それでね、地球の友達みんなに言うんだ
月のバップを演ってきたんだよ、って
冬の海辺に近い生垣で風に揺れる紫の薔薇。
アスカはさめざめと泣いていたが、あることに気付いた。
そう、これはシンジの魂。シンジはどこかで生きている。シンジはそれを伝えに来たのではないのか。
シンジはいつぞや、エヴァに取り込まれてしまったことがあった。
あの時も、肉体はLCLの海に同化してしまっていたが、確かにシンジは存在していたのだ。
ならば。
今回だって同じことが起こらないとは限らない。
アスカは涙をぬぐった。
「待ってなさいよ」
その花に恐る恐る、口付けをする。花弁を散らさないように、優しく。
「絶対にあんたを取り戻して見せるから」
まだ赤い目で呟くと、アスカは一目散に車に向かって走った。
一度決断すると、アスカの行動は早かった。日本におけるシンジの実験計画の中枢に近い、赤木リツコ博士に連絡を取り、強引に面会の約束を取り付けたのだった。
「シンジが帰ってきたの!」
何から説明しようか、車の運転中、ずっと考えていたアスカだったが、懐かしい顔に出合ったアスカの口から出たのは、最も避けなければならないと考えていたセリフだった。これではおかしくなったと思われても仕方が無い。ああ、私はどうなってしまったんだろう。これではまるで中学生だ。
「?」
それでも、リツコは、柔らかく微笑んだ。年相応に老けてはいたが、昔の、とげとげしささえ感じさせる鋭さが適度に丸まって、生来の魅力はむしろ今の彼女の上に花開いた観があった。
「久しぶりね、去年、ドイツで会って以来かしら」
リツコはあえてアスカの言葉を無視して、応接セットのソファを示した。アスカは、辛うじて冷静さを取り戻す。
「まあ、落ち着いて、何があったのか、話してごらんなさい」
リツコはまるで、子供を諭すような調子でアスカに話し掛けた。
アスカは、ソファに腰掛けた。正面に、リツコの微笑み。
いつものアスカなら、馬鹿にされた、と怒るべきところなのに、不思議と怒りは湧いてこない。ソファの柔らかさも手伝って、心の底から安心してしまいそうになる。全てが優しいのだ。そして、それがアスカがドイツに居る理由でもある。
日本に居るアスカの知人は、皆一様に優しい。アスカの過去を考えれば、それは当然のことだったし、アスカにしても、それは居心地の良い空間ではあったけれど、それに縋っていると自分が駄目になりそうな気がする。
だからアスカは、シンジのことは別として、いつか、自分が、胸を張って自分自身で良かったと思えるようになるまで、ドイツで一人で生きていくつもりだった。それは辛い決断ではあったけれど、必要な決断だったとアスカは信じている。
アスカはドイツで、次世代型コンピュータの研究に従事していた。あえて、エヴァの秘密や、使徒戦争に関わる研究を選ぼうとはしなかった。アスカは、自分自身のトラウマと向き合うことがまだ怖かった。シンジの居ないドイツで、何がきっかけでまたそれが噴出してこないとも限らない。皮肉なことに、その選択はアスカの適性とぴったりマッチしていて、大きな成果を挙げていた。そのため、アスカは研究所になくてはならない人材となってしまい、それがますますアスカとシンジを遠ざける結果になっていた。
「ふうん、花が、ね」
一通り説明を終えて、アスカは自分自身、とんでもない妄想に囚われているのではないかという気がしてきた。話をしているうちに否応なく気付かされる。客観的事実としては、冬に花が咲いていた、というだけの話なのだ。
「まるで漱石の夢十夜ね」
アスカは心細い。しかし、この細い糸しか、シンジに至る手がかりはない。この糸を離してはならない。直感が、そう告げている。
「ファンタジーだと言いたいの?」
思いが伝わらない歯がゆさから、アスカの言葉は噛み付くようだった。八つ当たりだとは判っている。何もかも、子供っぽい、直截な反応。
だが、それでもリツコの表情は変わらない。呆れられても仕方が無いのに、リツコは飽くまで真面目に話を聞いてくれている。
