明治から平成を駈けた女 第15章
昭和5年の暮、神戸市内に感冒が大流行した。
日赤兵庫県支部看護婦外勤部からイクの手元に手紙が舞い込んだ。「流感のため赤十字会員の派遣が多忙である。そのため、日赤の看護婦経験者は、現在家庭にある人でも子供の居ない人は外勤部に協力をするように」という内容の手紙であった。イクの心は躍った。私には金沢で外勤の経験がある。それが今、生かせる。矢助の許可を取る必要がないと考えたが、形だけでも手紙を見せて有無を言わさず実行する事を矢助に宣言した。矢助はイクの行動について余り興味を示さなかった。そんな事にはお構いなしに、イクは喜び勇んで日赤兵庫県支部に向かった。
日赤兵庫県支部は神戸赤十字病院に隣接していて、神戸市中央区の元町より山手側、県庁や兵庫県警のすぐ近くに位置していた。赤十字病院というと、大阪や京都のような巨大な総合病院をイメージされやすいのだが、この頃はそんなに大きな規模ではなかった。内科と外科があるくらいのこじんまりした病院であった。
元町は、神戸開港とともに生まれ、明治の初期に居留していた多くの外国人の影響もあり、ハイカラで明るい街であった。しかし、今は不況の時代で生活に追われていたイクの目には、憧れていた神戸への夢は遥か彼方の夢のような現実味のない色あせた場所となっていた。かって感じた感動はすっかり消えて、何を見ても心が動かなかった。今でも流行っているカンカン帽を被っている男性の姿や、大正ロマンそのものの雰囲気が満ちている元町の建物等を見ても、不況の最中の街には生活苦のイクの目にはただ薄汚れた人や町にしか見えなかった。山手と海手側に東西に並んでいる商店街を通り過ぎながら、日赤の支部を目指して一心に歩くだけであった。
イクは、手紙を持って外勤部に到着しすると共に、待ったなしに、すぐ訪問看護婦として派遣先に行くようにと命令を受けた。訪問看護は、看護婦が家庭訪問して、病気や障害のために支援が必要とされる人の看護を行う仕事である。主治医の治療方針やケアプランに沿って、他のサービスと連携しながら看護を行い、家庭で安心して療養生活が続けられるのが良いとされていた。イクの派遣先は、須磨市にある阿部という屋敷である。患者は急性肺炎の3歳の幼児であった。
須磨は、江戸時代、幕府の直轄地であり、風光明媚な場所であった。松尾芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れ、句や歌を残している。明治初期には廃藩置県によって兵庫県の一部となり、大正9年には激しい賛否の論争の末、神戸市と合併した。明治30年頃から、須磨の風光明媚で温暖な土地を愛した華族や財界人によって、西須磨の地に別荘が建てられた。鉄道の開通、第1次世界大戦による好景気によって、さらに別荘建築に拍車がかかった。その中の高級別荘の1つが、イクの目的の家である。須磨海岸は、静かであちこちには小魚が干してあった。時折、子供たちが現れて、その干した魚をひとつかみ口に入れたり、もうひとつかみをポケットに入れてたりしながら、走り回っていた。海からの風は、寒かったが、イクの心を和ましていた。
イクが阿部氏の大邸宅の家に到着した時は、昼をかなり過ぎていた。大きな門を通って広い玄関先で案内を乞うた。まだ若い女中がイクの声に反応して奥から出てきた。
「今度、日赤から派遣された坂田イクと言う看護婦でございます。ご主人様か、奥様にお会いしたいのです。」イクは、門構えや玄関の豪華さや大きさに圧倒されながら、大きな声で話した。
「少々お待ちください。」イクの声に思わず微笑みながら若い女中は、奥に入った。
イクは、最初はじっと大人しく玄関で待っていた。大きな玄関には、イクが見たこともないような立派な壷が飾られてあった。好奇心の強いイクはその壷が気になっていた。イクの身長よりも大きいので、壷の上の方を眺めたり、近づいて壷の表面を触ってみたりしてみた。少々待てと言った女中は、なかなか戻ってこなかった。待ち焦がれたイクは、玄関の中をうろうろと歩きながら、又、物珍しそうにあたりをきょろきょろしながら、家の奥を覗いてみたりした。どうしたのだろう、あの女中はちゃんと主人に私が来た事を話したのだろうか、それとも忘れてしまったのだろうか、と心配していた。しかし、イクの心配は、間もなく解消された。
