ツンケンした彼女

突然のことに驚いた。親父が再婚すると宣言したのだ。
と言ってもこれ自体はたいしたことじゃない。親父も時折仄めかしていたことだ。
相手と一緒に暮らすというのもさほど問題ない。男二人の暮らしはいい加減限界になっていたし。
母さんが出て行ってから、はや3年。よくもまあここまで耐えてきたと思う。
親父の料理は男の料理そのもので、本人以外にはまるで食えた代物じゃない。
加えて、無駄に大きい家の掃除を全くしないし、洗濯その他一切の皺寄せがこちらに来ているといった具合で……
――話が逸れてしまった。とにかく、再婚相手との共同生活はむしろ歓迎なのだ。
以前親父に紹介されたことがあるが、優しそうな顔立ちの綺麗な人で、
あの偏屈親父のどこがいいやら、世の中わからないものだ。
自分で言うのもおかしな話だが、唐突な話に文句一つ言わない物わかりのいい息子だと思う。
さて、そんな中何に驚いたのかと言うと――相手も再婚、娘がいたってことだ。

ギャルゲーなどでは伝統的王道の一つを形成しつつある「親の再婚と義理の姉妹」、
そんな嘘のような状況が現実問題として降りかかってきた。
理想的な状況と言えなくもないが、日々の生活を共にするのである。想像を絶する事態だ。
同年代の女の子に何を言われるかわからないという不安に一日中苛まれ、遂には神経衰弱であの世逝き。
そんな未来が天啓のように閃き、そこそこ本気で家を出ることも考えた。
自室を小さな物置部屋に変えられても、結婚資金の御旗の下にデジタルテレビが延期されようと、
50近い親父の惚気話を聞かされようと、最終的に家に残ると決めたのは是非もない、先立つものがなかったからだ。
整った顔立ちは冷たい印象を与えがちだ、と言うのは本当だと思う。
初めて彼女と顔を合わせたとき、漠然と抱いた印象はそんなことだった。
自然な弧を描く柳眉や、抜けるように白い肌も印象的ではあるが、何よりも特徴的なのは知的につり上がった目だろう。
色素の薄い髪と対象をなす漆黒の瞳は、その涼しげな眼差しと相俟って、強烈に訴えかける魅力をもっている。
ぶしつけな視線を感じたのか、顔を上げた彼女と目線が合ってしまい、不安と気後れを感じながらも、意を決し声をかけてみた。

「あの、こんにちは」
人間関係の初歩は挨拶からと、焦る心を抑えて話しかける。すると整った顔を歪めて、
「馴れ馴れしくしないで。私は私でやっていくから、ほうっておいて」
横目で牽制しながら氷のように冷たい口調で告げられる。思いもよらない対応に唖然とした。
「あっ、その……」
言葉が出なくなってしまった挙句、さらに追い討ちをかけられた。
「最低限の必要事項以外は話しかけないでくれない?」
そう仰って彼女は、自室とでも決めたのだろうか、立ち尽くす男のかつての自室へと去っていった。
しばらく呆けてしまい、親父に鼻で笑われた。屈辱だ。

挨拶さえも失敗だ。取り付く島もない、とはこんな状況を言うのだろう。そこまで問題外の行為だったろうか。
……馴れ馴れしくするつもりなんてなかったけれど、ちょっとショックだ。これでも実は打たれ弱いのに。
そんな落ち込み具合を察してくれたのか、お義母さんがフォローしてくれる。
「ごめんなさい。あの子――静香っていうんだけど――、私たちの……その……再婚に反対なの。根はいい子なんだけど……」
恥ずかしがりながら、けれども心底すまなそうにお義母さんは言う。
「いえ、気にしてませんから」
気を使わせてはいけない、と思う。これはただの意地だけれど。

