日本の歴史を思い出す!

一、ブラジルの日系社会を散策すると
 ・戦前の中学生用日本地図が!
二、私が知っているのは教科書で習った歴史と歴史物語だけ?
 ・ブラジルで流暢な日本語を話す台湾出身の人たち
 ・多くの日本人が島を出て新たな大地に生活を築こうとした過去
  *台湾はポ語名『ILHA FORMOSA』(ある本から知ったこと)
  *台湾生まれの日本人
 ・大陸生まれの日本人、そしてブラジルにも、、、
  *曽野綾子さんの小説『たまゆら』
三、なぜかインドネシア
 ・カツオ節と日本人
 ・日本、インドネシア、オランダ、ブラジル

四、話は飛んで、ライト兄弟とサントス・デュモント

一、ブラジルの日系社会を散策すると

 初めてサンパウロにやってきて、お世話になった日系社会。とにかく、無知な私が未地の世界にやってきて、ありがたいのは日本語の通じる方々。
 
 サンパウロ、およびブラジル各地の日本人移住者が開拓したコミュニティーには、周知の通り、戦前戦後移住者の軌跡ともいうべき、日系社会が存在している。
 
 同じ日本語が通じる世界とはいえ、1979年生まれの私が知っている日本社会と、戦前、もしくは、戦後すぐに移住した日本人の方が知っていた日本社会は、多少、違いがあるのだろうということを、サンパウロ歴4年目にして感じざるを得ない。というのは、老人クラブに所蔵されている書籍を読む暇があったから、、、(以下に記述あり)。
 
 また、各地の日本人コミュニティーが設置している会館なんかに行くと、戦前の日本の雰囲気(例えば日本ではみたこともなかった教育勅語が掲げられていたり)を感じたりすることがある。日本という国に誇りを持って、日本文化を保持することに努めた日本人たちのたくましさを感じるこの頃である。

 
・戦前の中学生用日本地図が! 
 さらに、目を見張ったものを思い出した!サンパウロの友人の家に、戦前の日本の、中学生用日本地図がはってあったこと。好奇心旺盛な友人のご主人だから、サンパウロのどこかで見つけておもしろがって貼り付けたに違いない。
  
 面白いというのは、なんてったって、日本の国土が北方四島はもちろん、台湾、朝鮮半島から中国東北部(満州)まであるのだ!しかも中学生用らしく、そこらで栽培されている作物なんかの、かわいらしいイラストがチョコチョコ付いていたりして。今の日本でそんな地図が簡単に手に入ったら、少々、問題かもしれない。でも、貴重な歴史資料!戦後の日本地図しか知らない私には興味深かった。でも、大人になった今、その地図を見ても、中国や朝鮮半島が日本の領土なんて、とても信じることができないな、、、子どもの時から教育されればともかく。

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二、私が知っているのは教科書で習った歴史と歴史物語だけ?
 
 私は1979年生まれ。毎日おいしく食べて過ごせりゃこれでいいという、お気楽な家庭で育った。戦後教育の中で疑問を抱かず(多少は抱いていたが)、恥ずかしながら歴史教育なるものの丸暗記は特に得意で、受験戦争の中を過ごしてきてしまった。
 
 そんな私がサンパウロの日系社会や、見事な日本語で商売をする台湾人、主人の父親や兄弟が台湾で生まれ育った話に出会わなければ、一生、日本の今について過去を振り返ってみたいとも思わなかっただろう。
 
 きらびやかな貴族の文化に憧れ、日本の近・現代史なんかには関心も無く、日本が突如、狂信的に真珠湾を攻撃して第二次世界大戦がはじまったと筋書き通りの答えしか知ろうともしなかった。
 確かに、突然、他国を攻撃するなんて無謀。そこには、それまでの流れや過程があるのではないかと、どうして考えなかったのだろう?