「お待ちしてましたよ。」と、爽やかな声の初老の婦人が、イクの後方から突然現れた。家の奥を覗き込んでいたイクは吃驚して後ろを向いた。上品な初老の女性が、さっきの女中に箒を手渡してから襷を外しながら静かに近づいてきた。
「は、はい。私が日赤兵庫県支部看護婦外勤部から派遣されました坂田イクと申します。」玄関の上がりがまちに膝を突いて覗き込んでいたイクは、乱れた着物の裾にも気が付かず慌てて直立の姿勢をとった。その様子を見て、若い女中は、又、顔を綻ばせていた。
「そうですか。では、坂田さん、どうぞ此方へご一緒に。」と、イクの居た玄関の横のひと回り小さな、しかし、普通の家の玄関よりも大きな入口へ向かった。大きな木に囲まれていて、その入口は、目立たない所にあった。
「坂田さん、今度からは、この玄関から出入りしてください。」初老の上品な女性はきっぱりと言った。
「はい、分かりました。」イクは大きな声で応えた。
「詳しい事は、このハナが教えてくれます。後ほどゆっくりとお話しましょう。ハナ、坂田看護婦を私の部屋へ案内してくださいね。」ゆっくりと言いながら、奥の方へと消えていった。
「今の方が、奥様ですか。」イクは、その女主人に深々と頭を下げて見送りながら、ハナといわれた女中に向かってにっこりと笑みを浮かべながら聞いた。
「はい、あのお方が大奥様です。大奥様がお家の事を取り仕切っていらっしゃいます。」ハナと言われた女中は、今度は緊張した様子で応えた。それからイクに外から家に入る時はあの大きな玄関から入らないように、あの玄関は、重要な人しか入ってはならないのだと言うことを教えた。また、イクの履物の入れる所を指摘すると、大奥様の部屋まで連れて行った。広い廊下に幾つ部屋があるか分からないほど暫く歩いて大奥様の部屋に到着した。途中、イクは余りの広さと物珍しさのためにきょろきょろしながら歩いていたため、ハナから遅れるので、気の良いハナもうんざりの顔であった。一際大きな部屋の前に来た時、ハナは緊張した面持ちでイクをゆっくり観察しながら、髪を撫でて直すように、とか、もっと帯を上のほうに引っ張り上げるように仕草で教えた。イクは、すぐに理解できなかったが、ハナの優しい忠告と分かって髪を撫で、衣服を整えてハナの後に従った。
「只今、坂田看護婦をお連れしました。」ハナの澄んだ若々しい声が廊下に響いた。
「お入り・・・」大奥様のゆったりとした抑揚のない声が応えた。
「入ります。」と声を掛けたハナは、静かに戸を開けた。
「・・・・・・」イクは、何と言って入ったらよいのか分からなかったので、黙ったままハナの後から部屋の中に入った。部屋の中には、多くの調度品があり、どれも高価そうであった。イクが見たこともないようなものが多く、又、きょろきょろしそうで我慢しながら大奥様の方をじっと見つめていた。大奥様は、ハナを下がるように言って、イクと向かい合った。
「これが日赤兵庫県支部看護婦外勤部からの書類です。」イクは何枚かの書類の入った大きな紙袋を大奥様に直接手渡しながら言った。大奥様は、書類を読んでいる時、イクの目は、部屋の珍しい調度品に注がれていた。あれは何に使うのだろう、面白い物があるなあ、随分高価なもののように見える、これもとても綺麗だと目があちこちに散歩していた。
「坂田看護婦は、日赤の本社出身ではないのですね。」と、念を押すように大奥様は言った。
「はい、その通りです。」イクは、少しむくれながら言った。もっと、何か言いたかったけれども、それ以上の事は言わなかった。
「日赤で聞いていらっしたように、我が家の大事な跡取の正臣が、今3歳ですが、急性肺炎で寝込んでいます。主治医は、有名な小児科専門医の吉成博士でいらっしゃいます。吉成先生は、毎日午前9時には往診にいらっしゃいますので、その指示を受けて正臣の看護をお願いします。」大奥様の話は、それからも色々続いた。吉成医師は、神戸の中山手3丁目に開業している素晴らしい先生である事。いつも高級車で往診してもらっている事。大奥様の旦那様の阿部氏は日本郵船会社の常務をしている事。その上、工学博士である事等であった。その中でもイクの心に強い印象を残した大奥様の言葉があった。それは食事についての質問であった。
