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◆ケルン
ドイツ人は一般的に英語を難なく話す。年配者でも日常の英会話に事欠かない人が多い。この国で英語の授業はどのように進められているのだろうか。ケルンにあるギムナジウム「ケーニゲン・ルイーゼ学校」の7年生(13歳)の授業を興味深く参観した。
英語科のディーコウ先生は、真面目そうな30代の男性教師。生徒たちを前にすると、いきなり英語でしゃべり始めた。
「ロンドンに住んでいる家族が、イギリスの地方都市を訪れました。先回はそこまでやりましたね。その都市はどんな町でしたか」
「北の町だけど、町の人たちは日焼けしていました」と、女子生徒が手を上げて座ったまま答えた。
「そうですね。ほかに気づいたことはありますか」
「小さい町には伝統的な産業があります」と、男子生徒が即座に答えた。
「それでは教科書を閉じて、CDの続きを聞きましょう」
CDが流された後に、活発な会話が始まった。ディーコウ先生と生徒たちは、イギリスのことをテーマに自由に話し合っている。英語を学ぶというより、外国の町のイメージについて、生徒たちが考えたことを発表し、先生がさらに深く質問していくやり方だ。その受け答えに、英語の発音が不自然だったりとか、もどかしくて言い換えたりということはなかった。
13歳ですでに英語はこのレベルに達している。英語とドイツ語は欧州の言語の中でも近い言語だ。それだけに学ぶ苦労は少ないようだ。
このギムナジウムでは、英語のほかにフランス語とラテン語の授業がある。語学はむしろラテン語習得のほうに手を焼くようだ。それにしても想像した以上のハイレベルな授業だった。日本であれば、大学以上で見られる授業といったところだろうか。生徒たちにカメラを向けると、おどけた仕草をするところが13歳らしかった。
「それでは思いついたことをノートに書きとめてみましょう」
ディーコウ先生の指示で、ライティングが始まった。生徒たちのノートを背後から覗き込むと、落書きしている男の子が4人もいた。マンガのタッチで描かれる人物、わけのわからない記号など。やんちゃな姿に接し、むしろホッとする。英語の授業中は余裕で遊んでいるという感じだった。
授業が始まって15分後、参観した教室をあとにして校長室へ向かった。
「授業はいかがでしたか?」
イングリット・グラス校長(53歳)はショートカットの似合うステキな女性だった。この学校の秘書室で彼女を最初に見かけた時、生徒たちとフランクに話し、優雅に身をこなしている姿が印象に残った。その彼女から授業の感想を求められた。
「英語で授業を進めることに、まったく抵抗がないのですね」
「ドイツ語は英語より複雑でしょ。特にグラマーが。だから、英語を使うのはドイツ人にとっては楽です」
ケーニゲン・ルイーゼ学校は、ドイツ北西部の町「ケルン」の中心街にある。ケルン大聖堂からは西に1`。旧市街の目抜き通りのすぐそばだ。観光客が行き交い、ショッピング街のざわめきが聞こえる。しかし、校内に一歩入ると平和なムードが満ちていた。
「外からの入り口は、たった一つしかありません。校内は和やかでしょう」
チャイムとともに休憩時間に入り、校長室に隣接した秘書室には女子生徒たちが大勢入ってきたようだ。秘書と事務手続きをしている様子だが、いつまでもおしゃべりに興じている。
「生徒たちはコミュニケートを求めてやって来ます。もちろん問題があって、訪れる生徒もいます。みんなの心が触れ合うことで平和になります。とても大切なことですね」
イングリット・グラス校長は、ケーニゲン・ルイーゼ学校に赴任して11年になる。彼女が42歳の時に、校長としてやってきた。同校で学校経営者として10年以上も勤務していることになる。ヨーロッパで訪れた学校では、校長の勤続年数が一般に長かった。それが、学校の独自性を引き出すエネルギーとなっているように感じる。充実した経営を実現するのに、これは一つの重要な要素と思えるようになった。
「校長になって、努力したことはたくさんあります。伝統的な教え方が必ずしもいいわけではありません。だから多くの新しいプロジェクトを作りました。この町はフランスやオランダに近いです。オランダには1週間かけてスキーに行きます。ケルンの街中には美術館が多いので、それを利用した授業を多くするよう工夫してあります」
地の利を最大限に生かしているのだ。それだけではない。
「近くの大学に化学の授業を受けに行くこともあります」
大学で実際に授業を受けることは、進路決定にも役立つはずだ。
「ドイツでは4年間の初等教育を終えた段階で、どの種類の学校に進学させるかということは親が選びます。ケーニゲン・ルイーゼ学校はギムナジウムですが、成績のいい子だけを優先的に入学させるわけではありません」
ギムナジウムでは、5年生から13年生までの9年間を過ごす。年齢でいえば10歳から19歳まで。日本でいえば小学校高学年から高校までの期間にあたる。ドイツでは中等教育期間がもっとも長く、落ち着いた学校生活を送れるのである。
「学校経営」(第一法規)2003.12月号
◆マーストリヒト
オランダのマーストリヒトは、1991年にEU創設を宣言した町である。「マーストリヒト条約」はEUの経済活性化が焦点となった。条約内容が世界から注目を浴びるとともに、条約締結の舞台「マーストリヒト」への関心が自然に高まった。
この町は首都アムステルダムから遠く離れた国境の町である。ベルギーとドイツに接している。もとはブラバント公国だった。1632年にオランダ領になり、ナポレオン時代にはフランス領になった。そして、もう一度オランダ領へ。ワーグナーの楽劇「ローエングリーン」の舞台として有名である。
