女がタイプライターのキイを叩いている。  郷子も今日で三日、このタイプライター教習所《きょうしゅうじょ》の夜間部へ通って来ているのだ。ガチャガチャと激しいタイプの音が間断《かんだん》なく耳にそうぞうしかったが、郷子は、キイを叩きながら、指の先にまで元気《げんき》の満ちあふれている自分を感《かん》じている。  ここを二ケ月で卒業《そつぎょう》すると、ここから色んな会社や官庁に就職《しゅうしょく》してゆくことが出来た。満州や、台湾や朝鮮《ちょうせん》あたりからの申し込みが多くて、教習所《きょうしゅうじょ》の壁には何時も就職先の会社や官庁からの求人の貼《は》り出しが出ていた。  郷子は電線工場の帰り、日頃の憂悶《ゆうもん》を払いのける為に、タイプライターを習《なら》い始めたのである。  四階の教習所の窓から、有楽町《ゆうらくちょう》の駅のホームが見える。ネオン・サインがキラキラ光っている暮の街を眺めて、郷子は、時々佐山の面影《おもかげ》を描いていた。  七時半には新橋《しんばし》の駅で、郷子は岡部に逢うことになっていたが、郷子は、段々《だんだん》岡部《おかべ》に逢うことが苦しくなっていた。  ガチャガチャガチャ‥‥金属《きんぞく》の音が、間断なく響いている。紙《かみ》を引きちぎる音、台を置きかえる音、郷子は或る貿易商会《ぼうえきしょうかい》の、麻縄輸出の書類を今日は叩《たた》かせられていた。 「あなた、どこか、お勤めしていらっしゃるの?」  隣りに昨夜《さくや》から一緒に同席している、断髪の娘が郷子に話しかけて来た。 「ええ、芝の電線工場に勤めていますの」 「あら、そう、いいのねえ、私は、これから職業《しょくぎょう》を探すのよ‥‥」 「どんな処《ところ》へお勤めなさりたいの?」 「私? 私は朝鮮《ちょうせん》から来てるンですけど‥‥父も兄も出征していて、私、祖母と母と妹《いもうと》二人と、全く、大変なンですもの、やっぱり朝鮮へ勤《つと》めますわ」 「まァ! お父様《とうさま》も出征していらっしゃるンですか?」 「ええ、父は大尉で、いま北支の方に行っていますけど、兄は、特務兵《とくむへい》でこの間出て行きましたわ‥‥」  青いジャケツを着て、度の強い近眼鏡《きんがんきょう》をかけているこの娘は、渡利鈴子《わたりすずこ》と云った。昼は神田に簿記《ぼき》を習いに行き、夜はこうしてタイプライターを習《なら》いに来ているのだと話していた。  黒板の上の電気時計《でんきどけい》が七時を廻ると、郷子は帰り支度を始めた。 「私も帰りますわ‥‥」  渡利鈴子が古い外套《がいとう》を着て、郷子の後から立って来た。  洗面所へ行って手を洗い、二人が昇降機《エレベエター》のところへ行くと、もう昇降機は停っていた。  二人は、寒いビルディングの階段《かいだん》を一階ずつ降りて行きながら、何時とはなしに同じ歌を唄っていた。   のぼりくだりの隅田川《すみだがわ》   かいの滴《しずく》も花と散る‥‥  郷子は比良《ひら》の雪の山々を想い出していた。 「女学校のころの歌《うた》って、なつかしいのね、渡利さんは、学校は何処《どこ》ですの?」 「私は京城《けいじょう》です」  ビルディングの下へ降りて行くと、谷間《たにま》のような寒い風が吹きつけていた。  日劇のところで二人は別れて、郷子は数寄屋橋《すきやばし》の交叉点から土橋の方へ歩いて行った。  岡部に会って、兎に角、佐山《さやま》のことを相談してみよう、そうして、なおかつ、佐山が、自分に逢ってくれないと云うのならば、郷子は蒲田《かまた》の母を引きとって、佐山が逢《あ》ってくれるまで、一生でも待つ決心《けっしん》でいようと思っている。 [#9字下げ]○  新橋の駅の入口で岡部《おかべ》は郷子を待っていた。  若々しくて、元気《げんき》のいい岡部の姿を見ると、郷子は走って行って両手《りょうて》にぶらさがりたいようなしみじみしたものを感《かん》じていた。 「お待ちになりました?」 「ああ、五分位かな‥‥」  二人は銀座《ぎんざ》の方へぶらぶら歩いて行った。  歩きながら岡部は、郷子の横顔《よこがお》をながめ、しゃくれた子供らしい顎に哀感《あいかん》を覚え、女一人が、こうした大都会に生きることのむつかしさを同情せずにはいられなかった。――かつては、いや、たったこの間までは自分も郷子に切《せつ》ない哀慕《あいぼ》の気持を持っていたのであったが、いまは最早その思いも虚空《こくう》の彼方に流星のように逝ってしまった。 「ねえ、郷子さん、今夜は貴女《あなた》に逢わせる人があるンですよ、逢《あ》ってくれますか?」 「あら! どんな方ですの?」 「女の人《ひと》です」 「女の人って‥‥どんな方? どうして逢《あ》わなければいけないンですの?」 「いや、そんな固苦しい人じゃありませんよ。――女子大《じょしだい》を出てねえ、そのひとは、いま外務省へ勤めているンです。是非、郷子さんを紹介《しょうかい》してほしいというので‥‥」 「まァ! 私をどうして知っていらっしゃるンでしょう?」 「その人は天文台長《てんもんだいちょう》の二番目の娘さんで、僕が時々、貴女のことを話すからですよ、――とてもいいひとでしてね、郷子《くにこ》さんがきっと喜んでくれると思《おも》うンだがなァ‥‥」  郷子は暫く黙《だま》って歩いていたが急にむっとした表情で、 「そんな立派《りっぱ》な女の方なンかと、私、お話なンか出来ませんわ」  といった。 「立派とか、立派でないとか、そんなひとじゃありませんよ。貴女《あなた》のいい友達になれそうなひとだから、僕が逢って下《くだ》さいというンです」  岡部は、時計《とけい》を気にしながら、エスキモーで待っている雪江《ゆきえ》の姿を考えていた。 「ところで、佐山が信州《しんしゅう》へ帰ったのを知っていますか?」  郷子はふと歩みをとめて、驚《おどろ》いたような表情で岡部を眺《なが》めた。 「信州の温泉《おんせん》に暫くいて、それから、来春早々釜石の鉱山へ行くンだそうです‥‥」 「‥‥‥‥」 「戦争から帰って、あんなに人生観《じんせいかん》の変った奴もないが――国家を助けるものは、百の議論《ぎろん》よりも、素朴《そぼく》の人民の、個々の実行よりほかにはないというのです。戦場から戻《もど》って来た日の淋しさは永久に忘《わす》れられないといっていましたよ。――釜石《かまいし》へ行って、男らしく働きたいンだそうです、あの躯《からだ》で大丈夫かどうですか‥‥」  郷子は、いまでは、佐山との遠い距離《きょり》を感じていた。 「――こんなこともいってたな、農夫は糧《かて》を、職工は物をつくり、鉱夫《こうふ》は坑道を探り、それから、兵士は外敵《がいてき》に対して内を護るし、司法官や行政官は個人《こじん》と社会の利害を統制しですね、商人は交易を、学者と芸術家は優秀《ゆうしゅう》な理想の馬を買いこんで来る‥‥まァ、この中の一つでもが狂って来ると大変なことになって来る。佐山にいわせると、内地《ないち》は腐敗《ふはい》して狂っているというンです‥‥利害《りがい》を自分個人にのみ考えすぎて、国を見失《みうしな》いつつありはしないかとさかんに心配していましたがねえ‥‥これから鉄に関《かん》するあらゆる研究をして、僕達を驚《おどろ》かすンだそうです‥‥」 「だって腐《くさ》っているなンて、内地の生活《せいかつ》だって、いまのところ、どうにもならないンじゃないでしょうか、――私達、どうすればいいのか、それを誰かに正直《しょうじき》に訊きたいンですけど‥‥」 [#9字下げ]○ 「佐山さんが逢って下さらない気持ね、このあいだ、偶然《ぐうぜん》に、私の友達の戸田《とだ》さんていうのが陸軍の看護婦《かんごふ》になって、しかも佐山さんの部屋の係りだったものですから、私、その戸田さんに逢って聞いてみたンですの‥‥」 「ああ、何時《いつ》かバスの中で逢った人ですね? 一|緒《しょ》にソーダ水を飲んだあの人でしょう?」 「ええ、そうですわ、――佐山さん、何もおっしゃらないンですって‥‥」 「どうです? 郷子さんは、いっそ信州《しんしゅう》へ行ってみませんか?」 「佐山さんのお郷里《くに》ね‥‥でも、私、そんなことしない方がいいンじゃないかしら? 訪ねて行ったら叱《しか》られそうですもの‥‥」 「そうでもないと思うがなァ‥‥」 「私、当分、一|生懸命《しょうけんめい》で働きますわ。何も彼もやりなおしで、――そして、母と二人で暮そうと思いますの。やっと、東京の生活《せいかつ》にもなれて来ましたし、このごろ、もう、私、捨身《すてみ》なのよ。――佐山さんも人生観《じんせいかん》がかわったかもしれないけど、私だって、やっと、この頃《ごろ》、色んなことがわかりましたわ」  二人がエスキモーへ這入って行くと、雪江《ゆきえ》が笑いながら手を挙げていた。 「随分待ちましてよ、お紅茶《こうちゃ》を二杯戴いたの‥‥」  郷子は、中高《なかだか》な品のいい雪江の顔を見て、固《かた》くなってしまった。雪江もマネの絵にあるような、ふくよかな郷子の姿を見て、ちらと、岡部に妬ましいものを感じたが、何時も癖《くせ》でする、つむってはぱっと大きく眼をみはる表情《ひょうじょう》で、郷子を優しく眺めていた。  岡部の紹介が済むと、郷子は手洗《てあらい》へ行ったが、雪江は悪戯《いたずら》ッ子《こ》のように肩をすぼめて、 「植村《うえむら》さんて綺麗な方ねえ、本をお売りになったのも無理がないわ‥‥」  と笑った。  岡部は一寸《ちょっと》赧《あか》くなったが、怒ったように、 「何です? それは皮肉《ひにく》ですか?」 「いいえ、皮肉《ひにく》じゃないことよ、――でも、二人で這入っていらっしゃるところ、おだやかでなかったから‥‥」 「紹介《しょうかい》しろといったのは誰です?」 「そりゃァ、私でしょう‥‥」 「私でしょうはないでしょう、――女の人って、怖《こわ》いからなァ‥‥」 「だって、私は、男のお友達《ともだち》なンかに、本を売ってまで助《たす》けてさしあげたってことがないでしょう? 男のひとは、女の方に、安々《やすやす》とそんな処があるのね。――どんな方かしらと思ったの、――あんまり綺麗《きれい》な方なンですもの‥‥」 「もうおよしなさい、そんな話‥‥」 「ええよしますわ、でも、あの方と、私、どんな話《はなし》をしてもいい?」 「星の話《はなし》でもしたらいいでしょう」 「ふふ‥‥貴方も人が悪いわ、千鶴子がいってたわ、岡部《おかべ》さんはお姉さんと結婚《けっこん》しても、あのひとは何時《いつ》も地球の外にいるって‥‥」 「どんな意味《いみ》かな?」  その時、郷子が二人《ふたり》の席へ戻って来た。  郷子がどっちの席に腰をかけようかととまどい[#「とまどい」に傍点]していると、雪江《ゆきえ》は自分の横に席《せき》を空けて、じっと岡部《おかべ》の眼の行方をたしかめている。 「岡部さんにうかがったンですけど、植村《うえむら》さんは、タイプを習《なら》っていらっしゃるンですってね?」 「はァ、まだ、でも、二、三日ですの」 「東京へは何時《いつ》いらっしゃいましたの?」 「この、正月に参《まい》りました」  郷子は返事に困って、まぶしそうに時々《ときどき》うつむいている。  やがてボーイが食事《しょくじ》を運んで来た。  雪江はなれた手つきでパンにバタを塗っていた。郷子《くにこ》はふっと、岡部《おかべ》の顔をみつめ、戦争はどこにあるのかと思《おも》った。 [#9字下げ]○  今日《きょう》は、正月二日、長閑な陽射《ひざ》しが、新しい障子にぱっと明るくはえて、落葉松の谷間を渡る鶯の声が、何とも云いようのない涼しい声音《こわね》だった。  炬燵にもぐって、薄雪のかかった谷間の景色を見ていた佐山は、鉄道案内《てつどうあんない》を櫓の上に置《お》いて、ぱらぱらと地図《ちず》をめくっている。  峠越えには馬と駕籠《かご》があるのだそうだ。  海抜八八七米の仙人峠を、黙々と登っている自分《じぶん》の姿を佐山は微笑して考《かんが》えていた。  製品年産額、銑鉄《せんてつ》十八万五千|瓲《トン》、鋼材《こうざい》九万五千瓲、鋼塊十二万五千瓲、佐山は鉛筆で地図をたどりながら、何時か遠野の旧城趾にある鍋倉神社《なべくらじんじゃ》に参拝した学生の日のことを考《かんが》えていた。太平洋の波の荒い三|陸沿岸《りくえんがん》の風景もなつかしい。 「佐山様、東京《とうきょう》からお客様でございます」 「お客様? 誰《だれ》です?」  佐山が梯子段を降りて行くと、遠藤氏の娘のキヌ子が、小さい弟を連れて、スキー姿《すがた》で玄関に立っていた。 「やァ、いらっしゃい、お父《とう》さん一緒ですか?」 「いいえ、途中で別れて、私と章《あきら》ちゃんと、佐山さんの温泉《おんせん》訪問《ほうもん》に来たのよ、――去年《きょねん》もここの十二沢のゲレンデで滑《すべ》ったの、ね、章ちゃん‥‥」  佐山《さやま》は暮から、上林温泉の関屋《せきや》へ泊っているのであった。小さい宿だったが、学生時代から泊りつけているので、佐山は気兼《きがね》なくここで療養することが出来た。  キヌ子は二階の佐山《さやま》の部屋へ這入って来るなり、遠慮《えんりょ》もなく鶯の鳴き声を真似して笑っている。章《あきら》と云う弟の方は赧くなってはにかんでいた。 「お手《て》はいい?」 「とてもよくなりましたよ、そのうち、暖《あたた》かになったら、ボートにでも乗《の》せてあげるかな‥‥」 「あら! 素的《すてき》、ボートをおやりになるの? さっき、傷病兵《しょうびょうへい》の方でねえ、右脚のない方が、スキーをしていらっしたわ、私達、拍手《はくしゅ》したのよ‥‥」 「貴女達《あなたたち》、もう滑って来たンですか?」 「ええ、宿屋に落ちつくと、出掛《でか》けるのおっくうなンですもの‥‥」 「今日《きょう》は泊るの?」 「あら、だって、お迎えが来るのよ、お父様《とうさま》夕方《ゆうがた》までに村へ戻って来《く》るようにっておっしゃったの‥‥冬の田舎《いなか》は退屈ね」  章が階下へ遊びに降りて行くと、キヌ子はふっと悪戯《いたずら》そうに、眼をみはって、櫓《やぐら》の上に頬杖をついた。 「仏様《ほとけさま》みたいだ」  佐山がキヌ子の眉の間の黒子をさして冗談《じょうだん》を云うと、 「いいわ、何でも‥‥今年、卒業したら、私も釜石《かまいし》へ行って、佐山さんをいじめに行くから‥‥」 「釜石《かまいし》なンかへ女が来たって、何《なに》もありませんよ‥‥」 「貴方《あなた》がいるじゃないの‥‥」  キヌ子は赧くなって、急いで温泉《おんせん》へ降りて行った。  佐山は口笛を吹きながら、往来の見える方の廊下《ろうか》へ何気なく出て行ったが、ゆるい坂《さか》になった宿の前《まえ》へぐっぐっとバスが登《のぼ》って来て、宿の前で客が二三人降りるのが見えた。 (おや! 岡部じゃないかな、へえ、小見山《こみやま》の奴もいるぞ‥‥)  佐山が急いで店へ降りて行くと、岡部も小見山も真面目《まじめ》な顔で、宿へ這入《はい》って来るところだった。 「おーい、どうしたんだい、二人連《ふたりづれ》で?」 「やァ、いたのか、――揃って見舞《みま》いに来たンだぜ‥‥中々《なかなか》いいところだねえ、ここは‥‥」 [#9字下げ]○  夕方から吹雪《ふぶき》になった。  炬燵の櫓の上には、厚い板の台が置いてあり、その台《だい》の上には広い朱塗《しゅぬ》りの膳が出ていた。  佐山は、岡部《おかべ》や小見山が温泉からあがって来ると、 「どうだ、山の中《なか》もいいだろう?」  といった。 「支那には温泉《おんせん》はないのかい?」  岡部がたずねた。 「南京の近くに有名なのがあったかな、だけど、こんな山紫水明《さんしすいめい》じゃァないぜ、――支那《しな》の景色は大味《おおあじ》で美しいとは思わねえ」  三人は炬燵をかこみ、杯を手にしたが、佐山《さやま》は創の為に悪いので酒《さけ》は飲まなかった。 「おい、ここは芸者《げいしゃ》は何処から呼ぶンだい?」  小見山《こみやま》は少し酔って来《き》たのか、そんなことをきいた。 「湯田中あたりから来るンだろう? あの、太鼓《たいこ》の音でも聴いて我慢《がまん》しろ」  岡部も愉《たの》しそうに酔っている。佐山《さやま》はむっつりして床柱に凭れていた。    旅館寒灯ひとり眠《ねむ》らず    客心《きゃくしん》何事《なにごと》ぞうたた凄然たり    故郷今夜 千里《せんり》をおもう    霜鬢《そうびん》明朝《みょうちょう》 又一年  岡部は酒にも飽いたのか、詩を吟じながら、雪|※[#「日+熏」、第3水準1-85-42]《ぐも》りしている暗《くら》い外を、障子の腰硝子《こしガラス》から覗いていた。 「おい、佐山《さやま》!」 「何だ?」  小見山《こみやま》は冷えた酒をついで一気にぐっとあおると、 「君はどうして植村郷子《うえむらくにこ》に逢ってやらないンだ?」 とたずねた。 「逢いたくないからさ‥‥」 「逢いたくない? 彼女は随分《ずいぶん》君《きみ》に逢いたがっているンだがねえ‥‥」 「逢いたかったら、自分一人で逢いに来たらいいじゃないか、――君《きみ》こそ、どうして彼女《かのじょ》と結婚しないンだ?」 「彼女に断《ことわ》られたからさ‥‥」 「ふうん‥‥不体裁《ふていさい》な話だねえ」 「僕は君に遠慮していたンだぜ、だが、まァ、皆《みな》、過ぎたことだ、――岡部《おかべ》と来たのは、一つは郷子君《くにこくん》を君に進めに来《き》たンだよ、――赤坂の美智子さんの問題もあるだろうが、それは何とかなるとして、釜石《かまいし》へ行く前に一度、逢《あ》う気はないかねえ‥‥」 「ないねえ、――僕は、いま、女房《にょうぼう》もほしくなくはないが、まだ、気持《きもち》がそこまで行かないし、何《なん》にしても、まず働きたいと思うことでいっぱいだよ。――戦場《せんじょう》から戻って来た気持《きもち》も整理されていないし、この気持《きもち》は、戦場へ行ったもののみに分るンじゃないかと思《おも》うが、寂寥たるものだね‥‥軍隊には鉄則があるが、社会《しゃかい》には、はっきりした鉄則《てっそく》がないよ‥‥」 「芸者をよんじゃァ鉄則《てっそく》にそむくかな?」 「――おい小見山、お前と俺とは一|度《ど》大喧嘩《おおげんか》をしないといかンらしいぞ‥‥」 「喧嘩か、喧嘩《けんか》はきらいだよ」 「そうか、喧嘩の出来ン人間に、喧嘩《けんか》を吹っかけたって仕方《しかた》がないな‥‥」  小見山《こみやま》は思い出したように階下《した》の乾燥室へ降りて行き、スキーにアイロンをあてているキヌ子達のそばに行った。 「吹雪でとうとうお迎えが来ないそうですね、それが済《す》んだら僕達の部屋《へや》へ来ませんか?」  と、キヌ子をさそっている。  部屋に残った佐山《さやま》と岡部は暫《しばら》く黙っていたが、お互にしみじみしたものを感じ合っていた。 「佐山、今夜《こんや》はこれは積るぞ‥‥」 [#9字下げ]○  小見山は外套《がいとう》を引っかけると、夜汽車《よぎしゃ》で帰ると云って宿を出て行った。  雪はやんでいたが、森々と寒い晩で、泥酔の頭の中は水樽《みずだる》をのせているように重苦《おもくる》しかった。 (佐山は幸福《こうふく》な奴だ、どんな希望《きぼう》だって、あの力量だったら押しきれるだろう‥‥)  一番頼りにしていた大野の死に会って、小見山《こみやま》の新しい事務所はこの頃《ごろ》あまり思わしくなかった。郷子との恋愛《れんあい》に破れたことも一つの原因《げんいん》ではあったが、事業に報いられない小見山は、この頃、しばしば自殺《じさつ》のことを考えている。  小見山は山を下りるつもりでいたが、足は広業寺《こうぎょうじ》の方へ向いていた。  雪あかりのした凸凹《でこぼこ》の道を、雪を踏《ふ》んでキシキシ歩いていると、小見山は潮《しお》に浮いている烏《からす》のような自分《じぶん》を感じる。  さっき、佐山の部屋で小見山は泥酔《でいすい》の果、佐山や岡部に喰《く》ってかかっていたことを思い出した。 「おーい、小見山《こみやま》!」  岡部の声が後から呼《よ》んでいる。  時々、落葉松の梢にたまった粉雪が、風に吹《ふ》きつけられて、ぱらぱらと小見山《こみやま》の顔に降りかかって来《き》た。 「おい、小見出! 何だ、その恰好は‥‥おい、戻《もど》って来いよ、佐山も心配《しんぱい》しとるじゃないか‥‥」 「佐山か、あいつは幸福《こうふく》な奴だよ、幸福な人間《にんげん》に俺の気持なンか判らん‥‥」  岡部が小見山の腕をつかむと、小見山は岡部の胸を押して、自分《じぶん》だけよろけながら広《ひろ》い坂道をどんどん歩いて行った。 「おい、岡部《おかべ》! お前も幸福《こうふく》な奴だぞ‥‥今夜は、山の上のホテルに泊るからなァ、佐山にそう云っといてくれよ、――さっき、植村郷子《うえむらくにこ》の問題で喧嘩《けんか》したが、あれはどうでもいいンだ。結婚《けっこん》してみせると云ったが、酒《さけ》の上の冗談だ。よろしく云ってくれ‥‥」  岡部はよろけて歩いている小見山の肩を抱き、静《しず》かに歩行の向きを変《か》えてやりながら、 「どうして、そんなに行き詰《つま》っているンだ? さっきから聞《き》いていると、お前一人で莫迦なことばかり云ってるじゃないか‥‥」 「そうかい?」 「ああ、お前一人|莫迦《ばか》なことを云ってるぞ。佐山《さやま》も、郷子さんを早く君と結婚さしたら、明るくなるだろうと、さっき云ってたよ‥‥」 「明るくか? 明《あか》るくなンかなるものか‥‥畳《たたみ》べりにねえ、ライオン、シルケット、なンてあるンだとよ、油も高い、糸も高《たか》いだ、第一、間に合《あ》はないンでござんすときたね‥‥」 「何《なに》を云ってるんだい? 莫迦《ばか》だなお前は‥‥」 「うん、いや畳屋の奴がね、この戦時で、第一畳べりが出来《でき》なくて弱っているンだ。油《あぶら》も麻糸も高くなって、畳《たたみ》一枚に二十五本の糸《いと》がいるだろう‥‥建築家も楽じゃないよ、はっはっはは‥‥」 「大阪《おおさか》の方はうまく行かないのかい?」 「うまくゆかないねえ、当分は息を詰めているさ――そのうち大陸《たいりく》にでも進出《しんしゅつ》するかな‥‥」 「進出の気勢《きせい》を持っているだけでもいいよ」 「いや、有難う!」  小見山《こみやま》は岡部の肩につかまり、岡部《おかべ》の肩の雪に顎をつけた。 「キヌ子嬢、君《きみ》におそれをなしていたぜ」 「ああ、あれは佐山《さやま》に参ってるねえ‥‥」 「だが、ねえ、いったい、君《きみ》は本気で植村郷子《うえむらくにこ》をそんなに想っているのか?」 「‥‥‥‥」 「佐山は俺が仲人《なこうど》になると云ってたぜ‥‥」 [#9字下げ]○  朝早く、遠藤氏《えんどうし》がキヌ子達を迎えに来た。  佐山の部屋で、岡部もキヌ子達も朝飯《あさめし》をたべている処だった。 「やァ、賑《にぎ》やかですねえ‥‥キヌ子達《こたち》もお邪魔してるンだねえ」 「ええ御飯《ごはん》たべて、これからまた滑りに行くのよ‥‥」  遠藤はモンペ姿であったが、色が白くて肥えているせいか、その姿《すがた》が中々意気に見《み》えた。 「昨夜は久しぶりに村会《そんかい》へ出ましてねえ、何彼と大議論《だいぎろん》を戦わしたものだから、ここへ登って来られなかったンですよ、章《あきら》はおとなしかったかい?」  遠藤の家は村でも名望家で、父祖代々村長をしている。遠藤《えんどう》は若い時から村《むら》をきらって、台湾だとか満州《まんしゅう》だとかの、鉱山を探《さが》して渡り歩いている男であった。  