Essay                                           大野浩志

 
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この芸術に関する論考『芸術の在所』はもう何年も前に執筆したものですが、発表はしていなかったので、この度ネット上で公開することにしました。公開にあたり多少の加筆・訂正をしながら順次アップしてゆく予定ですので、少しずつお読みいただければ幸いです。   

芸術の在所

 

 

1.飛躍する思考

 

 それはある日突然やってきた。恰も卓上にコインを積み上げてゆくように築き上げてきた私の思考形式が、一瞬にして崩れ落ちてゆくような感覚を覚えた瞬間が確かにあった。以来、私の思考はこれまでにない自由度を得たような気がする・・・・・

 

 そもそも現代美術などと呼ばれるものは非常に小さな世界であって、私の指向するものがたまたま現代美術として認識あるいは認知されることがあり得るという程度のものであるという意識を持ち始めたのは、今から二十年ほど前のことである。大学の造形研究室に勤務していた当時二十七歳だった私は、担当していたデッサンの実習を終え、アトリエで自作を眺めていた時、突然自身の内なる場所のどこかで「パチッ」と何かが弾けるような不思議な感覚を覚えた直後、私は私自身の思考が大きく飛躍を遂げたことに気づいた。それはあまりにも鮮やかな変化であり、その一点を境に私は過去のすべてを清算するが如く、それまで使用していたアクリル絵具を放棄し、絵筆を放棄し、キャンバスを放棄した。そしてその日のうちに実に膨大な量の木材を購入し、アトリエに運び入れたのである。それは<キャンバスの放棄>=<現代絵画に対するアンチテーゼ>といったような狭義な図式ではなく、存在の彼方を指向する私の精神を指し示す為の媒体としてたまたま選択されたものが、<木材>であったということであって決して素材としての物質的特性を視野に入れた選択ではなかった。

 また素材を選択することに対して特別な意味を持つべきではないと私は考えるようになった。私にとっての意味とは、ある種の選択が為された瞬間に初めて立ち現れてくるものであって、選択が為される直前までは、一種空気のようにあたり一面に充満した掴みどころのないものである。このことは素材の選択のみならず、作品の形態に関しても同様のことが言える。物質を表現の拠り所する以上、作品にはフォルムが存在する。しかし私にとってはフォルムは単なる造形的意味合いとは在り方を異にしている。「如何なるフォルムにつくり上げるか」ではなく、ある種の選択によってたまたま対面することとなった素材(存在)のフォルムが如何なる意味と可能性を秘めているのかということが重要なのであって、フォルムは目的ではなく糸口に過ぎない。しかしそれは無限の可能性を秘めた糸口である。

 私が目指すのは美しいプロポーションでも、ある種の意味づけによってつくり出された特別なフォルムでもない。私はフォルムを優劣の尺度では捉えていない。このような私の姿勢はまさにあの一点を境に立ち現れたものであり、それ以前の私の思考形式とは大きく異なるものである。

 以来、私はアクリル絵具を油絵具に、絵筆をナイフに、キャンバスを木材にといった日常的な作業の変化と引き換えに、これまでにない自由度と無限の可能性を獲得したような気がする。しかしこのように、ある日突然私に訪れた自己変革も、今から考えればそれを可能にする素地というものが私の中に存在し、ある事件がきっかけとなってこの変革を誘発したことは疑う余地の無い事実である。

 

 その事件とは1987年の夏、和歌山県龍神村の渓谷で私が実際に体験した滑落事故のことである。その詳細については紀行文『西の河谷滑落』に書いているがここでは省略する。

 事故当時の私は、急斜面にしがみつきながら、絶対に死ぬのは嫌だと切望する意志と、恐らく死んでしまうのだろうという厳しい現実の中で打ち震えていた。やがて無情にも滑落が始まった瞬間、私の精神は自らの死を厳粛に受容した。この体験は私が死というものを、いわゆる他者の死による死の概念としてではなく、まさに自身の内に発生しようとしている事実として経験した初めての出来事であった。そして奇跡的にも一命を取り留めた私は、生きながらにして精神に於ける死の受容を経験したのである。結果的に生きてはいたものの、一旦は自分の死をしっかりと意識した瞬間である。

 そして、こうした体験をきっかけに大きな変革を遂げる私の精神の素地となったものは、日本の山々と渓谷を巡り歩いた私が体験した自然との対話であり、己自身との対話であった。

 

 

