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えいこはんが出会ったやさしいできごと・よろこびの収穫や小さな涙のお話を、よろしかったら読んでいってください。

2006年8月31日 (木) 添い寝 
 世界的に日本では伝統的である添い寝の文化が見直されてきつつある。
「子どもは赤ちゃんのうちから一人部屋で寝かせて自立させるべし。」
と説いたスポック博士は、その育児方がアメリカの暴力的な子ども達の
世代を作り出すという結果に出会ったため、全世界に向けて
「自分の育児論は間違っていた。」と謝罪をした、という。
 「耳さわらせて。」「本読んで。」「背中掻いて。」「トントンして。」
「足さすって。」「手をつないで。」「こっちをむいて。」
私も自分の子どもを育てていく中で、様々なリクエストにお応えして来た。
 施設でも、子ども達は大人の添い寝を切望している。
けれど夜の9時をすぎたら、子ども20人に対して職員はたった一人。
誰かに対して添い寝など、出来るはずもない。
私のようなボランティアが来る日だけ、子ども達に添い寝がつく。
 けれども、私もなんだか泣きたくなってくる。
「足がだるい」「首がかゆい」「背中が痛い」「風邪引いた」
さまざまな理由を持って、部屋の子どもたちがいっせいに
添い寝のための注意争奪合戦を始めてしまうからだ。
 私としたら、一番早く寝そうな子の横について、
次に、次にと寝かしてまわりたいのだが、みんな自分が一番がいい。
だから誰かを寝かしつけてたら、隣で痛がったりかゆがったり、
遊びだしたり寝てる子の邪魔を仕出したり、
「まだ?はやくぅ!」と急かしだしたり、悪循環を作って
寝かしつけにくい環境を作り出してしまう。
隣のスペースでは中学生が大声で話し掛けてくる、
隣の部屋からは「早くこっちの部屋に来て。」という催促が入る。
いいかげんにしてよと泣きたくなるときもある。
でも、一人一人の子どもたちは何も無理なんか言っていない。
誰もが求める、普通のコモニュケーションを求めているだけだ。
ただ、大人の数が全く対応できていないだけの話なのである。
だから、日本の大人はいったいどこにいるのと泣きたくなるのだ。
 足をさすり一人寝かせ、背中をさすり一人寝かせ、
背中をたたき一人寝かせ、中学生と英語の話をして施設を出た。
今日は隣の部屋からお声がかからなかったから、10時には出られた。
 一人一人の子どもに里親(週末なども含む)をつけるのが無理なら、
せめて一人一人の子どもにボランティアを付けられないものか?と、
最近よく考える。
この人は私の担当だから、添い寝は私が一番。遊ぶのは私が一番。
そういう人が一人一人の子どもに付いてくれたら・・・
本来担当してるMちゃんに寂しい思いをさせずに、
堂々とMちゃんを一番に添い寝して、たくさん本も読んであげられるのに。
 スポック博士が正しくて、謝罪なんかしてくれなかったら良かったのに。
そんなふうにちょっとヤケッパチになったりもするけど。
でもまぁ、それもまた神の仕業のうち。と、すぐ元気になるけどね!
何もないより今日子ども達の肌をなでた、えいこはんの手があって良かったよね!
