〜 映画を、考える 〜


 しばらくの間ひたすら従順な鑑賞者に徹して、映画ばかり観ていた時期があります。
 なるべく暇をつくって1日3本、1年半は続けたでしょうか。いわゆるカルト作、アート系、ミニシアター系を中心に観たので、結構つらい充電期間となりました・・・

 1、視座としての映像

 アレクサンドル・ソクーロフの諸作は、緊張感の持続した静謐で詩的な時間の流れが独特で、物語の大きな起伏そのものは極めて少なく装い、それだけに少しでも展開しようものなら見る者に「ただごとではない」と思わせる独特の語法をもっている。映像的にも、いついずれのカットを抽出しようが、よく撮れた写真レベルにまで達している数少ない監督の一人であろう。時間・空気感的な”肌合い”、深い思索性の表れは、やはり同じくソ連のアンドレイ・タルコフスキーのそれと共通性を見るものの、この二者の比較に限って強いて言えばタルコフスキーが”論理性”・”物語り性”に重点を置いたのに対し、ソクーロフの方法にはより、刃物で切り取ったかのような鋭敏な、あるいは歪んだ空間表現の導入等、映像に力点が注がれている事に気づくであろう。
 もとよりタルコフスキーは”映像の詩人”などと称され、独特の透明感さらに、”火”や”水”などの流動的な対象をも映画の内の一つのファクターとして取り入れ、同時にそれらにも語らせるという巧妙さと格調高さの融合をもって我々に映像を提示したのだけれど、それにも増してすぐれていたのは、”話法”であり、”物語性”ではなかっただろうか。
 したがってタルコフスキーを見終わり非常な充実感を覚えるのに対し、ソクーロフのそれは疲労感で、それはとりもなおさず鑑賞者に緊張の連続を強いる方法論を採るからに他ならない。「ストーン」「静かなる一頁」「マザー・サン」・・・その他いずれもが意味深く、極めてストイックではあるが観る者に呼応して多くを”語る”作品群である。

 カルト作とよばれるものは結構多く、定義付けも一定しないが(基本的にはダニー・ピアリー”カルトムービーズ”に拠る)しかし、それらがすべて良くできた映画であると言う保証はどこにもない。たとえば「ピンク・フラミンゴ」J・ウォーターズの場合には困惑する。本作はこの世界では揺るぎない地位を築くが、限りなく”おふざけ”に近い”おばか”と言ったニュアンスをもち、映像も即物的だ。だが一般的評価となるとそこに一定の時代性を加味すべきなのだろうし、またそれまでの映画の概念を覆す作風であるとか、テーマの非凡性を言及しようが不埒な要素は拭いきれない。存在理由そのものは否定しないが、方法の許容の範囲の問題で必然性の欠如を感じてしまう。ただ、それが”確信犯”的であってみれば、逸脱した表現等論議の余地は残すのであろうし、このジャンル(?)のなかでもひと際特異性を放つことだけは確かであり、精確な鑑賞にあたっては当然のこと無修正版が要求されよう。
 方法論の模索の関連から、一方に、真摯なアプローチの先鋭としてゴダールがいる。
 「勝手にしやがれ」などの語法上の模索があったからこそ、現在、それらが”普通”の映画たりえている。
 しかしゴダールもまた、奉られて過ぎている感もある。時期にもよるが、たとえば難解な語彙や多彩な文脈・テーマをそのまま裸形で提示する事は、同時にそれらにおもねる事になりはしないのか。しかも、映画という媒体はそれらにどこまで相応しかったのかと言う事である。別に映画表現の可能性を矮小化しょうとは思わないが、政治性の表出なども一つのコンセプチュアルなものと捉えられなくもなく、そこでこのコンセプトそのものが余りに前面に出てしまっては、無防備な受け手は戸惑うばかりなのである。真摯であるがゆえに余計厄介な情況であり、この場合全く同じことがヤン・シュヴァンクマイエルや「ゴリラは真昼入浴す」ドゥシャン・マカヴェイエフ等々に言えよう。

