「景清」能・文楽対照表

謡曲「景清」、浄瑠璃「嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)」(注1)
(付・「「大仏殿万代石楚(だいぶつでんばんだいのいしずえ)」)



[INDEX]
その1・登場人物
その2・物語の構成の比較
その3・「嬢景清八嶋日記」と「大仏殿万代石楚」の異同
その4・(参考)「大仏殿万代石楚」のあらすじ
作者・成立年

参考文献

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その1・登場人物

景清(謡曲)嬢景清八嶋日記(浄瑠璃)
景清(シテ)景清
人丸(景清の娘)(ツレ)
*母は「熱田の遊女」(注2)
糸滝(景清の娘)
*母は「熱田の大宮司の娘」
人丸の従者(トモ)肝煎左治太夫(肝煎り(遊女斡旋業))
里人1名(ワキ)里人2名(実は頼朝の家来・天野四郎と土屋軍内)(注3)

その2・物語の構成

*以下に引用する原文は全て、謡曲は文献[1]に、浄瑠璃は文献[2]に拠る。(⇒参考文献)
(構成)景清(謡曲)嬢景清八嶋日記(浄瑠璃)
1.娘と従者の登場及び道行 「(ツレ・トモ)消えぬ便りも風なれば、消えぬ便りも風なれば、露の身いかになりぬらん。」
「(ツレ)これは鎌倉亀が江が谷に、人丸と申す女にて候。さてもわが父悪七兵衛景清は、平家の御方(みかた)たるにより、源氏に憎まれ、日向の国宮崎とかやに流されて、年月を送り給ふなる。いまだ習わぬ道すがら、もの憂き事も旅のならひ、また父ゆゑと心強く、」
「(ツレ・トモ)思ひ寝の涙片敷く、草の枕露を添へて、いと繁き袂かな。」
「(ツレ・トモ)相模の国を立ち出でて...」
「花菱屋の段」として独立。
「花菱屋の段」梗概.... 乳母が亡くなり孤児となった糸滝は、乳母の遺言により実の父が平家の侍景清で、日向嶋に流され、盲目の乞食となっていると知る。 盲人は金を払って官位に付けると聞き、その価百金を手に入れようと身を売ることを決め、肝煎左治太夫を頼って手越の宿の「花菱屋」に抱えられる。「花菱屋」の長の好意により前金を受け取り、左治太夫を伴いすぐに日向へ出立する。

*スタートは駿河の国手越の宿。道行に相当する部分はなし。
*左治太夫が景清に語った「相模の国の大百姓に嫁入りさせた」という作り話で相模の国から出立した謡曲とつじつまを合わせている。(下記項目「6.物語」参照)
2.景清との問答 *トモの着キゼリフのあと作り物の内よりシテの「松門独り閉ぢて...膚(はだえ)はげうこつと衰えたり。」」の謡。 引き回しが下りて作り物の内に着座するシテが現れる。

「(トモ)いかにこの藁屋の内へ物問はう。」
「(シテ)そもいかなる者ぞ。」
「(トモ)流され人の行方や知りてある。」
「(シテ)流され人にとりても、名字(みやうじ)をば何と申し候ふぞ。」
「(トモ)平家の侍悪七兵衛景清と申し候。」
「(シテ)げにさやうの人をば承り及びては候へども、もとより盲目なれば見る事なし。さもあさましき御有様、承りそぞろにあはれを催すなり。詳しき事をば、よそにて御尋ね候へ。」

*謡曲では景清に直接尋ねるのはトモ(従者)である。(注4)
*謡曲ではこの問答のあと、一人になった景清が尋ねてきたのが娘であると悟り、熱田の遊女との馴れ初めをひとりごとにて述懐。
*「日向嶋の段」マクラに「松門独り閉ぢて年月を送り、...肌(はだえ)はげうこつと衰えたり。」の詞章が謡ガカリにて挿入。
その後藁家から景清が現れ、重盛の位牌を立てて拝む。


「(糸滝)コレ乞食殿、この島に平家の侍、悪七兵衛景清様の、盲になってまします由。東国方より遥々と行方を尋ねに参りし者。在り所(ありか)を知らば教へてたも。、頼むぞやいの」とありければ
思ひがけなく『コハ如何に』と、ぎょっとせしが、色にも出さず
「(景清)この島にさる人ありとは聞き及べど、我とても盲目なれば、つひに見もせず。今少し先で問ひ給へ」
と詞少なに入らんとす
「ナウその詞の五音(ごいん)体たらく、聞き及びしに少しも違はず、疑ひもなく御身は父御よ。二つの年に生き別れし娘の糸滝。これまで尋ね参りたり、名乗って下され父御前。」 と縋り付けば
飛びしさり、杖を小盾に声荒らげ
「(略)...
人の上にも身の上にも、哀れを見るが悲しさに、景清が在り所知らずと云ひしは偽りよ。ここより奥に彷徨いしが、誠は去年、飢(かつ)ゑ死に。土になりしと知らざるか」

