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野外授業

◆久遠のパンテオン

 パンテオンの凄さは、紀元前27年に建築され、火災のため118年に再建されはしたが、2000年近く完全な姿で残っている点にある。ローマには、ルネッサンス様式やバロック様式の教会、宮殿、回廊などが町中至る所に現存している。しかし、パンテオンはそれらの建築様式が生み出される以前の「ローマ独特の建築物」なのである。
 世界最大の「石の丸屋根」は、ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院のクーポラを凌ぐ。その巨大な屋根を支えるために、円形にカーブした外壁に、煉瓦より細めのプレートが、丹念にアーチ型に積まれている。建築技術の高さは言うに及ばず、内部の優美さにも心打たれる。床や壁が、大理石の多色使いでデザインされ、万華鏡を見ているように美しい。
 パンテオンを目の前にすると、言葉を失う。何度訪れても、その感慨は薄れず、身震いさえともなう。荘厳にして、近寄りがたさがなく、全てを包み込む久遠の空気に浸される。パンテオンはまさしく「万神殿」なのである。
 もちろんここは、観光スポット。世界中のグループツアーが、ガイド付きで訪れ、慌しく通り過ぎる。そんな中に、中学生のグループがやって来て、驚きの声をもらしていた。
 「上を見て!天井の真ん中に窓がある。空が見えているよ」
 「ここには階段がない。どうやって、上に昇るんだろう。ねえ、先生?」
 疑問に思ったことを口走りながら、生徒たちは40歳くらいの女性教師のもとに集まってきた。
 「階段のことは、先生にもわからないわ」
 パンテオンは見る者を圧倒する。その比類なさが、多くの疑問を抱かせるのだ。その中学生たちはナポリから見学に来ていた。ナポリの近くには、ポンペイの古代遺跡がある。「古さ」には驚かされないはずの彼らが、建物を興味深そうに見上げている。
 一般に修学旅行生は、建物内で説明を受けるスペースがない。建物の外か、ここから200b離れたナヴォナ広場で、説明を受け、ここまで歩いてくる。パンテオンに入ると、ただ眺めるだけ。それでも、見る者を多弁にしてしまう。
 実はナヴォナ広場から、最短距離でパンテオンに向かうコースは、最高の眺めを提供してくれる。ゴチャゴチャした通りを抜け、ロトンダ広場に着いた途端に、パンテオンの全容が突然目に飛び込んで来るのだ。建物を目の前にして、立ち竦んでしまう。
 キリスト教の建築物では、味わうことができなかった「何物か」を感じ取る瞬間である。キリストの哀れみとは無縁の世界。パンテオンに近寄れば近寄るほど、人間のもつ本来のエネルギーが、奔放なまでに放出されて行くことを感じる。シンプルに存在する建築物から、学ぶことはあまりにも大きい。  
                                             「教育新聞」2001.12.24付

