商業・廻船・潮湯治など盛んになる…
江戸時代になると幕府の支配下に藩が各地を治める仕組み(幕藩体制)ができあがりました。知多半島はほとんど尾張藩の蔵入地になりました。(しかし大野谷では大草の山澄氏・古見の成瀬氏・西之口の遠山氏・岡田の寺尾氏・日長の間宮氏は領地をもらっていました。)
大野谷で代々庄屋の家柄にあったのは平野家です。尾張藩のもとで平野家は東浦12か村の代官となっていました。
また大野村では港が栄えて、商業も活発になったことが古文書などからあきらかです。平野家文書では1675年以降大野は米ではなく、金納村となり小判で税を納めていました。しかも知多郡内で唯一、「定金納」になっていました。
元和3年(1617年)には大野村の中村源右衛門は尾張藩主徳川義直より、知多廻船惣庄屋に任命され、知多の海運を握っていました。「寛文覚書」(1660年頃)によると村の持つ廻船(小型)の数は知多一で、半田村35に対して、大野村65となっています。
「元禄十年酒株帳」によると、大野村の酒屋数は17軒で他村を圧倒していました。(2位の横須賀村の12軒)
また尾張藩主も時々潮湯治にやってきたことがわっています。その時には代官の平野家に宿泊されたので、平野家は大野御殿とよばれていました。 |
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大野鍛冶…
大野は鍛冶でも有名でした。その人々は大野鍛冶と呼ばれて、自分の村で仕事をする者もいれば三河や美濃へ出稼ぎに行く者も多くいました。三河では鍛冶がなかったため貴重な存在でした。それは特に農鍛冶でした。
天正20年(1592)の検地帳に、大野村で12名の鍛冶屋があったことがわかります。その後、江戸時代には知多全域に広く分布し、大野を中心に株仲間が成立しました。享和2年(1802年)の記録では鍛冶135名のうち62名が大野村、22名が小倉村、18名が西之口村でした。
大野鍛冶については愛知製鋼の「鍛造技術の館」で展示してあります。
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久米の鋳物師…
江戸時代尾張藩では名古屋の水野太郎左衛門一家しか、鋳物は認められていませんでした。しかし、久米の片山武兵衛一家は先祖代々朝廷より鋳物を全国どこでやってもよい勅許をもらっていました。平安時代、源頼政の鵺退治の時に役立った金の灯籠を作った先祖が朝廷より許しを受けたそうです。
寛政8年(1796年)には、伊勢神宮の宇治橋擬宝珠を作っています。
久米の盛泉寺などに鋳物が残されています。 |
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