キヌ子達が朝食のあとゲレンデへ行ってしまうと、佐山《さやま》は近々中支の方へ視察に出掛《でか》けて行くという遠藤《えんどう》に、岡部を紹介して、 「もう一人、ここへ友人が来ているンですが、――近々《きんきん》中支《ちゅうし》の方へいらっしゃる遠藤《えんどう》さんに、是非、何とかそいつを紹介《しょうかい》したいンですけど、逢《あ》って戴けませんでしょうか?」 「来ていられるンですか?」 「はァ、昨夜、酔っぱらいましてねえ、隣りの部屋《へや》でまだ、寝《ね》ているンです。――とても、頭のいい奴で、親類の建築事務所《けんちくじむしょ》に働いていたンですよ。ところが、急にその親類の男に死なれてしまいましてね、大阪で小さい事務所《じむしょ》を持ってみたりしたンですが、年が若《わか》い上に、地盤のない土地《とち》ですし、しかも、この戦時下《せんじか》で、かなりな借財をつくってしまいましてねえ‥‥少し行詰ってるンですよ。――本人は非常に海外《かいがい》へ出て行きたいらしく、この間も青島《チンタオ》の紡績工場建築の仕事《しごと》があったンだそうですがね‥‥」  佐山《さやま》は、かなり、沢山の手蔓《てづる》を持っている同郷先輩の遠藤氏に、小見山の現在の苦境を話して救って貰《もら》おうと思った。 「そうですか、そんな方なら、私も、お逢いしてみましょう――今朝《けさ》も、村のものが、百姓をしておっても苦《くる》しいからと、いろいろ、支那《しな》や、満州のことをききに来たンですがねえ、あんまり、日本人が外へ出払ってしまってもどうかと思うよと笑《わら》って来たところです。が、皆、支那《しな》、満州のことをききたがっていますね、佐山《さやま》さんとこの弟さんも見えていましたぜ‥‥」  小見山《こみやま》はさっきから眼が覚めていて、隣室《りんしつ》の佐山達の話をきいていた。  手をのばして枕もとの眼鏡を取ると、障子《しょうじ》の腰硝子の向うに笠ケ嶽の頂と青《あお》い空が見える。 「おい、小見山《こみやま》!」  佐山が褞袍姿《どてらすがた》で小見山の部屋へ這入《はい》って来た。 「どうした?」 「天気《てんき》か?」 「いい天気だ、――頭《あたま》は痛くないか?」 「いや大丈夫だ‥‥」 「君《きみ》に逢わせたい人が来《き》てるンだがねえ、起きて来ないか‥‥」 「誰だ?」 「俺を釜石に紹介《しょうかい》してくれた人だよ」 「ああ、キヌ子嬢のお父《とう》さんかい?」 「うん」  小見山は寝床の中から、懐手した佐山《さやま》の左の肩つきをじっと眺《なが》めていた。 「いま起《お》きて行くよ」  やがて、顔を洗って小見山が佐山の部屋へ這入《はい》って行くと、岡部と遠藤《えんどう》は炬燵の上で将棋を指していた。 「こちらが遠藤《えんどう》さんだ」  遠藤は、親しみ深い眼で、小見山に名刺《めいし》を出した。 [#9字下げ]○ 「この事変《じへん》以来《いらい》、私は、製鉄の生産力拡充の促進《そくしん》を考え、資源会社の設立を計画しているンですよ、代議士《だいぎし》連中《れんちゅう》もよりより集《あつま》ってはくれるンですが、いまのところ、まだ目鼻がついていないのです」  そうぞうしい太鼓と三味線の合間に、遠藤氏《えんどうし》は盃をおいてしみじみ話《はな》している。  下男《げなん》の迎えが来てキヌ子達が山《やま》を降りて行くと、遠藤氏は今宵佐山の新しき首途を祝うのだといって、旅館塵表閣の宴会場を借りて素朴《そぼく》な芸者の手踊《ておどり》をみせてくれた。 「建築《けんちく》の方だって、鉄材購入は中々のことですし、鋳鋼《ちゅうこう》とか、鍛造品の闇相場はすさまじいものですからねえ‥‥」  小見山はすっかり遠藤氏《えんどうし》の人物に参ってしまって、如何《いか》にも愉しそうに話している。  五六人の芸妓が次々に新しい踊を踊っているのだが、男達《おとこたち》は芸妓の踊にあまり興味《きょうみ》もなさそうであった。  佐山は割箸《わりばし》の中から出て来た辻占《つじうら》を読んでいる。――かたいじな、もうおよしなさい、あいたいくせに――佐山はおかしくなって、冷えた汁椀《しるわん》を口もとへ持って行ったが、太鼓《たいこ》や三味線の音のせいか、急に郷子《くにこ》に逢いたくなっていた。 「おい、佐山、どうだ、あとで温泉へはいりに行こうか、二人の開発《かいはつ》人物《じんぶつ》は、中々話が尽《つ》きそうもないぞ‥‥」  岡部《おかべ》が、もうこれより一杯も飲めぬといった恰好《かっこう》で黒塗りの膳の前に力んで坐っている。 「あら、逃げちゃだめだよ、さて、これからが、面白《おもしろ》い踊があるンですよ」  若い妓が無理矢理《むりやり》、岡部に盃を差している。  手踊が一|区切《くぎり》ついたのか、芸妓達がぱっと男達《おとこたち》のところへ寄って来《き》た。  小見山《こみやま》は思い出したように酌《しゃく》をする芸妓達と一々握手をしながら、 「兎に角、どこまでもやってみるつもりです。僕達《ぼくたち》ヤンガーゼネレーションが動《うご》き出さないことには大陸《たいりく》開発《かいはつ》もどうにもならんでしょう、遠藤さん‥‥」  と熱している。  遠藤もいけるくちなのか、たてつづけに飲んでふらふらと立《た》ちあがると、屏風《びょうぶ》の前へ坐って常磐津の狐忠信《きつねただのぶ》を歌い出した。 「おい、佐山《さやま》、飲めよ‥‥」 「いや、俺《おれ》は飲みたくない‥‥」  小見山が佐山のそばへ来て坐《すわ》った。 「どうして飲まないンだ?」 「創《きず》がまだよくないからねえ‥‥」 「ああそうか、そりゃァいけない、――本当に、僕は感謝《かんしゃ》しているよ、これから遠藤《えんどう》さんに引っぱりまわして貰《もら》って、少し洋々たる人生《じんせい》を感じて来るからな‥‥」 「よかったねえ、遠藤が援助をしようといったら、かならず援助《えんじょ》をしてくれる人《ひと》だから、――君がいま支那《しな》へ行くのはいいことだと思うよ‥‥」 「全く、昨夜までは女々しい気持でいたンだ、何《なに》も彼もあて[#「あて」に傍点]が外れどうしでねえ、――計画したことが、一つも成功《せいこう》しなければ、人間、腐りもしようじゃないか‥‥」 「あら、また、降《ふ》ってるわ‥‥」  廊下《ろうか》でおお寒いという芸妓《げいしゃ》の声がしている。岡部は一人で温泉へ降りて行った。玄関の広庭で、宿の小さい女中が、雪の中で縄飛《なわとび》をしていた。  やがて佐山も手拭をぶらさげて玄関へ降りて来たが、雪の降る中で縄飛《なわとび》をしている可憐《かれん》な女中の姿《すがた》にみとれている。 「おい、岡部、小見山は、今夜《こんや》愉快《ゆかい》そうだぜ」 「奴《やっこ》さん、取っておきの小唄《こうた》が出てるじゃないか」 [#9字下げ]○ [#ここから2字下げ] 谷あいの笹の斑雪《はだれ》は日のひかりともしくさしてとくることなし [#ここで字下げ終わり]  志賀高原は、こんな歌のように静かなところですが、おひまでもあったら、山《やま》へお出《で》かけになりませんか、僕《ぼく》は今日、佐山の宿へ来ました。佐山《さやま》も非常に元気です。と云う岡部の手紙を貰って、郷子は矢もたてもたまらず、山行《やまゆ》きに一枝を誘った。  郷子は六日まで正月休みを持っていたので、急に旅支度《たびじたく》をして昨夕の汽車《きしゃ》に乗り、今朝早く長野《ながの》へ着いたのだ。  一枝はスキー姿《すがた》である。  駅へ着くと、坂になった街通りに薄陽《うすび》が射していた。 「ねえ、郷子さん、あの林檎を買ってゆきましょうよ、温泉《おんせん》にはいって冷い林檎《りんご》を噛るの、とてもお美味《いし》いことよ‥‥」  駅の前の、旅館の軒先きに出ている果物屋から、一|籠《かご》林檎《りんご》を買って、二人は湯田中《ゆだなか》の長野電鉄に乗《の》りかえた。  雪の善光寺平野のまんなかを、電車《でんしゃ》は一つ一つ町や村に停りながら走《はし》っている。  車窓《しゃそう》からは、飯綱や、戸隠、黒姫《くろひめ》、高社山の峨々とした山峰が眺められた。 「山っていいのねえ、ほら、あの紫色の山なんか、大きな屋根《やね》みたいね‥‥」 「朝から晩まで職業々々《しょくぎょうしょくぎょう》で、疲《つか》れきっている処へ、たまにこんな旅行をすると、生きのびたような気持よ、――私、とても長生きをしたいわ、郷子《くにこ》さんはどう?」 「私だって長生《ながい》きをしたいわ、平和《へいわ》にね‥‥」  沿道には桑畑が何時《いつ》までも続いていた。  郷子は、山に囲まれた佐山の古里に泌《し》みるばかりのなつかしさを感《かん》じている。  時々、出征《しゅっせい》の旗をたてている百姓家も見えた。  須坂と云うところから、黒眼鏡をかけたスキー姿の美しい少女が電車へ乗《の》りこんで来た。襟もとをチャックで止めた紺《こん》のスキー服に、紅《あか》いマフラを首に巻いたのがなかなか意気で、一枝も郷子も、その少女《しょうじょ》にみとれていた。  少女は入口の処へ立ったなりで、窓《まど》の外を眺《なが》めている。 「きれいなひとね?」 「そうね‥‥」  一枝と郷子は少女《しょうじょ》の美しさをささやきあっていた。  車内では、百姓風の女達が高声で、村も貧《まず》しくてやりきれないから、村の往来《おうらい》についている電灯を消してしまったンだと話《はな》していた。 「――男手が少なくなり、これからの農村《のうそん》も大変《たいへん》でしょうね」  と、郷子《くにこ》が広い雪の桑畑《くわばたけ》をみつめて云った。 「そのうち、農村には女ばかり残るようになるかも知れないわね。最悪《さいあく》の場合に処する覚悟《かくご》はしておいていいだろうって、この間《あいだ》うちの工場で講演《こうえん》があったンだけど‥‥どうなるンでしょうね?」 「そうね、この戦争《せんそう》の後、恢復するのには何《なん》十|年《ねん》かかるかわからないって、――でも、それでも、日本は大きな飛躍をしたンだって友達が話していたわ、――世界《せかい》が、いま大変《たいへん》なんですもの、村の電灯《でんとう》を消しても勝たなくちゃいけないものね‥‥」  湯田中へ着くと、山行きのバスに乗り、正午《しょうご》近《ちか》くに二人は上林へ着《つ》いた。 「ねえ郷子《くにこ》さん、私達、どこか違《ちが》うところへ泊らない? それからお尋ねしてもいいじゃないの‥‥」  二人はバスの中の広告を見ていたので、電鉄直営《でんてつちょくえい》の温泉旅館に宿《やど》をとった。  部屋《へや》には板の台を載せた炬燵《こたつ》がつくってある。  遠くでかすかに鶯《うぐいす》の啼く声がした。  まるで初旅のような二人は、きまり悪《わ》るそうに宿の褞袍《どてら》に着替えた。 [#9字下げ]○  一枝《かずえ》はゲレンデへスキーをかついで行《い》った。  郷子は一人になると、佐山の宿へ、岡部《おかべ》をたずねて電話《でんわ》をかけてみた。  電話《でんわ》はおもいがけなく佐山《さやま》の声であった。 「植村《うえむら》でございます‥‥」 「ああ‥‥郷子《くにこ》さん?」 「ええ! いま、さっき、こちらへ着いたばかりで‥‥お元気《げんき》でございますか‥‥」 「岡部《おかべ》はさっき、小見山《こみやま》と東京へ帰りましたよ、――一人で来たの?」 「いいえ‥‥お友達《ともだち》と来たンですけど‥‥」  郷子は鼻や唇に溢れる涙を、そのまま溢《あふ》れるにまかせて、受話器《じゅわき》を一生懸命握っていた。  佐山は暫く黙《だま》っていたが、 「僕はいま、あなたに、逢っても仕方《しかた》がないンだけど‥‥」 「‥‥‥‥」 「昼の食事《しょくじ》は済んだのですか?」 「ええ、‥‥」 「そう、じゃァ、僕《ぼく》はこれから散歩《さんぽ》に出るンですが、――あなたも少しその辺を歩いてみますか?」  郷子は夢ではないかと思った。支度をして、やがて佐山《さやま》の宿の方へ歩いて行くと、佐山《さやま》がステッキをついて宿《やど》の低い軒の下《した》から出て来るところであった。  久しぶりで逢う佐山は眼の光が鋭くなり、出征《しゅっせい》当時《とうじ》のおもかげとは変《かわ》っているように見えた。  谷あいの笹の斑雪《はだれ》は日のひかりと、岡部《おかべ》の手紙にあったように、午後の薄陽が、雪のたまった藪かげを美《うつく》しく照している。  褞袍の上にインバネスを着ているせいか、佐山は以前《いぜん》よりふとって逞《たくま》しく見えた。  郷子《くにこ》はまぶし気に佐山の後《うしろ》から歩いて行ったが、瞼に涙がつきあげて来て仕方がない。 「寒くなかったら、地獄谷の方へ案内《あんない》してあげましょう、これから二キロあるンだけど、歩《ある》けるかしら?」 「え、大丈夫《だいじょうぶ》です‥‥」  固く踏みかためた、キシキシした雪の山径を二人《ふたり》は暫く黙って登《のぼ》って行った。  谷あいの一面の落葉松《からまつ》の梢に、薔薇色の雪《ゆき》が風に吹きつけられていた。時々、藪かげから小鳥が飛び立って来る。 「何故、一人《ひとり》で来なかったの?」 「‥‥‥‥」  佐山は振りかえって後からついて来る郷子《くにこ》にふっとこんなことをいった。 「ステッキを貸してあげましょう‥‥」  郷子は、佐山のおもいがけない優しい言葉《ことば》にめぐり合って、恥《はず》かし気にとまどいしていた。 「病院《びょういん》では、戸田安子さんという看護婦《かんごふ》さんにお世話になりましたよ、あなたの女学校友達だって?」 「ええ、私《わたし》もこの間逢いました」  あんなに、千も万も話すことを胸にためていたはずの郷子《くにこ》は、思いがけなく、山《やま》の上で佐山と二人《ふたり》きりになってしまうと何《なに》もいうことがみつからない。  左の手は外套の下に隠れて見えなかったけれど、郷子《くにこ》は心もち肩を吊《つ》りあげたような佐山の後姿に何か痛々《いたいた》しいものを感じている。 「急に用事が出来て、岡部も小見山もさっき帰った処《ところ》なンですよ――僕《ぼく》がこんなところに来ているって誰に教《おそ》わったンです?」 「岡部さんから、おたより戴きましたので、私、急《きゅう》に来たくなって、一緒にいるお友達《ともだち》を誘って来ましたの、――一|生懸命《しょうけんめい》で来たンです‥‥」 [#9字下げ]○  地獄谷には小さい宿屋《やどや》が一軒あった。  別棟に温泉《おんせん》があり、青い湯が満々と浴槽《よくそう》から溢れていた。  川床には、硫黄が一面に吹いていて、遠くから硫黄《いおう》の色が沢庵《たくあん》の糠《ぬか》をぶちまけたように見える。谷《たに》あいの中なのに、少《すこ》しも寒くなかった。 「小見山は天津《てんしん》へ行くことになりましたよ」  佐山はそういって、郷子《くにこ》をふりかえった。  満目皚々とした谷のなかに、モータァのような地獄《じごく》の地鳴りの音《おと》がしている。  佐山《さやま》は石をひろって、右手《みぎて》で、地獄から吹きあげる熱い湯気の上へ石を投げていた。 「釜石へいらっしゃいますって、何時《いつ》いらっしゃいますの?」 「さァ、この下旬頃《げじゅんごろ》になるかもわかりませんね。――冷えると、まだ少しいけませんからね‥‥」  戦場で考えていた郷子への激しい思慕が、内地《ないち》へ戻って来てからは、妙《みょう》によそよそしくなっていたが、おもいがけなく二人《ふたり》で、静かな山の中へ来てみると、佐山《さやま》は、郷子に対する気持がまた変《かわ》って来つつあるのを感《かん》じた。 「釜石へいらっしたら、もう、長いこと、東京《とうきょう》へはお帰りではございませんのですか?」 「ええ、まァ、当分《とうぶん》釜石《かまいし》にいるつもりです。気《き》が向いたら遊びに来て下さい」  郷子は黙《だま》っていた。  何かいえば、自分の考えていることとはとても正反対《せいはんたい》なことばかりいってしまいそうで、それが二人の距離《きょり》になり怖い気持《きもち》だった。 「御負傷なすったの、もう、元気《げんき》でお働けになるンでしょうか?」 「手ですか? 大分いいンですよ。手当てがよかったために、化膿《かのう》もなくて、切断《せつだん》しなくて済んだですから‥‥」 「支那《しな》ってどんな処でしょう?」 「はっはっはは‥‥唐天竺《からてんじく》といって遠い処《ところ》ですね‥‥」  二人は、淵になった川床の熱い湯の溢れているところで、宿の娘《むすめ》が蕗の蓋を洗《あら》っているのを見ていた。 「お茶《ちゃ》でも飲まして貰《もら》うかな‥‥」  店の間の炬燵にはいって、二人は熱い茶を飲み干菓子《ひがし》を食べて、猿が時々やって来《く》るという谷川の向うの雪《ゆき》の山を見ていた。 「今度は、私の故郷も引きはらって、親爺達と釜石《かまいし》の方へ永住のつもりで行《ゆ》くンですよ、――この頃思うンだけど、十把ひとからげの文明思想《ぶんめいしそう》にはもう飽々《あきあき》してしまいましたからねえ、戦場から戻《もど》って、特にそう感《かん》じたのかもわからないけど、――朝、昼、晩、と、拡められる浅い波紋のような思想文化は、いまに、すべての人類《じんるい》をほろぼしてしまうかもわからないと思《おも》いますよ‥‥僕達《ぼくたち》は火花のように飛散る新聞《しんぶん》やラジオの知識を何の判断もなく吸収して、なんの得るところもなく無責任に忘れてしまっているでしょう?――僕《ぼく》はもうこれから鉱山《こうざん》へこもって、孤独になって、一|生懸命《しょうけんめい》、積極的に一塊の鉱石《こうせき》にぶちあたって行くつもりです‥‥」  佐山は煙草を吸いながら興奮《こうふん》していた。  郷子は一家族で釜石へ引きはらってゆくという佐山の決心《けっしん》をきくと、急に激しく気持《きもち》をゆすぶられている。  やがて、日の暮れぬうちにと、二人は茶代《ちゃだい》を払って山を降り始めた。薄陽は消えて、風が吹きはじめていた。  時々、炭焼《すみや》きの男が、炭俵を背負《せお》ってスキーで降りて行くのに出逢うきりで山径は森閑としている。  郷子は何時の間にか、佐山の左袖をつかんで歩いていた。風《かぜ》の吹くたびににぶく光《ひか》って四囲の雪が散っていたが、佐山も郷子も黙って歩いていた。二人《ふたり》の愛情のリズムが、少《すこ》しづつ寄り添っていた。 [#9字下げ]○  四囲は黄昏《たそがれ》てきている。  薄い墨のなかで呼吸をしているような、静かな雪の山径《やまみち》で、郷子は激しい感情《かんじょう》の為に、躯が宙に浮いているような気持《きもち》だった。  佐山も、呼べば答える近さにいる郷子の躯を身近に感じて、熱い飛沫《ひまつ》を浴びたような動悸《どうき》を感じていた。  水かさの増した川のように、二人は自然《しぜん》に寄り添い、いまは遠慮《えんりょ》もとれているかたちだった。 「ほら、もう、上林《かみばやし》の灯が見え出しましたよ」 「あら、きれいだ‥‥私、まだ、この温泉《おんせん》にはいりませんけれど、さっきの地獄谷《じごくだに》のお湯、とてもきれいでしたのね」 「郷子さんは、何日位《なんにちぐらい》、いられるの?」 「二日ほど、明後日《あさって》帰《かえ》ろうかとおもっています‥‥」 「どうして、一人で来なかったンです? 僕は東京《とうきょう》にいる時だって、あなたが一人《ひとり》で来てくれるのを待っていたンだ‥‥」  寒い雪まじりの風が吹きつける坂道《さかみち》へ来ると、佐山《さやま》は立ちどまって、郷子にインバネスを着せかけてやり、不図《ふと》郷子《くにこ》の肩を片手で抱《だ》いた。  郷子は佐山の胸の中へよろけて固くなっていたが、両足《りょうあし》は熱く、ガタガタ震《ふる》えている。  炭焼《すみや》きの女が、背中に炭俵《すみだわら》を載せて、スキーで佐山達の横を発電所の方へ滑って行った。  一瞬のはかない抱擁だったけれど、郷子《くにこ》は、ふつふつと燃えたぎる生命《せいめい》を感じている。 「釜石《かまいし》へは私も、そのうち寄《よ》せて戴きます‥‥」 「どうぞ、その時は、一人《ひとり》で遊びに来て下《くだ》さい‥‥」 「ええ、お父様《とうさま》も、弟さんも御一緒にいらっしゃいますの?」 「今度は、この、祖先の土地を捨てて釜石へ永住の覚悟《かくご》で行くンですよ――郷子《くにこ》さん、私の家はね、先祖代々《せんぞだいだい》百姓だったンですよ、父は百|姓《しょう》をきらって、小学校の教師になったンですよ。私が出来《でき》ると、私を東京の親類《しんるい》へ養子にやってしまって、私に勉強をしろしろと、田舎から追い出してしまう理想家型《りそうかがた》のひとで、今では、私も、本当《ほんとう》は東京の、その養家を継がなければならないのですが、――大学を出る一寸前から、養家《ようか》とは喧嘩別れのような状態《じょうたい》になり、僕の妻になるべき娘《むすめ》も、僕にはなじめないものですから、僕《ぼく》は大久保に部屋をみつけて、一人で暮していたンです‥‥」 「まァ!」 「養家《ようか》の方へも、少しずつ返済《へんさい》しなければならず、親爺の方も、仕送りをしなければならず、僕は当分こんな躯でも、働かなければならないンです‥‥今まで働《はたら》いていた会社の方の給料《きゅうりょう》もみんな赤坂《あかさか》の養家に送《おく》っていたのですからね‥‥」  郷子は現在の自分の生活とあまり大差のない佐山の生活《せいかつ》の状態をきくと、自分《じぶん》はどんなことがあっても、佐山とともに釜石《かまいし》へ行きたいと思った。 「見ていらっしゃい、これから、エンジニヤとして、もりもり働《はたら》きますからねえ、――僕達《ぼくたち》みたいな採鉱冶金出《さいこうやきんで》はねえ、一塊の鉱石《こうせき》を見ても積極的に、社会や事業を考える癖があるンです‥‥これは戦場にいても、この癖は何彼《なにか》とありましたがね、――面白《おもしろ》いことには、地質学科を出た奴は、鉱石《こうせき》を見ても、何だか消極的《しょうきょくてき》で、まァ学問的に見る癖があるンですね‥‥僕の同郷の先輩の遠藤《えんどう》というひとが、僕の決心《けっしん》と、この癖を買ってくれて、今度の職場を世話してくれたわけなンです‥‥」  十二沢のゲレンデには、スキー小舎の前に灯火《あかり》が晄々とついて夕方でもスキーをしている者があった。 「ねえ、私、釜石《かまいし》へ、ついて行《い》っていけないでしょうか?」  郷子は、佐山に外套《がいとう》を返しながらそっときいた。 [#9字下げ]○ 「釜石《かまいし》へ来て下すっても、僕の生活《せいかつ》は、さっきもいったように、いまはどうにもならないし、――僕は、戦争前までは、一日しのぎに、会社勤《かいしゃづと》めをして、夜は時々《ときどき》酔《よ》っぱらったりの、ぐうたらな生活《せいかつ》だったンですが、戦争《せんそう》から戻って来ると、僕はすっかり考えが変って来ているンですよ。――あなたとの生活も愉しく空想《くうそう》しないでもないけれど、僕はいま、係累《けいるい》が多くて結婚の資格《しかく》がないと思っているし、国家の為にも、僕の地味《じみ》な仕事を役立てたいと思っています‥‥」 「ええよく分りますわ、でも、どうしてでしょう? 私、今日《きょう》まで、一|生懸命《しょうけんめい》待《ま》っていましたのに‥‥」 「有難《ありがと》う、――それは、とても有難《ありがた》いのですが、――どうにもならないなァ‥‥」 「私が、おいやなンでしょうか?」 「莫迦《ばか》だなァ、そんなンだったら、こんなに苦《くる》しむことはないじゃありませんかッ‥‥」  宿の前まで来ると、佐山は食事《しょくじ》が済んだら遊《あそ》びにいらっしゃいといってくれた。 