新たな住居となった狭い物置部屋に戻って布団に横たわり、お義母さんの言葉を冷静に考える。
よくよく考えてみれば、親の再婚なんてものは人生の一大事。混乱するのも当然だろう。
これだけでも大事件なのに、新しい家族――しかも同年代の男までいる――など受け入れられるはずがない。
そう思うと多少、苦手意識が和らいだ。これから長いであろう共同生活の間、少しでもいい関係を築けたらと思った。
習慣とは恐ろしいもので、日々の反復行為により徐々に人間の行動形式を規定してしまう。
勿論、作業効率の上昇といった利点もあるが、それは思考判断の放棄にも繋がるのであって、
環境が変化した場合、それは時として取り返しのつかない事態を招くこともありうるのだ。
いや、理屈捏ねるのは止めにしよう。そう、やってしまったのだ。それもかなりの大失敗。
でも仕方ないじゃないか。つい昨日まで、そうするのが当たり前だったんだから。
後悔後先に立たず、過ぎたるは及ばざるが如し、今回の教訓はそれに尽きる。

それはつい先程、学生の務めを果たして帰宅した何の変哲もない男に起こった。
いつものように部屋のドアを開くと、見慣れた部屋には見慣れない光景。
目に映ったのは、何故か下着姿の、大きな目を丸くして硬直している女性の姿。
昨日初めて会った彼女は、どうやら着替えの最中だったらしい。
すらりと伸びた脚に、柔らかそうな身体。艶やかな肢体はこの上なく目に毒だといえる。
――冷静に観察しているってことは、ちゃんとした対応ができずに混乱してる、ってことを表しているわけで。
「ちょっ! 何してるの、出てってよっ!!」
彼女の方が正気に返るのが早かったようだ。悲鳴のような叫びをあげる。それに対して、
「ごめんっ!」
とっさに一言だけ言ってドアを閉める。これが最も適切な行動のはずだった。
あまりの出来事に錯乱する余り、つい玄関先まで飛び出してしまい、今に至る。

それが事の次第。いまだに鼓動が早鐘を打っている。まあ、いきなりあれじゃ仕方がない。
不意に思い出されるのは、淡い水色の清楚な下着と、意外に――ではなく、
あの部屋を何故か彼女が使うことになったという昨日の展開だった。
それを失念していたのは自分のミスで、わかるのは今の出来事が今後に与える影響は計り知れないということ。
どうしたものか途方に暮れる。合わす顔がないってことだけは確か。
恐る恐る居間に戻ると、彼女が鋭い眼光で睨みつけてきた。目で熊を射殺せそうな感じだ、正直怖い。
ただでさえ気に食わない相手であるだろう自分。この態度も当然か、とは思う。
「さっきは……」
「いきなり何のつもり?」
言葉尻を引き継ぐように問いかけてくる。どうやら、故意に覗いたと思われているようだ。誤解は解いておきたい。
「いや、そんなつもりじゃ……」
「変態」
吐き捨てるように言って顔を背ける。
嫌悪感を隠そうともしない態度に、関係修復は困難と実感させられる。
「あれは事故で」
無実を訴えるが、聞く耳さえ持たない。
「もうやめて。聞きたくない」
そう言い残すと、彼女は無言のまま部屋へと立ち去っていった。

「ありゃ嫌われたな、お前。何したんだ?」
これ以上なく落ち込んでいると、仕事はどうしたのか、いるはずのない男が不意に話しかけてきた。
「関係ないだろ、それより仕事は?」
にやにや笑いながら近付いてくる親父。会話を聞いていたようだ。顔が全てを物語っている。
「変態」
声音まで真似る40代。殴りたくなったのは久しぶりだった。
静香は何もかもが不快だった。母の再婚、義父となる男との同居は、静香にとって青天の霹靂にも似た衝撃だった。
数多くの苦労をしてきた母である。幸福になる権利がある、と静香が心から思っていることは事実だ。
とは言え、新しい家族など、違和感以外の何ものでもない。理想と実践には埋められぬ大きな隔たりがあった。
加えて、静香には再婚相手である男がいまひとつ信用できない。どうしても軽薄で無責任な印象を受けてしまうのだ。

不快感に拍車をかけるのが、彼の息子であり静香にとって兄弟にあたる男の態度であった。
腫れ物に触れるような応対をされて、不快に思わない人間などいない、と静香は思う。
自分に対する過度に慎重な言動が、静香自身の要求に基づくものであり、不満は見当違いということは理解している。
彼にしてみれば、静香に誠実に対処しているつもりなのだろう。
理屈で理解していても、感情が伴わない。これは自身の欠点の一つだ。