2006年8月27日 (日) ホットロード
・・・・・自分が誰かに 
大切にされてるんだってことを
本当に知っていたら
自分の命を粗末になんか
決してできないはずだよ・・・・・
(ホットロード/紡木たく:集英社)
20年くらい前に読んだ漫画の、この言葉がずっと心に残っている。
 痛い経験を持つ子どもは、普段の表情もどこか痛々しい。
目つき顔つきが満たされていなくて、とっつきにくく、
なんとなく「かわいい」と思えない、そんなオーラを放つ。
 けれども周りのサポートなど、とくに特定の
「大切な特別な人、自分をきちんと受け止めてくれる人。」を
見つける事が出来た子どもは、劇的な変化を見せていく。
「可愛い!」と、思わず微笑みたくなるような表情を見せ始める。
 恋をしたら女性は美しくなる、という。
子どもを授かったとき、女性はさらに美しくなる、と言われている。
そこに働くメカニズム。誰かと魂からつながった、と感じるとき。
心のもっとも奥の故郷に近い光を放つとき。
自分がどれほど大切な存在かに気がつき、自分を大切にし始める。
「あなたは大切な存在です。」標語を街中に張巡らせた所で
何も変わりはしない。
価値判断せず、心から見つめる瞳。まっすぐ見つめる瞳。
大人も子どもも、結局は同じである。同じものを求めている。
太古の昔から、答えはすでに出ている。
あとはそれを実行するかしないか、それだけのような気がする。
2006年8月26日 (土) さびしいやん
 先日、子ども達とこんな話になった。
「大人になって、自由にどこにでも遊びに行けるようになったら、
いっぱいいろんなところに一緒に遊びに行こうな。」
施設に暮らしていると、諸事情で外出もままならないので、
子ども達と一緒に外に遊びに出かけるのは難しいのである。
「でも私たちが大人になる頃はえいこはん、おばあさんやん。」
「もう死んでるんちゃう?」ヒネクレ娘が意地悪を言う。
そのとき、ひとりの女の子が涙ぐんで言った。
「そんなん・・・わたしさびしいやん。いやや。」
ああ、愛されてるんだ、と、たまらなく実感した。
 その子は私が遊びに行く日は、朝からずっと私の名前を呼んでいる。
と、職員さんたちが教えてくれる。
「えいこはん、まだ?」「今日えいこはんが来るねん!」
「えいこはん、あとどれくらいでくる?」
だから職員さんたちは私の顔を見るなり、
その子に「○○ちゃん、良かったねー!」と嬉しそうに話し掛ける。
だからどれだけ慕われてるかは分かってるつもりでいたけれど、
その涙を見た瞬間、実は私は何も分かっていなかったことに気づく。
 愛されるって、ほんとうにすごい。
コントロールも要求も義務も条件も何も持たない愛って、すごい。
その愛に応えたい、という純粋な思いがわいてきて、
心の奥底に「責任感」が生まれる。
長生きしたい、しっかり生きたい、元気でいたい!
自分を大切にしたい、この子を見つめ続けたい、
そして自分のこの夢を必ず実現させたい!と。
もう、裏切ってしまうことは不可能である。(でなきゃ私が駄目になる!)
そうやって、いつも私が教えられる。もっと、光のほうに導かれる。
この子ども達に。
2006年8月23日 (水) 最近
 スランプというのだろうか。
施設にも再びコンスタンスに通うようになって、
毎日いろんないろんなことがあって、
毎日いろんないろんなを感じているのだが、
それが言葉に変換できない。
 無理に変換するとしたら、
ムォワーーーーーとか、
んぅんぅんぅ・・・・とか、
ふぅうううぅううぅうう〜とか、
ラァラ・・・ラァラア・・・ラァラララララ・・・・とか、
トゥワタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタとか、
そんな感じ。
みすゞちゃんならそれでも素敵な詩にするのだろうけどナ。
 だから日曜日にフリーマーケットで配るチラシの内容も
いまだ思い浮かばず椅子に座って数時間。です。
2006年8月20日 (日) 鏡の法則
 えいこはんがかつて(もう7年位前かな?)に、
心理学を勉強したときにコーチをしてくれた大好きな先生が、
本を出していたらしい。
 しかも、ベストセラーになったらしい。
そして今も売上ランキングの上位に入っていた。
 ということを、ついこないだまで知らなかった!
一緒に勉強していた友人から教えてもらって驚いてひっくり返って、
その本を読んでみた。・・・・・良かった!