「いいえ、そんなことはないわ」
リツコはわずかに首を傾げて、アスカを見詰めている。リツコのこの態度は、アスカに対するいたわりというだけではない。リツコは何か知っている。アスカは直感した。
「リツコ!お願い!教えて!」
「まだ私の仮説も含まれているし・・・どこから話していいのか」
リツコは立ち上がった。本当に困惑しているのだろう。何かを考えている。
傍らのコーヒーメーカーから、コーヒーをカップに注いでアスカの目の前のテーブルに置いて勧めた。
「この豆は、チリ産なんですって。ちょっと酸味が強くて、飲みやすいの。最近のお勧めよ」
それでもアスカは、コーヒーには目もくれず、ずっとリツコに視線を貼り付けたままだった。
リツコは諦めたようだった。ソファに座り直して、まっすぐアスカを見詰めた。
「・・・そうね、ちょっと長くなるけど、あなたには聞く権利があるわね」
「私の専門とはちょっと違うから、あんまり正確な言い方はできないんだけれど。もし正確なところが聴きたいんであれば、冬月副司令の方がいいわ」
前置きの後、リツコは、まるで学生に講義するように話し始めた。
「進化って、何なんでしょうね。進化というか、生命活動はすべからくエントロピーの減少そのものよね。熱力学第二法則。エントロピーは増大する。それからすると、随分理不尽な話なわけ。そこを考える学問が形而上生物学だったってことね」
「冬月副司令やシンジのお母さんの研究のこと?」
リツコは肯いて先を続ける。
「進化にはいくつかの側面があるわ。一つは適応ってこと。外的環境に如何に適応していくか。より環境に適応したものが生き残る、というイメージね。ところが、特定の外的環境に適応しすぎた生命は、環境の変化には脆いものなの。実際に、絶滅した動植物には実例がたくさんあるわね」
アスカには、リツコがなぜこんな話を始めたのか、さっぱり理解できないが、リツコが意味の無い話をするとは思えない。シンジに繋がる何か、なのだ。身を乗り出して、置いていかれないように神経を集中した。
「外的環境の変化。これに対応するための戦略は、いくつか考えられるでしょう。一つ目は、大雑把に言って、まず、個体としてタフになることよね。どんな餌でも摂取できて、幅広い温度環境で活動が可能で・・・ゴキブリなんかのイメージかしら。また、爬虫類に対する哺乳類のアドバンテージもそうね」
「二つ目は、ひたすら数を増やすこと。数を増やすことで生き残る絶対数を稼ぐ。結果として突然変異の絶対数も上がるから、状況に応じて種自身を変化させてしまうことにも繋がっていくわね。基本的に生命は、このどちらか、あるいは両方の戦略をミックスさせて進化してきているわ」
「ところが、ヒトはちょっと違う。個体としてのタフさに目をつぶって、成体になるまでの期間をむしろ遅らせて、ネオテニー、つまり幼児成熟の道を選んだ。親に蓄積された情報を子に伝達することで、よりフレキシビリティを持った適応を可能にする、という戦略ね」
「ヒト以外でも、高等生物になればなるほど、生まれてから個体としての完成までに時間がかかるようになるのだけれど、親の情報を自分に取り込む、学習行動そのものは、発現のトリガーが遺伝的に決定されているから、ヒト以外の動物の場合、実際にはそれほどフレキシブルなものではないの」
「インプリンティングなんかのこと?」
アスカは大学の講義を思い出す。
「そう。ドイツが本場だったわよね、動物行動学は」
「ヒトというのはかなり特殊な進化を遂げた種なのよ。ヒトの採った戦略は、今や外的環境そのものを変えてしまうという戦略にまで選択肢を広げた。これは、環境の変化に耐えて適応する、というレベルを超えた進化だと思わない?」
「ヒトとその他の動物の決定的な違いは、外部情報の蓄積が利く、っていうところにあるんじゃないかしら。さっきも説明したけれど、動物における学習行動は多分に遺伝的に決定されているから、実際には外部情報が個体に与える影響はさほど大きくない。ところが、学習行動そのものを外部に依存する人間の場合、外部情報が個体の成育に決定的な影響を与え得るわ。