自然礼讃

 山々に降り注いだ雨は樹木を育て、腐葉土に蓄えられた雨水は長い時間を経て地中で濾過され、やがて苔生した岩盤の割れ目から湧き出して一条の流れをつくる。それらの流れがいくつも集まってやがて沢を形成する。空気よりも透明な流れがそこに誕生する。ひと跨ぎできそうな細い清流もやがてはたっぷりと水量を湛えた河川となり、我々人間の手によってことごとく傷めつけられた汚水と呼ばれる水とともに大海へと辿り着く。海水は水蒸気となって雲となり再び大地に雨を降らす。この太古からの循環は我々の身体と同じく決して永遠ではない。

 我々が通常「水」と発語した時、ある人にとっては水道の蛇口から流れ出るあの水に過ぎないのかも知れない。しかし、その水は同じ水でありながら、山々に抱かれた源流の苔生した岩盤の割れ目から今まさに湧き出そうとしている最初の一滴とは大きく異なっている。それは水というものが人間の手によって均質化され、元の状態とは大きく異なったものへと変質させられた為に生じる歪み(ひずみ)としての差異である。こういった歪みは水だけに限ったことではない。森の樹木もやはり人間によって無機的な状態へと変質させられ、木材というニュートラルな状態、つまり「素材」として人間の意志によって思いのままに加工され使い果たされる。我々人間は、ナマの自然との距離をこういった歪みによって埋めていると言ってもよい。皮肉なことに、我々はこの歪みによってこそ、ナマの自然を認識できるのである。

 私が人里離れた渓谷を源流目指し遡行する様は、精神の源泉へと遡行する様と重なるのかも知れない。この有限の地上のあらゆる事物事象の根幹へと私が遡行する時、現前するもののはるか彼方を指向する無限性への思索が萌芽するのである。

 

 

 

 

 

 

2.持続するということ

 

私が木材の表面に油絵具を塗る、あるいはバーナーで焼くといった極めて単純な方法の繰り返しによって作品をつくるように早二十年近くになる。それらの作品は概ね一年程度の制作期間を経て完成へと至る。その間、油絵具を塗るという行為はほぼ一週間おきに繰り返され、油絵具は一年間で約五十層ほど塗り重ねられることになる。使用しているプルシャンブルーという油絵具の発色は、それが元は青系の絵具であったことを感じさせないまでに深い黒へと変化する。

 こういった方法による一連の作品の中には、一年とか二年とかいった時間のスケールをはるかに越えて制作が持続されるものもある。それらの作品群を私は<Sinceシリーズ>と呼んでいる。例えば『Since1990』というタイトルの作品は1990年に制作が開始され、現在も制作が持続されていることを示している。それらの作品は完成への形式的な方法論はあっても、実体としての確固たる完成像をイメージすることは不可能である。さらに言えば作品の完成という概念が、通常の美術作品のように時間を凍結する、ある一点に集約されるのではなく、際限なく持続される時間とともにカタチづくられては変化し続けるのである。

 私は制作の方法として、ペインティングナイフを使って木材の表面にプルシャンブルーの油絵具を均質に塗る。それはまるで水が重力に従って高所から低所へ流れるように規則的に行われ、決して私自身が意図的に何かを描くということはしない。「描く」のではなく「塗る」のであって、塗られた場所は「画面」ではなく、あくまでも「表面」である。ただし、その表面は作者の行為が結晶化されたモノであり、発現する表面である。

 木材の表面に塗られた油絵具は約一週間という時間の経過によってほぼ乾燥する。と同時に上からまた新たな塗りが重ねられる。その行為はある意味では持続的な制作行為であり、またある意味では前段階の塗りを破壊する行為でもある。つまり創作的行為と破壊的行為という二律背反の出来事が一つの作品の中で同時発生的に共存しているのである。

 

 考えてみれば美術における造形行為というものは、自然物を本来あるべき状態から別の状態へと変化させるある種の破壊行為であるとも言える。私は戸谷成雄の作品を目にする度にチェーンソーで切り刻まれる木の悲鳴にも似た叫びを感じるし、自然主義の代表とも言われるデビット・ナッシュの作品にでさえ西洋文化特有の、自己の論理に他者を従属させる思想がみてとれる。まるでそれはイギリスの庭園様式のように一見「自然との調和」という言葉が相応しく思える場合でも、実際には樹木の枝も葉も本来あるべき姿とは著しく異なるものに変形させられ、人間への従属を強いられているのである。

