毒ガス兵器の過去と現在 |
| 毒ガス兵器の歴史 第一次大戦末期、日本は欧米やソ連に比べて飛行機、戦車や火力、機動力に劣ることから、生物兵器同様、安価に生産でき、現在は「貧者の核兵器」といわれる大量破壊兵器の一つ、化学兵器の開発を開始するのです。 政府は1918年に「臨時毒瓦斯調査委員会」を設し、ドイツ、フランス、アメリカなどへ技術者を派遣して研究を進めました。東京・淀橋区(現在新宿区)百人町の陸軍科学研究所が中心となって秘密裏に開発・研究を進め、1928年広島県忠海町の瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大久野島の東京第二陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所で毒ガス兵器の生産を開始します。そしてここで製造された毒ガスは、福岡県企救郡(当時)の陸軍造兵廠曽根製造所に送られ砲弾に充填されました。 一方、細菌兵器の実験部隊だった「満州」ハルビンの関東軍第731部隊と同じように、チチハルに関東軍化学部(通称516・526部隊)を設置します。千葉県習志野の陸軍習志野学校で将校・下士官を毒ガス戦の運用・教育訓練を行いました。 日本海軍は、1943年以降、神奈川県寒川町の海軍工廠で毒ガス兵器を製造しました。 日本が製造した毒ガスの種類は次のようなものです。 @陸軍の呼称できい剤と呼ばれたマスタード(イペリット)、ルイサイトのびらん性毒剤は、揮発性が低くいったん土壌、草木、家屋等に付着すると、強力な毒性を発揮しながら、ゆっくり蒸発していく。毒剤が皮膚に付着すると、2〜3時間後に強度の疼痛を覚え水疱が発生する。又強力な浸透力により呼吸器を通って体全体に大きな障害を引き起こします。 Aあか剤は毒剤はジフェニールシアンアルシン酸です。刺激性のくしゃみ剤でこれを吸入すると血液中の酸素吸入機能が麻痺してしまいます。Bみどり剤はクロロアセト・フェノンが毒剤:このガスは、肺組織をおかし、肺水腫状態となり死に至らされる。撒布されると緑色のガスとなり比重の重さにより窪地やホラ穴に音もなく流れ込みました。 Cあお剤は青酸(シアン化水素)が毒剤で、主に呼吸によって体内に吸収され、直ちに作用する。眼及び粘膜への刺激性の痛み、めまい、嘔吐、けいれん等の症状をもたらす。致死量を摂取すれば15分以内に死亡します。Dあお剤はホスゲンが毒剤。呼吸器系に障害を与え、咳、胸部圧迫、嘔吐、呼吸困難などをもたらします。 こうして毒ガスは中国で使われた 日本陸軍は、1937年頃から[きい剤]を含む毒ガス兵器を中国に持ち込み、主に「満州」(中国東北部)駐屯していた関東軍等に配備しました。 中国に持ち込まれた毒ガス兵器の数量については正確に把握することはできませんが、日本軍は毒ガス弾や発炎筒型兵器など推定600万〜750万発を製造、少なくとも185万発が中国に持ち込まれたと推定する研究が報告されています。 陸軍は1937年の日中戦争の開戦後、参謀総長から現地司令官宛の指示により、[みどり剤]、38年は[あか剤]、さらに39年には[きい剤]と順次その使用を認めていきました。 『日本は催涙ガスをふくむ毒ガスの使用が、1899年の毒ガスの投射禁止に関するハーグ宣言をはじめとする国際法違反であることを熟知していたはずです。ところが当時の中国は、化学戦についてはまったくの後進国であり、相手に使われるという危険が感じられない国でした。その中国にたいして、多数の化学戦専門部隊を、しかもはじめて編成して派遣したということは、対ソ戦の準備のために、実戦における毒ガス使用を実験してみようとする意図があったとしか考えられない。毒ガスは証拠が残りにくいし、相手に検知能力がなければ立証することもむずかしい。中国軍の化学戦能力を見くびり、毒ガス実験の対象としようとした、中国にたいする差別的な能度が、化学戦部隊の派遣の背景にあることは明らかである。中国との戦争には国際法視を適用しないという軍中央の方針が、安易に毒ガス部隊を編成派遣し、さらに一般部隊にも毒ガス装備をもたせたことの背景にあることは明らかである。』と歴史学者の藤原彰氏は述べています【日本軍の化学戦】. 