◆エウルの文明博物館

 ローマの中心街から、レオナルド・ダ・ヴィンチ空港に向かう途中に「ローマ文明博物館」がある。そこに、古代ローマの250分の1の模型がある。現在のローマの遺跡を眺めるだけでも、古代ローマは偲べる。しかし、模型を見ると、当時のローマの「美しさ」と「機能的なすばらしさ」に絶句してしまう。
 文明博物館では、この模型を斜め上方から展望できる。ローマの建造物は、その一つ一つが大きく、特徴的なデザインをもっている。どの界隈か、わかりやすい。町全体の中でそれぞれの建物が、どのように機能していたか、見当をつけることもできる。今では、目にすることが少ない「水道橋」が、町の外からカンピドーリオの丘に達している。
 この模型を目の前にして、小学生の授業が行われていた。
 「チルコマッシモはどこですか?」
 「これだ」
 「そうですね。一番大きな競技場が、チルコマッシモですね」
 コロッセオの5倍もあろうかという競技場を、児童たちが指差した。チルコマッシモは紀元前6世紀ころに造られたが、4世紀に拡張され、30万人が収容できるようになった。映画「ベンハー」で、白熱した戦車競争のシーンがある。あの競技は、実際ここで行われていた。
 つい最近では、サッカーの「ASローマ」が、2001年6月に優勝を決めた直後、ローマ市民がここに集って、祝勝会が開かれた。30万人の観衆で埋め尽くされたスタジオ、観衆の熱狂ぶりが、どれほどのものであったか、祝勝フェスタから想像がつく。ローマ市民は口々に大声で叫び、歌い、口笛を鳴らす。老いも若きも一緒になって。実にエネルギッシュなフェスタだった。
 「それでは、テヴェレ川のほとりに行ってみましょう」
 30歳いくらいの女性教師に促されて、ローマッ子たちは、模型の周囲を走り始めた。
 「この建物は、見たことがないよ。先生、どうして?」
 「完全に壊れてしまったのですね。ほかにも質問がありますか?こちらの隅に集まって座ってください」
 博物館の床に、児童たちが座り込み、先生は質問に答え始めた。
 10分後に、児童たちは博物館の建物から、外に出て行った。館外の広場には、親たちが待っていた。20人くらいの子どもたちは、親の元へ。そして自家用車に、2人から4人くらいずつ分乗し始めた。現地解散ということなのだろうか。思わず親の一人に尋ねてみた。
 「今日は休日なのです。親に協力してもらって、博物館見学をする日です。朝11時半に、博物館前に集合しました。2時間後に迎えに来たのですよ」
 この小学生グループの博物館見学は、始めから最後まで、何ともフレキシブルに行われたのだった。 
                                             「教育新聞」2001.12.7付

◆フォーリ・インペリアーリ

 古代ローマ皇帝シーザーの面影が、ローマの中心部には残っている。シーザーは紀元前44年3月15日に、アレア・サクラ(聖域)の元老院会議場で暗殺された。そこは、現在最も交通量が激しい一角「トッレ・アルジェンティーナ広場」となっている。
 4つの神殿跡が残る広場で、多くの観光客が足を止め、しばし佇む。「ブルータス、お前もか」。配下の裏切りにあったシーザーの最後。しかし、帝国の繁栄は、彼なき後も延々と続く。
 アレア・サクラから、東に500b離れた所に「フォーリ・インペリアーリ」と呼ばれる遺跡群がある。この一帯は、諸皇帝のフォロ(公共広場)が残る場所である。
 「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂」を背にして、「コロッセオ」を真正面に見据えて立つと、右側が「フォロ・ロマーノ」、左側が「フォーリ・インペリアーリ」である。現在は広い道路で中央を仕切られているが、実は道路の下にも広大なフォロが眠るという地帯である。
 記念堂に近い方から、トラヤヌス、アウグストゥス、ネルヴァ、ヴェスパシアヌスという各皇帝のフォロが並んでいる。ここが高校生たちの授業スポットになっている。地元ローマの高校生が、「トラヤヌスのフォロ」で、授業をやっていた。
 トラヤヌスの「マーケット」は、半円形にカーブした煉瓦造りの建物で、壁面にはアーチ型の入口が設けられている。デザイン的にもステキな集合ビルである。ここの公共広場は、教室や講義室としても使用されていたという。
 建物の2階には、飲み物屋や軽食屋があり、それぞれの店は反対側の通りに向けて入口がある。ほかにも小売店があり、倉庫まで併設されているという本格的なマーケットだった。
 フォロ・ロマーノには政治色の強い建物が残るが、フォーリ・インペリアーリには当時の生活を偲ばせる建物が多く残っている。
 マーケット見学の後、高校生グループは、隣の「アウグストゥスのフォロ」の「マルス神殿」の前を素通りし、遺跡内部に通じる階段を下りて行った。
 「さあ、ここは何に使われていた場所でしょうか?」
 女性教師から発せられた質問に答えるため、高校生たちが、遺跡を丹念に調べ始めた。部分的に残る「台」や「柱」を眺め回している。
 「ごちゃごちゃした所ね。台所かな」
 「違うよ。この柱、大き過ぎるもの」
 生徒たちは、古代ローマの生活を連想しているようだ。
 「騎士に関係のある部屋ですよ」
 現在では縁遠くなったスポットを生徒にわざわざ見せ、公共広場での授業は気持ち良く展開されていた。
                                            「教育新聞」2001.12.13付