 こういったことは我々がただ単に生きているというだけで、我々が我々以外のあらゆる存在に対して、その存在を脅かしているという事実からは逃れることはできないことの延長線上にある。我々が時間と空間の形式の内に存在し、身体という最も身近な物体の所有者であり、それ自身である限りにおいてこれらのことは絶対的な事実として我々を規定するのである。また我々はこのような我々自身についての現実を覆い隠すのではなく、常に念頭においておく必要があるだろう。なぜなら自己存在への問いかけこそが日常世界の彼方に位置するであろう無限世界への指向性を獲得するための唯一の手段でもあるからである。

 我々のこの日常世界が光に満ちあふれた生命のすみかだとすれば、無限世界は永遠の深さをもった暗黒の世界であり、我々には到底知ることのできない世界である。我々が永久に知り得ないであろうことを指向することが無意味であると判断するか、たとえ知り得ずとも意識化しようとすることこそが重要であると判断するかは個々の意識に任せるほかないだろう。しかし存在を規定しているものこそが非存在であり、非存在への思索が存在をより強化することは紛れも無い事実である。

 また、我々にとって我々のこの世界が唯一無二のものであることも紛れも無い事実であるだろう。しかし、それはこの世界として存在し得なかった、あらゆる可能性としての世界を前提として初めて成り立つ世界であり、「いま、ここに、私がいる。」という事実は無限の可能性から現れ出たひとつの存在形式に他ならない。目の前の道を右に曲がるか左に曲がるかで世界は大きく変わる。しかし、いま、ここに、いる、私は、あらゆる選択肢の中から唯一存在し得た、私そのものに他ならない。

 

 芸術という形式により人間の手によって生み出された作品も、、またひとつの存在であることを考えれば、それらが作品として成立する直前までは無限の可能性を内包しており、作品とは無限の可能性から現れ出た唯一の存在形式に他ならない。

 そういった考え方を前提とした場合、つくり手の判断によるところの<作品の完成>とは通常何を意味するのであろうか。量的な差異はあるにせよ、作品は制作という時間の経過を伴って実現されるものであり、完成とはある種の時間の凍結を意味する。それは終末のイメージであり、死のイメージとも重なる。しかし、私には無限性への指向を伴った思索の持続という強い内的欲求があり、作品がたとえ完成という形式をとったとしても、永遠への予感を伴ったものでありたいという願望がある。

 我々には永久に知り得ないであろうこと、我々とは明らかに異なった存在形式、もはや存在という概念でさえ不適当かも知れないものへと思いを寄せ意識化を目指すこと。有限の背後に太虚する無限の世界とは・・・・・

 このような問いかけは美術に限らず我々人類が共有する根本的な問いかけでもある。無限性への指向とは、すなわち我々の存在そのものの根拠を問うことに他ならない。

 

 

 

 

 

 

3.出会い・・・

 

 ある出会いが一人の人間の人生を決定づけるほど大きな影響力を持つことがある。

 

 1992年7月14日の午後、私は四日間に及ぶ東京〜松本間の自転車ツーリングを終え、大阪の自宅に到着した。部屋に入ると、机の上に留守中に届いたと思われるハガキが一枚置かれていた。そのハガキには、李禹煥のキャンバス作品や彦坂尚嘉の立体作品など日本を代表する著名な現代美術作家の作品が展示されたスペースの写真がプリントされていた。表書きを見ると『MAT』と印刷されており、「一度こちらへお越しになりませんか?」とだけ手書きされていた。まったく心当たりのないハガキに私は当惑した。私にはそのハガキが送られてきた意図がまったく理解できなかった。分かることと言えば、先方は名古屋市内の現代美術系画廊であるという事実だけであった。少し気にはなったが問い合わせをしてみるでもなく、そのままにしておいた。

 

 ハガキが届いて半月後くらいであろうか? ハガキの主である名古屋のギャラリーから電話が入った。用件は、八月に予定していた信濃橋画廊(大阪)での個展に、名古屋からMATのオーナーであるM氏が出向いて来るというものであった。さらに大阪に来るついでにアトリエも拝見したいということである。この時点で例のハガキが送られてきた理由が私にも見えてきた。

名古屋の画廊『MAT』のオーナーであるM氏が、美術手帖(美術専門の月間誌)の特集に掲載されていた私の作品に興味を持ち、実際に自分の目で作品を確かめてみたいということなのだ。先方がギャラリーである以上、場合によっては私の個展を開催することも視野に入れての訪問であることは間違いないだろう。何れにせよ私にとっては願ってもないチャンスであることは間違いなかった。素晴らしい出会いを期待して、私は個展の開催を待った。