また、なんとも許せない行為が先の出来事だった。
他人の部屋に入る時は、ノック位するのが最低限の礼儀ではないか。異性であれば尚更だと思う。
しかも、すぐさま出て行けば良いものの、しばらく立ち止まって眺めてきた。非常識も甚だしい。
混乱しているのは自分の方だというのに、言い訳するような態度も気に入らなかった。

――軽快なノックの音とともに部屋の扉が開かれる。
「居るか? ただ飯喰らい」
義父である。出会って間もないのに、ずいぶんな言い草だと静香は思う。否定はしないけれど。
部屋を見渡し、静香に目を遣ると、訂正するように言った。
「ん、ああ。ごめんよ、静香ちゃん。この部屋、前はあのアホ息子の部屋だったからさ。父さんつい間違えちゃったよ」
最後の図々しい言葉を無視し、静香は尋ねた。
「この部屋は彼の?」
「そうそう。日当たりいいからアイツ追い出したの。気に入った?」

嵐のように義父は去っていった。静香は再び思索に耽る。
そんな話は初耳だった。よくよく考えれば、あの部屋が空き部屋など都合が良すぎる。
とすれば、彼の行動は習慣的な何の悪意もない、日常行動だったということ。
――あんな態度をとって申し訳なかったと、少しだけ思う。話くらいは聴くべきだった。
今回は自分から少し歩み寄るべきだ、と静香は思った。
翌日のこと、自室こと物置部屋から出ると、居間で早速悩みの種に遭遇した。
長年の付き合いならばともかく、初対面に等しいこの状況では、一度与えてしまった悪印象を払拭することは難しい。
もっと落ち着いた状態で話すべきだった。しばらくはそっとしておくに限ると自分を納得させた。
触らぬ神に祟りなし、とは先人も上手いことを言う。とはいえ、今日の神は様子がおかしい。
どことなく、昨日より和らいだ雰囲気を纏っている気がするのだ。そう思い込みたいだけかもしれないけど。
などと考えていると、なんと彼女の方から話しかけてきた。想定の範囲外。

あまりに意外だったので、最初は戸惑うと同時に聞き間違いかと思ったくらいだ。
「ねえ、聞いてる? テレビが映らないんだけど」
「あ、ああ……」
男同士の会話のない生活の中、さんざん酷使され、それでも活躍し続けた古参の電子機器は、今や世代交代の時を迎えている。
デジタルテレビに買い換えることは、稀に見る父子共通の悲願だったはずなのだが……。とにかく、直そう。
「これは、こうして、こう」
左斜め60度から二撃、右側面に垂直の一撃を見舞うことで魔法の箱は復活を遂げる。コツと慣れが二大要素である。
「ふーん。買い替え時期ね」
「予定はあったんだけど、何かと入用で……。資金不足」
今日は何かおかしい。自然な会話が成立している。
と、思った次の瞬間、
「話しかけないで」
そう言うと、意地悪く口の端を上げる。赦しを得たと判断していいのだろう。女心は謎だ。
「ごめんごめん」
つい、口が滑った。嬉しかったのかもしれない。やはり、今日は何かおかしい。
彼女は片眉を上げ、意外そうな顔をした。
犬と比較した時に顕著となる猫の特性とは、端的に言えばその自由奔放な気質であると思う。
傲岸不遜で気分屋、媚びへつらうなんて決してしない、そんなイメージ。実際、猫の行動は自分勝手で我侭だ。
例外なのは主にごはんの時で、まるで別の生き物のように擦り寄ってくる。勿論、食後はまた知らん顔。
普段のつれない態度に、時折見せる別の顔。そんなところがまた、アンバランスで魅力的なのだ。
まるで何かの比喩表現かのように思わせぶりだけど、単純に文字通り、猫の話。