マーストリヒトの町並みはロマンティックな雰囲気を漂わせ、いつも観光客にあふれている。ところが、町の中心「フライホフ広場」は、広場全体が工事中だった。5年前に訪れた時は、市が立ち、広場中央の特設ステージでは華やかなクラシック・コンサートが開かれていた。当時は国境の町らしく、通りに面した所に自動両替機が設置され、そこに観光客の長い列ができていた。単一通貨「ユーロ」に切り替わってからは、近隣諸国の人たちが町に自然に溶け込んだようだ。熟年夫婦の観光客が目に付いた。
実はこの町に、急激な変化が起きていた。旧市街の改装工事とともに新市街での開発が進んでいた。そのことは町に到着して、すぐ気がついた。国際司法裁判所のある近代都市デン・ハーグから、陶器で有名な古都デルフトを経由して、マーストリヒトに入ってきた。途中のロッテルダム、アイントホーフェンで列車を乗り継ぎ、3時間半の移動時間だった。オランダを北西から南東へと目いっぱい移動したことになるが、工事が町全体に及んでいるのはマーストリヒトだけだった。
到着駅は新市街にあり、メッセ会場まで2`歩いた。新興住宅地を抜けると、ヴォーダフォンの真新しいビルが目に入った。道路の両脇に、ヴォーダフォンのロゴマーク入りのビルが建っている。広い敷地に4棟のビルである。メッセ会場まで歩いてみると、この地域一帯がオフィスビル街として生まれ変わろうとしているのがわかった。2、3カ月に1棟の割合でビルが建つという建設ラッシュである。広々とした道路は整備済だ。さらに大型病院が建設され、病院前はバスの発着ターミナルとなっていた。
このターミナルから旧市街へと向かう道路の1`先に、オブス・デ・シュピーゲル小学校があった。都市開発の影響は少なからず学校に及んでいるに違いない。そのことを中心に尋ねてみよう、と同校のゲートをくぐり、取材を申し入れた。すると、スタッフの一人がマレーク・ヴィーアト校長(56歳)を呼び出してくれた。素朴な感じの女性校長だ。
「今日は朝8時から午後6時まで、ずーっとミーティングでふさがっています」
この小学校を訪れた9月15日は、新学期がスタートしてまもない月曜日だった。
「明日の午前中に、お時間をとっていただければ、明日きます。幸いにもこの学校から近いホテルに滞在しています。もしも今日中に30分くらい、お手隙の時間があれば、その時に参ります」
このようにお願いした。
「30分というまとまった時間は、今日も明日もとれません。今でよろしければ、少しだけお話ししましょう」
学校では1時限目の授業が始まったばかりだった。児童や教師たちは教室の中に消え、校舎は静まり返っていた。校長室に通され、インタビューは始まった。
「学校内で行われるミーティングについて、教えてください。どのようなミーティングで何を決めるのですか」
「先生自身が学んでいかなければならないことは、数多くあります。お互いにディスカッションして決めて行くことも出てきます。そのためにチーム・ミーティングというのを頻繁にやっています」
「例えば?」
「学校経営のあり方について、経営の仕方を学ぶ必要性が出てきます。その例としてアメリカ式の経営方法などについて調べ、具体的に研究することがあります」
「この地域の開発が、学校にもたらした影響はありますか?」
「それほど地域が変化したとは感じていません。絶えず伝統だけを大切にしていればいいわけではありませんから。それよりも、児童たちに社会の中での振舞い方を教えて行くことが重要です。それにはお互いの立場をまず十分理解させる必要があるのです」
オランダの初等教育は、4歳から11歳までの8年制。義務教育は5歳から18歳までで、最後の2年は部分的義務教育となっている。小学校では児童の感情、知性、創造性の発達と、十分な社会的、文化的、身体的能力を身につけることに主眼がおかれている。実直そうなヴィーアト校長は、同校に赴任して6年。地道な教育実践を続けているようだ。
「以前、この学校に日本人の児童が2人いました。日本の教育システムや学校生活のことを聞いたことがあります。ペーパー試験のプレッシャーが強いために、夜遅くまで勉強しなければならない。そのために、授業中は寝ている子がいるというのを聞きました。私の意見としては知識の詰め込みは、よくないと思います」
外国では日本の教育事情は、思いのほか報道されている。「あれは、どういうこと?」と解説を求められることもしばしばである。しかし、ヴィーアト校長は日本の教育事情を一面的にとらえようとはしていない。教育実践の中で社会性を自然に身に付けさせることの大切さを指摘したのだった。
現在、オブス・デ・シュピーゲル小学校の児童数は205人、教師は13人。小規模ながら独自のカラーの強い学校だった。
「学校経営」(第一法規)2003.11月号
◆デルフト(9.14)
今回の旅のハイライト「デルフト」へ移動。学生アパートから国際司法裁判所まで歩き、そこから市電でデン・ハーグ中央駅へ。超現代的なビルに囲まれた駅から、路面電車でデルフトに向かう。わずか20分で、古都に入る。デルフトで1時間半、散策する。ここにも運河がある。ゆったりとした流れだ。運河に沿って、町の中心へ。日曜日なので教会からミサの歌声が聞こえてくる。広場にはデルフト焼のお店が並んでいる。白い陶器の靴に青色模様のデザインが目を楽しませてくれる。
「塔の高い教会が新教会。そこは工事中だから中には入れないよ。そして向かいにあるのが市庁舎。旧教会に行きたいのなら、運河を越えて行かなきゃいけないよ」
陶器店の若い男性が、旧教会の方向を示してくれた。旧教会にデルフト出身のフェルメールが眠っている。今回の旅は「フェルメール」の作品を丹念に1枚ずつ見て歩いている。アムステルダムでは「牛乳を注ぐ女」「恋文」、デン・ハーグでは「青いターバンの少女」を鑑賞したばかりだった。
◆デン・ハーグへ(9.13)
早朝、運河のそばのホテルから朝日を眺める。運河には靄がかかり、カモがよちよち歩いていた。その風景を撮影する。カメラは相変わらず不調。
