P.T.S.D.を生きる
診断へのきっかけ
壊れないために
最近、ネット上のドクターとのやり取りで、いままで分裂病の症状だと 思っていたものが、分裂病性エピソードと呼ばれるもので、つまり 短期精神病性障害及び神経衰弱状態というものだと話は進んだ。 僕の話に「心理的葛藤の抑圧」を感じるということと「連合弛緩」を感じられない からだという理由でということらしい。 では、昔、入院した大学病院で、分裂病と診断されたことはどうなっちゃうんだ? あの医師二十人がかりで僕を分裂病と決めつけた教授回診は のどかなお芝居だったとでも言うのだろうか。 「また大学病院の診断ですね」とネット上のドクターは言いたげだった。 「シュナイダーの一級症状だけで判断したのですかね」と。 そりゃあ、すぐには納得のいかない話だけれど、もうすこし詳しく話を聞く 機会があったら、その時までに整理できた気持ちのままで、また話を聞いてみようと思う。 ネット上のドクターはこうも一言付け加えた「重症の場合は、僕も分裂病とした方がいいかなと迷うところですね。」 あの教授回診の医師二十人は「医師が二十人いるから安心だ」というとらえかたを するのは間違いで、「一人の医師(教授)と十九人の子分」と考えた方が いいみたいで、やはりどこにでもある「独断」の風景。親分とイエスマンたちの世界。 おそらく僕の病状にふさわしくない程の大量の薬を僕は飲み込んできた。 これでは「精神医療コンシューマー」活動をしている人たちの味方をしたくなる。 医師を敵にはしたくないのだけれど。 (この項については、自分自身深く考えられないので、近日中に書き直す予定。僕の思考と行動にかかったブレーキについて、ぜひ知りたい。)
H氏とまた釣堀
この寒くなり始めた季節に今年になって三度目で、 今年最後のヘラ鮒釣りに行ってきた。 水面を吹く風は冷たく、初めの三十分はなんとか集中力が持って 何枚か釣ることが出来たのだけれども、寒くて堪らないものだから だんだん当たりへの合わせが早くなっていき、 全然、釣れなくなってしまった。 二人とも、忍耐力がないのが似ていて、 どちらからともなく「もう、やめましょうか?」と うん、やっぱ、季節にはかなわないねと今シーズンは 今日を以って「シーズンオフ」ということが決まり、 来年、四月頃にまたやりましょうと、先の約束ができた。 ちょっと満足からは遠い、店じまい
消えないこと
僕は世の中の人に伝えたいことはなにもないと、常日頃、思ってきたし、周りの人にもそう言ってきた。でも心の奥底に何か叫びだしそうな自分もいるって、このごろ考えるようになってきた。それは、自分の病気をきちんと納得しきれない歯がゆさ、寂しさなのではないか。このまま自分からも人からも理解されずに生き終えてしまう事は寂しいから、せめて自分だけでも、自分を「すてたもんじゃない」と思ってみたい。そういう気持ちになるまで、自分を追い込んでみたい。やはり、病気としっかり向かい合ってこなかったんだからだろうね。今の歳になるまで、大事なことは自分で考えなくても、事は済んできたからだろうね。 精神分裂病って現実から逃れる病気とばかり思ってきた。そう自分に言い聞かせて納得してきた。そう、自分でなにも決着つけなくてもいいってね。薬が和らげてくれるまどろみの中にずっといていいのだってね。でも、もう、それってイヤなの。隠してきた気持ちがそんなのもうイヤだって言い始めたの。自分で始めなけりゃ、自分のことは決着つかないってね。誰も僕の気持ちの中に入って、僕の気持ちを整理してくれる訳じゃないから、これから、自分で自分の気持ちを整理して、決着をつけようって思うの。 この気持ちには、やっぱり、きっかけってものがある。この三年ほどの間に思いっきり「好きだ」って言えた人がいた。でもこの「おもいっきり」に相手の人が怯えてしまって、僕は失恋というものを初めて知った。何十年も生きてきていても、まるで恋愛にウブだった、まるで免疫がなかった僕には、失恋という事態をよく飲み込めなかったし、気持ちをどこに持っていっていいのかわからなかった。