 D・リンチ作品には好感をもっている。独特に発散されるビザールな感覚は、己の本質を保持したまま異次元の淵を垣間見せてくれ、大胆かつ、危うい切り口が文脈や映像などその全体を支配する。(良くできたオリバー・ストーン作品も肌合いは違うが等質な部分も持ち合わせ、また編集、カメラアングル、語り口に関してはこちらが一枚上手であろう。)
 難解で屈折したような語法をもつ「ロスト・ハイウエイ」など、本来が複雑で微妙であるはずの人間”心理”そのものの”直接”表現の具現化に因るものであり、ここでは通常は禁じ手であろう役者の(一見)脈絡のない途中変更といった手法も平然と組み込まれるのである。しかし展開の多元的交錯のもと必要とあらば感情の高まり、煽情も時として静的に語られたりもし、非断定的筆致のもと複雑さに更なる重層性が付与される。
 あるいは「イレイザー・ヘッド」は格別である。リンチ本人ことのほか愛着持つ作品と聞くが、これが全編、尋常ではない。モノクロ−ムで、呪縛としか言いようがなく、しかもノイズ(ミュージック)なのである。おそらく製作途上、鑑賞者のことなど微塵もなかったのであろう、極めて作家性の強いものである。そしてこれらのスタンスは、ブラザーズ・クエイなどの描出する世界「ストリート・オブ・クロコダイル」「ベンヤメンタ学院」へと、そのまま繋がるのであろう。
 鋭敏で異形なものにはまた、「カルネ」ギャスパー・ノエがある。静謐で透明であり、なおかつ大胆で鋭角的な眼差しは同時に、底辺に異常なテンションの高さを併せ持っている。音楽はまるで受け手に突き刺さって来るがごときなのである。そんな中、非日常的親娘関係がただならぬ気配をもって語られてゆく。また「アレックス」では、その一線を超えたようなバイオレンス描写など、鑑賞者への直接的意識レベルへの働きかけが意図されており、同時に一般的には変幻自在すぎるカメラワークでこれを更に攪乱しようとする。すばらしく衝撃的で多分に問題作だ。

 「天使」パトリック・ボカノウスキー、もまた優れた映画である。
 この蠱惑的で浮遊感に満ちた、独自な時間のシークエンスの体験は頭初さらりとした印象を受けるが、実は綿密で巧妙な計算の上に成り立っている事に気付くべきである。抽象化された意識の飛沫を実験映画の範疇で語るが完成度は高く、整備されたシステムのロジックそのものを見るような思いがする。
 「WAX蜜蜂テレビの発見」デイヴィッド・ブレアは、非常に愉快で快活な一篇である。科学映画あるいはTV番組のドキュメントであるかのような方法を用い、結果、映画は創作されたものであることを自ら吐露させてみせるのである。しかも作り手のどこまでも真剣なスタンスは一貫しており、それがどこまでも面白い。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の特典映像などはこれそのものである(もちろんこちらも、演技ともども良い出来である)。重層的意味合いを含め「WR:オルガニズムの神秘」もあるが、コンセプトそのもののインパクトや緻密さは前者に譲る。
 フォルムの特異性では、「ラ・ジュテ」クリス・マルケルもある。が、こういった斬新な手法を採る以上いま少し映像の精度を高めてほしい思いもした。すなわち意識の決定力に優れるスチールで全体を構成するのであるから、その一葉々々が優れて意味と存在感を提示し、なにより”画”自体が第一義に語るものでなければならないからである。しかしながら、画像が”動く”という感動をこの作品は教えてくれ意味深い。

