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せっかくマドリーに住んでるんだしさ。この街を極めてやろうと思って、普通の観光客が見向きもしないマイナーなところを巡ってみる。
(1) 海軍博物館 応用芸術美術館 闘牛博物館 I.C.O. セラルボ美術館
(2) サン・ペドロ・マルティル通り5番地 スルバノ通り28番地 オペラ周辺 噴水の上の彫刻
(3) カフェ・デル・ヌンシオ カフェ・デ・オリエンテ カフェ・ラ・カネラ (4) カフェ・マドリー アンチ・カフェ セラーノ通の家 ピカソ美術館@マドリー 教会のワニ
サン・ヘロニモ通32番地
なんで、今までここの写真を撮らなかったのだろう?自分で不思議なくらいの場所。
プエルタ・デル・ソルからプラド美術館へ向かうサン・ヘロニモ通、クリスマスのお菓子トゥロンで有名なカサ・ミンゴの並びの32番地。
ここで内戦直前の1936年、ピカソ展が開かれたんだ。
今でこそ「ピカソ展」なんてものはそこかしこで開かれていて珍しくもなんともないものだけれど、その当時、スペイン国内ではピカソを天才だなんて祭り上げるような雰囲気は、一部の先進的な画家や批評家を除いて、まったく存在しなかった。それ以前のマドリーでは、ピカソ展なんてものは開かれたことさえなかったのである。
しかも、ここで開かれたピカソ展で展示されたのは、キュビスムやシュールレアリスムといった前衛的な作品ばかりで古典的な作品が完全に排除されていたという、当時のスペインではまったく新しいピカソ観を作り上げた展覧会だった。
作品数は25点、というのは従来の研究でもいわれていることだけれど、それ実際のところは何点だったのか、本当のところはわからない。少なくとも現在、特定できるのは7点に過ぎない・・・っていうのは僕がコンプルテンセ大学に提出したDEA論文に書いたことなんだけどね。
で、そんな前衛まっしぐらのピカソ展が保守を地でゆくマドリーで好評を得るはずもなく、新聞や雑誌では散々に酷評された。
「若き芸術の友がマドリードにもたらしたピカソ展には大きな欠点がある。というのも、ピカソ芸術の素晴らしい多様性が・・・どういえばいいのか・・・ほとんどなにも提示されていない。我々の見方からすれば、このために観客の混乱が生じるのである。」
国立近代美術館の館長を務めたフアン・デ・ラ・エンシーナは、そう失望の声をあげている。確かに、この展覧会が
「ピカソ評価の格差を乗り越えるための第一歩となりえたことは事実であるが、この展覧会が開催されて半年も経たないうちに内戦が勃発し、フランコ独裁体制が確立されたことによって、ピカソとスペインの溝は、少なくともその後15年間、修復不可能なものとなってしまう。」(拙稿「1930年代におけるピカソのイメージ」、『学習院大学人文科学論集』、12号、46ページ)
つまり、この展覧会は《ゲルニカ》が描かれる、その最後の前奏曲となったのである。
そっか、ここだったのか。何度も何度も通ったことのある場所に、そんな歴史があることは丸っきり見落としていた。灯台もと暗しとはこのことだ。
04/10/25