つまり、ヒトには、内部と外部を分けて考える必要があったし、それこそがヒトに特異なものなわけ。それがATフィールドであり、心とか、魂と呼ばれるものなの」
「本来、生物の進化っていうのは、相互に補完というか、依存しあって成立しているところがあるわ。環境そのもの、っていうのは言いすぎだけど、相互に生存環境を作り上げているの。例えば、生物進化で問題になるのは、個体数の減少ではなくて、むしろ増えすぎることなんだけど、相対的に弱い動物の場合、生殖能力が強力でも構わない。数が増えれば、それを捕食する肉食動物が増えて、結果として爆発的な個体数の増大は起こらない。生殖を抑制する因子はなくてもかまわないのね。それに対して、肉食動物の側には、自分自身の個体数をコントロールする必要があるから、強い動物ほど少ししか子を生まない傾向が出てきて、やはり爆発的増加は起こりにくくなっている、とかね。この場合、弱い動物が生き残るための、子孫の数の調整は、別の動物が担当しているわけよ」
「結局、ヒト以外の生命の進化の目的って、結果として、ある種がチャンピオンになるとかいう勝ち抜き戦じゃなくて、お互いが協力しあって、ある安定した環境というか・・・状況を作り出そうとしているように見える。デイジーワールド、だったかしら。生物という『相』全体における恒常性を作り出そうとしているのね」
「ガイア理論、って奴ね」
アスカが相槌を打つ。
「ところがヒトの進化っていうのは、そういう環境の相互関係を無視して成り立っている。そして、あえて言うけれど、使徒もまた、そうだった」
「話は変わるけれど、外的環境に対する適応ということで、個体としてのタフさを極めれば、もう増殖、生殖の必要さえないわ。単体で完成してしまうのね。そして、それは、生命としてのエントロピーの極大状態なわけ。熱的な死」
「?」
「考えてごらんなさい。何故『死』というものが用意されているのか。そのつもりになれば、永遠に新陳代謝を行って生き続けることは、理論的には可能な筈だわ。老化だって、わざわざそれを司る遺伝子が用意されているのよ」
「あえて死というものを用意したのはなぜか。進化というのは変化ということ。大抵の生命は、次世代に変化を託すことで進化していくわ。個体の死も種全体の進化のために必要ってことなのね。ところが進化の究極に至って、進化を行う必要がなくなれば、死ぬ必要がなくなってしまうわけ」
「だって、さっき、進化の究極は死だって言ったじゃない」
アスカの専門から離れていることもあるが、だんだん内容を理解するのに苦労するようになってきた。
「そう。環境に依存する必要がないということは、例えば摂食行動だって必要がない。摂食が必要であれば、餌となるモノがなくなったときに滅びてしまうのだから、究極とは言えないわよね」
「S2機関・・・」
「そうね。一番判りやすいのはそれね。餌もエネルギーも要らない。そして、敵対するものはない。死にもしないから生殖の必要もない。何もする必要はないのよ。動くことも。考えることも。だから、環境に、外部に干渉することも無い。でも、その状態って、生きているの?死んでいるの?」
「さっき、使徒も同じと言ったけれど、使徒はその進化の究極に近いところに居るらしいのは間違いない。ただ、究極ではなかった。なぜなら、あなたたちに滅ぼされた。より強い外敵が居たのね」
「彼らが究極となるには、残る問題はただ一つ。自身の存在を脅かす、より強い存在を打ち滅ぼすことだった」
「そしてヒトもまた、使徒だった。そしてエヴァを生み出した」
「使徒やヒトが、進化というものを極めてしまったら、それは死を意味する。けれど、それでは更にレベルの高い、例えば虚数空間だとか・・・外的環境の変化に耐えられなくなってしまうかもしれない。だから、進化の究極の高みに立ちつづけるためには、どこかに不完全さを残しておかなければならない」