 

 個展が始まって間もなく、MATのオーナーであるM氏が会場を訪れた。M氏は一般的な画廊経営者のイメージとは違って、全身からエネルギーが迸るような若々しく如何にも頼もしい感じの人物であった。初対面であるにも関わらず私は不思議な親近感を持った。

 個展会場で一通り私の作品に目を通したM氏は、いきなり「作品の価格が高すぎますね!」と切り出した。あまりにも明け透けに言われたものだから、私はムッとした。そんな私を察してか、M氏は私の作品の価格が高すぎることの根拠を語りだした。彼は多くの日本の現代美術作家を例に挙げ、作品価格の相場を示した。

 そもそも私自身は現代美術の相場などにはまったく無頓着で、今まで知りたいとも思わなかったし、知ろうともしなかった。自分自身の作品価格については自分で納得のいく価格を自分でつけていた。その価格が高いと思ったこともないし、安いと思ったこともなかった。しかし、実際に流通している現代美術作品の相場を聞かされた私は、あまりの安さに絶句した。日本画や洋画などの具象絵画に比べて現代美術作品はあまりにも安すぎるのだ。

 古典に対して現代が安いというのなら歴史的付加価値という意味で理解できるが、同時代の芸術がその様式の違いによって価格に大きな格差があるのはどうしても理解できない。何れにせよ、現代美術作品の現実的な相場がそうであるならば、私は自分の作品に相場の二倍の価格をつけていたことになる。そしてその価格で作品を購入してくれた美術コレクターもいるのだ。

 やがて話は核心部へと移った。MATというのは、実業家であり日本でも有数の現代美術コレクターでもあるM氏が、事業の一環として名古屋市内に開設したばかりの現代美術専門のギャラリーであり、現在までに三名の取り扱い作家が決まっていて、四人目の作家として私を考えているということであった。

 単刀直入に用件を話し終えたM氏は、最後に私の目をじっと見据えるようにして「大野さん!あなたは生涯、作家を続ける意志がありますか?」と力のこもった声で言った。私は一瞬、不意をつかれたような感じになり、一拍おいてから「はい」と答えた。私にとって自明のことだった筈の「生涯作家」という言葉をこんなにも重々しく感じたことは未だかつて無かった。

 結局、この日、M氏は私のアトリエには立ち寄らず、後日改めてアトリエを訪れる約束をして名古屋へ戻った。

 

 数週間後、約束通りM氏が私のアトリエにやって来た。当時、私のアトリエは大阪市浪速区の木津川沿いの造船所や鉄工所が建ち並ぶ一郭にあった。工場の発する単調で連続的な金属音の響くアトリエの中で二人の遣り取りが始まった。

 壁に並ぶ制作中の作品から、随分昔の作品までじっくりと目を通したM氏は、真剣な面持ちで「来年一月早々にぜひ個展を開きましょう。」と呟いた。あまりに急な話で私は戸惑った。

「無理ですよ! 最低一年は待ってもらわないと・・・」私が怪訝な顔をして言うと、「何も新作でなくていいんですよ、旧作でいいんです。」とM氏が切り返した。「しかし、せっかくですから新作未発表の作品でお願いします。」と、新作での個展を強く要望する私の考えに、M氏は何とか同意してくれた。

 結局、個展は翌年の秋頃開催するということで話が決まり、その前に旧作で丸山直文との二人展を春に開催することになった。口頭ではあるがMATとの契約が成立した。

 少なくともこのことをきっかけに、私はM氏に作家としてのプロ意識を植え付けられたような気がする。「生涯作家・・・」それは以前からの私の信条であった。しかし、しかしそれが職業としては成り立ってはいなかった。高額な利用料を画廊に支払って個展を開いても、それを上回る収益を上げることは事実上不可能であった。料金を払えば誰でも個展を開くことができるという貸し画廊のシステムは、無名の埋もれた才能を育て世に送り出すという重要な機能を持つと同時に、ともすれば自己満足の思い込み作家を助長するという弊害もあった。

 私はM氏との出会いを機に、自分自身に対する戒律を設けた。それは私自身が私自身を窮地に追い込むようなものであったかも知れない。しかし、それは避けては通れないことのように私には思えた。その戒律とは次のようなものであった。

 [ 今後一切、企画招待作家として以外では個展は開催しないこと。 ]