「友達といらっしゃるそうだから、御飯《ごはん》はお呼びしませんよ、――僕は郷子さんと二人《ふたり》で食べるのなら愉しいけれど、雑音《ざつおん》がはいるのは厭だからなァ‥‥」  と笑って帰《かえ》って行った。 (どうして、もっと、もっと、色んなことを話《はな》して下《くだ》さらないのだろう‥‥)  地獄谷《じごくだに》の、あの湯の奔騰《ほんとう》するなかに、いっそ顔をにじりつけて、悶死してしまいたいような悲しみを、郷子は、宿屋の広い梯子段を上りながら味《あじわ》っていた。あてどもない、宇宙《うちゅう》の空白のなかに、さまよい歩く星《ほし》のような佗しさである。  岡部は、何時の場合も優しく力づけてくれた。今度《こんど》の、この山行の機会《きかい》も、岡部が力を与えてくれたのだ。――佐山《さやま》は何故、一人《ひとり》で来なかったといってくれるけれど、若い郷子には、そこまで考えが及《およ》んでいなかった。  何時か岡部に、天は何処まで広くて、宇宙《うちゅう》とは何でしょうと、子供らしいことを尋《たず》ねて笑われたけれど、郷子《くにこ》は、佐山に対する気持《きもち》もいまは、天のようであり、宇宙のように思える。 (戦争というものは、そんなに人の心を変化《へんか》させるものだろうか?)  部屋《へや》に這入ると、一枝は褞袍姿《どてらすがた》で炬燵にあたっていた。 「何処へ行ってたのよ? 私《わたし》、お腹が空《す》いてぺこぺこだわ‥‥」  一枝は菓子盆《かしぼん》の煎餅をぽりぽり食べている。 「ねえ、ほら、今日、電車で逢った黒眼鏡《くろめがね》のお嬢さんね、ゲレンデのお友達《ともだち》になったのよ、とてもスキーがうまいの‥‥」  やがて、女中《じょちゅう》が膳を運んで来た。  郷子は一枝を見て、佐山が、雑音がはいるのは厭《いや》だといったのを思い出《だ》して、ふっとおかしかったが、段々《だんだん》それが悲しさにかわっていた。 「どうして、御飯《ごはん》たべないの?」 「少しもほしくないンですもの‥‥」 「その方《かた》と、喧嘩をしたンでしょう?」  一枝は食後の蜜柑《みかん》を剥きながら、心配《しんぱい》そうにたずねている。  急に、机の上の電話《でんわ》のベルが鳴った。 「ああ、もしもし、佐山さんとおっしゃいます方から電話《でんわ》でございます‥‥」  郷子は袖で受話器《じゅわき》を握って、佐山の声を待っていた。 「郷子《くにこ》さん?」 「ええ‥‥」 「あのねえ、御飯《ごはん》は済んだの?」 「ええいま済みました」 「じゃ、遊《あそ》びにいらっしゃい、こっちにも来客《らいきゃく》があるから、よかったら、お友達も連れていらっしゃい‥‥」  受話器《じゅわき》の向うで、どなたなのと、若い女の声がきこえている。 [#9字下げ]○  郷子と一枝が信州《しんしゅう》へ発って行くと、律子《りつこ》は一人で映画を観に行ったり、大野夫人のところへ遊びに行ったりして、憂々《うつうつ》と愉《たの》しまない気持《きもち》をまぎらしていた。  今日も律子は事務所の帰り、大野夫人の家へ寄ると、小見山《こみやま》の兄の正佳が来ていて、律子《りつこ》を見るなり、 「いまも奥《おく》さんと、貴女のことを話《はな》しとったところですよ、今度、急に、弟が支那へ行きますのでね、色々、貴女に御相談《ごそうだん》があったのです‥‥」  と、何《なに》かこみいった話しぶりであった。  大野夫人も、もう、近々事務所の方から、手を引いてしまって、三保《みほ》へ帰って当分《とうぶん》静《しず》かな生活をするのだと云うことであるし、一人《ひとり》ぽっちの大野夫人は何時《いつ》かな心も折れたのか、桜木町の奈津子《なつこ》を引きとり、奈津子の祖母《そぼ》は田舎へ帰してしまっていた。 「大野の事務所の方も、まんざらやめてしまうわけにもゆかないので、この際《さい》、ぐっと引き締めて、地味《じみ》にやってゆく方針《ほうしん》なンですよ、――大野でも生きているのだったら、何とか出来るンだけど、いまはどうにもならないでしょう‥‥今度、小見山《こみやま》さんも、或方の御紹介《ごしょうかい》で、近いうち、上海《シャンハイ》へいらっしゃるンですって。有《ゆう》名な草野組の建築事務所に、今度は一介のサラリーマンで行くわけなンだけど、条件もいいし、希望のある仕事だからって、お兄さんも、とてもよろこんでいらっしゃるの――それでね、いまお話《はなし》をしてたのだけれど、あんな気の弱《よわ》い人だから是非、お嫁《よめ》さんを持たしてから、お嫁《よめ》さんと一緒に上海へ行って貰おうと云うことになって、それが、律子《りつこ》さんではどうかしらと云うことになったのよ‥‥」  律子は大阪へ郷子を迎いに行った夜のことを思い出していた。小見山《こみやま》に逢って郷子《くにこ》のことを相談するつもりでいたが、偶然《ぐうぜん》にも、小見山の家で、病気《びょうき》でたおれている郷子を見た時、律子は、小見山に対する愛情《あいじょう》を、そこでふっつりたちきられたような気持《きもち》でいたのだ。 「若い男が、一人で上海のような植民地《しょくみんち》に行ったって、ろく[#「ろく」に傍点]なことはないと思うわ。結婚《けっこん》して、二人で行くところに意義《いぎ》があると思うンだけど‥‥」  大野夫人は、亡くなった良人の秘密がよっぽど辛《つら》かったと見えて、小見山《こみやま》が一人で上海へ行くことを感心《かんしん》していない様子である。 「あら、小見山さんのお嫁さんになるような方は、私《わたし》のような職業婦人《しょくぎょうふじん》でなくとも、どこからでも、いいお嬢《じょう》さんがいらっしゃると思いますわ」  律子が応えのなさそうな返事《へんじ》をすると、正佳がやっき[#「やっき」に傍点]になっている。 「いや、いまも、奥さんの云われたように、是非、貴女《あなた》のような方に来て戴《いただ》けたらと云っていたのです‥‥」 「小見山《こみやま》さんは、いま、信州なんでしょう?」 「昨日戻って来《き》ましたよ‥‥」 「小見山さんは、私《わたし》のようなお嫁さんは厭《いや》だっておっしゃいますわ‥‥」  律子は肩をすぼめて、くすりと笑いながら、帰り支度《じたく》を始めた。正佳も渋谷《しぶや》の省線まで一緒にと云うので、二人《ふたり》はぶらぶら、省線《しょうせん》まで歩いていたが、律子は事務所を捨てて一介のサラリーマンとして上海へ行くと云う小見山の心境《しんきょう》に涙ぐましいものを感《かん》じていた。 「小見山《こみやま》さんは、何時、お発《た》ちになりますの?」 「弟ですか? 何だか、チブスの注射だとか、警察の証明《しょうめい》とかで一週間位したら手続《てつづ》きが済むだろうから、そしたらすぐ発《た》つと云って、いま、私《わたし》の家におりますよ、――よかったら、寄って行きませんか、貴女《あなた》が来て下さればとても喜ぶと思いますがねえ‥‥」 [#9字下げ]○  翌日、律子は、夕方、事務所《じむしょ》で小見山に会った。  事務所も、二三人の出征者があったり、色々な移動《いどう》があったりして、大野《おおの》が亡くなってからは、何彼と消極的《しょうきょくてき》であったが、それでも、大野《おおの》の知人や、縁者が集まって、近々、仮事務所をつくって、紡績工場の建築《けんちく》を請負うという話もあった。  律子も何時かは、この事務所をやめなければならないだろうとは考《かんが》えていたが、周章《あわ》てて職を捜す気《き》にもなれず、万一やめなければならなくなった場合《ばあい》は、少しばかりの貯金で、一ケ月位、九州へ帰って、唐津《からつ》の海辺で静養して来てもいいと思っていた。 「上海《シャンハイ》へいらっしゃるンですってね?」  小見山がつかつかと律子の事務机の方へやって来たので、律子《りつこ》は立って明るく挨拶《あいさつ》した。 「近《ちか》いうち発ちます、――もう、帰《かえ》っていい時間でしょう? どうです、一緒に、お別れの御飯でも食べませんか‥‥」  律子は気持《きもち》よく小見山の言葉を受けて、二人は黄昏《たそがれ》の街へ出た。 「昨夜、兄《あに》に逢ったンだって?」 「ええ」 「何《なに》かいわなかった?」 「――結婚《けっこん》の話ね‥‥」  谷間のように寒い、大阪ビルの方へ二人はゆっくり歩《ある》いていた。律子は、二度も三度も寒《さむ》い中で深呼吸《しんこきゅう》をした。 「上海へどの位《くらい》行《い》ってるンです?」 「僕?」 「ええ」 「さァ、どの位かな、まァ、当分は戻《もど》れないだろうと思っていますがね。――律子《りつこ》さんも行かないかな?」 「冗談にでしょう?」 「冗談《じょうだん》じゃないさ‥‥」 「そう‥‥」 「行く意思《いし》はないの?」 「ないこともないけど――、何だか、まだ、よく考《かんが》えてないの‥‥」  誰も人通《ひとどお》りのないガレージの前で、小見山は不図《ふと》立ちどまって、律子の腕をとった。 「私ねえ、この頃、胸が悪いンじゃないかと思《おも》っているの、何だか寝汗《ねあせ》をかくのよ」  小見山《こみやま》は、それでも律子の腕《うで》をはなさなかった。律子も坦々と小見山の腕に自分の腕をまかせていた。  橋の上へ来ると、狭《せま》い河の両岸の灯が、暗い空に模様《もよう》のように光っていた。 「郷子さんのことは、どんなになったの?」 「あのひとは、あのひとの道《みち》を行くだろうさ‥‥」 「小見山さん、今晩、あなたは、随分《ずいぶん》、私に乱暴な言葉《ことば》をつかうのね‥‥」 小見山《こみやま》は、律子の腕をとったまま、手は律子《りつこ》の掌を手袋ごとしっかり握っていた。 「私は、好《す》きだけど、――あなたは、急《きゅう》に私を好きになれるかしら?」 「好きならいいじゃないか?」 「そうかしら?」 「一緒に上海《シャンハイ》へ行ってくれるといいな?」 「私も、お兄さんと、大野の奥さんにそれを昨日《きのう》いわれたの、――まだ、お二人《ふたり》からいわれた時は何だか、仄々《ほのぼの》してたンだけど、あなたからいわれると、急に行きたくなったわ‥‥」 「引っぱってでも行く‥‥」 「まさか、――ねえ、今晩《こんばん》、お酒でも召しあがれ、そしたら気持《きもち》が晴れるでしょう‥‥」 「注射《ちゅうしゃ》に悪いから、今日は御飯《ごはん》だけだ‥‥」  律子は急におかしくなってきて、小見山から握《にぎ》られている汗ばんだ手の、手袋《てぶくろ》をぬいだ。 [#9字下げ]○  郷子と、一枝が、信州《しんしゅう》から帰って来たその夜、八畳の部屋《へや》に、三つの寝床を並べて、何時ものように律子を真中《まんなか》にして三人は寝床についた。  三人とも枕元《まくらもと》に二三冊の本を置いている。  律子の枕元には相変らず日記帳と、支那語《しなご》の本とが重ねてあり、一枝は一ケ月前《げつぜん》から黙阿弥の鼠小僧を面白《おもしろ》いと云って読んでいた。  郷子は「女の一生」を読んでから、モーパッサンの名前《なまえ》を覚えて、いまは「水《みず》の上」だの「ピエールとジャン」なんかを枕元《まくらもと》に置いている。  郷子は疲《つか》れていたので、本を読《よ》む気にもなれず、律子の枕元のスタンドの灯火がまぶしいので、瞼に腕をのせて、佐山と別れた日の山の上の会話《かいわ》を、これが永久の別《わか》れになるのではないかと、胸《むね》で噛みしめて味っていた。 「真是造化(本当に幸福ですね)‥‥真是造化《チェンシーツァオホア》‥‥」  律子は、何時《いつ》ものように支那語《しなご》の発音を、小さい声でくりかえしている。一枝は汗ばんだ顔を子供のように枕に押しつけて、もう、すやすや寝息《ねいき》をたてていた。  郷子も、いまは心身《しんしん》ともに疲れ果て、何時かうとうととしていた。そして、壁の方へ寝返りを打つつもりで、郷子がふと眼をあけると、胸の上に本を拡《ひろ》げている律子の白い腕《うで》に見覚えのある時計《とけい》がキラキラ光っているのを見た。 (おや、よく似た時計《とけい》だこと‥‥)  郷子が、じっと自分の時計を眺めているともしらないで、律子《りつこ》は一生懸命発音を勉強《べんきょう》している。 「我明《ウォミン》天上《テイエン》上海《シャンハイ》去《チュイ》(私は明日上海へ参ります)‥‥」  三保の松原で、小見山が、自分《じぶん》の腕につけてくれたヴァルケンと云う時計《とけい》によく似ている。――  そうおもいながら、郷子は、何時《いつ》かまたそのまま眼をつぶった。 「郷子さん、もう寝《ね》てる?」 「なァ――に?」  郷子が眼をあけると、律子が、支那語の本を枕元《まくらもと》に伏せて、枕に頬杖《ほおづえ》をついた。 「私、あなたに相談《そうだん》があるの‥‥きいてくれる?」 「私に?」 「ええ‥‥」 「何なの? 急《きゅう》にあらたまったりして‥‥」 「私、二三日前、小見山《こみやま》さんに逢ったのよ、――あのひと、近《ちか》いうち、上海へ行くンだって‥‥」 「そうですってね」 「私にも上海へ行かないかって云うのよ、――小見山《こみやま》さんと、結婚《けっこん》してなの、――何だかおかしな話でしょう、郷子《くにこ》さん笑う?」 「――いやな律子さんねえ、笑《わら》いなンかするもンですか‥‥」 「だって、あのひと、一度は、あなたを好きだったンだもの、――いまでもそうかも知れないけど、――でも、何《なん》でもいいわ、一寸、この、私の日記《にっき》を見て頂戴、――私、小見山さんと結婚しようと思《おも》ってるンだから‥‥」  律子が、日記帳《にっきちょう》を開いてよこした。 [#ここから1字下げ] ――日  私は、自分《じぶん》の狭い眼だけで、人間を視、社会《しゃかい》を視ている。私の眼は、十分に消化して、社会のあらゆるものを視ているとは思わないけど、このごろ、少《すこ》しずつでも、色々《いろいろ》なものが判りかけて来た。崩壊《ほうかい》と、循環と、生殖《せいしょく》の三つしかない単純な世界だけを、私はかたくなな[#「かたくなな」に傍点]幼い頭で、何時も失望的に考えていたようだ。自分が病身《びょうしん》であるせいかも知《し》れない。今日もKに逢って、結婚《けっこん》なんかつまらないと云って笑《わら》われてしまった。若い私達は、いまこそ勇気を出さなければいけない時だとはげまされた。さっそく、郷里《きょうり》へ、大野夫人から手紙《てがみ》を出して貰う。私は、Kを愛《あい》している。 [#ここで字下げ終わり] 「――それで、私、急に、上海《シャンハイ》へ行くことにきめたの、かまわない?」 「まあ! とてもいい話じゃないの、かまわない、なンて、私《わたし》に何をそんなに遠慮《えんりょ》しているのよ、私だってとても嬉《うれ》しいことよ‥‥」 [#9字下げ]○  律子《りつこ》がいよいよ小見山と結婚《けっこん》することがきまると、この薬王寺の女ばかりの小さい家もたたまなければならなくなった。  一枝は一枝でひょっとしたら、天津へ新しく進出《しんしゅつ》するデパートの支店へ、赴任《ふにん》させられるかも知れないというので、郷子は蒲田《かまた》の母と一緒になって、一軒、小さい家《うち》を持とうと思っていた。  工場のかえり、何時《いつ》ものように、タイプライターの教習所《きょうしゅうじょ》へ行くと、壁には新しい求人のビラが貼りつけてあった。奉天の或る車輌会社《しゃりょうがいしゃ》で大量のタイピストを求めていて月給《げっきゅう》は七十五円と書いてある。郷子《くにこ》は暫くその前につっ立っていた。  郷子のほかにも十二、三人、そのビラの下に立って、タイピスト募集《ぼしゅう》の文字をじっと眺めていた。 「だって、奉天《ほうてん》は、とても家がなくて、物價《ぶっか》の高い処ですって、生活出来るかしら‥‥」  というものもいた。 「でも、内地《ないち》にいるより、働き甲斐《がい》はあると思うけど、誰か行かない、誰か行けば、私も行くけど‥‥」  同行の士を求めている娘《むすめ》もあった。  郷子は、山から帰って来ての苦味《にが》い気持を忘れるために、自分も奉天《ほうてん》に行ってみようかと思った。  佐山《さやま》のところで逢った先輩《せんぱい》の娘だという、美しいキヌ子というライバルを見て、郷子は、色んな意味で、もう、何も彼もに自信《じしん》がなかった。  岡部へ返済の金も気にかかる一方だったし、ビラに書いてある、旅費《りょひ》支給《しきゅう》の文字にも、何となく、誘惑《ゆうわく》されて仕方がなかった。  郷子は座席へかえって、タイプライターのキイを叩《たた》きはじめた。 「植村《うえむら》さん、どなたか、あなたをたずねて来ていらっしゃいます‥‥」  受付の少女が人が来たことを、知らせに来たので、誰《だれ》が来たのかと入口《いりぐち》へ出て行ってみると、学生服の敬太郎《けいたろう》が立っていた。 「まァ! 敬ちゃんじゃないの? どうしたの?」 「薬王寺へ行ったら、ここだって教《おそわ》ったンで尋ねて来《き》たンですよ‥‥」 「そう、何か用事《ようじ》? 一寸待って頂戴‥‥」  郷子はそそくさと支度《したく》をして出て来た。  久しぶりに見る敬太郎は大きくなって、すっかり大人《おとな》びて逞ましくなっていた。 「僕、姉《ねえ》さんに、今夜は何か御馳走《ごちそう》したいな」 「あら、そんなにお金があるの? ――家へ送《おく》ってる?」 「毎月《まいつき》送《おく》ってますよ‥‥」  二人は賑やかな銀座裏へ出て、小さい寿司屋《すしや》へ這入った。 「家では怒《おこ》っているでしょう」 「何ともいって来ません。――叔母《おば》さんは非常に怒っているそうですよ‥‥」 「そうでしょうね、でも、仕方《しかた》がないじゃないの、お父さんも怒《おこ》ってるかしら?」 「お父さんは、親子だもの仕方がないと思《おも》っているでしょう‥‥ところで、僕は、今年《ことし》は霞ケ浦の少年航空兵の試験《しけん》を受けるつもりでいるンですよ、内海《うつみ》さんに相談に行ったら、何でも教えてやるから、がんばってみろといって下すって、とても、僕《ぼく》元気《げんき》が出ちゃった‥‥」 「そりゃァいいわねえ、うんとがんばって頂戴《ちょうだい》‥‥私もね、敬ちゃん、いっそ、遠《とお》くへ行ってしまおうかと思《おも》ってるンだけど、――奉天《ほうてん》にお務め口があるのよ、どうかしら、私、何だかじいっとしていられない気持なのよ、敬ちゃんには、姉《ねえ》さんの淋《さび》しさなんかわからないでしょうが‥‥」 [#9字下げ]○  郷子は奉天の車輌会社《しゃりょうがいしゃ》へタイピストで行こうと思った。  履歴書を書いて、それを教習所に送っておくと、弟《おとうと》から借りた金を、岡部へ返《かえ》しに天文台へ出掛けて行《い》った。  日曜日で、岡部は丁度《ちょうど》テニスに行くところだった。 「やァ、いらっしゃい、――どうしたんです? わざわざ‥‥」  岡部の部屋《へや》へ這入って行くと、清楚《せいそ》な洋服姿の雪江の写真が机の上にたてかけてあった。 「信州《しんしゅう》へ行ったンですって?」 「ええ‥‥」 「佐山から手紙《てがみ》が来ていましたよ」 「何時、あっちへいらっしゃるんでしょうか?」 「もう、じき発《た》つんでしょう? 家を引《ひ》きあげて行くらしいンで、中々大変だと云って来ていました‥‥」  郷子は青《あお》い空をみていたが、何時《いつ》かくつくつとむせて来て、頬に涙が溢れている。岡部は黙って、しばらく郷子の気持《きもち》をいたわってやっていた。  郷子は子供のように手の甲で瞼をおさえ、指で涙《なみだ》をぬぐっていたが、ふっと思《おも》いなおしたように、 「何だか、急に涙《なみだ》が出ちゃって――ちっとも悲《かな》しくないのに涙が出ちゃって‥‥」  そう弁解をしながら、郷子《くにこ》は肩をすぼめて淋《さみ》しそうに笑った。 「そんなに、急にがっかりしちゃァいけませんよ‥‥」 「ええ、――済みません、何だか、もう、呆《ぼ》んやりしてしまって‥‥今日《きょう》は、私、ながく拝借したものを、半分《はんぶん》でもと思いまして、お返《かえ》しに来たンですのに‥‥」 「金ですか?」 「ええ」 「いいんですよ、――僕は別《べつ》に返して貰おうと思って用立《ようだ》てたンじゃないンだから‥‥」 「でも、とても、あれで助かったのですもの‥‥」 「どうしたンです?」 「弟が持《も》って来《き》てくれたンですの‥‥」 「まァ、そんなお金ならば、とくに、貴女《あなた》、持っていらっしゃい‥‥僕《ぼく》は返して貰おうとは思わないし、いま、困《おま》っていないから大丈夫ですよ」 「あのね、私、近いうち、ひよっとしたら奉天《ほうてん》へ行くかもわかりませんから、――このお金《かね》はどうしても取っておいて戴《いただ》きたいのですけれど‥‥」 「奉天へ何《なに》しに行くンです?」 「車輌会社にタイピストで行くンですけど、条件《じょうけん》もいいし、いまの私の気持《きもち》としては、東京に、このままじっとしていたくないンです。やっと、この頃《ごろ》、弟の方の安定《あんてい》もつけましたし、――少し遠くへ行って、私《わたし》、家の方へ送れれば、それで、何《なに》も云うことはないのですから‥‥」 「そりゃァ、奉天へ行くこともいいでしょうが、郷子さんの気持《きもち》としては本当《ほんとう》に行きたいのかなァ?」  岡部はどうせ夕方|東京《とうきょう》へ出るのだから、一緒に新宿《しんじゅく》まで出て、ニュースでも観ないかと誘ってくれた。  岡部は机の上に、石鹸箱や安全剃刀や、鏡《かがみ》を置いて、髯を剃《そ》りはじめている。 「奉天《ほうてん》へ行くなンて‥‥そんな熱情《ねつじょう》があれば、どうして、郷子さんは釜石へ行かないンですか?」 「ええ?」 「近いうち、一寸、佐山も東京《とうきょう》へ出て来るかも知れませんがね‥‥僕《ぼく》も、佐山に、いっそ、ついて行ってやろうかとも思《おも》っているンです‥‥」 「――奉天への就職の方は、もう、私《わたし》、願書も履歴書《りれきしょ》も出してしまいましたのよ‥‥」 [#9字下げ]○  佐山が、東北本線《とうほくほんせん》の花巻へ着いたのは、朝の十時頃であった。  荷物は小さいトランクと、リュック・サックにステッキ。花巻《はなまき》は南部領で、明治維新《めいじいしん》まで城代のあったところだそうで、如何《いか》にものんびりした駅路である。  駅の前の蕎麦《そば》やの角で曲ると、釜石鉄道の煤《すす》けた駅があった。  連絡には一時間ばかり間があったので、佐山は角の蕎麦《そば》やに這入って、そばを註文《ちゅうもん》した。 「千|人峠《にんとうげ》まで、ここからどの位ありますか?」  茶を汲んで来た女中に、佐山は釜石《かまいし》までの道中を尋ねてみた。 「そうでございますね、はァ、遠野まで三|時間《じかん》かかりますそうですから、遠野《とおの》から一時間もかかりますでしょうか‥‥」 「へえ‥‥随分《ずいぶん》遠いンだねえ――じゃァ、いまから乗《の》っても、夜になって着くンだね?」 「お客様《きゃくさま》は釜石《かまいし》さ、いらっしゃるのですか?」 「うん、釜石へ行くンだけど、その、遠野《とおの》というところから、笛吹峠《ふえふきとうげ》をバスで行くのがいいのか、それとも、千|人峠《にんとうげ》を歩いて、鉱山鉄道で釜石《かまいし》へ降りて行くのがいいのか、いったい、どっちが便利なンだろう?」 「さァ、私、知らないけれど、いま、聞《き》いて来ましょう‥‥」  頬の紅いもんぺ[#「もんぺ」に傍点]をはいた女中が、帳場へ釜石行《かまいしゆ》きをききに行ってくれた。床《ゆか》のひくい、座敷の框《かまち》に、佐山は腰を降ろして、運《はこ》ばれて来た熱い蕎麦の丼を膝へのせた。  