「それで・・・」
「そう、エヴァに魂を込めるというのはそういう意味なの。不完全なるヒトの魂が宿って、初めてエヴァは生命となるの」
リツコは自分のカップを取り、コーヒーを一口すすった。それにつられてアスカもやっとコーヒーカップを手に取った。柔らかいコーヒーの香り。
「随分回りくどい説明をしたけれど、そもそもE計画というのは、進化そのものを取り扱う計画だったの。
SEELEは、魂の存在そのものを『原罪』と捉えていた節があって、ヒトのとった進化の道筋そのものをリセットするという趣旨だった。しかし、碇ユイ博士は、ヒトの進化の更なる高みにエヴァを見ていた。
両者は全く違うストーリーを意識していたけれど、SEELEから見れば、使徒もまた、ヒトと同様、あるべき進化の道から外れた忌むべき存在であったし、それを滅ぼすにはエヴァの力が必要だという点では一致していたわ」
「そう、ヒトも使徒も、かなり特異な生命なの。それは、アダムやリリスから生まれた、全く特殊な種。アダム、リリス・・・ヒトや使徒が特異な生命である理由がそれだと、想像はついていたけれど、今となってもそれがなぜ、という説明はないわ。それが『何』か、ということについては、かなり知見が集約されてきているのだけれど、『何故』には誰も答えてくれない」
「それで、初号機なんだけど、使徒を滅ぼして、一時的に進化のチャンピオンとして、神に等しい存在になったわ。本当ならば、リリスに祝福され、全てのヒトの魂をその内に納めた永遠の存在となるはずだったのだけれど、シンジ君はそれを拒否したわ。そして、ヒトは群体に戻ってきた。内に込められるべき不完全な魂のない初号機は、未完成のまま宇宙を漂うことになった」
「でも、問題は残っていた。初号機には、碇ユイの魂が、封じ込められたままになっていたの。あなたも気付いていたかもしれないけれど、エヴァを思い通りに動かすためには、エヴァそのものに、操縦者とは別に、もっとエヴァに同化した魂が必要なの。ただし、魂そのものが必要というわけじゃなくて、パイロットがシンクロして動かそうとする分には、魂の機能の一部があれば構わない。実際にSEELEの四号機以降は、ダミープラグでコントロールされていたしね。けれど、初号機には、碇ユイの魂がそのまま取り込まれてしまっていた」
アスカの顔色が変わった。
初号機だけではない。アスカの弐号機にも、母の魂の一部が込められていたはずだ。ずっと以前から判っていたことではあったけれど、そして、どうやら母がそれを望んでいたことも判っていたけれど、それでもそれを目の前に突きつけられて平静で居られるほど生易しい事実でもなかった。
あの時、私は確かに、弐号機に母親を感じて、狂喜したのではなかったか。母親がアスカのイメージする母性そのままにエヴァの中で生き続けていたことに。
そして、それを、再び、今度は永遠に、喪ってしまった。
・・・私は強くならなければならない。私は、私を取り戻さなければならない。そうでなければ、シンジと一緒に居られない。
アスカは弐号機のことを無理やり意識の外に押し出した。
リツコは、アスカの表情の変化を、痛々しいものを見るように眺めていたが、アスカの目に促されて話を続けた。
「碇ユイの魂は封印されていたから、それ自体ではエヴァそのものの魂たり得ない筈なのだけれど・・・あなたも見たでしょう、パイロットなしで暴走するエヴァを」
アスカは血の気が引くのを感じる。ディラックの海から帰還してきた初号機の、あの禍々しい姿を思い出す。紫の機体を覆った赤い液体が、滴り落ちてゆく、あのイメージ。
「そういう意味で、エヴァ初号機は、非常に、中途半端で危険な存在になっていたわけ。SEELEが狙っていた補完計画・・・人類を、ヒトを初源の海に戻すという計画のキーを握るのがアダムでありリリスであり・・・エヴァであり。もっと言えばロンギヌスの槍であったから、槍と共にある初号機には、人類をLCLの海に戻してしまう力が備わってしまっていると考えてもよかった」