 そして、映像の優れて高度なものに、レニ・リーフェンシュタールの諸作がある。
 人間の行動、活動に潜む強靭さを記録して、これを凝集された美のレベルにまで高めた昇華例は「意思の勝利」「民族の祭典」に見ることができる。そこでは何気ない人の表情ひとつ、あるいは背後にある建造物ですら性格が与えられことごとく作品の品格の形成に役立てられる。作品がしゅん厳たる美学のもと、動的に構成される。
 さすがにフリッツ・ラングを輩出したドイツならではの完成度だと思いきや、レニの悲劇はここに始まる。それはこれら作品が時の権力者の下で生まれたという事。結果、あまりにも政治に無頓着な姿を曝け出すことになる。国策映画から政治色を捨象し単純に作品をのみ語ることが可能なのか、そしてその政治がナチズムであった事。すなわち、この場合作品の発する「意味」そのものが権力の志向とイコールなのであり、創作がすばらしければそうであるほど、犯した罪は重くなるという二律背反に陥る事になる。作家であろうとするなら、自らの創作の”本質”あるいは”思念”との、対峙という作業が不断に要求される。


 一般的に映画はそのストーリー(俳優などを含め)で云々される場合が多いだろうが、ある種、総合芸術的側面も持ち合わすため、その評価のメルクマールは多様である。文学的、演劇的文脈以外の構造的に提示されるのが、映像、カメラアングル、カット割り、編集、音(楽)、さらに光の扱い、奥行き、そしてこれらから創出される時間、空間の概念・・・そして誰もが抱く感情ながら、最も表し難いものに、”タッチ”、印象、雰囲気など、総合的に捉えないと把握し難くまた、相対であるがゆえに客観に難く、しかしある意味最も大事なファクターがある。 これらを踏まえつつ、いま少し”画”の側面にこだわることにする。

 フィルム現像が美学的に優れたものに、「奇跡」カール・ドライヤーがある。端正で、多階調で、ほれぼれするようなモノクローム美学の極致上で興味深い宗教論が展開される。
 ストーリー的にも優れたところを発見できるのだが、この作品の生命線は優れた現像の魅力であり、もしこの映画が当時(またはそれ以前)のハリウッド調の安定感を第一義に据えるものであったり、あるいはこれ以下の絵で提示されたのであったのなら、我々のもつ印象はかなり違ったものになっていたであろう。同一線上では「去年マリエンバードで」、その硬質さにおいて初期ヴィスコンティー、アメリカではラス・メイヤー、新鋭ダーレン・アロノフスキー「π」等の力強さには驚かされる。
 逆にカメラだけなら「サラ・ムーンのミシシッピー・ワン」など、さすがに綺麗な画、絵の連続なのだが如何にも表面的である。このあたり、映画からただ映像のみを抽出しての論議が、危険を伴うということの証左にもなってしまう。
 またフィルムに関してはそのプリント回数、保存状態に左右されるところが大で、一概に判断できぬ場合も多いのだろう。また陰影の微妙なニュアンス等は再現条件に直接影響を受けることになる。すなわち、後者に最も力を注ぐ製作者ほど、大変なリスクを背負うことになる。したがい鑑賞者にトータルな形での把握と、ある種想像力をも要求するであろう場面の一つである。
  マリエンバードのアラン・レネについては、「夜と霧」「二十四時間の情事」等初期作品がもつ独特の時間、空間の提示は、ある種形而上学的高まりをみせ、ひとたび画面に踏み込むなら細密かつ濃厚な記憶や想念が澱みあるいは流れるさまを見せつけられるであろう。ここでは実に、この”タッチ”こそ主人公なのではないかと考え得る。また「ミュリエル」前半での幾度かに亙る影像(空ショット)の提示法にも魅惑された。
 そして、今ひとつドライヤー(ドライエルとも)には「裁かるるジャンヌ」がある。このアップを多用した緊密な画作りは、時代性を加味するまでもなく優れており、その後のどんな作品も持つことのなかった緊張感を示している。一方「快楽」マックス・オフュルスの「メゾン・テリエ」は、的確でよく動くカメラのオリジネイター的意味合いにおいて、こちらもまた意味があろう。