・ブラジルで流暢な日本語を話す台湾出身の人たち

 日本の戦前の歴史に関心をもったのは、このブラジルにおいて、流暢な日本語を話す台湾人の70代、80代の方を身近に見たことである。
 
 いわゆる『華僑』と呼ばれる彼らが、なんと、今や、ありがたいことに、率先してサンパウロに日本食品および東洋食品を供給してくれている。しかも、80代に見えるオーナーや、その友人だと語る人などなど、とにかく私以上の日本語を知っていそうな気配で、日本語を話すではないか!

 日本で華僑と呼ばれる人たちが日本語を話すことは、全く疑問に思わなかった。だって、日本に住んでいるんだから日本語で話すものかなあ、、、なんて。でも、ここはブラジル。華僑であればポルトガル語が流暢なはず、、、それが、なぜ日本語?

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・多くの日本人が新たな大地で生活を築こうとした過去 
 それはそれは、過去をたどってみると、日本は戦前、ヨーロッパ列強の帝国主義にならって、台湾や満州を日清戦争、日露戦争などの後に結ばれた条約で手に入れ、韓国併合という形で朝鮮半島の統治権なども得ていたのだった(この辺までは教科書でも習った)!そして、日本人が国を挙げて新しい土地に渡って生活の場を築くことに努めた過去が、、、。

 *台湾はポ語名『ILHA FORMOSA』(ある本から知ったこと)
 ある一冊の本を読んで、台湾が、大航海時代のポルトガル人によって発見されたときに
『ILHA FORMOSA(麗しき島)』と名付けられたことを知った。ポルトガル語では今でもFORMOSAで台湾を意味するみたいだ。台湾とブラジルも近いんだなあ、、、。

 それはさておき、戦前、日本の台湾政策は、生活を快適にするための事業をはじめ、教育にも力を入れていたようだ。

 台湾にもいろいろな人がいるのは当然で、学校のタイプも2,3種類に分けて作ったそうだ。戦勝国が得た領土ということで、日本が設置した学校は、基本的に日本語で教育が行われた。ある程度優秀な台湾の子どもには、日本人の子どもが通う小学校に通って机を並べていたそうだ。

 、、、と、そんな過去を、ある本から学んで、戦前生まれの台湾出身者、しかも世界をまたにかけ商才を発揮している優秀な台湾人が、日本語を流暢に話すということに納得いったのである。別に日本の語学学校へ通っていたわけではなく、時代が生み出したひとつの人生のあり方だった。

 *余談(台湾生まれの日本人)
 ちなみに対馬出身の主人のお祖父さんは、台湾の高等学校で漢文の先生をしていたらしい。お父さんは2歳で台湾に渡り、妹や弟は皆、台湾生まれらしい。当時は台湾で生まれたというと、あまり格好よいイメージではなかったらしい。でも、実際はいわゆる日本からの駐在員で、いい暮らしができたそうだ。今のブラジルに似ている、、、(私は庶民的毎日だけれども)。
 
 主人の父親は大学に行くまで、ほとんど台湾にいたそうで、いくら日本語の環境といえども、日本の風土以外で育った人間(果物のリュ-ガンが好物だったらしい)。それで気があったのか、お母さんはペルーで10歳まで育った方だったらしい(マンゴーをフルーツの女王と賞賛していたという)。
 
 子ども時代のアイデンティティーの問題って不思議である。日本生まれの日本育ちの私には分かりにくい感覚がありそうな気がする。

 そういう主人は日本生まれの日本育ちながら、分かりにくいアイデンティティーを超えて、滑稽である!

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・大陸生まれの日本人、そしてブラジルにも、、、
 日系ブラジル人2世や3世と呼ばれる人たちが、南米大陸生まれなのは当然の話。彼らのご両親が日本生まれの日本人なのも当然、かと思いきや、、、サンパウロで出会う、60代70代以降の日本の方たちの中には、ちょくちょく、「中国大陸(満州、北京、内蒙古などなど)で生まれました」という言葉を耳にする。そのせいか、老人クラブで聞こえてくる音楽にも、中国っぽい雰囲気があるような、、、。

 戦後教育の日本史しか学校で習っていない私には、「はたまた、なんのことだ?日本人が何で中国で生まれたんだ?」と思っていた。でも、上記のように、調べてみると、日本であまり習わなかった戦前の日本の歴史が事実ならば、そういう日本人に出会うことが当然である。でも、日本では、なぜか出会うことが無かったなあ、、、。