オランダに来ると、いつも荷物が軽くなる。理由は寒いから。Gジャン、薄手のコートまで着込んでしまうので、旅の荷物はぐーんと少なくなる。今回もリュック一つで軽快に歩いた。ここまで身軽になると、以前まで見落としていた町の良さを次々に発見する。
ライデンから「デン・ハーグ」へバスで移動する。デン・ハーグ郊外から町の中心へ入ると、ビルの林立する大都会に来たように感じる。ビルのデザインが個性的で、まるで美を競っているかのようだ。さすがに政治の中心地。さっそくホテルを予約。その後、マウリッツハイス美術館を訪れた。
すっかり歩き疲れて、ホテルへ向かう。中央駅2Fのターミナルから、市電で中心から少し離れたベークラーン通りへ。ここのホテルは学生アパートだった。広いワンルームに、台所、洗面所、シャワー、トイレがついている。居間でユーゴスラビア人のブランカと出会い、4時間も話し込んでしまった。
◆ライデン(9.12)
ライデンに引き返すと、小雨が降り始めた。寒い! まるで秋を通り越してしまったかのようだ。
午後はライデンで過ごす。初日に泊まり損ねたホテルにチェックイン。心行くまでライデンの町を散策する。大学周辺は5年前に歩き回ったことがある。今回は2本の運河に挟まれた「ハーレム通り」を中心に隈なく歩く。市庁舎前で写真撮影をしている時、デジカメの不調に気づく。連続撮影ができない。困った。というより、これからの取材に響く。バッテリーに問題があるのかもしれない。学生街で乾電池を買って、リチウム電池と交換し、撮影してみた。それでも、次の撮影までに10分待たなければならない。カメラ店で「写るんです」を探してみたが、扱っていない。大変だ。しかし、一夜明けると、直っているかもしれない。それを期待して、ホテルで早めにベッドに入った。
◆アムステルダムの美術館へ(9.12)
静かな朝だ。ライデンは落ち着いた学生町だが、隣村のライダードルプはもっとひっそりしている。牧歌的な風景を見ながら通りを歩く。空港から田舎町に直接やってくるのは珍しい。外国では大都市から旅が始まるのが普通だ。ところが、小学生や中学生が歩いて通学し、馬に乗って通りの端を移動する人を見かけた。
こんな朝の風景を眺めつつ、バスでライデンに向かった。そこで列車に乗り換え、アムステルダムへ。中央駅に降り立つと、国立美術館とゴッホ美術館を目指した。運河にかかる橋をいくつも超えているうちに、方向を見失ってしまった。郵便配達のおじさんに、「美術館はこっちですか?」と尋ねる。
「ご覧の通り、私は今とっても忙しいんだ。でも、連れて行ってあげるよ」
配達用の自転車をビルの前につけたまま、美術館が見える通りの角まで案内してくれた。オランダ人はさり気なく親切だ。英語やドイツ語を自由に話せる人が多く、この国はいつ訪れても気持ちよく過ごせる。
美術館に入ってから、たっぷり時間をかけて、オランダ絵画に見入る。趣味と仕事が重なった楽しいひとときである。
◆ライダードルプへ(9.11)
アムステルダムのスキポール空港に到着したのは、夜8時。8月まで出版準備に追われていたので、「オフ」と「急ぎの取材」をかねた旅行のスタートとなった。成田空港の書店で、我が新刊書を手に取った時は、胸が熱くなった。ついに新しい本が誕生し、本屋に並んだのだ。ロンドン経由のBAで、長旅も何のその。と言いたいところだが、やっぱり眠い。タクシーに乗り込み、ホテル名と住所を告げた。
「お客さん、そこはアムステルダムじゃないですよ。ライデンですよ」
「エッ、まさか。タクシー代はどのくらいになりますか」
「50ユーロ(6500円)かな」
アムステルダムにしては安いホテルだな、と思ってインターネットで予約していたのだ。タクシー代が高くついても仕方がないか。ライデンは次の日に移動するつもりだった。
「それでは、お願いします」
そして、ホテルに無事到着。ところが、ホテルのフロントでは「予約が入っていません」という。予約番号を見せて、納得してもらった。
「予約のことはわかりました。しかし、満室になりました。他のホテルに問い合わせてみましょう。私が車で連れて行きますよ。いいですか」
ということで、フロントでは私のためにホテル探しが始まった。そのそばで私は、ロビーのソファに倒れこむように座り、そのまま眠ってしまいそうだった。日本からの到着便は夜遅く空港に着くことが多い。たまに心配になって、空港からホテルに電話を入れることがある。しかし、今夜は定刻より早い到着だった。「余裕だな」と心でつぶやいて、タクシーに乗りこんだのだった。
「お客さん、ホテルが見つかりました。隣村ですが、車で15分くらいの所です。さあ、行きましょう」
宿の若旦那の黄色い車で、隣村へ向かうことになった。
初日から、何ということだ!
◆東欧旅行(2003.9.30 アイルランド在住の篠塚クンからの報告:原文のまま)
今回の旅行は
ベルリン(ドイツ)→ ワルシャワ → クラクフ → アウシュビッツ(ポーランド)→
プラハ(チェコ)→ ウィーン(オーストリア)→ リュブリャーナ(スロヴェニア)→
ドブロブニク(クロアチア)→ モスタル → サラエボ(ボスニアヘルツエゴビナ)→
ベオグラード(セルビアモンテネグロ)→ ブタペスト(ハンガリー)
ちょっとはしょりすぎたかな。 もっと見とけばってとこも多々・・・。
テーマが戦争って事もあって感動より考えさせられる事の方が多かった気がする。
ってな感じで、場所別一行日記スタート!
ベルリン
→
ドイツ人のイメージ変わった。冷たいと思ってたけどいい人多かった!やっぱり人に対する感情は自発的なものじゃないとね。知らず知らずのうちにドイツ人に対して冷たいイメージを抱いていたと思うから。今は昔の反省もこめてか世界平和・協力ってメッセージを街中から感じる事ができた。いいことだ!
