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かみのまにまに ★
春。或る晴れた朝。
外濠に拡がる桜並木を見たいのだと、起き抜けに前髪を掻き揚げながら彼は言った。
「せっかく天気いいんだし。千代田のさ、淵の周りを散歩して適当に見つけた店でメシとか
喰って」
指先に細い髪が絡まる。
柔らかなそれが、かたちの善い額でぱさぱさと音をたて僅かに馨る昨夜の月の匂いを連れ
て来る。…夕べは満月だ。
「どう?」
問われれば、返すのが日常で。
「オレは別にええけど―――今日、週末やで?」
「ん。そうだけど」
素直に頷く。
「溜まってる洗濯もせなあかんし、…それより、花見客で混んどる電車に乗るの、工藤ダメ
やろ?」
覗き込むと、一瞬思案顔をしたがすぐに視線を戻した。
「どうにかなるだろ、たぶん」
「――――…どうにかなった試しがないから言うとるんや」
「まあね」
目を細めて、笑う。
平次の言葉を気にした様子もない。
苦笑に似た笑いを洩らす新一に、けれどいつものような計算高さは感じられなかった。な
らば、どうにかして願いを聞き届けてやりたい気持ちには駆られるが、まず会話が成立しな
ければ話は堂堂巡りだ。
聡明な新一だが、ときおり思いつきで甘えた面を見せる。
まるで。
気紛れな猫のように。
「あんな、工藤」
「……連れてってくれねえの?」
請われれば、願えばその純粋さにいつも負ける。
その我儘は特定の相手にしか見せない側面なのだと、知ってはいるけれど。
しばし眩暈に襲われた。
***
特別訊かれなくとも、自分の日常は知っていて貰いたかったから、逢うたび、予定や都合
はそれとなく新一には知らせておくようにしている。すぐに忘れられてもいい。
携帯やメールは好きではないと言うので、その方法は専らアナログで、目を見て話せると
きに限ってこちらのことを会話に挿し込む。話すタイミングも特別はなく、それは日常生活
の合間だったり、長いキスの途中だったり様々だ。
新一は、驚くほど物理的なものを慾しがらない。
言葉にしろ、結果は同じだった。
きっと自分は与えられないことを解っているから、相手を探り、求める本能をいつの頃か
らか封印してしまったのだろう。手を延ばすことさえも忘れたように、然し目の前にある平
次を誘う瞳は、いつも熱く情慾にしっとりと濡れていた。
会話を交わすのは、言わば繋がりを断ちたくないから。ただそれだけに過ぎない。
自分の顕示欲で振り廻して、強引かなと思いはするけど、殊更その手法を否定されたこと
もなかったからこの関係は断ち切れることなく、そのままに現在まで続いている。
「…へえ」
新一の答えは、何度繰り返しても変わらなかったが、その刹那だけでも自分のことを考え
てくれるという事実が慾しかった。
高望みは堕落に継がるから、絶対にしない。
ただ、それだけだ。
溺れている、と自覚している。
だから、少しの我儘くらいは叶えてやりたいと思うのは致し方ないことなのだろう。
惚れた弱みと言うには、あまりに些細な自己満足ではあるけれど、この気持ちは自分独
りが知っていればいいのだとも思う。
「…工藤」
「なに」
名前を呼ばれれば、聡明に返す。
「…おまえ、オレがいま単車預けとるの知っとるよな?」
「知ってる」
「―――なら、」
「なんで、花見に連れてけなんて言うんだって? おまえ、単車ねぇから自宅よりは大学に
近いウチに泊まりに来てんだろ。わざわざ往復すんの面倒臭いとか理由つけられりゃ、バカ
でも覚える」
新一の科白はにべもない。
そう言えば、大学までの道程を引き合いに工藤邸への居候を決め込んだのは食客のほうが