 これは、シンプルながらも強力なツールであり、
感動とともにかなり深いレベルの心理学のテクニックが
簡単に使えるすごく良い本に仕上がっている。
この本を勇気を持って素直に使うだけで、人生は明らかに好転するはず。
えいこはんが身を持って、これらのツールを行うことで
人生を好転させてきたのだから自信を持って言えます。
ぜひご一読を!
***   ***   ***
 「鏡の法則」 人生のどんな問題も解決する魔法のルール
著者/訳者名 野口嘉則/著
出版社名 総合法令出版 (ISBN:4-89346-962-2)
発行年月 2006年05月
サイズ 92P 19cm
価格 1,000円(税込)
〜〜〜花まつり書店に置きました!〜〜〜
http://coaching.livedoor.biz/
野口氏のブログもメッチャいい!役に立つ!遊びに行ってね!!
2006年8月8日 (火) ぃやったー!
 7月12日に書いた「小林一茶」の俳句の、
「とぶ蛍」の女の子が、無事16首暗記いたしました!!!
もう感動でバンザイで嬉しくて幸せで楽しくてたまりません♪
どうかMちゃんに、心の中で拍手を送ってあげてください(^▽^)v
やったぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
2006年8月7日 (月) ほほえみ
 〜君は知っているだろうか
君に向けられた、無数のほほえみの輝きを〜
 中学生の男の子の4人組が、
ラケットを肩にかけて工事中の道の横を歩いていた。
歩行者を誘導している警備員の日に焼けたおじさんが、
その男の子たちの背中を見ながらほほえんだ、
その笑顔があまりにもやさしくて光に満ちていて、
おもわず私もほほえんだ。
 同じ年くらいのお孫さんがいるんだろうか。
それとも、そっと重ねる懐かしい思い出があるんだろうか。
 きっと、その中学生たちは、一生、
そのほほえみを投げかけられたことに気づくことはないだろう。
 きっと、私たちもその今までの人生の中で
その無数のほほえみに気づかずに生きてきたんだろう。
目を閉じて、今夜はそのほほえみたちに触る旅に出よう。
光が、満ちてくるように。 
2006年8月4日 (金) あー夏休み!
 以前にも書いたことがあると思うのだが、
私は施設の夏休みが好きである。
先生たちの「子どもたちに今日中に○○させなきゃ!」という
慌しい動作もゆるやかになってくるし、
おうちや週末里親の家に帰れる子はおうちに帰るし、
子どもの人口密度が薄くなって、
子どもたちが幾分かのびやかな表情を見せているような気がする。
施設の子どもの人口密度の薄さに比例して、
大人たちと接触する(自分に注目を受けられる)時間が増すのだ。
 大人が少ない状態、というのは、なかなかつらいものである。
たとえば、いつもの小林一茶の暗誦朗読ごっこなど、
ほんとうはマンツーマンでしっかり聞きながら相手をすることができたら、
どんなにいいだろうか、と思う。
 子どもたちは喜んで、暗誦しようとしてくる。
「はーきっしょーむかつくうっせぇ!」などと常に戦闘言語の
子どもたちに、たとえごっことはいえ、
綺麗な日本語を、温かな日本語を、優しい日本語を口にする機会が
与えられたら、と思い、行ってるのであるが、
暗誦したら、大人に聞いてほしいと思うのは当たり前だ。
けれど私一人では何人もの子どもたちの「聞いて聞いて聞いて」に
しっかりと対応することができない。
 まして、前回書いたような知的障害を持った女の子が、
お経のような文章読みから、丁寧な五七五のリズム読みに変わる瞬間、
こんなとこはきちっと見つめてこのまま文章を読む力を付ける作業に入りたい。
