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赤い靴履いてた女の子、異人さんに連れられて行っちゃった。 |
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横浜の波止場から船に乗って、異人さんに連れられて行っちゃった。 |
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今では青い目になっちゃって、異人さんのお国にいるんだろ。 |
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赤い靴見るたび考える、異人さんに逢うたび考える。 |
(写真は、横浜市山下公園の『赤い靴』の少女の像)
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「赤い靴の女の子は実在していた。」
明治後期に、作詞家の野口雨情は北海道の新聞社に勤めていました。
その時に同僚の奥さんから、ある女性の話を聞きました。
その「ある女性」の名前は「岩崎かよ」と言いました。
「かよ」には、「きみ」と名づけた娘がいました。
この「きみ」が、赤い靴のモデルの少女です。
少女は、明治35年7月に、静岡県清水市で生まれました。
その後母親は北海道へ「開拓民」として行くことになりました。
しかし母親は、まだ3歳の少女を厳しい自然の北海道へ連れて行くのをためらいました。
悩んだ結果、アメリカ人宣教師であるチャールズとその奥さんに、少女を託すことにしました。
その結果、少女はチャールズ夫妻の養女となりました。 |
後に野口雨情が、母親の気持を歌って「赤い靴」を作詞しました。
野口雨情は、大正時代に出版された『童話と童心芸術』の中で、この歌詞の意味以下のように、述べています。
(原文は大正時代のもので読みにくいので、現代の文章に修正しました。)
いつも元気よく遊んでいたあの女の子が遠い外国へ行ってしまってから、今年で数年になる。
今では外国人のように青い眼になってしまったであろう。
赤い靴を見るたび、横浜の波止場から船に乗って行ってしまった女の子を思い出す。
また外国人を見るたびに、あの女の子が今は何処で何をしているかを考えてしまう。
そんな気持を歌ったものです。 |
しかし、悲しい後日談がありました。
「赤い靴の女の子は実際には外国へは行かなかった。。。行けなかった。」
明治38年に養女となった少女は、チャールズ夫妻に連れられてアメリカへ行くはずでした。
しかし6歳の時に、少女が結核になっていることがわかりました。
チャールズ夫妻は、仕方が無しに少女を東京都麻布にある鳥居坂教会の孤児院へ預けて帰国しました。
そして少女は9歳の時に、その病が元でこの世を去りました。 |
少女の母親は、少女が既に死んでいる事を、自分が死ぬまで知りませんでした。
自分の娘が、元気にアメリカへ渡って暮らしているのだと想っていました。
もちろん、野口雨情もその事実を知らずに、母親の気持を歌詞にしたのです。
もし、知っていれば、この名曲はこの世には無かったかもしれません。
既にこの世にいない娘を想う母親、、、この歌の裏側にはこんな悲しい物語があったのです。 |