蕎麦を食べ終ると、外套《がいとう》をぬいでリュック・サックのなかへそれをしまい、佐山《さやま》は山越えの仕度を始《はじ》めた。  昨日、日鉄の本社へ寄った時は、千|人峠《にんとうげ》を越える方がいいだろうと教《おし》えてくれたので、佐山は、後から来る父達《ちちたち》に荷物をたのんで、軽々とした恰好《かっこう》で来たのであった。 「遠野《とおの》も、いま、峠の上は雪がありますでね、自動車《じどうしゃ》はあぶないかも知れませんですから、お客様は、はァ、やっぱり千|人《にん》さ越えられた方がよろしいそうです‥‥」  佐山は有難うといって、いよいよ峠越えの覚悟《かくご》でいた。  駅には玩具のような小さい列車が這入っていた。狭い車内《しゃない》にはストーヴの火が燃《も》えている。  この地方《ちほう》の百姓達や、小学校の教員風な乗客《じょうきゃく》が、佐山にはなつかしい感じだった。沿線の小さい駅々には材木が目立《めだ》って沢山積みあげてあった。  何という河なのか、流れの激しい広い河が、石床《いしどこ》を蹴ってそうそうと流《なが》れていた。  鱒沢《ますざわ》というところでは、出征《しゅっせい》を送りに来ていたのか、小学生が手に手に旗を持って野良道を帰ってゆくのを佐山は車窓《しゃそう》から眺めていた。  ふっと佐山《さやま》は戦地の兵頭から来た手紙《てがみ》に、杉本一等兵が、鉄道修理の際、機関車の急停車で、機関車が蒸気を噴きあげ、全身火傷をして野戦病院《やせんびょういん》へ行ったという手紙《てがみ》をポケットから出して読みかえしてみた。  杉本一等兵の笑顔が髣髴《ほうふつ》として浮んで来る。 「釜石《かまいし》へお出でになりますのかね?」  佐山に、鉱夫のような男が話《はな》しかけて来た。  遠野を過ぎて、青笹、関口あたりへ来ると車内《しゃない》も淋しくなり、乗客も退屈《たいくつ》して来る。 「こんな不便《ふべん》な土地に、よく、釜石《かまいし》のような、大きな鉱山を発見したものですねえ、発見したのは、何でも享保《きょうほ》ですか?」  佐山も退屈だったので、煙草を鉱夫《こうふ》にすすめたりした。 「へえ、そんなに古いところでございますかねえ、私は、北海道の輪西《わにし》から来やして、釜石の鉱山へ働《はたら》きに行くところです」 [#9字下げ]○  千人峠の駅へ着いたのは四|時頃《じごろ》だった。  谷の底のような暗い駅から、峠を見上げると、荷物《にもつ》を運ぶ空中のクレインが、佐山《さやま》には如何にも鉱山《こうざん》へ来たという感じだった。セメント樽《だる》のようなものを二つ載せて高い空中線を、鉛色の匙のようなものが、山の彼方《かなた》へ流れて行っている。  茶店で汁粉を食って、佐山はトランクを駅《えき》から釜石《かまいし》までチッキにすると、リュック・サック一つの身軽《みがる》さになり、ちらほら峠越《とうげご》えする人達の後から山径へかかった。   ああゆうべ見た夢《ゆめ》   大《おお》きい夢だ よいやさ   煙突《えんとつ》ズボンで汽船《ふね》が靴   ソレ汽船が靴《くつ》   みなと釜石、栄《さか》えてゆく  空《から》の駕籠をかついだ駕籠屋が、こんな唄をうたって山径《やまみち》を降りて来た。 「先生は左《ひだり》の手をどうなすったンですかい?」  後から荷物をふり分けにして登《のぼ》って来た、さっきの鉱夫《こうふ》が佐山に尋ねた。 「ああ、これはねえ、戦争《せんそう》に行って負傷したンですよ‥‥」 「へえ‥‥今度の戦争に出征《しゅっせい》なすったンですかい? そりゃァ、大変《たいへん》でございましたねえ、――わしの弟もいま広東《カントン》の方へ行っとりやすが、何の音信もなくて、まァ無事に御奉公《ごほうこう》してりゃいいがと心配《しんぱい》しております‥‥」  珍らしく晴れた天気で、安外楽な登りであったが、積雪《せきせつ》の深いのには驚《おどろ》いてしまった。  佐山は学生《がくせい》の頃、実習に来て、遠野から釜石《かまいし》へ這入って行ったことはあったけれど、千人峠を越えるのは初めてであった。  深い雪を眺めていると、積雪《せきせつ》は浮雲のように溢れ、林《はやし》の上はからりと晴れあがり、黄昏の前の寒さに襟《えり》をちぢめるといった、古い漢詩《かんし》を佐山は思い浮べていた。  時々、積雪をステッキでピシッと払いのけながら、佐山は背中《せなか》のリュックも軽々《かるがる》と、狭い疎林のなかを登《のぼ》って行った。  峠の頂上に着いた時は、もうにぶい光の日輪《にちりん》も没しかけていて、霧《きり》が立ちこめたように、山の彼方にちらッと太平洋《たいへいよう》が見えた。  頂上には茶店があって、着物《きもの》に長靴をはいた三人連れの娘《むすめ》が休んでいる。  上林の温泉《おんせん》で別れたきり、東京《とうきょう》へ出ても、佐山は郷子に逢って来なかったけれど、岡部の話では、郷子は奉天《ほうてん》へ行くのだそうだ。  佐山は山の向うの遠い太平洋を眺めながら、しみじみとした気持《きもち》を味っていた。山《やま》の上での一瞬の感傷《かんしょう》かも知れなかったけれども、佐山《さやま》は、いまこそ、深く郷子を愛している自分をさとっている。  遠藤氏からキヌ子を貰ってくれないかという話も出発《しゅっぱつ》の時にあったけれど、――佐山《さやま》は、気持のさだまらない、キヌ子の、少女《しょうじょ》らしい愛情には、幾分閉口していて、荒々《あらあら》しい、あの率直な愛情《あいじょう》には、敗けてしまいそうな弱い気持の時も時々《ときどき》あったのだ。佐山はすべてをふりすてていまは人生《じんせい》の峠の上に立っている。  しかも、また、現実の上でも、佐山《さやま》はいま、峠の頂上《ちょうじょう》に立っているのだ。 「先生《せんせい》、ぼつぼつ下りませんか? 下りが大変だそうですぜ‥‥」  鉱夫は耳が寒いといって帽子《ぼうし》の上から手拭《てぬぐい》で頬かぶりをした。 「君、ずっとこっちで働くの?」 「へえ、この鉱山《やま》に友達がおりましてね、それの手引《てびき》で来たンでございます――私達《わたしたち》も、まァ、これからは銃後の戦士《せんし》でござんすからねえ‥‥」  若い鉱夫は、思いがけなく、いい音色で口笛《くちぶえ》を吹きはじめた。 [#9字下げ]○  下りは何でもないだろうとたか[#「たか」に傍点]をくくっていたが、頂上から、谷底《たにそこ》の大橋駅までは九十八折《つづらおり》の凄い下り径で、輪西《わにし》から来た鉱夫も、佐山《さやま》も、なるほどこれでは仙人峠だわいと驚いていた。  ケーブルの唸りと、梢を渡る風の音が森閑《しんかん》とした山にひびいていた。 「君は酒《さけ》はいけるのかい?」 「ええ、まァ、飲む方ですねえ、――先生《せんせい》はどうですい?」 「僕も少しは飲む方だけどこの頃、戦争《せんそう》から戻っては、一|滴《てき》も飲まなくなったなァ‥‥」 「少しは飲《の》んだ方が晴々しませんかね? 何《なに》しろ、八九時間も穴の中へへえっているんですから、外へ出《で》たときァ、キューツとやりたくなりますね‥‥」  遠い谷底に、鉱山の灯火がキラキラ光っていた。佐山《さやま》は鉱山の灯火を眺《なが》めて、こんな山間僻地に住んでいて、営々《えいえい》と地脈を掘りあてている人達《ひとたち》に、泌みるような尊敬を持った。  ここは、新山《しんざん》と、佐比内の採鉱場を総称して、鉱山《こうざん》と云われていた。 「先生はずっと、釜石《かまいし》の町までお下りですかね?」  佐山達が、鉱山の大橋駅へ下りたのは日の暮れであった。鉱石《こうせき》をよる女工達が駅の線路《せんろ》づたいに山の上から戻《もど》って来ている。  駅の後にある鉱山事務所《こうざんじむしょ》の灯火が皎々と活気を呈《てい》していた。  佐山はここで、峠越えをして来た鉱夫と別れて、日本《にっぽん》では東京横浜間の次に敷設《ふせつ》されたと云う、歴史的《れきしてき》な鉱山鉄道で、釜石《かまいし》の町へ下りて行った。  釜石は昭和十二年五月五日に市制をしかれ、新しい「市《し》」になったところで、この戦時下《せんじか》にますます発展《はってん》している町になっていた。明治《めいじ》の初年に、鉱山が国営となってから、海路もとみに開けて、今日の発展までには、この釜石は三|陸海岸《りくかいがん》の主要な港であり、この頃《ごろ》はさかんに外国船も港《みなと》にはいって来ているようである。  佐山は製鉄所《せいてつじょ》直営《ちょくえい》の鈴子旅館と云う宿に泊った。  太平洋の海風が吹きつけるのか、空気《くうき》は凍るように冷くて、雪の山越《やまご》えをして来た佐山には、肩の創口《きずくち》が一寸ずきずきする気持だった。  大きな薪のような炭火《すみび》が、火鉢にいっぱい熾《お》こっている。夕食《ゆうしょく》が済むと佐山は外套を肩へひっかけて戸外《こがい》へ出てみた。  製鉄所の工場の中では窓々に灯火が皎々《こうこう》とついているし、鉄を打つ音《おと》が、があん、があんと大きく四囲に響《ひび》いている。  熔鉱炉の炎は、谷間の暗い町の上に、明《あか》るい火の粉を散《ちら》している。  佐山は小高《こだか》くなった町はずれの、丘《おか》の方へ上がってゆきながら、華々しく火を噴いている熔鉱炉の炎を眺めていた。青い炎、赤い炎、町の賑やかな灯火《あかり》、暗い丘の上から町《まち》をみていると、さながら、上海《シャンハイ》の夜のようにも思《おも》えた。――ガーデンブリッジをへだてて外人租界の灯の華々しさを、上海の病院を去る前日眺めたことがあったけれど、佐山は、まるで支那《しな》にいるような錯覚《さっかく》でいた。  永久《えいきゅう》に消えることなく絶ゆることなく燃《も》えつづけて来ている熔鉱炉の炎を眺めて、佐山は、 「よォーし、もりもり働《はたら》くぞォ‥‥」と云った。  力の湧くような気持だった。よし、躯《からだ》は傷つくとも、この精神力《せいしんりょく》で、「鉄」をつくらなければならない‥‥明日は、遠藤氏の添書を持って製鉄所《せいてつじょ》へ行くのだけれど、自分《じぶん》の傷ついた躯について、佐山は、一|瞬《しゅん》荒涼《こうりょう》としたおもいを感じてもいた。  宿へ戻って来ると、製鋼課技師の尾形と云うひとの名刺《めいし》が、佐山の部室《へや》に置いてあった。 「何《なん》だか、一寸《ちょっと》待《ま》ってみるとおっしゃってましたけど、さっきお帰りになりました」  風呂を知らせに来た女中《じょちゅう》がそう云って来た。 [#9字下げ]○  旅館は製鉄所《せいてつじょ》の直営なので、どの部室《へや》も、鉱山や製鉄所関係の客でいっぱいだった。  佐山の部室にも、相部室《あいべや》の客が遅く着いて、女中《じょちゅう》があわてて佐山の寝床《ねどこ》のそばにもひとつ寝床を敷いた。  帝大の経済《けいざい》を今年卒業で、卒業前《そつぎょうまえ》に早々とやって来たのだという青年が、佐山と同じようにリュック姿《すがた》で這入って来た。  その青年は蟇目明治《ひきめめいじ》という名刺をくれた。 「僕は製鉄所の文書課《ぶんしょか》の方へ入るンです」   蟇目青年は朗かに佐山に話《はな》しかけて来た。 「仙人峠《せんにんとうげ》を越えて来ましたか?」  佐山が尋ねると、蟇目は宿の褞袍《どてら》に着替えながら、 「いや、朝がた越えたのですが、社宅に知人《ちじん》があって、いままでそこで御馳走《ごちそう》になっていたンです。――貴方も製鉄所《せいてつじょ》へお勤めですか?」 「はァ、僕も製鉄所へ来たンですが、まだ、所長《しょちょう》に逢うという難関《なんかん》があるンで、うまく入れるかどうか‥‥」 「いや、同様《どうよう》ですよ、何でも、文書課長《ぶんしょかちょう》というひとが非常に面白い人物で、このひとの人物試験にパスすれば大丈夫《だいじょうぶ》なンだそうですよ‥‥」  二人は火鉢《ひばち》を囲み、人生を論じ、社会《しゃかい》を論じあった。 「僕は学校を出たてに、人生の搖籃地として、釜石《かまいし》に来られたことは愉快《ゆかい》でならないんです。――本社《ほんしゃ》で、釜石へ行けといわれた時は一寸《ちょっと》吃驚《びっくり》しましたがね、峠を越えてあの深い谷底を二粁も曲《まが》りくねって降りて来る時は、実際《じっさい》考《かんが》えざるを得なかったのですよ。今日も先輩の友人が、明日、課長に逢ったら、すぐ、お前は人と喧嘩《けんか》をしたことがあるか、人を殴《なぐ》ったことがあるかと尋ねるかも知れない。君《きみ》は、そういう時、どう答《こた》えるかというンです。――課長はこの製鉄所に十六年もいるひとで福岡《ふくおか》の人なンだそうですが、中々の人格者《じんかくしゃ》だそうですよ‥‥」  喧嘩《けんか》をしたことがあるかと、のっけ[#「のっけ」に傍点]に聞くという課長《かちょう》の人となりを、佐山は面白いと思った。佐山が戦争《せんそう》へ行った話をすると、 「そうですか、戦争へ行かれたのですか?――だけど、負傷《ふしょう》をされて、よく、こんな鉱山《こうざん》の製鉄所で働かれる気持《きもち》になりましたですねえ?」  と蟇目がきいた。 「いや、負傷《ふしょう》といったところで大《たい》したことじゃァないですよ、――僕は負傷をしたからといって、それが手柄だとも何とも思っていないし、むしろ残念《ざんねん》に思っている位です。内地《ないち》へ戻って来ても気に食わないのは、世間《せけん》が、傷病兵を概念的《がいねんてき》にとりあつかって、消極面にのみ働かせようとしていることですよ。僕は、それが厭なンだ。手のないもの、脚《あし》のないもの、眼《め》の見えないもの、それ相当《そうとう》に、積極的な働きは出来《でき》ると思うのです。――この頃、新聞を見ると、軍需工場に働いているものは景気がいいから貯金《ちよきん》しろとか、出ているじゃァありませんか。平和産業《へいわさんぎょう》にたずさわっている者の百円と、軍需工場《ぐんじゅこうじょう》に働いている者の百円は同じなンだ。平和産業《へいわさんぎょう》にいる者だって浪費《ろうひ》をしている者があるかも知れない。小楊枝《こようじ》でほじくるようなことをしないで、もっと、総体的《そうたいてきに》に、積極的に、この戦時《せんじ》は乗りきらないと、僕は、いまにひどい目にあうンじゃないかと思いますね。――政治にしても、文化《ぶんか》にしてもこの頃はただ「天《てん》」はこうだと小さい声でいうきりで、本当《ほんとう》の「人」を教えないから、肚《はら》の底から、僕達は希望が持てないンじゃないかと思うンです、――手脚のない負傷兵《ふしょうへい》だって、僕はぐんぐん積極的《せっきょくてき》に働けると思うし、兵隊だって、働きたい希望《きぼう》の者が多いと考えています‥‥」 [#9字下げ]○ 「負傷した兵隊《へいたい》だって、ぐんぐん積極的《せっきょくてき》に働けることが出来ると思うンです。それを、消極的な労《いたわ》られ方をするのは実に不快ですからねえ。負傷《ふしょう》したからといって、小手先の事を急に教えこまれるのは厭《いや》ですよ。むしろ「人《ひと》」をつくってほしいと思うンですが、どうでしょうか? 負傷《ふしょう》したからといって、急《きゅう》にげそっ[#「げそっ」に傍点]となるようなのは、これから社会《しゃかい》に出たって結局駄目なんです‥‥左の手がなければ、右の手で働ける仕事や能力は出ると思うし、不具者《ふぐしゃ》になればなる程、積極的《せっきょくてき》な熱情が燃えなければ、僕《ぼく》はむしろ戦死《せんし》をした方がよかったと思っています。――東京の陸軍病院にいた時、脚のない男で、小学校《しょうがっこう》の教員志望の兵隊《へいたい》がいましたが、僕はどんどんやってみろと勢いをつけてやったンですが、この間も、うまく這入《はい》れそうだという手紙《てがみ》をよこしてました‥‥」  佐山《さやま》の眼はきらきら燃えていた。  蟇目は純真な表情で、佐山の言葉《ことば》を聴いている。 「僕は、こうして、左の腕が全然《ぜんぜん》駄目《だめ》なンですが、エンジニヤとして、完全《かんぜん》に仕事をしてみようと考えていますし、努力してみるつもりでおります。やろうと燃《も》えたってする精神《せいしん》は、科学だって何だって、不具者《ふぐしゃ》だって負けやしないと思《おも》いますよ、――いったい、この社会が、何時まで、僕達のこの負傷を記憶《きおく》してくれていると思うンです? 要《よう》するに長く記憶してくれるのは、この躯《からだ》で働いた僕の「仕事《しごと》」だろうと思うンです。――僕は、戦場から転々と病院をうつって東京まで戻って来ましたが、僕は、社会の様々《さまざま》な労りを全身に浴びながら、肚《はら》の底では、実に将来《しょうらい》への反省で、欝々《うつうつ》としていたのですからねえ、――この間もある、小説家が、傷病兵を慰問したら、案外暢気そうで朗らかだったので吃驚《びっくり》したと書いてありましたが、僕達《ぼくたち》は、戦場でたおれた当時《とうじ》の気持を忘れないし、そんなに何時《いつ》までもじめじめしていられませんよ、――女性の慰問者だってそうですからねえ、僕達がしんこく[#「しんこく」に傍点]な顔をしていないのでがっかりしたというような、馬鹿《ばか》げた事をいう奴もいて、本当《ほんとう》の肚の底の気持は浅い頭の人間には汲みとれないンです‥‥」  夜はだんだん更けて来た。二人《ふたり》の話は尽きなかった。  大学を出たばかりの、純真な蟇目に、佐山は好感《こうかん》をもって話すことが出来《でき》たし、こうした、僻地の鉱山《こうざん》で大学を出たばかりの男と部屋《へや》をともにしたことを、佐山は実に愉快だと思っていた。 「佐山さんはお故郷《くに》はどちらですか?」 「僕ですか、信州《しんしゅう》です‥‥」 「ああ、そうですか、僕は広島《ひろしま》ですよ‥‥」  蟇目はリュックから、広島から持って来たのだといって、艷々《つやつや》としたネーブルを出《だ》して来た。  蜜柑《みかん》の香りがぷんと鼻《はな》をかすめた。  蟇目はまだ少年らしい面影があって、笑《わら》うと、皓い歯が清潔《せいけつ》だった。 「独身者は、里仁寮《りじんりょう》というのに這入《はい》るンだそうですが、佐山さんは結婚しておられるのですか?」 「ははは‥‥まだ独り者です、その里仁寮組《りじんりょうぐみ》ですよ。――そのうち暖かくなったら、親爺《おやじ》がやって来ることになっています‥‥」 「知人《ちじん》の話によりますと、釜石《かまいし》というところは、いまのところ、家も部屋もないそうで、一軒の家に三世帯も、四|世帯《しょたい》もいるんだそうですね‥‥」 「そうでしょうねえ‥‥狭いところにぎしぎしの感《かん》じでしたよ、――さァ、明日《あした》はその難関の課長に逢って、喧嘩《けんか》をしたかと尋《たず》ねられますかね、――どうです? 釜石の生活も何だか僕は非常に愉しいと思《おも》うンですがねえ‥‥」 [#9字下げ]○  佐山も蟇目《ひきめ》も六時には飛び起きた。  釜石というところは烏《からす》の沢山いるところなのか、窓《まど》に迫った低い山のあたりで実に騒々《そうぞう》しく烏が鳴《な》いている、  ううううう‥‥と、山脈に木霊するように工場の六時の汽笛《きてき》が響きわたり、佐山は爽快《そうかい》な朝を感じた。  太平洋《たいへいよう》の汐風を含んだ朝の冷い空気《くうき》を吸って、佐山は廊下で深呼吸をしている。 「今日は新社員《しんしゃいん》が大分這入るらしいですね」  蟇目はそういいながら鏡台《きょうだい》の前でネクタイを結んでいる。  やがて食事が運ばれ、佐山も蟇目も思い思いに、今日《きょう》会《あ》う課長のことを考《かんが》えていた。 「佐山さんは喧嘩《けんか》をしたことがありますか?」   蟇目が尋《たず》ねた。 「そうですね、喧嘩なンか厭だし、人を殴《なぐ》ることもつまらんことだが、また、喧嘩《けんか》も、人を殴ることも出来《でき》ン奴もつまらんですね、――まァ、昔《むかし》はよく喧嘩をした方かな‥‥」 「僕は人を殴ろうと思うと震えて仕方《しかた》がないですよ‥‥」 「それでいいンですよ、課長《かちょう》が訊いたら、そういえばいいじァないですか、はははは‥‥」  仕度が出来ると、二人は製鉄所へ出掛けて行った。宿《やど》を出ると、目の前に工場《こうじょう》の煙突が林立していて、黄色《きいろ》や、灰色、紫色、茶色と、色々《いろいろ》な煙がもくもくと晴れた空にたなびいている。鉄を打つ音もしている。元気そうな職工達《しょっこうたち》も工場へ急いでいる。  佐山は課長《かちょう》に会う前に、遠藤に紹介《しょうかい》された製鋼課技師の尾形氏に会いたいと、受付で名刺を通じて貰うと、尾形氏《おがたし》はすぐ玄関へ出て来てくれた。緑の国防服《こくぼうふく》を着て、戦闘帽のような帽子をかぶった尾形氏は、京都帝大を出て、この釜石《かまいし》に十年エンジニヤとして働《はたら》いているという地味な人物《じんぶつ》であったが、その風貌《ふうぼう》は少年のように初々しく感じのいい人であった。  白壁の広い事務室のなかは、まるで、大《だい》ビルディングのホールのようで、事務《じむ》をとっている人達の机が一目に見渡《みわた》せる。 「遠藤さんから、くわしい手紙《てがみ》が来ていましたので、私は愉《たの》しみに待っていたんです」  遠い山川《やまかわ》を越えて来た佐山には、尾形氏《おがたし》のこの言葉は無量な嬉しさだった。 「傷ついた躯ですが、一|生懸命《しょうけんめい》働いてみたいと思《おも》っています‥‥」 「やって下さい! 帝大を出られたンだそうですね? ここにも、三、四人、貴方《あなた》の先輩がいられますよ、製鉄課長《せいてつかちょう》の久慈さんという方《かた》もそうですが、いずれ、あとで御紹介しましょう‥」 「昨夜《ゆうべ》は宿へお出で下さいましたそうで‥‥」 「ええ一寸、旅館のホールで会があったものですから、女中《じょちゅう》に訊いてみたンです、散歩《さんぽ》に出られたとかで‥‥」 「失礼《しつれい》いたしました」  尾形氏《おがたし》は時計を見ていたが、ちょっと課長《かちょう》に僕から通じましょうといって、佐山を課長室に気軽に連れて行《い》ってくれた。  課長は兵頭一夫という人で、もう、この釜石《かまいし》に十六年もいるのだそうである。佐山《さやま》が空想していた人とはまるきり正反対《せいはんたい》の、温厚な紳士で、兵頭氏も国防服《こくぼうふく》を着ていた。頭髪は白髪がまじって、実《じつ》にハイカラな感じの人である。 「昨夜来たンですか? 君《きみ》はどっちのコースを取って来《き》たの?」 「仙人峠《せんにんとうげ》を越えて来ました‥‥」 「ああ仙人峠をねえ、僕も十六年前、あすこを駕籠《かご》で越えて来たものだ、仙人峠《せんにんとうげ》を越えたのならばきっと、あすこで、何か考《かんが》えたに違いない‥‥」 [#9字下げ]○  佐山は尾形氏《おがたし》の尽力で、いよいよ製鉄所《せいてつじょ》にエンジニヤとして正式に働くことになった。  二日目には、旅館を引きはらって、独身者《どくしんしゃ》の寮になっている里仁寮《りじんりょう》に移った。  町には貸家《かしや》だの空部屋がないというので、暖《あたた》かになるまで、父の出発を見合わせさせ、佐山は文書課に入った蟇目と共に、里仁寮で、相部屋《あいべや》の六畳を割りあてられた。  狭い廊下には、二階にも階下にも、スキーや、かんじき[#「かんじき」に傍点]や、リュック・サックが置《お》いてあった。  