と思うのだが、それもままならない。
ほかのお友達も、みんなかまってほしいのだ。遊んでほしいのだ。
 そんな中でも、夏休みはほんの少しだけでも、
私自身にも余裕ができて、楽しい気持ちになりながら遊んでいられる。
こんどは、子どもたちに名句を読んでもらおうかな・・・
 うつくしや 障子の穴の 天の川
 松陰や ござ一枚の 夏座敷
 名月を とってくれろと 泣く子かな   一茶
 きしょいんじゃ いっしょに寝ろよと 甘える子
 あっちでも 泣いてる子ども 目でなでて
 やっと寝て 今夜のご飯は なぁにかな〜 えいこはん  
2006年8月1日 (火) 見守るということ
 街で盲導犬を見かけたら、「かわいい!」などと声をかけては
いけないのだ、ということをご存知でしょうか。
盲導犬が街を歩いてる、ということは、その盲導犬は任務の真っ最中。
盲導犬が主人から気持ちを逸らして一瞬でもほかの事に気をとられ、
もしも主人に何か起こったとしたら・・・その盲導犬は即失格となり、
飼い主と引き離されることになってしまうのだ。
そこにあるその人と犬のドラマは、静かに見守るのが一番いいようだ。
 同じような話は、私たちの住む街にもたくさん転がっている。
たとえば、虐待や育児放棄などを受けて、心に傷を受けた子どもがいる。
その子どもの傷を癒し、健やかに育てようと、
ある心優しく勇気のある里親が、子どもを引き取ったとする。
当然、最初のうち、子どもの心は上手く作用しない。
大好きな親から突然引き離されて、挙句の果て毎日のリズムも匂いも
すべて違う大人と暮らさなくてはならなくなる、ということは、
単純に子どもに「良かったわね。」などと言えないくらい大変なことだ。
 時に荒れ狂い暴れ回る子どもと、里親は対峙を強いられる。
そんななか、里親さんたちは過酷な周りの誤解にさらされる。
電車の中で暴れ回る里子をなんとかなだめようと躍起になっていたとき、
周りにいたお年寄りに「子どものしつけがなってない。」と言われる。
学校の先生に「この子は愛情不足です。」と叱られる。
わかってる。わかってるのだ。だから、里親さんたちは一生懸命なのだ。
 一瞬やほんの一部分、一時の目の前の状況を見ただけで、
自分の感情や判断でその人生に割り込んでいくのは、とても失礼なのだ。
目の前に現れている、その一部分の奥にあるその人の奥には、
計りきれない人生の深みがあるのだ、ということ、
その状況はいつか流れて必ず変化していくのだ、という事実に、
私たちはもう少し謙虚になってもいいような、気がする。
 だから無関心でいい、というのではない。
だから、見守ってほしいのだ。その瞬間のありのままを、少し、優しく。
自分の「こうあるべきでは?」を、少し、横において。
毎日の中で、誰かを、そっと見守る習慣を身に付けてみると、
いろんなことがわかってくる。ほんとうに見えてなかった自分に気がつく。
 見守る、ということ、それも大切なひとつの「関り方」。
簡単で、それでいてとても社会を温かかくする強力な関わり方。
たとえ、すれ違っただけの小さな子どもにでも、お年寄りにでも。
そうすれば、いろんな不思議なことが自分の心に起きてくるのだ。
そして社会などという大きなものを変えていくのも、
こんな小さな関わりから始まるんじゃあないかな、と、私は思う。
2006年7月29日 (土) バザーします!
 いろいろ思うとこありで、資金集めをします。
みんなともっともっと出逢って、和らぎの輪を広げていくために。
様々な情報収集に使うための費用を捻出するための、
チャリティバザー開催します。
家庭で眠っている物品など、提供できるものがあれば
まずはえいこはんまでご一報ください!