◆フォロ・ロマーノの遺跡で

 イタリア中部から北部にかけて、連日のように霧が発生する11月になっても、ローマはほとんど快晴の日が続いている。雨が降っても、すぐに青空が広がり、見晴らしの良さは変わらない。この時期、観光客が少なくなり、修学旅行グループが目に付くようになった。
 ローマの中心、コロッセオからカンピドーリオにかけて、「フォロ・ロマーノ」の遺跡が、惜しげもなく続いている。コロッセオ側の凱旋門は81年に建造され、カンピドーリオ側の凱旋門は203年に建造されたものである。この2つの凱旋門の間に、紀元前後に建てられた建造物の遺跡が、点在している。円柱だけが数本残る「神殿」や「会堂」を眺め、共和政時代の政治の舞台に足を置く気分は最高である。
 距離にして、600bくらいだが、「聖なる道」を歩くと、古代ローマの民主政治が、ここで実際に行われていたことを実感する。フォロ・ロマーノは、その名が示す通り「古代ローマの公共広場」であり、このスペース全体が、機能的なまとまりを見せている。広場の中心に立つと、古代ローマ人の政治への参加のあり方が、偲ばれる。
 復元された「元老院」の建物、その横にある「演壇」を見渡すと、シーザーやアウグストスが演説した姿が、容易に想像できる。シーザーは紀元前44年に、演壇の場所を移し、改修工事を行ったという。
 演壇のすぐ下にある地下溝を覗くと、前6世紀の「王政時代の碑文」が見える。シーザー自身も歴史的建造物を使い、自ら歴史を動かしてきたのである。
 ここで、修学旅行生の授業が行われている。20数人のグループがほとんどで、先生と生徒が活発にやり取りしている。
 「古代ローマの人たちは、市民集会をしていました。どこで?」
 「建物の外で」
 小学生たちに対し、先生は何度も「どこで?」という質問を繰り返す。そのたびに「フオリ(野外で)」と、元気よく子どもたちが答えているのだ。彼らも戸外で、気持ち良く授業をしている。
 フォロ・ロマーノのメインストリート「聖なる道」の中央には、「アントニヌスとファウスティーナの神殿」がある。141年に建てられた神殿で、コリント式の柱が完全に残っている。大理石の柱の表面が風化し、渋い緑色の石の模様が浮き出ている。その風格は、20世紀という時を超え、古代人とともに建物の一部として存在してきたことを主張しているようだ。
 この神殿の前に、小学生から高校生までのグループが、必ず立ち止まる。高校生のグループは、ここでスケッチを始めた。コリント式の柱を一本ずつ描く。それだけのことに、たっぷり時間がかけられる。ローマ帝国の政治の中心地で、スケッチを描き、それを教室に持ち返るのだ。
                                            「教育新聞」2001.11.26付

