『明日を拓く』の論文紹介  東日本部落解放研究所機関誌から

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1  『裁判員制度をめぐって』(79号2009年)

2  『 裁判員制度を検証する』(88・89号2011年)

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 1 裁判員制度をめぐって 

                        『明日を拓く』79号 (2009年2月)

 

特集にあたって

 

 今号の特集は「裁判員制度をめぐって」である。

 今年(2009年)5月21日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(裁判員法)が施行され、8月3日には東京地方裁判所で初めての裁判員裁判による公判が開かれた。5月21日以降に起訴された対象事件は、その後順次各地の地裁で裁判員制度の下で裁かれている。

 職業裁判官が独占していた刑事裁判に国民が参加するこの制度は、たしかに日本の刑事裁判にとって大きな変革である。そして、この制度の変革については施行前から賛成、反対の議論があり、特に昨年末の裁判員候補の通知以来、制度実施が目前に迫るとマスコミにも大きく取り上げられ、関心が高まっていたことは周知の通りである。しかし、この裁判員制度に対して人権運動や冤罪の救援活動の立場からの評価や組織的な運動は必ずしも盛り上がっていなかったように思われる。私たち東日本部落解放研究所狭山部会の集まりでも、たびたび話題には上り、検討の必要は感じながらもその動きは鈍かった。その理由の一 つは、いわば切羽詰まらないとなかなか動かないわれわれの怠惰にもあるが、この制度に対する期待とともに不安・危倶、一種の胡散臭さを感じていたためであったように思われる。

 確かに今までの職業裁判官による刑事裁判には絶望していた。九九・九%の有罪裁判、捜査段階の調書とりわけ密室で採られた自白調書を重んじる調書裁判、捜査側の請求のまま逮捕や拘留を認め、さらに罪を認めなければ容易に保釈を認めない人質司法、「疑わしきは被告人の利益に」とは全く逆の勝手な推測を加えてでも強引に有罪を言い渡す治安維持の姿勢、人事権を握った最高裁に唯々諾々と従う官僚裁判官、等々。一方で、国民が参加するこの裁判員制度は、なるほど職業裁判官の判決の独占に風穴を空けるものではあるが、あくまでも上からの改革であり、その目的に被告人の権利を守るためとの話は聞こえてこなかった。それに、死刑もある裁判に動員・荷担させられるなんて。狭山部会で話題になっても、各自の意見は分かれ、また、評価は両義的、暖昧であった。

 しかし、裁判員制度は始まった。これが今後の運用の中で被疑者・被告人の権利を守る司法改革につながるものなのか、あるいは国民の名を借りた官僚裁判に過ぎないものとなるのか、また、法律で3年後には見直しが待っている。様子見ではなく、裁判員制度に真剣に向き合い、運動としても考えて行かねばならない。研究者集会の狭山分科会でも取り上げることを考えている最中、研究所事務局より今年度研究者集会の全体集会でのテーマとして取り上げることの提案があり、また『明日を拓く』編集委員会より特集テーマに取り上げたいとのプランが示され、今回のパネルディスカッション「裁判員制度をめぐって」が企画された。

 パネルディスカッション前半は問題点を明らかにするために賛成・反対の法曹の専門家による議論を据え、新潟大学法科大学院の総越溢弘教授と狭山事件再審弁護団の横田雄一弁護士にパネラーを依頼した。敏越氏は刑事訴訟法を専門とし、特に長年にわたって陪審制の研究・提唱をされてきている。その活動の一環としてゼミで行っていた模擬陪審で狭山事件を取り上げたことが1991年に解放同盟と弁護団などが上演した陪審劇「模擬陪審・狭山事件」制作の契機となり、また陪審劇の解説も務められるなど、狭山事件の支援で尽力してこられた。現在は法科大学院で法曹の育成とともに、刑事弁護士として実務でも活躍している。この裁判員制度については、定着と発展を目指して活動を続けてこられた。一方、横田氏は上告審から狭山弁護団に参加し、その中心として活躍している。裁判員制度には根本的に反対の立場を明らかにしていた。このお二人に、裁判員制度についての見解をいただき、議論を展開しようと考えた。ただし、記録をご覧いただければ判るように、必ずしも焦点が定まった議論は十分には展開できなかった嫌いがある。また、後半のフロアーを交えた意見交換を含めて、予定していた裁判員制度の具体的な問題点の検証は、時間的な制約もあってほとんどできなかった。しかし、日本の刑事司法と裁判員制度をめぐる問題についてわれわれが考えるべき重要な観点、課題はこの集会の中で提起され、明らかになってきたのではないかと思われる。

