しまむら ◆uBMOCQkEHY

「悪津」(あくつ)…高校二年生。一応男子陸上部の部長。
          身長は170センチジャストぐらい。やせ気味。
「二条 綾香」(にじょう あやか)…悪津のクラスメート。
        成績優秀の美少女。身長は悪津と同じぐらい。髪はセミロングで黒髪。肌は白く性格はクール。
        過去中学時代に陸上部に所属していた過去をもつ。
「二宮 妙」(にみや たえ)…一年生の陸上部のマネージャー。二条綾香の中学時代からの後輩。
        ノリのいい活発な子。身長は160センチぐらい。
髪は今風のショートカットに軽くブラウンを入れている。二条とは同じ中学で同じ陸上部に所属。
一年生の間でちょっとした人気がある。


「えーこれから新しい我が男子陸上部のマネージャーを紹介しちゃいます♪」
校舎の裏にひっそりとたたずむ木造の部室の中で男子達が唖然とする中、一人現マネージャーの「二宮 妙」
(にみや たえ)はうれしそうに隣の少女の肩に抱きつきながらはしゃいでいる。
紹介された少女はからみつく二宮妙をうっとしくするでもなく、ただ黙って部員の方を見ている。
…僕の所属する男子陸上部は先輩である三年生が三人。二年生は僕だけ。さっきからたった今紹介された少女を
呆然と見上る一年生の三人と一年生マネージャーである二宮さんを含めて計八名。
八人といっても実際部活に参加しているのは僕と一年生トリオ、それに二宮マネージャーの五人。
三年生は滅多にこない。というより今年になってからまだ一度も部活はおろか部室にも来ていない。
などとひとり思いふけっていると二宮さんが気を取り直して改めて「新しいマネージャー」の紹介を続けた。
「この方は私の中学からの先輩で現在二年生にして美少女の「二条 綾香」(にじょう あやか)さんです!!」
「…妙。その美少女ってのはやめてよ。それに悪津君?アナタ部長でしょ。黙ってないでなんか言ったら?」
「そうですよ悪津部長。ここは部長らしくビシッと綾香さんに一言お願いします!」
急に自分に話題がふられて僕はしどろもどろしながら立ち上がると皆の視線が一斉に僕に集まる。
「は、はじめまして。に、二条さん。ぼ、僕達の男子陸上部へようこそ。その…か、歓迎です」
言い終わったとたん二宮さんがケラケラと笑い出す。
「悪津せんぱ〜い!『歓迎です』ってなんですか?もーしっかりしてくださいよ!」
僕は自分の日本語のおかしさを指摘されると「アッ」と声を漏らすと激しく後悔の念に襲われた。
可笑しそうに笑う二宮さんの隣で二条さんが呆れた顔で僕を見ていた。
もともと同じクラスで今日初めて顔を会わせたわけでもないのに…やっぱり部長なんて向いてないと改めて思う。
愛想笑いをしながら腰をおろすと二宮さんは二条さんから体をはなすと部員全員に向かって話を戻して続ける。
僕はなんとなく恥ずかしくてうつむきながらそれに耳を傾ける。
ふと視線を感じてその方を見ると二条さんと目が合う。
クラスでも、いや学年でも男子の人気を集めるだけのことはある。
触れたくなるようなしなやかな肩あたりまでのばした黒髪。雪のような白い肌。すっきりとした顔立ち。
ぼーっとその目を見ていると彼女はすぐに視線を外して部室の中に視線を戻してしまった。

…正直あの男を初めて意識した時はただの「おひとよしの馬鹿」だと思った。
「悪津」彼を意識するきっかけになったのは二年生になってクラス変えを終わってすぐのことだった。
うちの高校はちょっとした丘の途中にある。
その丘を登ると大きな陸上競技場がある。
そこで毎年6月になると記録会と称した全校生徒を対象にした陸上大会が開かれる。
でもそれに真面目に参加する人はほとんどいない。
まだ何も知らない一年生ならまだしも二年生以上でそれに積極的に参加しようなんて人はまずいない。
記録会は基本的に全生徒の強制参加が義務付けられている。
一日を費やして行われるこの記録会は別に体育祭のようにクラス対抗でもなんでもない。
ただ個人の記録を計るだけのものである。
それゆえこれに積極的に参加する意味なんてないと思う生徒は二年生にもなると大勢いる。
そうなるとこの日は二年生以上の生徒にとってはただ日差しがいい中での「雑談会」となっている。
その日のホームルームはその誰も初めから参加しない「記録会」の各種目の参加選手をクラスで決めていた。
黒板に各種目が100メートル走から色々と書かれていたが参加選手の名前はほとんど書かれていなかった。
ただ「悪津」の名前を除いては。
各種目の参加人数は大体一人から多くて3名ほど。そのほとんどに悪津の名前が書かれていた。
「次は1500メートル走なのですが誰か参加する人はいませんか?参加人数は一人です」
クラスの委員長がかったるそうにクラスを見渡しながら喋るが誰も挙手するものはいない。
クラスの担任も内心ではどうでもいいと思っているのだろうか委員長に任せきりで自分は椅子に座りながら
聞くフリをしながらさっきから何度も欠伸をしながら眠そうにしている。
クラスメイトのほとんどが自分には関係なしといった感じで隣の子と話したりケータイをいじったりしている。
「また悪津君でいいんじゃないですか?なんていっても陸上部だし」
またも同じ名前がクラスの片隅から上がる。
皆も自分の事じゃないのでそこかしこから「それでいいと思いま〜す」とか無責任な声が飛び交う。
委員長もたいして気にする様子もなく彼に言葉を向ける。
「…それじゃ悪津君の推薦が出たのですが悪津君はどうですか」
私は友達の声を聞き流しながら彼の方を目線だけで見た。
彼は完全に押し付けられてるというのにへらへらと笑いながらその申し出を受けた。
「また悪津のやつ出るのみたいだね。つーかよくやってられるよね。かったるいだけなのにね」
隣の子が話題の一つとしてか関係ないことのように私に話し掛けてきた。
「…そうだね。嫌なら断ればいいのに。あいつなんであんなへらへらできるわけ」
「だよねフツー。まぁでも断られてもこっちが困るから全然いいんだけどね」
友人はそういうとまたとりとめの無い話題を振ってくる。
私は彼の態度になぜかイライラした。
次から次へと各種目にエントリーさせられているというのに嫌な顔一つしようとしない。
ただへらへらと笑っている。
なんでそんなにへらへらしてるわけ?そんなに楽しいわけ?陸上なんて…馬鹿じゃない。
私は心のなかでイライラしているのに彼は申し出を次から次へと受けていく。
いつしか私は友達の話もろくに聞かずに悪津の方ばかりを見ていた。
そんなに陸上がいいわけ?いい加減にしなさいよ!陸上なんてそんなにカッコいいものじゃないでしょ!?
「それじゃ最後になりましたが、男女混合の400メートルリレーの選手を決めたいと思います」
結局彼は最後の最後まで申し出を断らずほぼ全部の競技に出ることになっていた。
「男子から二名女子から二名選手が出て欲しいのですが誰かいませんか?」
当然のように彼の名前が呼ばれ黒板に書き込まれる。
「ねえねえ綾香?綾香も出てみたらリレー?綾香って運動神経いいじゃん?」
友人はふざけて私にそう言ったつもりだったのだろうが私はもうその頃には彼の態度にイライラしすぎていた。
そのためか頭の方もだいぶヒートアップしていた。
「あ、綾香!?ちょ、ちょっと本気!?」
友人の驚いた声に急にハッとなる。
気がつくと私は手を挙げていた。
気がつくと私は手を挙げていた。
クラスの皆が友人の急な声に反応したのか一斉に私のほうを見ていた。
「え、ええと二条さん?リレーに参加でいいんですか?」
普段から私は自分でも冷めていると思っていたし周りもそう思っていたのだろう、私の挙手にクラスがざわつく。
私も自分自身でなんで手を挙げたのか必死に考えたが今更ウソでした〜なんて言える性格でもないのでうなずく
しかなかった。
黒板の悪津という文字の横に二条という私の字が書き込まれる。
クラスの視線が一斉に集まるなか悪津の方に自然と目がいく。
彼と目が合う、彼も驚いた表情でこちらを見ている。
な、なによ…私が何しようとアンタには関係ないでしょ!?と、というか一人でも参加したんだから喜びなさいよ!
そ、それにアンタのせいで私は参加したようなものでしょ!?アンタがあんまりにも馬鹿だから…
なぜか照れてしまい自分でも訳のわからない理屈でごまかそうとする自分が妙に恥ずかしかった。
しばらくするとクラスのあちこちから運動部の男子達のリレー参加の声が上がる。
ついには参加したい男子達が委員長を中心に教卓の前で参加者のジャンケン大会が始まっていた。
「それにしても綾香さぁ…アンタ何やってんの?リレーとか一番かったるいのに参加するなんてどうしたのよ?」
友人が呆れたように私の顔を覗き込みながらやれやれといったかんじで見る。
「な、なんとなくよ…そうなんとなく。それに私だって…」
「何となくねぇ…まぁいいけど。でもやっぱ綾香すごいわ…クラスの男子共綾香が参加するっていったらこれだし」
教卓の周りに集まった男子達はまだ残り一名の参加者の椅子をかけてジャンケンをつづけている。
「綾香今からでも遅くないから辞退したら?なんならアタシが委員長にかけあってあげるからさぁ?」
「そ、そんなこと…なんかそれって私が馬鹿みたいじゃない。一度手を挙げて男子達の反応見たみたいで」
「ま、そうともとれるわね…さすがに美少女は辛いわね。」
「そ、そうじゃなくて!リ、リレーなんて…て、適当にやればいいだけでしょ…それをわざわざ…」
「わかった。わかった。しょーがない。女子のほうはアタシが参加するか。綾香アンタあとでなんか奢りなさいよ」
こうして私は自分の意志に反してかそうでないかもわからないまま悪津とのリレーに参加する事になった。
記録会当日。空は無神経なほどによく晴れ渡っていた。
すでに競技場の観客席はうちの生徒でどこも埋まっていた。
私も友人と芝の敷きつめられた観客席にシートを敷きいつものようにゆっくりと時をすごしていた。
記録会はすでに始まっており競技も始まっていて何度もスタートを告げるピストルの音が響いていた。
さっきから悪津が何度も私の前を全速力で通り過ぎる。
他の男子がほとんどがランニング程度で流してるなか一人猛然と駆け抜ける。
…へぇ悪津って結構足速いんだ。ちゃんと練習してるんだ。
…悪津のやつペースが速すぎるのよ。もう少しペース配分しなさいよ。
…ふふっ悪津やつゴールで倒れちゃって。無理しすぎなのよ。
…ってなんで私が悪津のこと見てるわけ!?ば、馬鹿じゃない!
…でもなんでだろ。嫌な気分じゃない。不思議な気分。私あんなに陸上のこと…
「あ、綾香!!ねえ綾香ったら!!」
友人の驚いたような声で何度も肩を叩かれるとフッと我に帰った。
「綾香!高崎先輩!高崎先輩が来てるんだって!!」
私が友人に『何?』という顔で振り返ると友人は興奮した様子でその「タカサキセンパイ」という人を見ていた。
「二条さん。お久しぶり。どう?これから一緒に抜け出してどこかに遊びにいかない?」
「ど、どうしよう綾香!先輩がこれから遊びに行こうだって!!どうする!?どうする!?」
正直答えに困った。
そもそも私はこの「タカサキ」という人は久しぶりと言うけれど誰だかわからない。
友人が言うには前に一度委員会で一緒になった事があるらしい?
見た目は今風でカッコイイ人に当てはまるのだろうけれど興味はない。
「綾香!ねぇ行こうよ綾香!先輩の友達もイケてるし丁度二人づつだしさ!ね、ね!」
友人は完全に舞い上がっている様子で今にも座っている私を引きずってでもいきそうだった。
「いいよ私は…それにこの人のことあんま興味ないし。今日はそういう気分でもないしさ…」
「それに私らこれからリレーがあるじゃん?サボったら後々面倒だよ…」
私はかったるそうに友人に耳打ちすると視線をまた悪津のいるトラックに戻した。
「ええっー!?なんで!?そんなのいいじゃん!!行こうよ綾香!!ねっ一生のお願い!!」
友人は両手を合わせて何度も「お願い」と言ってきたが正直なところ行きたくなかったので途方にくれそうになった。
「どうしたの?行かないの?遊ぶだけならいいでしょ?もちろんこっちの奢りでいいからさ」
タカサキという先輩はこっちの立場など知る由もなくニコニコと微笑んでいる。
頭の中でどうやって断ろうかと何度も考えるが中々いい案が思いつかない。
ため息混じりにまたトラックに目を移すと悪津が長距離走をやっているのか少し苦しそうな顔をしながら
私たちのいる方まで走ってくるのが見えた。
「二条さんって俺のこともしかして警戒してる?平気だってただ遊ぶだけだって」
「いいでしょ綾香!?リレーなら他の子に頼んで交代してもらえばいいじゃん」
さすがにだんだん滅入ってくる、いっそ友人も他の子と遊びに行けばいいとすら思えてきた。
…でも普段の私ならたぶんこの誘いは受けていたかもしれない。
…だったらなんで今日はこんなにも断るのだろう?
…悪津?まさか?そんなはずはない。そんなことは…多分。
突然客席から大きなどよめきのよう声が聞こえた。
私はその声に反射的に反応すると皆の視線の先を追った。
「悪津!?」
思わず彼の名前が口からもれた。
人の隙間からかすかだけど悪津がトラック上で倒れているのが見えた。
私はなにかに突き動かされるように立ち上がると悪津が一番よく見える客席の最前線まで駆け寄った。
「悪津…」
彼はゆっくりと起き上がると再び走り出した。
でも私には見えた。彼が走り出す瞬間の苦痛に歪む顔を。
しばらく彼がゴールするまで見守っていたがあきらかに走り方が不自然だった。
私の中に何かとても嫌な感じがした。
「あ、綾香ってばどうしたの急に?全くいきなり走り出したからびっくりしちゃったよもうっ!」
「先輩もびっくりしてたよ。なんだかよくわかんないけど早く戻ろうよ」
私の中に生まれた嫌な感じはどんどん頭の中で具体的な形になっていく
「ご、ごめんちょっとトイレいってくるから。それとあの人達とは一緒に行く気ないから!」
背中越しに友人がなにか早口で言っていたが私はそれよりも早く彼の所に向かっていた。

