東京での生活は、無理である事にイクは少しずつ自覚し、失望した。イクは、今後、どのような生き方をしたら良いか分からずに悩んでいた。当分、食べるだけの大金はあるが、このまま負け犬になるのはとても我慢が出来なかった。イクは常識の女ではなかった。そしてそれをイクは自負し、新しい女と気取っていた。普通の女でないから、変わった事、自分の好きな事、他人の言う事に耳を傾けない…と言うイク独特の形が出来上がっていた。そして、それをイクの生き方の支えでもあった。そして、こんな時代だからこそ、思い切って気侭に自分の好きな事をして、好きに生きていこうと考えた。しかし、若いというには、少し年齢が行き過ぎていたが、イクにとっては、決断した時は、若さや年齢等というものは関係なかった。親には、現在の下宿の住所は教えてある。しかし、心配して見に来る親でもなかった。父親は、商売でイクどころではなかったのであろう。又、母親は、イクの居なくなった事を理由に我が娘の婿取りの事で忙しいのだろう。イクは、それを寂しいとも思わない訳ではなかったが、これを幸いと考えて、自分の人生を1人で決断する事にした。
イクは、決して美人ではないが、これまでの日本の既成の女性と違って、きりりとした魅力はある。単なる美人とか可愛いと言う日本女性の典型とは違った、当時の言葉では表現の出来ない不思議な魅力はある。それが、知性とか自立心とか、他人に甘える事なく厳しい中でしっかりと自分を持って歩いてきた結果、身に付けた魅力なのかもしれない。
ただ、今は、イクはこれまでの自分の自信が揺らいでいる事に少々参っていた。
早々に宿を引き払って、女性専用、月12円50銭の家賃で2食付き下宿の4畳半に住む事にした。木造アパートで、便所や炊事場などが共有で、下宿や間借りと違ってドアでプライバシーが守られていることから学生や独身者に人気があったが、イクは、下宿が良いと考えて決めたので、ある意味、格安の家賃ではあったが外食の分高くついた。銭湯の入浴料金は、大人は5銭、髪を洗うと15銭の時代である。仕事がないので、銭湯代を少しでも節約をしなければならなかった。しかし、どんなに倹約しても、働かない限りいつかは生活できなくなる。
イクは、次第に現実を受け入れなければならない事にも気付いてきていた。今日は、仕事を探すのをやめようと考えた。何だか空の様子もおかしいし、もし途中で雨に降られたら、惨め過ぎると考えた。与謝野晶子の生き方を考えると、最後はやはり結婚に落ち着くのかもしれないと、降り出した雨を眺めながら漠然と考えていた。
この頃の日本は、何しろ緊縮財政と農業恐慌とが重なって未曽有の不況となり、ルンペンが多く出現した時代である。ルンペンとは、資本主義社会の最底辺の貧民層で、就業の意思はなく、定住の場所もなく、ごみあさりや物ごい、時には犯罪等でその日を暮らす。労働の意欲も能力もないので、単なる失業者とは異なる。働く人間としての誇りもなく、時には、権力志向の政治家は、報酬を与えて反動的運動に動員し、社会を騒乱させ、自分の思う方向に社会を動かす道具にしたという。その意味では、現在のホームレスとは、かなり違うのだろう。恐慌の深刻さは、雇用の減少と共に、実質賃金水準は下がり、労働争議が激増した。大卒の就職難深刻化は、当時の東大卒でも3割しか就職できなかった。失業者30万人等、暗い記事が多い時代であった。農村の危機も深刻であった。
こんな暗い時代に「東京行進曲」や「道頓堀行進曲」といった勇ましい行進曲が流行し、又、「君恋し」や「紅屋の娘」等の歌も人々の間で歌われていた。又、「大学は出たけれど…」の流行語や「酒は泪かため息か」の流行歌も人々の間で良く口にされた。イクが当時、好きであった流行歌に「祇園小唄」や「愛して頂戴」があり、時々、鼻歌で歌っていた。しかし、歳を取って、最後まで歌っていた歌は、朝鮮で憶えた「アリラン」であった。イクの1人息子が子供の頃、イクが「アリラン」を良く歌っているのを記憶していた。