 

 本特集の内容としては、パネルディスカッション「裁判員制度をめぐって」の再録、パネルディスカッションを受けてのまとめ、裁判員制度と狭山裁判をめぐる狭山分科会での議論、陪審劇「模擬陪審・狭山事件」ビデオの紹介、とした。(狭山部会)ホームページの紹介文が入ります。



第23回研究者集会〈パネルディスカッション〉 

 

      「裁判員制度をめぐって」

 

                                          パネラー 鯰越溢弘氏(新潟大学・法科大学院教授)

                       横田雄一氏(弁護士・狭山弁護団)

                       司会   吉田健介氏(狭山部会)

 

〔司会〕 パネルディスカッション「裁判員制度をめぐって」の司会を担当させていただきます狭山部会の吉田です。よろしくお願いします。

 ご存じの通り、裁判員制度が始まりまして、8月3日、第1回の裁判員裁判が東京地裁で行われました。ニュースだけではなくてワイドショーでも大きく取り上げる恰好で、びっくりするぐらいの大騒ぎです。まあ、世論とマスコミは移り気ですから、ワイドショーはもうどこかにいってしまいましたけれど。しかし、裁判員制度というのは、一般の市民が判決に係わるということで、やはり日本の司法制度にとって大きな変革なのだろうと思います。もしかしたら、この場のみなさんの中にも、裁判員候補の通知が来た方がいらっしゃるかもしれません。

 ところで、これもご存じかと思いますが、この制度については、冤罪事件や再審の支援の人たち、狭山もそうですが、人権運動をしている人々のなかにも、賛成の人、いや、あまりにも危険性が大きいと反対の人と、議論が分かれています。

 どこかで我々もこの制度について勉強しなければならないなという話はしていました。裁判員裁判が始まる前にやるべきだったのかもしれませんが、実際に始まっているなかで、もう一度、この場で本当に裁判員制度は、冤罪を防げるのか、人権を守れるのか、あるいは狭山の再審にとって、どんな影響を与えていくことになるのか。そのあたりについて考えていきたいと今日のこの場を設けさせていただきました。

 パネルディスカッションということで、パネラーとして、いずれも狭山にかかわっていらっしゃるおふたりにお願いしました。新潟で狭山事件の住民の会の会長もやっていらっしゃる、みなさんもご存じの新潟大学法科大学院教授の鯰越溢弘先生。鯰越先生は、市民の司法参加ということをずっと訴えてこられて、そういう意味で言うならば、裁判員制度にも基本的に賛成です。もうひと方、こちらもご存じの通り、狭山弁護団の中心として活躍してこられた弁護士の横田雄一先生。横田先生は裁判員制度には基本的に反対の考えをお持ちです。このお二人からご意見を頂き、バトルを展開していただきたいと思います。

 具体的には、最初に私の方から資料の確認と裁判員制度の基本的な概要といいますか、流れについて、説明させていただきます。その後、鯰越先生から、裁判員制度の意義ということで、賛成の観点からお話していただき、続いて、横田先生から反対の理由をお話しいただき、その後お二人にディスカッションをしていただきます。そのあと、休憩を挟んで、後半はフロア共々全体で議論をしていきたいと考えています。

 

 それでは、始めさせていただきます。

 最初に、みなさん、もうご存じかとは思いますが、裁判員制度とはどのような制度かというところを、簡単にまとめたものが、「裁判員制度をめぐって」という資料です。これをご覧いただければと思います。私がまとめたものでどこまで正しいかはわかりませんけれど、簡単に裁判員制度について確認をしておきたいと思います。

 

裁判員制度の導入過程、その概要

裁判員裁判の流れ(司会者)

 ・裁判員制度の導入過程

 ご存じの通り、今年2009年5月に裁判員制度が始まりまして、第1回の裁判が8月から始まりました。裁判員制度の導入過程ということで、ものの本を開いてみますと、ひとつはやはり1980年代、免田事件を始めとして4つの確定死刑囚の再審無罪判決が出る。その間もずっと狭山の闘争は続いているわけですけれど。そうした中で、日本の刑事裁判への批判が強まっていく。自白調書など調書偏重のいわゆる調書主義、官僚化した職業裁判官による官僚裁判であるとか批判が高まった。この動きの中で日弁連も1990年『司法改革に関する宣言』で、国民の司法参加の観点から陪審制や参審制度の導入の検討を提唱し、国民の司法参加を訴え始めます。法曹一元制度などを含めて司法制度改革を訴えるわけです。そういう意味で言うならば、冤罪の反省から日本の司法制度のあり方に対する批判として改革の動きがあったわけです。