悪津の姿はすぐに見つかった。
ゴール地点から少し離れた人気のない客席とトラックを挟む壁にもたれかかるように座っていた。
でも彼の姿を見つけたはいいがなんて言葉をかけていいかわからないでいた。
彼は私の予想通りさっき転んだ時に足首を痛めたのだろう何度もその箇所をマッサージしている。
しばらくどうしていいかわからずにその場で立ち尽くしていると彼は顔を少しゆがめながらゆっくりと立ち上がった。でもすぐにバランスを崩し壁にもたれかかる。
…馬鹿。どうせ派手に転んだんでしょ。だったらもう少し大人しくしてなさいよ。
…それにあれだけ連続して走り続けたんだからアンタが思ってるほど回復には時間がかかるのよ。
…それよりまず冷やさないと。えっとたしか臨時の保健室ってたしかこの辺にあったわよね?
…ってなんで私がそんなこと。だったらなんでそもそもこんなところに…あっ!!
彼はまた性懲りもなく無理に立ち上がろうとしたためバランスをくずして壁にもたれかかる。
それでもまだ彼は立ち上がろうとする。
「あ、悪津!!ちょっとじっとしてなさいよ!!」
駆け寄ると私はふらつく彼の二の腕をつかんで彼を支えた。
「に、二条さん!?」
彼はいきなり現れて自分を支えてくれた私にひどく驚いた様子で目を全開にあけてこちらを見ている。
どうも私はこと彼と陸上が結びつくと冷静さを失うらしい。
「あ、あの…二条さん?ど、どうしたの?」
この男ときたら助けてあげてるのに何をそんなに怯えているのだろう。
「いいから早く座りなさいよ。足痛いんでしょ。ホラッ早く」
「う、うんありがとう、に、二条さん」
彼は私の言う事に素直に従うとその場に座り込んだ。
「いい?今から保健の先生に言って氷袋貰ってくるからその場で大人しくしてるのよ」
私はそれだけ言うと早歩きで保健室のほうへ向かった。
途中自分の両手に伝わってきた悪津の腕の感触がよみがえってきた。
…アイツの腕硬かったわね。それにすごく熱かった。やっぱり本当に頑張ってるんだ。
…ってなに変なこと思い出してるのよ!そんなことより今は保健室に行くんでしょ?ホントに私何してるんだろ?
「冷たい…」
「当たり前でしょ?氷なんだから。それよりこのぶんなら少し休んで冷やせばすぐによくなるわよ」
悪津の足の具合はそれほど悪くはなかった。
ただ転んだ拍子に軽く足をひねっただけで冷やしておけばすぐにでも走れる程度のものだった。
「二条さんって随分こういうの手馴れているんだね。すごいね」
彼は感心した様子で私の応急処置を見ていた。
「お、お世辞ならいいわよ。そ、それにアンタのそのスパイクだってそれ人気モデルのやつでしょ」
私は言った瞬間「しまった」と思った。
私は今まで誰にも陸上をやっていることを悟られないようにしていた。
理由は言いたくない。ただ誰にも知られたくない。特に昔のことは誰にも…
「へぇーすごいね!!二条さんてそんなことまでわかるんだ」
「…」
悪津は無邪気に笑いながら言葉を続ける。
「あっ!もしかして二条さんて中学の時陸上部だったの?」
心からいままであった何かがフッと冷めていく。
「でも二条さん残念だったね。うちの高校男子の陸上部しかなくて」
私はもうここにはいたくなかった。
立ち上がると彼に背をむけるとさっさと来た道を戻ろうとする。
彼はきょとんとした顔でどうしていいかわからないでおろおろとしている。
「え?に、二条さん?ちょ、ちょっと待って! うぁぁ!!」
後ろから彼の奇声に近い叫び声につい私は驚いてしまい後ろをむいてしまった。
振り向くと彼は「べちゃ」っという感じで地面に無様に倒れていた。
私は今度は彼に手を差し伸べる事はなくただ黙って彼を見下ろしていた。
「いてて…あ、あの二条さんごめん!ぼ、僕変なこと言った?だったら本当にごめん」
私はただ何も喋る気にならず押し黙っていた。
「二条さん!!本当にごめんせっかく助けてもらったのに嫌な思いさせちゃって…本当にごめん!!」
心が冷え切ってるせいか暗い考えが思考を支配する。
…なによそんなに私と離れるのが嫌なわけ?そんなに私といたいの?
…二人っきりなれたのがそんなにうれしいの?
…私のどこを見てるの?足?胸?それてもお尻?それとも全部?
「二条さん!絶対かんばるから!最後のリレー絶対がんばるから!二条さんが走れるようにしてくれたから!!」
今度は私がきょとんとする番だった。
…なに言ってるのよ。私といたいんじゃないの?
…それなのにリレーって。アンタってホントに陸上馬鹿よね。
「…あと一時間は足を冷やしておきなさいよ」
表情を変えずにその場に座り込む彼にいう。
「に、二条さん?」
「リレー頑張ってくれるんでしょ?だったら足ちゃんと冷やしておきなさいよ」
競技場内に優しい風が吹き込む。
心の中の暗いもやが徐々に薄らいでいく。
「それじゃ私は行くから。いい?無理して冷やすの怠るんじゃないわよ」
「う、うん!!二条さん約束するよ!!リレー絶対がんばるから!!」
…もうそれはいいって。でもなんだろうこの気持ち。なんか懐かしい。
歩く途中でトラックを見る。
走っている人はだらだらだけどそこには間違いなくかつて大好きだった場所がそこにはあった。
「悪津…がんばりなさいよ。せっかく私が手当てしてあげたんだから」
もといた友人の場所が見えたとたん私の足は止まった。
友人の隣にはまだあの「タカサキ」という男が座っていた。
あれから随分経つと言うのに案外しつこい。
そのまま戻ってもまたしつこく話し掛けられると思うと私は友人にはすまないと思ったけれど少し離れた場所に
腰を下ろす事にした。木陰の下に座り目をつぶる。
風がさっきより心地よく体を吹き抜ける。
目を少しだけ開くと遠くの方に悪津の姿が見えた。
こちらに気づくはずはなく、悪津は私のいい付けどおりにその場に腰を下ろしながらずっと足首を冷やしていた。
何となくその光景が懐かしいようで微笑ましかった。
ふと悪津の姿を見ていると疑問が自分の中に生まれた。
私は本当に陸上が嫌いなのだろうか?
あの時からだいぶ時が流れた。
もし悪津ともっと早くから出会っていたら私は今もこの場所を好きでいられたかもしれない。
そんな心に少しだけ光が差し込むと同時にやはり心の暗い部分がまた顔を覗かせる。
悪津は確かに今まであった陸上選手の中では素直で馬鹿すぎるほど陸上対しては真っ直ぐだ。
けれど私が知っているのはほんの少し間に知った悪津の陸上への思いだけ。
まだそれだけでは…悪津を信じることはできない。
そんな暗い考えを払うように軽く深呼吸をして目を閉じる。
目をつぶるとあの時の光景とさっきの悪津の顔が何度も交互に浮かんでは消える。
「…悪津」
不意に唇からこぼれた言葉に思わずハッとなる。
口元からこぼれた言葉を確かめるように自分の唇を指でなぞる。
でも…それでも私は…まだ陸上が…あの時を許せることはできない…
「綾香せんぱーい!!」
木陰に腰を下ろしてそんなことを何度も考えていると誰かが私の首に両手を勢いよく絡ませてきた。
驚いて目をあけるとそこには懐かしくも少し苦い思い出を知る少女の姿が目に映った。
「た、妙!?」
妙と呼ばれた少女は驚く私のことなどお構いなしに猫のようにじゃれついてくる。
「妙。ちょっとくすぐったい。こ、こら!どこに顔をうずめてるのよ!もう!!」
放っておくとますます変なところに顔をうずめられそうな気がしたのでとりあえず彼女を私から引き離した。
「えへへ…綾香先輩おひさしぶりですぅ」
少女は悪びれた様子もなく無垢な笑顔で微笑んでいる。
「おひさしぶりじゃないわよ。びっくりしたじゃない」
「だって先輩に会えるのずっと楽しみしてたんだもん」
口元が自然とほころぶ。
この子には昔から私は弱い。
なんというか妹のような存在でもあり憎めないこの子は昔中学の頃の陸上部の一番親しい後輩だった。
「妙でもどうしてうちの高校にいるの?…そ、その陸上はどうしたの」
「えへへ…それは色々ありまして。でもしいて言うなら綾香先輩を追いかけてきちゃいました!」
そう言うとまた私にじゃれついってくる。
「妙ったら…もう相変わらずなんだから。だからなんでそういう所に…あんっ!」
 妙の頭に軽くチョップをいれると私たちは一年間の時の隔たりなんてなかったように今までお互い
どうしていたかを話しあった。
「た、妙!?い、今なんて!?」
「はい?ですから…その男子陸上部のマネージャーをやってます」
正直驚いた。妙がまさか悪津の部のマネージャーだったなんて。
「な、なんで?妙だったら普通に他の高校で選手としてやっていた方がいいんじゃないの?」
「それはですね…色々ですよ。それに綾香先輩への私、二宮妙の愛は不滅ですから」
冗談はともかくとして妙にも色々あったんだ。
でもなんか素直にうれしい。もう一度この子に会えて。また一緒の学校にいられて…
それにこんなに自然に笑えたりしたのって久しぶり。
「そ、それで先輩。せ、先輩はこの記録会に…そ、その選手として…」
急に彼女はその場に正座をしてモジモジと言いずらそうに私の顔を見ながら言った。
この子は私のこと知ってるからこの子なりに気を使ってるんだろうな。
他の子に陸上のことを聞かれたらきっと私はすぐにふて腐れてその場を去っていただろう。
でもこの子に言われるとそんな気持ちにならなかった。
私は上目づかいで私のことを見る彼女の頭に軽く手をのせると少しブラウンがかった髪を撫でながら答えた。
「成り行きでリレーに出る事になっちゃってね。まぁホント成り行きなんだけど…」
そう言うと彼女は表情をみるみると喜びに変えてうれしそうにまた抱きついてくる。
「よかった…先輩また走るんだ。よかった…綾香先輩だーい好き!!」
本当にこの子は…こんなことでこんなに喜んでくれるなんて…ホントに…
「実は私もリレーに出るんです!!綾香瀬先輩勝負です!!…なんてね」
「そうね…妙と走るなんて久しぶりよね。ふふっ…妙?覚悟しなさい?」
二人で同時に笑いがこみ上げてくる。
ガラにもなく私も妙にじゃれつく。
「綾香先輩のスケベ。そんなことしてると私本気出しちゃいますよ?」
「や、ちょっと!?妙ッたら!んもう冗談よ。でも…お互いがんばりましょ」
妙が悪津の部のマネージャーだった事には驚かされたが今はこうしてこの子に会えたことを素直に喜ぶことにした。
彼女がどうしてこの高校に来たのかはわからないけど今はそれは考えない事にした。
しばらく二人でトラックを眺めていると妙は次の種目に出るために立ち上がった。
「あ、あの綾香先輩。その…この記録会が終わったら少しお話できませんか」
「どうしたのよ妙?急に改まっちゃって?いいわよそれぐらい」
「そ、そうですか。うれしいです私とデートしてくれるなんて♪」
「こらこら、誰がデートするのよ?いいから早くいってきなさい。応援しててあげるから」
妙はうれしそうに微笑むと私に何度も手を振りながらトラックに消えていった。

