西脇 秀典(にしわき ひでのり)、wacky、Wac

 1967年9月8日三重県津市生まれ、乙女座のA型、既婚、男性。

    現在は、東京都の西部地区在住。        


                    
セルフポートレイト:⇒



 愛用品: 帽子(春、秋、冬はソフト、夏はパナマ。青山の山田帽子店で見立ててもらう。)、
          豆絞り
         
被り物ばかりですなぁ。現在は髷を結っていることも多い。
         
しかし、本人は髷のつもりでも、妻からは「ミムラ姉さん」と言われた。 

 好きな場所: 河口 (今住んでいる場所から歩いて行くのはちょっとむずかしい。)

 座右の銘: 絶望の虚妄なること、希望と同じ。(魯迅)
           The sea refuses no river. (Pete Townshennd)

 好きなマペット: シーモアとペペカーミット
         
最近、いたるところマペットばやりだが、
         
わたくしはやはりこの3氏を敬愛している。

 わたくしの心の支えとなっている100本の映画:⇒
         一監督一作品に限定して選んでみた。
         何故、選んでみたかといえば、新たに吸収したいからである。
         現在わたくしにとって重要なものは何か、考えた。
         歴史的意義とか、傑作とかいう言葉はあてはまらない。
         通し番号は、おおよそ「思いついた順」程度のもの。         

 特に敬愛する映画監督、ご贔屓の映画俳優:⇒
         100本の映画を選んでみて分かった、
         わたくしの締りの無い性格。
         ファン気質というのも、わたくしの特徴か?

 わたくしの心の支えとなっている録音音楽:⇒
         こちらは、一アーティスト一作品という訳にはいかなかった。
         選んでみた動機は映画に同じである。
         真剣に取り組んでみたら、膨大な数になってしまった。
         覚悟してご覧下さいまし。
         メディアは、LP、CD、カセット、ヴィデオ、様々から選出した。

         

 最大の関心事: 複製・通信技術時代におけるパフォーミング・アーツについて。

 ここでわたくしが問題にしたいのは、狭義の芸術、芸能としてのパフォーミング・アーツのことではなく、広義の「操身=身体の扱い方」についてである。例えば、歌や芝居、踊り、演奏などは、芸能的なものと、より親密なコミュニケーション的なものの両面をもっているし、武術やスポーツも社会的なものと個人との間を繋ぐものである。同様に、会話や仕草、遊戯、セックスなどもパフォーマンスとして捉えたいと思う。操身という言葉を使ったが、わたくしは心と身体は分けて考えてはいない。アーツというのは「術」ほどの意味である。反復によって得られるもののことを指す。

以上のように、わたくしはパフォーマンスという言葉を、あくまでも人間間の関係性を通して現れた身体的な現象という意味で使っているが、わたくしたちの生活の多くを占めている全く個人的な行為、仕草も、わたくしはパフォーマンスと呼びたいと思う。そうした個人的な行為、仕草においても、他者性、関係性を抜きには考えられないという見地からである。

何故、複製・通信技術時代ということにこだわるのか?

人間は、他者のパフォーマンスを真似たり学んだりして、パフォーマンスを身に付けていくものだが、この「他者」が目前に実在するものばかりでないのが「複製・通信技術時代」である。

この「時代」は、最早当たり前の現実と思われているが、まだまだ始まったばかりである、というのがわたくしの認識だ。それは「複製・通信技術」が、今やようやく「言語」と同様のレベルで人類の誰もが行使し得るものとなりつつあるからである。

この「時代」は、パフォーマンスの伝達、あるいは非伝達を通して、人類の歴史観、時間意識に大きな変革をもたらすであろう。

膨大な歴史の瓦礫の上に立つ、日常生活におけるパフォーマンス。その生命のほとばしりを死守再生するためにも、「複製・通信技術時代」へのぶれることの無い眼差しが必要となるのだ。





このページの標題 【Le Retour à la Vie】は、フランス・ロマン派を代表する作曲家ルイ・エクトール・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803-69)の作品 『レリオ、または生活への復帰(Lélio, ou le retour à la vie op.14-b)』 (1832パリで初演) から拝借した。この作品は、芸術家の自意識そのものをテーマにした特異な作品であり、音楽をナレーションが寸断していくようなその形態は、ラジオドラマや、ミクスト・メディアを予見した先見性に満ちている。時代の変化を過剰に意識したこのような孤立した作品には、何故か愛着がある。

 

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