 ところで、もう一つの動きが出てくる。これもご存じの通り、1990年代以降、とくに日本においてはバブルの崩壊以降と言ったほうがいいのかもしれませんけれど、経済界において規制緩和、グローバルスタンダード、小さな政府だとか、いわゆる新自由主義の動きがずうっと強まってきた。そうした動きの中で、経済界から行政改革の要求が高まり、さらに司法制度においても、もっと迅速で、コストのかからないもの、利用し易い司法への改革の要望が出てきます。日本の自民党を中心とする保守政治においては経済界が非常に強い力を持っていますから、その結果と言っていいでしょう。1997年に政府の行政改革会議がその報告の一部で「司法の人的及び制度的基盤の整備に向けての本格的検討を早急に開始する必要がある」と、司法制度について触れます。

 こうした動きを受けて、政府は1999年に司法制度改革審議会を設立し、この審議会が2001年に意見書を出します。そして、この意見書の中で、「一般の国民が裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法にたいする理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる。このような見地から・・・広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与することができる新たな制度を導入すべきである」「刑事裁判の充実・迅速化を図るための方策を検討するために、事前準備を前提に、集中審議により、効率的かつ効果的な公判審理の実現を図る」と改革の具体的方向が出されます。

 この意見書に基づいて改革が具体化した。もちろん、この時の司法制度改革審議会が出したものは司法制度全般に関してのものですが、その中で、刑事裁判に関しては裁判員制度の導入ということを打ち出した。それに基づいて、政府が司法制度推進本部を設置して具体的な制度設計を行い、その結果2004年に『裁判員の参加する刑事裁判に関する法律』、いわゆる裁判員法が制定され、5年後の2009年の今年が実施となった。法律自体は5年前にできていたわけです。

 それに係わるものとして、刑事訴訟法等の一部改正が行われていて、公判前整理手続きという仕組みが取り入れられて、それはもうすでに2005年より実施されています。

 

・裁判員制度の概要

 次に、裁判員制度の概要について。まず、裁判員制度は、すべての刑事事件が対象になるのではなくて、重大事件のみです。死刑、無期の懲役・禁固が規定されている事件。1年以上の懲役・禁固にかかる罪で、故意の犯罪により被害者を死亡させた事件。いわゆる重大事件のみです。

 対象事件数ですけれど、昨年度(2008年度)の事件の中からピックアップしてみると、2324件ですから、だいたい2000から3000件ぐらいが全国で対象になると想定されているようです。地裁における1審の事件の約2%から3%ぐらいが対象になるとみられます。

 次に裁判官と裁判員の構成ですが、基本的に裁判官3人、裁判員6人です。事実に争いがない場合には、裁判官1人、裁判員4人もあるということです。そこで何を行うかというと、出廷して公判に参加し、その結果、裁判官と裁判員は評議・評決を行い有罪・無罪の事実認定を行う。もうひとつは、日本の裁判員裁判では、有罪の場合その刑を決める。懲役何年にするのか、場合によっては執行猶予をつけるのか、あるいは死刑にするのかという、つまり量刑を行う。この8月に行われた裁判では、事実関係では争いがなく、問題になったのはむしろこの量刑でした。裁判官と裁判員で意見が分かれた場合には最終的な評決は多数決です。ただし多数決の場合には必ず、多数側に裁判官と裁判員が1名ずつはいなければならないとなっています。

 裁判員の資格、選任ということですと、1年ごとに、毎年、選挙権をもっている人の中から無作為抽出で、裁判員候補者名簿を作成。裁判員は、事件ごとに無作為抽出します。欠格事由とか、就職禁止事由というのがありまして。欠格事由は、禁固以上の刑に処せられた者とか、義務教育未終了者など。就職禁止事由は、国会議員とか、国家公務員の幹部公務員、市町村の長、警察官、自衛官、あと法曹資格を持つ者。これは、実をいうと、弁護士や裁判官、検事は、現役だけではなく引退していても、1回資格を持ったら、裁判員にはなれません。また、大学の法律学の先生もその資格がない。したがって、こちらのパネリスト2人の先生方は、裁判員の資格はない。裁判員になる機会はないということですね。あと、集められた人の中から質問して、裁判官が最終的には裁判員と補充裁判員を選ぶようです。その過程では、検察、弁護側は、理由をつけずに、裁判員候補者からそれぞれ4人までを忌避可能です。