部屋々々の書棚《しょだな》には、バルザックもトルストイも、鉱石《こうせき》も数学も雑居で、「青年」の部屋にふさわしい新鮮《しんせん》なものが佐山に感じられた。蟇目《ひきめ》は送って来た新しい行李に腰をかけて、 「さて、釜石というところには、可愛《かわい》い娘がいるでしょうかね、――美《うつく》しい娘のいるところに青春あり、青春《せいしゅん》のあるところに成長ありですよ‥‥」  と、面白《おもしろ》いことをいっている。  佐山は一応部屋の中が片づいてしまうと、昼から尾形氏《おがたし》の案内で製鉄所《せいてつじょ》のなかを見せて貰うことになっていたので、一人で工場《こうじょう》へ出掛けて行った。  尾形氏は平炉《ひらろ》にいるというので、佐山が工場《こうじょう》のなかの平炉のところへ上《あが》って行くと、尾形氏は紫眼鏡《コバルトグラス》で、地獄《じごく》のように炎を巻きあげている炉の火色《ひいろ》を、職工達と一心に視つめているところであった。 「いらっしゃい、もう、じき、取鍋《とりべ》に流し込むンですよ‥‥」  紫眼鏡をかけた熟練工が、千八百度の高度《こうど》に煮えたぎっている炉の炎《ほのお》を見ている。  一人の職工《しょっこう》が、柄の長い鉄の柄杓《ひしゃく》で、開けている装入口扉から、試料《サンプル》として少量の熔鋼を汲み取っている。こまかい火の粉が、花火《はなび》でも見るように柔い線を描《えが》いて飛び散る。その煮えた鉄の湯を固《かた》めて水に浸すと、それを職工達は尾形氏《おがたし》のところへ持って来て、鋼質を検査して貰うのだ。 「これから、マンガンを投入《とうにゅう》します」いよいよ出鋼口から取鍋へ、壮麗《そうれい》な湯出しをするのだと、尾形氏は、脱酸の説明まで佐山に説明《せつめい》してくれた。  やがて、突棒で出鋼口の孔が開けられると、耐火粘土《たいかねんど》で出来た樋をつたわって、溢《あふ》れるような勢で真赤《まっか》な鉄の湯が大きな円筒《えんとう》のような取鍋に流しこまれた。  取鍋《とりべ》に流れ込む湯出しの火の粉《こ》があぶないので、みんな階下へ降りて、取鍋から遠く離れた。下から見る赤い湯瀧は、まるで日輪《にちりん》が湧き溢れるような華麗《かれい》なものだった。 「夜なんか、こうして湯出しをしていると、時々《ときどき》浜《はま》から海猫が飛んで来て、此《この》取鍋《とりべ》の火のなかへ飛び込《こ》むことがあります」  尾形氏は紫眼鏡を胸のポケットに大切《たいせつ》にしまいながら、佐山にそんな話《はなし》もしてくれた。 「鳥なんかいっぺんに消《き》えてしまうでしょう?」 「いや、それがねえ、一寸《ちょっと》の間だけれど、中々《なかなか》煮《に》えないで黒い点になって浮きあがって来ますよ、火力《かりょく》が強いので、よせつけないンですね‥‥」 「そうですかねえ、僕はまた、あなやもなく霧消《むしょう》するのかと思《おも》っていました」 「霧消《むしょう》はよかったなァ、――ところで、これから僕達《ぼくたち》が困るのは防空演習の時ですよ、如何にして、この大きな炎を隠すかというので、防空演習《ぼうくうえんしゅう》の時は、僕達も職工も決死の覚悟《かくご》でやるンです、――夏《なつ》なンか、工場の中では何人《なんにん》かばたばたたおれる職工がありますが、ちらっとも火炎が外にもれないのですからねえ、その時は、この製鉄所《せいてつじょ》は戦場と同じですよ、熔鉱炉《ようこうろ》の炎さえ見えなくしてしまいます‥‥」 [#9字下げ]○ 「この取鍋《とりべ》は、外側は鉄板で覆われていて、内側は耐火煉瓦《たいかれんが》で裏積してありますが、この種類の取鍋で、最も重要な所は、湯口《ゆぐち》と、ストッパーの部分ですね、――熔鋼《ようこう》の漏れないように、擦り合せを十分完全にして、開閉を順調にする注意が大変です‥‥」  佐山は、尾形氏《おがたし》の説明をききながら、取鍋に溢れこぼれている真赤な鉄の湯瀧《ゆたき》に、精神をゆりうごかされるものを感じていた。  尾形氏は、生れながらのエンジニヤらしく、黙々《もくもく》とした地味な態度《たいど》で、 「いまは、我々《われわれ》も職工も、銃後の戦場《せんじょう》といった気持ですよ。上の方から、何をつくれという命令は一つもありませんが、ただ、黙々として、私達《わたしたち》は毎日こうして鉄を研究《けんきゅう》して、鉄を造っています。職工《しょっこう》もいま一生懸命です‥‥だから、熟練工《じゅくれんこう》が戦場へとられてしまうと困ってしまいますよ」 「釜石鉱山の鉄の埋蔵量《まいぞうりょう》は豊富なンでしょうか?」 「そりゃァ豊富ですね、実に優秀《ゆうしゅう》なものです」  佐山はコットレル式電気収塵装置も見せて貰った。ここは、熔鉱炉《ようこうろ》から出る瓦斯《ガス》のうちに、沢山含有しているダスト(煙塵《えんじん》)を除くために、高炉《こうろ》の瓦斯を、高圧放電中を通過させて、ダストを集積《しゅうせき》沈下《ちんか》させるところだ。 「佐山君はあっちで大冶《だいや》鉄山《てつざん》を見て来たの?」 「いいえ、見て参りませんでした。私達《わたしたち》の時は、まだ徐州戦《じょしゅうせん》の前でしたから‥‥」 「ああそう、大冶《だいや》も中々規模が大きいらしいですね」 「私も、負傷《ふしょう》しないで、もっと支那《しな》にいたのでしたら、専門がその方ですから、大冶鉄山までは長躯して、自分も何とか、そこで働《はたら》いてみたいと考《かんが》えていたのです‥‥」 「私《わたし》も、一度何とかして、大冶《だいや》鉄山《てつざん》には行ってみたいと思っていますがね‥‥」  製鉄所の中は広くて、どの部署も脈々と活気《かっき》が流れていた。熔鉱炉へぐるぐると、運《はこ》びこまれるベルトコンベアの上の鉱石《こうせき》の流れ、構内に敷かれた沢山《たくさん》のレール、山と積まれた鉄材――圧延工場のロールで、ネオンサインのように圧延《あつえん》された火の帯、佐山は部署々々《ぶしょぶしょ》を一つずつじっくりと見て行った。  丸鋼とか、山形鋼《やまがたこう》、溝形鋼、鋼板、軌條《きじょう》なんかに造られた鉄製品が、圧延工場のまわりに沢山積みあげてある。  その夜、佐山は寮へ戻って、岡部へ手紙《てがみ》を書いた。自分は十年でも、二十|年《ねん》でも、この釜石に住んで、いいエンジニヤになりたいと思《おも》うし、一つ、釜石の鉄通信《てつつうしん》をこれから、度々書き送ろうと書いた。  ダニエル彗星《すいせい》再発見《さいはっけん》も大切なことだろうが、鉄の研究《けんきゅう》報告《ほうこく》もまた、君のような男には愉しみに待って貰えると思《おも》うともつけくわえた。  隣室ではレコードで、青《あお》きダニューブがきこえて来る。  佐山は、鉄を眺めているうちに、いつの間にか十年をここで過《す》ごしてしまったという素朴《そぼく》な尾形氏の言葉《ことば》に共感を持てたし、自分も仙人峠《せんにんとうげ》で思い噛みしめた感情をいつまでも忘れまいと思った。  蟇目は鉱山へ友人を訪ねて来たのだが、あの鉱山《こうざん》の中に、思いがけないような立派《りっぱ》な人物が沢山いるのに驚《おどろ》いた驚いたといっていた。 「僕は釜石へ来て、淋しい処へ来たと驚いてたンだが、今日《きょう》鉱山《こうざん》へ登ってみて、また驚《おどろ》いちゃったンですよ、社宅《しゃたく》と事務所と、坑道《こうどう》しかないような淋しい山の中に、逢う人、逢う人がみんな立派な人物で、社員も坑夫も「総親和《そうしんわ》」というンですかねえ‥‥あいあいとしているンですよ」 [#9字下げ]○  佐山が、釜石の製鉄所《せいてつじょ》へ来て、丁度一ケ月たった。  釜石の町も、何となく春めいて来て、からりと晴《は》れた日が続《つづ》いた。  今夜は、里仁寮《りじんりょう》にいる、若い新社員《しんしゃいん》に、文書課長が、鈴子旅館の食堂で、夕食を御馳走してくれると云うので、若い社員《しゃいん》はみな張りきっていた。  佐山は蟇目とともに、早々とホールに出て課長《かちょう》の来るのを待った。 「里仁寮《りじんりょう》と云うのは、いったいどんな意味《いみ》なンです?」  誰かが、古参のものに、里仁寮《りじんりょう》の由来を尋ねている。 「さァ、何でも、論語の中とかにある文句《もんく》だそうでして、道徳《どうとく》のあるところに、かならず里ありとか云うンんだとききましたよ‥‥」  佐山も蟇目《ひきめ》も、そんな意味の里仁寮なのかと感心《かんしん》している。  やがて、課長《かちょう》が和服姿で食堂へ出て来た。  長身の如何にも紳士と云った感じの兵頭課長《ひょうどうかちょう》は、 「いや、今晩は、諸君と、飯でも食いながら、気楽に、この鉱山《こうざん》の感想や将来を話《はな》しあいたいとこんな会《かい》をつくったのです、――みんな、のんびりと話して下さい」  と、若い社員にへだて[#「へだて」に傍点]のない挨拶《あいさつ》をした。  卓上《たくじょう》にはチューリップや、金蓮花の花が活けてある。  佐山は蟇目《ひきめ》と並んで課長の側の卓子についた。 「私は、この釜石に丁度十六年ほどいますが、住めば都《みやこ》で、ここが私にとって一|番《ばん》なつかしい住みいい土地《とち》です、――私はここへ来て、製鉄所《せいてつじょ》のものすべて、一家族だと云うことを説いて来ていますせいか、諸君は、ここへ赴任《ふにん》して来られて、親しみの深《ふか》いなごやかなものを感じられたろうと思いますが、どうでしょうか‥‥」  若い女中達《じょちゅうたち》が、卓子へ和食の膳を運《はこ》んで来た。  課長の横顔を見ていた佐山は、ふっと、戦場《せんじょう》の兵頭のことを思出《おもいだ》していた。おもかげは似ていないけれど、名前《なまえ》が同じせいか、佐山は林檎《りんご》の兵頭を思い出して眼頭が熱くなっていた。  林檎の兵頭はまだ戦場から戻って来ていない、自分《じぶん》だけが、悠々と戻って来《き》ているように思えて、佐山は苦しい気持《きもち》でいる。  課長は続《つづ》けて云った。 「よく、製鉄所なンかにも、実習生や偉い参観人がやって来ますが、案内《あんない》していると、かならず従業員《じゅうぎょういん》は何人いるかと聞くンですね、私《わたし》は、そんな浅い質問は感心しないのです。職工や鉱夫の人数をきいて、事業の規模をきめようとするが、何も、職工《しょくこう》や鉱夫の数が多《おお》いばかりは自慢にならない、人数《にんずう》はなるべく少い方がいいと思《おも》っています。――末梢的な枝や葉ははらい捨ててこの事業は根本《こんぽん》の幹がぐんぐん太く逞しくならなければいけない、それには、どんな事業《じぎょう》だって、事業本体《じぎょうほんたい》の根本を見詰めて、指導精神《しどうせいしん》を植付けなくてはなりません。ただ、職工や鉱夫なンかにいまは戦時だから、緊張しろ、奮闘《ふんとう》せよと云ったところで、いったい、どの方向《ほうこう》にむいて緊張努力《きんちょうどりょく》するンだか、方向のない楽しみのない仕事《しごと》は、どんなに賃金がよくても満足がないと思います。――即ち、この製鉄所はこうするのだと云う、共同目標《きょうどうもくひょう》を示さなければ働《はたら》くものは、夢中《むちゅう》だけでは息が続かない、事業《じぎょう》もまた教育だと、私は考えている者です。教えたり教えられたりですよ、だから、私は、今夜、諸君《しょくん》からも、大いに心持《こころもち》をききたいと思ってるのです。云って悪いことはないかと云った、諸君の学校《がっこう》で受けた消極教育はさらりと、太平洋《たいへいよう》の海に捨ててもらって、何《なん》でも吐露して私を教《おし》えて下さい。ここには、戦場から戻られた、吾等の戦友もいられるし、私は、今夜《こんや》はよい会をしたいと思います‥‥」 [#9字下げ]○ 「私は帝大の経済《けいざい》を出たものであります。この一|週間前《しゅうかんぜん》に、仙人峠を越えて来たのでありますが、どんなに山《やま》を降りても、山を降りても谷底の鉱山《こうざん》へたどりつけない時の、あの気持を生涯忘れることは出来ません――いまこうして課長のお話をきき、私《わたし》も、ここへ来るまでは、釜石《かまいし》に就いての数量ばかりを勉強《べんきょう》して来たことを恥《は》ずかしくおもいます。作業概要とか、製品の数量とか、施設なんかを勉強してみましたが、さっきも、佐山《さやま》さんが云われましたように、鉱山事業《こうざんじぎょう》は、年と共に生長《せいちょう》して、生々脈打って活きて進《すす》んでいるとおっしゃった言葉に、大変教示されるものがあり嬉しくおもいました‥‥」  新しく来たばかりの、おろしたての背広を着ている社員《しゃいん》が立って素朴な表情《ひょうじょう》で話している。  さっき佐山《さやま》は指名されて、戦場での気持《きもち》や、傷病兵として内地へ帰った時の寂莫さや、いよいよ製鉄所へ来てからの気持を正直に話して、課長《かちょう》や青年達の感激《かんげき》をかった。 「――私達《わたしたち》は、ただ事業だけでも生長《せいちょう》出来《でき》ないと思いますし、また、分析だけでも生長は出来ないと思います。分析は進歩の為の研究であり、これを綜合《そうごう》して、改善進歩への推進力《すいしんりょく》を与えなければならないと思《おも》います。ここには色々な部門《ぶもん》を出た方があつまっていられて、大変愉快なンですが、分析と綜合、これをくりかえして、事業《じぎょう》に向っていけたら、課長《かちょう》の云われる、内容の充実《じゅうじつ》に向えるのではないかと思《おも》います‥‥過去の写真を見て、その写真を眺め暮す必要はないのです。事業《じぎょう》も山も生々《せいせい》脈打《みゃくう》って生きているところに面白さがあり、私は、この仕事に這入って来られた自分を愉快《ゆかい》に考えるのです」  佐山の挨拶《あいさつ》はこんなものであった。  課長は満足そうな表情《ひょうじょう》だった。  やがて、ビールが運ばれ、課長は、歌うもよし、喋《しゃべ》るもよしと云って、女中《じょちゅう》にビールをつがしてまわった。 「諸君は春風《はるかぜ》のようなものだ。非常《ひじょう》に今夜は愉快です‥‥まァ、これから、サラリーマンとしての第一歩だが、この土地は幸いに大都会でなく、末梢的《まっしょうてき》な精神過労もなく、諸君《しょくん》をしなびたサラリーマンにはしないと思います。鉱山《こうざん》に来たからには、皆、大馬鹿《おおばか》にならないと駄目、小利巧では発展《はってん》しない。佐山君の云われたように、仕事上《しごとじょう》には鉄の命令系統を守って、気持の上では春風の如く、しかも、ここは銃後の戦場《せんじょう》であると云う気持を持って貰《もら》えば何も云うことはない。私《わたし》はとても嬉しくて万歳《ばんざい》を叫びたくなります‥‥」  一座のものも、しなびたサラリーマンになるなと云う言葉《ことば》には同感《どうかん》であった。  その夜、佐山《さやま》は、蟇目とともに、海岸通《かいがんどお》りを散歩してみた。 「ねえ、佐山《さやま》さん、ここは女《おんな》の少ないところなンですねえ?」 「そんなことはないでしょう‥‥」 「ああ、僕《ぼく》は、どうも、美しい女性《じょせい》に逢いたい。いなづまやこの傾城にかりまくらか‥‥海岸通りはいやに暗《くら》いですねえ」  魚市場まで行って、再び税関の方へ引きかえし、二人《ふたり》はぶらぶら只越《ただごえ》の賑やかな方へ散歩をこころみた。  霧がたちこめていて、四囲は森閑《しんかん》としている。映画館の前で、佐山は郷子《くにこ》によく以た女の後姿を見た。胸さわがしいものを感じて、佐山は女《おんな》の行く方へふらふらと追って行《い》っていたが、こっちを振《ふ》りかえった女の顔《かお》は郷子とはまるきり違っていた。  蟇目はにやにや笑《わら》いながら尋ねた。 「知ってるンですか?」 「いや、後姿《うしろすがた》がよく以たひとがあったンで‥‥」 「この夜霧《よぎり》のせいですね‥‥」 「実際、人間の気持と云う奴は我がままなものだ‥‥あの女は吃驚《びっくり》していましたよ」 [#9字下げ]○  小見山《こみやま》と律子は、東京でささやかな結婚式《けっこんしき》を済ませると、律子の古里である佐賀に立ち寄り、昨夜、二人はやっと、長崎の平野屋《ひらのや》旅館《りょかん》に落ちついた。  今朝《けさ》は八時頃起きて、二人《ふたり》は春らしい朝風呂を浴びて茶を飲んでいる。 「こっちは、とても暖いねえ‥‥」 「ええ、だって、九州はもう、桜の季節《きせつ》ですもの‥‥」 「今日《きょう》は何日かな?」 「三月二十五日よ‥‥」 「三月二十五日か、始めて電灯《でんとう》のついた日だな‥‥明治《めいじ》何年《なんねん》に電灯がつくようになったか、君は知らないだろう?」 「そんなこと知《し》らないわ‥‥」 「知らないことで威張《いば》ってるぜ。明治十一年さ‥‥」  律子は、夫婦らしいと云うのはこんな気持《きもち》を指して云うのではないかといった、なごやかなものを、頬のあたりに感《かん》じていた。 「ふふふ‥‥岡部さんが、貴方のことを開発居士《かいはつこじ》と云ってらしたけど、私《わたし》なんか、そう、あんまり、沢山《たくさん》のことを知る必要《ひつよう》もないでしょう‥‥」 「どうして? いいじゃァないか、開発居士《かいはつこじ》結構《けっこう》だよ、――人類の慾望を満足《まんぞく》させるものはすべて資源《しげん》であって、慾望を満足《まんぞく》せしむるには、人間の体力なり、智能で障碍を乗越えて資源の開発利用が行われるンだよ、つまり、その、開発利用《かいはつりよう》の可能性《かのうせい》のあるものは、すべて、これ資源だと、アメリカのカロライナの教授《きょうじゅ》が云っているが、人間、飲《の》んで、食って、ぶつぶつ云ってるだけじゃァ、つまらないじゃないか、何《なん》でも知っていて、それに向って進歩《しんぽ》してゆくのは、ちっともさしつかえないだろう‥‥」 「ええ、だから、貴方《あなた》が、何でも知ってて進歩《しんぽ》して下さればいいのよ、私は私なりに、別に覚えることもあるでしょうし、忘れてしまうこともあってさしつかえないでしょう‥‥」  小見山《こみやま》は妻の腕に光っている時計《とけい》を眺めて、思いがけなく、ふっと郷子の事を考えた。 「急に黙りこんで、厭《いや》な方、――何を考《かんが》えていらっしゃるの?」 「何でもないよ、まだ船には間があるから、君とどっか見物《けんぶつ》に行こうと思《おも》ってるのさ」 「本当《ほんとう》? 嘘よ、何か他のことを考《かんが》えていらした眼よ、その眼は‥‥」  律子は、良人が何を考えているのかわからないながらも妬《ねた》ましいものを感《かん》じた。そうして、男と女との間の感情《かんじょう》の狭さに、ふっと不安《ふあん》を感じて、自分だけの気持が宙にただようてうろうろしているのが佗しかった。  頼んでおいたエハガキを女中《じょちゅう》が持って来たので、律子は机に凭《もた》れて、一枝や郷子に長崎だよりを書いた。  小見山は矢鱈《やたら》に煙草をふかして、木蓮《もくれん》の咲いた庭の方を眺めている。  いまだに、まだ、郷子を想っている自分が不甲斐《ふがい》なかったが、逃げた魚は天空《てんくう》いっぱいに拡がったほど大《おお》きく見える。赤や金や黒の鱗《うろこ》がキラキラ光ってさえ見えて来る。  律子の姿の後に、小見山《こみやま》は、もう一人郷子を置いて眺《なが》めていた。 「ねえ、郷子《くにこ》さんにハガキを書《か》いたンですけど貴方、何かお書きになる?」  律子が笑いながら、小見山《こみやま》の方へエハガキを持って来《き》た。 「僕は何《なに》も書くことはないよ、君《きみ》が出したらいいじゃないか‥‥」 「あら、どうしてそんなに怒《おこ》るの、――郷子《くにこ》さんに、まだ、こだわってらっしゃるンでしょう? いやな方ねえ、昨夜《ゆうべ》、あんなに大丈夫《だいじょうぶ》だっておっしゃって‥‥」  律子は駄々ッ子のように、小見山の吸ってる煙草《たばこ》を庭へ放って、小見山の両手《りょうて》を不器用に強くゆすぶりながら、声《こえ》をたてて泣きはじめた。 [#9字下げ]○ [#ここから1字下げ]  ――これから船に乗るところです。波は青くて、如何にも爽《さわや》かな航海《こうかい》です。この水の上はあらゆる意味《いみ》で、いい休息を私達《あたしたち》に与えてくれると思います。  出発の時は、あなたのお見送りを心から感謝《かんしゃ》しました。上海《シャンハイ》へ着きましても、小見山は休むひまもなくすぐ仕事《しごと》にかかるのだそうで、私も、当分《とうぶん》は知らない土地でまごまごしなければならないでしょう。相変らず、支那語《しなご》を猛烈に勉強しています。躯も元気《げんき》です。  カステラを少《すこ》しばかり送りました。一枝さんとお二人《ふたり》で召しあがって下さい。 [#ここで字下げ終わり]  郷子は、律子から来た長崎のエハガキを、湯殿《ゆどの》で髪を洗っている一枝に読《よ》んでやりながら、カステラの包みをといた。 「律子さんは、幸福《こうふく》そうね‥‥」  一枝は、風呂桶《ふろおけ》もない、がらんとした湯殿《ゆどの》で、シュミイズ一枚になって髪を洗っていた。 「お湯、もっとわかしてあげようか?」 「ええ、済《す》みません、もう一|度《ど》ゆすぐわ‥‥」  郷子がガスに火をつける音がしている。一枝は濡れた頭《あたま》を挙げて、小窓《こまど》の向うを見ていたが隣りの庭《そこ》のこぶし[#「こぶし」に傍点]の花が、蝋燭《ろうそく》のように白く咲いていた。 (嘉兵衛さんは、どうして私に手紙《てがみ》をくれないンだろう、――たった一度でいいから、私《わたし》に手紙をくれたら、私は、もっと張りきって元気《げんき》になるンだのに‥‥)  一枝は急に哀しい気持《きもち》になって来て、水道《すいどう》の蛇口をひねると、冷い水を頭から躯へ、まるでシャワァのように浴びた。  初めは皮膚《ひふ》が、痺れて凍るようにズキズキ痛くて、息《いき》の根が止りそうだった。  濡れた白いシュミイズが、乳房《ちぶさ》や腹にぴったり張りついてくる。一枝《かずえ》は、わけのわからない声を挙げて、きらきら光る水泡沫《みずしぶき》を肩に浴びた。爽快な気持《きもち》だった。子供のようにきゃっきゃっと騒いでいる。一枝の様子《ようす》に、郷子はいぶかりながら、 「何してるの?」  と、湯殿《ゆどの》へ走って来た。 「まァ! 莫迦なひとねえ、風邪《かぜ》をひくじゃないの‥‥狂人《きちがい》みたいだわ」  一枝は藻草《もくさ》のような、重《おも》たく縮《ちぢ》れて垂れさがった髪の間から、悪戯ッ子らしい眼を輝かせて、 「ああ、いい気持《きも》ちだわ、ぽかぽかして来たの‥‥」  そう云って、また水道の水を激しく出して、童女《どうじょ》のように頭から浴《あ》びている。  湯殿の中の三和土《たたき》の上に、硝子戸越《ガラスどご》しに、仄明るい光線が射しこんで溜った水の色が、池のように暗く見《み》えた。  郷子はタオルと乾いたシュミイズを取って来てやりながら、自分《じぶん》も裸足で湯殿《ゆどの》に飛び降り、急いで水道《すいどう》の栓を止めた。 「水なんか浴びて、躯に毒じゃありませんかッ、莫迦《ばか》なひとねえ‥‥」  一枝は濡《ぬ》れた躯のまま黙《だま》っていたが、頬には涙が光って落ちていた。  郷子は、頭髪を露切りのタオルで拭いてやり、濡《ぬ》れたシュミイズもぬがして、浴衣《ゆかた》を肩へ引っかけてやると、一枝は灰色《はいいろ》の壁に濡れた頭《あたま》を押しつけて、いっときうっうっと躯を震わせて泣いていた。 