「あなたも知ってる通り、永遠に失われたと思われていた初号機が火星の近傍で楕円軌道に乗っているのが発見されたとき、それをどう扱って良いか、私たちには判らなかった。それが『何』であるかは知っていたけれど、『何故』については答えを持ち合わせていなかった。シンジ君は、その『何故』に立ち向かうために、初号機と、再びシンクロすることを提案したわ」
「シンジ君は、あのサードインパクトの時の、自分自身の選択が正しかったかどうか、ずっと悩んでいた。だけど、アスカ、あなたなのよ。シンジ君を変えたのは」
アスカは、はっとしてリツコを見た。
「シンジ君にとって、アスカ、あなたはかけがえのない存在だった。シンジ君は、あなたのために・・・そう、あなたのためだけに、強くありたいと願った」
「サードインパクトの決断の時、彼の背中を押したのは、あなたの存在だった。その選択が間違っていなかったことを、彼は自分自身で証明しなければならなかった。あなたを・・・大切に思うが故に」
「だから、シンジ君は自分の過去と決別するために、この危険な実験に志願した。それをうやむやにしたまま、アスカ、あなたを迎えにいけない、と彼は言っていたわ」
アスカは俯いた。涙が頬を一筋伝って、顎の線から膝に落ちた。
「馬鹿ね・・・本当に・・・」
「初号機とのシンクロの実験の経過は聞いたわね。そう。初号機とシンジ君のシンクロが開始されたとたん、空間が反転して、虚数空間が現れ、あっという間に全てを飲み込んでしまった。あの使徒との戦いの時のように。そして、その虚数空間はそのまま閉じてしまった。宇宙空間で閉じてしまった虚数空間は、もう発見そのものが不可能になって。MAGIを5台並列に並べて演算した結果、辛うじて、このあたりらしいという計算は出来たけれど、虚数空間そのものを補足することは不可能になってしまった・・・」
リツコは俯いたままのアスカを見やって、一度、言葉を切った。
「ねえ、アスカ。さっきの話を聞いて、私が驚かなかったのは、実は、そのMAGIの提示してきた軌道計算のうちの一つは、地球との接近コースをとっていて、いま、どんどん近づきつつあるからなの。計算が正しければ、地球の軌道の関係で、これからちょっと離れるけれど、最接近するのは半年以内」
「!」
アスカが顔を上げた。大きく目を見開いている。その表情は、まるで10年前の、少女の頃のアスカそのままだった。
「リツコは・・・あたしの話を信じてくれるの?」
リツコは無言で肯いた。
「シンジを取り戻せる可能性があるの?」
アスカの青い瞳はまっすぐリツコを見据えているが、再び溢れ出した涙で揺れて見える。
「それは判らない。だけど、あなたの話を聞いていたら、満更不可能でもなさそうという気はしてきたわ・・・」
リツコは立ち上がって、バインダーを一つ手に取った。
「これが、その計画。まだ途中までしか出来ていないんだけど、あなたが手伝ってくれれば、随分助かるわ」
「もちろん、やるわ!なんだってやるから、お願い、手伝わせて!」
「OK、契約成立ね。向こうへはNERVからも話は通しておくから」
こうして、アスカは再びNERVの職員となった。
現在のNERVは、使徒の脅威が去った今、研究機関としての位置付けに変わっていた。そのため、規模もはるかに縮小されていて、アスカの知る主要なメンバーの多くは転出していた。しかし、シンジの実験の前後から、リツコが各界に転出していた昔のメンバーを呼び集めていた。実験の主任オペレータを務めるのは日向マコトと青葉シゲル、それに伊吹マヤ。リツコのいうオールスターキャストだ。
リツコの計画はこうだ。
充分に虚数空間が接近したところで、その位置に、例の使徒の使っていた光線のビームを照射する。この光線は変調をかけることで、通信手段に使えることが判っている。発信機は既に軌道上にある電波望遠鏡のものを改造して使用する。そのための工事の進捗率は現在85%。