先だった―――その間の家事全般は、家主の気が向かなければ自分で世話をして、またなし
崩し的に若き主人の面倒まで見るだろうことは、分かりきってはいたのだけれど。
・・・…犬でも、喰い下がるくらいはしてみても罰はあたらないだろうか。
「…せやかて、工藤」
「……依存症だな。しかもかなり重症の」
「へ?」
自分自身が、間抜けた反応をしたことに驚いた。
彼に突拍子もないことを言われたことは、解る。
だが、言葉が聞き捨てならないとは理解できても、その意味が通じてこない。平次の愛
車―――750ccのそれは車検に入り、月曜まで仕方なしに電車を使った生活なのだと新一
は知っている。
「……依存症?」
もう一度訊く。
するとベッドから半身を乗り出して、新一が唇を歪める。
「依存症だろ、おまえ―――オレに関して」
「!」
くい、と顎を捉えられて渇いた膚が唇に触れた。
とびきりに綺麗な貌が、アップになる。
ああキスされてるんだな、と甘い感触に思いあたり瞳を閉じると名残もなしにそれは羽根
のように離れてゆく。
唇の冷えたぬくもりは触れるたび、何かに餓えているのかと錯覚するほどだ。
狂気は、本能をも孕んでいる。
「…・・・相変わらず、巧いやん」
「御陰さまで」
にこりと微笑うのは、ただ彼が意図的なのか天然に誘い上手であるのか解らない。
口にしなくとも、誰の所為かなんて解りきっているから互いに口述上の関係はビジネス
ライクだ。寄り掛かり合わないからこそ、いつか一人になればまた日常へも戻ってゆける。
そのときを―――覚悟は、してる。
「で、どうする。やっぱり電車で行くんか?」
「それは嫌だっつってんだろ」
醒めた答えは変わらない。
分かってる。
新一の人混み嫌いは、徹底的だ。特に春を求める乗客でごった返すこの季節は、桜並木の
傍らを抜ける環状線さえ受け付けない。我儘かと思い、いつだったか強引に満員電車に乗せ
たら、駅舎を出た処で鳩尾に蹴りを喰らってそのまま工藤邸まで捨てていかれた。
…あれは冬の日だ。
肌寒い夜だったにも拘わらず、この仕打ちはどう説明すれば良いのだろう。
けれど記憶の地理を駆使して、漸くの思いで帰れば先に帰宅を果たした彼が、階段の手摺
りのみを支えに蒼い顔で浅く息を吐いている。
眩暈と震えが止まらない、寝かせたベッドに横たわり掠れた声はそう告げた。
―――――…APTX4869の解毒剤の副作用なのだと知ったのは、彼の戦友でもある隣家に
住まう美しき女性化学者からその理由を聞かされたときだ。
新一は他人に触れられることで体調を崩すから、人混みが苦手になったのだ。
己の意思では、決してなく。
もう、こんな想いは二度としたくはなかった。
***
「そしたら千鳥ヶ淵までよう行かれへんやん。言うからには策くらいあるんやろ―――っ
て、・・・へ。く、くく工藤?」
平次は、まず建設的な意見を求めようとする。
寝床に腰を下ろし、前髪に見え隠れする瞳を覗き込む。
そして。
そのチョコレート色の髪を退けてやり、今度はこちらから唇を重ねようとした瞬間、だが
剥き出しの腕が延びてきたかと思えば隙を衝いて、ジーンズの後ろに挟んだままの財布を抗
う暇もなく取り上げられた。
誰に似たのだろう、手先の動きは驚くほど華麗だ。
思わず、といった形で退いたのは致し方ないことだろう。
「…・おまえ、何のために普通自動車1種免許持ってんの?」
「は?」
寝起きで、未だ上擦る声が平次を責めた。
新一には悪いが、話が見えない。
「…」
しばらく視線を交わす。
言葉がその役割を果たしていないのだからどうしようもなく、睨み合っていると居た堪れ
