佐治氏四代にわたるの支配と繁栄
応仁の乱以後、下剋上の風潮が強って、戦国時代に突入します。大野谷でも一色氏の家来であったと考えられる佐治氏が実力で大野3万石を支配しました。
@初代 佐治駿河守宗貞 応仁の乱の後の時代
大野庄を支配し始めます。
A2代目 佐治上野守為貞 キリスト教伝来の頃
父の追善供養のため斉年寺を建立します。
雪舟の掛け軸を斉年寺に寄付します。(現在国宝となっています。)
B3代目 佐治八郎信方 織田信長天下に立つ時代
織田信長の妹で於市の方の妹にもあたる於犬の方を妻としています。
そのため信長軍の一員として戦いに参加し、長島で討ち死にしました。
C4代目 佐治與九郎一成 豊臣秀吉の時代
時々小説やドラマに描かれます。
永井路子原作の「乱紋」がTBSで正月時代劇としてTV放送されました。
というのも一成の奥方(お江・小督)が淀君の妹(浅井三姉妹)だからです。
落城・没落については諸説あり定かではありませんが、奥方とは秀吉により
離縁させられています。(小牧長久手戦いの時家康側についたからか?)
その後のお江(小督)は時代劇でも知られるように、再々婚で将軍に嫁ぎ、
3代将軍徳川家光を産んでいます。(春日局との対立もTVでおなじみ)
佐治家没落後、家来(桑山)の氏は現在も多いです。
このころの話は、史書により記述が違っていたりして確かなことは解りません。本能寺の変の時に、堺にいた徳川家康が三河まで逃れるときに、かつてから関係のあった大野東龍寺が助けた説と、常滑の正住院が助けた説があります。山岡荘八の小説では常滑説をとっています。
このころの混乱の中で伊勢の九鬼水軍が知多各地を襲い、蓮台寺や光明寺など大伽藍を焼き尽くした記録があります。このため、江戸時代以前の古文書は消失してしまい、後に書かれたものは信憑性に疑問が残ることになってしまいました。 |
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幻の大草城…
現在知多市大草には、立派な天守閣が造られてしまっています。その城の領主は織田信長の弟の織田源五長益です。この人は茶人として有名で織田有楽斎といった名の方が知られています。彼の江戸屋敷のあったところが、その名をとって有楽町と呼ばれています。はじめ大野の領地をもらいましたが、山の上よりも海運が便利な大草に城を造り始めたようです。しかしその後、摂津国味舌に転封されたため、築城途中で放棄されました。江戸時代にはいると尾張藩の重臣山澄氏の領地となり、保存してきました。
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| 造られた大草城天守閣(本当はありませんでした。) |
今も残る堀の跡 |
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