「さァ、カステラでも食べましょうね、熱《あつ》いお紅茶を淹れてあげるから待《ま》っていらっしゃい‥‥何て、莫迦な真似《まね》をするンでしょう‥‥」  一枝は浴衣の上に、郷子の羽織《はおり》を引っかけて、座敷《ざしき》にごろりと横になった。  郷子は台所《だいどころ》へ行き、紅茶茶碗を二つ並べながら、自分も何時《いつ》か涙ぐンでいるのだ。(こんなに、苦しみあえいでいる女の世界《せかい》も、私達だけではないだろうけれど、何処《どこ》へ行けば、いったい希望があるのだろう‥‥) [#9字下げ]○  渡利鈴子《わたりすずこ》も奉天の車輌会社へ行ってしまった。タイプライターの教習所《きょうしゅうじょ》は、また新しい顔ぶれの娘達で席が埋《うず》まり、郷子も教習所を出たおかげで、工場でも、いまではタイプを打《う》つ方へ廻されていた。  今日は月給日、郷子は釜石《かまいし》にいる佐山へ、何か想いのこもったものを贈《おく》りたいと思い、銀座に出て菓子《かし》を買った。  久しぶりに映画《えいが》を観《み》たかったけれど、一人で観る気もしないので、一寸した買物を済《す》ませて、薬王寺《やくおうじ》の家へ戻って来ると、家の前で、瀬田《せた》の叔母がマツエを連れて呆《ぼ》んやり郷子の帰るのを待っていた。 「あら!」 「ああ郷《くに》ちゃんか、えらい探しましたえ、ああ、しんど[#「しんど」に傍点]かった。――なんぼう‥‥一時間ほども待ったかいな」  と、一人でまくしたてて郷子が鍵《かぎ》を開けるのをもどかしそうに待《ま》っている。 「マッちゃん、どうして電報《でんぽう》など打ってよこさんのよ? 急に、どうしたン?」  郷子が、マツエに小さい声でたずねると、マツエは赫《あか》い顔をして、歯科医専《しかいせん》を受験してみようと、叔母《おば》に頼んで上京したのだと云った。 「マッちゃんが、どうしても、もっと勉強《べんきょう》したいと云うもンで、まァ、連れて来たンやけど、今度はなァ、雨宮《あめみや》さんも一緒どすえ」  郷子は吃驚《びっくり》していた。 (大阪での、あの仕打《しう》ちを、まだ了解《りょうかい》しないのだろうか?)  瀬田の叔母は部屋部屋を覗《のぞ》いてみながら、こじんまりしたええ家やと感心《かんしん》していた。 「今度は、おりくさんにも逢うて帰ろうと思うてるし、――雨宮《あめみや》さんにも、是非とも郷《くに》ちゃんに逢うて貰《もら》わンならんと思ってますえ、よろしか? 年寄《としより》の云うことは案定《ちゃんと》きいておくもンや‥‥」  マツエはセーラーのスカートをいじりながら、部屋の隅《すみ》にきちんと坐っている。 「マッちゃん、あんた、郵便局《ゆうびんきょく》の方はやめてしまったの?」 「うちね、黙《だま》って来たの、兄さんからも、学校の方は受けてみるだけ受《う》けてみたらいいと云うて手紙来たの‥‥」 「お父さんやお母さんも賛成《さんせい》なの?」 「行きたいのやったら仕方《しかた》がないって‥‥」  雨宮《あめみや》は商用で来ているらしく本郷の湯島《ゆしま》の方へ宿をとっていると云うことだった。  叔母とマツエが銭湯《せんとう》へ出掛けて行くと、一枝《かずえ》がただいまと帰って来た。 「お客様?」 「ええ、不意《ふい》に、叔母と妹が来たのよ‥‥ああ、私、奉天《ほうてん》へ行っとけばよかったわ、叔母は自分一人で胸算用《むなさんよう》してるンですもの、本当に厭になっちまう‥‥」 「何しにいらっしたの‥‥」 「妹は、歯科医専《しかいせん》とか受けるンですって、それはいいンだけど、叔母の方は、例《れい》の、私の結婚問題をまたむしかえしに来たらしいのよ、しかも、相手《あいて》の、その男のひともこっちへ来《き》てるンですって‥‥」 「まァ、困ったわねえ‥‥」  その夜、叔母には、雨宮《あめみや》の宿へ行って貰い、郷子は久しぶりに妹と一|緒《しょ》に寝た。 「お父さんは怒《おこ》っているでしょう?」 「ううん、もう、お姉さんの気持に任《まか》せると云うてはったわ。いまは、兄さんから少しずつ送って来てるし、こんな御時世《ごじせい》やから、兄さんや、姉さんや、うち[#「うち」に傍点]が幸福《こうふく》やったら、もう、それでええとせないかン云うてはるの――お姉さん雨宮《あめみや》さんに会うの?」 「厭《いや》なことだわ‥‥」 「私の学費《がくひ》を出してやろうと云うてるのよ」 [#9字下げ]○  今日は、神田の学士会館で、岡部と雪江の結婚式《けっこんしき》の日である。  時節柄、簡素《かんそ》にと云う、雪江の父、台長の意向で、ほんのわずかな肉親知友《にくしんちゆう》に囲まれて、岡部と雪江は、仲人《なこうど》の田中海軍少将夫妻につきそわれて、中央の卓子《テーブル》についた。  雪江は、黒地に、白い折鶴《おりづる》が無数に飛んでいる振袖姿《ふりそですがた》で、何時もの洋服姿の雪江とは違った美しさである。  岡部は時々、固《かた》そうなカラーに手をあてながら、きちんとかしこまっている。花婿《はなむこ》花嫁《はなよめ》の前には、温室咲きの華麗《かれい》な牡丹《ぼたん》が活けてあった。  郷子は、こうした晴《は》れがましい席へ招待《しょうたい》されるのは生れて初めてなのだ。岡部や雪江《ゆきえ》に無理矢理に招待されて、郷子は、去年《きょねん》瀬田《せた》の叔母がつくってくれた、さや形に小菊散《こぎくちら》しの錦紗の羽織を着て、片隅《かたすみ》の席についていた。  出される皿《さら》には、少しも手をつける気がしないほど、郷子は宙《ちゅう》をみつめて呆《ぼ》んやりしている。思い出したように卓子《テーブル》スピーチの拍手《はくしゅ》がわいた。 「新郎新婦とも実に似合いのお二人であって、この時局下《じきょくか》における、今日《きょう》の結婚式は、お二人の上に、かならず、無量《むりょう》な感慨《かんがい》があるはずと思われます。しかも、岡部君は、来月中旬には応召なさることになり、今日のこの式は、岡部君《おかべくん》夫妻《ふさい》の新しい出発を祝すめでたい日でもあり、応召される岡部君の壮途《そうと》を祝う記念すべき日でもあるわけであります‥‥」  郷子は、何と云うこともなく、宙《ちゅう》をみつめていた眼を岡部の方へ向けた。岡部《おかべ》はかしこまって、仲人《なこうど》の田中少将の話をきいているようであったが、ふっと眼をあげて郷子の方へ顔を向けた。  温い美しい眼の表情《ひょうじょう》だった。郷子は岡部の、何時もに変らない、淡々《たんたん》とした表情の中から、胸の熱くなるような親愛《しんあい》を感じている。  昼間の結婚式だったので、肉親知友《にくしんちゆう》の卓にスピーチも二三人だけの簡単《かんたん》なものであったが、最後に、たった一つ、短い、電報《でんぽう》が、岡部の友人によって披露《ひろう》された。 「キミノヨキヒヲ、ハルカニシユクス、サヤマシンイチ」  (佐山新一!) 郷子は驚《おどろ》きの眼を瞠《みは》って、読まれた電文を、何度も胸の中に折《お》り畳《たた》んでいた。  式が終《おわ》ると、岡部はすぐ郷子のところへやって来て、 「今日は本当に有難う、雪さんも大変《たいへん》よろこんでいますよ、――明日《あした》、飛行機で大阪まで行って、それから、和歌山《わかやま》へ帰ります」 「出征《しゅっせい》なさいます日までに、東京へお帰りになりますの?」 「ええ帰って来ます、――元気《げんき》でいらっしゃい‥‥」 「ええ、有難うございます」 「何でも、困《こま》ることがあったら、これからは雪さんに云って下さい。貴女《あなた》が何でも相談してくれれば、あのひとはきっと喜《よろこ》ぶでしょうし、郷子さんが、今日《きょう》来《き》てくれて、とても、あのひとは喜んでいるンですよ」 「佐山さんから、お電報《でんぽう》がありましたのね」 「――さっきも、僕も、はるかに祝すと云う、はるか[#「はるか」に傍点]と云う電文《でんぶん》にほろりとしていたンです。負けぎらいの奴《やつ》だから、元気で働いていると思うンだけど、何しろ、はるかな土地《とち》に、たった一人でですからねえ‥‥」  郷子は黙《だま》っていた。  雪江がにこにこ笑いながら妹の千鶴子《ちづこ》と、二人のそばへやって来た。 「ほんとに、よく来て下すったわ、千鶴ちゃんたら、あの綺麗《きれい》なひとに紹介して頂戴ってきかないのよ」  千鶴子はオレンジ色の服の胸を両手《りょうて》でおさえて、しとやかに郷子に挨拶《あいさつ》をした。 [#9字下げ]○  岡部の結婚式《けっこんしき》の帰り、郷子は歩きながら、涙が溢《あふ》れて仕方がなかった。  何か愛情に飢《う》えた気持で、郷子は、久しぶりに、生母《はは》のそばへ行って、膝に頭をつけて子供のように泣《な》きたい気持だった。  そのまま薬王寺《やくおうじ》へは帰らずに、郷子は、蒲田のりくの奉公口《ほうこうぐち》へ尋ねて行った。りくは二日前から、肺炎《はいえん》で、近所の病院に入院していると云うので、郷子はすぐ病院の住所《ところ》を聞いて、生母《はは》を尋《たず》ねて行った。  病院の二階にある、薬臭《くすりくさ》い汚い部屋で、りくは熱っぽい哀《あわ》れな姿で寝ていた。 「お母さん! 私ですよ‥‥」  郷子が頬《ほお》を押しつけるようにして、りくの耳もとに唇《くちびる》をつけて呼んだが、りくは、魚のようなどろんとした眼をしていた。 「平造《へいぞう》さんかえ? 平造さんが怒《おこ》っているンで帰ることが出来ないよ‥‥」  熱に浮《う》かされたように、りくは遠い昔に別れた郷子の父の名を呼《よ》んでいる。  郷子は、女の性根《こころ》のなかには、どんなに年を取っても、昔別れた男の生命《せいめい》が、かくまでに熱く激しく流《なが》れているのかと不思議な気持だった。 「お母さん、何を云ってるの、誰《だれ》も、あなたを怒《おこ》るひとは一人もいなくてよ、――元気にならなくちゃ駄目《だめ》じゃないの!」  郷子は派手《はで》な羽織をぬいで、それを袖だたみにして、甲斐々々《かいがい》しく、両の袖を帯〆に挟《はさ》んだ。  ほんの少し前までは、華やかな結婚式《けっこんしき》に行き、いまは、病気の母の枕元《まくらもと》で、じっと坐っているのが郷子には変《へん》な気持である。  仮装の群のなかにまぎれこんでいる、悪魔《あくま》のようなものに向って、郷子は激《はげ》しい怒りの眼をむけるのであった。  やがて看護婦と医者が注射《ちゅうしゃ》をしに来てくれた。  長いこと、芥子《からし》で湿布《しっぷ》をしていらして、こんなに皮膚《ひふ》が焼けていますよと、医者が母の胸を広げてみせてくれた。しなびた乳房《ちぶさ》が、郷子には哀しい想い出を呼びおこしてくれた。 「お父さんがねえ、下駄《げた》で私を打つンだよ‥‥」  りくは熱のなかで、とりとめもないことを喋《しゃべ》っている。  注射を終って、医者《いしゃ》は駄目かもしれないと云った。もう、四五時間が境《さか》いだと云って、看護婦と部屋を出て行ったが、郷子は、母が死《し》ぬとはどうしても信《しん》じられなかった。  女学校のころ、門《もん》のところで、自分の出て来るのを待っていた母のおもかげが急《きゅう》に郷子の胸によみがえって来る。  良人に別れてからのりくは、今日まで一度も結婚《けっこん》しないで、広い東京で、こうして病み朽《く》ちるまで働きつづけているのだ。  郷子は女学校の頃、百姓のような姿《すがた》でいた母の姿に、父は別れて、自殺《じさつ》しかねまじき母のはげしいおもいを、いまこそしみじみと解った気持《きもち》であった。  廊下のそとで、ばたばたと、襖《ふすま》や硝子戸《ガラスど》に何かぶつかる音がしている。  郷子がそっと襖を開けると、狭《せま》い廊下に雀が飛び込んでいて、硝子戸に躯《からだ》をぶちあてて出口を探《さが》していた。  硝子戸《ガラスど》がほんの少し開いている処から、雀が飛び込んで来たのだろう。郷子は、硝子戸を大きく開けてやった。雀は黒い点《てん》になってすさまじく黄昏《たそがれ》の空へ飛んで行った。 「ああ、氷《こおり》が飲みたいでなァ‥‥」  りくが呼んでいる。  郷子は、虫《むし》が知らせるとでも云うのか、偶然《ぐうぜん》に生母《はは》を尋ねて来た今日の運命が、怖い気持だった。  静かに生母の手を握《にぎ》ってやりながら、郷子はその「運命《うんめい》」に祈っている。 [#9字下げ]○  岡部たちの乗るロックヒードは、早朝《そうちょう》七時に離陸するのだ。  雪江は、風見《かざみ》の赤と白の吹きながしを見上げながら、 「お母さま、今日は、富士山《ふじさん》がよく見えますわ」  子供《こども》のような事を云っている。  雪江の母と妹の千鶴子が、姉《あね》の出発を見送りに来ていた。  両翼《りょうよく》に日の丸を描いた銀色のロックヒードが、何時でも飛び立てる表情《ひょうじょう》を示している。  岡部は待合室《まちあいしつ》のソファに腰をかけて煙草を吹かしていた。広い飛行場が硝子越《ガラスご》しに見える。  雪江は、黒いハーフコートに、白手袋《しろてぶくろ》をした涼し気な姿で、母や妹に、三四|台《だい》の飛行機を指差して何か教えている様子だ。岡部は暗雲《やみぐも》に煙草の煙を吐《は》いていたが、しみじみとした幸福の想いが胸に湧《わ》きあがって来るのを覚えた。  昨夜、――雪江は、時々、岡部の出征《しゅっせい》を想い出して、眼に涙《なみだ》をいっぱいためていたが、今朝も家を出る時、ほんの一瞬の接吻《せっぷん》のあと、 「もう、和歌山《わかやま》へ行ったら、何もお話出来ないけど、――私、元気でお還《かえ》りを待っていますわ。それに、私、お務《つと》めがあるから、気持の散《ち》りようもないし‥‥」  雪江はそう云ってまた涙《なみだ》ぐんでいた。  岡部は、硝子越しに新妻《にいづま》の朗らかそうな姿を眺めながら将来のことを色々《いろいろ》と考えている。自分が出征しても、務めていてくれれば、経済的《けいざいてき》にも、そんなに、里へ心配をかけることもないだろうし、本人も活気《かっき》のある生活に這入れていいだろうと思えた。  やがて準備が出来たのか、紺のスーツを着た可愛いエアガールが案内《あんない》に来た。 「じゃァ、お大事に‥‥」  雪江の母は岡部達に挨拶《あいさつ》をした。  千鶴子も、新しい義兄《あに》の岡部と握手をしながら、 「お着きになったら、電報を頂戴《ちょうだい》ね」と云っている。  乗客を見送《みおく》りに来た人達が飛行機をとりまいていた。  プロペラがブウンと硝子《ガラス》の棒のように光って廻り始めた。  雪江は飛行機の窓から、母や妹を眺《なが》めていたが、急に理由のない涙が噴《ふ》きあげて来た。 「おい、ねえ、あれは、郷子さんじゃないのかねえ?」 「ええ?」 「あすこから出て来たの‥‥」 「あら、郷子さんだわ、そうよ、郷子さんよ‥‥まァ、見送《みおく》りに来てくれたのねえ‥‥」 「僕達がわからないンだね、呆《ぼ》んやりした眼をしているよ」 「もう降りられないかしら?」 「もう駄目だ‥‥」  二人は、小さい窓から手を振《ふ》ったり、ハンカチを振ったりした。すると、雪江《ゆきえ》の母や千鶴子は、自分達に振っているのだと思い違いして、いっそう激《はげ》しくハンカチを振っている。  ガクッと機体《きたい》が動き始め蹴《け》るような感触がして、機体はすっと空へ舞いあがった。 「もう見えないわ‥‥」  雪江が窓から顔をはなすと、向う側の席にいる岡部は、黙《だま》って地上を見ていた。  隅田川も海も光っている。家の屋根々々《やねやね》は何処も工場のように煤《すす》けているけれど、機体の飛翔が高くなるにつれて、山蔭《やまかげ》や川添いの畑地の麦の色が、眼に浸《し》みるばかりの明るい緑《みどり》であった。  雪江は初めて飛行機に乗ったのだけれど、中々《なかなか》乗工合《のりぐあい》のいいものだと思った。  岡部はおもいがけない郷子の見送《みおく》りの姿を窓から眺めて、胸の痛いおもいである。 [#9字下げ]○  飛行機が、青い空の彼方《かなた》へ小さく消えてゆくまで、郷子はじっと機影《きえい》をみつめていた。 (ほんとにいい方だった‥‥)  岡部達に逢うことも出来ないでほんの一足違いで飛行機《ひこうき》は飛び去ってしまったけれど、郷子は、そのまま飛行場を立ち去るにしのびない気持《きもち》だった。  岡部の結婚式《けっこんしき》に会った雪江の妹や、雪江の母が、何か一生懸命話しあいながら、郷子の前を通って行った。  郷子は走って行って挨拶《あいさつ》をしようと思ったけれど昨夜《さくや》亡《な》くなった母のことを考え遠慮して、郷子はそのまま黙《だま》っていた。  岡部には海山《うみやま》世話《せわ》になった事を考えると、どうしても逢いたい気持で、郷子は、仏《ほとけ》を敬太郎に頼んで、今朝飛行場へ走《はし》って来たのであった。  たしか、今朝の福岡行《ふくおかゆ》きのロックヒードは、内海《うつみ》飛行士が操縱《そうじゅう》しているのだと敬太郎が話していたけれど、郷子は、乗客《じょうきゃく》の岡部と、操縦士の内海が、お互いに小見山《こみやま》の友人でありながら、何も知らないで、空中《くうちゅう》を飛んでいることを考えると、岡部のよく云う、それもこれもまた人生だと思わざるを得《え》なかった。  佐山と一番つながり[#「つながり」に傍点]の深かった岡部も空の彼方《かなた》へ行ってしまい、小見山もまた律子《りつこ》と結婚して上海《シャンハイ》へ去ってしまっている。  あまつさえ、長い間、不幸《ふこう》な暮しにいた母も、とうとう昨夜《さくや》、亡くなってしまったのだ。  郷子は、また新しく涙の溢《あふ》れるおもいであった。  昨日は、宵に雀が飛びこんで来て、幸福《こうふく》なことがあるのだと、一人合点に喜んでいたのも束の間――生母《はは》は急性肺炎《きゅうせいはいえん》で、五時頃には酸素吸入《さんそきゅうにゅう》も間にあわずに亡くなってしまった。  薬王寺の一枝にあてては、急用《きゅうよう》あって帰れぬ、妹頼むと云う電報を打っておいて敬太郎《けいたろう》にだけは電話《でんわ》をかけて来て貰った。  りくの奉公先《ほうこうさ》きの同輩が三人と、郷子と敬太郎が、昨夜、病院でりくの通夜《つや》をしたのであった。  昨夜は一|睡《すい》もしていなかったし、心配や、哀しさで胸《むね》はふたぎ、郷子は道を歩きながらもふらふらと眩暈《めまい》がしそうだった。  建築場の囲いになった板塀《いたべい》に凭《もた》れて、郷子はいっとき晴れた空を見ていたが、何時か郷子はそこへ背をかがめて蹲踞《しゃが》んでしまっていた。  このまま消えて亡くなれるものなら、消えてしまいたいような落莫《らくばく》とした思いが、往来の砂風とともに、胸の中の冬の枯木立《かれこだち》をゆすぶってゆくようであった。  飛行場帰りのハイヤーが何台か郷子の前を通《とお》って行く。  ――りくは、植村郷子の名前で、二百円ほど郵便貯金《ゆうびんちょきん》をしていた。新しく書きかえられた通帳を眺めて、郷子は、こんなに一人ぼっちでいても、遠くにいる娘が可愛《かわい》かったのかと、いまさら、生母《はは》の大きな愛情を感じないではいられなかった。  芥子《からし》の湿布で紅く焼けた、母の痩《や》せた乳房を、郷子は痛々しく眺めたが、大きな母の愛を、いまこそ思い知った気持《きもち》である。  我儘一途な父に別れてからも、なおかつ孤独《こどく》に生き抜いて来た生母の生涯《しょうがい》に、郷子は、しみじみと教えられるような女心を感《かん》じた。 「――お母さん、何《なに》もしてあげられなくてごめんなさいね‥‥」 「郷ちゃんや、平造《へいぞう》さんは何処までお使いに行ったンかねえ?」 「もうじき帰っていらっしゃるから、元気《げんき》を出していらっしゃい‥‥」  亡くなる前の、哀れな生母の表情が、砂風《すなかぜ》の中に蹲踞んでいる、郷子の眼に呆《ぼ》んやり写っていた。 [#9字下げ]○ 「敬ちゃん!」 「何?」 「ううん、何でもないわ‥‥」 「何か、だって、云いかけただろう?」 「ええ、お母さん、幸福《こうふく》だと思って、だって、こうして、私と敬ちゃんが仏様《ほとけさま》のそばにいるンだもの‥‥」  暗い葬儀《そうぎ》自動車《じどうしゃ》の中に、棺と一緒に、郷子と敬太郎が乗った。外はからりと晴《は》れているのに、葬儀自動車の暗い天井からは、郷子の膝《ひざ》の上に冷い滴《しずく》がぽとりぽとりと落ちている。 「東京で、葬儀《そうぎ》自動車《じどうしゃ》に乗るとは思わなかったなァ‥‥」 「そうね、出世前の敬ちゃんを乗せて大丈夫《だいじょうぶ》かしら?」 「かえっていいンだよ、――おばさんも喜んでるだろう‥‥」 「そうね‥‥」  棺の上には、白い綸子《りんず》の裂《きれ》がかかっていた。その上に、郷子は、淋しい生涯の人だったから華やかにと、赤いカァネーションの花を四五|本《ほん》置《お》いておいた。 「この自動車の窓硝子《まどガラス》は黄色いのね‥‥」 「外が黄色《きいろ》く見えるね」  水滴は相変《あいかわ》らず、ぽとりぽとり郷子の膝に落ちていた。郷子は敬太郎の方へ寄り添《そ》いながら、 「暗くて、何も見えやしないわ。――後《うしろ》でお母さんが何か云ってるみたい‥‥」 「この、自動車も、色々な人物《じんぶつ》が乗ったことだろうな‥‥」  運転手席も見えない、暗《くら》い箱の中で、郷子と敬太郎は手を握《にぎ》りあっていた。  姉弟《きょうだい》が、何年ぶりかでしみじみと寄り添ったような、温いものを感じた。故郷《こきょう》を出るときの、火事の晩《ばん》が、郷子にはふっとなつかしかった。 「今日、飛行場へ行ったら、敬《けい》ちゃんは、何時、ああして飛《と》べるのかと思ったわ」 「内海《うつみ》さんに逢った?」 「ううん、逢わない、――私《わたし》が行くと一緒に飛行機が飛《と》んじゃったンだもの‥‥」 「僕は、いまに戦闘機《せんとうき》へ乗るンだよ‥‥近々内海さんに霞《かすみ》ケ浦《うら》へ連れてって貰うンだ‥‥」 「そう、いいわね、しっかり勉強して頂戴《ちょうだい》」  桐ケ谷の火葬場《かそうば》へ行く道――公設市場や、郵便局や、自転車屋、病院、そんな建物《たてもの》が、葬儀自動車の黄色《きいろ》い窓から見える。 「ねえ、敬ちゃん!」 「何さ?」 「私、叔母さんの方をどうしようかと思ってるの‥‥」 「大阪の話《はなし》だろう?」 「ええ、それもあるけれど‥‥さっきも、おりくさんは、貯金《ちょきん》でもしていなかったかって、しつこく聞くのよ、――大阪の人のことは、考えても厭《いや》なのよ‥‥」 「貯金《ちょきん》なンかなかったと云えばいいだろう‥‥」 「ええ、何もないって云ったわ、――ねえ、私《わたし》、このお金は、お母さんが私にくれたンだから、私、これで、佐山《さやま》さんのところへ行こうかしら‥‥マッちゃんは、もし、学校へはいれたら、寄宿舎《きしゅくしゃ》へでもいれてやって‥‥」 「――お母さんも、姉さんの時と違《ちが》って、やっぱり、マツエは自分の子だから、学校《がっこう》でも何でも入れてやりたいらしいんだね‥‥」 「学費《がくひ》は何とかなると云ってたけど、何とかなるのかしら?」 「瀬田の叔母さんが小金《こがね》を出すンだろう、自分の本当の姪《めい》だからね‥‥」  後《うしろ》ではガタガタ棺がゆれていた。 [#9字下げ]○  月が路地の上へ出ていて、美しい月夜《つきよ》であった。  白い裂《きれ》で包んだ母の遺骨《いこつ》をかかえて、薬王寺へ郷子と敬太郎《けいたろう》が戻って来たのは八時頃だったろう。