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19世紀の終わりにガソリンエンジンの自動車が発明された。 1908年に大衆車T型フォードが発売されると、国民に普及しはじめ、 1915年にはアメリカでの所有台数が数百万台にまで発達していった。 しかし、道路事情はまだまだ未発達で、舗装された道路はアメリカ全土でも数百マイル程度だった。 1916年に全国ハイウェイ・システムを確立する整備法が施行され、各地でハイウェイが建設された。 1924年に全国ハイウェイ委員連盟が、多くの州をまたがって走る全国的なハイウェイ建設を計画。 今まで各地で固有の愛称で呼ばれていたハイウェイを統一すべく、 『ハイウェイ・ナンバリング・システム』が提案された。 |
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1925年、イリノイ州シカゴを起点に、オクラホマ州、ニューメキシコ州、アリゾナ州を通り、 カリフォルニア州ロサンジェルスまでの大陸横断道路が計画された。 ハイウェイ番号は当初“60”という番号を計画したが、大陸横断道路とするならば、 東端はシカゴでは不可という理由で「ルート60」は却下された。 1926年、全国のハイウェイに“66”が使われていないことを発見し、申請する。 |
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1926年7月13日、USハイウェイ番号“66”が承認され、ここに
『ルート66』
が誕生した。 |
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“ROUTE 66”は輸送トラックや旅行者の車で賑わい、 “Main Street of America” と呼ばれるようになり、 ハイウェイ周辺の町には、ガスステーション、レストラン、モーテルができ、 ハイウェイ産業が盛んになった。 |
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1934年から数年間にわたり、テキサス、オクラホマのアメリカ南西部に幾度となく砂嵐が発生した。 砂塵によって昼間でも薄暗い日々が続き、農地は不毛の荒野となってしまった。 オクラホマ農民達は、車に家財道具を積み込んで、 太陽が輝く豊かなカリフォルニアを目指し移民していった。 そんな様子をジョン・スタインベックは1939年に小説 『 怒りの葡萄 』 として発表した。 その小説の中で彼はルート66を “66 is the mother road.”と表現した。 1941年にジョン・フォードが映画化し、アカデミー賞を獲得、ルート66の存在が全国的に有名となった。 |
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1941年、第二次世界大戦が始まると、政府は交通の便がよかったルート66周辺に軍事基地を建設した。 ルート66は軍事輸送や軍関係者の家族移民によりさらに繁栄していった。 1945年に太平洋戦争が終わると、アメリカは戦後の好景気で沸き返り、 国民はこぞって新車を購入し、旅行に出かけた。 そんなビジネスチャンスを掴もうと、人々はハイウェイ周辺の町で続々と商売を始めた。 アールデコ調のカフェやパステルカラーで彩られたダイナーができ、 巨大な人形や派手な看板が店の前を飾り、ハイウェイ・ビジネスの黄金時代を迎えた。 |
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自動車の登録台数が増大し、市街地での渋滞が社会問題となっきていた。 政府は、長距離移動がスムーズにできるよう 市街地をバイパスするスーパーハイウェイを計画した。 市街地をバイパスするインターステート・ハイウェイができると ルート66を利用する車が激減し、商売に影響を及ぼすため、 周辺住民は“ROUTE 66 ASSOCIATION”を結成し、 ルート66存続に向け政府に対抗した。 |
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しかし、インターステート・ハイウェイが順調に完成していくと、 ルート66は交通量が減り、住民達は郊外へ引越し、 カフェ、モーテルは軒並み店を閉鎖し、町は廃墟と化していった。 |
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1984年にアリゾナ州ウィリアムズ部分のインターステート・ハイウェイが完成し、 シカゴからロサンゼルスまで一本道だったルート66は、 5つのインターステート・ハイウェイにとって替わり、 地図上から“US Highway Route 66”の文字が消えてしまった。 しかし、人々の心から“Route 66” が消えることはなく、 各地で修復保存の動きが高まり、ミュージアムやイベントにはたくさんの観光客が今も訪れている。 |
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参考文献:東 理夫著「ルート66 アメリカ・マザーロードの歴史と旅」丸善ライブラリー
MICHAEL WALLIS 「ROUTE 66 THE MOTHER ROAD」ST. MARTIN'S PRESS B.Moore & P.Grauwels「the ILLUSTRATED GUIDEBOOK to the Mother Road」 |
Route 66
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