なくなり平次が瞳を逸らした。結局、勝負はいつも新一の勝ちだ。
「服部」
艶やかに笑み、そのまま平次のジーンズに収められていた二ッ折の財布から、整いすぎの
指先が薄型のカードを峻別して差し示す。
免許は、確かに取得されている。
「えと、工藤?」
「――――…おまえの自動車免許は、バイク使えねぇときのためじゃないのかよ。だから、
連れてけ。桜が満開の千鳥ヶ淵」
言葉をかたち造るのは苦手だと、ずっと昔に新一が言っていたことを思い出した。
嘘は吐けないから、と。
だから。もし、この腕を延ばして求めることがあれば、それはどのようなかたちであれど
もきっと酷く不様で恰好悪くて、そして形振りなんて構ってられないくらい、最悪に醜い自
分をそのときは見せるのだろうと。
淡い桜色の花弁を見上げながら、そう彼は言った。
あれは、何度めの春だっただろう。
( …それでも、いいなら。
)
抱き締めた心臓の鼓動は規則正しく、届いた言葉は本音だと覚った。
だから、覚悟した。
あの瞳に誘われるのは、すべて神の意のままにあることなのだろう。
「――――…んじゃ、クルマ貸してな?」
「そうだな」
クローゼットからジーンズと黒のシャツを纏うと、振り返り笑う。
姿見に映るその表情は柔らかく、寝しなに開け放していた窓から凪いだ風が入り込めば、前
髪を揺らして目にする彼の年齢をふたつみっつ下げさせた。
こんな笑いもできるのだと、懐かしいような何だか泣きたい気持ちに心臓が軋んだ。
だが、その思いは教えない。
「ナビゲーションはオレで充分だろ?」
「…上等や」
「決まりだ」
答えると同時に、車庫にあるクルマのキィがチェーンごと投げられる。
描いた軌跡は、やがて褐色の掌のなかに吸い込まれてゆく。
春の陽気に、まるで新一は猫みたいに上機嫌だ。
*
夜。帰り道。
淡々と外の情景を映し出してゆく車窓からは、だが見える訳もないサクラの匂いが仄かした。
「―――――久々の花見やろ。満足したか?」
ステアリングを握りながら、軽く問うた。
「そりゃもう」
「何処がよかった?」
少しばかり、興味が湧いたので訊いてみる。
春を桜を求めた小旅行は勿論それで終わる筈もなく、結果的に箱根まで連れて行かれた。
それも、これも優秀極まりないナビゲーターが気の向くまま―――笑顔で出した指示の
所為だ。手にアナログな地図は持ってはいたけれど、どうせあいつのことだ、碌に見ては
いないだろう。
だが、運転手もただ言いなりになるばかりではなかった。
午前中の内にマニュアル通りに乗った東名から、頃合を見ればわざと道を逸れて鎌倉の
海を目前にぬくぬくと昼寝をしている。文句を言う助手席の相棒も、一緒に。
考えれば、贅沢な話に違いない。
「・・・…何。ヘンなこと訊く奴だな。そんなの種類が違ってんだからそれぞれだろ」
新一の言うことも尤もだ。
父親の趣味だろう、議論の末に、結局クラシカルな物件が多い工藤邸の車庫から拝借した
乗用車は、彼の母親が帰国するたび使っているのだというジャガーだった。
然し、容姿や演技力にこの母の遺伝子を余ることなしに受け継いだ新一も、趣味に於いて
はシンプル第一主義で、本革張りのシートにも興味なさそうに窓の外を眺めている。
少し開けた窓から、風が頬をすぎて気持ち好さそうだ。
「にしても、このシャーシのバランスにはマジ惚れしてもおかしないな。燃費もええし、」
「あたりまえだろ、それは」
「ん?」
まるで愛しいものを見るかのように、目を細めた平次が振り返る。
「っ、」
「・・・なに、工藤。言うてみて?」
その視線にいまの科白は言葉を促す為の誘い口上だと気付いたが、言いかけた言葉を呑み
