★ノアの方舟★

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩道橋の上を行くと、背丈分よりも近い空に星がひとつ浮かんでいた。

 

 

 

 

 

月、と云う名の地球の衛星。

神の爪先ほど、輪郭が欠けている姿はかなり幻影的だ。事実、冬の日中だと

云う現実を、衛星を目のあたりにした新一は瞬間忘れた。

存在が太陽と高度を同じくすることを踏まえれば、思いの他のタイミングで

消える猶予を逸したのだろう。

 だけれど。

 

 

 

――――――何も、この日に。

 

 

 

 

 

 

「工藤。どっか痛いんか?」

「・・・・いや」

 

 

 

 

 

 無意識に道半ばで立ち停まってしまったのだろう、怪訝そうな表情で相貌を

覗いてきた平次に言葉を濁す。二人がいる歩道橋の真下は国道だ。事件は多く

なるばかりの昨今、まさか世を果敢なんでの飛び降りだなんて探偵として笑い

バナシの種にもなりはしない。

 

 

 

 

 

 

「――――月、が」

「ツキ?」

 

 

「・・・・何でもない。それに、別に何処も痛くないし」

 

 

 

 

 

 

喉元まで競り上がったコトバは、直前で飲み込んだ。

過保護過ぎる心配に視線を上げ緩く首を振ると、新一の独り言と取ったのか

大して気に留めた様子も見せず、目の前の彼が笑う。行き交う人々も、師走の

名の通り忙しなく先を急いでは急勾配のある階段へと消えてゆく。

 

 

どうやら、この真昼の月は。

新一以外の誰も気付いてはいないらしい。

 

 

 

 

「よかった」

「・・・何が」

「だって。工藤、あんまりココに皺寄せて空見とるから」

「ココ、って何処だよ」

 

 

「せやから、ここ」

 

 

 ここ、と云った指先が器用に新一の眉間を辿る。

 そして普段は竹刀を握る長く節だったソレは、閉じられずに目の前のオトコ

を見詰める睫の上をゆるりなぞり、そのまま頤へと流れてゆく。

「どっか痛かったなら、」

「・・・・っ」

 ク、と指を使い顎を上げさせると、跋が悪そうに新一の視線が逸らされる。

「――――・・・さっきまでいた、卵屋のオムライスにあたったかて思うたし」

 その反応に、意地悪気に口角を上げて相貌を寄せた。

 このままでは―――平次の思うがままだ。

「ってゆーか、たったいま喰ってきた昼メシにあたる訳ないだろ?」

「そか?」

「おまえもさ、少しは普通に考えてみれば。・・・第一、メニューこそ違え二人と

も同じ卵喰ってる訳だし」

「・・・・それは、そうやな」

「だろ? 違うモノなんて云えば、昨夜のX’masケーキのカット数くらいだ」

 

 

 

 

「―――――――工藤、最後まで喰わへんかったし?」

 

 

 

 

 触れたままでいた皮膚の、感覚。

 刹那的な触感は、抑えようとしても振れる声の糸に記憶を呼び覚まされる。

 

 

 

 

「あれは。おまえが―――」

「オレが? 何したん」

 

「―――――」

 

 

 

 

そう云われると、目の前のオトコの余裕に何も返せなくなる。

 

相貌を這うように降りる褐色の掌の動きは、執拗だった。

燻っていた快樂をどうにも出来ず、震えたダッフルの肩口をそれ以上は

気付かれないよう平静を装ってはみる。けれど、新一は最後の一言で自滅

した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それじゃ、工藤がいま心此処ニアラズ、な理由はコレ―――とか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

涼しげな平次の声とはウラハラに、白い頤を彷徨っていた指先は更なる熱を

持ち、滑り込んだアンゴラのマフラーの襟元を解く。

 

 

 

 

 

 

そして。

 

 触れた肌には、昨晩その快感を追ったケモノの―――痕跡。

 

 

 

 

 

 

「おい・・・っ」

「黙っとけや。今日は、誰もが自分のシアワセで手一杯や」

 

制止のコトバを一蹴し、眇められた瞳はけれど笑みを含んでいる。

彼が隠しているヒミツが暴かれる、瞬間。

それは最高のスリルであり、また狂気めいた歓喜に己を受け渡す一瞬でも

ある。ただ、ひとときだけ。

 

 彼が、自分のモノであると云う。

 

 

 

 

昏い感情―――――、に。

 

 

 

 

 

「おまえ―――持ってかれ、過ぎ・・・ッ」

 掌の重みとともに、次第に抱えていた買い物袋にまで負荷を感じる。

 此処は、外で。然も昼間だ。

幾ら創造主の生誕祭とは云え、これ以上は太陽の下でする会話ではない。

 

新一が抗議の声を上げたと同じ頃、外気の冷え込みにだろうか、それとも平

次の強い力にだろうか、袋の中で夕食の食材の何物かがたわんでぱちんと弾け

た。

 この空気には不似合いな、その音に。

 互いに貌を見合わせる。

 

 

 

 

「え、――あ」

「ほら」

 慌てて買い物袋から身を引いた平次へと、腕を差し出す。

ピザ生地用のチーズがついた新一の指先から、浅黒い掌へ湯せん用のチーズ

が音もなく絡み付き、彼の惨状を視覚で伝える。

「・・・すまん」

 無事なもう片方で、シャンプーの匂いのする新一の髪をさらり撫ぜ謝る。

 耳元で、溜め息を吐くのが聞こえた。

「チーズ。無駄にしちまっただろ」

「――――それより。工藤の手、」

「別にいいよ。買い直すにも、また時間かかるし。―――・・そうだな。このま

まちょっと付き合ってくれたら、ピザに使うチーズはウチにあるゴーダチーズで赦してやるよ」

「付き合うって。・・・・ドコへ?」

 

 

 

 

 

「あそこ―――とか」

 

 

 

 

 

キレイなソレが指差した、ソコ。

視線の先には、高層ビルへと昇るエレベータの硝子張りの函が空を目指して

浮遊していた。

 

 

 

その様は、まるで神々の山に着陸するノアの方舟のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「函が―――方舟、か。考えたモンやな」

「思うよりも、行ってみるほうが早いって。――服部」

 

 

「船が落ちた夜みたいに、衛星も見えるし?」

 

 

 

 背中を向けて歩道橋から遠ざかろうとしていたダッフルにマフラーの影身が、

歩みを停めた。

 硝子函を見上げる平次の笑みが、深くなる。

 

 

 

 

 

 

 

「・・・・・あの日のように。工藤」

 

 

 

 

  ただひとつ。

遠い日の遺伝子が憶えていたのは、キスの感触。

 

 

 

 

 

 

 

End.

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