*浄瑠璃では娘が直接尋ねる。
*景清は一旦は「知らない」と答えた後、「実は死んだ」と答える。
3.里人との問答 「(トモ)いかにこのあたりに里人のわたり候ふか。」
「(ワキ)里人とは何の御用にて候ふぞ。」
「(トモ)流され人の行方や御存じ候。」
「(ワキ)流され人にとりても、いかやうなる人を御尋ね候ふぞ。」
「(トモ)平家の侍悪七兵衛景清を尋ね申し候。」
「(ワキ)ただいまこなたへ御出で候ふあれなる山陰に、藁屋の候ふに人は候はざりけるか。」
「(トモ)その藁屋には盲目なる乞食こそ候ひつれ。」
「(ワキ)なうその盲目なる乞食こそ、御尋ね候ふ景清候ふよ。…」
「(左治太夫)卒爾ながら物問はん。悪七兵衛景清の最期の跡はいづくの程、教へて給べ」とありければ
「(里人)ア、ハ、、、いやはや卒爾とてこれに上越す粗相もなし。エ、かうお出での道に、物古りた藁家に、盲目の乞食はなかりしか」
「イヤその盲目に尋ねてこそ、景清死去と聞いてさふ」
「エ、それこそ景清盲目なれ。ア、聞こえた。称へを憚り名乗らぬ筈。幸ひ我等参るもの、引き合はせて参らせん」


*この部分は「景清は死んだと言われた」こと以外は、謡曲と同じである。
4.景清再登場 「(シテ)かしましかしましさなきだに、故郷の者とて尋ねしを、この仕儀なれば身を恥ぢて、名のらで帰す悲しさ、千行の悲涙袂を朽(くた)し、万事は皆夢の中(うち)のあだし身なりとうち覚めて、
今はこの世に亡き者と、思ひ切りたる乞食を、悪七兵衛景清なんどと、呼ばばこなたが答ふべきか。
その上わが名はこの国の、
「(地謡)日向とは日に向ふ、日向とは日に向ふ、向ひたる名を呼び給はで、力なく捨てし梓弓、昔に帰る己が名の、悪心は起さじと、思へどもまた腹立ちや
「(シテ)所に住みながら
「(地謡)所に住みながら、御扶持ある方々に、憎まれ申すものならば、ひとへに盲の、杖を失ふに似たるべし。片端(かたわ)なる身の癖として、腹悪しくよしなき言ひ事、ただ恕(ゆる)しおはしませ」
「喧しし喧しし。古巣に捨てし雛鶴の、親はなけれど鳥屋(とや)出して、千里を翔り尋ね来て、父よと泣けど身を恥ぢて、我は答へず夜の鶴。腸(はらわた)を断つとは人知らじ。

今はこの世に亡きものと思ひ切つたる乞食を、『悪七兵衛景清』と、呼べば『これに』と答ふべきか。



その上住家もこの国の日向とは日に向かふ、向かひたる名を呼びもせで、情けなく捨てし梓弓。引けば引かるる悪心を、また起こさするか腹立ちや」

と隔ての菅菰引きちぎり、杖追つ取つて立ち出でしが

「所に住みながら、御扶持ある方々に、憎まれ申すものならば、偏(ひとえ)に盲目の杖を失ふに似たるべし。片輪なる身の癖として、腹悪しくよしなき云ひ事ただ赦し、おはしませ」

*里人に呼ばれて景清が出てくる。「その上わが名も」が「その上住家も」となる以外ここも概ね謡曲と同じである。
5.娘との対面 「(ワキ)急ぎ父御に御対面候へ。
「(ツレ)なうみづからこそこれまで参りて候へ。恨めしやはるばるの道すがら、雨風露霜をしのぎて参りたる志も、いたづらになる恨めしや。さては親の御慈悲も、子によりけるかや情なや
「(シテ)今までは包み隠すと思ひしに、あらはれけるか露の身の、置き所なや恥づかしや。御身は花の姿にて、親子と名のり給ふならば、ことにわが名もあらはるべしと、思ひ切りつつ過すなり。われを恨みと思ふなよ」


*と言って、里人に対しても一旦は娘が会いにきたことを否定していたシテはここで両手でツレを抱く。
娘はそれぞと聞くからに、 「ナウ懐かしや御身が父上様かいの。乳母が今際の物語、御在り所を聞き疾し遅しと、遥々尋ね来たりしに、『娘よう来た不憫や』と、一口云ふたら咎にならうか。最前はなど胴欲に、包み隠させ給ひし」
と縋り付いて泣きければ
父も引き寄せ撫でさすり...




