暖冬寒波




「寒っ」
 マンションのエレベーターから地下駐車場に出るなり、はるかはぶるりと身をすくめた。
 その背中をみちるは、はるかにプレゼントされた暖かな手袋に包まれた手で、ぽん、ぽん、と叩く。
「週末に寒波がきたときより、だいぶましなはずよ」
「そのとき僕は、オーストラリアだったんだ、知らないよ、そんなの」
 車のロックを解除しながら、はるかは口をとがらせる。
 車の中もひんやりしていたが、外気と通じている駐車場から乗り込むと、閉ざされた空気は、ほっと暖かく感じられた。
 はるかの体温を、より近く、濃厚に感じられるからかもしれない。みちるはそう思いながら、シートに背中を預けた。

 二時間ほどドライブを楽しんで、車から降りる。
 少し、風が出ていて、質量を感じさせる波の音が耳を打つ。
「寒っ」
「また?」
 すらりとした長身を屈めるはるかを、みちるはにらみつける。
「さっきより、寒いような気がする」
「当たり前じゃない。いちばん冷え込むのは、夜明け前に決まってるわ」
「オーストラリアから帰ってきたら、急に寒くなってた」
「真夏の向こうから帰ってきたら、まあ、そう感じるでしょうね」
「そうじゃなくても、やけに寒いと思う」
「はるかの誕生日の頃は、いつもこんなものだと思うけど」
「僕が出発する前は、こんなに寒くなかった」
「そういえば、先週雪が降ったあたりまでは、暖冬だったわね」
 お正月の間に、16度ぐらいになった日もあったり。
「暖かかったのに慣れていたところに、急に寒波が来たから、よけい寒く感じるんじゃない?」
 大げさに身を縮めて『寒い』アピールをしていたはるかの動きが、止まった。
 はるかはすっと背筋を伸ばして、海岸への階段を降りていく。
 その表情が見えないことに、微かな不安をおぼえながら、みちるは後を追った。

 波打ち際と平行に、はるかは砂浜を、東の方へと歩いていく。
 波の音で、その足音は聞こえない。
 はるかが砂を踏んでいるのではなく、わずかに宙に浮いていたとしてもわからない状況に、みちるはほんの少し、眉をひそめる。
 岩場にさしかかると、平らな岩を選んで、はるかは腰を下ろした。
 はるかの隣に、みちるも座った。
 車を降りたときにはくろぐろと夜空だった空も、他愛もない言い争いと、砂浜の散歩の間に、どんどん青くなっていく。夜明けの海は、二人で、何度も見ている。海岸へと降りる場所に、夜空が変わり始めるちょうどそのころ車をつけることに、はるかは熟達していた。
 この深い青が空色、橙もしくは赤紫に変わり、太陽がその姿を現すまで、黙っているつもりだろうか。
 と、ようやくはっきりと見分けられるようになってきたはるかの横顔に、みちるが目をやったとき。
「暖冬に慣れていたから、いざ寒波が来たら、耐えがたく感じる、か」
 はるかが低くつぶやく。
「あまりにも長く、暖かい時間を過ごしてしまったかもしれないな」
 海へと降りる階段へと踏み出すとき、夜空の端が白みはじめる、そのタイミングを熟知するほど。
 ひときわ大きな波が二人の前でせり上がり、自らの重みで倒れて砕ける。
 タリスマンを探していたあの頃、『沈黙』の悪夢は、巨大な波のかたちをしていた。
「また、自分達の『持ち場』に帰ったとき、僕達は耐えられるのかな」
 月の光の届かない、太陽系の果て。
 ひとり、月の王国を、遠くから見守る日々。
 そうして過ごした、果てしない時間──
「そうかしら」
 みちるの声に、はるかが、はっと振り向く。
「私たちの今の時間は、使命を考えるとうしろめたくならなければならないほど、特別に『暖かい』時間? 私達がささやかな平穏を授かっている時間は、そんなに『長い』時間?」
 海の、東のほうをみつめて、みちるはきっぱりと断言する。
「それこそ、私たちがあまりにも冷たい星に慣れてしまっていたから、平穏を感じる時間があまりにもなかったから、そんな風に感じるだけ。暖冬にちょっと寒波が来たときにやたらと寒く感じるのと同じ、錯覚よ」
 はるかは、少し途方に暮れたように、みちるをぼうぜんとみつめる。
 そのとき、東の空に、輝く太陽の光がこぼれた。
 みちるの視線の動きでそれに気づいたはるかも、東へと顔を向ける。
 太陽の光を反射して、海面に、無数の光の粒がきらめく。
 夜明けの海の光に包まれて、はるかは、少し泣きそうな顔で微笑んだ。
「そうだな」
 寒さを思い出したのか、はるかが小さく身震いする。
 その身体を温めたくて、みちるは自分の身体をぴったりと寄せて、はるかの腕を抱え込んだ。