無名の私がこのような戒律を設けるということは、作品発表の機会を自ら失ってしまう危険性を大きく孕んでいた。作品を創り続けることそれ自体は私個人の意志で実現可能なことである。しかし、企画あるいは招待による展覧会開催は、私自身の力ではどうにもならない。私の作品を評価して展覧会を開こうという第三者の絶大な支持がなければ実現し得ないのである。

 私は自分自身をそのような状況に追い込むことこそが自分にとって必要なことだと判断したのである。そして現在、私の個展を企画するギャラリーが名古屋のMAT以外には存在しないという事実が、より一層の重圧となって私に圧し掛かってきた。それはまさにMATのM氏と私が運命共同体の契りを交わしたことを意味していた。私はこのことによって地元大阪での発表の場を失ってしまうことになった。そして新しい発表の場、名古屋と深く関わりを持つこととなるのである。

 

 名古屋で個展をするようになって最初にイメージした言葉は「虎穴に入らずんば虎児を得ず。」である。個展の初日にはコレクターや東西のギャラリストが多く集い、名古屋の長い夜の幕開けとなる。アートの兵(ツワモノ)ども夜を徹して語り合うのである。これは素晴らしいことで大阪ではまず見られない光景である。しかし、これが当の作家にとっては針の筵なのである。アートの兵どもにとってはアーティストは格好の酒肴なのだ。当時の私のような無名作家は容赦なくつつかれ、埃のひとつも出ないかと存分に吟味される。しかしその真意はホンモノを欲する彼らの情熱であり、ホンモノを育てようとする彼らの熱意の表れなのである。

 聞くところによると、例えベテランの作家でも名古屋で個展を開く時は東京以上に緊張感があるらしいのだ。この妥協を許さない名古屋独特の空気は、本来アートの世界にはなくてはならないものであるような気がする。東京でもなく大阪でもなく、独自の発想でアートを発現する名古屋の空気が私は気に入った。

 

 M氏との出会いから四年が過ぎ、当初の活況もどこかへ消え失せた感のある名古屋において著名な幾つかのギャラリーが相次いで閉廊した。そしてこのような状況は名古屋のみならず現代美術をめぐる日本全体の状況でもあった。大きな画廊ほどその負債は莫大な額に達し、縮小もしくは倒産に追いやられたのである。そんな最中、もちろんMATも例外ではなかった。画廊経営を事業の一環として考えるM氏にとって画廊経営は赤字拡大の悪しき存在という位置づけになってしまった。この四年間でMATを維持するために投資された額は軽く億を越えている。しかし、MATの取り扱い作家の作品売却によって得られた収益はその10%にも及ばないのである。名古屋に旋風を巻き起こしたMATも四年でその幕を閉じることとなった。

 我が国に於いて現代美術専門の企画ギャラリーが事業として成立することは極めて困難なことなのである。どのギャラリーのオーナーも身を削って画廊経営を持続している。その姿は一般的な企業の在り方とは明らかに異なっている。アートに拘る兵どもは重症の熱病に侵されたアート信者だと言っても過言ではない。これは同時に現代美術作家として生きていくことの困難さをも意味している。

 

  私の個展を企画開催してくれる唯一の画廊であるMATが閉廊した頃、大阪で私の個展を開催したいという画廊が現れた。若いオーナーが大手画廊から独立して自分で画廊を開設するというのだ。海のものとも山のものともわからない画廊の開設に私は関わることとなった。評論家や美術館の学芸員に案内状を送り、作家に声をかけ、コレクターに声をかけ、集客に努力した。そしてその画廊は着実に知名度を上げていった。しかしひとつだけ欠けているものがあった。それは画廊オーナーの芸術に対する深い認識の欠如。画商としてのマーケティングはそれなりのものを持っていたが芸術を理解するハートがなかったのだ。これは致命的である。自分と関わりを持つ画廊のオーナーと芸術を語れないのは実に悲しいことである。芸術を理解する上で大切なものは知識でも経験でもない。感性の問題なのだ。彼には私の書いた文章を読んでもらったり、私の個展期間中にはあれこれと芸術論を投げかけてみたが、返ってくる言葉は的外れなものばかりだった。わからない者にはいくら話してもわからない。私はしばらくの間この画廊と関わったが、最終的には見切りをつけることとなった。作家と画廊の関係は難しい。同じ熱病に侵された関係が不可欠なのだ。体温差は作家と画廊の関係を円滑にはしない。同じ狢という言葉があるが作家と画廊の関係はまさにそれである。程度の低い画廊にはそれ以上でもそれ以下でもない狢しか集わないのである。しかしそういったレベルの画廊もいつかは目覚める時が来ると信じたい。感性とはそう簡単に磨けるものではないが突如目覚めることもあるのだ。私が九死に一生を得た経験から人生観が一変したと同じように、それは突如やってくるかも知れないのだ。私はこの未熟なオーナーの開眼を祈り、エールを送って自分の意識の中から完全に削除した。