もといた場所に戻ると友人が拗ねたような口調で私を迎えてくれた。
「あーやーかー!!この子は今までどこで油売ってたのよ?せっかくの高崎先輩が誘ってくれたのに…」
そこにはさっきまでいたタカサキという男はいなくなっていた。
「綾香…アンタこの穴埋めは大きいわよ?今度は奢りだけじゃ済まさないからね」
友人は『むー』と言うと私の顔をじっと見てくる。
「わ、わかったわよ…あやまるわよ。ごめんなさい」
「心がこもってなーい!!」
私は無理矢理友人に今度買い物に付き合わされることを約束させられてその場を収めてもらった。
「それはそうと綾香?そろそろリレーの出番じゃない?」
友人はさっきまで膨れっ面はどこへやらで私に聞いてくる。
「そうね。そろそろ準備したほうがいいかもね」
立ち上がると悪津がまた私たちの前を走りぬける。
フォームも安定しているどうやら言いつけどおりしっかり冷やして治ったみたいだった。
悪津と一緒に走っていた男子は珍しく悪津と同じように本気で走っていた。
ゴールまでの最後のコーナーを抜けると悪津がその男子をかわして一気に前に出る。
そのままテープに向かって一番乗りで突き抜ける。
「綾香?なにうれしそうな顔してるのよ?アレ悪津よ?」
どうやら友人にバッチリ見られていたらしい。
ちょっとだけ顔が赤くなった気がした。
「ち、違うわよ!!別に悪津が勝ってうれしいわけじゃないわよ。ただこれならリレーも楽できるかなって…」
必死でごまかす自分に余計恥ずかしさが増した。
「そうかもね。悪津がたしかアンカーだからこれなら一位になれるかもね。あんま関係ないけど」
友人はそれ以上このことに突っ込んでくることはなかったのでホッと胸をなでおろした。
それにしてもなんであんなに悪津ばかりみてるんだろ私?
ほんと不思議なやつ。ただの陸上馬鹿のくせに…
でもアイツ本当に走ってるのが似合ってる…私もアイツとなら。
思考がちょっと脱線してきたのでその場で頭を軽く振る。
でもこのリレーで何かが私を変えてくれそうなそんな気がした。
悪津と走ることでなにかが…そんな風に走り終わって満足そうにする彼の顔を眺めていた。
残るは最後の男女混合の400メートルリレーを残すだけとなった。
気がつけば日がだいぶ傾いていた。
そういえば陸上の大会の決勝戦もこんな感じの日が少し落ちた時だった。
少し夕日がかった光がオレンジ色のゴムのトラックをより鮮明に映す。
ここにくると予選を勝ち抜いてきた疲れも消えつよい高揚感に全身が包まれる。
リレーは学年別に行われもう妙の学年は走りだしていた。
基本的にリレーは男女各二名ずつだが走る順番は決められていない。
男子が先に二名続けて走ってもいいし、その逆もありでまた混合で走ってもかまわない。
走り出す走者の中に妙の姿を探すがなかなかみつからない。
次々と各選手が第二走者から第三走者へとバトンを渡す中妙の姿は見つからなかった。
とうとう最後の第四走者にバトンが渡る。
その中に男子に混じって一際小さい妙の姿がそこにはあった。
妙のクラスは現在二位。
トップとの差もそれほどない。
でもアンカーは妙のクラス以外は全員男子。
妙のことが急に心配になる。
いくら妙が速いといっても男子相手では勝つのは難しいように思えた。
みんな口ではこの記録会はやる気がないと言う割にはこの最後のリレーだけは自然と力が入る。
観客席から見る生徒たちも関心がないようにしながらも自然とトラックを駆け抜ける選手を目で追いかける。
妙にバトンが渡る。
私の心配など吹き飛ばすような絶妙のタイミングで妙が走り出す。
400メートルリレーのアンカーは小細工なしのストレート勝負。
純粋に走力のみが勝敗を決する。
妙はスタートで稼いだ分だけ後半の伸びがいい、徐々に隣の男子を引き離していく。
そのまま妙は逃げ切り見事一人抜いて一位になった。
その瞬間観客席からワァ!!と歓声があがる。
私の体がその歓声に大きく揺らぐ。
クラスメイトに囲まれて胴上げされる妙がなんだかすごく羨ましく思えた。
まるで昔の自分を見ているようで、あの走り終えた後の充実感がとめどなく私の中によみがえる。
妙ったら本当に速くなった。
私は妙ががんばって一位になった事もうれしかったけれどなんだか置いてきぼりされた気がして少し寂しかった。

「それじゃ順番だけど俺が一番目に走るから次はお前でその次は二条さん、でアンカーは悪津でいい?」
「ちょっとなんでアンタにお前呼ばわりされなきゃいけないわけ?」
一年のリレーが終わってつぎはいよいよ私たちの番だ。
「ったく綾香目当てのくせにせいぜい初めからビリなんかにならないでよね!!」
友人は悪津ともう一人の走者の男子と名前の呼び方で口げんかをしていた。
悪津の方に視線を向けると彼は一人真剣に屈伸をしながらゴールを一人見つめていた。
彼も妙と同じ所を見ている。
私はまだ本気で走るかどうかもためらっているのに…
「あ、悪津…」
私は口論している二人をよそに何となく悪津に声をかけてみた。
「なに?二条さん?ああっそれとありがとう。足すっかりよくなったよ!二条さんの分もがんばるよ!!」
また置いてきぼりにされた感じがした。
悪津はもちろん私が昔陸上をやっていた事なんて知っているはずもない。
たとえ知っていたとしても私の態度を見ていれば自分と同じところを見ているなんて思うはずもないだろう。
それでも私は少し期待していたのかもしれない。
彼に私が自分と同じ同じところを見ていることを。
「マネージャーもあんなにがんばったんだから僕も負けられないよ!!」
私の心はどんどん暗くなった。
妙と私は同じ気持ちでいたはずなのにどうして私だけこんな気持ちなんだろう
悪津はそういうとまた一人で黙々とストレッチを再会した。
多分私のことなんか見ていない。
ただ今はアンカーとして妙と同じように全力で駆け抜けることだけを考えているにちがいない。
突然私の心に悔しさのようなものがこみ上げてきた。
妙がこの高校にいて陸上選手をやっていないと聞いた時、私は少なからず安堵した。
妙も私と同じように何となく日常を過ごすことを選んだと決め付けてそこに居場所を求めた。
でも妙はちがった。妙はマネージャーでありながらもまだ立派な選手だった。
妙と会えた時、妙と話した時、ほんの数分前まではもっとも身近な存在は私だと思っていた。
でもそれは違った。
妙と一番近いのはこの悪津なのかもしれない。
だから妙は悪津の部に入部してマネージャーをしているような気がした。
私とは違う。それでも妙がいてくれたらそれでよかった。でも…
私は知ってしまった妙にいくら依りたくてもそこには見えない壁のようなものがあることに。
悪津と妙はこのトラックにいる、でも私はまだ観客席から見ているだけの存在。
私はどうしてもそこにいるだけなのが嫌だった。
陸上は許せないけど…でもそれより悪津と妙と違う場所にいることのほうがもっと許せなかった。
「…ねえ皆ちょっといい?悪津君も聞いて。…私アンカーやってもいいかな」
私は陸上が嫌いなのかもしれない、でも今このままの自分はもっと嫌だった。
私の言葉に皆がいっせいに驚いた表情を見せる。
「二条さんマジで?辞めときなよアンカー全員男だし運動部の連中だぜ?」
「そ、そうだよ綾香!なにこんなのにムキになってるのさ?」
「ごめん…でもアンカーやっていいの?ダメなのそれだけ答えて…」
「お、俺は別に構わないけど…な、なんか二条さんらしくないよな?」
「う、うん綾香どうしちゃったわけ?急にリレーなんて適当にって…」
私もこんな勝負を初めから捨てるようなことは言いたくない。
いくら中学の頃陸上部でもトップだったからってもう一年近くトレーニングしていない。
それに回りは普段から走りこんでる人たちだ、勝ち目なんてあるはずもない、でも私は…
「いいんじゃないかな?二条さんがアンカーでも」
今度は悪津のほうを皆が一斉に見る。
「な、なにいってんだよ悪津?二条さんに恥かかせる気かよ!?」
「悪津!!アンタ陸上部でしょ?アンカーが大事なことぐらいわかってるでしょ!?」
それでも悪津は真顔でケロリと答えた。
「リレーはみんなで走るものだからアンカーだけが重要じゃないよ」
あまりの空気の読めなさと当たり前すぎる正論に誰もが口を閉じてしまった。
 結局私たちは悪津の一言で半ばどうでもよくなりアンカーが私で悪津がその前ということにおちついてしまった。
私は走る少し前悪津を呼び止めた。
「ね、ねぇなんでアンタ私にアンカー譲ったわけ?」
彼はなんでそんなこと聞くのかという顔で私に答えた。
「だって二条さんが走りたいからでしょアンカー?走りたい人が走るの一番だよ」
そういうとまたいつものへらへら顔でゆっくりと伸びをする。
「それに二条さんってなんか陸上好きっぽい感じがしたから。なんとなくだけど」
悪津の言葉が胸の中に深々と突き刺さる。
走りたい…陸上が好き…そんな言葉が何度も体中を駆け巡る。
「勝敗も大事だけどでも僕は走る意思のほうがもっと大事でそれが勝敗を決めるんじゃないかな?」
悪津は何気なく言っているつもりなのだろうけど私にはその言葉はとても優しい響きだった。
悪津は私のことをもう一人の選手として見てくれている、そんな気がしたからだ。
「アンタって…ありがと悪津…」
悪津に聞こえるか聞こえない程度の声で言うと私はアンカーの集まる場所に足を向けた。
「二条さん!!二条さんが足を治してくれたからがんばるよ!だから勝とうね二条さん!」
不意に後ろから響く言葉に心が力強く後押しされたような気がした。
「悪津…アンタってホント馬鹿だわ…」
 
