|
|
ここで取り上げるのはプラド美術館とソフィア王妃芸術センター、サン・フェルナンド美術アカデミーの常設展示。最初は「研究室」に書いてたんだけど、文章も写真も量が多くなりそうなので独立させることにした。
「ソフィアで見た夢」のタイトルに100%沿った内容でしょ? 僕の視点ってちょっと変わってるから、ガイドブックには載ってない見方を提示できる・・・はず。
プラド美術館 (1) (2) ソフィア王妃芸術センター (1) (2) (3) サン・フェルナンド
美術アカデミー(1) (2)
ソフィア王妃芸術センター(4)
これまでわざと扱わなかった作品について書いてみる。他のどんな作品よりも知識のある作品。原稿用紙300枚を超える修士論文を書いた作品。
《ゲルニカ》。
まず、これまでサイトでちゃんと扱ったことなかったから、基礎知識を整理してみよう。
1936年7月、フランコ将軍を筆頭とする軍部が共和国政府に対して反乱を起こす。この反乱は国際社会を巻き込む内戦に発展する。教会や地主勢力の支持を得た軍部はナチス・ドイツやファッショ・イタリアの援助を得、共和国側はソ連やメキシコの援助を受けるようになったのだ。イギリス、フランスといった民主主義国家はヨーロッパ全体に戦争の火の粉が飛び散るのを回避しようと、不干渉体制を敷き、知らんぷりを決め込む。そして、ファシズムの脅威を前になす術を知らない自国の政府に失望し、各国の一般市民が自発的に義勇兵としてスペインに赴き、共和国側で戦ったのが国際旅団だった。ヘミングウェイ、ジョージ・オーウェルなんかが有名だね。
1937年に予定されていたパリ万博。共和国政府にとっては自らの正当性を主張し、反ファシズムの気運を促し、不干渉体制を引っくり返す絶好のチャンスだった。
このときのスペイン・パビリオンの展示作品は全てこの目的に沿う内容だった。大雑把に要約すると「ファシズムの脅威にさらされてる文化の保護者、スペイン共和国を助けて!」っていうのがパビリオンのメッセージだった。
年末から1月にかけて、内戦以前からも国外で前衛芸術のプロモーションを行っていた共和国政府は、ピカソに壁画の制作を依頼する。ピカソは直ちに承諾し、版画作品《フランコの夢と嘘》を提供する。
ピカソは当初、画家とモデルという主題で壁画を描くことを構想していたのだが、なかなか筆は進まない。
そうこうしているうちに4月26日、バスク地方の聖地ゲルニカがドイツ空軍コンドル兵団によって爆撃される。フランコ軍が市街地を無差別爆撃するのはこれが初めてではなかったのだが、ゲルニカ爆撃は一般市民に対する無差別爆撃というだけではなく、バスク民主主義に対する侮辱として国際的な批判の対象となった。
ピカソはこの事件を主題にすることに決め、5月1日、最初のデッサンを制作する。牛と馬、建物から身を乗り出しランプをかざす女性という、完成作《ゲルニカ》にまで継続するモティーフが描かれた、この最初のデッサンを皮切りに総計 点の準備デッサンが描かれる。
月日、遂に壁画の制作にとりかかる。
描かなければならない画面は余りにも大きく、グラン・ゾーギュスタン通7番地の最上階のアトリエでは、キャンバスを斜めに配置しなければならなかったほどだった。
恋人だった写真家ドラ・マール
こんなもんか。《ゲルニカ》についてはどれだけでも書けるんだけどね。読んでて疲れるでしょ。
で、こっからが本題。二度目の留学を始めて約2年の月日が経ち、ふと思い立って自分の基盤となるものを確認しようと、今までは絶対にやらなかったことをやってきたんだ。
《ゲルニカ》を見るためにレイナ・ソフィアに行く。
「普通じゃん」って思った人、ハズレ。これってある意味、観光客がやるようなことで、俺が絶対にやらないことだったんだよね。
この作品に対しては完全に食傷気味で、逆にほとんど素通りするのが常だった。しかも今回のレイナ・ソフィア訪問では《ゲルニカ》以外には目もくれないという荒技。
こうして久しぶりに対峙した《ゲルニカ》。
作品を無心に眺めるのも悪くないと、頭の中から作品についての知識を追い出していく。俺の感受性に訴えかけてくるのは何なのか。
頭の中に浮かんできたのはアントニオ・サウラの散文詩だった。
ゲルニカを憎んでいる。絵画というより色彩を施されたデッサンだというのに、20世紀で最も有名な作品であるからだ。ゲルニカが嫌いだ。それは大型ポスターで、あらゆる大型ポスターと同様、そのイメージはコピーすることが可能で、いくらでも複製することができるからだ。ゲルニカを軽蔑する。弾丸や爆弾にもかかわらず、その喪のイメージ、闇家業のイメージは永続するかもしれないからだ。
サウラが1981年に書いた『反ゲルニカ』という小冊子では40ページにもわたってこういう散文詩が延々と続く。
03/4/22