図書室 

 

図書室 (1)

「ロマンティスト・ピカソ」 「国際的?」 「それ、僕のだよぅ」

「服装ひとつで」 「マキ」 「寿司食いねぇ♪」 「語源」

図書室 (2)

「続・アルベルト」 「歴史と神話」 「歴史家の真実」

「貴族のたしなみ」 「まだまだだな」

「闘牛批評家の美術批評」 「青の時代」

図書室 (3)

「世代の差」 「独裁者の素顔?」 「哲学者の過ち」

「過剰な履歴書」 「メルセデスの利用法」

「言葉と思考」 「戦争の意味」

図書室 (4)

「マンガと寄生虫」 「言葉に対する配慮」 「スペインのピカソ」

「友人Gの証言」 「世紀末の暴力」

図書室 (5) 「スペインのピカソ 2」 「無視されたスルバラン」

「ミニタウロマキア」 「親ソ反米」 「距離感」

図書室 (6) 「返事次第」 「ピカソ銀行」 「祖国のゴミ」 「子供扱い」

「あなたにはわかりますか?」 「内戦中の娯楽」 「反(アンチ)」

図書室 (7) 「無理解は誰のせい?」 「お気に入りの本」 「目がそっくり」

「エストレジャ」 「色メガネは外せない」 「時差」 「グリスいろいろ」

図書室 (8) 「ピカソとシュール」 「歴史は繰り返す」 「言葉の違い」

「チャンピオンは誰?」 「成功を我が手に!」

「死に場所」 「北の国から」

図書室(9) 「アルバム」 「新発見の余地」 「理想像」

「同類発見!」 「身近な存在」

図書室(10) 「フランス<スペイン」 「虚しい仕事」 「根無し草」

「転ぶのも時間の問題」 「高次な美を求めて」 「スペインの伊集院」

図書室(11) 「裏側の悲しみ」 「1925年」 「波の力」 「うまくいかないときだってある」

「あと・・・5cm!」 「173号室」 「ギリシアの接吻」

図書室(12) 「オリエンタリズム序文」 「ステレオタイプ」 「新しくない芸術」

「眼球譚」 「勉強と研究」 「ガートルードとアーネスト」

「パンツは見えるのか」 「観衆は誰だ?」 「おーかもと」 「茹でた蟹」

図書室(13) 「秘密結社入会希望」 「羊を抱えて」 「敵か味方か」

「宗教と歴史」 「スペインと第二次大戦」 「よい子・悪い子」

「ピカソ対フランコ?」 「正論」 「悪者と絶交」

図書室(14) 「原子力潜水艦」 「ピカソ>レアル・マドリー」 「自伝」

「このお店でカレーを」 「恋文?」 「闘牛士の死」

「ああ、ほら。ぼく・・・」 「Vencereis pero no convencereis」 

図書室(15) 「歴史の真実とは?」「まだまだこれから」

「役に立たない知識人」 「部分に解体する理由」

「スペイン≠ヨーロッパ?」 「職業的な活動をすべきか?」

 
国民世論

 

 太平洋戦争を勃発させたのはなにも暴走した軍部だけではなかったはずだ。それを後押しした国民が認めないと殺し合いの正当化なんてできはしない。

 

「もちろん本大戦は決して陛下のご意思ではない・・・
世界の情勢が見えない軍部を後押ししたのは
言論・新聞(マスコミ)の煽りに乗った国民世論・・・だ」
(かわぐちかいじ、『ジパング 8』、講談社、197ページ)

 

 北朝鮮に経済制裁を加えることを支持しているひとは、他に手段がなくなってしまうほど追い詰められた独裁政権がどういう行動にでるのかという想像力は働かないのだろうか。戦争勃発という最悪の事態になったときに、どう責任をとるつもりなのだろうか?

 国民世論という感情は、理性では制御できないものなのだろうか?

05/3/21

 
更新したつもり

 

 オルタから帰って通算三つ目のアトリエをリエラ・デ・サン・フアン街に、このぶざまな風貌のカサへマスと共同で借りた。そして、このアトリエの真っ白な壁が堪えられぬほど淋しいと感じたピカソは、できる限りの気楽さと贅沢をアトリエに与えるため、その壁の上に家具やその他の必要なものをいかにもそれらしく描こうと考えついた。さっそく豪奢な家具が必要なだけ、ほしいだけ描かれた。書棚には貴重本が並び、食器戸棚、テーブル、安楽椅子などが置かれ、可愛らしい女中と給仕が恭しく控えており、脇棚の上には花と果物がいっぱいで、そのそばに無造作にお金が散らばっているというぐあいであった。
(ローランド・ペンローズ、高階秀爾/八重樫春樹訳、『ピカソ その生涯と作品』、新潮社、1978年、62ページ)

 

 うーん、どっかで聞いたことあるなぁ。

 

 ・・・。

 

 あ、だくだくじゃん。若い頃のピカソは落語そのままの生活してやがったのか。

 