アンカーの集合所に来ると案の定回りは運動部らしき男子だけだった。
私は何となく居場所がなくその集団から少し離れた場所で一人ストレッチを始めた。
「おい!あれって二条綾香だろ?スゲ−かわいいな!」
「くうーあの短パンから伸びた足といい見えそうで見えないアングルがたまないよな」
「それよかストレッチするたびに体操着ごしに見えるブラのラインのほうがいいだろ?」
「走ったらぜってぇ乳揺れするよな…こんなことなら観客の方がよかったぜ」
男子達が聞こえないと思って私を見てあれこれ好き勝手なことを言う。
「あーたまんね…あのヒップラインがなんとも」
「つーか二条さんの体操着姿なんてエロ以外の何者でもないよな」
「ああ!!わかるそれ!!たしかになエロ以外考えられねぇよ」
だんだんと心が曇ってくる。昔のことがだぶる。
結局私が走ることより男子達はそんなとこしか見ていない。私は冷めていく心のままにストレッチを止めた。
「ごめん…悪津…私やっぱ走りたくない。ごめんやっぱり陸上なんて嫌いだ…」
 塞ぎこむようにして体育座りで走り出した走者を眺める。
どのクラスも今までの競技とは比べ物にならないくらい真剣に走っていた。
「…ばっかじゃないのムキになって。どうせこんなの意味ないじゃない」
膝に顔半分を隠し早くこの競技が終わることを望みながら流れてくる走者を見つめる。
悪津にバトンが渡る。
悪津は水を得た魚のようにコーナーを猛然と突き抜ける。
きん差でもらった一位のバトンを見る見るうちにリードをひろげこっちに向かってくる。
私はアンカーの係りの誘導でうっとうしそうにバトンゾーンに立つ。
その際も「後ろからいいケツが見れそう」だなどと言われる。
心は完全に走る意思などなかった。
誰にどう思われようと知ったことではなかった。
私は走りたくなかったし陸上が大嫌いだ。
うつろな目で必死に走りこんでくる悪津を見る。
悪津との距離がどんどん縮まる。
でも私の足は動かなかった。
ふと客席を見ると妙の姿があった。
妙はしきりに私の名前を連呼して私がもう一度走ることに目を輝かせている。
そんな目で私を見ないで!!私はあんたらとはもう違うの!!だからそんな目で…
「二条さんごめん!!」
悪津が私のところまで来ると動かない私の腕を強引に掴みどんどん引っ張っていく。
「い、痛!!ちょっと止めてよ悪津!!は、はずかしいでしょ!!」
「恥ずかしくなんかない!!二条さん走って!!勝敗なんてどうでもいいから!!」
悪津は私に目もくれずに私の腕をとりながら更に加速していく。
もうすぐバトンゾーンが終わる。
あのラインをこえてこのままだったら私たちは失格になる。
「おねがいだからもうほっといてよ!!それにもうこれじゃ私たち失格になるよ!!」
「そんなことさせない!!絶対二条さんをゴールに一番に向かわせてみせる!!」
悪津は自分の手からバトンを無理矢理私に握らせるとバトンゾーンから踏み越えないように
私の肩を強く前に押し出すとそのまま派手に地面に転がる。
転ぶ間際に悪津は私に向かって振り絞るように叫んだ。
「ぶっとばせ二条さん!!」
悪津は私が想像したこともないほどの力に満ちた獣のような顔でゴールを睨んでいた。
彼のその顔を見た瞬間全身に言いようのない力が湧き上がってきた。
同時に今まで走ることを拒否していた体がウソのように軽くなり気がつくとゴールを突き抜けていた。
頭の中が真っ白になった。
あの悪津の目を見た後は自分でも何がなんだかわからなかった。
体の震えが止まらなかった。
喜びに似た高揚感、全てを吐き出したような開放感。
わかったことといえばはいつの間にか集まったクラスメイトが次々と賞賛の言葉をかけてくれることと、
悪津のおかげでリレーで一位になったということだった。
友人や妙がクラスメイトが私の走りを見て喜んだ。
かつてのような喜びが体を包んだ。
でも悪津の姿はそこにはいなかった。

