明治から平成を駈けた女 第27章
家の近くの芝川縁にある細い幹の桜が、散りはじめた。
埼玉は、花と緑の多い所である。色々な花が咲き始めると、この土地は、一気に明るくなる。その花々も咲き終えると、見沼の田んぼには青々とした緑があふれる。遠くには小さな富士の山も眺められる。また、柔らかい緑に被われる見沼の田んぼは人々の心の原風景である。のびのびと広がっている背の高い木々や潅木の緑の中で、薫風に身をゆだねながら散歩していると、ここが故郷でなくとも、頑なな心になっている人々も、いつの間にか優しい気持ちにさせてくれる。芝川沿いでは、名も分らない鳥が、時々、初夏の歌を歌って飛び交っている。仕事を辞めたイクは、息子の結婚と共に矢助と共に息子の社宅に入った。
戦争中、多くのものが破壊されつくし、多くの日本人が殺された代償に、敗戦後、GHQによって男女同権、男女平等という女性解放を、日本の女性達は、手に入れた。女性達は、その自由を享受していたが、権利は主張するが義務を怠るという有様であった。日本の女性達は、男女平等を、女性が自由に我が侭を言えるのだと勘違いしてしまったようだ。(最近の若い者は…)と、イクは、心の底から怒りがこみ上げる事が多かった。
暑い夏の夜は、蚊帳を吊って布団に横になっても、イクは眠れなかった。遅く帰った、今日の嫁の態度は、許せないと考えた。心は嫁への怒りがまだ残っていたため、寝付かれ無かった。夏の暑い空気が漂っている中、戸を開け放っている縁側に出た。空を見上げて、月の明るさを見つめていた。近頃は、良く空を見る様になっている事にイクは気が付かなかった。夜の空は、昼と違ってイクの心を清めてくれるようであった。
イクの顔は、月の光を受けて、青白かったが、嫁に対する心はもっと青白かった。何のため、帰りが遅かったかを嫁は言わなかったのが気に入らなかった。もっとキチンと躾けなければならないと考えていた。嫁の表情から何も読めなかったのも、イクの心を苛々させていた。何が不服なんだろう。何か、気に入らない事でもあるのだろうか。月の光は、イクの心をいつまでもきつく締め付けているようであった。
真夜中過ぎに、太郎が帰ってきたのをイクは、気が付かなかった。
翌朝、仕事に出る嫁に、今日は、話があるから早く帰るようにと、イクは命令した。一瞬、嫁の顔が硬ばったようであったが、イクは気が付かなかった。
「高井家の家風は、…。」から始まったイクの話は長かった。「嫁は、こうあるべきだ…。」「洗濯の仕方は、家族の衣類と嫁の衣類は、一緒に洗ってはならないし、干す竿も同じものを使わず、嫁専用の竿を使い、家族の乾し竿は、太陽に当てて乾し、嫁の洗濯物は太陽に当てては駄目で、日陰に干しなさい…」「嫁は洗い物を水で洗う、お湯を使ってはいけない…」一言の言葉も挟まず、黙って嫁は聞いていた。少しでも、口を挟んだり、言葉を発すると、その後の話が、際限なく広がり、ますますイクの心を苛立たせる事をこの一年の内で、理解していたからだ。
「かあちゃん、もうその辺で止めとかれ…。」イクの話が、あまり長いので、矢助は、食事の準備が始まらない事に気が付いて、イクに注意をした。
「何、言うとるが。大事な話をしとるがや。あんたは、黙っとられ。」怒鳴り返しながら、イクもお腹が空いている事に気が付いた。「今日は、ここまでにしとるから、明日、又、話さんまいけ。」
黙って、嫁は立ち上がりながら、食事の支度にかかった。嫁は、今日も夫の太郎の帰りが遅い事を呪った。私がこんな目にあっている事等、夢にも思っていないだろう。少しでも、この状況を分かって欲しいと、思ったが、そこはそこ、イクは、利口だから、息子の太郎が居る時には、決してそんな素振りは見せない事を、嫁は十分すぎるくらい知っていた。しかし、突然、こんな状況の時に戻ってきて欲しいと願っていた。一度位、夫の太郎に姑の愚痴を話そうと考えたが、止めにした。夫の太郎が、もし少しでも自分に対して心を掛ける事があったら、こんな事は、随分前に分かっている事だと知っていたからだ。話すだけ無理であったし、言った所で、改善される気配は無く、それ以上に悪化する可能性が高い事を理解できたし、恐れていた。
翌朝、同じ毎日が始まった。嫁は、毎日同じ事が続くと覚悟しながら、仕事に出た。
夕方、いつもより早く仕事を切り上げさせて貰って、家に着いた嫁がイクの前に殊勝に座っていた。イクは、高井家の家訓について長々と述べた。家訓といってもイクは、直接、矢助に聞いたことも無かったし、又、矢助の実家で聞いた話でもなかった。ただイクの考え方を高井家の家訓と言う事にして話しているだけであったので、良く聞いていると、話が、多少矛盾している事もあった。イクは、そんな事は気にしないで、心のままに、思いつくままに、嫁に真面目に話した。
イクは、自分がして貰いたい希望を嫁に話している事に気がつかなかった。横で聞いていた矢助は、イクの話に苦笑いをしながらも、決して口を出さなかった。とにかくイクの好きなように話をさせておこうと考えていたからだった。イクがやって欲しいと考えていた事は、実は自分もやってもらいたいと考えている事が多かったからだ。