 中国大陸での日本人の様々な経済活動、及び生活は、結構立派なものだったようだ。中国で生まれ、敗戦で日本に戻り、さらにブラジルへ移住した方の話では、「家の敷地には数家族の中国人家族が住んでいた(つまり雇っていた)」なんて話や、「子どもの頃の記憶では通りを歩いていた子どもが辮髪の姿だった」なんて回想してくれる人も。

 日本でしか生まれ育っていない60代以降の人なら、そんな過去を語れる人はあまりいないんじゃないかな?なんか、日本育ちの私にとっては夢のようで、でも、彼らにとっては現実で、そのギャップがおもしろい。

 敗戦で大陸の資産を凍結されたなんていうことも聞くけれど、お金がなくなったって、経済活動のノウハウやパワーさえあれば、どこだって、また、生きていけるように思う。そういえば、今の日本のご意見番的な人の略歴には、満州出身なんていう記載をよく見かけるような、、、。

 そして、ブラジルにも再び新たな人生を作ろうと、中国大陸経験者の日本人の方たちが、少なからず渡ってきたのかなあと、、、。島の中で一生を暮らすのではなく、全く違う土地に何かを作っていこうという生き様に、私なんかは素敵だなあと思ってしまう(生活の事情があったとしても)。まだ、今ほど情報が豊富でない過去にあっても、大陸(中国)を知っていたからこそ、未知の大陸(ブラジル)へ行くことも、さほど恐いものと感じないたくましさが?
 
  戦前の日本は、ある意味、今よりも国際性が育まれていたんではないかという幻想を抱いてしまう。国際性とは、違った環境に適応できる力、突き詰めると、今はやりの生きる力ということで。中国へは行った事が無いけれど、今後もし、旅行で通過することがあっても、短期間で中国を理解することができない私のイメージ像がわいてくる。その点、過去には多くの日本人が中国で、経済活動をして、家族で毎日の生活をしていたわけだから、いろいろと文化摩擦をおこしながらも、国際理解の智恵を蓄積していたのではないかな。かつてブラジルに移住した日本人も然りである。

 今を過去に戻せというわけではない。だけど、過去の日本人のたくましさは、現在、ブラジルで暮らしている私には備わっていないなあと情けなくなる。今の時代、日本の社会環境の中だけでは培われにくいような気がする(責任転嫁だけれど)。それだけ平和な国で育てたことを感謝しなければ!?

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 *曽野綾子さんの小説『たまゆら』
 曽野綾子さんという作家には全く無縁だった私。主人がしきりに賞賛するので、どれほどのものかと、たまたま老人クラブに所蔵されていた数冊を読んでみた。なるほど、、、いやみなく、人の心理を洞察して、人間物語が読みやすく描写されているように感じた。
 
 そんな小説の一冊に『たまゆら』があった。今のわたしが気になる日本の歴史を密かに解説してくれたような一冊だった。というのは、準主人公の男性は満州生まれで、最後にはブラジルに渡って消えていくという話だったため。
 
 ブラジルの地名や水のメーカーが、今のブラジルにも存在していたりして、日本で読まず、ブラジルに来てから読んだということで、物語に妙なリアリティーを感じた。

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三、なぜかインドネシア
 
 わたしは現代の大衆の一人で、インドネシアといえば、テレビで有名なデヴィ夫人、そして夫だった人がインドネシアをヨーロッパからの独立に導いたスカルノという人だったくらいしか知らなかった。
 それが、サンパウロの老人クラブで、なぜかインドネシアに関する、はたまたホーッと思うような一冊があって、ブラジルに移住した日本人だけでなく、もっと昔から日本以外の国で活動していた人がいたことを知った。

 例えば、インドネシアでは明治の末期から日本人が製糖工場を経営していたり、以下にあるようにカツオ節を生産する人などもいたようだ。

・カツオ節と日本人
 日本人はカツオに縁がある。カツオのタタキやカツオ節、そして味噌汁のダシに煮物のダシ、、、だから味の素の調味料にまでカツオは欠かせない。それほど多くのカツオを日本だけでまかなえるのだろうか?それは分からない。