ワルシャワ
→ 特別いいとは思わなかったけど、第二次世界大戦で粉々に壊滅させられた街をよくここまで復元にしたなー。それは素直にすごいと思った!
クラクフ →
旧市街はやっぱり綺麗で。でも時間なくてあんまりまわれなかった。
アウシュビッツ →
言わずと知れたナチスの強制収容所。酷い・・・。憎まざるをえない。でもこういう面からドイツ人に対するイメージって作られちゃうような気もする。歴史を伝えるってことは重要なことなんだろうけど、今に生きるドイツ人には気の毒だなとも思った。日本人に対する一部の韓国人もそうだし。
プラハ
→ すごい綺麗なまちだった。もうちょっと工事がなければ、、、。
ウィーン →
豪華だなーって感じ。ヨーロッパに初めてきたのがこの街なら感動したのかも。音楽に浸りたいならいいかも。
リュブリャーナ →
ここは1泊するべきだった・・後悔。街は大した事ないんだけど近郊の洞窟とか湖とかよいらしい。洞窟城ってとこに行ったんだけど城には入れたけど、洞窟には帰りのバスの関係で入れなかった。
ドブロブニク
→
ここは、かなり良かった!今回の旅で一番良かったのかもしれない。アドリア海すごく綺麗!&初めて夕日を見て感動した。
ここで一人の足の不自由な人と出会って手を貸してあげる場面があったんだけど、自分が五体満足でいられることがどんなに幸せな事か改めて思い知らされた。優越感なんてものを感じてる訳じゃないけど。思ったんだけど、やっぱり人って字の通り支え合ってるなと。僕はその人の手助けをした。で、その人は健康でいられることが普通の事なんだけどすごく幸せなことだっていう普段気づかないことを僕に気づかせてくれたから。みんな何かしら相手にないものを知らないうちに補っているんじゃないかなと思う。
モスタル
→
ボスニアヘルツェゴビナの復興に日本の政府がかなり協力してるみたいで、日本人受け良かった。ここは川を挟んで違う民族同士いがみあってるらしいんだけどあんまりそんな感じは受けなかったなー。街中にある銃弾の跡が痛々しい。川が意外にすごい綺麗だったんだけど土手には沢山の地雷があるんだよね。怖いな。
サラエボ
→
かなり復興してるみたい。人の表情も明るかった。でも街のいたるところにある銃弾やミサイルの跡、それから彼らの身体に残った傷跡を見るたびに悲惨な過去を思い出してしまうんやろうね。可哀相。
ベオグラード
→
サラエボと比べたら目がギラついた人や、憂鬱そうな人が多かった感じがしました。
一日も早く明るい表情を取り戻してほしいですね。街は思ってたより都会で。でも良い街とは言えないなー。排気ガスすごかったし。ボスニアヘルツェゴビナもセルビアモンテネグロも言われてるほど治安は悪くなさそうだった。
ブダペスト → のんびり出来るいい街だった。ゲイの温泉行って来た。理解不能。でも面白半分に行っていいとこではなかった。ちょっと反省・・・。まだまだ話したいことはあるけど取りあえずこんな感じです。
(以下は篠塚報告に対する私、山内の感想)
貴重な体験を報告してくれて、ありがとう。勉強になりました。
私の感想をそれぞれの町について、ちょっと書いてみるね。
☆ベルリン
⇒ドイツのイメージは“作られた”部分が多いよ。特にユダヤ資本が入っているアメリカ映画では、冷たいイメージになってしまう。早く気付いて良かったね。ドイツは小さな町もいいよ。
☆ワルシャワ ・クラクフ
⇒いつか行きたいと思いながら、まだ行けない。
☆アウシュビッツ
⇒私はミュンヘンの近く「ダッハウ収容所」に行ったの。同様の感想をもった。でも、史実を隠さないところがドイツらしいね。ドイツの学校では詳しく勉強し過ぎて、強烈なショックが残ってしまうことがあると聞いたよ。
☆プラハ
⇒さすがにボヘミア王国の首都だよね。この町を訪れると、宝石のようにいつまでも
心の中でキラキラ輝き続けるよ。
☆ウィーン
⇒ここでは、オペレッタを天井桟敷で楽しんできてほしかった。
☆リュブリャーナ・ドブロブニク・モスタル・サラエボ
⇒ここは私の知らない町。「篠塚報告」に頼るしかない。アドリア海をクロアチアから眺めると、きれいだってね。イタリアから眺めても美しいけれど、どう違うのかな。そして、人との触れ合い。これが旅だよね。これがあるから、また一人で出かけたくなる。
☆ベオグラード
⇒私が見たベオグラードは、爆撃される前だった。しかも社会主義時代。今月、私が訪ねたデン・ハーグで、ユーゴスラビア人と同宿したの。彼女から聞いた話だけれど、ベオグラードはNATOの攻撃を受けて壊滅的な状態になったって。復興はまだまだ先。「日本人には本当にお世話になりました。だから日本人は大好き」。そう言ってくれるブランカと彼女の夫は、サンドイッチを作って食べさせてくれた。日本の国際協力が、こういう形でダイレクトに跳ね返ってくるね。
☆ブダペスト
⇒この町も心に残るいい町だよね。何しろ民族が、他の国と全然違う。
※以上、篠塚クンから届いたメールを本人の許可を得て構成した「東欧旅行」でした。
◆ワイマールとライプチッヒ、そしてベルリン(2003.4月)
ドイツの町を列車ICE(都市間超特急)で縦断した。4月下旬はイースター休暇と重なり、列車内は観光客や里帰りする人たちでほぼ満席だった。スイスの国境の町バーゼルからフランクフルトへ。さらにICEに乗り継ぐと、隣席に旧東独出身者のペーターさん(39歳)が座っていた。
「イエーナという町に帰るところだ。そこに妻子が住んでいる。南ドイツのケムプテンで職工として働いている。長期休暇だけは家族のもとで過ごすんだ」
いかにも誠実そうな彼が、フランクフルトから100`東に進んだ地点で、急に多弁になった。旧東独領内に入ったのだ。この辺りには東西を隔てる壁があったわけでもなく、田園風景がどこまでも広がっている。沿線からは小さな集落が点々と見える。
