街並案内
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首無地蔵菩薩全景 首無地蔵入り口 首無地蔵様
昭和52年5月18日未明に出口町に住んでおられた、東寿男氏の夢枕に立たれ発掘されたのが、首無地蔵様です。高さ35cm、幅12cm、厚さ11cmの首のない小さな石地蔵ですが、発掘以来熱心に信仰された方々の願い事など、すべて叶えられ、その霊力には万人が信じております。
創建20周年記念に建立された鐘楼は宮大工が生涯の贈り物として、鎌倉時代の様式に習って12本の柱を使い近年では珍しい建物です。
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・府中町街並みの展望
首無地蔵から見る府中市は内陸盆地にあり、町の西側を芦田川が福山市へ向かって流れています。川の西側に白い屋根のウッドアリーナと言う体育館があり、広島国体の女子バレー会場にもなりました。
川より手前北側にリョービ株式会社・府中高校・たくさんのお寺・そして、わが出口通りがあります。
・上月氏 地域の人望厚く、出口村の集家を形成させる
豪商 上月氏墓標
元、播磨の国、上月城主が落城 子孫は福島公に仕える。
関が原の戦いの後、福島は広島藩主に・・・上月範起は、みつき郡丸河南城主に・・・
その後、福島公は流罪になり、幕府の追っ手を察知し出口村へ逃げ下る
江戸時代の初期から明治初めまで約250年間にわたり、土地を開墾し農業を行い、そして豪商へと・・・村人たちには商いによる現金収入を教える。(農作物の販売・たばこの商い)
そして、屋号を阿賀屋とした。
三室橋 とび石 三室の滝
県道388号線の木野山ー府中線を西に進むと出口川にいたります。ここに架かっているのが三室橋です。
この地は、石見銀山から、三次、上下、協和、坂根峠、荒谷、出口と石州街道の山間部を経て、やっと平地の出口に出られたので「出口」と名付けられました。
ここを流れる出口川(龍田川)は、昔は「暴れ川」と呼ばれ、水位の高い時は飛び石が渡れません。川止めも度々あったので、当時の有力者である上月氏、その後は大戸直純氏などにより道嵩を上げ、そこに土橋が架けられ、昭和38年に現在のコンクリートの永久橋が作られました。
甘南備神社の第一鳥居の下にあり、出口川の上流から農業用水に利用している水路の水をこの滝に落としています。この滝の下には、たくさんの鯉がおよいでいて、とおり行く人々の心をなごませてくれます。
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・甘南備神社
表参道 甘南備神社 お祭りの夜の神社
約1300年前の奈良時代に鎮座され現在に至っています。
| 祭神 |
事代主神 ことしろぬしのかみ
大己遺神 おおなむちのかみ
少彦名神 すくなひこのかみ
明治に県庁社に認可される
祈雨の神 (あまごい)
秋祭りの風景
・大戸直純
豪商 大戸直純氏墓標
福山藩の儒者であった菅茶山と学問上のつながりから行き来の仲であったようです。江戸時代の後期に若くして(27才)庄屋となり、村民のためになさけぶかい政治を行った、まれに見る人物でした。一方、塾を創立し多数の子供達を教育したとあります。
天明一揆後、村民のために福山藩では最初の社倉(食料を貯蔵しておく場所)を創設された人物でもありました。又、米の生産をするために池を造ることに力をそそいだ。
対岸の小高い広場に、出口の牛市場がありました。大正時代から戦後まで、月三回開き賑わったものです。
この牛市は、久井の牛市と並んで広島県東部では有名で取引高も多かったようです。
市には近郊から沢山の馬喰や、農民の人々が集まり、袖の中に手を突っ込んで取引をしていました。
取引がすむと、お互いに町の燗店(居酒屋)で飲食をし、中には芸者を数人上げて、売った牛の代金を全部散財したという話も聞いた事があります。近くに置屋も何件かありました。この頃の飯は「たくあん飯」とか「みずな飯」とか言って小さく刻んだものをご飯とまぜていたのが、人気があったようです。
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茶屋跡 現在の様子
旧藩時代、石州街道沿いの藩主が、山陽道に出るため、出口村を通過するとき、休憩したと伝えられています。荒谷の急峻な坂根峠を越えて、谷を降り、中国山地が途切れ芦田平野に出て、ほっと一息ついて一服するのに丁度良い場所。
管茶山の記述の中に「この家の前の出口川には、橋はなく飛び石伝いに渡っていたが、川が溢れたときには迂回も出来ず、大森銀山を往来する菅吏が、人夫を多く要して架橋してもらった」・・・とあります。
現在は取り壊されて、駐車場として利用されています。
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番所跡説明板 脇道
出口の人は「御番所」と呼んでいました。福山藩主時代、郡奉行の支配下の口留番があり、その番所がこの場所にありました。口留番所は江戸時代自領と他領に通ずる水陸の要所に設けた小規模な関所であり、旅人の通行を取り締まりました。貨物の移出入の監視が主な役目で、通り手形と貨物との照合をしたり、移入品には口留運上などを徴収していました。