奇妙な生活も瞬く間に一週間が過ぎた。たいした進展はなくとも、関係は良好だと思う。
「ただいま」
帰宅したお義母さんの声。当然ながら、お義母さんには勤め先がある。これは日常的な姿だ。
しかし、今日はなにやら様子がおかしい。見慣れないトートバックを手に、不自然にそわそわしている。
しばらくして、決意を固めたのか、話を切り出してきた。
「実は、子猫を拾っちゃったんだけど……」
そう言うと、持っていたトートバックから白猫が顔を出す。
「また? もう、私が動物嫌いなの知ってるくせに……」
眉根を寄せて抗議する彼女。最近口数が増えたのは、良い傾向だと思う。
「でも、外は雨が降り始めたし、可哀想だったんだもの」
どうやらお義母さんには、迷えるペットを拾ってきてしまう習性があるようだ。
典型的なお約束パターンだが、母娘が逆なのが一般的か。

白猫がこっちを見て、首を傾げている(ように見える)。
純真無垢なその瞳が、心を覗き込むようにじっと注視していた。これは――
「……かわいい」
「何、らしくないこと言ってるの?」
思わず声に出していたらしく、怪訝な目をした彼女に言われた。なんたる失態。
「さっそくだが、この子に名前をつけないといけないな。うーん…………」
神出鬼没な親父登場。いきなり背後に現れるのは止めて欲しい。仕事はどうしたんだか。
「よし、浮かんだぞ! モナー、というのはどうだろうか?」
「まあ、素敵な名前! 勇ましくて、賢そうで……。でもね、私も考えていたのです。のま、というのはどうかしら?」
「のま、か……。どうもパッとしない名だな。しかし、お前が気に入っているならその名前にしよう!」

なんだか既視感を抱かせる夫婦のやり取りによって、子猫の名前はのまに決定した。後は彼女の説得を残すのみ。
この時、三人の心は間違いなく一つになっていた。毛利元就曰く、三本の矢折れ難し。
「のまの白い毛と黒い目、静香ちゃんに似てると思わないか?」
親父による懐柔の一言。黒い目はともかく、白い毛は苦しいか。
「……いえ、別に」
敵は強い。あの親父が苦戦している、ここは援軍を出さねばなるまい。
「これ以上なくかわいいじゃないか」
「……似合わない台詞は止めてよ。これ以上なく不気味だから」
一刀両断。この堅牢な要塞を落とすには、我々では戦力不足のようだ。
「静香には迷惑かけないから。ねえ、一生のお願い」
お義母さんの火力ある一言が炸裂する。すると要塞は首を横に振り、白旗をあげた。
「……わかったから、世話は自分たちでやってよ」
こうして、恐怖政治の象徴は陥落し、我が家に新たな同居人が出来たのだった。
底冷えのする暗い夜だった。静けさを切り裂くように電話が鳴り響く。理由もなく胸騒ぎがした。
こういった時の第六感は何故かよく当たる。人間という種に関わる本能的な問題なのかもしれない。
「ええ、はい。すぐ行きます」
いつになく真剣な親父の受け答え。仕事か、それとも――。
「行くぞ、母さんが倒れた」

身体を打ちつけるような激しい雨だった。車に乗り込み、病院へ向かう。誰も一言も話さなかった。
沈痛な面持ちで黙々と運転する親父。自分もこんな表情をしているのだろう。
対照的なのは、顔色一つ変えない彼女。一番辛いはずなのに、不自然なほどの落ち着きようだった。
喜怒哀楽といった感情に乏しいのかとさえ思ってしまう。

薄暗い病室で、お義母さんは昏々と眠っていた。身体に心配はないようだけれど、安心はできない。
医師からの詳細説明を聞くために、別室へ行くことになった。
「お前も付いて来い。静香ちゃんは此処で」
頷く彼女を一人残し、別室へ。

医者が言うには、過労と風邪の併発だそうだ。
二・三日休めば良くなるらしい。安堵した。力が抜け、緊張の糸が切れたのがわかる。
会社に連絡するから、その間に彼女を呼んで来いと言われ、病室に向かう。

扉に手を掛けた時だった、微かな啜り泣きが聞こえたのは。
僅かに開いた扉から、中をそっと窺う。
目に入ったのは、ベッドに顔を伏せ、声を押し殺して小刻みに震える彼女の姿。