取りに伺うor着払いで送っていただく段取りつけます。
まずはメールでお問い合わせを。よろしくお願いいたします♪
2006年7月28日 (金) 心安らかに、楽しんで、喜びが喜びを連れてきて、大好きでときめいて、感謝する。
 前の仕事を辞めてから、ほんとうにご無沙汰している友人たちと
会ったり話をする機会を得、まるで忘れかけていた自分を取り戻している、
そんな作業をしているような気がする。
 そこで、必ずと言っていいほど出てくるキーワードは
「心安らかに、楽しんで生きる。」ということであった。
私が心の底から望んでいることは、ほんとうはこれだけのことかもしれない。
だから、環境や、子どもたちの現実や、仕事、人間関係、お金、夢、
そういったことに望みを抱くのではないだろうか。
 数年ぶりに話をする友人たちも、みなこぞってこのテーマに
突き当たろうとしている。相変わらず、みんなやっぱり繋がってるねんね。
 マザーテレサは、そうやって生きた生き字引のような人じゃないかな。
いつも感謝してた。いつも喜んで感謝できるよう、祈ってた。
 どんな環境が整ったら人は心から安心して暮らせるんだろう。
何億円も持ってたら?みんなが自分の思うとおりに動いたら?
思うとおりのことを言ってくれたら?子どもが勉強してたら?
政府が環境問題に気がついて世界中の自動車を壊して道を森に変えたら?
変質者がみんな逮捕されて拘束されたら?
・・・永遠に安心なんてやってこないであろう。
 安心は、外側からやってくるものではなさそうなのだ。
「危ないぞ、気をつけろ、注意して、こわいよ、難しいけど、しんどい。」
今の世の中は、こんな言葉たちにすっかり覆い尽くされているではないか。
生きる勇気が出てこないのも、当然のことである。
マザーテレサがこれらの言葉に縛られてしまったら、
あの功績は生まれてこなかったはずだ。
あんな最も危険で難しい場所にいながら、彼女はその中にある
喜び、安らぎ、嬉しさ、楽しさに光を当て続け、感謝し続けた。
 その現実を思えば、自分の周りの世界を変えることくらい、
きっとなんでもないことなのではないのかな?
 私が本当にほしかったものが、やっと、見えてきたような気がする。
そしてそれは、当たり前にそこにあって、誰にでも触れて、
けれども世の中を揺るがすくらい大きな力を持ったものだ。
えいこはん@再開の旅、まだまだ続きます。
たくさんの奇跡に、早く逢いに行きたいな♪
2006年7月22日 (土) なまえ
いろんな「なまえ」を見ていると
とっても嬉しくなってくる。
愛、誠、健、幸、勇、和、優、美、真、etc・・・
つけた人の心が伝わってきて、
あたたかくなってくる。
むつかしい名前を見ると、
どれだけ一生懸命愛してるかが伝わってくる。
でも、簡単な名前を見たときも、
その愛が伝わってきて涙が出る。
ぶっきらぼうで簡単でも、そこにつけた人の愛が、
ちゃんと見える。
なまえって、不思議。
ほんとうに、ふしぎ。
生まれたての赤ちゃんの、はじめて名前をよぶときの、
照れくさいくすぐったさ、
無限のものを有限に変えてしまうような瞬間の、
申しわけなさに似た戸惑い、そして責任。
新しい始まりに贈るありったけの心。
なまえって、あたたかくて、とってもふしぎ・・・
2006年7月17日 (月) 見つめる瞳
 施設に行くと、いつも思う。
福祉制度の改正や充実、子どもの視点の政策など、
それはほんとうに大切なことだと思う。
 けれども、子どもたちに今最も必要なのは、
真っ直ぐにその存在を見つめるたった一人の瞳ではないか、ということ。
 だから施設で育たせるよりも、一人一人の子どもに里親を、
という目標がここに掲げられるのは当然で、
心から願わずにはいられない完全なる理想の形である。
 けれども、現実を理想に持っていくのには、
それなりの順序と時間とエネルギーと智慧が必要である、ということを
私はこの目で痛いほど見せ付けられてきた。
行政の視点から、数年間仕事が出来たことは、私の肉となった。
 現在3万7千人の子どもが、親と暮らさず生きている。
その全ての子どもに里親を、では来年から付けましょう、と決めたところで
それは実現不可能なファンタジーでしかすぎない。
大きな大きな船は、ゆっくりゆっくり舵を切っていくしかない。
そして戦う姿勢では、実は何も変えることなんか出来ない。
私たちは常に社会の中に架空の敵を作り出す。