「もうすぐワイマールだ。きれいな町だよ。そこで降りて1時間くらい散策するといいよ。僕は列車を乗り換える」
ペーターさんに勧められるままに、ワイマール駅に降り立った。ホームには人影がまばらである。駅から真っ直ぐ延びるメインストリートに沿って歩いたが、ホテルやレストランに出入りする人が極端に少ないことに気付いた。静かで落ち着いた町であることに違いなさそうだが、眠りから覚めたばかりのような妙な静けさがあった。通りには、すっかり化粧直しされた建物が並んでいた。
町を一回りした後、次の列車でライプチヒに向かった。こちらは2006年のサッカーW杯の開催地。駅前は再開発が進み、大型ホテルや駐車場など建設ラッシュだった。町の中心の広場まで歩くと、何やら懐かしい光景を目の当たりにした。市庁舎前の出店が並ぶ所で、演劇をやっている。舞台小屋が建てられ、そこで迫真の演技が繰り広げられていた。小型ステージを取り巻く観客たちは、中世風の劇を食い入るように観ている。大道芸というより劇団が出張公演している感じだ。出店には古い楽器や瓢箪細工など見慣れない物が数多く飾ってあった。すべてが手作り。モノが少なく、ヒトは多過ぎず、素朴であるという印象だ。そして、西側との決定的な違いは、外国人労働者が目に付かないということだ。ホテルのベッドメイク係、通りの掃除夫、トイレのチップ係までがドイツ人のように見える。東欧の他の国の人たちが紛れていたかもしれないが、アジア系やアフリカ系の人たちの姿を見ることはなかった。
東西ドイツの統合から12年。東側では戦後50年の時が緩やかに流れて行ったようだ。懐かしい民族の姿に接したような安堵感が胸に広がった。
白樺の林を列車で通り抜けて、ベルリンへ。モダンな大都会に降り立った時、東京にいるような気分になった。ところが、旧東独領はまるで違う雰囲気だった。100番のバスで終点まで行き、そこからブランデンブルク門に向かって歩き始めた。ベルリンドームと博物館に入ったが、あまりの広さにクタクタだ。ドームは内装の美しいキリスト教会だが、50年も教会として機能していない。宗教抜きの建物は、美術館と化していた。そのすぐ先のフンボルト大学を眺め、さらに歩き続け、ブランデンブルク門にたどり着いた。
◆ダブリン
アイルランドの首都ダブリンで、「セント・コロンバス小学校」を訪ねた。有名なアイリッシュ・パブが、通りという通りにひしめくように並ぶ「テンプル・バー」地区がある。その川向こうに、目指す小学校があった。
実はこの学校を探し出すまでが大変だった。ダブリンは首都といっても、人口は約100万人。国民の総人口が380万人という小さな国だ。国土面積は日本の北海道と同じくらい。5月下旬に東京からアムステルダム経由でダブリンに入ると、英国とは違う文化圏に到着したことを肌で感じた。隣国のアングロサクソン人とは違い、ケルト人の島なのだ。髪の色は金髪というより幾分赤っぽく、色白でヨーロッパ人にしては彫りのあまり深くない顔立ちの人が多い。話し方は柔らかく、シャイで素朴で、首都にしては都会人という感じが強くない。ジョークやウィットに富んだ話がよほど好まれるらしく、通りやバスの中で静かな笑い声がこぼれていた。
この国は、バーナード・ショーをはじめノーベル文学賞受賞作家3人を輩出した文化水準の高い国だ。教育もハイレベル。学校見学にも期待が高まった。
しかし、子どもの姿を町であまり見かけず、学校探しには少々てこずってしまった。文房具屋さんで「近くに学校はありますか?」と尋ねたところ、「英語学校なら、あっちにもこっちにもあります。小中学校は中心街にはないと思いますよ」と若い女性の店員さんにあっさり言われてしまった。
そんな矢先、リフィ川の橋のたもとで中学生の男女5人グループに出会った。
「小学校なら、橋を渡った先にあるよ」と教えてくれたのだ。それがセント・コロンバス小学校だった。
そこは外観からして学校とわかるほど、建物の壁面いっぱいに人物の絵が描かれていた。校門でブザーを押し、中から出てきた初老の男性に取材の依頼を伝えると、彼は校舎の中に消えて行った。
「6月第1週から夏休みに入ります。だから、ずーっと会議でふさがっています。明日なら何とか時間をとってあげましょう」
職員の一人である彼は、こう告げてくれた。
翌日、雨の中を再度訪問。ダブリンでは毎日雨が降った。良い天気でも突然空からパラパラと雨が落ちてきた。最高気温さえ14℃前後という日が続いていた。室内には暖房が入り、夜には厚手の布団が必要だった。そんな北の国でも、まもなく夏休みに入る。幸い暖流の影響で冬はそれほど寒くないという。しかし、セーターの上にレインコート姿の人たちが目立つ。この時期に夏のヴァカンスが始まるというのは、どうもぴんと来なかった。
校内の絵画展示室で待っていると、アンソニー・フィップス氏(56歳)が、約束の時間の午後2時半に現れた。
「校長先生ですか?」
「いいえ、コミュニティワーカーとして、この学校で20年間働いています。この学校に先生は5人しかいません。学校経営のことでしたら、私がお答えします」
コミュニティワーカーとは児童の生活全般のサポートをする仕事だ。家庭に問題のある子どもが、学校で教育を受け社会に適応できるように学校側からサポートする。この学校では補助的な仕事ではない。
「アイルランドの学校システムは初等学校が4歳から12歳まで、中等学校は12歳から18歳までです。中等学校はジュニアとシニアに分かれ、その中間にはトランジションという移行期の1年があります。義務教育は6歳から15歳までです。12歳を過ぎると、コミュニティースクールなど色んなコースを選べるようになります」
「この学校の児童は何人ですか?」