*娘が客席に背中を向ける形で、父と娘が抱き合う型。
*浄瑠璃ではここで(すなわち娘が聞いている前で)景清が「我熱田の大宮司が娘に契り...」と語る。
6.物語 *景清自身による屋島の軍語り。
父の高名を聞きたいという娘の所望に応じ、聞いたら帰れと言い渡して、 平曲語りになぞらえ景清自らが錣(しころ)引きの場面を語る。
*娘の現況を問われた左治太夫が咄嗟の機転で、
「相模の豪農に嫁がせて裕福な暮らし。婿のほうからも父を呼び寄せ、是非官位につくようにとの由」 との作り話を語る。
7.結末 *物語を聞いた人丸と従者は無言で立ち去る。 *武士の娘の分際で農民に嫁ぐのも、頼朝の治世の官位につくのも侮辱だと怒って娘に自害せよと「あざ丸の懐剣」を渡し、帰らせる。
*娘の残した書置から、官位につくためのお金として娘が持参した金は、遊女屋に身売りした金と知り、愕然とする。
そこへ里人2人が現れ、実は頼朝から世話するよう頼まれてきた隠し目付けであると正体を明かし、頼朝に仕えるよう勧める。(注3)
*武士の一分に親子の情が勝った景清はそれを受け入れ、上洛の船から海へ重盛の位牌を流す。


その3・「嬢景清八嶋日記」と「大仏殿万代石楚」の異同

*現行曲「嬢景清八嶋日記」と比較し、物語の筋(解釈)に関わると思われる異同のみ、取り上げます。
(項目)嬢景清八嶋日記大仏殿万代石楚
1.娘の名糸滝糸竹
2.娘と供の道行なし(注5)あり
3.文章上の異同「花菱屋」 「まづ見せてぴつくりさせましよか」([2]p.7) 「光見せて恟(びつくり)させませよか」([5]p.37)
4.文章上の異同「日向嶋」 「錦の包みに恭しく、いつきの位牌」([2]p.14)
「河内の判官宗清なんど一騎当千の者共」([2]p.14)
「親は子に迷はねど子は親に迷ふたな。」([2]p.19)
「錦の包にうやうや敷肉を清めし髑髏(しやれかうべ)」([5]p.46)(注6)
「河内の判官瀬尾なんど。一騎当千の者共」([5]p.46)
「親は子に逢はねど子は親に迷ふたなあ。」([5]p.49)

その4・(参考)「大仏殿万代石楚」のあらすじ
初段....平家滅亡後、景清は妻白ゆふの実家・熱田大宮司の家に身を寄せている。 痣丸の名刀を手に入れよという頼朝の命により三保谷四郎が景清詮議のため遣わされるが、景清につかみかかられ逃げ帰る。
二段目....大仏供養の折、景清は頼朝を襲撃するが逆に頼朝に臣下になるよう説き伏せられる。景清は頼朝の姿を見まいと両眼をえぐり、追放される。
三段目....現行の「花菱屋」「日向嶋」と同じ。間に「糸竹ひめみちゆき」が入る。
四段目....隆盛の遊女・朝妻となった糸竹のもとに、畠山重忠の息子重治が通いつめ、恋仲となっている。三保谷は糸竹の持つ痣丸の名刀を狙うが失敗する。
五段目....重忠館での糸竹と重治の祝言を見届けた景清は、源氏に従うわけにはいかないと自害する。

以上、参考文献[5]による。
作者・成立年
謡曲「景清」...作者・成立年不明。寛正七年(1466)二月二十五日の所演記録あり。(文献[1]p.312)

浄瑠璃「嬢景清八嶋日記」...若竹笛躬・黒蔵主(こくぞうす)・中邑阿契。明和元年(1764)十月、大阪豊竹座初演。
現行の三段目「花菱屋」「日向嶋」は西沢一風らによる先行作「大仏殿万代礎(だいぶつでんばんだいのいしずえ)」(享保十年(1725))(下記参照)に基づく。(文献[2][4])

浄瑠璃「大仏殿万代石楚」....西沢一風・田中千柳。享保十年(1725)十月、大阪豊竹座初演。(文献[5]p.403)
*(筆者注)文献[5]では「いしずえ」の表記が「石楚」、文献[2][4]は「礎」となっているが、底本を翻刻した文献[5]の「石楚」がオリジナルの表記であろう。