アスカには、MAGIを駆使しての軌道計算の役割が与えられた。虚数空間を探知する術がない以上、厳密な軌道計算が要求されるが、計算が複雑すぎて暗礁に乗り上げていたのだ。アスカは言うまでもなく張り切った。最適な解を導き出すロジック。それが最も重要だった。地球に接近する軌道を描く解だけを抽出して、その解を導いてきたパラメータを検討する。それをシミュレータにかける。アスカは文字通り寝食を忘れて計算に没頭した。
「あの光線を照射して通信する、って、初号機と通信するの?」
「恐らく、あの虚数空間は初号機自身が作り出しているはずよ。そして、あなたが言うように、シンジ君がまだ生きているとしたら、エヴァとは完全に融合していないはずなの。だから、シンジ君に、メッセージを送るのね」
リツコは軌道上に打ち上げる予定のプラグの点検に忙しい。今、プラグを梱包するコンテナがクレーンで降ろされた。アスカは一歩下がってそんなリツコを見ている。
「LCLのチャージはどのタイミングで行いますか」
マヤから無線が入る。
「そうね、一度コンテナにセットして、それでフィッティングのチェックを完了させてからにしましょう」
「了解」
リツコが振り返った。
「・・・シンジ君にメッセージを送って、このプラグの位置を知らせるの。プラグにはLCLを充たしてあるから、今のシンジ君なら、こちら側で再実体化できるんじゃないかと考えているわけ」
「質量を転送できるの?」
「いえ、LCL内の質量でシンジ君を再構成するのよ」
「どうやってシンジは返信してくるっていうのよ?エヴァの発信機を使うの?」
「前に話したことがあるんだけど、使徒って、世代交代しないのよ。実は使徒を構成している遺伝子って、どの使徒もほとんど同じものなの。見かけは違ってもね」
リツコはチェックリストに目を落としながら、それでも丁寧に答える。
「能力や形状はもともと遺伝子に組み込まれていて、どのタイミングで発現するかだけが問題になるようね」
「?」
「初号機も同じ遺伝子をもっているわけだから、今の初号機には、今まで使徒が見せてきた能力が全て使える可能性もあると考えているの。だから、この光線を返信してくることも可能じゃないかしら」
いくつか不安な要素があったものの、アスカの軌道計算が完了した。誤差は許容範囲に収まるはずだった。本当は許容誤差の10%以内に収めたかったのだが、時間的制約が厳しかった。
「あとはこっちの仕事よ。任せなさい。あなたはよくやってくれたわ」
アスカには、リツコのねぎらいの言葉が、素直に嬉しかった。
Xデーは決まった。NERVは超国家的措置を発動していた。フォース・インパクトの危機を回避しなければならない。投入できるあらゆる運搬手段を用いて、この計画に必要な物資が軌道上に展開された。世界の宇宙基地がフル稼働していた。地球の北半球は夏になっていた。ロケットの夏。
アスカは、髪を風になびかせて、上昇していくロケットを見ていた。やるべきことはやったはず。もう、何も怖くない。
そう。私は、私。自分に向き合うことを怖れていた私ではない。
「実験開始まであと1分」
「発振機に主電源接続完了、パルス励起開始」
「サーボモータに電源投入、チェッククリア」
「20秒前」
「今のところチェックはオールクリア。問題はありません」
「10秒前」
「予想軌道周辺には何も確認できませんが・・・来いよ」
「ゼロ」
「発信開始!」
「電源正常、位置制御も誤差ほぼゼロ。ジャイロは正常稼動中」
モニタには砂の嵐のようなノイズ。日向、青葉、伊吹の3人が、忙しげに機器を操作している。
「準備完了、始めますか?」
「ええ」
リツコがマイクを取った。
「こちらは、NERV技術部、赤木リツコです。応答をお願い」
何度かくりかえすが、反応はない。
「周波数を変えてみますかね」
「いえ、そのままの波長で継続して」
「こちらは、NERV技術部、赤木リツコです。シンジ君、LCLを電荷させたプラグを軌道上に用意しているわ。そちらで身体を再構成できるはずよ。位置は・・・」
