サンパウロの絵画館
このページでは、サンパウロで最も古い美術館という‘ピナコテッカ・ド・エスタード’という美術館とブラジルの美術史などについて簡単に記載してみます。
ピナコテカ・ド・エスタードについて


PINACOTECAは‘絵画館’を意味しています。サンパウロのピナコテカ・ド・エスタードPINACOTECA DO ESTADOは1905年に設けられ、サンパウロで最も古い美術館です。建物は市立劇場などの設計でお馴染みのラモス・デ・アゼベートRamos de Azevedoによって、もとはリセウ・デ・アルテ・エ・オフィシオLiceu de Artes e Oficios(工芸学校)の建物として設計され、使用されていました。現在、ピナコテカ・ド・エスタードはDEOPS(州政治社会秩序局)の建物をリフォームしたエスタソン・ピナコテカESTACAO PINACOTECAとあわせて、常設展のほかにも年に数回の特別展が催されています。
ピナコテカ・ド・エスタード常設展のポイント
ピナコテカ常設展は、ブラジルの帝政期から現れた芸術家の作品が展示されています。19世紀から現代までの作品が順番に展示されており、社会の進展に伴い、西洋美術史の流れと類似して、作品の特徴が変化していく様子が分かります。
ブラジルで最も有名な画家の1人であるポルチナリの絵は国際市場でもかなりの高値で取引されるそうです。そんな絵を間近で見られるのもブラジルらしいところです。
ピナコテカにはそれぞれの画家の作品が1点〜数点しかないのが残念ですが、ブラジルの美術史は理解しやすい展示になっています。
ピナコテカ・ド・エスタードにある作品の著名な芸術家 ※州名は出生地
・ビクトル・メレーレスVictor Meirelles(1832-1903) サンタカタリ―ナ州
←ビクトル・メレーレスの作品
・ペドロ・アメリコPedro Americo(1843-1905) パライーバ州
←ペドロ・アメリコの作品
←アルメイダ・ジュニオールの作品
・ベネジット・カリストBenesito Calixto(1853-1927) サンパウロ州
・ペドロ・アレシャンドリーノPedro Alexandrino(1856-1942) サンパウロ州
←ペドロ・アレシャンドリーノの作品
・アニ―タ・マルファッチAnita Malfatti(1889-1964) サンパウロ州
←アニータ・マルファッチの作品
・タルシーラ・ド・アマラールTarsila do Amaral (1886-1973) サンパウロ州
←タルシーラ・ド・アマラールの作品
←ラザール・セガールの作品
←サンパウロ市内にあるビクトル・ブレシェレの大作の一部
・ジ・カバルカンチDi Cavalcante(1897-1976) リオデジャネイロ州
←ジ・カバルカンチの作品
・カンジド・ポルチナリCandido Portinari(1903-1962) サンパウロ州
←ポルチナリの作品
日本人芸術家の活躍
ピナコテッカには下記の日本人芸術家の作品が展示されています。*敬称略
半田知雄(1906- )→『移民の生活の歴史』の著者
鈴木威(1908-1987)
沖中正男(1913- )
大竹富江(1913- )
福島近(1920- )
間部学(1924- )
若林和夫(1931- )
楠野友繁(1935- )
※上記の8名については、『日本ブラジル交流人名辞典』に簡単な紹介が記載されています。
現在も現役で創作活動を続けられている日本人芸術家の方がおられます。
日本人の芸術家がブラジルで活躍することになったきっかけは、サンパウロの美術学校で学んだ半田知雄さんらによってサンパウロ美術研究会(聖美会)が結成されたことが挙げられます。第一回ビエンナーレが開催された翌年の1952年には、第一回聖美会展が開かれ、日本人芸術家たちの活動が活性化する大きな意義を持ったようです。
ピナコテカ・ド・エスタードへのアプローチ
「ブラジルは歴史が短く、文化が未成熟だ」といわれることがあります。確かにブラジルは国家として認められてからは日が浅いかもしれませんが、ヨーロッパ、アフリカを中心に日本も含めた世界中の文化が集まり、インディオの土地に新しいものを生み出し続けています。ブラジルで創られるものはブラジルに育まれたもので、世界に一つしかないものばかりです。
ポルトガル王室がリオに遷都し、ブラジル独立(1822)後に美術学校が開校され、西欧式スタイルの美術がブラジルにも導入されました。19世紀にはヨーロッパを模範にしたブラジルの美術が芽生え、やがて、20世紀前半に活躍した知識人や芸術家によって‘近代芸術運動’が展開されました。近代芸術運動ではブラジル的な作品が希求され、そこに価値があるということが世界にアピールされました。その運動は今日までブラジル発の芸術が生まれるための原動力にもなっています。
ピナコテカ・ド・エスタード常設展では、ブラジルが独立してからのブラジル美術と合わせて、ブラジル社会の進展を垣間見る事ができます。ルーブル美術館の作品と比べるのではなく、ブラジルを見ることを主眼としてピナコテカを歩いてみれば、きっと新しい発見があるはずです!