――郷子の机の上へ一枝《かずえ》の心尽しなのか、白い百合《ゆり》が花瓶に活けてあり、茶飲茶碗に灰を入れて、線香《せんこう》がたててあった。  郷子が部屋へ這入《はい》って行くと、縁側の障子ぎわに、若い和服《わふく》の男が坐っていた。  不図《ふと》、郷子と、その若い男の眼が合ったけれど、郷子はすぐその眼色《めいろ》を除けて、遺骨を机の上に置いた。 (あれが、叔母さんの連れて来た雨宮《あめみや》と云う男なのだわ‥‥)  藍《あい》がかった結城《ゆうき》の揃いを着ているのが、郷子の眼に写《うつ》った。 「お母さんの話をしたらなァ、雨宮さんも、ぜひ御焼香《ごしょうこう》さしてほし云やはって、わざわざ来ておくれやしたンどすえ‥‥」  仕方がないので、郷子は雨宮の方へ丁寧《ていねい》に挨拶をしたが、雨宮は、瀬田《せた》の叔母を通して考えたような悪どい感《かん》じの男ではなかった。  如何にも商家で育ったと云う油っこい処と、富裕《ふゆう》な商家の息子《むすこ》らしい落ちつきがある。  ――郷子は母の写真も飾《かざ》れない貧しい仏前に坐って、焼香のあといっとき合掌《がっしょう》をしていたが、心の中では風の吹きすぎるような空漠《くうばく》としたおもいでいながら、はらはらと涙が手の甲《こう》を伝っていた。  母の遺骨《いこつ》とたった二人でいたかったのだけれど、いまはどうにもならない。  やがて、雨宮も立って机《つくえ》の前に行き、仏に合掌《がっしょう》してくれた。郷子は雨宮の白い足袋を眺めると、大野の葬儀《そうぎ》の時をふっと思い出していた。    いまでは、大野も母も、虚空《こくう》の彼方に消えてしまったけれど、郷子は遺骨《いこつ》を抱いて、路地を這入る時、月《つき》の光をあおいで、何と云うこともなくふつふつと生命に対する執着《しゅうちゃく》が湧いて来るのを感じたのである。 (どんなことがあっても、死んでしまっては何にもならない、――一|生懸命《しょうけんめい》で、生き抜いて生き抜《ぬ》いて行きますよ、お母さん‥‥)  郷子は月に祈る気持《きもち》であったのだ。  机の百合はよく匂《にお》った。  ――肌理《きめ》の細い皮膚、澄んだ黒い眼、品のいい唇、雨宮は、さっきから郷子の横顔《よこがお》をじっと眺《なが》めている。  この女を得るにはいくらぐらいかかるだろうかと、雨宮は真面目《まじめ》に胸算用をしていた。昔逢った時よりも、いっそう美しく磨《みが》かれていて、愼《つつ》ましい姿が、雨宮には胸をとどろかすような魅力があった。  郷子が女事務員《おんなじむいん》をしていると聞いて、女事務員かいなと、一寸馬鹿にしていたいままでの気持も、いまはすーっと消《き》えてしまって、郷子の美しさに、雨宮は、大阪の宿の見合《みあい》の不始末も忘れてしまう位であった。  雨宮は月の射《さ》し込む廊下へ出て、紙入れから紙幣《しへい》を出していくらか紙に包んでいたが、 「一寸《ちょっと》、おばさん」  と、瀬田の叔母を呼《よ》び、 「御香料《ごこうりょう》をなァ、二十円包んでおきましたけど、――何ぞ、要るンやったら、遠慮せんで云《い》うて下さい」  と云った。  叔母は嬉しそうに、たぶたぶした白い手の甲《こう》を唇《くち》もとへ持って行っていたが、ふっと小さい声で机《つくえ》のそばの郷子を呼んだ。 「郷ちゃん、一寸《ちょっと》‥‥」 「はい」  郷子が縁側へ立って行くと、雨宮《あめみや》は香奠の包を郷子の懷《ふところ》へ挟み込みながら云った。 「もっと、何でも要《い》ることがあったら云って下さい、遠慮されると水臭《みずくさ》いおもいますよ、――これは仏《ほとけ》さんにお花でも買《こ》うて下さい」 [#9字下げ]○  郷子は、雨宮が、経済的《けいざいてき》な援助をして、自分達におっかぶさって来ようとしている、その単純さと、無智《むち》な叔母のおせっかいに腹をたてずにはいられなかった。  雨宮のくれた香奠を無雑作《むぞうさ》に机の上に置くと、郷子は一枝を誘って戸外《そと》へ買物に出た。 「私、お昼《ひる》から何も食べていないのよ、おなかが空《す》いてるようでもあるし、空かないようでもあるし‥‥」 「じゃァ、何か召上《めしあが》れよ、ねえ、――ところで、律子さんはもう上海へ着いたかしら?」 「そりゃァ、もう着いてるわよ」 「こんな月夜《つきよ》に、船に乗ってみたいわねえ。そのうち、新京《しんきょう》のお姉さんのところへ行ってみようかと思ってるの、――だって、うちのデパートじゃ、なかなか支那《しな》へ進出してゆく気配《けはい》もないし、私このままこの仕事《しごと》を続けていようとも考えていないわ‥‥」 「房子さんには御無沙汰《ごぶさた》しているけど、お元気かしら?」 「お姉さん、とても元気で、色々苦しいこともあったけど、心配も愉《たの》しみのうちだって、そんなこと云って来たわ。子供を連れて結婚《けっこん》したンですって‥‥」 「まァ! 何時《いつ》?」 「ううん、たったこのあいだなのよ、――お婿《むこ》さんと云うのが、初婚《しょこん》の方で、もう四十七八のひとなンですって、吉林《きちりん》の鉄道へ勤めてる方で、近いうち吉林へ行くンだって書《か》いてあったわ‥‥」  赤い月の光が、何となく狭《せま》い街を賑かにみせている。  郷子は神楽坂で餠菓子《もちかし》を少し買って、郵便局に這入って行った。坂の中途《ちゅうと》にある、大きい郵便局の建物の真上《まうえ》に、月がゆっくり二人を追いかけて来ている。 「電報《でんぽう》打《う》つの?」 「ええ、一寸《ちょっと》これ持ってて頂戴‥‥」  郷子は餠菓子の包みを一枝に渡して、局員から頼信紙《らいしんし》を一枚貰うと、六角机のところへ行って、電文《でんぶん》を書いた。  四囲はがらんとしている。間断《かんだん》なく、カチカチカチ‥‥と電信を打つ音が、しいんとした局内に響いて、煌々《こうこう》とついている電気の下では、夜業の局員達《きょくいんたち》が忙《せ》わしそうに事務を執っていた。 [#ここから2字下げ] イワテケン カマイシシ リジンリヨウ サヤマシンイチ 二三ヒシテユキタシ オユルシコウ クニコ [#ここで字下げ終わり]  今では、佐山の感情《かんじょう》なんか、少しも考えていられなかった。岡部の結婚式《けっこんしき》にあてて「君のよき日をはるかに」と云った、そのはるかな[#「はるかな」に傍点]ところから吹きつけて来る佐山の息吹《いぶ》きを、いまの郷子は必死《ひっし》になって追いすがりたいのである。  小さな卑下《ひげ》が、何時も※[#「易+鳥」、第4水準2-94-27]《いすか》の嘴《はし》の喰い違いにばかりなっていて、人間的な迷いや、肉親の非難に、若い郷子はもう疲《つか》れきっていたし、不測の禍《わざわい》のなかにいるのが耐えられない気持でもあった。  本当は明日発つの電文《でんぶん》を書きたいような、せまった思いであったのだ。  郷子は電報を書き終ると、切手《きって》を買い、それを電信受付へ持って行った。  戸外へ出ると、郷子は二三日して釜石《かまいし》と云う処へ行くかも知れないと一枝《かずえ》へ話すと、一枝は、 「そりゃァいいわ、――私だって、近《ちか》いうちお姉さんの処へ行くか、アメリカのママの処《ところ》へ一度帰るかしようと思っていたンですもの、――腐《くさ》らない水を尋ねて、常に流れて行くのもいいじゃァないの、お姉さんは、私達のことを、勿体《もったい》ないほど若いって羨《うらや》ましがってるのよ」 [#9字下げ]○  鉱山へ行く列車の沿線《えんせん》は、すっかり春景色で、桃も桜もほころびかけている。  小学校の庭には、徴発馬《ちょうはつうま》の検査があるのか、逞《たく》ましい馬が十四五頭も杭《くい》に繋いであったり、街道を検査場へ馬を挽《ひ》いてゆく若い女がいたりして、佐山も蟇目《ひきめ》も珍らしそうにそれらの風景を眺めていた。箱《はこ》のように小さいがたがた汽車は、一つ一つの駅々《えきえき》に止っては進んでゆくのだ。 「佐山さん、あの馬達も戦地《せんち》へ行くンでしょうね?」 「大方、出征するンでしょう、――何処も非常時《ひじょうじ》だが、北辺は、女も子供も馬も非常時ですね、子供が随分畑で働《はたら》いていますよ‥‥」 「へえ、そうですか?」  薄紅く紫雲英《げんげそう》の咲いている田圃を、子供が牛をひいて、土を鋤《す》いているのを眺めると、佐山は無錫の兵姑宿舎での黄昏《たそがれ》を思い出していた。  支那の農婦《のうふ》が、戦いのさなかにあっても、せっせと、広い畑地《はたち》を耕作して、来春の備えにしている甲斐々々《かいがい》しい姿を、佐山は忘れることが出来なかった。  いま眼の前に、農村《のうそん》の子供の働いている姿を見ると、佐山は無性《むしょう》に涙が溢れて来そうで仕方がない。  今日は日曜日、ぐじぐじしていた天気《てんき》も晴れて、今日は、蟇目《ひきめ》に誘われて佐山はハイキング姿で鉱山へ遊びに来たのだ。一緒に仙人峠《せんにんとうげ》を越えた、北海道の輪西《わにし》から来たと云う鉱夫にも、会えれば会いたいと思っていた。  大橋の駅へは、蟇目《ひきめ》の友人だと云う、事務所に働いている佐藤と云う男が迎えに来ていた。  煤けた駅には、近くの農村から来ている選鉱婦《せんこうふ》が四五人、リュックを背負った佐山達を珍らしそうに眺《なが》めている。  佐山達は、事務所の横にある倶楽部《くらぶ》へ案内されたが、倶楽部と云っても日本間の暗い部屋で、如何にも下宿屋の下座敷《しもざしき》と云ったところであった。 「ここの鉱山管理をしておられる課長の本間と云う方は、この鉱山《やま》に十六七年もおられる方ですが、非常に地味《じみ》な人で、この鉱山では信望のある人です。――僕は、こんな「土《つち》の人格者《じんかくしゃ》」に、何故、政府が礼をもって報いないのかと不思議《ふしぎ》に思っているンですよ、――釜石の鉄は無尽蔵にあるンだそうですが、どうして、外国から屑鉄《くずてつ》なんか買ったりするんだろうかと、きくと、本間さんは、如何に鉄が無限《むげん》に出るからと云っても、禅坊主が斎《とき》に会ったように、貪《むさぼ》り喰うことは、即ち、計画もなく採り尽すことは、胃腸《いちょう》障害《しょうがい》を起す原因だと云うンです‥‥」  佐藤は縁側《えんがわ》で茶をすすりながら面白い話をしていた、――ここでは、尾形氏《おがたし》の後輩である京都帝大の冶金出の荒城《あらき》氏が、佐山達を坑内《こうない》へ案内してくれた。  日曜日だったけれど、独身《どくしん》の荒城氏は、宿舎にいても仕方がありませんから、僕《ぼく》もお供さして戴きますと、佐山、蟇目《ひきめ》、佐藤、荒城の四人の青年達と、ぶらぶら十二|番坑《ばんこう》の方へ山を登って行った。  山の狭間《はざま》を渓流が淙々《そうそう》と流れている。黄い砂地のような山径《やまみち》を、蟇目と佐藤、佐山と荒城と云う風に並んで登《のぼ》っている。  右側の斜面には、鉱夫《こうふ》や社員の新しい社宅が並んでいた。日曜日なので、鉱山《こうざん》の子供達も、社宅の路地々々で賑《にぎ》やかに遊んでいる。 「佐山《さやま》さんは帝大《ていだい》を出られたンだそうですね? ボートをやっておられたンだとかって‥‥」 「いやァ、誰《だれ》にお訊きになりました?」 「僕も実は京都でボートをやっていたンですよ、鉱山《こうざん》へ来たら、河童が陸へあがったも同然《どうぜん》で‥‥まァ、まだ、あなたは、海《うみ》が見られるだけでも羨《うらや》ましいですよ‥‥」 [#9字下げ]○ 「僕は学校《がっこう》を出たてのほやほやですが、どうも、このごろ、卒業《そつぎょう》技術《ぎじゅつ》と云うものが、いかに役に立たないかと云うことをつくづく悟りました。――学校で学んだわずかの技術が、全《すべ》てだと云う観念《かんねん》を持って鉱山へ来ると、とんだ誤算《ごさん》をしなければなりませんね、さっきも佐藤君がいってたように、ここの本間さんは、全く人格者《じんかくしゃ》でしてねえ(技術《ぎじゅつ》の粋)ということを、よく口癖におっしゃっていられる方ですが、あらゆる事実《じじつ》から、学理というものが生れ、出来《でき》た学理を応用《おうよう》して、新しい事実を創造《そうぞう》するのが(技術の粋)なのだそうです。僕は、この言葉を非常に敬服しています‥‥」  無口そうな荒城《あらき》青年《せいねん》が、ぽつりぽつり、山を登りながら話している。  十二番坑の新しい坑道の入口には、トロッコが、鉱石《こうせき》をいっぱい積んで暗い坑内《こうない》まで続いていた。  明るい陽が、山肌《やまはだ》を反射させ春の山々《やまやま》は、七宝のように草木が光っている。十七八の、選鉱婦らしい、美しい娘が、紺飛白にもんぺ姿で、仔犬《こいぬ》とたわむれながら、坑道《こうどう》入口《いりぐち》にある番小舎のような処《ところ》へ上がって来た。  蟇目は、おもいがけない美しい娘の出現に、藹々《あいあい》とした眼を向《む》けている。  佐山達《さやまたち》は、この坑道の入口で日向《ひなた》ぼっこをしながら、持参の握り飯を開いた。佐藤や荒城にも分配して、山肌を眺めながら、愉しい食事《しょくじ》をとった。  妻《つま》をめとらば、才《さい》たけてえ、―みめうるわしく情あるウ‥‥。  蟇目が与謝野鉄幹の歌をうたい出したので、佐山も荒城達《あらきたち》も声をそろえて歌《うた》い出した。 「海の彼方《かなた》で、戦いがあるともおもえないほど、静《しず》かな日ですね‥‥」  蟇目はそう云いながら、リュックから写真機《しゃしんき》を出して、若い選鉱婦《せんこうふ》を写してやっている。 「ねえ、佐藤君《さとうくん》、この釜石は、たしか、津波《つなみ》のあった処でしたねえ?」 「ええ、そうですよ。僕は知りませんけど、何でも、入江《いりえ》の中に、漏斗形の断層《だんそう》があって、その関係で津波《つなみ》があるンだそうですが‥‥この辺《へん》の海の中は凄い段丘をなしているンじゃないかと僕は思っているんです」 「こんなところへ来て、鉱床を発見《はっけん》した人は偉《えら》いものですね‥‥」  佐藤はトロッコから鉱石《こうせき》を一つ選り出して来て、それをみんなにみせた。佐山《さやま》は、この釜石鉱山を開拓《かいたく》した人のことを、しきりに感心《かんしん》している。 「さァ、リュックはこの小舎《こや》へ預けて、坑内へ這入《はい》ってみましょう‥‥」  荒城の案内《あんない》で、佐山と蟇目《ひきめ》は、小舎へリュックを預け、手に手にランプをさげて暗い坑内へ這入って行った。ランプの炎が四ツ、雨のような滴《しずく》のしたたる暗い中を進《すす》んでゆく。レールの敷いてある坑道《こうどう》は、びちゃびちゃの水溜《みずたま》りで、奥へ行くほど、天井から雨のように水滴がしたたっている。  四人の影が小さくなったり大きくなったりして、濡《ぬ》れた坑壁に写《うつ》っている。 「奥《おく》まで四キロ位《ぐらい》あるンですか?」  佐山《さやま》が尋ねた。 「いや、もっとあります、八キロ位《くらい》かな‥‥帰りは、トロッコで出《で》ましょう‥‥」  暗いなかで、四人は、時々|鉱夫《こうふ》に会った。  佐山は鉱夫《こうふ》に出会うたび、ランプを高《たか》くさしあげている。 「中々冷えますね、この水の中で、長時間、仕事《しごと》を続けてゆく鉱夫《こうふ》も偉いもんだなァ‥‥」  蟇目が感心《かんしん》している。 「おーい、おーい、旦那《だんな》じゃァありませんか‥‥」  後から、四人を追っかけて、若い鉱夫《こうふ》の声が走って来《き》た。 [#9字下げ]○  若い鉱夫《こうふ》はなつかしそうに佐山達《さやまたち》のところへ走って来た。 「なにね、さっき、駅のところで、どうもよく似た先生《せんせい》だと思って見《み》ておったンですよ」 「いやァ、そりゃァどうも‥‥元気《げんき》だった?」 「へえ、お蔭様《かげさま》で‥‥」  若い鉱夫は、自分も丁度二時から交代だと云って、暗い坑道《こうどう》のなかを佐山《さやま》達について来た。 「君も、この十二|番坑《ばんこう》なのかい?」 「いいえ、私《わたし》はもっと山の奥ですよ」  カァバイトの裸火が、天井から滴《しずく》を受けるたびに、炎《ほのお》を裂くようにして燃えたっている。 「君は新《あたら》しく来たンだけど、この鉱山《こうざん》の従業員達はどうなの? 輪西と同じようですか?」 「へえ、つきあいは、とても楽でがすよ」 「ここの従業員《じゅうぎょういん》の精神訓練は、何《なん》と云っても、やはり、形から心へ注入する方がよいようですね。よその鉱山は知りませんが、ここは、非常に和気《わき》藹々《あいあい》として、毎朝《まいあさ》入坑前《にゅうこうまえ》に宮城遥拝をやっています。――鉱山《こうざん》へ来てからは、心気《しんき》爽《さわや》かで、つまらん事にこだわる気持が段々なくなって来ました」  荒城が、鉱夫に変って説明《せつめい》をしてくれた。  一時間ばかり、五人は坑内の作業状態を見て、帰りは鉱石《こうせき》を積んだトロッコへ乗って坑内《こうない》を出た。  爽かな山風《やまかぜ》が吹いていた。 「じゃァ、先生、お大事《だいじ》になすって‥‥」 「ああ有難《ありがと》う。君も、町の方へ遊びに来給え」 若い鉱夫は、帽子の上から手拭で頬かぶりをして、乾《かわ》いた山径を登《のぼ》って行った。  小舎《こや》の前には、もう、さっきの選鉱婦《せんこうふ》たちはいなかった。四人は倶楽部へ帰り、渋茶をすすって、呆んやり寝転《ねころ》んでいた。  佐山はリュックを枕に暫く夢現《ゆめうつつ》でいたが、耳のそばで、ヒュッ、ヒュッと小鳥《ことり》の鳴くような弾《たま》の音を聞いた。暫くすると、雪崩《なだれ》のような地響きをたてていんいんと砲声《ほうせい》がとどろいている。兵頭の顔、杉本《すぎもと》の顔、部隊長の顔、支那兵《しなへい》の顔、夜明けの竹林の景色なんかが、フラッシュで明るくなるように鮮《あざや》かに浮んで来る。 「さァ、佐山《さやま》さん、そろそろ帰《かえ》りましょうか‥‥」  蟇目の呼ぶ声で、佐山はふっと飛び起きたが、佐山《さやま》にとって、こんな、真昼《まひる》の夢は初めてである。額に汗《あせ》がにじんでいた。 「さっき、山の方ですごい音《おと》がしていましたが、ハッパでもかける音《おと》ですか?」  蟇目が、荒城《あらき》に尋ねている。  佐山は煙草を出して口に咥えたが、さっきの夢の後味《あとあじ》は、少年のような淋《さび》しいものをさそっていた。 「まァ、鉄鉱《てっこう》の埋蔵量としては、北海道《ほっかいどう》とか、この岩手、それから新潟なんて主なものでしょうが、島根とか九州方面にも相当の砂鉄があるそうです。朝鮮《ちょうせん》、満州方面も非常《ひじょう》に良質なものが沢山ありますし、――現在《げんざい》の日本の製鋼法では、屑鉄《くずてつ》を沢山使っているようですが、政府としては目下のところ、銑鋼一貫作業を奨めて、屑鉄の使用《しよう》を少くする方法《ほうほう》を考えているようですね。ねえ佐山さん、砂鉄《さてつ》の利用は、電気製鉄《でんきせいてつ》の方面のみ使われていますが、砂鉄の研究はその後進歩しているようでしょうか?」  荒城が、熱心《ねっしん》に蟇目に話していたが、佐山が煙草《たばこ》を喫っているのを見て、荒城は佐山にも話しかけて来た。 「そうですね、砂鉄の利用も、この頃は色々考えられておって、ある程度《ていど》まで進歩《しんぽ》しているンじゃないかと思《おも》われますが?――これからの資源利用《しげんりよう》と云うことは、科学研究の問題が、日本将来の資源の根本をなすものだと思いますね。僕も、その砂鉄《さてつ》の問題はおそまきながら研究《けんきゅう》してみましょう」 [#9字下げ]○  佐山と蟇目が、里仁寮《りじんりょう》へ帰って来たのは黄昏頃《たそがれごろ》であった。  佐山の机の上に電報《でんぽう》がのっている。  佐山は親爺でも来ると云う電報かなと、手《て》にとって開いてみると、二三|日《にち》うちにそちらへ行くと云う郷子《くにこ》からの電報であった。おもいがけない郷子《くにこ》からの知らせに、佐山は暫くそこへつっ立っていた。  何度読みかえしてもクニコと云う文字《もじ》が消えない。 (二三日うちに郷子《くにこ》が来る‥‥)  佐山は赧《あか》くなっていた。 「どうしたンです。郷里《くに》からですか?」  蟇目は手拭《てぬぐい》と石鹸箱をとって、 「どうです? 風呂へにでも這入《はい》りませんか」  と、佐山を誘った。 「さきへ這入《はい》っていて下さい‥‥」  蟇目は、では、おさきにと廊下へ出て行った。佐山《さやま》は一人になると、電報《でんぽう》を持ったまま本箱に凭れてみたり、机《つくえ》に腰をかけてみたりして落《お》ちつかなかった。  もう、すべては虚空の彼方に消えてしまっているはずの、郷子《くにこ》の愛情が、この短かい電文《でんぶん》のなかには満ち溢《あふ》れているし、不具者《ふぐしゃ》になってしまっている、この自分に、かくまでも深くつきつめた愛情を持っていてくれるのかとおもうと佐山は、自分《じぶん》も(スグオイデコウ)の電報《でんぽう》を打ちたい思いであった。だけど、やがて、近々にやって来る老父《ろうふ》のことや、遠藤氏の娘の問題なんかを考えると一応は佐山《さやま》も考えざるを得ない。  郷子《くにこ》が二三日うちに来《く》るとしても、一応は手紙をやってみようと佐山は思った。二人とも愛しあっているとは云うものの、犬や猫の結婚のように簡単《かんたん》にはゆかない。――しかも佐山《さやま》は、自分の戦傷《せんしょう》の躯について少しも卑下《ひげ》する思いはさらさらないとは云うものの、一抹の淋しさが、まるで、駄々をこねるような気持になって、そっと頭《あたま》を持ちあげて来《き》ているのだった。  頼信紙《らいしんし》を出して、(テガミダシタ、シユツパツオマチコウ)と何枚も書いてみたけれど、結局郷子の、純一な感情の溢れた電文《でんぶん》のようにはゆかない、或るもどかしさを佐山《さやま》は感じている。  食堂へ出ても、佐山は食慾《しょくよく》もなく、妙《みょう》に落ちつかなかった。 「佐山《さやま》さん」 「何だい」  給仕《きゅうじ》をしている女中《じょちゅう》が笑いながら、さっきの電文はどなたですと冷やかしている。 「誰でもいいさ‥‥」  蟇目は急《きゅう》に眼を輝やかせて、 「そんな電報《でんぽう》なの?」  と給仕の女《おんな》に聞いた。  向うの席では、二三人の女中達《じょちゅうたち》が、卓子で、雑談をしなから縫物《ぬいもの》をしている。 「ねえ、女相撲《おんなずもう》が来てるンですってよ。佐山《さやま》さん、女相撲をごらんになった事ありますか?」  一人の女中が佐山に女相撲《おんなずもう》を見たことがあるかと訊《き》いた。 「へえー、女相撲《おんなずもう》って云うのがあるのかい?」 「ええ、ここはねえ、女相撲と浪花節《なにわぶし》だったら大入満員《おおいりまんいん》なンですよ‥‥蟇目さんもいかが? 今夜、行ってらっしゃいましよ」  蟇目は、それは是非一見しておく必要があると云って、佐山《さやま》や、食堂にいる二三|人《にん》のものに盛んに同行《どうこう》をすすめている。  やがて蟇目は二三の友人と連れ立って、暗い町へ女相撲《おんなずもう》を見に出掛《でか》けて行った。  佐山も食後《しょくご》、製鉄所の横を通って、大渡川《おおわたりがわ》の橋のそばまで、散歩をこころみていたが、急に思い出したように、鈴子公園まで引きかえして、社宅《しゃたく》に尾形氏を訪問してみようと思《おも》った。