 出会いと別れは繰り返される。良き出会いも悪しき出会いも・・・

このエッセイに最初に手をつけ始めたのが1990年前後であるが、その後しばらくは手を加えることもなく放置していた。その間も様々な出会いと別れは繰り返された。画廊しかり、作家しかり、来る者は拒まず去る者は追わず、それが私の信条だ。多くの事象が淘汰され、今の私が存在する。今を生きる。それが肝心であるし、我々は今しか生きることができない。今の自分を可能にした多くの人との出会い、そして事象に感謝したい。

 2007年、新しい出会いが訪れた。ある種の熱病に侵された筋金入りのアート信者だ。先鋭な眼差しと深い洞察力を持つその人物の出現は私に大きな力を与えた。真の芸術を語れる人物の存在は私を強化する。

 芸術を理解するということはどういうことなのか・・・ アーティストの生み出した作品を他者が理解する。それは奇跡のような出来事である。奇跡のような出会いである。それは鑑賞者が作者の意図を理解するといったような容易い認識ではない。もっと深く根幹的なレベルでの精神の共鳴である。そこにはアーティストという個の存在が介入する隙がない。個を越えた深い地平への誘い。作品という形式は媒介に過ぎない。鑑賞者は作品を通じて遥か彼方に到達しなければならない。そこにアーティストと鑑賞者の立場の差異はない。

 私は鑑賞者が作品を介して根幹的な地平に到達し得た時、最上級の敬意を払う。それは喜びなどと言うなまやさしい感覚ではない。むしろ敗北感にもにた喪失感だ。しかし絶望感ではない。この奇跡の出会いこそが私を強化し創作の原動力となって私を磨くのだ。

 

 ARTは創ることと発表することの両翼から成る。なぜなら個人の内なる真実は妄想に過ぎないが、集団における妄想は現実として君臨するからである。もしかすると、つくり手が拠り所とする<つくる>ということ以上に<みせる>ことが重要な意味を持っているのかも知れない。<みられ得ないもの>それは無に帰するのである。

 

 

 

 

 

 

4.制度の無力と精神の無限性

 

 人類の発生から今日に至るまで、「制度」というものによって我々が理想の社会を創造し得たことは未だかつて一度もない。そもそも制度とは我々人類の精神が未成熟で不安定であることを前提として初めて発生し得る自己規制のカタチなのである。

 我々は不完全な存在である。不完全で有限であるがゆえに完全で無限なるものを理想とし、完全で全能なるものの象徴として神仏を創造し、信仰によって神仏を意識化し続けてきた。

<身体=生命>を有する我々にとって<時間=空間>という形式は絶対的な存在要因であり、その形式から逸脱して我々が存在するということは現実的な意味において不可能である。我々は有限の個としてのみ自身を、あるいは他者を意識することができるのである。我々にとって事物とは有限であるところの何かを指すのであって、事物が無限であるということはあり得ない。従って我々の眼前に広がるこの世界は我々にとっての世界であり、独自の存在形式をとるものと言えるだろう。

 科学的な観点からすれば、この地球上のあらゆる物質は水素からウランに至る92種の元素に分析することが可能であり、これらの物理的変化や化学的変化によってあらゆる物質や現象が形成されていると言える。これはまさにこの地球そのものが有限の枠内で存在していることを意味している。もちろん我々の前には膨大な未知の世界が立ちはだかっているのも事実である。しかしそれらとて、やがて我々によって発見され得る可能性を考えた時、有限であるところの何某かであることには違いなく、やはり我々の存在形式の内へと取り込まれる。

 科学は生身の人間が決して見ることのできない、あるいは感受することのできない様々な事象をも次々に解明し、それらの存在を証明してきた。原子あるいは分子や光子などの微視的な世界は我々が直接手で触れて確かめることのできない世界であり、その存在を証明してきたのが科学なのである。20世紀の科学がニュートリノの観測さえ実現したことを考えれば、今後も次々と未知の何某かの発見は続いていくだろう。発見され得るもの、すなわちそれらは我々の存在形式の内にあるものに他ならない。