反対の意見、勢力、無関心な民衆、無知な権力者、などという幻を作り出す。
しかし戦うべき敵などは、実はどこにも存在しない。
架空の敵を倒したところで、自分の願う現実などは転がり込んではこない。
 一番早い確実な方法を、私たちが生きた時代に実践した人がいる。
マザーテレサ。彼女がしたことはただひとつ、
「目の前にいる人を助けることが出来たら、次の人を助けるだけだ。」
マザーテレサがしたことは、目の前にいるたったひとりを、
その瞬間、心から愛したことであった。
 すべての子どもたちを救う、完全な制度など創れるはずなどない。
けれどもすべての子どもたちに、見つめる瞳を与えることは不可能ではない。
「誰かとのあの瞬間、誰かのあの言葉があったから乗り越えられた。」
と、それは長さでは計れないものになって現れることがある。
 しっかりと、今ここに存在しながら、子どもたちと真摯に向き合う。
その瞬間の積み重ねにしか、大きな流れを創り出すことは出来ないのである。
人と人との心がしっかりと重なり触れ合う瞬間は、まさに奇跡の瞬間である。
人が人として生きていくために必要な、すべての力を勇気付ける瞬間だ。
街角の奇跡を、気づいた人から増やしていくことができたら。
 「里親を増やすべきだ。」という制度が起こすものではなく、
「里親になりたいな。」という気持ちの集合が起こす流れができたら。
それはすべて、見つめる瞳から始まっていく、と私は思うのだ。
その瞳が起こす奇跡を、押し付けもせずただ見せて気づかせてくれたマザー。
私はもちろんマザーにはなれないけれども、
私には無理だなんて無責任な言葉を吐いてはいけないことも、わかってる。
私にできることを、私は行っていけばいい、ただそれだけなのだ。
神様が私に出会わせてくれた数々の天使たちを、味わい愛でるだけだ。
そんな私を見つめる、おおいなる存在の瞳に抱かれながら。
2006年7月16日 (日) 「会いたいなぁ・・・」
 施設に通いはじめたころ、当然最初に懐いてきたのは小学校低学年だった。
それ以上の子からは「ボケカスキショイ帰れ」攻撃を受けていた。
 小学校中学年とは、度重なるバトル(取っ組み合いもやった)を経て、
半年を過ぎるころにはおたがいの存在と折り合いを着けられるようになった。
 それでも、中高生とはなかなか打ち解けることは出来なかった。
中でも、私が担当になった部屋に所属していた中学生の女の子たちは
容赦が無かった。「え、これってイジメ?」と思えるような仕打ちを受けた。
二年も過ぎたころ、やっと少しだけ普通の会話をするようになったのだが、
その中学生が、今春施設を出た。
 どういった家庭の事情があってそこにいたのか、また出て行ったのか、
私には何もわからない。ただ、懐いた小さい子どもたちだけしかいなくなった
部屋は、安堵に満ちているとともに少し寂しいものを私に感じさせた。
 そんな彼女からメールが届いた。「会いたいなぁ・・・」 
夏休みに、遊ぶ約束をした。晶子ちゃんの個展にでも誘おうかな、と思う。
私は、きっと恋人と初デートをするくらい、緊張するだろう。
何を話したらいいのかとか、どういう態度を取るべきなのか、とか、
退屈させたらどうしようとか、何もわからない事だらけだからだ。
なにもわからない等身大の自分で、そこに在ることしか出来ないけど。
 「会いたいなぁ・・・」
その言葉に込められた真意も重さも私にはわからないけど、
やっぱり、嬉しかった。特別に何も関わらなくても、
ただ二年間、一週間に一回、それも2〜3時間、そこにいたことで、
い続けたことで、産まれてきた「気持ち」そして「言葉」。
 赤ちゃんが両親の出逢いという奇跡を経て十月十日お腹にいて
生まれてくるように、ある出逢いからじっくりと時間をかけて生まれた言葉。
大切に、育てたいなぁ〜・・・
2006年7月15日 (土) テレビ放映と繋がり
 愛すべき友人たちが次々にTVに出演することになったお知らせ(2件)を
ゲストブックのほうに出してありますので、ぜひご覧くださいませ。
 一人はハムスターキャラでおなじみの、国栖晶子ちゃん。
何年か前に、まゆみんたちと一緒にイベントを企画した愛する友人です。
彼女が経験した痛い苦しい出来事を乗り越えた軌跡を元に自然に生まれた、
素敵で私も大好きな絵本を、SMAPの稲垣吾郎ちゃんが朗読するそうです。
じっさいの体験から出てきた絵本なので、人に与える勇気は大きいのです!