郷子の問題を、尾形氏《おがたし》に相談してみるつもりであった。 [#9字下げ]○  尾形氏《おがたし》はこんなことを云った。 「――ねえ、佐山君、人間《にんげん》と云うものは、あんまりながく、寂寥《せきりょう》のなかにいるものじゃありませんよ、寂寥のなかにながく歯を喰《く》いしばっていると、狂人になるか、変質者《へんしつしゃ》になって、何等の進歩《しんぽ》も求められなくなってしまう‥‥私は、この鉱山《こうざん》へ来て、淋しくなった時、自然に妻をもらいました。夫婦《ふうふ》だけで淋しがっている時、子供が順々に出来て、また新《あたら》しい希望が湧いてきました。友人も出来たし、この土地《とち》も好きになったし、――ところが、このごろ、また、なかだるみ[#「なかだるみ」に傍点]の年齢《とし》に達した僕に、今度の事変は驚くべき活素《かっそ》を、僕の仕事に与えてくれましたよ‥‥」  尾形氏の奥さんが林檎《りんご》を剥いて持って来た。  縁側にはベビーオルガンが一台|置《お》いてある。オルガンの椅子の背に、女の子の赤い服《ふく》が引っかけてあった。 「その女性が見えたとしても、生活《せいかつ》はまた何とかなるものだし、――君にも似合《にあ》わない、元気を出すさ、元気《げんき》を‥‥」  そう云って尾形氏は、次の部屋《へや》から将棋盤をかかえて持って来た。 「一戦|如何《いかが》ですか?」 「いいですね‥‥」  二人は盤に向《むか》いあった。  紅茶《こうちゃ》を淹れて来た奥さんは、電気のコードを盤面《ばんめん》へさげてくれた。佐山は、何と云うこともなく、尾形氏の日常のこの生活《せいかつ》を羨ましいと考えている。  河原の砂《すな》のなかに咲いている花のような、そんな静かな尾形氏《おがたし》の奥さんは、灰皿を二つ持って来て、一つずつ盤の横《よこ》へ置くと、そのまま静かに次《つぎ》の部屋へ引こんでしまった。 「遠藤氏《えんどうし》の娘さんの方は、いくらでも断われるではありませんか、ええ? 娘《むすめ》が女学校を卒業して、すぐ結婚生活《けっこんせいかつ》に這入ることは、いまの社会《しゃかい》では一寸冒険だし、何も、君が、義理を感じることもないでしょう‥‥もっとも、君《きみ》が、そのお嬢さんを愛しているのならば別問題《べつもんだい》ですがね」 「いやァ、愛《あい》するも愛さないも、――私はまだ、遠藤さんの令嬢《れいじょう》に対しては何の感情もありません、――ただ彼女は、偶然《ぐうぜん》、手近に僕を発見したンで、そんな風な気持になったのだと思《おも》います‥‥」  盤の上を見つめながら、二人《ふたり》はぽつりぽつり語りあっていた。 「植村《うえむら》郷子さんはいくつです?」 「さァ、二十二か三かと思いますが‥‥」 「ふうん、落《お》ちついた人らしいですね。――お故郷《くに》はどちら?」 「滋賀県《しがけん》です」 「滋賀県は何処《どこ》です?」 「大津《おおつ》だそうです‥‥」 「へえー、それはなつかしいなァ、僕は、浜大津《はまおおつ》の駅の近くの、蔵橋町と云う処へ下宿《げしゅく》をしていた事がありますよ。郵便局《ゆうびんきょく》の近くでしたがね」 「ほう、そうですか、私は、学校にいた頃《ころ》、ボートをやっていたものですから、瀬田川《せたがわ》には時々遠征にゆきましたが、琵琶湖《びわこ》のあの辺りは、実にのんびりしていい処《ところ》ですね」 「ええ昔はね、――いまは、湖畔《こはん》も色んな会社が出来て段々変って来《き》ているでしょう‥‥去年家族を連れて石山見物《いしやまけんぶつ》に行って来たンですが、粟津ケ原にレーヨン会社なンか建《た》っていてあの辺も随分変ったものだと吃驚《びっくり》しましたよ」 「そうですかねえ、――ところで神田《かんだ》八段を真似てと、ここは四四角と捌《さば》きますかな‥‥」 「はっははは‥‥神田《かんだ》八段はよかったな、さァてと、‥‥」  尾形氏が煙草《たばこ》をつけた。  佐山も「光」を口に咥えた。縁側《えんがわ》の暗い硝子戸の向うに、日も夜も、かっかっと燃《も》えさかっている熔鉱炉《ようこうろ》の火が、天を焦すように噴きあげている。まるで炬火《たいまつ》のように華々しい炎であった。 [#9字下げ]○ [#ここから3字下げ] さかしい眼《め》をするあおい狐よ 夏葦《なつあし》のしげるなかに おまえの足《あし》をやすめて うららかに光明の心《しん》をきる 草間の風《かぜ》を その豊麗な背《せ》にうけよ 背にうけよ。 [#ここで字下げ終わり]  再び戻って来た故郷の湖《みずうみ》は綺麗な春の景色であった。  障子を開《あ》けると、白い周遊船が湖の上を走っている。郷子は風呂《ふろ》からあがって、足の爪をきっていた。妹の机《つくえ》の上に、「藍色の蟇」と云う、青《あお》い革の詩集が置いてある。妹はもう、こんなものを読んでいたのかと、郷子《くにこ》はぱらぱらとその本をめくりながら、不図《ふと》、こんな詩が眼にとまった。  夏葦のしげるなかに、おまえの足《あし》をやすめて‥‥郷子は、のしあがるような愉《たの》しい思いで、この詩集の大手拓次《おおてたくじ》と云うひとを考えている。 (そうなンですよ、私は夏葦《なつあし》のしげるなかに、素足を楽々と冷《ひや》してやすみたいのです)  りくの遺骨《いこつ》を、郷子ははるばると故郷へ持って帰《かえ》ったのだ。  家のものたちは誰も苦情《くじょう》は云わなかったけれど、りくの遺骨は本当《ほんとう》の家に帰って来ても、何となく淋《さみ》しそうだった。  その夜、郷子は、店の間で父《ちち》とながいあいだ話をした。 「私は、明日、佐山さんの処へ発《た》ってゆこうと思いますけど‥‥」 「お前の勝手《かって》にしたらよかろう、お母さんも、仕方《しかた》がないと云うとる‥‥」 「お母さんは、私は義理《ぎり》の子供ですもん、私に就いては、色々|御心配《ごしんぱい》もあるでしょうけれど、私かて、どうせ、どっか行く躯《からだ》なンですから、それはもう、あきらめて貰《もら》わなければ‥‥啓ちゃんも、一年早う東京《とうきょう》へ出て来ましたけど、いまはもう大丈夫《だいじょうぶ》な処まで行っていますし、マッちゃんも学校《がっこう》は受かったし、お母さんの身にすれば、ほんとに幸福《しあわせ》や思うンですけどねえ‥‥」  平造《へいぞう》は黙っていた。 「お父さん、おかあさんはねえ、うちの名前《なまえ》で貯金してくれはったのよ、――何だか、貯金帳みた時、とても哀《かな》しかって、おかあさん云うひとは、ほんまに気《き》の毒《どく》や思いました‥‥」 「なんぼうしとったンかい?」 「二百円と一寸、――それでなァ、お葬式《そうしき》も済ませましたンよ、――まァ、済《す》んだことは仕方がないけど、おかあさんも苦労《くろう》して死んで、ほんまにつまらんわねえ‥‥」 「瀬田のが、大阪《おおさか》のと行っとったそうじゃ云うてたが‥‥」 「ええ、雨宮《あめみや》さんでしょう、家へ来てくれはって、二十円|香奠《こうでん》を貰いました。でも、うち、あんなひと好かんわ、――何で、お父さんは、あんなひとがいいのかしらん‥‥」 「うん、瀬田のが、えらい惚《ほ》れこんでしもうとるよってなァ‥‥」  病後のせいか、平造《へいぞう》は、郷子に前ほどとげとげしくなかった。これも、みんな、りくの遺骨が守ってくれているのかも知れないと、郷子《くにこ》は亡くなった生母《はは》に感謝している。 「明日、お寺へお骨を納《おさ》めて、うち夜行で発《た》ちますよ」 「まァ、ええようにしなさい。後悔《こうかい》のないように‥‥ところで、戸田の娘は、今度《こんど》、看護婦で支那へ行くのやそうなが、段々、この頃の女子《おなご》もきつうなったもンやなァ‥‥」 「まァ、安子《やすこ》さんが支那へ行くンですか? あっちから云って来《き》たのかしら?」 「いや、一|週間位《しゅうかんぐらい》前かいな、そんなたよりが来た云うて、戸田《とだ》で話をしとった‥‥」  うららかに光明の心《しん》をきる草間《くさま》の風よ! 郷子は明日の出発が、湧《わ》くように愉しかった。 [#9字下げ]○  郷子は朝の食事《しょくじ》が済むとすぐ、駅へ釜石までの切符《きっぷ》を買いに行った。  釜石へ行くには、仙人峠《せんにんとうげ》までしか、切符がないのだそうで、如何にも、講談本《こうだんぼん》に出て来るような古《ふる》めかしい土地の名に、郷子は佐山のいる処《ところ》までを、はるばると遠いものに感じている。  人の想いつめる気持《きもち》は、こんなにも激しい力や、心を、神様《かみさま》が与えてくれるものなのかと、郷子《くにこ》は仙人峠までの切符を、汚れないように塵紙につつンで小さい財布《さいふ》へしまった。  駅のかえり、義仲寺へまわって、郷子は今西油店の空地《あきち》の横を通って湖畔の方へ降りて行った。  空地の横には、遅れ咲きの菜種《なたね》の花が咲いている。  白い蝶々《ちょうちょう》が五六匹もひらひら飛んでいた。  琵琶湖の水は、どうしてこんなに綺麗《きれい》なんだろう、郷子はひたひたと小波《さざなみ》をよせている水を手ですくいながら、遠く比良《ひら》の山を眺めていた。  何年《なんねん》さきに、この景色のなかへ戻って来られるかはわからないけれど、郷子《くにこ》は湖上を吹く柔い風に、じっと眼を細《ほそ》めて長い間じっとしていた。  貧しくって、何一つ持《も》ってゆけるのではないけれど、こんなに考《かんが》えている女の思いを、あのひとは素直《すなお》に受けてくれない筈はない‥‥郷子は、四囲に誰もいなかったので口笛《くちぶえ》を吹いてみた。  口笛は男の子のように上手《じょうず》に鳴らなかったけれど、ひゅう、ひゅう、と吹《ふ》いていると、たどたどしい音色が、比良の山に木霊しているようにも思《おも》える。  やがて、家へ戻《もど》ってくると、家の前に自動車がとまっていた。  雨宮《あめみや》が一人で訪ねてきていた。  郷子が二階へ上がって行くと、階下《かいか》から父の声がして、郷子を呼《よ》んでいる。  郷子は夕方までに、りくの遺骨を寺へ持って行《ゆ》かなければならなかったので、寺の帰《かえ》りを、そのまま駅《えき》へ行くつもりで、妹の鏡の前に立って着物を着替《きが》えていた。  母は用事に出かけて留守《るす》――支度をして階下へ降りて行くと、父は母を呼《よ》びに行ったのか、雨宮が洋服姿《ようふくすがた》で立っていた。 「いらっしゃい‥‥」 「今日、あンた、東京《とうきょう》へ行くンだって、いまお父さんにききましたが、本当《ほんとう》?」 「ええ、今夜《こんや》、夜行で発ちます‥‥」 「そんな、そんな莫迦《ばか》な話があるもンですか! 東京へは、何時《いつ》でも行けます――瀬田の叔母さんを頼《たよ》っていたンでは埒があかんので、今日、僕、自動車《くるま》で京都から来《き》たンでっせ‥‥」 「叔母さんが、何か勝手《かって》に、私のことを、あれこれしてはっても、私《わたし》の知ったことじゃないじゃァありませんか‥‥」 「そら、知ったことじゃないでしょうけど、ここの植村《うえむら》さんの家の問題に就いては、もうせんから、僕が相談《そうだん》を受けているンですよ、今度の妹のマツエさんの上京に就《つ》いても‥‥」  郷子は眼《め》を瞠っていた。  雨宮《あめみや》はじっと郷子の顔を見おろしていたが、不意《ふい》と郷子の手をとった。  郷子は激しい力で、雨宮の手《て》をはらいのけると、台所の柱《はしら》の後へ行った。 「いくら逃《に》げたって、僕は郷子さんをあきらめること出来ん‥‥」  そう云って、雨宮《あめみや》は、郷子のそばへ近よって来た。雨宮は大きい耳《みみ》をしていた。郷子は近寄って来る雨宮の顔に、気味が悪《わる》くなって、いっとき柱につかまっていたが、 「雨宮さんって、大嫌《だいきら》いだわ」  と、一|生懸命《しょうけんめい》で云った。 [#9字下げ]○  こんな気持《きもち》になったことに、むつかしい説明《せつめい》はつけられないけれど、郷子は、もしも、佐山が帰ってくれと云っても、どうしても動《うご》かないつもりで、ふところに、しっかりと仙人峠《せんにんとうげ》行の切符《きっぷ》をしまっている。  上野の、西郷さんの銅像《どうぞう》を後にして、郷子は一枝と二人で、賑《にぎ》やかな街の灯を見ていた。 「丁度、一|年《ねん》と一寸ね‥‥」 「何《なに》が?」 「ううん、私が東京《とうきょう》にいたのよ、――色んなことがあったけど、もう、釜石《かまいし》へ行ったら、当分、東京へも戻《もど》って来られないわね」 「とうとう、あの雨宮さんて方、郷子《くにこ》さんとは駄目だったのね‥‥」 「あら、考《かんが》えただけでも厭だわ、とても、耳の大きいひとよ、気持《きもち》が悪いわ‥‥」 「耳の動《うご》くひとがあるンですってね‥‥」 「おお気持が悪《わる》い‥‥」 「佐山さんて方の耳《みみ》はどうなの?」 「まァ! そんなの知らないわよ、――明日《あす》、行ったらよく見てみるわ」 「報告《ほうこく》して頂戴ね」  二人は女学生《じょがくせい》にかえって、耳の話でくつくつと笑《わら》いこけた。 「嘉兵衛《かへえ》さんはまだ、おたよりない?」 「ええ梨のつぶてなの、――アメリカへ帰ったのかも知れないわ、私《わたし》は、もういいのよ、若《わか》いンだから、そのうち恋人《こいびと》をみつけるの‥‥」  職工らしい若い男が、ハモニカを吹いて公園《こうえん》の方へ行った。 「一寸、郷子《くにこ》さん手を出してごらンなさい」 「何かくれるの?」 「うん、いいものあげるわ‥‥」  郷子が手を出すと、一枝は郷子の手を強く握って、郷子《くにこ》の手の甲に接吻《せっぷん》をした。 「何も上げるものがないから、友情《ゆうじょう》のキッス、――さて、時間《じかん》は大丈夫?」  郷子は、何かにつまずいたように胸が熱くなり、一枝《かずえ》の優しさを嬉しいものに思《おも》った。柔い一枝の唇《くちびる》が手の甲にふれた時、郷子は、こみあげて来る哀しさが瞼に沁みた。 「今夜このまま別れるの、つまらないわねえ‥‥」 「あんな口のうまいこと云ってるわ、心のうちでは、一|足飛《そくと》びに佐山さんに逢《あ》いたいくせに、――逢ったら、郷子《くにこ》さんは、何て云うの?」 「来ましたって云うわ‥‥」 「ぷッ、来ましたなンての変《へん》よ、そんなのおかしいわ‥‥」 「お帰ンなさいなンて云われたら、私《わたし》、どうしようかと心配《しんぱい》してるのよ‥‥」 「お帰ンなさいなンて云うもンですか、郷子《くにこ》さんのようなひとが追《お》いかけて行って、帰れなンて云う男《おとこ》のひとだったら、一寸《ちょっと》気《き》が変なのよ、――よく勉強しすぎた人で、そんなのいるじゃない?」 「まァ、厭な一枝さんねえ、さァ、もう、駅《えき》へぼつぼつ行《い》かなくちゃァ‥‥」  郷子はお嫁入《よめい》りだと云うので、白い、小さい薔薇《ばら》の造花を髪にさしていた。髪を額の真中から分けて、ゆるくふくらました束髪《そくはつ》が、横顔を中高にみせて清楚《せいそ》な感じである。 「ああ、もう十五分しかないわ、郷子《くにこ》さん走らなくちゃァ‥‥」  石の段々《だんだん》を、二人は走って降りていたが、最後《さいご》の段々のところで郷子は何かにつまずいて石道に膝をついた。 「いやーね、転《ころ》んだりして‥‥」 「だって、十五|分《ふん》だなンて云《い》うンだもの‥‥」 「痛《いた》かった?」 「痛《いた》かったわ」 「今夜、汽車《きしゃ》の中で、その痛いのを味《あじわ》って、さすっていらっしゃい‥‥」 [#9字下げ]○  車窓《しゃそう》からのぞいていると、白い雲《くも》が風に吹かれて、遠い山の向うや、畑地の上に様々な姿で流れている。  郷子は花巻で、仙人峠行の小さい軽便鉄道《けいべんてつどう》に乗りかえたが、行《ゆ》けども行けども、野や畑ばかりの窓外《そうがい》の景色に、段々心細さを感《かん》じはじめてきた。  隣席の農婦《のうふ》のようなおばあさんに、 「仙人峠まで、まだ、どの位《くらい》ありますのでしょうか?」  と、訊いてみた。 「はァ、まだ、三|時間《じかん》か四時間はあるのでねえかね‥‥」 「まァ、そんなにあるンでしょうか?」  小さい汽車に、四時間もゆすぶられて、新一が、この線《せん》を通って釜石《かまいし》へ行ったのかと考えると、郷子は、激しい熱情《ねつじょう》を持って、仕事《しごと》へ突き進んで行った佐山に、子供のような妬み心を感じている。 「釜石へ行くのですが、仙人峠《せんにんとうげ》から、まだよほどあるでしょうか?」  車掌《しゃしょう》が通りかかったので、郷子《くにこ》は聞いてみた。 「釜石に行かれるのでしたら、仙人峠よりも、遠野《とおの》と云う処で降《お》りられて、それからバスに乗られた方《ほう》がよろしいとおもいます。――仙人峠《せんにんとうげ》も、まだ頂上には雪がありますから、駕籠屋でも頼んでおられればいいですが、そうでないと大橋の鉱山《こうざん》まで行くのに夜《よる》になってしまいますよ」 「まァ‥‥その、遠野《とおの》と云う処から、釜石行《かまいしゆき》のバスがすぐ出ているでしょうか?」 「はあ、それは、もう、この汽車《きしゃ》と連絡しておりますから‥‥」  郷子は、こんなことなら、いっそ、仙人峠へ着く時間《じかん》を佐山に知《し》らせておけばよかったと思った。  やがて、汽車は遠野《とおの》と云う駅で停った。  風《かぜ》が吹《ふ》いていた。  如何にも、古い宿場《しゅくば》のような町である。  駅員に尋ねたとおり、駅の前の自動車の車庫《しゃこ》に行き、郷子は釜石《かまいし》行のバスの切符を買った。――緑《みどり》に塗った、大きい乗合バスを空想《くうそう》していた郷子には、普通の自動車に、五六人も寿司詰めに乗るのを見て、釜石《かまいし》までの遠さを考《かんが》えている。  郷子は助手台《じょしゅだい》へ乗った。  自動車の窓はこわれていて、硝子戸が開けっぱなしだった。自動車《じどうしゃ》にスピードがついて来《く》ると、砂風《すなかぜ》が吹きこんで来たが、その風《かぜ》は田舎《いなか》の匂いがしていて郷子にはなつかしかった。  笛吹峠の九十九折のような山坂を、自動車《じどうしゃ》はぐうんぐうんと唸《うな》りをたてて登って行く。  芽をふく前の、雑木の山蔭《やまかげ》は、薄紅い色をしていた。  こんな淋しい山の向うに、鉄をつくっている賑《にぎ》やかな町があるとは、郷子《くにこ》にはどうしても考えられない。  笛吹峠《ふえふきとうげ》を越えて、溪流《けいりゅう》の音のきこえる岩山を降りると、炭焼小屋のような小さい小学校があった。この辺の部落を青木村と云うのだと運転手《うんてんしゅ》が云っていた。 「炭焼きの子供達が、おもに、この学校へ行くのですがね、――先生《せんせい》が一人、生徒《せいと》が二十人位のものでしょう‥‥」 「釜石《かまいし》までは、まだ遠《とお》いンでしょうか?」 「ええ、まだかなりあります。夜になりましょうな」  後では、釜石《かまいし》行《ゆ》きの乗客達は居眠《いねむ》りをしていた。  やがて、七時近くになって、自動車《じどうしゃ》は山蔭の小さいトンネルを過《す》ぎた。 「お客《きゃく》さん、ほら! あれが釜石です」  トンネルを出ると、火の海のような釜石《かまいし》の町が、郷子の顔をぱっと赤《あか》く照した。 [#9字下げ]○ 「釜石《かまいし》を、こんな処だとは思《おも》わなかったでしょう?」 「ええ、賑やかな町で、吃驚《びっくり》しましたわ」 「夜はとても綺麗《きれい》ですからねえ‥‥熔鉱炉《ようこうろ》の炎が凄かったでしょう?」 「ええ‥‥山の上から見た町の灯は、まるで龍宮《りゅうぐう》へ来たみたいでしたわ‥‥」  郷子は昨夜《さくや》、里仁寮へ佐山を尋ねて、鈴子旅館《すずこりょかん》で食事を済ませると、佐山の案内で尾形氏の家へ泊めて貰《もら》ったのである。  佐山は、今日は昼まで製鉄場で働き、昼すぎ、仕事服《しごとふく》のままで郷子を尾形氏《おがたし》の家へ迎いに来て、昨夜《さくや》郷子《くにこ》の来た山の上の方へ二人《ふたり》でぶらぶらと歩いて行った。  太平洋の、沁みるばかりの色《いろ》が、ぎらぎら春の日に光《ひか》っている。  何処からか琴《こと》の音が流れてきた。  暫く二人《ふたり》は黙って歩いていた。  郷子はつまずきそうな山径《やまみち》を、佐山に遅れないように後《うしろ》から登って行く。 「ねえ、一週間ほど、あの、尾形《おがた》さんの家に厄介《やっかい》になっていられる?――そのうち、小さい家を何とかみつけようと思《おも》っているンだけど‥‥」  東京へ帰れ、と云われはしないかとびくびくしていた郷子《くにこ》は、愛情の溢《あふ》れた佐山の言葉《ことば》に、吃驚《びっくり》したようにそこへ立ちどまった。  そこへ蹲踞《しゃが》んでしまいたいような嬉《うれ》しさだった。 「岡部は飛行機で新婚旅行をしたンだってね、生意気《なまいき》な奴だなァ‥‥郷子さんが、飛行場《ひこうじょう》へ来てくれてうれしかったと云って来てましたよ‥‥」 「岡部さんも御出征《ごしゅっせい》なンですって‥‥」 「昨日《きのう》あたり行ってるはずだな‥‥」  今日も昨日と同じように、激しい風の日だ。白い雲が、海の彼方《かなた》へ流れている。佐山《さやま》は海の見える、松の根方《ねかた》へ腰をかけた。  郷子も、佐山から少し離れた草原《くさはら》へ坐った。  茫漠《ぼうばく》とした遠い水平線《すいへいせん》が、青い一色の虹の輪のように光っている。 「だけど、二人《ふたり》は、よく生きていたものだ‥‥」  ふと、佐山は何気《なにげ》なくそんなことを云《い》った。  眉の太い、眼の光った佐山の横顔を眺めて、郷子は幸福《こうふく》なおもいだった。いまはふさふさと髪を生やしている佐山《さやま》に、何だか違った人のような恥《はじ》らいも感じている。  自動車が一台、眼の下の山路《やまみち》を下って行った。――これからの、生活《せいかつ》の設計に就いて、二人は何一つ話しあうではなかったけれど、郷子も佐山も、やがて来る二人だけの日を、お互《たが》いの胸の中では、あれこれと考えあっていた。 「どうして、そんな、遠《とお》くへ居るの?」 「ええ、だって‥‥」 「もっと、こっちへいらっしゃい‥‥」  郷子の額《ひたい》が汗ばみ、赧くなっている。  佐山は帽子をぬいで、その帽子の中で煙草《たばこ》に火をつけようとしていたが、左手《ひだりて》が不自由なので、マッチの火は度々《たびたび》風《かぜ》に吹き消されていた。  郷子は、見兼ねて、ふっと佐山のそばへ行き、帽子を両手《りょうて》で支えてやった。帽子《ぼうし》は汗ばんで革臭い匂《にお》いがしている。 「アァ、煙草《たばこ》なンか、もうどうでもいい!」  佐山は、帽子を支えている郷子の柔い指を、右手《みぎて》で、自分の膝へ強《つよ》く押した。  烏《からす》がよく鳴きたてている。  製鉄所の鉄を打つ音が、があんがあんと山へ響《ひび》いていたし、熔鉱炉《ようこうろ》の紫色の煙が、東へもくもくと流れている。  短い接吻《せっぷん》のあと、郷子は、佐山の帽子《ぼうし》をひろい、砂をはらいながら、 「太平洋《たいへいよう》って、私、初めて見るンですけど、広い海《うみ》ですのねえ」  まぶしそうに白い手を額《ひたい》にかざして、郷子《くにこ》は、海をじっと見ていた。 [#地から4字上げ](終) 底本:〈戦時下〉の女性文学 第2巻 波濤、ゆまに書房    2002(平成14)年5月23日発行