明治から平成を駈けた女 第1章
イクはもう一度ハガキを見つめた。
何の気持ちもこめられていない年賀状ではあったが、イクにとって、このハガキはまだ見た事のない素晴らしい世界への招待状として見えた。そのハガキの差出人の矢助などと言う人物など、どうでも良かった。そのハガキに記されている“神戸”という文字に酔いしれていた。
神戸と言う文字には、不思議な力があった。イクの頭の中にあるのは、洋風の建物や瀟洒な異人館が緑の中からそびえたち、街中には世界から集まってきた人々が行き交っている。ヨーロッパの流行も、港町の神戸にいち早く入ってきて、ハイセンスな神戸ッ子が、スマートな洋服を着て色とりどりに飾り立てている、そして、その人々の中にイクが得意げに歩いている…という夢を見せてくれる“神戸”という町の名前に思われた。
まだ行ったことのない神戸とは、どんな所だろう。“神戸”は、名前の通り、神の国への扉のある場所のように、イクの胸を高鳴らせていた。神を信じているわけではないが、神の国とは夢の国と同じイメージを感じさせていたのであった。他にイクの心を沸き立たせていることがあった。それが初めての夢の超特急“燕”の車中に居たからでもあった。昭和5年に国鉄の目玉として登場したこの列車は、日本中の憧れの的だった。人々は一度は乗ってみたいと願っていたが、貧乏人にはその願いを果たせないものであった。当時は、大不況の時代であって、旅行などと言う贅沢な事は、とても無理で、まして超特急などに乗る事は夢の中の夢であった。
しかし、昭和のはじめの頃として珍しい冷房装置のある食堂車やデラックスな展望車を最後尾につけての超特急“燕”は、神戸への夢にひた走るのに相応しいと、イクは思って、乗ったのであった。勿論、大奮発をして二等に乗り、この時代としては、贅沢な三十銭の駅弁を買っての乗車であった。朝9時に東京駅を出発した“燕”は、夕方の6時に着く神戸までの道程は、思っただけでも、めくるめく思いであった。
イクは、世間体や世の習慣に従って生きている人々と違って、本音で生きることをモットーにしていた。だから、自分の生き方は、他の女たちのように虚飾にとらわれていない事が自慢でもあった。と言っても、イクは決して都会の生まれではない。富山県の山間地域の純農村部落の出身であった。イクの父親の染二は、農家の三男坊として生まれ、県道に沿った街道に分家したが、専業農家にはならなかった。土木や建築の仕事に従事し、母親のツユは染二の後妻であったが、半農を営みながら、家の二階で織物業を営んでいた。また、希望する人達があれば、喜んで織機の指導をしていた。その作業場には、毎日、主婦が5人ほど毎日手伝っていた。イクは、このような家の3人姉妹の長女として生まれた。
織物と農業を営み、その上、建築関係の仕事を請け負っていた両親にとって、子どもの事など充分に心を費やすことなどできなかった。その意味で、イクはほとんど親との心の交流はなかった。この頃は、それが普通の家庭環境でもあった。子ども心にも、かわいがってくれる大人を良く心得ていて、時々その様な家に入り込んでは、おやつなどをせしめていた。特に、近くの煙草屋のおじさんには、子供が居なかったために、自分の子供のようにかわいがってもらっていた。
母親は、それでも親らしく、この煙草屋のおばさんに長女のイクの将来について話していた。
「あんな、人の言うこと、何も聞かん子なんか、大きなっても誰も嫁に貰ろてくれへんやろね。嫁に行けんかったら、どうしたらいいやろか。」と思案顔の母親に煙草屋のおばさんは、やさしく言った。
「ほんとがや。イクちゃんは、ちっちゃいうちの今から、こんなに気強かったら、どんながに、なるか分らんねえ。もっとひどなるかもしれんね。」
「なんで、あんながになったやろか、わからんわ。」
「そんながやったら、イクちゃんが一人でも生きていけっこと、考えとかんと駄目やねえ。」
「そんながやちゃ。私が産んだ子やったら、好きながに叩かれんがやけども…。イク叩いたら、ほかのさんに、どう言われるかと、思っと、どんながにしたら良いやろけ。分からんがや。イクのことで、いつも身が縮む思いするがやちゃ。」
「あんたも大変やね。わしの出来っことやったら、何でも手伝ったげっちゃ。何でも言ったはれや。」