日は完全に落ちていた。
競技場にはナイター設備が備わっており、見上げればまばゆいライトが無数にトラックを照らしていた。
なぜかこの記録会の最後はレクリエーションと称して最後は皆で学年もクラスも関係なくオクラホマミキサーを
踊ることになっている。
私はクラスの男子や先輩に何度も踊りに誘われたが断り、友人から悪津が怪我をしたということを聞き彼を
探し続けていた。
トラック内で生徒達が楽しそうに踊る中、その輪から遠く離れた客席とトラックの壁にもたれながらその輪を
眺める悪津を見つけた。
そばに近づくと悪津は私に声をかけてきた。
「おめでとう二条さん。二条さんがあんなに足が速いなんて驚いたよ」
へらへらと何事もなかったように笑う悪津の顔よりも彼のテーピングで巻かれた右足首が私の胸を締め付けた。
「…ばか。なに言ってるのよ。アンタ私のせいで怪我したんじゃない。それなのになんで…」
悪津は相変わらず陸上に関しては人を疑うことを知らないのか、不思議そうに聞き返してきた。
「えっなんで?二条さん緊張してたからスタート遅れたんでしょ?別に二条さんが悪いわけじゃないよ」
「そ、そんなはず…で、でもアンタに迷惑かけたことは事実だし…その私…」
「そ、それは僕も同じだよ…ごめんね二条さんあんなことして…腕痛くなかった?」
本当にこの悪津という男はどうしようもない陸上馬鹿らしい。
「そ、それくらい平気よ。それより足どうなの…」
「ん〜とちょっとした捻挫程度だって。あ、でも全然たいしたことはないから」
またそうやってへらへらして…そうやってアンタは…全くお人よしにもほどがあるわよ…
「…ねえ。隣すわっていい…?」
「えっ!?あ、ああ…うん…ど、どうぞ…」
なに緊張してるんだか…リレーの時はもっと堂々と人の手を引っ張って走ったくせに。
「アンタってさ…なんでそんなに陸上がすきなわけ?」
私は悪津の本心が知りたくなっていた。
悪津なら私が陸上を捨てた時に捨てた大事なものをもう一度見せてくれそうな気がしたからだ。
「えっと…なんていうか…その…僕は成績とかよくないけど小さい頃から走ることだけは得意だったから」
悪津は困ったように時折鼻や口元をかきながらボソボソと続けた。
「だからその、しいて言えば唯一何も考えずに好きだって言えるからかな?」
悪津の答えは曖昧すぎるものだった。
けれどその気持ちは今の私ならほんの少し理解できる答えだった。
「なによそれ。答えになってないわよ。ホントアンタって走ってるとき以外はダメね」
「はは…二条さんキツイこと言うなぁ…でも二条さんは走ることが嫌いなの?」
それがわからないからアンタに聞いてるでしょうが。
「さぁどうなのかしらね?よく分からないわよ。でも今はちょっとだけ好きかな…」
悪津は私の答えをどう解釈していいのかわからない様子で眉をひそめて首をかしげている。
でもそんな悪津と今日は一緒に走れてよかったと思う。
お礼の一つでもしてあげるか。
「アンタ立てる?」
「うん立てるけど?」
「なら立って一緒に踊るわよ」
「へ?え、ええっーーー!?」
完全に悪津はダメモードに入っていた、でもこれはあくまでお礼なのだから踊ってもらわないと困る。
「で、でも僕なんかじゃ二条さんとじゃ釣り合わないしこんな足だから二条さんに恥かかせちゃうよ…」
「…つりあうとか恥ずかしいとかそんなの気にしないわよ。アンタだってリレーの時強引に私の腕掴んだでしょ?」
「あれは…その…仕方ないっていうか…ほら不可抗力ってやつだよ」
「いいから立ちなさい!!いい?これはお礼なの?わかる?今日アンタにリレーの時世話になったお礼!!」
強く言ってもまだ悪津はうだうだ言って立ち上がろうとしない。
まったくバトンでも持たせれば少しはしゃっきりするのかしら。
「あっ!!いたいた二条さん!!ずっと探してたんですよ!!一緒に踊ってください!!」
上級生だろうか見たこともないちょっと爽やか系の男子生徒が私に近寄ってきた。
「悪津いい?私はこう見えても結構モテるんだから気が変わらないうちに早く立ちなさい」
悪津にだけ聞こえる声でそっと耳打ちする。
それでも立ち上がらない悪津にまた私は熱くなり、また思考が脱線気味になってしまう。
「ごめんなさい。私今からこの人と踊ろうとしてたんですよ。本当にごめんなさい」
事情が異常な遅さで飲み込めない悪津を無理矢理立たせると、彼の内側に立って彼と両手を自分の手に重ねる。
「そ、そうなんだ。じゃ、じゃあ俺向こうにいますから気がむいたら是非!」
「これでアンタは私と踊らなくちゃいけないわよ?断ったら彼に対しても失礼になるからね」
渋々と引き上げる上級生を見送ると改めて悪津に踊るように言う。
「わ、わかったよ…で、でも僕は踊るの下手だよ?」
「いいわよ最初から期待してないから。ほらちゃんと手を握って。そういい感じじゃない」
内心かなり恥ずかしかった。
自分から悪津の手に無理矢理自分の手を重ねるなんて…ホント私コイツに対してはどっかおかしいな。
遠くから聞こえるオクラホマミキサーの曲に合わせてゆっくりとふたりでステップを踏む。
悪津は暗がりのなかでもはっきりわかるほど顔を真っ赤にして恐る恐る私の手に自分の手を重ねている。
私にぶつからないように慎重に足を運ぶ。
なんだか今日私を助けてくれた人物とは思えないほどの臆病っぷりだった。
でもそんな悪津がどこか優しい気がした。
  「おい…あれって二条さんだろ?なんであんな所であんな奴と踊ってるんだ?」
  「なんだよアレ…アレじゃ二条さん独り占めしてるようなものじゃんか!!」
  「アイツ誰だよ!俺の二条さんが!!…ご、ごめんみんな!ウソウソ!!」
悪津はそんな声が聞こえるたびにもう止めようとか情けないことを言ってくる。
「に、二条さんもうそろそろ他の人と踊った方がいいんじゃない?」
「…そんなにしっかり私の手を握ってるくせによくそんなことが言えるわね?」
からかって言ったつもりが悪津は間に受けて勢いよく手を放そうとする。
とっさに二人のバランスが崩れる、足を怪我している悪津はまともに踏ん張れるはずもなく私に倒れこんでくる。
「…アンタいい度胸してるわね?公衆の面前で私を押し倒すなんてそうそういないわよ?」
「ち、違う!!そんなつもりはないよ!!足がすべってそれで…」
「…だったら早く私の上から降りなさい!」
「はい…」
まったくお礼にしてはふんだくりすぎよ、まぁわざとじゃないんだろうけど…
「あ、綾香先輩が悪津先輩に…青姦されてる」
「な!?何をいってるの?これは事故なの事故!!…って妙じゃない!!驚かせないでよ…」
いつからかそこにいたのか二宮妙が意味ありげな笑いを浮かべながらそこに立っていた。
「お疲れさまです!綾香先輩に悪津先輩」
「マネージャー…びっくりしたよ」
「妙…あ、青姦ってアンタねぇ…もうちょっとまともな表現はないわけ?」
妙は悪びれた様子もなく笑いながら二人して座り込むところに私に擦り寄るように腰を下ろす。
「まぁまぁいいじゃないですか!それより二人とも私感動しました。あんなリレー初めてみましたから!」
「妙?それは私を馬鹿にしてるのかしら?」
結構痛いところをつかれて私は軽く妙を睨んだ。
「綾香せんぱーい冗談ですよ!冗談!でもお二人ともほんと速くて感動したのは本当ですよ!」
「それにしてももっと驚いたのは綾香先輩と悪津先輩がお知り合いだったとは…」
「妙わたしと悪津は同じクラスメートなのよ。それとさっきのはその…お、お礼だったんだから…」
「む〜これはひょっとしたらチャンスかもしれませんね…綾香先輩が悪津先輩のことを知ってるなら…」
妙はこうして時々人のいうことを聞いていないときがある。
今も私の言葉を聞き流して一人なにか納得したようにうなずいたりしている。
変な風にとられなければいいのだけど…まぁ妙のことだから冗談で済むだろうけど。
「綾香先輩!!さっき記録会のあとでお話したいと言ったのは覚えてますよね?」
急に真面目な態度で私に向き直ると私に同意を求める目で見てくる。
「ええ。覚えてるわよ?でその話ってなんなの?」
「えっとそれはですね…その綾香先輩にぜひうちの部のマネージャーになってもらいたいんです!!」
「マネージャーにね…って!!な、なんで私が!!」
妙から事情を聞くと、つまり簡単に言えば男子陸上部は廃部の危機なのだそうだ。
実際は人数的には六人以上と正式な部としては認められているのだが、実際活動しているのが二年の悪津一人と
一年男子の三人、それとマネージャーの妙の計五人らしい。
さらに話を聞くとどうやら他にも三年の男子が三名ほどいるらしいが近々退部するらしい。
それで今何気に男子陸上部は廃部の危機にあるらしい。
「話は大体わかったけどなんで私なわけ?」
「だって…綾香先輩の今日の走りを見てたら綾香先輩しかいないって改めて思ったんです」
妙はなおも熱心に私をマネージャーになってくれるように説得を繰り返す。
確かに今日のことで少しは陸上のこと…見直す価値があるかもしれないっておもったけど…
でも急にマネージャーなんて私はまだ…ってなんでこんなに前向きに考えてるのよ?
「綾香先輩ダメ…ですか?ほら悪津先輩もお願いしてくださいよ部長なんですから」
「二条さん…そ、その二条さんさえよかったらでいいんだけど…」
悪津は妙にせかされるままにごにょごにょと呟く。
「悪津先輩!!そんな弱気でどうするんですか!?…このままじゃ本当に男子陸上部潰れちゃいます…」
妙の一言でその場が低い雲に覆われたようになる。
「二条さん。僕からも改めてお願いするよ!毎日出てとは言わないから、来年まででいいからだめかな…」
「そ、そうですよ綾香先輩!毎日なんて出てくれなくてもいいですからお願いできませんか」
「正直…僕もマネージャーと同じこと思ってんだ。勝手かもしれないけど部の存続のために形だけでもいいから…」
悪津と妙が同じような切実な顔をして私の顔を覗き込む。
私は最初に妙にマネージャーをやってくれと頼まれた時はびっくりしたけれど
今日のことがあったせいか、それほど嫌な頼みごとには聞こえなかった。
…それよりも私がこの悪津の部の存続を左右する存在ということに私は興味を抱いた。
…もしかしたらこれが私にとって陸上が本当に信じられるものか確かめられる最後のチャンスかもしれない。
…悪津や妙が信じるこの男子陸上部が私にとっても同じように感じられるのか私はためしたくなった。
「…いいわよやってあげても」 
私がそう言うと妙と悪津は喜んだが内心は少しだけ罪悪感が漂っていた。
二条さんが僕たちの男子陸上部に入部してからはや一月が経とうとしていた。
おかげで部の廃部と言う危機は去った。
二条さんはありがたいことに毎日のように放課後になると部活に顔を出してくれていた。
二宮マネージャーの横で黙々と僕らのタイムを計ってくれている。
「悪津?なにこっち見てニヤニヤしてるのよ?アンタもさっさと走りなさいよ」
最初は無理矢理入部を申し込んだものだから、色々と心配したけれどその心配もなく二条さんはよくやってくれる。
それと部活にも活気があふれるようになった。
もともと二宮さんがマネージャーをやってくれていただけでも、一年男子にとってはおおいな活力なっていたけど
さらにそこに二条さんが加わったことで彼らにとってはもっと活力になっているみたいだった。
…まぁこんな邪な目で見てはいけないのだろうけど、二宮さんと二条さんのマネージャーコンビは正直絵になる。
二人がときおりじゃれあっている姿をみるとつい顔が緩んでしまう。
「…悪津!?なにそんなとこでいつまでも座ってるのよ?いいから早く走りなさいよ!!」
気がつくと二条さんが僕の前に立ってちょっと怖い顔で僕を見下ろしていた。
二宮さんの合図で一気に走り出す。
ゴールの先には二条さんがいてくれる。
それがなんだかすごく贅沢のようでもあり、僕も少なからず活力になっていたりした。
廃部と言う危機を脱したせいもあるせいか僕らの陸上部はなんかいい感じだったりする。
練習が終わると二宮マネージャーが今日の練習成果のことを話してくれるのだが、今はそれに加えて二条さんが
各選手のウィークポイントやその克服法をこと細かく指摘する。
それにしても二条さんて本当に陸上の素人なのだろうか?
僕は時々そう思う、そのあまりの的確な指摘は誰も口を挟めないほどしっかりしたものが多い。
…でもなぜか二宮さんと二条さんを見ていると、それは聞いてはいけないような気がして僕は何も聞かずにいた。
それでもいいと思う、今のこの陸上部の雰囲気は最高なのだから。
そんな穏やかな日々が続いたある日、ちょっとした事件が起こった。
廃部を決めていた三年生の三人が急に部活にやってきたのだ。
僕はこの先輩方とは部長を任されたといえどもあまり親しくはなかった。
もともと僕がこの部に入部した時から彼らは不真面目だった。
部室にこもり練習は何もやらずだべったり、ゲーム機を持ち込んだりとあまりいい印象は僕にはなかった。
「へぇーまじで二条さんがうちなんかに入ったんだ」
「よぅ二宮ちゃん相変わらずかわいいねぇ〜」
「悪津やるじゃねぇか!美人マネージャーをゲットするなんてよぉ」
彼らの突然の乱入に練習は一次中断になった。
…正直先輩たちはもう陸上を完全に捨てていたと思っていた。
…それに先輩たちの格好は完全に部活をやりに来たという感じには見えなかった。
「おう!!一年坊主どもなにぼさっとしてんだよさっさと走りこみでもしてこいっての」
「え…?で、でも僕達はいま走りこんできたばっかりで…」
「いいんだよ一年は俺らの言うこと黙って聞いてれば!!わかったらとっとと走ってこいや!?」
そう言われると一年生の三人は渋々と走り出した。
「せ、先輩。お久しぶりです…あ、あの今日はどうして急に…?」
本来なら練習すらまともにやらない先輩の言う事なんて突っぱねるべきなのだろうけど、
僕にはそれだけの勇気がなかった。
「あん?決まってんだろ?部活だよ。部活。そうだお前も一年と一緒に走ってこいや?」
僕は何かを言い返そうとしたがなかなか声が出てこないでいた。
「オイ悪津!?聞こえなかったのかよ!?お前もさっさと…」
「ちょっとアンタたちうるさいよ?それに誰?練習の邪魔しないでくれる?」
何もいえない僕の変わりに二条さんが割って入ってきた。
「そんな怖い顔しないでよ綾香ちゃん?俺らこいつらの先輩なの」
「…だから?先輩たちって部活辞めたんじゃありませんでしたっけ?」
二宮さんと僕が黙るなか、二条さんはたんたんと先輩たちに噛み付く。
「あーそれね…まーそうだけど。なんつーの俺らはOBだから」
言っている事がめちゃくちゃだと思った。
「それに綾香ちゃんってマネージャーとはいえ陸上初心者でしょ?だからこうして俺らが教えに来たってわけ」
二条さんの表情が一瞬すごく険しくなった気がした。
「…へぇそれはありがたいですね。じゃあちょっと見本に走ってくれませんか?いいでしょ先輩?」
今度は先輩たちが表情を険しくなる番だった。
「いいじゃんそんなこと。それよか今日は自主練ってことで俺の歓迎会に付き合ってよ」
「で、でも今日はそんな予定はありませんから…そのそういうのは困ります…」
「おっともちろん妙ちゃんも来てもらうよ。俺らの歓迎会に」
「そこでじっくり教えてあげるよ…陸上の初心者の二条さん?」
僕もなにか言い返したくてたまらなかったけど上手く言葉が出てこない。
「つーことで悪津。あとはお前のほうで一年の面倒見とけよ?いいな?」
二宮マネージャーはどうしていいかわからない顔で何度も僕の顔を見てくる。
でも僕にもどうしていいかわからない
二条さんはというと何となく下をむいているので表情がよくわからない。
「ふふっ…なに言ってるの?先輩方?誰がいつ陸上の初心者なんていいました?」
二条さんを見ると彼女はいかにも馬鹿にした感じで先輩たちを見ていた。
「悪いですけど私これでも中学の頃は…陸上部だったんですよ」
えっ?っといった顔で先輩たちが二条さんの顔を凝視する
「またまた…うそはよくないよ二条さん…いい加減素直に俺らと…」
「ほ、本当です!!綾香先輩は私の中学の先輩でしたから…それは本当のことです」
「それに私これでも中学時代、全国大会にも出てるんです。残念でしたね先輩?わかったらとっとと帰ってください」
二条さんの声はすごくプレッシャーがあったけれど、どこか悲しそうな顔をしていた…
それだけいうと彼女はもういくら先輩が話しかけようとも無視を決め込んでいた。
彼ら先輩にしてみれば、もう彼女を誘う口実がなくなったのだから当たり前といえば当たり前だった。
そうしているういちに彼らはすごすごと捨て台詞を吐きながらその場を去っていった。
僕は彼らがいなくなって胸をなでおろすと同時に、彼女がどうして今までそのことを
言ってくれなかったのか疑問に思えた。
「あの二条さん…二条さんが昔陸上やってたって…ほ、ホントなの?」
僕は聞いてはいけない気がしていたけれどどうしても聞かずにはいられなかった。
「…ウソよ。ウソに決まってるでしょ…そんなのアイツらを追い払うための単なるウソよ…」
二条さんはひどく疲れたような顔で僕と目を合わせる事もなく、口だけを動かして答えた。
「で、でも二条さんは僕らにいつも陸上のアドバイスを的確に教えてくれるじゃないか」
「悪津先輩!!ウソだって言ってるじゃないですか!!綾香先輩は…陸上なんて…やってません」
二宮さんの強い声に僕の心はすっかりしぼんでしまった。
なんで二宮さんがここまでムキになるのかわからなったけど…多分今はそっとしておいた方がいいのかもしれない。
  その日は部員の皆が特に二条さんと二宮さん、それに僕の間にはなにか隔たりのようなものを残していった。
「二条さん…それに二宮さん…二人とも一体どうしちゃったって言うんだよ…」
蒸し返す帰り道のなか僕はただ一人なにもわからないまま帰ることしかできなかった。
「綾香先輩…」
日が暮れた校舎の裏の木造部室の中で、私は綾香先輩の肩を後ろからそっと包み込んだ。
綾香輩は今も「あの時」のことと必死に戦っている。
今の先輩は冷たくて、私がもう少し抱きしめる手に力を入れてしまえば簡単に壊れてしまいそうだった。
「…ごめんね妙。私自身のことなのに妙まで巻き込んじゃって…」
私は何も言わないまま、ただ綾香先輩の体を自分の体温で温めるように抱きしめ続けた。

