明治から平成を駈けた女 第20章
イクは国を守る従軍看護婦として働きたかった。
イクの家からほんの少し外れた所に、大きな工場があった。その工場の周りを囲むように水田が広がっている。今はすっかり田植えも終わり、水が張られ、湖のように遥か彼方の方まで広がっている。夕方になると、イクは子供2人を連れて散歩に出る。水田の近くに来ると、蛙の声が、時には煩いと思うと、突然、静かになったりする。その蛙の声をじっと聞いているうちに、イクの心は、飛翔するのであった。12月、イクは応召された。
イクにとって嬉しい知らせが、届いた。
イクの仕事は、外科診断室勤務と恩給診断事務が主であった。このような事務的な仕事についてイクは、嫌がるでもなくキチンと仕事をこなしていた。患者は、招集された人たちであった。職場や家庭を余儀なく離れてきているので、心は、ここになかった。彼らは、イクが家庭と子供2人を残してきていると言うことを聞いてか、妻の事や子供の事を良く語った。
彼らの話を聞きながら生きる原動力って何だろうとイクは考えた。彼らは、職場や家業を放り出してきて、ここで話すことは、仕事よりも妻や子供の事である。仕事は、話の中には出てこない。ほとんど妻や子供という家庭の話であった。早く退院して、家庭に戻りたいという思いが強く、多くの患者が言った。人間、生きるために最も重要な位置にあるものは、家族であり、仕事はその次なのだろうか。しかし、イクは違っていた。生きる原動力は、イクにとって夢であり、それは仕事であった。
「この間、久しぶりに休暇を貰って家に帰った所、子供に泣かれてね。」ある患者が言った。「よほど嬉しかったんでしょう。久しぶりにお父さんに会えて。」イクは、微笑みながら言った。
「いやいや、そうじゃないんですよ、それが。白い患者服のまま帰ったでしょう。そしたら、今度、家に来る時は、その白い服を着て帰ったら嫌やだよって、泣いて見送ってくれたんですよ。早く退院したいもんですね。」と、涙を浮かべての話であった。そして、苦しげに訴えた。「やはり、早く帰らなければ……。家庭の経済が案じられるのです。」
このような切実な人々の願いのほか、ちゃっかり自分の将来を見据えて恩給診断書の記入をして貰う時、疾病の度合いを重くして欲しいと願い出る人もいた。これをずるいと思う人もいるだろう。しかし、こうしなければ生きていく事も難しい時代であった。人間は一生懸命生きていかなければならないのである。
人間は淋しい生き物だとイクは思った。貧しさが人間の品性を卑しくする。イクはそんなずるい人間になりたくなかった。しかし、そうとでもしなければ、家族が食べていく事ができない人もいる。この疾病軍人も、怪我や病気によって普通の人のように働けない。ならば、少しでも、病気を重く書いてもらって少しでも多く恩給を貰う事ができればと考える事は罪なのだろうか。イクは、そんな人を見ながら、人間を切ないと感じた。
人は寂しい旅人である。だから、誇り高く生きていきたいとイクは考えた。しかし、いつまでも元気で働く事は出来ない。いつか年を取り、病に冒され、人の手を煩わせながらも生きていかなければならない。死ぬ事ができない限り、家族の重荷になって、意地汚く生きなければならない。死にたいと願おうが、死にたくないと思おうが、死がその人に訪れるまで、生きなければならない。今まで人の死を幾度となく見てきたイクは、死について考えるようになった。そして、イクは心の片隅に寂しさの塊を持ちはじめた。
子供が、病気になった。
母親に預けた太郎が、1ヶ月余りで病気になった。子供を預ける時、「2人の子供をよろしく頼む。」と母親に言ったのに、1ヶ月で早くも病気にさせるなんてひどい、と思った。そして、子供の面倒をキチンとしないで、放っておいたのではないかと恨んだ。
富山の特有の急激な寒さは、神戸と違ってよほど太郎の身体にこたえたのだろう。優良児として表彰されたのにもかかわらず、急性感冒からカタル性肺炎を併発して、3ヶ月の病床生活を送る事になった。子供がかわいそうと言うより、母親の子供への健康管理の不行き届きに憤りを感じた。