 妙なところで感心しながら、じゃあ僕も、これで立派にサイトの更新をしたつもり。

05/8/2

 
翻訳の基本

 

 明日の翻訳演習で使おうと思って、『翻訳の基本』なる本を買ってきました。

 「原文どおりに日本語に」なんていうサブタイトルが付いている割には横書き、しかも句点の代わりにピリオドが使われているという、中途半端な本なのですが、まあ、それなりに納得できるところもあるわけでして。

 

 この本のなかに「名前の訳し方」なる項目があります。そこには、慣例となっている固有名詞があるとしても、現地読みで違う発音がされている場合は、間違いなのだから勇気をもって訂正しようよ、という趣旨のことが書いてあるのです。

 

 マスメディアにおける合衆国大統領の名前の表記が、一夜にして「リーガン」から「レーガン」に変わった経験を持つ私たちは(お忘れかもしれないが、20年前に本当にあったことである)、「ハズリット」が「ヘイズリット」に変わったくらいではそれほど驚かないが、このエピソードの教訓は、すでに慣例になっている読み方が必ずしも正しいとはかぎらず、場合によってはその慣例を改める勇気も必要だ、ということではないだろうか。
(宮脇孝雄、『翻訳の基本』、研究社、2000年、38ページ)

 

 MADRIDを「マドリード」などと書くんじゃないってのはここでも書いたことなのですが、要は、レアル・マドリーをレアルと略すなということです。

 ベティスだって、サラゴサだって、ソシエダだって、マジョルカだって、サッカーチームとしてはすべて「レアル」。

 レアル・マドリーを略すのなら、「マドリー」だろっていう話ですよ。

 

 ウィニング・イレブン9の解説者は、「れあるー!」などと絶叫しくさります。背筋に虫酸が走ってコントローラーを投げつけたくなるのです。

05/9/7

 
処女作

 

 久しぶりの更新で宣伝ってのもどうかと思うのですが。

 

 ええ、僕の初めての著書が出版されるんです。

 

もっと知りたいピカソ 生涯と作品

 

 一般向けの概説書なので専門家にはまったく もって物足りないかもしれません。

 しかし、逆に言えば、「あまり美術のことは詳 しくないけど、ピカソ芸術をちょっと垣間見てみたい」というひとにも気軽に読んでもらえる本だということです。

 「ピカソってこんな絵を描いてたんだ」と知ってもらえるだけでも、この本の使命は果たされたことになります。

 この本がピカソ芸術の幅の広さと、そのめくるめく変貌の過程に触れてもらう機会になれば嬉 しいです。

06/1/19

 
政治的な立場に目をつぶって

 

 

「ピカソはもういい。」

 

 を出版してからしばらくは、そういう「パブロの顔も見たくない」状態が続いていたのですが、そこは研究ジャンキー。

 

 生みの苦しみ、身悶えするような熱さも喉元を通り過ぎてしばらくすると、活字でパブロ(=ピカソ)君の名前を見ないと次第に不安になってきます。

 そろそろ論文執筆を開始しなければ また締め切りに間に合わない ということもあり、重い腰をあげて、図書館に向かいます。今日は半日ほどこもって研究活動に没頭してました。

 

 

 で、どんなことを考え、調べていたのかといいますと、日本でピカソが無条件に賞賛されてきたのには、どういう歴史的要因があったのか、ということ。

 

 前から漠然と感じていたのですが、日本ではピカソに対する否定的な言説って決定的に少ないんですよね。

 祖国スペインでも、主な活動の舞台であったフランスでもピカソ否定論は「え?そんなことで非難すんの?」って驚かされるくらい、厳しい論調で展開されてきました。

 なのに、日本では驚くほど素直に「天才」として受け入れられる。

 これってどういうことなんだろう?

 

 

 あ、先に言っとくと、僕が問題にしてるのは第一次世界大戦くらいから1950年代までですから、そのつもりで読んでくださいね。

 もちろん日本でも、「おじいちゃん(=ピカソ)はこんなに人でなし」と非難するトンデモ本が翻訳されたり、ピカソの才能を疑問視するそのまんまなタイトルのエッセーが出版されたりしてます。

 だけど、出版されたのも最近だし、僕が見てる時代や文脈とはかなりズレてるので問題にならないんですよ。

 

 

 例えばですよ、1930‐40年代に日独伊三国同盟を結んでいた日本にとって、ドイツ空軍が行ったゲルニカ爆撃を批判した《ゲルニカ》はとうてい承認できない内容の絵画だったはず。

 1951年の《朝鮮の戦争》や1952年の《戦争と平和》には、朝鮮戦争でのアメリカ軍を非難するモティーフが描きこまれてます。

 この戦争の特需景気をきっかけに戦後復興の階段を駆け上った日本にとって、これらは傷口に塩を塗りこまれるような作品であったはず。

 つまり、間接的にではあっても、日本はピカソの政治的な姿勢と対立する国だったわけです。

 

 

 それなのに、ピカソを無条件に賞賛する状況は、第二次大戦以前にまで確実に遡ることができる・・・というのが、今日、図書館にこもったことによって得られた確信でした。

 