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明治末期から昭和34年の50年間、手織りから機会織りまで、多いときには機子(地元の人)が、100人を数える程、とても忙しく残業してもらっていました。藍染めも、20余りの瓶に藍液があり多くの人が手を染めて働いておりました。また、藍床もありました。地元に潤いをあたえ、人々はその現金収入に誇りを持ち働いていました。
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創立は幕末頃と推察されています。この胡神社は町の氏子が中心となってお祭りをします。
「二十日胡」 祭りには盛大に行事を行い、胡町町民団結のより所となっています。
本神社の特徴は、屋根瓦が特別製の立派なものであり、社の正面の彫り物の鯛も立派で、生きてはねている様です。
社内には、能島辰五郎奉納の胡・大黒能面もあります。また、「二十日胡」 には 「七胡参り」 と言って、胡〜大黒町〜上本町〜川原町〜新町〜上辻町〜下辻町・・・と巡回する風習があります。
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胡町クラブ 隣接するなめこ壁の家
胡町の各行事や会合の中心拠点です。以前は階下に義勇消防団の手押しポンプ車があり、二階が会議室でした。
現在は上下階ともに、町民の集会のクラブとなっており、町内会、各種団体会議、いきいきサロン会場でもあり、多目的に利用しています。
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金光邸 うだつ うだつ
石州街道の昔の面影を残している建物で、格子戸、虫籠窓、うだつ等が造られておる代表的なものです。
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磨がれた道具 竹中鍛冶屋
現在は廃業されていますが、以前は鋸の製造・目立て業をしておられた。今でも川向こうの古い家には、鈩や鞴などが残っています。
安政時代(1853年)に、有名な竹中勝助邦彦という刀剣造りの名工がおられ、福山城主 阿部伊勢守正弘の愛刀を打たれ、今でも福山城博物館に保存されています。
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工場跡 水力利用(水車跡)
常屋孫右門衛門が手刻み製造を始めたのが起源と言われている。(1819年・文政2年)
地場産業の礎
1820年〜1900年までの80年間(江戸末期から明治30年頃まで)、村民の過半数は葉たばこの仲買・製造・販売に従事する盛況でした。これは、現金収入が大きな魅力でありました。
この指導者が上月氏で村にとっては大きな財産となり地域の中に民家や製造所が出来、最盛期は10余社もあり、各社共に競争で加工方法を考え水力・水車・蒸気・機会を導入しました。
後藤善吉が笠岡より「栓台」という刻み機を持ち帰った。(1854年安政元年)
林屋がぜんまい仕掛けの機会を購入した。(1865年慶応元年)
中でも、烟開社(いんかいしゃ)・煙開社(えんかいしゃ)・煙友社(えんゆうしゃ)が束ねて販売もしたようです。この事業は慶応年間に飛躍的に増大しました。一方国は、大きな財源である事に目をつけ明治7年にたばこ販売に対して印刷税を掛けてまいりました。明治38年たばこ専売法が出来て、元町に専売局が建てられ一手に販売するようになりました。その時、今までの業者に国は補償金をだしました。その補償金が新しい産業を起しました。それが、地場産業のはじまりでした。
1820年〜1950年頃まで、芦田川と出口川の合流点あたりで剣先(地名)に水車を作り、米・麦・大豆・ひえ・あわ・はばこ等を加工し地場産業の基となりました。
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公園予定地全景 公園北側 橋の予定地
現在の公園 現在の公園北側 現在の橋
もと、常屋孫右衛門が文政年間、手刻みたばこを始めた後、水車を利用して製造していた所。
国の専売制がしかれた時、業者は多くの保証金を手にしました。
後に備後製糸会社(松本伝三郎社主)となり、吉舎、三良坂方面から多数の女工さんが寄宿舎に入り生糸の生産に励んでいました。
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公園工事 現在の様子
出口村大庄屋、大戸直純の別荘であったと言われ役所として使用されていた。
資料によると明治22年、村の予算は八百拾参円七拾五銭五厘で戸数は625戸
そのうち商売をしている家が160戸あり、議員も12名いたとあります。
・風神社
現在の様子
風、水、火の神社で甘南備神社の末社、「風当たり」と昔から言われている足腰の関節が急に痛み呼吸が困難な、胸が圧迫される病気になると「舞い上げ」 と言って、半紙に米と塩とを包み、痛むところを撫でて、それを持ってお参りすれば楽になると言う伝えがあります。
・金神社
紛失物とか金品(高価)など、行方不明になった時お参りして祈願すると、立ち所にして発見できる神様。
今でも多くの人がお参りされています。
正面より 車庫と玄関 通りから
石州街道出口地区まちづくり協議会の指定を受け、修景整備事業の第一号として補助金の助成を受けて、居宅の前面、その他を修景した建物です。
| 基準 |
協定区域の指定
・住環境の整備と改善
・希望を申し出る → 審査 → 工事 → 完了・報告
↑
(色・瓦・樋・予算他)