「子供は、親のために頑張るのが重要なんですぞ。親が、何をして欲しがっているか、いつも考えてい無ければなりませんぞ。」イクは、これが重要な中心思想だと、嫁に何度も念を押した。
「……。」嫁は、無言で頷いていた。
「分かればよろしい。これからも、しっかり、親のために頑張ってくださいよ。」多く話したので、イクは、少々くたびれていたので、最後に、「さあ、これから晩御飯を作ってくださいよ。スキヤキは、牛肉一人500gで、高井家の嫁は、肉を食べたら駄目やから、その分を除いて1k500gの牛肉を買ってきたやろね。肉が残ったら、それを食べても良いよ。」と、イクは、自分が優しい所を嫁に示して、言った。
「有難うございます。」嫁は、そんな残りものの肉を食べたいとは思わなかったが、一応、感謝の言葉を口にして言った。
「さあさ、これで話は、終わりだよ。さっさと、風呂も沸かしてくださいよ。」イクは上機嫌で言った。
太郎が、まだ帰ってきていなかったが、二人は、争うようにスキヤキの肉を啄ばんでいた。食事が始まる時には、矢助も酒を終えていたので、ご飯をお代わりしながら、スキヤキの肉に舌鼓を打っていた。
「お、スキヤキですか。」太郎が珍しく早めの帰宅で、二人の食卓に割り込んで箸を取った。
「やっぱり、スキヤキは、美味しいもんだ。」矢助も、牛肉を鍋に入れてから、生煮えの肉を自分の器に入れながら言った。
「お前は、食べないのか。」と、太郎が、嫁に言うと、イクが横から口を出した。
「彼女は、食事を済ませたから、良いんだよ。」嘘であったが、太郎は深く考えずに頷きながらせっせと箸を運んでいた。
それから数日後の事である。昼食後、嫁は、隣の藤村さよに声を掛けられた。藤村さよは、50歳を超えた超ベテランで、仕事もてきぱきとこなし、明るい性格で、多くの人に好かれていた。嫁も、この藤村さよが好きで、時々、声を上げながらお喋りに夢中になる事があった。
「最近の高井さん、どうしたがや?変やぜ。元気もないし…。」嫁は、力なく笑って返事をしなかった。さよは、心得ていた。この1年間の変化は、仕事ではなく、家庭に在ると目星をした。「高井さん、あんた、舅さんや姑さんと一緒なら、色んな事をやって貰えて、良いよね。」
「……。」嫁は、その言葉には、反発したが、やはり、黙っていた。
「私もね、姑と一緒ながや。子供が生まれてから、姑が、家庭の事を全部やってくれるから、仕事に打ち込めるながや。本当に有難いと思っとるながや。」さよは、笑みを浮かべながら、嫁に続けた。「息子二人、育てたのは、私というより、姑だと思う程、感謝しとるながや。」
「……。」羨ましい話だと嫁は思ったが、言葉には出さなかった。
「だからね、今、姑が寝たきりになったから、これから私がその恩返しをする積りでおるがや。」さらりと、さよは言った。「だから、高井さんもいつかこんな事になるかもしれないから、今の内に、舅姑を大事にしといたら良いと思うとるよ。」
「……。」この話を聞いて、嫁は言葉には出せないと思った。このさよには、決して理解してもらえないだろう。言うだけ、無駄と思った。世の中には色んな考えの人が居るのだから、今の自分の生活は、少なくとも藤村さんには理解してもらえず、下手すると、説教されておしまいだろうという事は、容易に想像できた。
「ま、無理をしないで、頑張ってたはれ。」と、返事をしない嫁の様子に業を煮やしたのか、さよはそれ以上言う事を止めた。
嫁は、憂鬱であった。さよの家の姑のように、少しでも家の事をやってくれる姑であったら、どんなにか楽だろうか。嫁は、結婚するまで、母親が食事や弁当を作ってくれていたから、親は、そういうものと思っていた所があった。その上、給料は、すべて母親に渡していた嫁であった。
その習慣で、嫁は、結婚と共に給料を渡して、家事全般の事をイクにお願いしますと言われた時、目を剥いて驚き、非常に腹を立てた。イクは、息子の結婚によって、自分が家事全てから解放されることを楽しみにしていたので、そんな嫁の気持ちを理解できなかったのである。
「あんた、わしに家の事をやれと言うがかね。」と、イクは少し怒気を含んで嫁に言った。
「いえ、家の財布は、親が持っているものと聞いているので、私の給料をお渡ししたのですが…。」当惑気味に嫁が言った。嫁姑の争いの最初は、財布を誰が持つかにあると、藤村さよから聞いていたからだった。だから、最初に、自分の給料を全て、姑に渡しておけば、争いは無いよ、とのさよからの助言に従っただけであった。
「とんでもないこっちゃ。わしが、何で財布を持って家の遣り繰りをしなくちゃ、ならんのかねぇ。」イクが世の中の常識的な姑ではなかった事が、嫁には不幸の始まりだった。「もう、2度とわしに財布を渡したりして、家の事をやれなんて、命令しられんな。」
「すみませんでした。」嫁は、謝るだけであった。それからのイクは、何かにつけて、嫁たるものは…と、説教が始まったのであった。