(注1)....「景清」ものの多くは幸若舞曲の流れを汲んでおり、謡曲を直接典拠とした浄瑠璃「嬢景清八嶋日記」は傍系にあたるという。(文献[3]p.221)
ただし、文楽版「嬢景清八嶋日記」の現行の三段目「花菱屋」「日向嶋」は西沢一風らによる先行作「大仏殿万代石楚」(享保十年(1725))に基づくもので(文献[2][4])、後者は 謡曲「景清」「大仏供養」のほか、幸若舞「景清」を原拠としている。(文献[5]p.405)
「娘が盲目の景清を尋ねて日向に渡る」エピソードは謡曲「景清」古浄瑠璃「鎌倉袖日記」の系列で、「大仏殿万代石楚」から「嬢景清八嶋日記」へと引き継がれる。(文献[5]pp.405-406)


(注2)....文献[1](pp.316-317注四)によると、典拠未詳。幸若舞「景清」では「尾張の大宮司の三の姫に契りをこめ」とあり、熱田の大宮司の娘と契ったとする。(⇒下記(注3)も参照)

(注3)....文献[3](p.169)に、景清と熱田とのつながりに関して、
「景清を頼朝の遠い縁者とすることで、源氏の天下に孤立無援の景清に救済の余地を与えたかったのかもしれない。」
という興味深い記述がある。 熱田大宮司が頼朝にとっては外戚の祖父にあたるという記載が幸若舞曲にはあり(頼朝の母は熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の娘である)、 一方景清が熱田大宮司の娘の婿ということであれば、頼朝と景清というのは縁者にあたるわけである。(同書p.168)
だとすると、以下筆者私見であるが、 「嬢景清八嶋日記」は、頼朝が自分の親類縁者であるがゆえに景清になんらかの形で救いの手を差しのべたという言い伝えを取り入れた、 少なくとも現存するものの中では珍しい作品であろう。 一方、謡曲「景清」は逆に平家方のかつての勇将の落魄の姿にスポットを当てるため、頼朝との姻戚関係が生じる 熱田大宮司の娘が景清の妻であるとの説をとらず、あえて「熱田にて遊女と相馴れこの子を儲く」(文献[1]p.316)という記述にしたのではないかと考えられる。

(注4)....参考文献[3]が底本としている「車屋本」では、人丸自身が景清に声をかける脚本になっている(文献[3]p.185。 「車屋本」は朝日新聞社「日本古典全書」『謡曲集』所収のものとのこと)。 一方本HPで引用した参考文献[1]の「景清」は観世流の「寛永卯月本」(1629)を底本としている。
問答のあと謡曲ではひとりになった景清が訪ねてきたのが娘であると悟り「馴れぬ親子を悲しみ、父に向つて言葉を交す。」(文献[1]p.316)と独白するので、 娘が直接話しかけたとするほうがつじつまが合う(文献[3]pp.185-186)。(⇒この点については異説もあり。調査中。)
案外、浄瑠璃「嬢景清八嶋日記」は前者すなわち「車屋本」のセリフ割りをそのまま採っただけなのかもしれない。

(注5)...本HPが典拠とする現行の文楽の床本には「道行」はないが、文献[6]p.8の上演年表には初演時に「道行」の記載が見られるので、 若竹笛躬らによる原典には道行があったものと思われる。

(注6)...以降「大仏殿...」では「嬢景清...」における「位牌」はすべて「御骨」となっている。
参考文献
[1] 小山弘志・佐藤健一郎校注・訳「新編日本古典文学全集59 謡曲集A」(小学館1998)より「景清」 pp.312-325
[2]国立劇場営業部宣伝課・編集「文楽公演平成二十二年二月パンフレット」および「第170回文楽公演 文楽床本集」(日本芸術文化振興会2010)より 「嬢景清八嶋日記」 pp.6-21
[3]田代慶一郎「朝日選書332 謡曲を読む」(朝日新聞社1987) より「『景清』を読む」pp.142-221
[4]藤田洋ほか「文楽ハンドブック改定版」(三省堂2003)
[5]原道生ほか校訂「叢書江戸文庫10 豊竹座浄瑠璃集[一]」(国書刊行会1991)より黒石陽子校訂「大仏殿万代石楚」pp.5-68
[6]国立劇場調査養成部調査記録課・編集「国立劇場上演資料集531 第170回文楽公演 花競四季寿 嬢景清八嶋日記、おさん茂兵衛大経師昔暦、曾根崎心中」(日本芸術文化振興会2010)


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