大脱走のソナタ  
 ノートパソコンに向かっていたみちるが、声を上げた。
 「日本ではこれからインフルエンザが流行だそうよ。
 暖冬の影響で、遅れていたんですって」
 みちるのその声は、ほとんど“歓声”で、はるかはあきれ声で返した。
 「で? これからインフルエンザが流行する中に、わざわざ飛び込むように帰ることはないと?」
 「そうよねえ、なにもわざわざねえ」
 我が意を得たりというみちるの声に、はるかはため息をついた。
 「で、また、滞在を伸ばすんだ」
 はるかとみちるが…というよりも、はるかがみちるに連れられてこのパリのホテルでの滞在を始めたのは、昨年末のことだった。日本ではノロウィルスの流行が報道をにぎわしている頃で、そんな危険なウィルスにはるかが晒されるのは耐えられない、と、みちるは海外への脱出を宣言したのだった。
 ほうっておいても症状は数日で回復するウィルスに、危険も何も…と、はるかは異論を唱えかけたのだったが、まだ本格的に冬が始まる前にすでに風邪で寝込んでみちるに迷惑をかけていたはるかの声は、みちるの前で弱かった。
 その後もみちるは、今度は誰が感染したようだとか、患者数上昇のピークは過ぎたといってもまだ新たな感染者はかなりいそうだとか、情報収集に励んでは、日本はまだ危険だとはるかに注進し続けた。

 そして年は替わり、1月ももうあと数日で終わろうとしている。

 「いや?」
 みちるははるかの表情を窺う。
 「いやじゃないけど」
 君と一緒なら、どこだって最高の居場所さ。
 …そんな言葉を、投げかけてもよかった。
 しかしはるかは、かわりに、なんともむきつけで、芸のない言葉をみちるに返していた。

 「日本に、帰りたく、ないの?」

 月のプリンセスの住む、東京、十番街。
 はるかとみちるが出会ってからの数年間の、一番苦しく、ぎりぎりの時期よりは落ち着いているものの、今も時折脅威が訪れ、戦いの中に引き戻される場所。
 世界中どこにいたって、何も起こらないというわけではない。しかし、日本は、東京は、あまりにも特別な場所だった。
 みちるは黙ってはるかから目を反らし、はるかの背後にかかっている時計をじっと見るようなふりをする。
 秒針が、時を刻む音が、背後からはるかに突き刺さる。
 そのとき。

 「お誕生日おめでとう、はるか」

 はるかは目を丸くした。
 「…え?」
 少し、考える。
 長い休暇で、日付の感覚がなくなりかけていたが、そういえば、今夜は、1月26日から1月27日になる夜だった。
 「自分の誕生日を忘れるなんて、はるからしいといえばはるからしいけど、そこまで驚くなんて、ちょっと…」
 みちるは眉をひそめる。
 はるかはあわてて弁明した。
 「いや、みちるが、あんまり強引に滞在をひきのばそうとするからさ。
 僕の誕生日に東京にいて、また何か起こるのを心配してるのかと…」
 「違うわよ」
 人をどこまで心配性にしたら気が済むのかしら?
 そう言ってみちるは立ち上がり、用意してあったらしい、ワインを取り出す。
 「休暇も残り少ないから、滞在を伸ばす分、たっぷり楽しもうと思っているけど。
 まずは今日の日を、最高のものにするわ」
 そう宣言して、おそらく最高のワインを掲げるみちるは、トロフィーを掲げる勝者のようで。
 はるかは突如、みちるを誇らしく思う気持ちでいっぱいになり、そんなみちるへの最高の祝福…満面の笑みをみせた。