 リドリー・スコットは一般にいわれるごとく「デュエリスト」「ブレード・ランナー」等で映像面の非凡さをみせる。あるいはテレンス・マリック。しかし、あくまでこれはハリウッドに比較してのことで、例えば光、パースペクティブ、色使い、などヨーロッパのごく普通の作品のさりげなさに、より魅力を感じる場合が多い。ハリウッド・システムの功罪は幾多に及ぶが、例えばヘイズ・コードあるいはその”意識”による、エキセントリックなものの排除は裏を返せば試行、冒険、実験精神、更には際立つ個性すら削ぎ落とすことになり、結果として、高完成度かつ類似性の山が築かれることになる。すなわち、アメリカ映画を語る場合、主に独立プロダクション系の作品を対象にすべきなのだが、全体的傾向として映像派は少ないようである
 そのような中にあって「マジック・ランタン・サイクル」ケネス・アンガーは、特異な肌合いながらも、映画の持つ可能性の真正面からの探求という意味において重要である。やはり時代背景的に古さも感じさせられるが、例えば「人造の水」など底辺からの力強さをもち、同時に「時間」の何たるかを意識させられる優れた作品である。ただ単に風合いの特異さだけなら「リキッド・スカイ」「スペース・バンパイア」「バーバレラ」等々、カルト作には数多く見受けられよう。

 テリー・ギリアムの方法は興味深い。「バロン」での舞台装置とカメラ、メルヘン調の色づきと、結構複雑なコンセプトの内に展開される内容のバランスがよく、総体として一級の劇映画に仕上げている。更なる幻想味、ユーモア、煽情、クイア感覚を加味した「ラスベガスをやっつけろ」の場合も、一般的に散漫になりやすい傾向のコンセプトを実に深読みに耐える内容としている。その他の作品も含め、いづれもコンセプトの重層性と力強い統率力を印象付けられるのだが、「12モンキーズ」になると否応なく「ラ・ジュテ」(前出)と比較することになり、保持するレヴェルや大胆さにおいてこちらが見劣りするのは仕方のないことなのであろう。総じてリメイク作、続編などがオリジナルを超えるということはない。  ところで”クイア”に関してはスペインのペドロ・アルモドバル監督に付帯するかのように冠せられるが、言い得ているかどうかいささか疑問ではある。

 グレッグ・アラキ「ドゥーム・ジェネレーション」には、驚かされた。この日系の才能にあっては、単に映像派などと済ませられぬ、人間の奥深くを抉るような感覚が表れていて、ここまで来ると映像は、むしろその意思に利用されているに過ぎないともいえる程である。特異な表現を超えたところで成立している作品である。その他、濃厚な色合いで見せるマイケル・ウインターボトム「I WANT YOU」。リュック・ベッソンは「ATLANTIS」で被写体に寄せる愛情あふれる眼差しを具象化した。一般の劇映画からは得られぬ、抽象された感覚の冴えが感じ取れる。また、その内容ともに新感覚と呼ぶに相応しいのが「アシッド・ハウス」ポール・マクギガン。本のアーヴィン・ウェルシュや、構成面ばかり云々されるが、色合い、構図法ともに面白い。ピエール・ジョルダンでは「ノルマ」・「ヌレエフ」が秀逸。芸術を、ありのまま写しとる事に成功している。
 カルト作と呼ばれる「コヤニスカッツィ」ゴッドフリー・レジオは、コンセプトそのものには賛同でき、貴重な映像の記録には違いないのだが提示方法に不満をおぼえた。
 「ブエノスアイレス」「天使の涙」ウォン・カーウァイでの撮影クリストファー・ドイルは要注目である。縦横無尽に動くカメラはいつでも的確であり、しかも官能性に色着く。(しかし「サイコ」ガス・ヴァン・サントでは全く駄目)。その他カメラマンに目を向けるならば、「ローマの休日」「ベルリン・天使の詩」アンリ・アルカン、アラン・レネ作品のサッシャ・ヴィエルニー(どういうわけか、ピーター・グリーナウェイ作品も担当していて少々戸惑うが)、ロッセリーニやフェリーニ作品でのオテッロ・マルテッリ、「タクシー・ドライバー」等のマイケル・チャップマン。その何れもが多弁、滋味、緊張感の絶妙さにおいて味わい深くある。またあまり映像面でのみ語られることは少ないと思うのだがF・W・ムルナウ仕込みジョン・フォードの、特に「駅馬車」のカメラは凄い。
 しかしながら「フラメンコ」カルロス・サウラでのヴィットリオ・ストラーロなど確かに凝った映像ながらも、どこか力の横滑りのようなあるいは、作為性そのものが見え隠れしてもいるカメラである。