不安でないはずなかった。動揺してないわけがなかった。
精一杯無理して、虚勢を張って、冷静なふりして――気丈に振舞っていただけなのだ。
どうしてそんな簡単なことにも気付かなかったのだろう。
見てはいけないものを見てしまった。そんな罪悪感が心を占める。
居た堪れなくなり、その場を離れようとした、まさにその時。
「誰?」
病室から声が聞こえた。
毒を喰らわば皿まで。覚悟を決め、病室の中へと入る。
それを見て取った彼女は、うつろな眼差しを向け、じっと見つめてきた。
充血した赤い目にまだ新しい涙の跡。泣いていたことが一目でわかる顔だった。

無言の時が続く。ほんの僅かな時間だったかもしれないし、数分続いたかもしれない。時間の感覚なんてなかった。
しばらくして、多少なりとも落ち着きを取り戻したのか、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「……ねえ、知ってた? あの人、仕事から早く帰ってきていたじゃない?」
あの人、とは親父のことだろう。確かに、親父はここ最近早くから家に居た。
「母の様子がおかしいから、こんなこともあるんじゃないか、って心配だったそうよ」
そういえば残業をしなくなったのは、同居を始めた日以来だったことに今更思い当たる。

「母さんのことなら誰よりも理解しているって、疑いもなく信じてた。
それなのに、そんなちょっとした変化にさえ私は気付かなかった……」
誰かに話しかけるというよりも、独白といった方が適切な口調。
「心配かけたくなかったんだよ、きっと」
「それでも、私は私が許せない」
それは自分を責め苛むような、強い口調だった。

一度話し始めると、関を切ったかのように言葉を続ける。
「再婚なんて反対だった。血の繋がりも無い男が、母さんに何ができるんだろうって、思ってた。
こんな環境、一時の気の迷いに過ぎない。どうせ上手くいかなくなって、また二人きりになる。
たった一人の血の繋がった親子なんだから、母さんの支えになってあげられるのは自分だけだって。
そのくせ、当の私は何もできないの。……ううん、できなかった」

「娘失格ね」
自嘲するように力なく笑う。いや、自嘲そのものなのだろう。――そんな顔は見たくなかった。
「そんなことない。お義母さんのこと、君はこんなに心配してる。親子じゃなきゃ、できないよ」
陳腐でありきたりな言葉。上手く言葉にならないのがもどかしいけれど、心底そう思う。
「いいの。これは、私の罰だから。ほうっておいて」
「でも……」
「お願いだから、しばらく一人にして……」
――三日後。お義母さんの退院祝いに、その日はいつもより豪華な晩餐となった。
「ちょっと静香ちゃん、しょうゆ取ってちょ」
それは、すっかり普段のペースを取り戻した一家の、以前と変わらぬ日常だった。
「どうぞ、お義父さん」
聞き慣れない言葉に、意表を突かれたのだろう、硬直している親父。人のこと言えないけど。
らしくもなく動揺した中年男は、二呼吸ほど溜めて、感無量とばかりに呟いた。
「娘って、……いいもんだな」
言い終えると、にやにや笑う。職質は避け難い顔つきだ。
お義母さんが、見守るような表情で彼女を眺めていたのが、やけに印象的だった。

夕食後、物置部屋で本を読んでいると、小さなノックの音が聞こえ、扉が開いた。
そこに立っていたのは、先ほど意外な行動をとった彼女。
この部屋に来るなんて初めてのことだろう。一体どうしたのだろう、と思っていると、
「この前は、ありがとう」
「えっ?」
「慰めてくれたんでしょ? ……余計なお世話だったけど」
そう告げると、表情も見せないまま、部屋へと戻ってしまった。
――訂正しよう。それは、以前と少しだけ変わった日常だった。
新婚旅行に該当するかは議論の余地が残るけれど、両親が五日間ほど旅行に出かけた。
これは必然的に二人きりの生活が始まることを意味するわけで、どうにも不安感が拭えない。
はっきり言って、これは非常にまずい。何がまずいのかと言われても答えに窮するけれど。
加えてあの日以来、彼女が垣間見せた弱さをつい意識して、過剰に反応してしまうのだ。
忘れようと努めつつも、病室での姿が目に焼きついて離れない。
何気ない会話の最中にも動揺してしまうというのに、二人きりなんて気が遠くなりそうだった。