ロンドン軍縮条約の締結によって国家主義運動を高めようと軍部や右翼が不気味に動きだしていた。イクのような度胸の据わった女性でも何となく不安になるような騒然とした東京の街の様子であり、新聞の記事が多かった。イクは、身嗜みにはきちんとしていた。今までの人生の経験で、きちんとした服装と化粧は、人間の心を横道にそらす事がない、という信念からである。又、他人もその様な人間を軽んずる事はない、とも思っていたからである。イクのお気に入りに百貨店があった。百貨店に行くと、イクは金持になれたような気持ちにさせてくれた。ハイカラ女性の真似をして、マニュキアも買って、ひとり悦に入ったり、ロング・スカートが流行すると、衝動買いし、引きずるスカートにてこずって、得意の針仕事で自分の足の長さに合わせ、これは外出着にならない事に気がついて、臍をかんだりした。
イクは、百貨店で12銭のカレーライスを食べ、銀ブラをして10銭のコーヒーを飲んで、一人で楽しんだりした。仕事がなかなか決まらないので、落ち込んでも仕方がないと考えていたからである。時には40銭の映画を見て、仕事に就けない寂寥を忘れるようにした。この時代の百貨店の食堂や小粋な銀座のレストラン等の食べ歩き風俗は、知識人や中産階級と「婦人」と呼ばれる女性達が中心であったが、イクの無収入生活は、いつまでも「婦人」階級に甘んじさせてはくれなかった。
半年位、無聊に月日は通り過ぎていった。しかし、収入のないイクの生活は、いくら大金を持っていたとしても、竹の子生活で、痩せ細りするだけである。もうこれまでに200円近くを使ってしまった。このままで行けば、あと1年は持たないだろう。イクの心は焦った。百貨店の食堂での外食をやめて、関東大震災後から登場した百貨店よりも安く食べられる東京市営の神田橋食堂や昌平橋食堂等の公衆食堂へ職探しの合間に出かけた。この公衆食堂は、当時、苦学生や労働者が良く利用していた。
一方、構造改革ならぬ産業合理化が合言葉だったこの時代は、就職地獄で多くの女性達が苦しんでいた。イクも、下宿のおばさんの進言を受け入れて、他の人達と同じように、飯田町にある公共職業安定所に行ってみた。多くの女性達が殺到していた。それを見たイクは、はっきり就職が無理である事を確信した。
「どんな仕事でも良いから仕事を下さい。」と懇願する中年の女性に、窓口の係官は、
「ダメダメ、そんな年寄りじゃ、無理と言うものだよ。今は、若い娘でもなかなか仕事はないのだから…。」と冷たく言い放ち、「はい、次の人…。」次の求職の女性に声をかけていた。無視された中年の女性は、係官に食い下がり、
「子供4人、明日の米もない状態だから、何でも良いので今すぐ働きたいので、お願いしますよ。」と涙ながらに訴えていた。しかし、
「皆、ここに居る人間がそうなのだから、あんたばかりじゃないよ。」とけんもほろろであった。この職業安定所には、若い女性が殆どで、中年の人は余りいなかった。イクは、女も歳を取ると、職に付けないという事をここでいやと言うほど思い知らされた。暫く呆然と見ていると、イクの隣の若い女性が連れの女性と話しているのが聞こえた。
「私は、今日で12日間、通っているのよ。でも、まだ仕事が見つからないわ。」と、侘しげに言っている。
「12日じゃ、駄目よ。私なんか、20日近くなるわ、今日で。それでも駄目といわれたわ。」