綾香先輩は中学のころ私たち陸上部の紛れもないエースだった。
高校からのスカウトもたくさん来ていた。
私はそんな綾香先輩にずっと憧れて少しでも多くの時間綾香先輩のそばにいたいと思っていた。
でもそんなささやかな願いは一瞬にして崩れ去った。
 …あの日のことは今でもよく覚えている。
綾香先輩の絶望に満ちた顔が思い出すだけで私の心を強く縛り付ける。
 …あの日は何気ない一日で終わるはずだった。
そうなんでもない一日終わるはずだった、私があの日部室に忘れ物さえしなければ…

「妙どうしたのさっきからキョロキョロして?」
「えへへ…どうも部室に忘れ物しちゃったみたいですぅ…」
「もー妙ったらしょうがないわね…いいわ、早く一緒に部室に行きましょ」
「綾香せんぱーい…二宮妙!そういう綾香先輩の優しいところ大好きです!!」
 …こんなささいな、でも温かい時間が私たちをずっと繋ぐ本気で私は信じていた。
綾香先輩は三年生最後の大会の予選を勝ち残って、残すは東京で行われる本戦を残すのみだった。
私たちは日が落ちた部室までの暗い道をじゃれあいながら歩いていた。
部室の前まで来るともう誰もいないはずなのに、部室の扉の隙間からは明かりが漏れていた。
「妙、誰かいるのかな?」
「そうですね?確か今日は男子が鍵当番でしたから、まだなかに残ってるんじゃないんですか?」
私と綾香先輩はいつものように部室の扉に手をかけようとした…
  「すげーなコレ…二条のパンツ丸見えじゃん!!」
  「コレもすげーよ二条のかかんだ胸の隙間からブラ丸見えだぜ!!」
  「つーかお前さっきから二条のユニフォームもってなにやってんの?」
  「いや、なんつーかこういうの見てるとさ、ここに二条のアソコがあたってたのかなとか思っちゃって…へへ…」
私はなかで何が行われているのかわかったが、あまりのショックにその場で固まってしまった。
綾香先輩は怒りをあらわにして部室のドアを乱暴にこじ開けた…
  「ゲッ!?に、二条…」
  「な、何だよいきなり入ってくるなよ!!」
部室では中央の机に写真らしき物が散乱していた。
「綾香先輩…」
綾香先輩は無言でその男子達が集まる机に行くと、散らばっていた写真を拾い上げた。
私も何となく先輩と離れたくなくて先輩の後ろに続いた。
…写真はどれも綾香先輩を盗撮したものだった。
綾香先輩がストレッチをしていて、見せるつもりなんてないのに見えてしまった下着が映ったものや
走り終わったあとの綾香先輩のユニフォームがお尻に食い込む写真など、どれも悪意のあるものばかりだった。
視線を外せば男子部員の何名かは綾香先輩のユニフォームのパンツを握り締めていた。
「ち、違うんだ二条!!コレは写真部の奴が勝手に撮っただけなんだって!!」
「そ、そうだよ!!俺らはコレを取り戻してこれからどうしようかと話し合ってたとこなんだ!」
綾香先輩は青ざめた顔で写真を投げ捨てると無言のまま飛び出していってしまった。
「綾香先輩!!」
私は先輩の後を必死で追いかけようとした。
でもまずい所を見られた男子部員に腕を掴まれてしまった。
「な、なぁ二宮!!お願いだからこのこと黙っててくれよ!!」
「わ、悪気はなかったんだ!!まさか二条に見られるなんて…頼む!!先生には黙っておいてくれよ!!」
「な、いいだろ?写真だって全部お前に返すから!見逃してくれよ!なあ!!」
乱暴に開けられたドアの向こうにもう綾香先輩の姿はなかった。
私は彼らに条件をのむ代わりに写真やユニフォームを全て回収した。
…翌日になっても綾香先輩は部活には当然こなかった。
…綾香先輩と会えない日が何日も続いた。
…先輩はあの日からずっと学校を休んでいると聞いたのはそれから三日後のことだった。

それから先輩は東京で行われる本戦を休んだまま辞退してずっと学校にはこなかった。
綾香先輩にあえないまま卒業まであと一月を残すだけとなったある日、先輩はふらりと学校にやって来た。
私は教室の窓から見えた綾香先輩の姿を見つけると、いてもたってもいらなくなり教室を飛び出していた。
げた箱に立つ綾香先輩はもの凄くやつれていた…肩まであった髪は背中まで伸びていた。
「綾香先輩…」
私はそんな先輩があんまりにも弱々しく見えてすぐにでも抱きしめたかった。
「妙…妙!!」
先輩は私の姿を瞳に映すと涙を浮かべて人目もはばからずに私に駆け寄ってきた。
「先輩…綾香先輩!!もう大丈夫ですから!!二宮妙はここにいますから!!」
私も人目など無視して先輩の体を強く抱きしめた。
ただこうしていないと先輩が本当に壊れてしまいそうな気がしたから…
それから私たちは校庭の片隅の誰もこない場所に身を隠すようにひっそりと寄り添っていた。
その間も私は綾香先輩をずっと抱きしめていた…
「綾香先輩…よかった…やっと会えた…家に行っても会えなかったから…」
「ごめんね妙…ごめんね…妙…」
 …それからどれくらい二人でこうしていただろう。
不意に綾香先輩の口からあの時のことがこぼれおちた。
「妙…あの後どうなったの…」
「…はいあの後…私があいつらから…写真や綾香先輩の荷物を全部奪い返しました」
「…そう…ありがとう妙。…それで今それはどこにあるの?」
「…えっ?そ、それは私のロッカーに鍵をかけて置いてありますけど…」
「…妙悪いけどそれを今すぐ持ってきて…」
綾香先輩は私の胸に顔をうずめたままだったので表情はよく分からなかったけど…すごく怖い感じがした。
綾香先輩に言われるままにロッカーからあの忌まわしい写真と先輩の物を手渡した。
「先輩…?それどうするんですか…?」
先輩は涙で前髪が顔にはりついたままで無言で「それ」を受け取るとどこかに歩き出した。
「先輩どこに…?焼却所?」
綾香先輩はそこの前に立つと勢いよく燃え盛る焼却炉の蓋をこじ開けると、次々と手にしていた物を投げ込んだ。
「綾香先輩…」
焼却炉の炎が次々と先輩の忌まわしい写真はもちろん栄光の証でもあったユニフォームや、
スパイクなどをあっという間に飲み込んでいく。
「あはははっ!!みんな燃えろ!!陸上なんて灰になっちまえ!!死ね!!みんな死んじまえ!!」
綾香先輩は髪を振り乱し涙を流しながら狂ったように笑い続けた…
私は燃え盛る炎を背に荒れ狂う先輩の姿に怯えて、ただ黙ってその光景を呆然と眺めていることしかできなかった。
綾香先輩はそれからは何事なかったように学校に来るようになった。
でも先輩の性格は私以外には冷たいものになっていた…
卒業式の日、先輩に私は呼び出した。
桜が舞う下にたたずむ綾香先輩は本当に綺麗だった。
それはこの世の全てから祝福を受けているようにも見えた。
「妙…アナタには色々と迷惑かけたわね…本当に今までありがとう…」
先輩の言葉はただの卒業式の別れと言うより、永遠の別れの言葉のような気がした。
「あ、綾香先輩!!わ、私は…」
私が言い終わるよりも早く先輩は私の唇をそっと指で押さえた。
「妙…アナタは私のことを忘れなさい。そして陸上を続けなさい…アナタはきっといい選手になれるから」
気がつくと頬には涙がこぼれていた。
私は先輩の言葉を何度も頭をふりながらいやいやとわめいた。
…でも先輩はそんな私を一度だけ抱きしめるとそのまま桜の舞う中に消えていってしまった。
一人取り残された私はずっとその場に崩れ落ちたまま泣き崩れた。
あまりにもそれは私にとって残酷な現実だった。
綾香先輩が桜の中に消えてからの私は抜け殻のようになっていた。
部活には不本意ながらも参加していた。
私にとってはそれが唯一綾香先輩とのつながりのように思えたから。
…でも記録は一向に伸びなかった。
…綾香先輩が言ったような「いい選手」にはほど遠かった。
綾香先輩のことを思い出すと胸がどうしようもなく苦しくて涙があふれそうになる。
私はいつしか綾香先輩にもう一度会いたいという気持ちでいっぱいになっていた。

三年生最後の大会、私は予選落ちという惨めな結果に終わった。
気がつけば何も手がつかないまま受験の季節を迎えていた。
私はなんとか綾香先輩の入学した高校を探しだすと、いつの間にかその高校へ淡い期待と共に向かっていた。

その高校は私の住む場所から駅で二駅ほど距離にある丘の中腹にあった。
校門の前に着いたはいいが、私はどうしても入ることができずにぼんやりとその高校の周りを歩いた。
校舎から離れた裏手に一人この寒いなか熱心に走りこむこの高校の男子生徒が目に入った。
彼はたった一人で何度も深く身をかがめたクラウチングスタートからゴールに向かって駆け抜けていた。
一目で彼が陸上部であることがわかった。
私は何もする事がなかったので校舎の裏手の土手に座るとぼんやりとその人を見ていた。
何度目かのゴールのあとふとその人がこちらに気づいて近寄ってきた。
「君中学生?ってことはうちの高校の見学?」
私は彼に警戒しながら首だけを縦に動かして彼の質問に答えた。
彼はそんな私の態度を気にする様子もなく満足そうに微笑みながら喋りかけてきた。
「さっきからいたみたいだけど陸上に興味あるの?」
「え?あ、はい…」
私は彼がなんだかそれほど悪そうな人には見えなかったので何となく答えることにした。
「…そっか。でも残念だな…うちの高校陸上部は男子しかないんだ…」
なんだろうこの人…別にこの高校に女子の陸上部がないのはこの人のせいじゃないのに…
こんなに申し訳なさそうに…なんか変な人…
「おーい悪津君!!今日は俺らもう上がるからあとよろしくなー!!」
後ろの方からこの人に向かって声がかかる。
見れば上級生だろうか仲のよさそうな男女が彼に手を振っていた。
「あ、あの悪津さん…?あの人たちは…?」
いきなり名前で呼ぶのは失礼かと思ったが、何となく彼や後ろの男女やこの陸上部のことが気になって聞いてみた。
「うん?ああ。あの人達?男の人はうちの部の三年生で部長。それで女の人は同学年のマネージャーさん」
彼はいきなり身も知らない人に名前をよばれても気にすることなく答える。
「そうだ!!君も陸上に興味あるならマネージャーやってみない!!」
何を思ったのか彼はまだ入学もしていない私にそんなことを言ってきた。
「えっ!?マ、マネージャーですか?…でもそれじゃ選手じゃなくなっちゃう」
彼の人の良さに釣られたのか私はつい彼の突拍子もない質問に答えてしまった。
「そんなことないよ。マネージャーだって立派な選手だよ。だって陸上が好きなんだから!!」
この人はこの歳でこんな恥ずかしい事をよく言えるものだと思った。
でも選手としてもう伸びそうもない私にとってはとても新鮮な響きに聞こえた。
 それから二人でほんの少しだけ話した。
結局、綾香先輩のことは聞けなかったけど私は悪津という人に少なからず興味を持った。
帰りの電車のなかで悪津さんの言葉が何度もよみがえっては私の冷めた心を温めてくれた。
「綾香先輩に悪津さんか…決めた!私この高校に入ろう!!」
春、私はこれといった苦労もなくこの高校に入ることができた。
綾香先輩にはなかなか会えなかったけれど私は信じていた。
きっとこの男子陸上部に入ればいつか綾香先輩にも会える、そんな気がしていた。
入学するとすぐに私は男子陸上部のマネージャーになった。
いつか綾香先輩に会える日を信じて…