 私はことあるごとに、勇気付けたい友人や子どもたちに、
彼女の絵本をプレゼントしています。最新作も、超オススメです。
 もう一人は大目祐賀子ちゃん、この日記でも以前に紹介した
現役里子の高校生の女の子。彼女のドキュメンタリーは、解説なし、
とにもかくにも見てほしい、それだけです。
 でもね@私にとってとても不思議で嬉しいことがあるんですよ。
私、祐賀子ちゃんにも、国栖晶子ちゃんの絵本をプレゼントしたんです。
そしたら祐賀子ちゃん、すごくすごく気に入ってくれて、
晶子ちゃんの大ファンになってくれたんですね。
もうすぐ予定されてる晶子ちゃんの個展にも、行ってくれるそうです。
この二人(にまつわること)が偶然、この夏にTV放映される。
これって、私にはなんとなく、よーくわかるんです。
あ、繋がっていってる、そして、新たな展開が始まっていく、ということが。
 私に出来ないことは、誰かがちゃんとやってくれる。
だから、私は私に与えられた出来事に忠実に向き合っていくだけ・・・
再び、そんな頼もしく嬉しく優しい直感に包まれながら、
未来を信じていられる自分に、安心するんです。
あー、たのしみです♪♪♪
2006年7月12日 (水) とぶ蛍
 大半の女の子たちが一茶の俳句をほぼ全句覚えた中で、
やっと今日から最初の一句を始めた女の子がいる。
小学校三年生、養護学級に通っている知的障害を持った子だ。
 彼女はまだ文章を読むのも一字一字ひろい読みで、
何かを読むとみんなから「お経みたい。」とからかわれている。
そんな彼女はハナから文章を覚えようとはしない。
私には無理だ、と決め込んでしまっていた。
 けれども今日、どういうわけか、彼女が突然、
「私もがんばって覚える!」と言い出した。
それならば、と、一緒に暗記をし始めた。
まず、ひろい読みから、普通の暗誦のリズムへの転換を図る。
「にーつーぽーんーはーはーいーりーぐーちーかーらさぁくぅらぁかぁなぁ」
を、ちょっとずつ「日本は、這入り口から 桜かな」のリズムに乗せる。
何回も何回も読み返しをすることで、少しずつ覚えていく。
 けれども、どうしても、
「わんぱくや 縛られながら 呼ぶ蛍」の「ほたる」の発音ができない。
「よぶふたる。」になってしまう。「ぶ」から「ほ」への急な転換が、
彼女には難しいのだ。
「よぶふたる。」何回も何回も繰り返される間違いに、
周りの女の子たちが笑い出す。最初はつられて笑ってたその子は、
途中から「もう!一生懸命がんばってるんやし笑わんといて!」
と泣き出した。けれども、彼女はそこからも逃げないで繰り返して、
ついに「とぶ蛍」をスラスラと言えるようになった。
 いままで、きっと、彼女は彼女なりに、
「自分で突き当たるであろう壁」があることがわかってて、
暗記音読を避けてきたのだと思う。
けれども、その壁を乗り越えよう、と思う瞬間、
彼女にはいったい何が起こっているんだろうか?