 ただ、カツオ節というのは、明治時代の末期、沖縄の人がインドネシアで作って、日本で売っていたという事実もあるらしい。それはそれは儲かったそうだ。

 そんな昔から海外で日本人が活動していたということ。中でも沖縄の人だったということがおもしろい。ブラジルにもとにかく、沖縄からの移住者がたくさん。ブラジルの人から日本の伝統舞踊は沖縄舞踊だと思われるのではないかと思うくらい、サンパウロの日本のお祭り行事には沖縄音楽と舞踊が披露されている。沖縄は確かに海に囲まれた小さな島々。だけど、海外で活動するということには、昔から長けていたのかなあと思ってしまう。

 ちなみにブラジルでも味の素が、ブラジル産ダシの素を売っている。詳しくは知らないが、ブラジルの海岸の町で、日本人の女性がカツオ節を味の素のために作っているという話を聞いた。日本人がいるところ、カツオ節は切り離せないようだ。

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・日本、インドネシア、オランダ、ブラジル

 インドネシアは親日的らしい。もっとも、若年層はそれほどでもないようだけれど。
 
 なぜ親日かといえば、20世紀半ばまで続いた300年以上にわたるオランダ支配から独立できたのは、皮肉にも、第2次世界大戦が要因になっているようだから。

  ジャワ島あたりにも軍を置いた日本が、結果的にオランダ軍を追い出すことになったという。ジャワに軍を置いていたとき、それまで、戦い方を知らなかったインドネシアの人たちに、ちょっとした軍事訓練を行ったということなどもあると本で読んだ。さらに、日本の敗戦後、インドネシアに残った2千人ほどの日本兵が、インドネシア独立のための戦いに参戦したという事実もあるらしい。
 
 インドネシアの中で一部のキリスト教徒なんかはオランダに好感を持っているけれど、やはり、たいていは過去の歴史があって、あまり好感は持っていないよう。

 オランダがインドネシアを植民地支配しようとした理由は、かつて、ヨーロッパで高値で取引された香辛料を求めたことと、サトウキビ栽培を始めることだったと記憶する。サトウキビといえば、ブラジルが発見されてから、ポルトガルの植民地支配が初まるまでのこと、、、オランダはブラジルにもサトウキビ栽培の土地を求めて進出していた。

 勉強不足のため、詳細は忘れてしまったけれど、結果的にオランダはポルトガルにブラジルの支配権を奪われた。だから、ブラジルの歴史から消えたのかと思うけれど、ブラジルで育った人に会うと、オランダに対して好感を持つ人が多いのかな?と思うような印象を受けることが何回かあった。なんせ、なんてことのないケーキにまで『TORTA HOLANDESA(オランダのタルト)』なんて名前がついているんだから、、、。

 おそらく、昔、オランダ人が作った町の美しいこと、そして、ポルトガル人に支配される前、オランダ人がいた頃のブラジルは良かったという歴史上の印象があるのかな?と勝手に解釈している。
 
 ある国がある国に対して好感を持つか持たないか、古今東西、理由は同じようなものかなあ。

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四、話は飛んでライト兄弟とサントス・デュモント
 サンパウロは今(2006年)、国内線空港がリフォーム中。それはともかく、日本で飛行機の発明者といえば、ライト兄弟。何年のことだか忘れたけれど、ブラジルでは飛行機を作った人として、必ず讃えられているのがサントス・デュモント。ライト兄弟なんてどこえやら。
 サントス・デュモントは1873年、ブラジルのミナスジェライス州で誕生。やがてフランスに留学し、後に人間を乗せた飛行機を飛ばすことに成功する。現在、ブラジルでは彼の生まれた町がサントス・デュモントとして、パリには彼の銅像が立てられているほどの英雄ぶり。
 アメリカに対抗意識を持つブラジル。飛行機だってわが国の英雄サントス・デュモント以外はだれぞやら!国が変われば歴史的事実はいとも簡単に変化することを実感する。

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