 

 <時間−空間>という形式の内に存在する我々にとって、生命は最大の関心事であると言って良いだろう。古代より人類は永遠の命というものに憧れ続けてきた。死後の世界という概念もそういった永遠の命への憧れから生まれてきたものであろう。我々にとっての死、つまり生命の喪失は耐え難い悲しみであり苦痛である。また本能的な恐怖を伴うものである。このような何人も避けることのできない死という現実が人類の在り方を決定づける要因となっていることは疑う余地が無い。人間は生を受けた瞬間から死という結末を背負うことになる。即ち、誕生は成長を促し、成長は老化の方向へ導き、老化は死への接近を意味するのである。

 法や制度といったものは社会全体の統合を促す為の秩序をカタチにしたものであり、我々個々の本能的な衝動を強く規制する。我々の内に存在する野生はそれぞれの時代の社会性によってその本性を覆い隠され、そういった社会性への順応性を我々は理性と考え尊んできた。しかし、社会全体の統合を促す為の秩序であるところの法や制度などといったものは常に世界を全体性として捉え個々の人間といった細部は黙殺されている。そもそも「法の下の平等」などという理想は非現実的であり、法の下に不平等が発生し、多くの不正を誘発することは周知の通りである。

 それでは法というものを更に充実させ、個々の人間によりきめ細かく対応できるように細分化、複雑化すれば良いかというと、そういう問題でもないだろう。重要なことは法や制度の内容や構造ではなく、それらの根底にある、人類が指向すべきビジョンそのものなのであり、そういったビジョンを共有できる能力こそ人類が獲得すべき理性のカタチなのではないだろうか。

 

 人類はこれまでに実に多くの戦争を経験してきた。そして現在も世界のどこかで戦争は繰り返されている。戦争は国家間あるいは民族間の利害や宗教観の違いによって勃発する争いであるが、これには特定の集団内における共同幻想によって発生する敵対意識が根底に存在する。この時、個々の意志は全体性へと吸収され隠蔽されてしまう。敵対するのは国家対国家であっても、戦争によって殺戮が行われるのは国家の使命を受けた個々の人間対人間に於いてである。戦争は個々の人間の思想や意志を黙殺して見ず知らずの人間同士が殺し合うという愚劣な行為を伴う最も愚かな人類の過ちである。

 翻って革命とは、不条理な弾圧や不正に対する反発から発生する抗議行動であり、個々の人間の意志が総合的に反映したものである。この点が戦争と真の革命との大きな相違点である。革命の根底には人類が指向すべき理想的なビジョンが存在し、そういったビジョンを共有できる個々の人間が結集して初めて革命が発生し得るのである。革命とは国家対国家といったような無形の全体性に於ける争いではなく、生きた人間個々の意志の表出なのであり、個々の人間の身勝手な利害を超えた崇高なビジョンが全体性として機能しなければ実現しない。

 さて、人類が指向すべき理想的なビジョンとは果たして如何なるものなのだろうか。恐らくそれは法や制度といったような、ある種の権力によって方向づけられるものではなく、個々の人間の内部において達成されるべき意識変革によってもたらされるものであろう。個々の意識変革が全体性として現れ得た時、理想的な社会のカタチが立ち現れ、そういった社会性によって法や制度は逆に支えられていくことになる筈である。

 果たしてそのような人類の成熟期というものが実際に訪れる時が来るのであろうか? また、来るとしたら如何なるカタチで実現されるのであろうか? しかしそれを具体的にイメージすることは今の我々には難しい。<時間-空間>という存在形式の内にある物質世界に於ける我々にとって、欲望・快楽・苦痛・・・ そして死という現実は絶対的なものであり、それらに規定されざるを得ないという事実から我々は逃れることはできない。「歴史は繰り返される。」とは誰の言葉だったか・・・ 

残された道は、我々が精神の変革を如何に実現するかにかかっている。

 

 二十一世紀を目前に控えた人類は解決困難な多くの問題を抱えている。人口爆発・温暖化・砂漠化、それらに伴う食糧や燃料資源の不足、またそれらが引金となって勃発するであろう国家間の争い、つまり戦争は核兵器や最新の化学兵器によって人類にとって最大の脅威となっている。もはやこういった問題を物理的に解決することが不可能であることは誰もが認めるところであろう。人類に科せられたこれらの試練を我々が乗り越えるためには、物質依存の思考を転換する、より成熟した精神の獲得を個々の人間が実現する必要があるだろう。

