いつもながら、イクは飽きると言う性格を欠点だとは思っていなかった。飽きると言う事は、イクにとって興味の対象から離れ、自分はその事に対して充分役目を終えたと言う事であったからである。
イクは、電話をかけた。相手は、町役場であった。
「手紙を貰って読んだけど、わたしゃ、勲章なんて欲しくないから、お断りしますよ。」イクの言葉は、素っ気なかった。
嫁は、(へぇ、勲章なんて、おばあちゃんは貰えるような事をしたのか)といぶかしげだった。
「私はね。勲章なんて貰っても、ちいっとも嬉か無いから、そんなもん、捨てておいてくださいよ。」けんもほろろであった。言う事を言ったら、相手の言葉も聞かず、一方的に電話を切った。
「ふん、今更、何の勲章だろうと、欲しかないわい。」吐き捨てるように言いながら、イクは部屋に入った。
嫁は、(どんな勲章だろうと、貰える物は貰えれば良いのに……)と、呟いた。
イクは、勲章は、どんな意味があるか知っていた。そんなものを貰う事によって、昔の悪夢を思い出したくは無かった。従軍看護婦の経歴や記憶が消せるものなら消し去りたかった。だから、昔の悔しさ辛さを思い出すものは、ささやかな物でも、又、大金であろうとも、絶対、目の前において欲しくはなかったのである。
嫁は、そんなイクの気持ちに気づかなかったし、気づこうともしなかった。いや、気づきたくもなかった。そんな意味で、イクの気持ちも嫁の気持ちも、お互い大きく離れていたと言える。
嫁は帰ってきた太郎にこの話をしたが、太郎も興味のなさそうな顔でこう言っただけであった。
「お袋が要らないというものを我々はどうしようもない事だ」
嫁は慎重に、小さな声で太郎に言った。
「勲章を貰うと、賞金ももらえるのではないのかしら」
「そりゃあ、あるだろうね。そもそも勲章とは、いかに国家に貢献したかのバロメーターだからね。当時の忠誠心を持った国民が、勲章というものに憧れと敬意を持っていたと思うよ。でも、あんなに愛国心の強かったお袋がその勲章をいらないと言うなんて、考えにくいよね」太郎も首をひねった。
「でもね、ネットで調べてみると、勲章には年金が付いていたという話もあるのよ。日本軍の勲章である金鵄勲章では、下から「功7級」から「功1級」があって、戦前には受賞者に対して、今の価値で「功7級」の70万円から「功1級」の1000万円が終身年金として貰っていたと言うじゃない。一時金にしろ貰える物なら、貰ったら良いのにね」嫁は、まだ未練気にぼやいていた。
「しかし、受けるのは家族ではなく、本人だからどうしようもないよ」と、この叙勲の話はこれで終わった。
死は苦しみが終わる事であり、死とは眠る事だという。苦しみは、釈迦が言う、生きる苦、病苦、労苦、死ぬ苦の4つがある。苦しみの半分は、生きている時と死ぬ時半々である。どちらにしても、人生は始めから終わりまで苦しみの中にあると言う事は間違いが無いと思われる。
老衰は、生きてやりたいと言う思いを消し去ってしまうものだろう。それを人は悟りと言うのかもしれない。しかし、本当にイクは人生を悟って人生を終えようとしているのだろうか。
死は人間の完成だと山本周五郎は『虚空遍歴』の中で言っている。死ぬという事は、年齢を重ねるとこんなにも静かに受け入れられるものなのか、それとも考える事が面倒なのかは分からない。イクが無意識の中で死を受け入れ始めた時、世の中が変わり始めた。
夢と現実の間の超越した世界の中にイクはいた。
イクの心は爽やかな光の中に居て、空気が綺麗に輝き流れる中にあった。多くの現実の煩わしさから逃れて、自由を謳歌して大空を飛翔はじめた。