「やっぱりね。あの人は、さっき今日で20日以上通い続けて、今日、何とか紹介してもらえると言っていたわよ。あの人は、看護婦の資格を持っていると聞いたから、やはり看護婦さんなのかしらね。」
「そうでもないみたい。病院もこんな時代だから患者も少なくなったといって、看護婦さんを辞めさせていると、聞いたから、決まっても他の仕事かも知れないわね。」
「やはり、私達のように何の資格もない人間は、1ヶ月以上はかかるのかしら、就職するのに。」
「そうね、どんな職にでもありつければ良い方よ。」と、二人は大きな溜息をついた。
イクは、この会話を聞きながら、呆然と職業安定所を出た。暫く目的もなく街中を歩いた。
歩いていると、遠くからかすかにハーモニカの音色が聞こえてきた。その音色は、イクの未来の終わりを告げる声のようで、イクの心を濡らした。それは、暫く余韻を残しながらイクの身体に纏わりついていた。その後、神田川の崖をのろのろと這うように漂い、土手の斜面の疎らな木々を渡って、切なく哀しく消えていった。
将来の見込みのない生活不安と自己否定されたような精神喪失から、無意味な東京生活は、終わりを告げるべきだという思いが益々強くなっていった。何処へ行くという考えもないまま、暫く絶望の渕に沈んでいた。今更、金沢でもないし、かといって、千葉にも行けない。朝鮮は、もう、考えられない。私は、あの時のように若くなく、我武者羅に動くだけの勇気もなくなった。こんな不景気な世の中だもの、外地へ行ってもし職もなく放り出されたら、生きていけないという事位は、のんびり屋のイクも理解できた。だから、今後の事は十分考えて将来の事も真剣に検討しようと思った。手持ち無沙汰のイクは、持ってきた荷物をぼんやり整理し始めた。
イクの将来は、いまや風前の灯火であった。イクには、心を打ち明けて相談する人はいなかった。全くの1人である。何とかこの苦境を乗り越えなければならない。今までの友人や知り合いの手紙やハガキを取り出して、相談できる人や場所を調べていた。東京にいる就職相談できる知人には殆ど相談し終わっていた。一人一人の住所とその人の顔を思い出しながら、こうなったら多少遠くても会いに行こうと考えていた。ハガキや手紙は、古いものも新しいものもあった。
この手紙は、金沢の時の患者であった。あ、このハガキは、千葉の時の看護婦の年賀状である。これは朝鮮に居た時の亀川先生の手紙で、懐かしいなあ、等と思いながら、色々眺めていた。
多くの手紙やハガキの中に、イクの目に入った文字があった。
“神戸”である。“神戸”か、ちょっと遠いなあ、とハガキを見ていた。
イクは、“神戸”と言う文字を暫く見入っていた。何か、啓示のようなものが、イクの心に閃いた。そして、その閃きが形になるまでじっと眺めていた。
イクは、一晩中、まんじりとせず考えていた。翌朝、目が覚めても、考えていた。朝も昼も食事をする事も忘れて、考え込んでいた。そして、その日の夕方、イクは、決心した。
私には、この道しか選択する余地はない、と思い込み始めた。相手の気持ちはどうでも良い。私が、どう考え、どう思うか、と言う事が大事なのだと思った。そう考えた時、鬱々とした心に“神戸”という文字が、黄金の矢のように輝きだしてイクの胸に突き刺さり、次第に光を放ち出した。神はイクを見捨てず素晴らしいチャンスを与えてくれたんだとイクの心は躍った。すぐにハガキを速達で出した。それは、千葉の病院に居た時、患者の1人、高井矢助が、お世話になったお礼を兼ねての年賀状をイクを含めた医師や看護婦に10通余りを送ったものの1枚であった。この年賀状を送った矢助も受け取ったイクも、この時ハガキ1枚が一生を決める事になるとは、思っていなかっただろう。
イクは、10月1日に登場した東海道線の超特急“燕”に乗る事を決心した。