| 遍歴の風景 |
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これが、湯殿側から見た、母屋だ。正確には母屋の裏である。この棟に食堂ホールがあり、貸し靴スキーなどのコーナーがある。食堂ホールで風呂代を払って、見えている戸口をぬけて、こちらの湯殿へ。 写っている部分は、全体の真ん中へん3分の1ぐらい。屋根左端に、ちょっとだけビニールシートが見えている。左側3分1の屋根には青いビニールシートがかぶさっているのだ。この写真より一年前の03年秋に行ったときには、それはなかったと思う。 この修復の意思がないかのように、朽ちるままに風化はなはだしい建物の正面には、「日光湯元観光センター」という看板がある。なんてスゴイ名前だろうか。「日光湯元観光センター はるにれの湯」が、この湯の正しい呼び方なのである。 周囲にはるにれの木が多いのと、写真の屋根上に枝が張り出して見える、これは正面入口のそばの、はるにれの大木なのだが、「はるにれの湯」の名前は、それに由来するものだろうと想像がつく。 しかし、「日光湯元観光センター」とは役所くさい仰々しさではないか、なぜそのような名前なのだろうか不思議に思っていた。 |
![]() (撮影05年7月19日撮影、05年11月26日掲載) |
03年秋だった。湯からあがり正面入口前のベンチで缶ビールを飲んでいると、ときたま見かけはしたが話す機会のなかった主人が近くにいたので、なんとなく声をかけた。 自分は「恋の季節」が流行っていた冬に初めてここにスキーに来たのであると言うと、おれより少し年配らしい主人は、パッと表情を明るくし、うれしそうな顔をした。 それは、このスキー場が始まったばかりのころで、私などはスキー場開設のために一生懸命だったものです。と主人は、背後の「日光湯元観光センター」を指差し、そして、ほらスキー場にはロープがあったでしょう、あれは私がやっていたのですよ、と言った。 それでおれは、そういえばスキー場の一番低い位置の初心者用ゲレンデにロープがあったのを思い出した。 ロープとは、ゲレンデの上部と下部に設置した滑車に、一本の長い太いロープを輪状につなぎかけ、動力で動かし、スキー板をはいたまま動くロープに両手でつかまると、上まで運ばれるというシクミのものだ。当時は、リフトはなくても、まずそれがゲレンデにあって、はじめて「スキー場」であった。 彼は若いころ、日光湯元スキー場の「開拓者」だったのだ。ただの山奥の湯治場のような温泉にすぎなかった日光湯元を、もっと観光で売り出していこうと、希望あるいは野心に燃えていたのだろう。日光湯元を背負って立つぐらいの青年らしい気負いがあったのであろう。 「日光湯元観光センター」に納得がいった。 それにしても、風化するままの姿は、青年の希望や野心の風化のように思えて、痛ましくもあったが、その事情は察しがついている。「日光湯元観光センター」は、一人の人生には重すぎる運命ともいうべき困難を抱えているにちがいなかった。彼の事業の内実はわからないが、いつごろか、彼は将来に希望を持てない心労を背負ったのではないか。そう思った。しかし、彼の表情や話し方は、もはやそういうものをのりこえたのか、さっぱりとしているようにも思えた。 ……よくここまでスキーに来てくださいました。あのころは冬になると正月休みでも客はいませんでしたからね、東京からのお客さんに来てもらいたくてスキー場はじめたのですが……。 ……ここは足の便が悪いから、私も、そのあとスキーでは一度も来てないのですが、山歩きと風呂だけは……。 彼とおれは話をしながら、はるにれの大木を見上げていた。「恋の季節」のゲレンデで、彼とおれは交差していた。それから、それぞれ、いろいろあったのだ。いろいろあっても生きぬくというのが人生だからなあ。 もくじ |