この時、初めて自分に「気持ち」ってものがあることを知った。消そうにも消えないもの、それが「気持ち」だって知った。なんとか騙し騙しやってきた僕の人生の中で、初めて消えない、消そうにも消えないものに出会ってしまった。それが失恋の痛手というもの。それは僕が初めて知った僕の「気持ち」。その「気持ち」の中ででも僕は死んだりも消えたりもしなかった。あれだけの苦しみの中で、僕は死んだりも消えたりもしなかったということは、僕は生きられるなって思った。そう、最近のことなんだ、生きられるなって思ったのは。 生きようって思うからには、すこしは前方を向いてみたり、回りを見渡さなければと思って買ったのがパソコン。ずっと後ろ向きでも生きてこれた僕が初めて手にした武器がパソコン。(この文は一年程前、ワープロ練習のために書いたものです。連続性のない部分かも知れません。)
作業所バンドのライブ
先月、僕の属する作業所バンドがライブイベントに出演した。 自分たちだけでは、とてもライブにまで漕ぎ着けることは出来なかったと思う。 スタッフのみなさんが一所懸命に動いてくれて、会場の確保、イベントのシステム作り、宣伝、その他諸々やってくれて、僕たちは身ひとつで乗り込むだけという状況を作ってくれた。 謹んでスタッフ諸氏に、この場を借りて、お礼を申し上げたい。 ライブはとても楽しいものだった。 いつもの普段どおりの練習セッションを再現しただけのステージであったが、たくさんの人に聞いて貰えた。不安交じりに弾きはじめたが何か演奏している内に「ウケた」という感じがあった。あとはハジケて弾きまくった。 「なにも心配することないじゃない」って気分だった。 特に我バンドのシンガーソングライターであるJohnは、緊張すると震えるといういつもの症状が出ていたけれど、マイクを通して冗談を飛ばした後はいつもどおりにみんなを引っ張っていった。あとはリードギターのJomanとアコスティク・ギターでベース・パートを弾く僕が追いかけていくだけ。 Johnのエレキ・ギター一台とあとはアコースティック・ギター二台のおとなしめの サウンドに時々加わるtubamiさんのキーボードという構成。 さらにセカンド・ボーカルなのに声の大きい楽天家さんがいる。 とにかく、気分良く持ち歌四曲を歌ったあと、バンド内から湧き上がった「アンコール」の声に応えて、さらに二曲という豪華ステージであった。 最後にはJohnさんのお母様が用意して下さった花束の贈呈まであった。 メデタシ、メデタシのオン・ステージでした。 バテたけどね。
たとえば、
ココロとカラダの傷を見比べてみると、ココロの傷は簡単には見えな
い。カラダの傷は見つけたら、本人も周囲もなんとかしなければと
思うし、とにかく、治療へ向けて努力できる。親による虐待などで
ココロの傷を受けた時に、本人がまだ幼くて表現することもできなく
て、その日々の恐怖やショックをまるでなかったことのように日々の
記憶に鍵を掛けてしまう。そうボクには何もなかったんだ。そうボク
はだいじょうぶ。と、幼児期にはそのように現実も記憶も消してしま
うことができる。
三が日
三が日、東京は静かだった。
僕の住んでるすぐ側に交通量の多い幹線道路が走っているのだけれど、お正月の三が日とお盆の三日間は、何かいつもと違ってしまったのではと思うくらい静かだ。普段、いかにすごい喧騒の中だ過ごしているか解るのは、この静かな三日間があるからみたい。
あっ、そうだ。まだ、初詣に行ってない。よし、今日行ってこよう。
希望的観測
物事や出来事や自分の心の中の意思を
作り変えてしまおうという恣意が
もはや無くなってしまった時に
僕は一番純粋に生きることが出来るだろう。
今はめちゃめちゃに心の中を占めている
防衛機制である解離や否認や抑圧から
解き放たれて、僕が生きるのに一番必要な
ものに向かって真っ直ぐ歩いていくだろう。
その時には誰の非難の声も耳に入らず、
正義も悪も考えさえしないで
公平も不公平も考えさえしないで