 2、映画地図

 映画も文化を反映するものであるなら、その国、時代、社会、民族性その他の特徴的な影響の下にその存在を余儀なくされている。
 アメリカでは、やはりハリウッド・システムの圧倒的な主張を見る。この歴史的にも大きな役割を果たしてきたシステムが、世界からの有能な人材の一つの集積地であり、同時に方向性をも形作ってきたのである。いまや、インディーズであってもこの一定の庇護のなかにある。その他背景的には、ベトナム戦争、薬・銃社会、多民族国家等々、様々な問題をも孕んでおり、従いそれらを見据えた題材も多くなる。また文化面、写真の世界ではウォーカー・エバンズ、ロバート・フランク、ウイリアム・クラインそして、リー・フリードランダー。美術ではウォーホル、C・シャーマン。ポロックやラウシェンバーグ。音楽では、ジョン・ケージ、スティーブ・ライヒ・・・。ジャズがあり、ロックがあり、テクノもジェフ・ミルズ、ホアン・アトキンス等がおり、デトロイトから始まっている。すべて、世界に影響を与えつづけている。 いま少し、トータルなかたちで映画を俯瞰するなら、

 オリバー・ストーン  政治、戦争、暴力、様々な論点をあざやかに描き、明快でいて深く、見飽きさせない。立体的。それゆえ「七月四日に生まれて」などハリウッドレベルの作品では、不満を感じる。「ナチュラル・ボーン・キラーズ」は解説など無用だ、形態的にアート作品に近い。  S・キューブリック  やはり、2001年・・・「アイズ・ワイド・シャット」「フルメタル・ジャケット」などまさに完璧。 ティム・バートンはそのほとんどが良い。物語のプロットは変われど底流にいつも暖かな眼差しを感じる。信頼感。 Q・タランティーノ  作品すべて面白く、かつ語っている。やはり脚本からの延長だからか。タランティーノ 一派も良い出来。ロバート・ロドリゲス「フロム・ダスク・ティル・ドーン」コンセプトをも変換する、大胆な展開の妙。「フォー・ルームス」はティム・ロスに頼りすぎか。  「リービング・ラスベガス」マイク・フィッギス、高完成度、好きな作品である。  「バッファロー’66」ヴィンセント・ギャロ、この作家(俳優)も実に味わい深い、ただし「アリゾナ・ドリーム」エミール・クストリッツァ(仏)は消化不良。 ジム・ジャームッシュ、「ナイト・オン・ザ・プラネット」「イヤー・オブ・ザ・ホース」が好ましい。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」などは、表現が難しくむしろそういった作品のねらいなのかもしれない。 アベル・フェラーラ「バッド・ルーテナント」は、とても悲しいやるせなさを覚えさせる秀作である。 「誘う女」ガス・ヴァン・サント、編集、構成面で賛同できる。  「デッドマン・ウオーキング」ティム・ロビンスは内容ともに非常に真面目なつくり、音楽も良い。 ジョー・カーナハン「ブラッド・ガッツ」映像の切れ味良いが、最後まで続かない恨みも。  「KIDS」ラリー・クラーク、「ガンモ」ハーモニー・コリン完成度はKIDSにゆずるも妙味ある。 「バウンド」ウォシャウスキー兄弟、監督の冴えを感じる。コーエン兄弟では「バートン・フィンク」か、後作にしたがい毒がうすれる。が、トータルには劇映画として独特さをもつ。  「メメント」ガイ・ピアースは、文句なしに面白いコンセプトを提示する。
 カナダのアトム・エゴヤン「エキゾチカ」も非常に緊密な時間の流れが印象的、本も良い。更に、デビッド・クローネンバーグは極めて個性豊かで、好みは分かれるだろうが「裸のランチ」はすばらしい。 (濠)では「女と女と井戸の中」サマンサ・ラング、ハリウッドでは望めぬ結末。