←常設展にあるブラジルに到着した昔の移民の風景
ブラジル美術史の4大区分
インディオの時代
様々な部族のインディオが、日用品や祭儀用の道具などを作っていました。後世、ブラジルでインディオをテーマにした作品が生まれることにもつながります。
植民地時代
キリスト教文化がブラジル各地に到来しました。植民地に新しい町を設ける時には最初に教会が建てられ、それを中心に町が発展しました。植民地時代、サトウキビを中心に栄えたブラジル東北部の町(レシーフェやサルバドールなど)やゴールドラッシュで栄えたミナス・ジェライス州の町(オウロ・プレットや近隣の町)には、キリスト教文化がもたらした教会建築や彫刻などが残されています。特にミナスの教会建築の様式は、バロック・ミネイロやロココ・ミネイロと呼ばれ、ぺドラ・サボンが彫刻の素材にされ、装飾模様でブラジルの植物が取り入れられるなど、ヨーロッパの美術様式に通じながらも独自の世界を持つ点で、特にヨーロッパでは一目を置かれています。この当時活躍した有名なミナスの彫刻家がアレイジャジーニョでした。
また、サトウキビで繁栄したレシーフェは、17世紀前半に一時オランダの統治下に入りました。1637〜44年まではオランダ西インド会社から要請を受けたナッサウが統治者となり、彼に伴って学術団が随行しました。フランス・ポストやアルバート・エクートといったヨーロッパ人の若い画家が初めて正式にブラジルの景色や風物を描き、ヨーロッパでブラジルを紹介することになりました。
帝政時代
大陸封鎖令に従わなかったポルトガル王室は、ナポレオン軍の侵入から逃れるために海上をブラジルに向かい、1808年にリオに到着しました。何年も前からポルトガル政府をブラジルに移転しようという計画は持ち上がっていたことから、臨時の政庁所在地だったリオには様々な国家機関が整備され始め、やがて、1822年の独立宣言でブラジル帝国が誕生することになります。
独立国家となったブラジルには高等教育機関も設置されることになり、1826年にはブラジル初の美術学校(Academia de Belas-Artes)も開校されました。これによって正式にブラジル人芸術家が誕生するようになり、優秀な生徒はヨーロッパで学ぶ機会にも恵まれました。
←ブラジルに美術学校を設立しようと計画したポルトガル王ジョアン6世
帝政時代は、フランスの新古典主義美術の影響を受けた画風で政府の意向を反映させた作品を描かれることが多く、ヨーロッパを模範にしてブラジルの歴史画や象徴的な話をテーマにした作品などがよく描かれました。そんな中で、ブラジルの現実に目を向けた作品を描こうとした画家の1人が、ピナコテッカでも展示されているアルメイダ・ジュニオールでした。独立から日がたつにつれ、ブラジルはヨーロッパの亜流とされてきた文化面でも、少しずつ独立独歩してゆくことになります。
近・現代
1840年代に入ると、コーヒー経済がブラジルを牽引することになり、そこで得た富を背景にブラジルは飛躍的に近代化が進んでゆくことになります。それがブルジョワジーの力を増大させ、帝政は弱体化し、1889年に共和国が成立することになります。
サンパウロやリオの町は19世紀後半から20世紀にかけて急激に都市化が進み、田舎や世界各国からやって来た移民の労働者が集まることになりました。
特にサンパウロでのブルジョワジーの台頭は目覚しく、社会は急激に変化しました。この頃に登場した知識人や芸術家は、そんな時代を象徴するような芸術や新しいブラジルという国家の表現を求めて近代芸術運動を展開し、1922年には近代芸術週間を開催しました。この運動の中心人物であったビクトル・ブレシェレなどによって、1951年には第一回サンパウロ・ビエンナーレが開かれ、新しい時代を表現する芸術イベントとして、今日に至るまでビエンナーレは2年に1度サンパウロで開催され続けています。
特に20世紀後半からは日本人の芸術家がブラジルの現代アートの世界で活躍してきたことも見逃せません。ピナコテカ・ド・エスタード常設展では日本人の作品も多く展示されています。