最初の出来事は、日曜の朝だった。これ以上なく不自然なエプロン姿の彼女。どうした風の吹き回しだろう。
単に見慣れないだけかもしれないが、これほど似合わないというのも珍しいと思う。
「今日は私が作るから」
料理を作っている所なんて見たことないけれど、ちゃんと作れるんだろうか。なんだか心配だ。

目の端に、台所で悪戦苦闘している様子が見えた。近付いて、問いかけてみる。
「……大丈夫?」
「話しかけないで」
真剣な顔で答えるが、人参を切る手元が覚束ない。あの手付きは絶対初めてだ。不安が増す。
40分余り掛かっただろうか、件の品は完成した。
あんまり見栄えがよくない料理は、初々しい感じがしないでもない。
こんな時の定番といえば、砂糖と塩を間違えるなど、有り得ないミスをしているものだ。
「何よ、ばか。無理して食べなくたっていいわよ。私一人で食べるから」
不安が顔に出てしまったのだろう、不機嫌を露にしたお言葉。
さて、本日の少し遅い朝食は、秋刀魚の塩焼きに味噌汁とご飯、ほうれん草のお浸し、
――それと、場にそぐわない麻婆豆腐。豆腐が崩れてる。

それを見て、ふと思い出したのは先日のやり取り。
「ねぇ。好きな食べ物ってある?」
「麻婆豆腐だけど。どうして?」
「……別に」
大して気に留めていなかったけれど、何か関係あるのだろうか。――それこそまさか、だ。

「ごめんなさい。ありがたく頂きます」
「別にいいって言ってるじゃない」
目をつむって、ふいっと顔を逸らし、なかなか機嫌を直さない彼女。
だからというわけではないが、その苦労して作っただろう作品に箸をつけた。

――食後。
「ごちそうさま。おいしかった」
お世辞じゃない。見た目は今一つだったけれど、味はなかなか美味しかった。
「……そう」
興味ないような素振りをしているが、満更でもなさそうな様子だ。
「それじゃ、後片付けよろしくね」
にこやかに告げられる。――共同生活はまだ始まったばかり。
ちょっとした配慮は、人間関係を円滑に形作る上で最も重要な事由の一つであると思う。
一人にとって当然のことが、他人にとっても周知の事実とは限らない。
些細な誤解や無配慮、勘違いやすれ違いが、亀裂を作り出すことだってある。
前書きが長くなったけれど、これは全然関係ない、なんてことない五日間。

ある日のこと。
洗濯物を干そうと、洗濯機の中に手を突っ込んでいた時、背後に緊張感をもった声が聞こえた。
「何やってるの?」
どうしてそんなに硬い声なのか、正直心当たりがない。これは嫌な兆候だ。
「洗濯だけど……」
恐る恐る答える仕草は、まるで母親の顔色を窺う子供のようだと我ながら思う。三つ子の魂百まで。――違うか。

くだらないことに意識を割いていると、怒りを増した声がした。
「洗濯は私がやるって言ったじゃない!」
「でも、手が空いたから、やっておこうと……」
そのあまりの剣幕に、しどろもどろになってしまう。
「……本当にわかってないの?」
その様子を見た彼女は、溜息をつくように言う。呆れられたようだ。
「ねぇ、どうしてそんなに鈍感なの?」
頬を染め、軽く睨みつける彼女の様子に、ようやく合点がいく。
「あ! ごめん、後よろしく」
一息つき、首を縦に動かす彼女。――これは盲点だった。
またある日のこと。
突然のかん高い悲鳴に驚き、居間に向かうと、蒼白な表情で怯える彼女がいた。
声にならない声を出し、目を閉じて一方向を示す様子はただ事でない。
その指先に導かれるように、部屋の片隅に存在する元凶へと目を遣った。