「60人です」
立派な校舎からすると、300人くらい在籍していてもおかしくなかった。
「郊外に移り住む家族が多いので、児童数は減少の一途をたどっています」
落ち着いた町のダブリンでも再開発は進められ、工事中の所が多かった。学校のすぐ近くにはショッピングセンターがあり、商業地区らしい活気があった。東京でいえば神田界隈のような親しみやすさが感じられた。
「学校経営で一番問題になっているのは、何ですか?」
「トラベラーと呼ばれる子どもたちの教育です」
定住していない人たちのことをトラベラーと呼んでいるが、外国人のことを指しているのではないという。
「ジプシーのようなものです。家がなく経済的に問題があります。そういう人たちの子どもを受け入れています」
この話を聞いている時、8歳くらいの男の子3人が校庭から駆け込んできた。雨が降り出したのだ。子どもたちは「アントン」と親しそうに呼びかけ、私の顔を見て「ハロー」と挨拶して校舎内へと走り去った。
「トラベラーというのは、エスニックグループのことで都市に住んでいます。人口の1%に当たりますから、決して小さな集団とは言えません。彼らもアイルランド人です。戦前からいるし、さかのぼれば300年前からいました」
ヒップス氏は26歳から34歳までは教師だった。しかし、この問題に取り組むためにコミュニティワーカーになり、この学校に移ってきたのだった。
「学校経営」(第一法規)2003.7月号
◆バルセロナ(1)
スペインのバルセロナで、カタルーニャ州立「ミケール・タラデール中学校」を4月初旬に訪れた。町の中心にあるカタルーニャ広場から「ランブラス通り」を海岸方向に少し下ると、西側一帯に現代美術館や学校など公共施設が集まった区画がある。その一角にミケール・タラデール中学校はあった。
ジョセフ・アルミライ校長(49歳)は、この町の名物校長だ。教職に就いて24年。そのうちの18年を校長という立場で過ごしている。同校には1996年に着任した。
「この地域は移民が多く、1990年から2000年までに人口が3倍に膨れ上がっている。2001年を例にとると、エクアドル人の移民数が300人から900人へと急増した。住民が増えれば、生徒数も増える。9月から始まった今年度は、すでに60人の生徒が転入してきた。そのうち20人が、また他の地区へと移って行った」
この中学校の切実な問題は、転校生の受け入れだった。アルミライ校長は、まずこの問題に焦点を当てて話した。
「92年と95年は移民の多い年だった。アフリカのモロッコからの移民が圧倒的に多かった。最近では南米からの移民が多くなっている。転入生が多い順にいえば、エクアドル、コロンビア、モロッコとなる」
スペインが植民地時代に支配した国の人たちは、経済的に窮すると移民先をスペインに選ぶ場合が多い。彼らの中には、スペインのアイデンティティーカードを持っている人もいるという。
「スペイン語が話せる移民はまだしも、アラブ語しか話せない生徒も転入してくる。授業を受ける前に、スペイン語を知らない生徒を集めて、別の教室でスペイン語を教えなければならない。午後にスペイン語の特別授業を行なうこともある。問題は言葉だけではない。経済的な問題を抱えた家庭もある。それらをコーディネートして行くのが重要な仕事となる。毎日いろいろな問題が起きる」
校長がこう話している間にも、隣室からスタッフが現れ、校長に電話を取り次いだ。10分に1本の割合で、校長あてに電話が入る。
「ちょっと失礼」と言い置き、電話で応対している彼の姿を見ていると、この学校の校長という職務はかなりの激務であることが想像できる。公務に関係ない取材は、午後1時過ぎからという条件で、校長室に招き入れられていたが、生徒の親たちへの応対は何よりも優先された。電話口から席に戻ってきたアルミライ氏は、話を続けた。
「スペインも少子化が進んでいるので、生徒の数は減る傾向にある。ところが、この地区はスペイン人が減り、移民ばかりが増えている」
同校の生徒数は350人、教師数は32人。現在のところ、スペイン国籍の生徒が34%、外国籍の生徒は66%である。そういえば校内に入ってから、20数人の生徒と顔を合わせたが、スペイン人らしい顔つきの生徒は3人しか見ていない。教師の男女比率は1対1である。今年は移民問題のほかにも、行政上で大きな変革が見られた。2002年12月に教育行政に関する法律が変わったのだ。新しいシステムを浸透させるのは、容易ならざることのようだった。それぞれの学校で、その対応を協議しているという。
「これまでは、校長をバルセロナ市と先生、生徒、保護者が選挙して選ぶというシステムがあった。これはフランコ政権時代に民主的なシステムとして採用されたが、実際には機能していなかった。それでも、校長になった後にもう一度、一般の教師に戻るという例はあった」
このような旧システムを刷新し、校長の70%を市が選び、30%を先生たちが選ぶという新システムに切り替えることになった。この方法をめぐり、教職員間でも混乱が生じている矢先だった。
「スペインの教育制度は6・4・2制。義務教育は10年間である。カタルーニャ州の場合、高校への進学率は60%で、残りの40%近くが職業訓練学校へ行く。高校入学者のうち70%が卒業し、さらにその半分が大学へと進学する」
アルミライ校長は、カタルーニャ自治政府発行のパンフレットをテーブルに広げ、丁寧に説明してくれた。このパンフレットの表紙には、カタルーニャ語、スペイン語、フランス語、英語、ロシア語、中国語の順で「教育制度のしおり」というタイトルが記されていた。裏表紙にはアラビア語のタイトルがあり、逆方向から同様の説明が加えられていた。