 ヨーロッパ映画の浸透は日本では、まだまだのようである。洋画=ハリウッド映画の図式が確立されて久しく、また娯楽的要素を満たす背景として、商業映画は圧倒的優位性を示すからである。したがい、日本で一般的に”洋画”と言えば商業映画のそれを意味する。ここでそれらすべてを否定しようとは思わないが、客観的理解として、ハリウッド映画は全映画作品の中の一つのスタイルであるという程度の認識は求められよう。
 歴史的、文化的に重層性、多様性をもつヨーロッパではあるが映画地図は最近変化を見せつつある。すなわち、作品の標榜するものの変化に伴い、かつてのような国あるいは民族性の差異のもとでの論点から、より作家の微妙な個性への言及に移行してきたこと。製作(スポンサー等)が多国に亘るようになってきたこと。これはつまり、イギリス映画、フランス映画といった区別の、意味の形骸化を招く。したがい今後、このような作品にあっては必然的に何語で語られる映画か、どの国で撮影されたかが問題となってこよう。先の要素に立脚しつつも、街の発する意識、言葉の持つ響きは重要だからである。 以下羅列的ながらも気になった作品は多い

 フランス。 美術における「印象派」そしてドビュッシー的なもの、あるいはベルリオーズの先進性。シュールレアリズムは「アンダルシアの犬」を生み、エスプリ、センスなどの形容の一方で、サルトル、メルロ・ポンティー他の理論の並存を見る。  「快楽の漸進的横滑り」他でみせる、アラン・ロブ=グリエの提示は意味深く貴重である。  ゴダール「新ドイツ零年」、ゴダール作品では最もバランス良い。「愛の世紀」、映像がかなり凄い。「アルファヴィル」は明快すぎる(あくまでゴダールにしては)。創作の姿勢全般に関しては尊敬すべき。  ジャック・リヴェット「修道女」内容的に少なからず衝撃、「美しき諍い女」光の扱い。文脈は面白くも冗長にすぎる。 ロベール・ブレッソンは、その映像ともにあまり説明をしない独特な語り口。完成度では「スリ」か、「バルタザール どこへ行く」は淡い情感を出すか出さぬのか、そのぎりぎりのニュアンスで成り立つ秀作。  パトリス・ルコント「仕立て屋の恋」は高完成度、「橋の上の娘」の映像がすばらしい。この監督は、しゃれた味わいなどと評されるが映像感覚(設計)こそ、実はすぐれている。 サリー・ポッター「タンゴ・レッスン」カメラ、独特の色香を放つ。「オルランド」は色彩感と物語性か。  レオス・カラックスは閉塞したような個性、「ポーラX」は映像ともに良かった。  「ベルベット・ゴールドマイン」トッド・ヘインズ、色彩、やはり音楽。 趣は変わるが、「視線のエロス」フィリップ・アレル、これは特に印象に残った、くすぐるような情感、一人称のカメラがものを言う。(邦題はまったく駄目)  「ドーベルマン」ヤン・クーネンも面白い。なるほど、劇画タッチなのだがそれを超えた映像表現(惜しむらくは最後まで持続しない)が痛快、そして音楽。 ヴァンサン・カッセル出演作では「憎しみ」マチュー・カソヴィッツも随所に感覚の冴えを感じさせる。  「ピガール 欲望の街」カリム・ドリデイ、濃厚な色彩ながらも、内容的にどうか、惜しい。