イクは母親からの知らせを受けて、日曜日の休みになるや否や実家に駆けつけた。
「先生、太郎の病症をお聞かせください。」イクは主治医が車に乗る時、不安げに質問した。主治医が余りにも難しい顔をしていたからであった。「子供の病気はどうなんでしょうか。治るのでしょうか。」
「ただ体力があるかどうかにかかっています。」これだけの返事だけで、イクが取りすがる余地も与えなかった。富山独特の重くて暗い大きな牡丹雪が、しんしんと空から地面に向かって襲っていた。雪の重みに耐え兼ねて、イクの心は打ちひしがれていた。
「先生、何とか治して下さい。」深々と頭を下げて、イクは最後のお願いをした。主治医は、振り返る事もせず、真っ直ぐに車に乗って帰っていった。
医者の帰った後、イクは太郎の顔を見た。太郎の目はうつろであった。かすかに何か言ったようだった。イクは、耳を小さな太郎の口元に近づけた。「かあちゃん、そばにいて……」と言っているようにイクは聞こえた。良く見ると、口は動いていなかったが、確かに、太郎がイクに言ったように感じた。幼い太郎の手が空を掴むように弱々しげにゆっくりと手を上げた。イクは、太郎の熱い手を取り、じっと太郎を見つめていた。涙がイクの頬を伝わった。時間の許す限り、太郎の枕元に居てやろうと思った。それから、イクの知る限りの看護の知識を発揮し、出来る限りの事をした。
熱に魘されて呻吟している子供を残して、自分は宿舎に帰らなければならない。イクの心は、乱れ、胸が締め付けられた。しかし、一方、イクが内地勤務であればこそ、このように子供が病気だという事で見舞う事もできると感謝した。外地だったら、病気の子供の様子も見ることができない。私は、まだマシだと思った。
イクは、神戸の家を勇んで出発する時、佐藤夫人の忠告の言葉を思い出した。その時、このような事は全く予想しなかった自分の浅はかさを思った。そして、悲しみを強く味わわされて、涙が止まらなかった。子供に申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。子供が熱で苦しんでいても、その子供の側から離れなければならない。イク達の家庭は、3つに別れての生活である。これを決めたのは、矢助ではない。自分が決めた事だ。自分の夢のために子供を犠牲にするとは、イクは誰にも文句も言えず、自分をいつまでも責めながら、2時間余りかけて、富山市の五福にある宿舎へ戻った。子供に悪い。夫に悪い。涙がいつまでも止まらなかった。雪は前よりもひどく降り続き、明日の朝までにはイクの背丈を越えそうだった。
イクには、いつも現実から離れた理想とか、信念があった。その夢のようなイクの思いは、ただ生きるだけに精一杯の当時の人々とは違って、時には家族を犠牲にする事があるとは思いつかなかった。
イクのこれまで付き合ってきた友人達は、良くイクの考えを夢のような話だと言っていた事を思い出していた。今日もその言葉が彷彿と思い出されてきた。イクの言葉の中にあるもの、そして、考え方には、現実からかけ離れた事が多かった事を言っているのだと気がついた。だが、イクはいつの時でも生きることに夢がなければ、生きる意味がないと強く感じていた。
夜遅くなって、雪の中に、薄ぼんやりとした宿舎の灯が見えてきた時、イクは子供の事を考えても仕方がない。これは運命に任せるしかないと心を鬼にした。私は、鬼になるしかないのだろう。子供の側に居てやれないのは、確かに母親として失格かもしれない。しかし、私はこの仕事が、戦争のために第一線で活躍している兵隊さんに協力するのが私の勤めであると、心で大きく叫んだ。
誰が何と言おうが、私は、私の仕事を全うするのだ。
イクは、結婚生活では物足りなさを感じながら幸せであった。しかし、救護班の一員となりに充実した生活ではあったが、辛い事が多かった。永い年月を経過するうちイクの記憶は少しずつ変化して、想い出はすべて美化された。辛かった想いはだんだん遠い彼方に霞んで、どんな悲しかった事もすべて懐かしく、今は、素晴らしい思い出として残っている。