そこにいたのは、四億年の古来より生き続ける遥かなる同胞であるところの仇敵。
どうしてこれほどまでに生理的な嫌悪感を抱かせるのか。実存に本質が先立つ、というのが適切な表現だと思う。
黒と異なり、茶はまた一段と気持ち悪い。二本の触覚が蠢き、こちらを観察しているようにさえ感じる。
殺虫剤が見当らないため、手持ちの武器は丸めた新聞紙。ヒノキの棒で旅立つ勇者の如き心もとなさだ。
対して、その敏捷な動きと秘められた生命力は脅威としか言いようがない。
飛ばれれば負け。本能的な恐怖ってやつ。

四度目の攻防で会心の一撃を命中させ、かろうじて死闘に勝利した勇者を待っていたのは、
姫君の口付け――ではなく、
「忘れて」
硬直した顔で詰め寄る彼女の姿だった。
「え? ……あ、ああ」
先の悲鳴か怯えた顔か、はてまた少し潤んだ目だろうか。けれど、そんなことはたいした問題じゃなかった。
「よろしい」
そう言うと、普段の怜悧な表情に戻り、
「ありがとうなんて、言わないから」
にやりと笑みを浮かべる。――報酬はそれだけで充分だった。

迎えた金曜の午後。親たちの帰宅に備えて、買出しに出かけた。長いようで、あっという間だった五日間。
何事も起こることなく、日常の延長が、いつもとほんの少し違った形で展開された日々。
懸念された彼女との関係もすこぶる良好といえる。当初からすれば恐るべき進歩だ。
何と言っても、こうしている今、二人で買出ししているのだから。

駅前のスーパーで、肉や野菜を購入し終え、帰途に着く。
傍らには、ビニール袋を提げた彼女。しかし、その格好はやはり似合わない。
家庭的な姿は全部似合わないんじゃなかろうか、と思わせる。

色素の薄い彼女の髪は、夕日に照らされ、緋に彩られている。
幻想的な色合いとなったそれは、美貌の顔立ちによく映えていて。
今更ながら、その美しさを再認識した。周囲からの好奇の視線がそれに拍車をかけている。
無遠慮に注がれる視線の雨、その標的はすべからく彼女だ。
隣を歩いている身としては、どうにも居心地が悪い。
対する彼女はといえば、毎度のことなのか気にも留めずに歩き続けている。
自分が注目されていることに気付いているのかさえ疑問だ。
ちぐはぐな二人はどのように見えるだろう。
兄弟姉妹、親戚――似ていないから却下。恋人、若夫婦――非現実的かつ不釣合い。
ふと考えてはみたが、そんなことはどうでもよかった。
何も考えずに、ただ二人ぼんやりと歩きたかった。

吹き付ける秋風は涼しげで、紅葉は街並みに花を添える。
途切れた会話と無言の間も何処か心地よい。
いつしか人影もなくなり、よく見知った住宅街へと差し掛かる。
ようやく見えた我が家。――事の発端はすぐそこにあった。

「何処行ってたの? 待ちくたびれちゃった」
眩しいくらいの夕焼けを背に、玄関前、ひとり幸枝が立っていた。

「同居始めたって聞いたから。どうしてそんな大事なこと、私に言わないかなあ?」
忘れてたわけじゃない。言いにくいことってあるじゃないか。
「いや、そのうち言おうとは思ってたんだけど……」
「本当にー?」
疑いの目で見る幸枝。こうなると手がつけられない。

不意に、服の裾を引っ張られた。目を遣ると、そこには目配せしてくる彼女。何だろう。
意思疎通が出来ていないとみたか、直接言葉で問うてくる。
「ねえ、こちらは……?」
ああ、そうかと納得していると、向き直った幸枝がじっと彼女の顔を見つめ、
「どんな関係に見えますか? お義姉さま」
含みのある笑みを浮かべて言った。

「おーい。帰ったぞー」
ちょうどその時、両親たちが帰ってくる。すっかり忘却の彼方だった。ごめんなさいお義母さん。
この組み合わせを見回し、過剰なまでの動作で驚きを表現し、親父は言った。
「おっ、幸枝ちゃん! 久しぶりだねー」
「お久しぶりです。おじさま」
澄まして言う幸枝。親父がその響きが好きなことを知った上での挨拶だ。