 イギリス。 演劇、文学のイメージが強く、音楽でもブリティッシュ・ロック、レゲエ、スロッビング・グリスルのインダストリアル・ノイズ、の存在感はあるもののクラシックでは目立たない。映画では、例えばデビッド・リーン(キャロル・リードは若干異なるが、)等の諸作で感じられる何かしら安定で泰然とした保守的イメージは、もはや精神的伝統なのかもしれない。  だからマイク・リー「秘密と嘘」、J・アイボリー作品などとてもよい出来だと思うが、決してそれ以上ではない。それゆえデレク・ジャーマン「ラスト・オブ・イングランド」には驚かされた。アバンギャルド濃度は事の他、高く強烈なパワーを発散する。  P・グリーナウェイ作品では「ベイビー・オブ・マコン」がスタイルともに最も良かった。「ピーター・グリーナウェイの枕草子」も映像提示のコンセプトが面白いが、この方向でいま少し押し進めてほしく感じた。全体的に博学が災いして集中力を欠く。  「親指トムの奇妙な冒険」デイブ・ボースウィックには、存在感がある。 その他「あなたがいたら 少女リンダ」デビッド・リーランドは高完成度。心理描写に優れ好ましい。  「トレインスポッティング」ダニー・ボイルは緻密な出来、主題からすればいま少しの破常を期待したくなる。  ケン・ローチは真摯な姿勢が好ましいが「リフ・ラフ」説教がましく、不統一感。「カルラの歌」も消化不良は否めぬ。  「フルモンティ」ピーター・カッタネオや「ロック・ストゥック・トゥー・スモーキング・パレルズ」ガイ・リッチィーも大変良い出来だが、先の伝統は引きずるようだ。  一方、俳優ではヘレナ・ボナム=カーター、ロバート・カーライル、ティム・ロス等底力を持った人を輩出する。

 ドイツ。 クラシック音楽ではドイツ偏重気味の日本でも、映画はそうは行かない。表現主義的なものから”オーバーハウゼン宣言”を経、近作では無国籍なものも目立つ(「ドイツ・チェーンソー・・・」「ネクロマンティック」「キラー・コンドーム」が紹介され大手を振っているようでは駄目)。  フリードリッヒの描出する世界は、ソクーロフ等に影響を与え、バッハやワーグナー、マーラー他、それら音楽的完成度ににとどまる事無く芸術、精神性にまで広く影響をおよぼす。例えば、映画監督がバッハの「マタイ受難曲」を使う場合などは、やはり特別の意味合いをもつのである。他方、ノイバウテン、ベーシックチャンネルの存在は大きい。  ヴィム・ヴェンダースでは、「都会のアリス」が好ましい。佳作然とした佇まいながらも、完成度では随一であろう、また「ゴールキーパーの不安」では、よりはらはらとして”孤独”に近いような情感が出る。これを突き詰めるなら、「クリーン、シェーブン」ロッジ・ケリガン(米)がある。極めてするどい描写力で印象的であった。 フォルカー・シュレンドルフでは「テルレスの青春」、息詰まる空気感の内、淡々とした進行の奇妙さ。これに比べると「ブリキの太鼓」は物語り然としている。ただし、音(楽)は良かった。 「カスパーハウザーの謎」ヴェルナー・ヘルツォークも科学、人間、その他様々なことを考えさせる作品、好ましい。また「フィッツカラルド」、狂気の静かなる描出を描いての妙味。 「バグダッド・カフェ」パーシー・アドロン、やはり役者の巧さ、音楽か。始め部分の色彩、カメラは見事。 ファスビンダー、ウルリケ・オッティンガー作品では良いのにめぐり合っていない。後者は奇妙な皮膚感覚。 「ラン・ローラ・ラン」は楽しめた。展開、カメラ共によい出来である。ベルリンの街、描出に優れ、新感覚。 ドイツ制作ではないが、フリッツ・ラング「死刑執行人もまた死す」は、ベルトルト・ブレヒトの脚本に成るが、あまりにも教科書的にすぎぬか。