「ほんとにね。小っちゃい時から、甘やかしとったから、こんながになったがやろけど。」
「あんた、そんなに考えられんな。前のさんも、イクちゃんみたいに、気強いっさんだったからね。仕方ないがいね。まだ前のさんは、綺麗なさんだったから、まだ良いがやけど、イクちゃんは、あんな器量やからねえ。」
「そんながやちゃ。そんながで、気になっとんがや。」
「そんなら、一人で生活できるように、手に職をつけたら、良いねかいね。看護婦さんとか…。」
「看護婦さんだったら、ようけ勉強せんといかんがいね。」
「そや、イクちゃん、勉強嫌いやったしね。」
「ま、どうするか、うち(主人)のさんに聞いてみるちゃ。どういうか。」
「そやそや、それまでに、まだ小さいから、今は縫いもんでも、習わしとったら、どいがけ。」
「よやね。それまででも、何かやっとかんと、心配やね。」
「今から習っといて、大きなったら中央の洋裁の学校にでも行かせて、先生の資格取って、一人立ちを考えといたら良いかも知れんね。」と言う煙草屋のおばさんの言葉に、母親も何となく納得していた。
この考えに母親は、それほど熱心ではなかったが、いつのまにか、おばさんの言うがままになっていた。そのため、小学校の二年生になると、和裁の先生の所へに行かされる事になった。
しかし、イクは先生のいう事など素直に聞くような子どもではなかった。先生から縫い上げるようにと、与えられた反物を放り出して、好きな本に没頭していた。もともと何故か蔵の中には多くの本があり、読む本には事欠かなかった。特に伝記ものに夢中になって読み耽っていた。時々、母親の「イク、仕立物は出来上がったか」との叱責で、急いで針を走らせたりして、いつのまにか、小学6年生には大人の袷物を1日で縫えるほどの実力をつけていた。しかし、このお稽古事に最後まで関心が持てず、何とか逃げる事ばかりを考えていた。
母親が勧める女の道は、イクが考えている道とは違っていた。イクは母親の押し付ける女の道はこんなものではないと固く信じていた。しかし、イクの母親はイクの性格を良く理解していて何とかこの土地に溶け込めるように心を砕いていた。母親は、この土地の根強い風俗や習慣を重んじている人であった。この土地で生きていくためにはどうしても女は素直で手に職を持ち、すべての人々に可愛がられないと生きるのはつらいことを懇々と諭した。しかし、イクはそんな土地の習慣はさておいても、小さいながら経済力が大事だと考えていた。学校の休みの日曜日など、二階の作業場で母親の手伝いをしているとき、近所のおばさん達の話に耳を傾けて世の中の情報をしっかりと取り入れていた。耳学問で金の力をいつのまにか理解していた。
そして、小学校を卒業した。
イクは家の手伝いをするでもなく、かといって裁縫に身を入れてやるでもなく、16歳を迎えた。勉強は嫌いだったが、本を読む事がとても好きな少女であったため、女学校へ行くことも考えた。が、母親はこれ以上嫁としての条件を悪くする事はないと大反対で、高等小学校で終えさせた。当時に限らず、昭和の中期の頃まで、田舎では女が学問をする事を良く思われていなかった。その上、イクのような性格のきつい女性は近所で評判になると、なかなか縁談が舞い込まなかった。まして、美人でもないとなると無理であった。長女なので、家を継がなければならない。昔から「米3升あれば婿養子に行くな」と言われるくらい、婿をとる事は難しかったのである。
しかし、イクは少しも気にせず、本を読んだり新聞を見たりする日々であった。
イクはもう一度書類を見た。
2月の雪は重く、イクの足を先へと進ませてくれなかった。
イクの家から最も近い駅までは歩くしか方法がなかった。また、その駅から試験場のある富山駅までは列車で30分かかる。富山駅に着いてから日赤支部までは急いで歩いても30分は必要だ。試験の時間に間に合うためには、どうしても朝一番の列車に乗らなくてはならなかった。朝一番列車の6時17分の始発に乗るため、イクは夜明け前の4時半に家を出た。暗い空にはまだ星が出ていた。イクの心は試験場に間に合うため、心はあせっていた。まだ一人も通らない早朝の雪道は、人の足跡どころか、犬の通った気配すらない。家から駅まで4キロの道のりである。部落は4つあり、部落と部落の間は1キロも離れていて、部落を繋ぐ道路の両側は田圃である。田圃と道路の間には、幅1メートルぐらいの用水が流れている。積雪のため、道路と用水の見分けがつかないし、下手をすると田圃の区別もつかない。イクはその用水に落ちないように用心しながら星明りと雪明りの道を急いだ。