「マドリッドとバルセロナは、スペインの中でも特別に移民が多い。今日の世界情勢の変化とともに、その数は増減し、予測もつかないような事態が起こる。先生の仕事に、プラスアルファが加わる。この学校の経営には、そういった難しい面がある。疲れる仕事でもある。同校の教師の平均年齢は45歳くらい。先生たちの苦労が多い割には、社会からその苦労をあまり認められていないようだ」
アルミライ氏は複雑な問題をうまくコーディネートして行く。彼の学校経営手腕を学ぼうと、スペイン国内のテレビや新聞の取材依頼も入る。40代にして校長経験が豊富な彼は、人格的にも包容力の大きさを感じさせる。それが国際色豊かな学校の安定感を保っている。彼のマネージメント能力の高さは、日々の業務で鍛え抜かれて行ったに違いない。
「新しい教育システムを浸透させる前に、もっとわかりやすいシステムに変えて行く必要がある。今はそのことを訴えている」
アルミライ氏はバルセロナという国際都市から、スペインの教育界に新しい息吹を吹き込もうと意欲的だった。
「学校経営」2003.6月号
◆バルセロナ(2)
バルセロナの中心街「アンヘルス広場」周辺には、幼稚園から中学校までの施設が密集している。昼下がりのアンヘルス広場では、小中学生くらいの男の子たちが入り乱れ、ボールを蹴って遊んでいた。この時間帯は、オフィスから出てベンチに腰掛けて憩う人たち、サン・ジュセップ市場から生鮮食料品を買って帰る道すがらお喋りに興じる住民たちの姿も多く見受けられた。
バルセロナの表通りには「ランブラス通り」があり、観光客やショッピング客に洗練された都会の空気を触れさせる。しかし、そのすぐ裏手にあるアンヘルス広場は、庶民の生活感にあふれた一角だった。この広場に面している「ベドゥルーナ・アンヘス学校」へ2日間通った。
「この学校は半官半民です」
カルマ・モリストゥ校長(50歳)は、同校の特殊な経営について説明を始めた。
「もともと1875年に創設されたカトリックの学校ですが、国の補助が半分出ているので、現在では公立学校ということになります。費用の半分は親が負担します」
モリストゥ校長は、やさしさあふれる母親という雰囲気で話す。彼女に学校での1日をどうやって過ごしているか尋ねた。
「朝9時に児童とともに登校します。10時になると、児童の親が相談に来ます。来年の入学のこと、勉強の遅れについて、家庭の問題などが主な相談内容です。11時から午後1時までは授業をします」
「校長先生が授業をされるのですか?」
「ええ、私は教えることが大好きなので、英語と倫理を教えています」
「高学年の生徒ですか?」
「15歳と16歳の生徒です。自分で教壇に立ってみると、生徒たちのことがよく理解できます。日々の生活から自然にわかりますね」
この学校は小学生から中学生までの教育を行なっている。モリストゥ校長は、「英語」と「倫理」の教科指導を通じて、生徒たちの日常を知り、適切に導きたいと願っている。低学年の児童たちとの精神的距離も近いようだ。休憩時間になると、8歳くらいの女の子たち5人が、校長先生を探し応接室までやってきた。一緒に遊べないことがわかると、彼女たちは校庭へ出て行った。
「午後からはヨーロッパの他校と連携しながら、あるプロジェクトを進めています。つまり、メールのやり取りをして、本を作っています。各ページを各学校が担当して書くという共同作業です」
彼女はそう言いながら、テーブルの脇にあった「オリジナル本」をぱらぱらと捲って見せてくれた。子どもたちが描いた絵が、ふんだんに取り入れられた日記風の手作り本だった。
「この部分は子どもたちが書きました。料理を作った時のものです。各国の子どもが料理のことを各国語で書きます」
本は各ページが印刷され、ルーズリーフ形式でまとめてある。それぞれの国柄を郷土料理を通じて紹介する濃い内容だ。思わず見入ってしまう。サークル活動の域を超えた文化活動報告という感じである。
「時には人権問題も扱います。そのための事務作業も入ってきます。封筒に切手を貼って郵送したり、デスクワークが加わることもあります。大学生が研究に訪れることもあるので、彼らの研究にも協力します。片付け作業も結構多いですね。5時半から6時まで、週2回は教員会議を開きます」
これが朝9時から午後6時まで、校長先生の1日の仕事だ。話を聞いただけでも、かなりの激務だ。特に午後は複雑多岐にわたる業務が重なっている。
「この学校での仕事は、確かに簡単ではないですね。文化的レベルの高いことに、挑戦していますから」
モリストゥ校長は、同校の校長になって7年目。彼女は、もともとカトリックのシスターだった。この学校は、ベドゥルーナ氏によって創設された教会付属学校である。モリストゥさんは、シスターとして教育分野に熱心に携わっている時に、校長への声がかかった。
日本では、とかく「先生は聖職者か否か」が議論の的になる。しかし、ヨーロッパでは正真正銘の「聖職者」が「先生」を務める例は少なくない。先生である前に聖職者である。聖職者の高い意識、あふれるボランティア精神に接していると、キリスト教を基盤にした社会の昔ながらの成り立ちに触れる思いがする。
ベドゥルーナ・アンヘルス学校は現在、生徒数364人、教師数25人。生徒の国籍は33カ国。スペイン人は58%、外国籍の生徒は42%である。外国人の中では、フィリピン人が最も多く、バングラディシュ、パキスタン、モロッコ、南米諸国から編入する生徒も多い。
「この学校の経営で難しい点は、生徒や家族をどう受け入れ、オーガナイズして行くかという点にあります。それをスムーズにするために、手助けしてくれるグループがあります。主に教師を退職した人たちです。勉強したくない子、勉強以前に家族問題や民族問題を抱えた子もいます。16歳までは義務教育ですから、みんなに同等なレベルの教育を受けさせてあげることが大切です」