 その他。 タルコフスキーでは「惑星ソラリス」「ストーカー」が圧倒的存在感を示す。 ベルイマンも観返したが、人間を深く暖かく見つめる姿は、やはり貴重な映画体験をしたと言うにふさわしい。あえて選択するなら「沈黙」か、”神の沈黙”三部作は良い。  テオ・アンゲロプロスは、透明に描く風景自体の「語り」に独特の個性。フィルムの長回しも独特の時間感覚を生む。 ビクトル・エリセも同じく透明感を描くが、少し情感に色づく。そして瑞々しさ。  ロッセリーニ「無防備都市」は充実、スクェアーかつ立体的な切り口をものする。  ミケランジェロ・アントニオーニは全体的に独特の表情、タイム感を醸し出し哲学的空気感。 パゾリーニでは「ソドムの市」が優れる。寓話集のような他作は発見に乏しい。「奇跡の丘」で登場人物の見せる存在感ある(生きた)表情はすばらしく、プロフェッショナルな俳優の忘れてしまったであろう何かを認識させる。  「ヨーロッパ」でラース・フォン・トリアーは流れるような見事な映像を提示。  シュヴァンクマイエルでは「対話の可能性」が圧倒的。  ダリオ・アルジェントは内容は置くとしても、映像的にはすばらしいものがある。  ロマン・ポランスキーは「水の中のナイフ」が骨太な構成美で面白かった。  「アムステルダム・ウエイステッド」イアン・ケルコフ、揺れるカメラ、色彩感覚。五感に近いが体力が必要。  「ひなぎく」ヴェラ・ヒティロヴァは面白い。女の子映画などと言う安易な受け止めもあるが、メタファーそのものを解釈すべき。手法の随所に冴え。 タル・ベーラ「ヴェルクマイスター・ハーモニー」秀逸な内容、構成美。 アッバス・キアロスタミ作品では「友だちのうちはどこ?」がすばらしい。誰しも持つであろう感情の再認である。  アレックス・コックス(英)は「シド・アンド・ナンシー」ばかりに目を奪われがちだが、「PNDC エル・パトレイロ」こそ捨てがたい。これはまさに、侘び寂びの観念である。「ザ・ウイナー」も展開、やや平凡ながらも独特のニュアンスを感じる。 また音楽 PVでは、クリス・カニンガム「All Is Full Of Love」ビョークでの発想・表現・完成度にはただただ舌を巻く。

 日本作品では、小津、溝口。洋画の中に置くとやはりすばらしい個性である。ただ、予定調和的な安泰感はカメラの特徴を云々しようが否めず、特定の枠内での美学であろう。ATGは監督の独善性が見える物が多く、それが鑑賞のさまたげになる場合も。 実相寺昭雄、「無常」「哥」等でみせるシャープなエッジで危うさ、翳りをも表現する映像はまさに別格と言うしかない(有名なD坂帝都・・等は駄目)。 手塚真「白痴」は魅惑的部分も散見できるが、全体としてはどうか、期待していたのだが。 石井輝男「ねじ式」にあっても、表現上の斬新さなくしては一部のカルト作共通の独特なチープ感を抱かせてしまう。  「ディスタンス」 是枝裕和はやや散漫なカメラに拠るある種、雑なイメージは受けるものの 、訴えの力強さを感じた。  その他、塚本晋也は充実しており「鉄男」「バレットバレイ」、あるいは、石井克人「鮫肌男と桃尻女」、映像では押井守「アヴァロン」、いずれも興味深く観た。  大友克洋「AKIRA」、押井「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」はアニメ作品、内容共々なかなかに作りこまれた力作。  音楽 PVでは、椎名林檎「性的ヒーリング」とりわけ、其ノ壱が秀逸だ。大友によるKEN ISHII「EXTRA」はシュールで凄い。



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