昔の出口通りの面影を残す様、設計されたものです。
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山号を光暁山と言い浄土真宗本願寺派であります。
豊田郡本郷城主、小早川家一門で田坂平蔵硯仲(教春)が開祖と伝えられている。
みつぎ、市村、照源寺 智春に従い・・・その後永禄2年(1559年)荒谷村高倉で布教を行い出口村の今の場所に移った。本堂は第7世智教によって寛保2年(1742年)に起工・・・延享3年(1742年)上棟 5年の歳月をかけて建てられる。
鐘楼・山門は近郊にはまれな立派なものであります。明治から昭和にかけて、いちろくの日(1・6の日)には門前で、ほぼろ市が開かれて賑わっておりました。竹・わら細工・燗店も繁盛しました。先代のご院主様は菊作りの名人で、秋には「菊花展法要」も聞かれて、多くの人がお参りすると共に見学者も大勢おられます。大中小、三千本の菊が見事に咲き色鮮やかに人目を引くものです。
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ふきのとう
元、理髪店をとじて、改装して今の店に。 ./hukinotou1.html
2002年創業 ねらいは・・・・・
【趣味を生かした小物店】
【人の出入りがしやすい家】
すべてが手作りで、自分が作ったもの、近郷の趣味の人達が持ち込んだものなど、いろいろな商品をを販売している。
和の衣の服・帽子・バック・陶器・小間物・・・など 所狭しとおいてある。 一角には茶席も・・・
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・郵便ポスト
今でも利用している郵便ポスト
胡神社 鬼瓦
民家と民家の間に、間口 136cmの小さな社の神社です。七胡の一つで鬼瓦が立派なものである。近所隣の人でお祭りをします。
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米田邸 小川邸 小林邸
米田邸はうだつが特徴的です。
小川邸は豪商で通りの間口が一番広く、格子戸に特徴があります。
小林邸は元、造り酒屋でした。
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本町荒神社
出口町と府中町の境に荒神屋敷があり、その一画に荒神社社があります。社の左右には二基の石灯籠があり、右には安政三年(1856年)丙辰夏五月と彫られ、前原忠兵衛の奉燈となっており、左には安政七年(1859年)甲港九月吉日とあり中埜屋善助の奉燈となっております。
この神社は昔から俗に 「へその緒の荒神さん」 と呼ばれており、子ども・特に男の子の無事な成長を祈って、へその緒を供え祭ったと言われております。
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かんのき(かんぬき)道標 石州説明板 かんのき側の建物
石州街道の出口と入り口を「かんのき」と呼んでいました。道筋が T 字型になっており、当時木戸があり、夜間は扉に閂を差し込み通行の規制をしていたのでその名が残っている。この三差路に石の道しるべが残っており、次のように掘り込んである。
北 上下ー小畑 石州道
西 市邑 ・ 甲山道
東 福山 ・ 上方道
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金比羅宮 橋の向こうから 常夜灯
大黒橋の下手に金比羅宮がまつってあり、大きな常夜灯があります。この社は讃岐の金比羅宮より勧請されたもので海上の守護と五穀豊穣の守護神であり付近住民の信仰の的でありました。 本殿は昭和4年4月23日落成とあります。
常夜灯は安政二年乙月卯夏六月建設とあり、正面から右に賀武奈備神社 (甘南備神社) 、中央に金比羅大権現 、左に蘆高大明神 (芦高神社=近くに鎮座されている) と、三社の社名が刻まれています。前の橋は土橋でしたが昭和26年1月20日に、こんぴら橋として建設されました。境内には、出口尋常小学校長 倉品延三郎先生の大きな自然石の公徳碑が建立されています。
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大黒橋 橋入り口 常夜灯
鉄筋コンクリートの永久橋が出口川に架かっています。大黒町にあるので大黒橋と呼んでいます。橋の欄干もコンクリート作りで右側に7個、左側に8個の丸い穴が開いており、その中に鋳造の大黒様が夫々両面にはめ込んであり珍しい橋です。また、橋脚にはハイカラな電燈がついています。
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金光味噌 人宿 馬宿
金光味噌のこの店は、事務所兼販売店となっていますが、各地への発送が中心です。
人宿は昔の行商人が利用した宿で、おもに薬売り・馬喰などで賑わっていました。
馬宿は荒本馬宿場といい蹄鉄場でした。牛馬の引く荷車の車輪の修理などを行っていました。
道幅が広まり自動車が往来するまでの輸送は、荷車 (車輪の幅を加減して、牛や馬が引く) を使用していました。朝出発して福山に行き荷物をおろして、府中方面の荷物を積み帰る。そしてまた、次の日の荷物を積んで仕事が終わるという毎日でした。一方、海上では川下り輸送も明治後半まで行われ、府中港 (剣先と言う地名)が船着場でした。