「どうだい、ご飯でも?」
「家に用意があるので、お気持ちだけ。今日はこれで失礼します」
帰り際、他の誰にも聞こえない位の声量で、幸枝が耳元に囁いた。
「明日、朝十時。駅前の喫茶に来て」

土曜の正午、静香はもやもやした不快感を持て余していた。
何をするにも手がつかず、ただ苛々するばかりで、全く要領を得ない。
理由は明白なようで曖昧で、少なくとも自分のエゴが関係していることは認識できた。

全ては昨晩の出来事に起因していた。
あの時の理解不能な状況が静香に与えた不快感は、彼女の人生でも屈指のものだと言える。
自分の与り知らぬ所で、まるで周知の事実でもあるかのように繰り広げられる会話。
加えてそれは驚くほど自然に、むしろ流れるように進んでいった。
笑い声や和やかな雰囲気に包まれて静香が漠然と感じたのは、取り残された疎外感だった。

明け方、静香が目覚めると、珍しく早くから活動している男がいた。
理由は明白だ。秘密裏に交わしたようで、逆に目立つ仕草だった昨日のそれ。
あえて見せ付けているようにさえ静香には思えた。これは偏見じゃないと思う。
「へぇ、意外。デートなんだ」
突然声をかけられ動揺したのか、少々上ずった声で答える。
「いや、そんなのじゃないっ。誤解だよ」
何を弁明する必要があろう。静香には全くもって関係ないことだ。
「何を誤解するのよ。早く行ってきたら?」
軽く肩を落とし、出かけていく後姿が見えなくなると、チクリとどこかが痛んだ。

昨晩出会った屈託なく笑い、どこか悪戯そうな輝きを目に宿した彼女。
嫌う要素などなかったけれど、お義姉さまと呼ばれた時の不快感を認めないわけにはいかなかった。
おねえさま。何か含みを持たせたその言葉は、悪意さえあるようで――。
いや、そうではない。これは嫉妬。不快感を装った独占欲だった。
そこまで理解しながら、静香はその対象がわからなかった。いや、わかろうとしなかった。
一体何に嫉妬しているのか。静香は一人、自問自答する。
幸枝と呼ばれた少女と自分との決定的な違いは、向日葵のような笑顔と可愛らしさだ。
同性の静香の目からみても、年頃の少女らしく、明るく快活な姿は魅力的に思えた。
それに比べて、どうして自分はこう無愛想なのだろうと考える。
テレビの画面に静香の無表情な顔が映りこんでいる。自分でも嫌になるほど愛想がない。
画面に向かって笑いかけてみる。――口の端が引きつり、絶妙な怖さを醸し出す。
二度三度と繰り返すものの、ぎこちない表情は変わらず、全く上達する気配が見られない。
笑顔は向いていない、静香は自分にそう言い聞かせたが、幸枝の笑顔が頭をよぎる。
まるで幻影を振り払おうとでもするかのように首を振り、深い息をついた。

疲れた顔の映りこんだ画面が気に入らず、テレビの電源を入れる。
静香は気晴らしになるかと考えたのだが、不運は続くもので、テレビの調子がまたも悪くなった。
いつの日か一度目にした通りに、真似て叩いてみるものの、全く効果がない。
膨れ上がる言葉に出来ない感情を持て余した静香は、吐き出すように言った。
「どうして直らないの! 私じゃだめなの!?」
自分でも何を言っているのかよくわからない。意味などないのだと言い聞かせる。
自分の無知が壁となり現れたようで、足場を失った寄る辺なさを感じた。
崩れ落ちるようにテレビにもたれかかり、左手を無造作に添える。
何も映すことのない無力な箱を、右の手のひらで叩く。繰り返し繰り返し。

テレビに当たっても、気が晴れることはない。そればかりか、ますます自己嫌悪の渦に足を取られてしまう。
(ニーニー)
唐突に、猫の鳴き声が聞こえた。脚にふさふさした感触を感じた静香は、目線を落とす。
そこには、身体を擦り付けるようにして静香を見つめる白い子猫がいた。
「お前も一人なの?」
すっと屈み込むと、静香はおずおずと手を伸ばし、子猫の喉を撫でた。