「副食品で嗜好物はありますか。又、食べ物で好き嫌いはありますか。」と聞かれたことであった。
「私には食べ物で好き嫌いは、全くありません。」とイクはきっぱり応えたのである。
「今までの使用人には、色々好き嫌いを言う人が多く、白身の刺身でなくてはなりません。とか、味は濃いとか薄いとか、等と言う人が多かったのですよ。あなたのように、何でも良いと言う人は、珍しいですね。」と感心された。イクは、共同生活における個人の嗜好も大事な事であると言うのを教えられた気がした。
長い話が終わった。ハナはイクにあてがわれた部屋を案内した。その部屋へ行く途中、イクはハナから家族は、老夫婦と若夫婦、それに3歳の正臣と言う坊ちゃんの5人家族である事を聞かされた。その他の使用人は、女中がそれぞれの家族に1人ずつ付き添っている事。又、奥と台所、運転手にそれぞれ1人、合計8人の使用人が居ると言う。ご主人の阿部氏は朝5時には起床して、広い庭の掃除をするのが日課でもあるという。なぜこんなにも多くの使用人が居るのにお金持のご主人が庭の掃除をするのか、イクは分からなかった。訝しげな顔をしているイクの様子を見て、ハナは、健康のためだと言った。そう言われてもイクは、すぐに合点出来なかった。しかし、ハナは、そんな主人を自慢げにどんな日もこの日課を欠かした事はないのだと話した。
イクは、よく考えてみると、自分の健康管理のため、毎朝早く起きて頑張るというまだ会っていない主人に何となく好感を持った。翌朝早朝、イクは広い庭を掃き清めているご主人の阿部氏の姿を見ることになったのである。
「ここが貴女の部屋ですよ。」ハナの言葉にイクはおずおずと暗い部屋に入った。そこは小さいけれども清潔に掃除が行き届いた部屋であった。窓のカーテンと観音開きのガラス戸と板戸を開けると、広い庭が見えた。
「うわあ、素敵な部屋ですねぇ。」イクは、思わず歓声を上げた。部屋の中にはベッドと小さな箪笥があるだけで、他に家具らしいものがなかったが、とても気に入った。無邪気に喜ぶイクの姿を見て、ハナは微笑んでいた。
「荷物を置いたら、次はお坊ちゃまのお部屋に参ります。この時間は、若奥様が、お坊ちゃまのご看護をなすっていらっしゃいます。」ハナの言葉にイクは自分の仕事を思い出した。あ、私はお坊ちゃまの看護に来たんだった。イクの心は、すぐ仕事への準備に取り掛かった。白衣を着て、帽子を被り、きりりと厳しい顔でハナに向かった。
「さあ、参ります。お坊ちゃまの所へ案内してください。」イクの向かう先は、病室という戦場であった。ハナは、それまでのイクの様子と違う有様に気持ちを引き締めながら、真剣な様子で大きく頷いた。
又、長い廊下を通り、階段を登った。2階の奥まった部屋がお坊ちゃまの部屋であった。ハナが部屋の扉を静かにノックした。その音が小さかったので、イクは中の人に聞こえるかどうか心配するほどであった。しかし、扉はすぐに開かれた。正臣お坊ちゃまの部屋は、南向きの明るい大きな部屋であった。ドアを開けたのは、中年の女中であった。いつもドアの側に居るらしくノックと共に扉が開いた。子供用としては豪華で大きなベッドが部屋の真ん中にあり、そのベッドの横にお坊ちゃまの母親と思われる若い婦人がいた。正臣お坊ちゃまは、3歳児との事であったが、ベッドが大きすぎるためか、ベッドに居るようには見えなかった。イク達が入ってきても、その婦人はじっとベッドに目を向けたままであった。ドアを開けた中年の女中がふかふかの絨毯を滑るようにそっと歩いて、婦人の側に行くと、小声でイクの来訪を告げた。それを聞いても、婦人はイクの方をすぐには見ることなく、暫くベッドを覗き込んでいた。考え事をしているようでもあり、又、放心しているかのようでもあった。数分経って、ゆっくりとイクの方を見た。その顔は、青ざめていた。きちんと化粧をしていた為か、映画の中の女優のように美しかった。イクは、黙って頭を下げた。それを見た女優のような人も、又、小声で何か言ったようだった。そして、小指を立てながら額に手を当てると、暫く考えていた。その仕草は、何か映画で見たようだとイクの記憶がゆっくりと動き出した。しかし、何の映画だったか思い出す前に、中年の女中がイク達を隣の部屋へ連れて行った。