この用水には苦い思い出が多い。道との区別は分からないので、吹雪などの中で歩いていると時々足を滑らせて、その用水に落ちてしまう。一旦足を滑らせて用水に落ちてしまうと、道路に這いあがるには非常に苦労し、時間もかかる。というのも、雪の中に落ちるので道路に上がるための手がかりのものを捉まる事ができない。ちょうど空を掴むようなものである。雪は冷たいし、落ちた所の用水の底には氷のような冷たい水が流れている。背の低いものならすっぽり埋まり下手をするとそのまま命も失う事もある。雪の中を手足をばたばたとして何とか這い出すしかないのである。
だから、今日この用水に落ちたとしたら、試験に間に合うかどうか分からない。イクは用水に落ちないように用心した。
駅の近くの町には、イクの父親の妹が住んでいた。イクにとっての叔母さんだが、その叔母さんの舅が優しい人であった。イクはその舅をオジジと読んで親しんでいた。そのオジジが、試験の間ぐらいはできるだけ身体を休ませなければダメだ、この家で宿泊して試験場へ直接行けば良いと親切に声をかけてくれた。しかし、受験に反対の母親の手前、他の家にまで迷惑をかけては母親が何と言うかと考えて、この誘いを断った。もう一つ、理由もあった。もし試験結果が悪かったら、どんなに間が悪いかと思って、誰にも甘えてはならないと心に言い聞かせた。思いやりの深かったオジジの暖かい言葉は、イクの心に子ども時代の思い出と共にいつまでも残った。
試験は3日間にわたって行われた。イクは遅刻もしないで、その3日間を家から2時間半かけて試験場に足を運んだ。自信はなかったが、父親の情報や本を読んだり新聞を読んだ事が幸いして、何とか試験問題をこなしていった。試験が終わったとき、さすがのイクもぐったりした。ここまで全力を尽くしたのだから、後はどうなろうとも良いという気持ちになっていた。試験の結果通知を毎日祈るような気持ちであったが、落ちたら落ちたとき、またその時に考えれば良いと思っていた。そっと母の様子を見ると、母親は無言であった。ねぎらいの言葉もない代わりに、嫌味も言わない。父親も又黙ってイクを見守っていた。
イクは合格通知を手にしていた。
イクの性格も当時としては、かなり頭脳的な底意地の悪さを持っていた。例えば、イクが小学校の低学年の時であった。
この頃の農村の楽しみといえば、主婦にとって井戸端会議(要するにオシャベリ)のほか、年に1度か2度ある芝居小屋で行われる旅芝居見物であった。この芝居が近づく頃になると、女たちはその出し物や役者の噂に花を咲かせるのである。この芝居を見に行く時、晴れ着を身につけ出かけるので、女たちは心を浮き立たせた。
イクの母親のツユも夫の染二に芝居に行く事の許可を貰っていたので、堂々と大手を振って出かける事ができた。特に楽しみにしていたのは、この芝居の為に、毎回着物を新調して出かけていく事であった。色の白い面長なツユは着物の着こなしも上手であった。ほっそりとしたツユは、紫が良く似合い、この時も、濃淡の紫の着物と帯を新調していた。思った以上の出費であったが、夫には適当にごまかして何とか草履まで揃えた。いつになくはしゃいでいたのも、久しぶりに会うであろう旅役者の若衆の一人に心を奪われていたからでもあった。アイドルに熱を上げて騒ぐ心は、年齢に関係なく女を綺麗にするものである。ツユは着物を着てキリリと帯を締めてみて、色白の自分が如何に紫が似合って美しく、また他の女達を引き離しているかを確認した。とても満足した。
(ああ、早くあの人たち、来んかねえ。あのっさんに、こんなに綺麗なワシを見せたいわ。ワシ、誰にも負けるはずはないがいね。スゴク自信あるわ。)とつぶやきながら、大きな姿見の鏡の中で、微笑んだ。沢山居る田舎者の中でひときわ目立つであろう自分の姿を想像して、とても満足していた。
後はその旅芝居の一行が到着するのを持つというだけになっていた。まさかこの楽しみを奪うものが居るなど、ツユは夢にも思わなかった。