僕に一番大切なものが見えてくるだろう。
大切な目的に向かってスマートになること。
心の中を大多数占めている余分なものから
解き放たれたら、生きることは大分楽に
なるだろう。全てを満たすのはあきらめて。
そのためには、解離したはずの記憶と
否認したはずの記憶、抑圧したはずの記憶、
すべてこの日差しの下に引きずり出して
「お気軽な昔話」として語らなければならないだろう。
物事の認識が出来る以前の幼児期の記憶に
遡ることは不可能であるかもしれない。
解離性障害という診かたで僕と向かい合って
くれるドクターを探すのさえ、大変なことだ。
この正面に見えてきた自分の目標から
目を逸らさないために、記録は付けられるべきだ。
連合弛緩がないのに分裂病と診断された人として。
自分がはっきりと自分の人生に出発するために。
主治医に最後の確認
昨年の夏ごろから、外傷性精神障害というアングルからも診てくれるドクターを探そうとしていた。僕の地区担当の保健婦さんにもどういうドクターがいいか相談した。僕の説明がまずかったのか、地区担当の保健婦さんが教えてくれたのは、地域での保健所活動に理解のある古くからの個人開業医。お年を召した先生方。でもその先生方は年齢的に外傷性精神障害をお勉強されていないであろう年齢。
外傷性精神障害は歴史の中で、突如、光を浴びたり、またふっと抹消されたしてきた病気、それもその時代の権力を握る人々にいつも都合の悪い病気だった。19世紀には抑圧された女性の病気「ヒステリー」として(現在、一般にヒステリーという言葉が持っている意味とは別物です。)、そして第一次大戦、第二次大戦中には「戦争神経症」として、ベトナム帰還兵の帰還後の社会不適応の問題として、最近の日本では神戸震災後のPTSDとして。平時にはあってはならぬ病気としていつも意識から抹消されてきた。だけど、だけど、だけど。
さて、それでも、外傷性精神障害というアングルで診てくれるドクターを作業所スタッフの個人的人脈を通じて探してもらったらあった。一番近で私鉄に乗って5駅先。さらに少し遠くに二箇所。だから、多少決定的なことを今の主治医に聞いてみてもいいと思った。外傷・解離について主治医はどう思っているのか確かめたかった。
先週、主治医の診察を受けてきた。
いつものように「今日はどうかしましたか?」と聞かれ「特に変わりはありません。」ということを言った後、「外傷性障害の抑圧ってどういうことなんですか?」と訊くと(本当は「解離ってどういうことですか」と聞けば良かったと振り返って思う)
「えっ、どういうことって、言ってる意味が解らない。」
「だから、心的外傷などの外傷で抑圧って状況ありますよね」
「言ってる意味、全然解らない。なぜ今、抑圧って言葉がでるの?」
「あ、前に先生にパソコンでプリントアウトしたものをお渡ししましたよね。それに書いてあったことなのですが」
「ああ、あれね。あれは特殊な考え方ですよ。それも特殊な理論です。あれは理論ですよ。僕たちがやってるのは、臨床でね。理論の通りにはいかないのです。」
と言われて僕はブルって「解りました」と残して帰って来ました。心の中で「さようなら先生」と呟いてみた。
ちょっと夢がヤバイっす
今、自分で「心的外傷と回復」を読んだりして外傷記憶をうっかり思い出そうなどとしてしまったせいかもしれないが、そして主治医の「突き放し」が小さな心的外傷を形成してしまったのか、よくわからないが夢が変になってしまった。僕は眠って夢を見ている時だけはしあわせだった。なのに、今は、夢を片っ端から潰して回っている自分がいて、夢を見ようとしている瞬間に夢を見ちゃあいけないと警戒する自分が夢の扉を端から閉めて回っている。そんな時、不快な圧迫感で目が覚めてしまう。これを「夢の変質」と言うらしいが、新しい先生にどうしても伝えなければならないことらしい。
解離・外傷にこれから立ち向かうことへの不安・恐怖がココロの中に「感じること禁止令」を発令したみたい。今、疲れやすくて作業所へ週二日位しか行けなくなっている。