「妙…もう大丈夫だから…」
私たちは日の落ちた部室でまだ寄り添っていた。
「いいえ…まだ私はこうしていたいからダメです」
古ぼけた蛍光灯が照らすなかで私たちはクスクスと笑いあった。
…少しづつだけど綾香先輩は立ち直ってきている。
…これって悪津先輩がやっぱ影響してるんだろうな
先輩たちのリレーの時を思い出す。
綾香先輩が走れないでいるときに悪津先輩が手をとって私の前から走り去る姿が脳裏に浮かんでくる。
二人で競技場の片隅で踊る姿が浮かぶ。
ちょっとだけ綾香先輩が羨ましく思えた。
「妙?いつまでこうしてるの?…こら。そういう所に顔を擦り付けない」
「えへへ…そうですね。あんまり暗くなると私綾香先輩のこと襲っちゃいそうですから帰りましょうか」
またどちらともなくクスクスと笑い出す。
こんな風にまた温かい時間を過ごせることを思うとなぜか悪津先輩の姿が浮かぶ。
「妙…なに顔赤くしてるのよ…ま、まさかアナタ…」
「えへへ。ばれちゃしかたないですね。綾香せんぱーい!!」
しばらく二人でこんなやり取りをしたあと私たちは部室を後にした。
駅までの帰り道すっかり日がおちたせいか随分と涼しい風が体を通り抜けていく。
「そういえば綾香先輩、もうすぐ夏休みですね」
「そうね…なんだか早いものね特に今回の一学期は…」
ふふっと何かを思い出したのか綾香先輩は楽しそうに笑う。
「それともう一つ。綾香先輩うちの部夏休み合宿するの知ってました?」
「合宿?いいえ初めて聞いたけどそんなのがあるの?」
「はい。悪津先輩から聞いたんですけど、毎年うちの高校の上の競技場で合宿するらしいんですよ」
「そうなんだ。確かにあそこなら練習にはうってつけよね。ふふっ…なんか面白そうね」
なんだか本当にこの高校に、この部活に入ってよかったと思う。
となりで微笑む綾香先輩、ちょっと変わってるけど信じることのできる悪津先輩。
立ち止まり高校のほうを振り返ると、その丘の上にはライトアップされた競技場が一際輝いて見えた。
「楽しみですね綾香先輩!!」
「妙ったらなによ急に立ち止まったりして。そうね…確かに楽しみかもね」
私たちはまたクスクスと笑い合うとゆっくりと歩き出した。
真夏の昼の刺さるような日差しが容赦なく僕らに降り注いでくる。
夏休みに入り僕らの一週間の男子陸上部の夏合宿が始まった。
去年は他の高校なんかと重なって結構大変だったのだけれど、今年はなぜか僕らしか合宿をしていなかった。
意外と夏休みに入ってすぐに合宿を始めたのが、他の高校と重ならない原因なのかもしれない。
僕はいつものトレーニング姿に着替えると他の一年生部員と共にストレッチを始めていた。
誰もいないトラックの真ん中でぽつんと、たった四人だけで練習なんてなんかすごく贅沢な気がした。
「お待たせしました」
などと暑さにぼんやりと身を任せていると二宮さんの声が聞こえてきた。
見上げると二宮さんはともかく二条さんもトレーニングウェアに着替えていた。
ついでに髪もポニーテールのように後ろで結んでいた。
二条さんは部活に参加することはあっても滅多に着替えることはなかった。
いつも制服姿でしか見たことがなかったのでなんかすごく…新鮮だった。
「なによ悪津?人の顔みてなんかついてるの?」
「い、いや…なんていうかその…め、珍しいなと思って…」
二条さんは「そう?」というとそのまま二宮さんと共にストレッチに参加し始めた。
「えっと…二条さん…なにしてるの?」
二条さんは眉をひそめると当たり前のように淡々と答えた。
「何ってアンタ…私と妙も練習に参加するのよ。文句ある?」
「ほ、ほんとに!?ホントに一緒に練習するの!?う、ううん!文句なんてないよ!!」
「なによそんなうれしそうな顔して?へんな奴…」
「まぁまぁ綾香先輩。悪津先輩もうれしいんですよ!先輩が走るのが!」
「二人してなに喜んでるのよ?でも私が参加するからには妥協は許さないからね」
二宮マネージャーの言うとおりだった、二条さんはマネージャーよりもやっぱり選手のほうが似合っている。
誰もいない競技場に僕達だけの声が響きわたる。
「悪津!!あと少しよ!!あと少しで記録更新よ!!」
ゴールを突き抜けると僕はそのまま地面に座り込んだ。
太陽の熱を吸収したトラックのオレンジのゴムが暑さを余計に感じさせる。
「…悪津あと0.7秒のタイムの短縮が必要ね…もう少しなんだけどね」
二条さんは自分も走っているというのに熱心にスコアノートに書き込んでいる。
「…それと悪津。アンタちょっと座って前屈一人でやってみなさいよ」
僕は額に流れる汗を手の甲で拭うといわれるままに前屈をやってみせる。
「やっぱり…あんた体まだまだ硬いわ。いいちょっと見てなさい」
スコアノートをその場に置くと二条さんは僕の前で座ると前屈して見せた。
「すごい…!!二条さんすごく体柔らかいんだ…」
二条さんは表情を変えることなく体を起こして立ち上がると僕の後ろに回った。
「いい?アンタは筋力とか申し分ないけどその分筋力の柔軟性がないの。わかる?私のいいたいこと?」
「つまりね。筋肉の柔軟性がないから筋力が十分に発揮できてないってわけ。だから今からストレッチやるわよ」
二条さんは僕が答えるまもなく背中をグイグイと押してくる。
「ちょっとこれだけしか曲がらないわけ?こら!!膝は曲げない!!」
「ちょっと待ってよ!!二条さん!!痛いって!!」
「我慢しなさいこれくらい!!いいからアンタは筋肉を伸ばす事だけに集中しなさい!!」
…といわれてもさっきから背中越しに柔らかなふくらみがフニフニと当っているのでそれどころではない。
…ついでに二条さんが僕の膝を手で押さえつけているため、時折彼女のひじが股間にこすれて集中どころではない。
「に、二条さん!!ホントにちょっとタイム!!だ、ダメだって!!あ…あぁぁぁぅ…」
「ちょっと悪津!?なにふざけた声出してるのよ!?…!?この馬鹿!!」
背中から幸せな柔らかさが消えると同時に、バシっという音と共に背中に平手の衝撃が走る。
「この…変態!!せっかく人が真面目にやってあげてるのに…アンタって男は…!!」
顔を真っ赤にして、ワナワナと肩を震わせながら二条さんが顔を引きつらせながら睨みつける。
「ご、誤解だよ!!だ、だって仕方なかったんだよ!そ、それに二条さんが強引すぎるから…」
またも背中に衝撃が走る、どうやら彼女は僕の言うことになんか聞く耳をもってくれないらしい。
「…いいたいことはそれだけかしら?さぁ…さっさと続きを始めるからそこにもう一度すわりなさい!!」
二条さん完全に怒ってる…逆らわないほうがいいよな…多分、いや絶対。
「じゃあ行くわよ?自分で膝をしっかり押さえてるのよ?離したら承知しないわよ!」
「えっと…これってあんまりじゃない二条さん?…あだだだだ!!」
二条さんはシューズの片方をぬぐと、その足を僕の背中に乗せると問答無用で体重を足にかけてくる。
「ほらほらまた膝が浮いてるわよ?しっかり押さえなさい!」
「あだだだ!!ねえ!!ちょっと二条さん?ちょっと…いだだだだ!!」
正直…他の高校の生徒がいなくてよかったと思った…こんなのあんまりにも…ひどすぎる。
「綾香先輩と悪津先輩が…SMプレーしてる…」
そこへ走り終わった二宮さんがちょっとうれしそうな顔をしながらこっちを近づいてきた。
「ち、ちがぁう…た、助けてマネージャー…ホントに痛い!!がぁぁぁぁぁ!!」
「あら妙。丁度いいところにきたわね。アナタもこの男のストッレチに協力しなさい」
二条さんの顔まではわからなかったけど、この分だと相当まだ怒りが収まらないらしい。
「そうですかぁ…それじゃ私も協力しますね。それじゃ悪津先輩。失礼します♪」
更に強い痛みがモモの裏全体に響き渡る。
二条さんと二宮さんはそんなことはお構い無しに高笑いしながら尚も僕の背中を踏み続けた…
「悪津さん…なにやってるんすか?」
このわけのわからない地獄絵図に一年の部員達がいぶかしげにこの光景を見ていた。
それから僕は二条さんの気がすむまでこの拷問に耐え続けた…こうして合宿が過ぎていった。
日が経つにつれ残すは今日が合宿の最終日となった。
皆、初日に二条さんの的確なアドバイスを受けてそれぞれの課題を順調にこなしていった。
中でも二条さん自身の、このたった六日間の成長ぶりは目覚しいものだった。
最初は短距離でも女子の中では学年トップクラスの二宮さん相手に追いかけるの精一杯という感じだったのに、
今では二宮さんを軽々と追い越してゴールを突き抜けていた。
やっぱり二条さんは選手としての方が似合ってるな…やっぱり二条さんて昔は陸上部だったんじゃないかな?
今も颯爽とゴールを駆け抜ける二条さんを見ながらそう思えて仕方がなかった。
 二人が走り終わると僕らは昼の休憩に入ることにした。
「やっぱり綾香先輩にはかなわないな…やっぱりすごいな綾香先輩…」
休憩室に腰を下ろすと、ふと隣に来た二宮さんがどことなく暗い表情で僕に呟きかけた。
二条さんは休憩しているほかの男子部員にジュースを配りながらも、あれこれとアドバイスをして回っている。
「うん。あれだけ記録を伸ばしておきながら、今もこうしてマネージャーまでこなすなんて本当にすごいよ」
「そうですね…綾香先輩って本当にすごいですよね…私なんか全然相手にならないですよね…」
さっきよりもいっそう暗い声で呟くと二宮さんはそれっきり黙ってしまった。
肩にすっと二宮さんの頭が寄りかかってきた。
「マ、マネージャー!?ど、どうしたの!?」
「なに大声出してるのよ悪津!?妙!?どうしたの妙!?しっかりしなさい!!」