込むのも趣味ではない。
クルマはそろそろ都内に差し掛かる。
「工藤、星や」
「え」
道が拓けると、平次の言葉のまま目前の高層ビルに瞬くあまたの光が飛び込んで来た。
それは遠目に見れば、紛うことなき星達の大合唱だ。
「 」
・・・・・・仕方ねえな。
覚悟する。ひとつ息を吸って、こちらから乗ってやることにした。
「―――・・・ジャガーXKRコンバーチブル。V8エンジンなのはいいんだけどさ、いまの季節
ならまだしも、真冬でもルーフ開けたがってしようがないんだよあのひと。……かといって
シートに入るのを嫌がりゃ隣に乗せるのは父さんよりオレのほうがいい、っていいトシして
ごねるし」
「ああ、そりゃ解んで」
「―――…何がだよ」
平次の有希子に対する相槌に、剣呑になる。
だけれど視線を向けられた男はといえば、飄々として首都高へのカーブを曲がる。
喉の奥からは、噛み殺した笑い声。
重力の変化に、上体が僅か持っていかれた。
「…ジャガー運転するんやで?」
「それが?」
素っ気ないのは、くるり変わるバランスに新一の注意が外へと向いているからだろう。
言い含めるつもりはなかったが、肉親のことを話す新一は珍しかった。
叶うのならもう少し聞いていたい―――この耳で、瞳で。
「おまえは解っとらんのかも知らんけど。有希子さんのあの容姿ならいまでも充分イケとる
し、トシなんて関係ないやろ。――――・・・そしたら隣に乗せとんのは、喩え旦那ゆうても
オッサンより若い男のほうがええに決まっとる。・・・・・・工藤、整い過ぎのカオしとるしな。
ええやんか、一緒に居りたい自慢の息子なんやて思うとれば」
ポジティブに纏めたつもりだったが、ふいに真面目な表情をした新一がこちらを向いた。
「え、えと工藤?」
「…つうか、ムカツク」
「は?」
上目遣いに覗いた眦は、少しだけど朱に染まっていた。
「何でおまえ母さんのこと『有希子さん』て呼んでるの?」
それは本人に言えば否定するだろうけど、あからさまな嫉妬だ。
自分の母親を取られたみたいな、コドモの瞳が揺れてだから可愛いくて堪らなくなる。
だが、その気持ちは真剣だと解ったから、フロント硝子を見詰めたままで本音を返した。
「・・・・オレかて嫌やで」
「何が」
傍らを向けば、薄い色をした瞳が合った。
その瞳孔に映るのは、綺麗な桜色をした背後の樹木でああ夜桜だと朧げに思う―――佳人
の瞳に自分とともに映り込むものは、その何もかもがこんなに情緒的なのか。
自分の貌は、表情は、どのように彼には視えているのだろう。
「オレかて男や。あない綺麗で、若い女の人んこと『おばさん』なんて呼びたないし。おま
えの『お姉さん』ゆうても、いまでも遜色なく通じるやろ」
いまはその瞳を覗き込めないから、代わりに腕を延ばして風に遊ぶ髪の毛を梳いてやる。
冷たいけれど、膚に馴染んだその手が重ねられたのは刹那のことだ。
「・・・・・・母親だぞ。オレの」
躊躇いがちに言葉を返せば、重ねた掌を自らの頤まで引き寄せて平次は笑う。
「知っとる」
「・・・オレは、おまえの母さんのほうに憧れるけど」
「工藤。でも好きやろ、有希子さんのこと」
「―――それは」
言われて、言葉に詰まった。
見れば隣の男は口角を上げて、にやにやと笑っていた。
その余裕が、
どうにも口惜しいから。
「 おまえ、完璧にオレの母さんにおちてる 」
そう言って、笑みを刻む唇を封じる―――自分のそれで。
春は魔物だ。
継ごうとした言葉も何もかも。
サクラの匂いとともに、全部宵に紛れてしまえばいい。
Fin.
051203up*/Winter, Spring
all re-making.