「依然、反応はありません」
リツコの傍らでじりじりしながら事の成り行きを見守っていたアスカは、我慢できずに、リツコに飛びついて、マイクを奪った。
「シンジ!シンジ!聞こえてるなら返事して!お願い!」
「シンジ!シンジ!私よ!アスカよ!」
「!」
最初に気付いたのは日向だった。
「おい・・・反応が・・」
「これだ!捕まえた!」
青葉も、ほとんど同時にその兆候を捉えていた。最初はかすかな反応だったが、徐々に波形が大きくなる。同調が取れずに、不安定なノイズばかりがモニタスピーカーから流れてくる。オペレータ達は、額に汗をにじませながら、何かのパラメータをいじっている。スコープを見詰める目は、瞬きさえしない。
・・・と、不安定なノイズが、一瞬消え、霧が晴れたようにクリアな音声に変わった。
「アスカ・・・」
「シンジ!シンジなの!」
おおっ、と、管制室全体がどよめいた。
スコープは、再びノイズの海に沈む。
「逃がすか!」
青葉が、トラックボールを器用に操って、再び同期を取るべく電波を追いかける。
「・・・ごめんね・・・やく・・守れな・・・」
傍らの日向が、キーボードでスクリプトを修正している。二つの波形が、モニタの中で近づいていく。
「よし」
青葉が勝ち誇ったように報告する。
「これで、いけるはずです。自動追尾モードに入りました」
「シンジ、何言ってるの?シンジ!」
「・・・ね・・ああ、アスカ、その・・・」
「答えてよ、ねえ、シンジ!」
「・・から、ごめんって、約束・・・え?」
「アスカ、タイムラグがあるから、そんなにぽんぽん喋っちゃ駄目よ」
リツコが笑いをこらえて言った。青葉や日向は下を向いてニヤニヤしているし、マヤはマヤで、上を向いて涙をこらえているらしい。みんなの注目を集めていることに気付いて、アスカは真っ赤になった。私ったら、まるで子供じゃない!
「状況を教えて。どうなっているの?」
「だから、ごめん・・って、ああ、リツコさんですか・・・」
「・・・どうやら、僕はエヴァに取り込まれつつあるみたいで・・・取り込まれてしまったら、またインパクトが起こる感じがするんです・・・だから、虚数空間に飛び込んだんです・・」
「ディラックの海を、作り出したの?シンジ君が?」
「だけど、もう、そろそろ限界・・・虚数空間を作り出したのは、初号機というか・・・僕の制御下にある初号機の力です・・・」
「もう限界って、どういうこと?」
アスカが会話に割り込んだ。
「・・・初号機には、それぞれの使徒の能力の一部が眠ってるみたいで・・・えっと、限界っていうのは・・・」
「ねえ、どういうことよ!」
「アスカ、僕が、ここに留まっている限り、初号機を抑えておけるんだけど、僕自身も初号機そのものに溶けていっているみたいで、いつまでも抑えておけなくなりそうなんだ。だから」
「溶けるって・・・」
「意識があるうちに、初号機を・・・始末しなくちゃいけないんだ・・・ああ、溶けるっていうのはね・・」
「ちょっと待ちなさいよ、自爆でもする気じゃないでしょうね!」
「・・・」
「答えなさいよ!」
「・・・ロンギヌスの槍。もう一度、この槍の力で、位相を反転させる・・・」
「それって・・・」
「さよならだよ、アスカ、本当に、さよなら・・・」
シンジはもうアスカの問いかけには答えなかった。
「こ、こ、この・・・」
「・・・ありがとう。僕には過ぎた恋人だったよ」
アスカの怒りが爆発した。
「・・・このバカシンジ!!!!」
「一人でヒーロー気取ってんじゃないわよ!なんとかしなさい!戻ってきなさい!これは命令よ!」
「・・・へ?」
「馬鹿!戻ってこないと、ひっぱたくわよ!」
「・・・ア、アスカ?」
「ごめんじゃないわよ!さあ、帰ってきなさい!早く!」
「・・・でも」
「フォースインパクトが何よ!そんなこと、アタシにはどうでもいいのよ!」
「・・・ちょっと」