大急ぎで僕は二宮マネージャーを抱えると競技場内の医務室に駆け込んだ。
…さいわい医師の話だと軽い熱中症にかかったとのことだった。
「じゃ妙が目を覚ました時に飲み物がないと困るから私なんか買ってくるね」
そう言うと二条さんは窓際で眠る二宮さん起こさないように静かに医務室をでた。
二宮さんの安らかな女のらしい寝顔を確認すると僕も医務室から出ようとした。
すると突然眠っているはずの二宮さんの手のひらが僕の腕をつかんだ
「マ、マネージャー?起きたの?体は平気?」
二宮さんは僕の腕をつかんだまま無言でうなずいた。
「き、急に倒れちゃったから…本当にびっくりしちゃったよ…」
二宮さんはベットから上半身を起こすと、うつむきながら黙って僕の腕を握り続けた。
「悪津先輩…綾香先輩ってすごいですよね…私なんかじゃとても代わりなんてつとまらないですよね…」
「ど、どうしたのそんなこと急に?マネージャー…どうしてそんなこと急に?」
「どうしてでしょうね…こんな手の込んだことまでして。私…どうしたいのかな…」
よくまだ事情は飲み込めなかったけれど、二宮さんはワザと倒れたフリをしたらしい。
「マネー…いや二宮さん。なんでこんなことを…二条先輩も心配して…」
「こんな時まで綾香先輩のことですか…今は私が目の前にいるのになんでそこに綾香先輩がでてくるの…」
二宮さんの手に力がかすかにはいる。
「悪津先輩…最近ずっと綾香先輩とばっかり話してますよね…」
「悪津先輩のこと最初に見つけたのは私の方なのに…悪津先輩のいい所だって私の方がたくさん知ってるのに…」
二宮さんは立ち上がると僕に寄りかかるように体をあずけてきた。
医務室の窓の白いカーテンが風に吹かれてふわりと僕らを一瞬包む…
「に、二宮さん!ど、どうしたの本当に…こ、こんなの変だよ…」
「もう…私なんかいりませんか…綾香先輩がいるから…もう…でも私だって…」
「いけませんか…私が…悪津先輩のこと…好きじゃいけませんか…」
突然の告白とそれに驚く僕をよそに、二宮さんの細い手が僕の首にそっと絡まる。
「私…嫌です…このまま悪津先輩と綾香先輩が近づいて…私の知らない二人になったら…私…嫌なんです」
「そ、そんなこと…あるわけないよ…だって…二条さんは僕のことなんてなんとも…」
「じゃあ悪津先輩はどう思ってるんですか…綾香先輩のこと…」
「そ、それは…」
答えることができなかった。
気づかないつもりでいたわけじゃない…
でもそんな風に思ってしまったら…二宮さんの言うように今の僕達の関係が壊れそうで嫌だった。
また窓から風が吹き込んできた、白いカーテンが揺れて二宮さんだけを包むようにして元の位置にもどる。
「やっぱり…悪津先輩のウソつき…」
そう呟くと二宮さんはゆっくりと僕の体を押しのけるように体を離した。
「ごめん…二宮さん…」
彼女は何も言わずに窓辺に立つと吹き抜ける風に身を任せていた。
「悪津先輩…綾香先輩はあの通りの性格ですから…気持ちきちんと伝えないと…だめですよ」
「二宮さん…俺…」
自分の曖昧さで余計に彼女を傷つけた気がして僕は必死に彼女のための言葉を探そうとした。
何も言い出せないふがいない僕の顔に二宮さんの顔が突然近づく…唇がほんの少しだけ重なる。
「に、二宮さん!?」
「…これで私は諦められます。悪津先輩…私ずっと先輩のこと大好きでした…」
もうお互いが二度と重なることなんてないのに僕らはお互いの息遣いが聞こえるくらいの距離で
お互いの瞳の奥の何かを確認しあうように見つめあっていた。

僕らはそのまま黙って分かれた。
二宮さんはベットに戻り僕は振り返ることなく医務室を出た。
なかなか二条さんが帰ってこないことが何となく気になったけれど僕は…今の僕には一人になりたかった…
「それじゃみんなおつかれさまでしたー!!」
合宿最後の夜、僕らは最後の日とあってささやかながら宴会を開いた。
二宮さんはあれから僕に対していつもの明るいマネージャーとして接してくれた。
みんなワイワイと出前のピザやコンビニで買ってきたお菓子を食べながら、思い思いの時間を過ごしている。
「ささっ!!悪津先輩ぐーっと一杯!!」
二宮さんが不意に僕の空になった紙コップにコーラを注いでくれる。
「ありがとうマネージャー。それじゃ頂くよ」
「いい飲みっぷりですね!!それじゃもう一杯!!」
心が少し痛んだ…あんなことしかできなかった僕に今までどおり接してくれる二宮さんの態度が…
でも二宮さんが「今まで」を望むなら僕もそうしようと思った。
そうすることがせめてもの彼女の心に対する精一杯のやり方に思えた。

合宿最後の夜の宴はあっという間に終わってしまった。
まだ僕は二宮さんのことを考えると心が少し痛んだけれど、それも時間にある程度任せることにした。
僕は皆が寝静まった後も眠る事ができず、気がつくと誰もいない月の光だけが照らすトラックにいた。
考えるたびに二宮さんと二条さんの顔が交互に点滅しながら、何度も脳裏に浮かんでは消える。
僕は走っていた。
ペースも記録も何も考えず、ただひたすらこれから決めなくてはいけない選択肢に覚悟を決めるかのように。
ひとしきり汗を流すと僕はその場に寝転んだ。
見上げた夜空には丘の上だけあって星がきれいに見えた。
ぼんやりとまたたく星を見上げていると視界が急になにかで覆われた。
「体冷えるわよ…こんな時間まで走るなんて体に悪いだけよ…」
視界を遮るタオルをどかすと二条さんがそこには立っていた。
「悪津先輩…綾香先輩はあの通りの性格ですから…気持ちきちんと伝えないと…だめですよ」

二条さんの顔を見た瞬間あの時の二宮さんの言葉がよみがえってきた。
今日あんなに強く覚悟を決めたはずなのに、いざ二条さんを前にすると何も言えないでいた。
「ねぇ隣座るわよ。それと少し話したいことがあるんだけどいい?」
状態を起こすと僕は二条さんの隣にすわった。
「う、うん…話したいことってなに…」
二条さんは僕の言葉を聞いてるのかわからない様子で夜空を見上げていた。
「…どうして…どうして妙のこと振ったの」
体が一瞬にしてつめたくなった…なんで二条さんがそのことを…
「妙…いい子じゃない。アンタみたいな馬鹿にはもったいないくらい、いい子じゃない…なのに…なのにどうして」
二条さんは夜空から目を僕に移すと強い視線で僕の眼を覗いていた。
「そ、それは…に、二条さん…み、見てたの…」
「…当たり前でしょ。あんな長い時間…あんなことしてたら嫌でも見ちゃったわよ…」
二人の間にどことなく気まずさに似た空気が流れる。
「それより答えて…どうして妙のこと…妙のことを拒んだの!?」
「そ、それは…僕が…僕が二条さんのことを…」
突然頬に熱が帯びる、二条さんの平手が僕の頬を叩いていた。
「止めてよ…そんなの聞きたくない!!どうして?なんで真っ直ぐな妙よりウソつきの私なんか選ぶわけ!」
「…う、ウソって…?」
「気がついてたでしょ…?私が昔陸上やっていたこと…今更知らないなんていわないでよ…」
二条さんは自嘲気味な笑みを浮かべると更に言葉を続けた。
「それにね…私がこの部に入ったのはアンタや妙みたいに陸上が好きでもなんでもないのよ!!」
「私は陸上なんて…陸上なんて大嫌いなの!陸上やっている奴なんて全員大嫌いなのよ!!」
「ふふっ…なによその顔?いいわよ全部教えてあげるわよ…」
「私が陸上部に入ったのはアンタ達の部の存続も廃部も私の態度一つで決められるからよ!!」
「陸上だって中学の時までは好きだったわよ…でも所詮私が陸上のユニフォームに袖を通したって
 回りの男達にとってはかっこうの自慰行為をするためのものだったのよ!!」
二条さんの顔は怒りとも悲しみともとれるような顔をしていた。
「なによ幻滅したでしょ?そんなことでって思ってるんでしょ?いいのよそれでも…」
「…でもアンタは!いっつも陸上のことばっかり考えて…妙のことまで傷つけて…一体なんなのよ!?」
「私のことが好き?止めてよそんなの!!私はアンタが思ってるような女じゃないの!!」
「…いいじゃない。アンタと妙なら…きっと上手くいく…だから…私なんて…」
二条さんはそう言いきるとトラックにツメを立てながら下をむいてしまった。
「ねぇ悪津…お願いだから…妙のところに戻ってあげて…お願いよ…」
僕の心にはそんな二条さんの言葉が悲しさで一杯のような気がしてならなかった。
無言で下を向き座る彼女を抱きしめる。
「や、止めてよ!!お願いだから離して!!おねがいだから…」
「嫌だよ!二条さん!ならなんで陸上部に入ったのさ?…まだ少しだって陸上が好きだったからじゃないの!?」
「そんなこと…そんなことわかんないわよ!!なんでアンタはいつもそうやって私の弱い所に触れるのよ!」
「そんなの僕だって知らないよ!!でも…でも二条綾香は間違いなく陸上が好きなんだよ!!」
フッと二条さんの体から力が抜ける、彼女の嗚咽が聞こえてきた。
「そ、そんな風に言わないでよ…そんな風に言われたら私は…本当に…陸上が憎めなくなるじゃない…」
「二条さん…今の陸上部はいい所だよ…気のいい一年生達がいて…二宮マネージャーがいて…」
「それに二条さんがいる…」
二条さんの髪を優しく撫でる、二条さんが壊れないようにそっと…でも強く抱きしめる。
「悪津…私ここに…アンタのそばにいたい…」
「二条さん…僕も君にここに…僕のそばにいてほしい」
月明かりを浴びて僕の腕の中にいる彼女は、今にも消えてしまいそうなほどはかない色をしていた。
僕と二条さんはどちらも離れることなくずっとよりそっていた。
「悪津…私のこと本当に好き?こんな嫌な性格でも好きでいてくれる?」
「うん…僕は二条綾香が好きだ…」
月は尽きることなく僕達を照らし続けた。
そっと月に照らされた片方の人の影がもう片方の影を覆う。
月明かりはその光景が終わるまでずっと照らし続けていた…
「悪津先輩!!綾香先輩!!早くしないと部活動紹介間に合いませんよ!!」
季節は桜の時期を迎えていた。
僕らは三年生になり最後の高校一年を迎えていた。
「ちょっと悪津なんでアンタ制服じゃなくて陸上のユニフォームなんて着てるのよ!?」
「綾香なんで?だって僕ら陸上部じゃ…」
無言で彼女は近づくと僕の頬を思いっきりつねりあげる
「人前では『二条さん』でしょ!?…これでもまだその呼び方されると照れるんだから…」
「ご、ごめん。それとなにが照れるの?」
「…いいからアンタはさっさと制服に着替えるの!!」
あれから僕たちは付き合う事になった。
…といってもまだまだ、ちぐはぐだらけの関係だけど、それでも結構幸せだったりする。
「着替えた?…ってネクタイ曲がってるわよ。ほら治してあげるからじっとしてて…んっ!これでよし!」
彼女はイタズラっぽく時々不意に僕の唇を奪う。
「あ、綾香…学校ではキスはまずいよ…」
「なにいってるの?うれしいくせに?それより今日の部活紹介でがっちり部員掴むわよ!!」

「それでは続きまして今年より新設されました『男子陸上部』を改めまして『男子、女子陸上部』の各部長からの
 新入生への部活紹介をお願いしたいと思います」


-fin-