 人類が抱える多くの問題を解決へと導くためのキーワードは政治でもなく、権力でもなく、宗教の教えでもない。人類の構成要素である個々の人間の精神の在り方こそが重要なのである。人類は「我々」という論法ではなく、「私」という個の意識として多くのことについて考えなければならない。ただしこれは決して身勝手な個人主義ということではない。例えば政治が悪いから社会が悪いという表現は、独裁国家でもない限り不適切な表現である。我が国のような民主国家においては寧ろ悪しき社会が政治を歪ませているという見方の方が適切であると言える。政治への一方的な批判は個々の人間の責任回避であり、責任転嫁である。やはり問題は人間精神あるいは人間存在の根底にまで遡らなければ見えてはこないのである。もはや個々の人間の指向性は人類があるべき理想的なビジョンには目を伏せ、利害だけを唯一の判断基準として暴走し続けている。その背景には「誰か」がやってくれるだろうという自己を棚上げした思考と、「自分は」という身勝手な個人主義が存在するのである。

 

 

 

 

 

 

 

5.アートの行方



  アートはこれからどこへ向かうのか、人類にとってアートは不可欠なのか、正直なところよくわからない。アートもひとつの形式に過ぎないとすればそれに代わるナニカが今後現れるのだろうか。日本という国におけるアートは成熟期を迎える前に衰退を始めているのではないか、そんな気さえする昨今である。これはアート市場という意味に於いてではない。アートそのものの存在意義についての私の印象である。実際、今の日本を見ていると人々はアートを欲していない。求めているのは心の充実ではなく瞬間的な快楽だ。

 そういう現状を打破するのがアートの役割であるという正論もなぜか虚しく響く。アートは答えの呈示ではない。どちらかと言えば道標のようなものだと思う。本来の鑑賞とは作者の内面に依存するのものではなく、鑑賞者自身の内面に依存する。観る側の素地は絶対的な要素でありアートそのものが絶対的なフォースを有している訳ではない。また、即効性のあるアートもあれば永い時間の中で見えてくるアートもある。現代社会におけるリアルタイムな話題をテーマにしたアートは即効性があると言えるが一過性である場合も多い。また、存在の根幹を問うようなアートは具体性を帯びていない分、即効性を有しない。まるで不発弾のように眠り続け、ある瞬間に見出され力強く炸裂する。ある瞬間とは社会そのものの状況だと思う。

 

 このエッセイを書き上げることもなくかなり長い間放置していた。その間にも様々な出来事があった。平成7年1995年1月17日に阪神淡路大震災があり、大きな衝撃も受けた。その時感じたのはアートの無力そのものであった。最悪で極限的な状況にあって私はアートの存在意義さえ見失った。破壊しつくされた神戸の街並みを目にしながらただただ涙が溢れて止まらなかった。個人に対する悲しみではなく人類の痛みを感じた初めての経験であった。天災という避けることができない出来事に言葉を失った。

 そして十数年の時を経て平成23年2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生した。強い揺れと津波を伴う未曾有の大災害だ。東北地方の海辺の町は巨大津波に飲み込まれ壊滅状態となった。しかし東北地方太平洋沖地震と阪神淡路大震災は何かが違っていた。天災という意味で差異はないが、東北地方太平洋沖地震の発生は我々人類の根幹的な問題を露呈したような気がする。その問題は実はずっと以前から存在したもので今になって発生したものではない。それは誰もが気付いていながら目を伏せていた問題なのかも知れない。

 まさに我々人類の「在り方」が起因で発生した「現れ方」である。歴史上繰り返されてきた我々の過ちが今もなお繰り返されているという事実をつきつけられたような気がする。

  今回の福島第一原発の事故は我々に多くのことを語りかけている。しかし我々人間が聞く耳を持たない。感じない。理解しない。イマジネーションの欠如である。今回の原発事故を知った時、私は「またしても日本か!」という言葉が頭を過ぎった。人類史上唯一の原爆による被爆国である我が国。その我が国が原発事故というかたちで再び放射能汚染の脅威に晒されている。事故現場の福島県のみならず首都圏まで確実に放射能汚染されているという事実。ひとたび事故を起こすとまったく制御できないものを運用してしまったという我々の過ち。人も社会も利害だけを判断基準に暴走してきたことの結果としての今現在の状況。

 

 

 

 

 

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