◆オスティア・アンティカ

 ローマには古代遺跡「オスティア・アンティカ」がある。紀元前4世紀に、ローマの要塞都市として建設され、紀元4世紀まで8世紀の間実存した都市だ。
 イタリアの古代遺跡といえば「ポンペイ」があまりにも有名だが、ポンペイの人口は2万人。オスティアは、それを上回る5万人規模の大都市だった。17世紀もの時が経過しても、周囲の環境は海岸線が海側へ移動した以外に、ほとんど変わっていないという。
 ローマの中心から列車で30分、海岸線から2`あまり離れた所に、オスティアは位置する。レオナルド・ダ・ヴィンチ空港に通じる高速道路が、遺跡を迂回するように北に延びている。オスティアは、街道筋のひっそりとした町だ。
 この遺跡が、「授業スポット」になっていた。米国インディアナ州のN大学建築学科3年生の50人が、青空の下で講義を受けていた。建築の専門的な授業らしく、学生たちは全員分厚い教科書を抱え、膝の上にルーズリーフノートを乗せて、時々走り書きをしていた。
 彼らが腰を下ろしていたのは、遺跡の中央にある「公共広場」の一角。元老院、バジリカ、円形神殿の建物跡を前方に見据えながら、講義に聞き入っていた。
 講義が終わってから、白髪の教授に話を伺った。
 「今日の授業のテーマは?」
 「古代建築」
 「1日かけて、遺跡の中で講義されるのですか?」
 「いや、午前中だけ。午後は移動します」
 「オスティア・アンティカのほかに、訪れる所は?」
 「私たちは1年間かけて、イタリアで勉強しています」
 中高生の修学旅行と違い、彼らは本格的にイタリアで建築を学んでいるのだ。5年間大学で建築を研究する学生は、第3学年に入ると、アメリカを離れ、イタリアでフィールドワークをするという。期間も大胆に1年間。いかにもアメリカらしい発想だ。
 「フィレンツェにも行きますよ。イタリアで学ぶことは多いですから。今日は古代建築の研究ですが、デザインだけに注目して授業を進める時もあります」
 「何とも恵まれた環境ですね」 
 「アメリカ人は現在、テロのターゲットになっていますから、恵まれているとばかりは言えません」
 教授は講義していた時以上に、真剣な表情になり、こう付け加えた。
 イタリアの遺跡は、ふつう観光客でひしめいている。しかし、オスティアは珍しく一般の観光客が少ない。円形劇場の客席や神殿の階段に腰掛けると、自然と古代都市の住人になったような気分になる。
                                            「教育新聞」2001.11.8付

◆カンピドーリオ広場

 ルネッサンス期の天才ミケランジェロが設計した「カンピドーリオ広場」に行けば、世界各国の生徒たちの授業が、ローマにいながら見られる。広場の正面は「ローマ市庁舎」、右側に「コンセルヴァトーリ宮」、左側に「カピトリーノ美術館」。市庁舎の背後には「フォロ・ロマーノ」の遺跡群が、延々と広がっている。
 ローマ建国は紀元前753年とされているが、前6世紀にはこの広場に「神殿」が建てられ、ローマ帝国後期まで信仰、政治、経済、文化の中心地だった。12世紀の共和政時代に再び栄え、現在も記念行事がここで行われる。
 数々の歴史的舞台になった「カピトリーノの丘」で、中高生が青空教室を開いているのだ。日本流に言えば、修学旅行の遺跡見学だが、30分から1時間もの時間を割いて、ここでホンモノの授業をやって行く。
 「カンピドーリオ広場の発表者は、だれだ?」
 「私です」
 美術館入口の階段に、全員が腰掛けた後、高校生の女の子が、みんなの前に進み出た。レポート3枚分を彼女はドイツ語で読み上げた。
 「キリスト教公認前の神殿とは?」
 「カピトリーノの3神が奉られていた」
 生徒から次々に質問が発せられ、発表者が答えられない時は、先生がカバーするという形式だ。この時も先生が、生徒たちの後方から答えた。
 さらに、同行している現地ガイドが、改めて説明を加える場合がある。その説明に、全員が静まり返って聞いている。特にアメリカからの修学旅行は、現地ガイド付きが多い。カウボーイ・ハットをかぶったイタリア人のガイドが、アメリカ英語でパフォーマンスをしている場面に出くわすことがある。
 「カピトリーノの丘。まさしく、キャピトール・ヒルです」
 この広場で授業を行っていた修学旅行生は、コンセルヴァトーリ宮に入場して行った。ここは世界最古の美術館で、サッカー・セリエAチーム「ASローマ」のシンボルマークとしてお馴染みになった「カピトリーノの雌狼」の像が、収蔵されている。美術館見学の後、彼らは遺跡群のフォロ・ロマーノを丘の上から眺めていた。
 この丘では、世界各国の生徒たちと先生による、さまざまな授業が展開されている。観光スポットであると同時に「授業スポット」である。ここには、授業をスムーズに実現させる神聖な空気が漂っている。
                                               「教育新聞」2001.11.1付

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