 

 まず1926年に出版された『ピカソ作品集』(日本美術鑑賞會)をチェックします。

 この本、複製された図版のデータが一切、掲載されておらず、作品の(当時の)所在など、ひとつひとつ調べていったら面白いことがわかるような気がするのですが、そこまでの気力はありません。

 後ろに数ページ掲載された解説でピカソがどう評価されているかだけを確認して次の本に移ります。

 

 

 次に手に取ったのはなぜか武者小路実篤でした。なんと、1937年にピカソのアトリエを訪問してるんです。

 

 僕がパリからロンドンへ行かうと思つた日、ともかく午前十時頃ピカソに電話をかけて見た。するとその日の午後二時に来てくれと言はれたので、ロンドン行きを一日のばしてピカソをたづねた。
(武者小路実篤、「マチス、ルオー、ドラン、ピカソ訪問記」、1937年3月、『武者小路実篤集』、筑摩書房、1955年、377ページ)

 

 その時、ピカソは又新しく、大きなエッチングを持って来た。見ると、僕が最近巴里で本か雑誌で見て感心した畫だつた。興奮して見てゐるとピカソは何か言つた。高田君は僕に知らせてくれた。

「この畫を差上げたいと言ふのだ」

(武者小路実篤、前掲書、377ページ)

 

 アトリエを訪問できるだけでも夢のようなのに、ちっ、羨ましすぎる。

 

 

 話を戻すと。

 この訪問記が出版されたのはピカソがスペイン共和国から壁画制作の依頼を受け、作品の構想を練っていた、ちょうどその頃。つまり、《ゲルニカ》制作の直前の出来事なわけです。

 

 なのに、この文章の中からは共和国を支持し、フランコを筆頭にドイツやイタリアのファシズムとも対立していくようになるピカソの姿はまったく見いだすことができません。

 作家や芸術家には政治的な要因は関係がないのだ、と芸術至上主義で反論したくなる人もいるのでしょうが、だったら、同じ文章のなかにわざわざこういう件を挿入することにも意味がなくなってしまいます。

 

 握手をした。ヒットラーと握手をした時とは雰囲気もまるでちがひ、感じもちがつた。ここでは僕はごくすなほな心で、無数の人類の寶をつくつたやはらかな太り氣味の老人の手を敬意を示して握つた。
(武者小路実篤、前掲書、379ページ)

 

 ヒットラーと握手をしたことが、ある意味自慢できることとして提示されているのです。

 

 

 

 

 

 それに、日本はこういう光景が日常として展開されてた時代ですよ。武者小路実篤だって、挙国一致のセンソウバンザイな価値観から自由であったはずないんです。

 

 ここから、「ピカソの政治的立場をまったく無視するってのが、日本のピカソ論の特徴だったのだ」、という仮説を立てることができるかもしれません。

 

 

 そうした仮説(直感?)を裏付けてくれるのが1940年代前半のスペインに特命全権公使として赴任した須磨彌吉郎です。

 もちろん、彼の著作も図書館から借り出してきました。

 それによると、スペインでは反ピカソ論がいわば公式見解となっていた当時、日本大使館のトップであった彼でさえピカソを全面的に肯定します。

 

 ピカソはフランコ將軍の政府には身を以て反對する。チェロの大家カザルスと同様である。今わたくしは、そんな政治上の關聯をもつことに觸れるのではないが、ピカソが存在するだけで、フランコ政権のプロテストが成立すると一米國人が云つてゐるがその通りである。
(須磨彌吉郎、『スペイン藝術精神史』、みすず書房、1949年、252ページ)

 

ソラナがよくわたくしに対して興奮しながら、ピカソもユトリヨもスペインを出て傅統を棄てたことを吃り乍ら喞つのであつた。わたくしが、ピカソだつて實はスペインの畫家なのだと立證すると、ソラナは、それでも、ピカソがスペインに居たら、もつと大きくなつたのだと頑張るのが常であつた。
(須磨彌吉郎、前掲書、265ページ)

 

 須磨さん、完全に熱烈な美術愛好家の物言いで、自分が政治家であることを忘れてます。

 ピカソが祖国の美術の伝統を破壊したとして痛烈に批判されていた当時のスペインで、同じような政治的立場をとる国の外交のトップが「ピカソはスペインの画家なのだ」と熱弁を振るっていいのか、疑問が沸いてくるわけです。

 

 ま、ピカソが1944年に共産党員となった事実を「彼はまったく政治的人間ではなかった」という言説をでっち上げて黙殺したアメリカ式説明に、日本の美術史家や美術評論家が単純に乗っかったのではないようですね。

 日本語のピカソ論では既に戦前、戦中から、彼の政治的立場は触れられることがなかったわけで。

 

 いやあ、こうして考えてみると、日本の美術批評でのピカソ論が、時代的にはどこまで遡ることができるのかなんて、調べてみたら面白いだろうなぁと考えつつ、研究はわき道に逸れていくのでした。

06/3/8