彼女はすべての質問に、小気味よく答えた後、「授業を見ますか」と教室のほうへ案内してくれた。低学年の教室に校長先生が入って行った瞬間、児童たちが彼女のもとへ駆け寄ってきた。
「学校経営」2003.8月号
◆ローマ
イタリア・ローマ市の中心街にある国立中学校「ヴィア・チェネンダ中学校」を2月14日に訪れた。校長先生への取材申し込みをして、すでに3日目だったが、午前も午後も校長先生の不在が続き、本人とは直接連絡がとれずじまいだった。1日目は事務職員の女性から「もう一度、後で電話をかけ直してください」と言われるままに、2時間ごとに電話を入れてみた。2日目には、直接学校を訪ねてみたが、「校長のスケジュールには、学校外での特別会議の予定は入っていないはずですが」ということだった。その後も電話を何回か入れ、ついに副校長先生が応対してくれることになった。
「校長は、文部省に出向くこともあります。毎日学校には顔を出しますが、学校にいるのは4時間くらいです。日によって違いますが、長くて7時間。しかし、副校長は常時います。私でよければ、お話します」
結局3日目に、副校長にインタビューすることが決まった。
ロベルタ・カルペンティエリ副校長(50歳)は、朝9時過ぎに「お待たせしました」と明るい笑顔で校舎入口に現れた。実は守衛室で、取材の約束があることを伝えたが、「本人が登校するまで校舎内に入ってはいけない」と言われた。校門を入ってすぐの守衛室の前で、立ったまま彼女を待っていた。すでに授業が始まっていたが、校舎内はとても静かだった。学校の建物も石造りなので廊下にはほとんど声がもれて来ない。
カルペンティエリ副校長と階段を昇って行く時に、階段で遊んでいる生徒が一人いた。その場で座ったまま、その男子生徒は「ボン・ジョルノ」とあいさつしてきた。2階の事務室へ立ち寄ってから、副校長室へと案内された。イタリア国旗があり、記念品などが飾られているが、堅苦しい空気はない。
「日本の学校制度は6・3・3制ですが、イタリアの学校制度はどうなっていますか?」
「イタリアは、5・3・5制です。中学校は3年間です。11歳から14歳まで。高校は13歳から18歳までです」
実務をこなす副校長先生らしく堂々とした態度で、話し始めた。
「中学生が抱えている問題とは、どのようなものですか?」
「家庭の問題が多いですね。両親が離婚したり、仕事がなくなったりした時に、生徒たちを心理的に支える必要があります」
この地域は、ローマの中心街にあり、コロッセオからも1`くらいしか離れていない。経済的に恵まれている家庭が多く見受けられる。
「この地域は、特別に経済水準が高い地域というわけではありませんが、まあまあ恵まれていますね。それより日本の中学生は精神的に大変だと聞いています。勉強のし過ぎが問題なの?」
日本の事情について、副校長先生から質問を受けた。
「高校の受験も控えていますから、プレッシャーがそれなりにあります」
「イタリアでは8歳以降は2回しか試験はありません。日本のように精神的にプレッシャーが強すぎるのはよくないと思いますね」
「そういえば、イタリアの中学生たちはとても幸せそうな顔をしていますね」
「楽しそうな顔でしょう。とても元気よ」
「校内暴力が起きたことはありますか?」
「学校で、暴力?イタリアでは、全くそんなことはありませんよ。もちろんこの中学校でもありません。そういう心配はないのですが、最近では先生になる人が少なくて困っています。給料が低いということが問題です。特に男性教師の数が少ないですね」
ヴィア・チェネンダ中学校の生徒数は755人。教師70人のうち、男性教師は7人しかいない。男性教師の比率はわずか1割。小学校から高校まで、どこも男性教師が少なく、全教師数の2割前後だという。
「この中学校の男性教師といえば、数学、音楽、美術、体育だけですね。イタリアでは若い人が先生になりたがらないのも問題です」
この話を聞いている最中に、女性のベテラン教師アンナ・マリア・ペッリさん(54歳)が副校長室に入ってきた。彼女にも教師という職業について尋ねてみた。
「仕事としてはすばらしい職業よ。だけど、責任が重い。先生という職業に、みんなが満足しているわけではありません。この中学校は雰囲気がとてもいいので、働きやすいですね。先生同士が仲がいいので、学校の雰囲気が明るいのです」
そして、ペッリ先生が教室を案内してくれることになった。長い廊下を歩き、教室の中に入った。生徒たちは全員席についていたが、口のほうは賑やかだった。カメラを向けると、もっと騒がしくなった。
「ボクが入っていないよ」「私はちゃんと入ったかしら」
11歳の生徒たちの顔には、あどけなさが残っていた。中学生といっても、日本の小学5年生と同じ年齢である。ペッリ先生は、このクラスに戻り授業を再開した。カルペンティエリ副校長は、「体育の授業を見せてあげましょう」と言って、1階の体育館へ案内してくれた。
体育館はそれほど広くなく、生徒たち20人くらいが自由に体を動かしていた。先生が笛を吹くこともなく、音楽が流れているわけでもなかった。生徒たちは、しゃべりながらストレッチをしていた。
この中学校を訪れ、先生も生徒も学校にいる時間を気楽に過ごしているという印象をもった。そして、お洒落でステキな副校長先生には、是非もう一度会ってみたいと思った。
「学校経営」2003.5月号
イギリス・・・ リバプール、マンチェスター、バーミンガム、ロンドン
スイス・・・バーゼル、ベルン、チューリッヒ
スペイン・・・バルセロナ、マドリード、セビリア、グラナダ、バレンシア
ドイツ・・・ライプチヒ、マンハイム、フライブルク、ベルリン
フランス・・・マルセイユ、モンペリエ、ニース、パリ