隣の部屋も広く心地良い部屋であった。暖炉は赤々と石炭が焚かれて春の陽気のような部屋であった。こんな所で働いている女中達をイクは羨ましかった。外は冬のためいくら太陽が出ていても暖かさはない。窓から見える外の庭の木々も寒そうだ。部屋にある調度品も素晴らしいものが揃えてあった。ゆったりとした長椅子、大きくどっしりとした机、ぎっしりと詰まった書物棚、床はふかふかの絨毯、天井には豪華なシャンデリア、どれもイクは初めて目にするものが多く好奇心の目できょろきょろ眺め渡していた。昼からシャンデリアに電気がつけられて光り輝いていた。これだけでもイクの心は圧倒されていた。その上、書物棚の本には、金文字で横文字の英語のスペルが書いてあり、本が好きなイクの心を惹きつけた。先ほどの中年の女中が側に居なかったら、イクは書物棚の本や調度品を手に触って確かめていただろう。しかし、イクのそんな気持ちを知っているかのように中年の女中は、難しい顔をしながら硬い表情でイクの側から離れずに、じっと視線を水平に空中の1点に固定していた。イクも真似をしながら身体は固定して、目だけはあちこちに浮遊させていた。見ているだけでも楽しく、待つ時間は苦にならなかった。若奥様はなかなか現れなかった。
どんな暇な奥様でも雇い人を待たせるのが、金持のステータスと思っているのだろう。イクが若奥様に直接会って話かけて貰うのに時間が必要だった。先ほど病室で見た若奥様は、雰囲気を変えて登場したのは、随分経っていた。最初、イクは若奥様と分からなかったのは、衣装を替えてきたからである。一瞬、別人だと思った。若奥様は華やいだ若い女性になっていた。
「若奥様がいらっしゃいました。頭を下げてください。」中年の女中の言葉に、その美しい華やかさに見惚れていたイクは反射的に頭を下げた。ゆったりと足音も立てず部屋に入ってきた若奥様は、優雅に大きな背凭れ椅子に座った。この椅子もこの部屋の中で最も豪華な彫刻や装飾が施されていた。又、若奥様は素晴らしい椅子と不思議な調和と雰囲気を醸し出していた。まるで一幅の絵画のようであった。
「正臣の事、よろしく。」暫く若奥様は、絵画の中に浸った後、小さな声でイクに声を掛けると「松、詳しい事を教えてやってください。」と中年の女中に命じただけで姿を消した。これだけのために衣装を替え、イクを待たせたのだった。
イクはこの女中が松と言う名前であることを知って、松の方を見た。松は若奥様が消えた扉の方を頭を下げたままで、暫く微動だにしなかった。
「若奥様は、もう部屋にはいらっしゃいませんよ。」とイクはその姿が可笑しかったので笑いを堪えながら松に言った。松は、きっとした目をしながら、イクを睨みつけながら厳しい声で言った。
「ご主人様のご家族の方のどなたにも、お部屋から出られても暫くは頭を下げて置くように。」イクは暫く唖然としたが、特に何も言わなかった。何か言ってもこの松と言う女中は受け入れるはずもないことはイクにも分かったからである。その後、松の容赦のない厳しい注文が次から次へとイクに押し付けられた。その中でも特にイクの気持ちに引っかかったのが、看護婦と言う職業は、女中に準じているらしいという話であった。それを松は遠まわしに言い、勝手な振る舞いをしないように、すべて大奥様の意向を聞いてから、と言うことを繰り返し述べていた。イクは、松の話を聞きながら、この阿部邸での仕事は前途多難である事に少しずつ感じた。しかし、今は、どうしても仕事が欲しかった。生活が緊迫していたからである。
翌日、イクは日赤外勤部からの電報を受け取った。
何事かとイクは驚いて日赤外勤部に出かけた。引き続き須磨の派遣を依頼されたのである。外勤部にイクを家庭看護婦として勤務してもらいたいとの話が阿部邸からあったという。イクは、はっきり理由を言って断ったが、今度は別の問題だと言う。多くの心付けを大奥様から戴いたイクは、無下に断れなかった。