明治から平成を駈けた女 第17章
2時間後、イクは負傷兵の塩井上等兵を迎えに行った。 塩井上等兵は、その家の門の中ではあったが、玄関先に居た。塩井は元気がなく無言で、只、イクに黙って頭を下げた。イクの介添えを受けながら塩井が車に乗っても、その家からは、誰も出てこなかった。イクは、家の人に挨拶をしようとしたが、塩井は、厳しい目で断った。塩井はひどく落ち込んでいた。詳しい事は分からなかったが、その落胆振りを見るのは忍びなかった。
昭和6年、夏もたけなわの太陽が空高くで輝いている日であった。
磊落な倉石軍医が、珍しく静かだった。イクは、珍しいものだと思い、冷たい麦茶を軍医の机の前にそっと置いた。
「ああ、有難う」少し投げやりな様子なので、イクは思わず「どうなさったんですか。」と声をかけた。
「僕は、医者の仕事は、病気を治すことだと考えていた。しかし、そうではないのかもしれないね。」倉石軍医は、イクに向かって言った。「確かに医者の仕事は、病気を治すだけが仕事と考えている人間が多い。かく言う自分も、そんな医者が理想で、自分もそうありたいと考えていた。しかし、全部の患者を治す事は不可能だ。もし、そんな医者がいたら、その医者は神になるのだろうね。」
「倉石先生は、素晴らしいお医者様です。私は尊敬しております。」イクは、何とかいつもの陽気な軍医になって欲しくて言った。「どんな重症の患者でも、先生の手にかかると良くなっているではありませんか。」
「しかし、多くの患者を切ったり貼ったりして、自分はいつも死と直面しているから、死ぬ事を否定してきた。患者の死は私にとって敗北を意味していた。ところが、最近、死について否定するばかりではない。もっと死について考えてみる事も必要と思うようになったんだ。死って何だろう。死んだら終わりなのかなってね。多くの死を見つめてきて、最近、気が付いた事があるんだ。それは、医者の仕事は、病気を治すことだけではなく、死について患者と一緒に考え、死は必ず来ると言う自然の条理を納得させる、すなわち、死を静かに受け入れさせる事も大切な医者の仕事なのかもしれないと思うようになったんだよ。」
「でも、穏やかな心で死を迎える人は本当にいるのでしょうか。」イクは聞いた。「もし、私が間もなく死ぬと言われたり、決して治らない病気だと言われたりしたら、きっと気が狂ってしまうかもしれません。」
「いや、死ぬ方が幸せな人間も居るのかも知れないよ。」倉石軍医の声は暗かった。
青い空が窓から見えた。イクはその空の青さに心ひかれた。イクは、どのように言葉を出して良いか分からなかったので、黙って目を空に向けていた。
「野戦病院では、傷病兵を3日間で治療を済ませ、戦場に戻れるようにする。しかし、症状の重い傷病兵は内地に送られてくる。この病院でもそのような患者を受け入れ、治療している。ここに送られてきた時には、全員治療できる状態にあるわけではない。すなわち、治る可能性のある兵隊は少ない。治療を受けた兵隊のほとんどは、最終的には何かしらの後遺症を持ち、生きていくためには、多くの困難がある。塩井上等兵のように支えてくれる人間がいなければ、生きることも困難な人間がいかに多いことか。」苦しげな倉石軍医の言葉であった。「こんな状況では、本当に治療の意味があるのかと、時々、不安になるんだ。」
「……」イクは言葉は出なかった。倉石軍医は、心の中をすっきりさせたいかのように珍しく饒舌だった。
「私の考えとして、医者は病気を見るもので、人間を見てはいけないと思っていた。医者は、患者を助ける事、治療する事が仕事だと考え、すべて医療に関する事は医者が中心に考え、医者は患者に命令し、医者の言う事を患者が素直に聞く事が大切だとと思っていた。しかし、患者自身が治ろうとする事が重要で、医者は単に患者の協力者に過ぎない事に気がついたんだ。この患者は、もう助からない、死ぬのだという事実が分かった時、その真実を告げる事によって患者の何が変わるのだろうか。どんな意味があるのだろうか、分からない。」
「自分は、患者の家族に貴方の父親は、何日ぐらいしか生きておれない。とか、息子は決して元には戻れないという事を何も考えずに宣告してきた。真実を告げる事が重要だと思っていた。真実を告げる事によって起こる状況や相手の気持ちなど考えた事もなかった。」
「自分は、彼ら患者の家族には、なるべく関わりたくない。生きるか死ぬかは、自分には関係ない事だ。のめり込んだら、何も見えなくなる。自分は他人だ。患者の人生の通りすがりの一瞬の関係者に過ぎない。だから、患者とは決して心を接してはならないと思っていた。絶えず距離を置く事が大切だと考えていた。自分は、患者にもなれなければ、看護婦にもなれない。医者は医者に過ぎない。現実を知って、事実をしっかりと持っている積りであった。ある意味、利己的に徹する事が大切だと考えていた。親子ですら、利己的な関係にあるのに、どうして他人同士がお互いを思いやる事ができると言えるのかと、いつもクールに考えていた。」
イクは、心を開いて相手を信じる事は、人間の世界ではできないのを十分知っていた。いや、知っている積りであった。倉石軍医の悩みは、分からなかったが、彼の考えは、医者の本質を解明しているのだろうとイクは思った。とはいっても、イクには、深く思考する事が時にはその人を不幸に陥れるのではないかと思えた。ある程度分からない事が、人生には必要なのかもしれない。真剣に物事を考える倉石軍医は、医者という職業についたための因果な思いなのかもしれない。医学と言う世界で命を扱うという仕事は、一見、宗教や道徳とは全く関係ないようであっても、時には宗教に心惹かれていく事もあるのかもしれない。
人間はいつか死んでいく。死ぬ時の様子や死に方を人間は最後に気にする。どのような死に方をすれば、自分らしいのだろうかとか、無様な死に方は嫌だとか、考える。イクは人生最後の死に方よりも、どのような生き方をしたのかを重要だ考えていた。多くの体の傷ついた若い兵士達を看てきたイクは、苦しみぬいて、うめき、わめき、生へ執着する姿を決して醜いとは思えず、何とか少しでも楽になって欲しいと思っていた。頑張れと父親や母親が息子に叫ぶ言葉もイクは何度も聞いた。頑張れと言う言葉を多く人々は使う。頑張れば何とかなると言う妄想に縛られながら、イクも患者に使ってきた。
「私を信用してください。」と訴えている患者の恋人を、体が不自由になった患者の兵士が信用していない事をイクは感じた事も多くあった。しかし、イクは人間を冷静には見つめるが、生身だからこそ、時に裏切られても相手を信じたい気持ちが必要なのだろうと倉石軍医の話から何となく考えるようになった。
病院に来ている患者の妻や恋人を見ていると、夫や親、他人に遠慮して、小さくなって生きている女性の姿は、イクの心をいらつかせた。どうしてもっと堂々と自分の思いを吐露しないのか、自己主張をしないのかと腹が立っていた。遠慮深い、謙遜の心は、日本女性の美徳と言っても、人の生き死ににはもっと感情を出して良いのではないか、とイクは思っていた。だから、塩井上等兵の恋人のような女性が多く現れると、きっとこの病院の患者もどれほど救われるか、と思っていた。