その真っ直ぐ伸びようとする勢いに、頭が下がるばかりだ。
 何句かおぼえたあと、次の壁「ひとしぐれ」にぶつかる。
「と」から「し」に移るのはこれまた大変で、「ひとすぐれ」になる。
一生懸命発音しつつ、「ふぅー、またこれむつかしいわ。」と
フラフラしつつぼやきつつただ発声を繰り返し、笑う彼女。
あぁ、おっきくなったなぁ〜、と、親ならきっと感動する場面なのだ。
そんな感動を味わうことが出来なかった親御さんの分も、
素敵な感動をいただきましてありがとう。
成長って、本当に素敵だな。成長こそが、結局喜びなんだな〜
今夜は夢の中で一茶と一緒に、蛍を呼びましょうか。
2006年7月7日 (金) 感謝巡業
 前の仕事を辞めるにあたって、多くの方々から慰労会を開いていただいてる。
中には東京に就職した子がわざわざ会いに戻ってきてくれたりもした。
感動と感謝で、うまく言葉にできない事だらけで無口になる私。
当時ご飯もろくに食べられなかった学生ボランティアスタッフの彼が、
「ここは僕が出します。」なんて前に出た瞬間などは、感無量だ。
あぁすっかりお母さん気取り。どこに行っても良い子どもたちに恵まれる。
 しばらくゆっくりして、みんなに手紙を書きながら、感謝巡業してみたい。
みなさんから受けたご恩は、ひょっとしたらみなさんには直接
返せないかもしれない。でもまわりまわってみなさんに返るように、
私は私の前にあるものに心を注いで行きたい。
 いろんなことがあったけど、ぜんぶぜんぶ、しあわせの範疇の出来事。
それに気がつけたら、また明日へと進んでいく勇気になるね!
2006年7月5日 (水) ふっかーーーーーーーつ!
 今日、三ヶ月ぶりくらいに施設に遊びに行った。
これからは、ふたたび毎週行く予定であーる。
思い起こせば数ヶ月、先月などはお休みが三日しかなかった!
 今月から、前の仕事を辞めて週3〜4日のアルバイトに変えてみた。
もちろん収入は減るけれど、神様にちゃんと養ってもらえるはず。
私が私らしく喜びの種をまわりに撒き散らしながら生きている限り、
神様はけっして私を見捨てはしない、と信じられる。
 40歳を超えたら、やはりこういうこと考えるようになった。
私に与えられただけの天命を、それ以上を望まずそれ以下とみくびらず、
この地球を、私が生まれたときよりも少しでも良くして次世代に残すために。
等身大の自分にできることを、見つけて行っていきたい。
毎日の中でたったひとつでも、笑顔を増やすだけのことだけどね。
 まずは心から変えていかなくちゃいけない。
日本は、世界は、必ず平和に幸せに、子どもたちが暮らせるようになる。
望みを持った人が一人でも増えるのと、
あきらめる人が一人でも増えるのと、どっちがいいだろうか?
望みをつなげていきたい。たくさん、希望はある。
 施設では4〜5人の子どもがいっぺんに話し掛けてくるので
行けばやっぱりせわしない、あわただしい、ややこしい。
それでも、できることがある。必ず、ヒントや糸口が落ちてくる。
気負いも深刻さも、最近は不思議と抜け落ちてきた。
明日からの私が、すごく楽しみで嬉しい。
明日の私は、なにをするんだろう?なにに出逢うんだろう!
 おおげさな肩書きが無くなった、ただの「えいこはん」復活!♪!
名刺をゴミ箱に捨てて、飛び跳ねて笑った。
ほほをなでる名前もない優しい風のような、
どこにでもあって当たり前の、でもなくてはならない大切な、
地球の一部分の、そんな私です。