実際に日中戦争において毒ガス兵器が使用されたかは正確には分かりませんが、中国側の研究によれば、日本軍は中国で2000回以上毒ガス兵器を使用し、9万5000人が死傷したと発表しています。その中から「三光作戦」として有名な北京の南200キロにある北担村の事件をご紹介します。 北担村の惨劇 地下道の800人を殺す 1942年6月25日中国の新聞「晋察冀日報」はつぎのように報道しました。 『日本侵略者は付近の各拠点から、3000人余りを出動させ、北担付近にむけて合撃した。.付近の十余の村落の人民は敵がすごい勢いでやってくるのをみて、次々と北担にきて地下道に身を潜めた、.ところが日本侵略者の悪党どもはこれら無辜の人民を虐殺しようとする狙いを泌めており、人類の歴史においてもっとも野蛮で、もっとも卑劣な手段を用いて、これら地下道に退避している人民に、この世のものとは思われないほどの悪辣な手口を用いた。彼らは北担村に進人すると、くりかえし捜査をして地下道の入口を捜しあて、大量の窒息性ガスをそこにつぎこんだ。日本侵略者のこの悪辣な手口のため、地下道に避難していた身に寸鉄ももたないわが800余の人民は、その大部分が杖を支えにする老人や老婆、婦女、児童、病弱者、嬰児であったが、ついに全員が毒ガスのために窒息して命を奪われてしまった。彼らの死体は地下道を埋めつくし、その惨状は目もあてられないものがあった。』 「細菌戦と毒気戦」(89年中央档案館刊行)の中に「北担村の毒ガス戦」を指揮したことを認めた当時の連隊長が供述した記録が収録されています。 『大隊は此の戦闘に於て赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し、機関銃の掃射と相俟って八路軍戦士のみならず、逃げ迷ふ住民をも射殺しました。又部落内を「掃蕩」し多数の住民が遁入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投人して窒息せしめ、或は苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました.、私は此の戟闘に於て、第一大隊をして八路軍戦士及住民を殺害すること約800人に上り、又多数の兵器や物資を掠奪させました。(中略)壕内に在る中国人民に対して瓦斯を投入し、両側入口を閉塞うることに依って此の一時性瓦斯も偉大なる殺人的窒息能力を有するものである事が分かりました。』 中国に遺棄した毒ガス兵器 1945年8月の敗戦に際し、日本軍は国際条約に違反した毒ガス使用の事実を隠すために、上官の命令で近くの河川や沼に投棄したり、また地中に埋めて日本に帰りました。敗戦時に放置した遺棄毒ガス兵器は推定70万〜200万発に上るといわれています。そのために戦後、少なくとも2〜3000人以上の中国の人達が農作業や下水道工事などの時、埋もれていた遺棄毒ガスによって被害に遭い、現在でもその後遺症に苦しんでいます。掘り出された毒ガス缶が何か解らないので調べているとき被害を受けたり、工事中壊れた毒ガス弾の毒液が水の中に漏れ出ていて知らずにその中に足を入れたり毒液をかぶったりして被害を受けました。戦争が終わっても平和に暮らしている人を傷つけ生活を破壊しているのです。 現在、毒ガスによる被害者17名が原告となり、日本政府に対して損害賠償を請求する裁判を起こしています。第二次訴訟は03年5月15日に原告敗訴の判決があり、第一次訴訟は03年9月29日に原告完全勝訴の判決がありました。 さらには中国だけではなく、日本においても、02年9月、神奈川県寒川町の国道工事現場からイペリットなどの入ったビール瓶10数本が発見され、作業員11人が被災する事件が起きました。また03年の3月には茨城県神栖町で住民の井戸水から環境基準の450倍の砒素が検出され、井戸水を飲用していた住民は手足のしびれや幼児は脳障害の健康被害がおきました。これは私たちの生活の身近なところに発生した問題です。そして何よりもこれらの毒ガス被害に遭われ、今なお後遺症に苦しむ方々の健康と生活の保障はどうなるのでしょうか。問題は山積で、今も戦争は終わっていません。日本政府が真剣な対策を立てない限り今後も被害が発生することが予測されます。「日本の毒ガス史」は未だ現在進行形なのです。 |