ぐだぐだコラム


コラムその11:人の力(エッセイ・東北ボランティア体験記)
<2011.5.10>

4月29日から5月6日にかけて、宮城県は石巻へ支援ボランティアに行った。

4月29日、あの日津波に飲まれた仙台空港へ降り立つ。
着陸の瞬間目に飛び込んできたのは、敷地の端に積み上げられた瓦礫や廃車の山。
1Fターミナルは全て使えず、とりあえず離着陸だけはできるようにしたという感じだった。

そこからバスを乗り継ぎ石巻へ向かう。高速道路は通れるが、次々と段差が現れる。

石巻駅に着くと、駅の周辺は道はガタガタ、いくつか建物は壊れ、使えなくなった家財等が道路のそこここに積み上げられている状態。

駅からボランティアセンターまで、タクシーに乗った。
タクシーの運転手さんもまた、津波の被害にあった方。
当日は避難が間に合わず、家の2階に上がったが膝まで水が来たそうだ。
そして避難所となっている学校に移ったが、学校が再開するということで家から遠い避難所に移され、片づけもままならない状態だという。

そのうちにボランティアセンターに到着。
私の入ったボランティアセンターは、地域のみなさんが公民館をNPO団体に貸して下さっている形でやっているところ。
この地区には、多くの児童が津波の犠牲になった小学校があり、
大人も子どもも、ボランティアセンターを訪れる地域の方のほとんどが身内を亡くされているというところであった。

そして、このボランティアセンターの活動の中心は、甚大な被害を受けた石巻沿岸部である。
オリエンテーション時の諸注意の中に、
「余震が起きた時のために、大事なものはすぐわかるところに置いておいて下さい」と言われた。
まだまだ地震はおさまっていないのだ。

4月30日、活動初日。牡鹿半島にある、とある浜へ。
この地区も甚大な被害を受け、建っていた住宅約50戸のうち、形を留めているのはわずか数戸。
活動内容は、瓦礫の中から漁具、特に地元の方がタルと呼ぶ牡蠣養殖用のブイを可能な限り集めるというもの。
重機では不可能な、人の手でしかできない作業だ。

この日、現場の責任者からの留意点にはこんなものもあった。
「この地区にも行方不明者で見つかっていない方がいます。見つけたら教えて下さい。というか見つけてほしいんですけど。」
「大きく揺れて津波が来るときはとにかく高いところへ上がって下さい。警報が解除されるまで絶対降りて来ないで下さい。」

5月1日・2日、同じ浜での作業も継続されていたが、私のグループは別働隊として、少し離れたとある漁師さんのお宅へ。
漁師さんは奥さんと子どもさんを亡くされていた。
お宅は津波が押し寄せた境界に位置しており、そこより下にあった約100軒の建物は全て流されて土台だけになっていた。
この漁師さん宅も1階はぐちゃぐちゃになっており、結局取り壊すしかないという。
家の中からご遺体がすでに3体見つかっており、もしかしたらもう1体どこかにあるかも知れないという。
そこで2日間かけて家具出し、家財の運び出し、泥出し、漁具の整理を行った。

2日夜、余震。体感では震度3くらい。

5月3日・4日、雄勝での活動。
600年の歴史を誇り、国指定伝統工芸品となっている硯の町も津波を受け壊滅。
工場やお店も全て流された。
活動内容は、伝統工芸の復興に向けての第一歩として、
硯や工芸品、原料の硯石、スレートなど、瓦礫として処分される前に可能な限り集めるというもの。
こちらも人の手でしかできない作業。
3日は外国人ボランティアチームと共同作業だった。
その中には、数か月前に大地震に見舞われたばかりのクライストチャーチから来ている方も。

3日夜、4日夜ともに余震。体感で震度2程度。

5月5日、再び牡鹿半島へ。初日の浜とは別の浜。
半島にはいくつも浜があるが、どこも壊滅状態。
活動内容は、瓦礫の中から漁船のアンカーの回収。
この日も外国人ボランティアチームと共同作業だった。

5日夜、余震。体感で震度2程度だが少し長く揺れていた。

5月6日、後ろ髪を引かれる思いで帰途へ。
タクシーを来るときと同じ運転手さんに頼んでいたが、連休中にボランティアが来てようやくお宅が片付いたとのこと。
来たときと同じく、瓦礫の山や今だ水の引かない沿岸部を横目に飛び立った。

震災に関するニュースが、原発以外のものは日に日に少なくなってきているが、
まだまだ手つかずで復興の兆しも見えないところをいくつも目の当たりにした。

陸に打ち上げられながらなお大漁旗を掲げる船、
悪夢のような津波が押し寄せたとは思えないほど今は静かで穏やかな港、
美しい夕日に照らしだされる瓦礫の町…
言葉にならない光景がいくつも広がっていた。


その中で、人の持つ力も改めて目の当たりにした。

同じ志・目標のもと、国をも越えて集まったボランティアの力は、現地の人も驚く早さで作業を進めた。

ボランティアセンターのリーダーをはじめ、現場で中心となっていた自分と同じような年代の人たちの力は大きな刺激になった。


しかし何よりもすごかったのが、現地の方々の力。

漁具の回収くらいしかお手伝いできなかったにも関わらず、
「みなさんのおかげで頑張ろうという気持ちが出てきました。ありがとうございました」
と言って下さった漁師の方々。

お宅の片付けが済んで帰る時に、
「またいつか、今度は遊びに来て下さい。この家手伝いました!って」
「きれいな町にすっからよ」
と言って下さった、漁師さんとその親類の方々。

全てを流されながら、伝統工芸の復活に向けて動き始めた硯組合のみなさん。

兄弟・姉妹を亡くしながら、ボランティアをいつも笑顔で迎え入れ、
似顔絵つきの寄せ書きまでしてくれた地域の子どもたち。


現地で出会った方々は、未曾有の大災害に遭いながら、みな前を向いていた。


何かほんの少しでも現地の方々の力になることができればと思って行きながら、逆に自分の方がたくさんの方からたくさんの力をもらってしまった。

これからも、時間の許す限りまた東北に来よう。力をもらって帰って来てしまった恩返しに、少しでもできることをしに来よう。


そしていつの日か、甦った東北の町を巡りに行こう。



戻る