「いいかげんにしなさい!なんとかしなさい!アンタは・・・アタシの無敵のシンジ様でしょ!」
昔の彼女を知る者にとっては、懐かしい怒鳴り声。当のアスカは、目一杯の大声で酸素を使いきったらしく、肩で息をしていた。
「つまり、槍を引き戻して、エヴァをリリスに返すということ?」
「・・・あ、リツコさん、はい、そうです」
心なしかほっとしたようなシンジの声。
「・・・タイミングの問題なんです。僕はまだエヴァを完全に支配していません。だから、槍を引き抜くほどの力が出せないんです。でもエヴァに完全に取り込まれてしまったらもう何もできなくなりそうです。だから、ギリギリのタイミングで、ケリをつけるしかなさそうなんですけど」
「なら、私の言うとおりにして」
「・・・え?」
「いいこと、私の言うとおりに、3度繰り返しなさい」
「・・・はい?」
「僕はアスカと結婚する、僕はアスカと結婚する、僕はアスカと結婚する」
「な!?」
アスカがリツコの顔をまじまじと見詰める。だが、リツコは至って平静だった。
「・・・な?何ですか、それ・・」
「繰り返しなさい!」
「・・・僕はアスカと結婚する、僕はアスカと結婚する、僕はアスカと結婚する」
「もっと大きな声で!」
「ちょっと!」
大きく息を吸う、モニタを通してシンジのそんな息遣いが聞こえた気がした。
そして、モニターを震わさんばかりの怒鳴り声。
「・・・僕はアスカと結婚する!僕はアスカと結婚する!僕はアスカと結婚する!
・・・だから、だから、帰るんだ!」
「プラグに高エネルギー反応!」
「予想位置上で空間の位相が反転していきます!対消滅が開始されています!」
「何だ、これは・・・エネルギーが収縮していく・・・」
「虚数空間・・完全に消滅!」
「プラグに反応!シンジ君です!」
「一体、どういうことだったの?」
アスカはシンジの右腕に抱きついたまま、見舞いに来たリツコに尋ねた。
シンジは念のため入院し、毎日色々な検査を受けているが、今のところ全て異常なし。ただ、アスカが常に張り付いているため、全く退屈する暇は無かった。
「つまりね、子離れ、ってことかしらね」
「子?シンジのお母さんの?」
リツコはくすくす笑っていた。
「エヴァをコントロールしていたのは、多分、ユイさんね。シンジ君が来て、覚醒しちゃったんでしょうね。それでエヴァが本来の力を発揮し始めて」
「ひっどい親もいたもんね」
シンジは右手にアスカをぶら下げたまま、神妙な顔つきで話を聞いている。その様子に、なぜだか10年前の二人の姿がオーバーラップして、リツコは幸せな気分になった。
「まあ、10年間離れていた息子が、突然、たくましく成長して会いにきたら、そうなっちゃうんでしょうね」
「ふうん、まあ、判らないでもない、か」
アスカは笑った。リツコには、そんなアスカの笑顔がまぶしい。・・・いつのまにこの娘は、こんなに無邪気に笑えるようになったんだろう。
「で、あなたはこれからどうするの?契約はまだ生きているけど」
「NERVとの契約は解消ね。目的は果たしたもの」
シンジの顔を見上げて、満足そうなアスカ。
「じゃ、ドイツに戻る気なの?」
シンジが心配そうに言う。
「ん〜、どうしようかな」
アスカは悪戯っぽく、シンジの顔を見上げて、笑った。
シンジは、そんなアスカの表情を見て、どぎまぎする。
・・・なんだよ、僕はもっと大人になったはずだったのにな。アスカに振り回されっぱなしで、まるで中学の頃に戻ったみたいだ。
・・・でも・・・まあ・・・悪くないよな、これも。うん。シンジは一人で肯いた。
「そうね、よし、もう一回、アレを言ってくれたら、考えてあげるわ!」
おしまい
拙作『Last Rose Of Summer』は、リツコさんの仰る通り、実はラストシーンは漱石の夢十夜だったわけですが、自分自身でも、やっぱり痛かったという、情けないオチでして。なんとかこれを救済してみたくなったんですが。
私の場合、続編を書くとコメディタッチになってしまうのは何故なんでしょうね。