心待ちにしていた旅芸人たちの一行がこの村にやってきたのは、田植えが終わってホッとしている梅雨に入って間もない頃であった。田圃の畦道を歩いていたツユの目に、旅芸座の名前を書いた幟を持った一座が遠くに見えた。その姿を見た時、ツユは年甲斐もなくその一座に向かって駆け足になっていた。あの若衆が相変わらず一座に居る事を確かめると、ホッとした。明日はあの凛々しい若衆の芝居が見れると思っただけでツユの心は弾んでいた。芝居は1日しかない。この日を逃したら、次にやってくるまで長い日を待たなければならない。急ぎの仕事を少しでも早く終えて、芝居のための準備をしなければならなかった。ツユは大急ぎで作業場に向かった。
作業場にはイクがいた。そこへ母親が近所のおばさん達と話しながら入ってきた。芝居へ行く事を非常に楽しみにしている様子だ。すっかり芝居の話に舞い上がっていた母親は、イクに気がつかなかった。その日のイクは、裁縫の出来が悪く和裁の先生にかなりひどく叱られて、物指で何度も叩かれていた。もともと素直な心を持っていなかったイクは、ちょっとした事でもすぐふくれっ面をして、先生に叩かれる事が多かった。特に、今日の和裁の先生は厳しかった。叩かれた手や身体も痛かったが、それ以上に先生の言葉がイクの心を傷つけていた。この気持ちを妹達で晴らしたものの、まだその気持ちが収まっていなかった。もっと誰かをいたぶらなければ心が晴れない。そんな気持ちでいる所へ、母親があまりにも嬉しそうな声で、芝居の話を大きな声で話しているのを聞いた。イクの心の中で、大きくはじけた物があった。
何事か考えた挙句、準備をした。その後、妹のキクの所へ行ってイクは、小さい声だけれども有無を言わせないような声で言った。
「これから、おっかちゃんのトコへ行って、あんねが泣きながら山の方へ行ったと言われ。わかった?おっかちゃんにいびられたアって、言いながら、大声で泣いとったと言うがんぜ、分かったァ。何回も言うがよ。大きな声で言うがやぜ。」
「うん、わかったちゃ。あんねが泣きながら山の方へ行った。と、もう一つ、おっかちゃんにいびられたあ。と言うがやね。」
「そんなが。それで良いっちゃ。でも、絶対そのほかの事は言ったらダメなが。分かった?アンネに言われ、と言われた事も、言ったらダメながんぜ。言ったらタダじゃ置かんからね。分かったね。」
イクはキクに念を押した。キクは小さいけれども、イクの怖さをイヤというほど知っていたので大きく頷いた。
「絶対言わんちゃ。」
イクは、キクのその様子を見て、安心して計画を決行する事にした。そして、その後の母親の行動を見ようと最も良く見学できる場所へと行った。
立山連峰が東にそびえたち、その山々から流れ出る水に田圃が潤わされて、村は豊かであった。東の立山、反対には小さいけれど太閤山があり、豊かな自然の中で穏やかに日が西に傾いていた。屋根裏からイクはその沈んでいく太陽を見ながら、下の光景を眺めていた。いつものお気に入りの屋根裏だった。ここに居ると、誰にもジャマされる事はない。まさかこんな所があるとは、家の誰も知らない場所である。女の子であっても、イクは小さいながら好奇心の塊であった。だから、いつのまにか秘密基地をいくつか発見していた。今日は、特に長い間、隠れていなければならないので兵糧として母親の仕事部屋にあった蒸かしたサツマイモの大きいのを3本せしめていた。これから始まるであろうドラマにワクワクしていたのであった。
夕日が太閤山に隠れはじめたが、まだ辺りは明るかった。人々の動きがはっきり見えた。イクは母親が自分の名前を呼びながら、山の方へ走っていったのを見た時、心の中でうまくいったと思った。しばらくして山から戻ってきた母親は、近所の人々に声をかけてイクの捜索をはじめた。煙草屋のおばさんがやおじさんの姿もあった。自分を捜して大騒ぎしているみんなの様子を上から見ているほど面白いものはないと感じていた。心には何の罪悪感もなかった。自分が居なくなったら、みんながこんなに心配してくれるという事に満足していた。当然の事だとも思っていた。
それから60年以上経ってからも、イクはこの時の事を思い出すと興奮を憶えたものである。そして、孫にどんなに面白かったか、そして又、本当に楽しかったかと話したものである。