 裁判員の守秘義務ですけれど、評議の秘密その他、職務上知り得た秘密を漏らしたときは、5カ月以下の懲役又は50万円以下の罰金。これは終生ついて回るということです。これは、もしかすると、参加しても終生苦しむかもしれないということです。

 

・裁判員裁判の流れ

 続いて裁判員裁判の流れということで、簡単に整理しました。

 事件が起き、警察が捜査し、その後検察に送られ、起訴された場合ですけれど。この後が大きく変わりまして、今までの裁判と違って、基本的に裁判員裁判は連日開廷して、非常に短時間で終わります。この前、行われた裁判は4日とか3日とかです。だいたい9割が5日以内で終わると考えているようです。

 そのために、裁判員裁判では、もうすでに5年前から進められてきている公判前整理手続きというのを必ず行う。それは裁判官のもとに、検察官と被告弁護人が集まり、その中で、検察官の方で、どういうことを証明しようとするのかを明らかにし、それに伴って、公判ではこういう証拠を取り調べるようにという請求を行う。で、その証拠については、弁護側にその段階で開示する。

 一方、弁護側は、それを受けて、このあたりは、実はよくわからないところがあるのですが、類型証拠開示請求だとか、主張関連証拠開示請求だとかありますけれど。検察側の証拠を開示してもらった上で、被告人弁護側の主張をたてて、それを明示する。例えば無罪を主張する場合には、争う論点を明らかにするということだと思います。

 ここで、検察と被告弁護人が裁判官のもとでやりあうといいますか、何回かこうした公判前整理を行って、その上で実際の公判における争点と、取り調べる証拠を決定する。で、さらに、その取り調べる順序とか、進行の予定を決定する。ですからここが非常に重要になってきます。その上で、公判は先頃行われましたように、非常に短期間です。

 また、これは直接は裁判員制度とは関係ないのかもしれませんけれど、この間で導入されました被害者等の意見陳述、被害者の参加制度というのがもう実現されています。今回の事件の裁判でも行われました。

 その上で評議・評決。これは非公開で、裁判官、裁判員が、有罪、無罪の事実認定を行い、有罪の場合は量刑の判断を行います。その後、判決の言い渡しということになります。この判決に不服の場合には、控訴して、二審、高裁にうつっていく。控訴審となった場合には、その段階ではもう裁判員制度は適用されません。裁判員制度は一審の地方裁判所だけです。

 それでは、この裁判員制度についての賛成、反対、意義、危険性について、両先生からお話いただきたいと思います。

 

国民の司法参加の意義

  ━冤罪事件の教訓から(鯰越)

 

・生活者の常識を裁判に

〔鯰越〕 新潟大学の鯰越です。今日、こういう会にお招きいただきまして、ありがとうございます。私は、狭山の関係、それから裁判員裁判の関係で、いろいろな場所で解放同盟からお声がかかりまして、各県集会や住民の会で講演をさせていただいた経緯があります。

 最初に申し上げたいのですが、私も横田先生も、ずっと狭山事件については係わらせていただいています。狭山事件については、二人でいろいろな場所で協力していたわけでして、とくに横田先生は狭山事件弁護団の中心的メンバーとして活動されていたわけです。親しくて、私としては横田先生を非常に尊敬して敬愛しております。そういう関係です。

 ただ、今日は、立場として私は賛成論。そして横田先生は、どちらかと言うとそれに危惧をもって、それは甘いのではないかという立場で発言をされますが、それは、この制度をより深く理解していただくために、あえてパフォーマンスとしてやる部分もあるかもしれませんので、その点は誤解のないようにお願いしたいと思います。

 ふたりともが、賛成論、あるいは反対論に凝り固まって話をすると、一方的な知識で視野認識ができないのではないかということもありますので。その点はむしろ、反対を唱えている人たちの意見も踏まえて、先生が反対論を展開されてお話になると思います。それに対して、私は賛成論の立場から、話をさせていただきます。

 こういうことで、それではさっそく、お手許に配られているレジュメに従って、簡単な話を約25分ぐらいします。

 そもそも、なぜ裁判員制度というか、国民の司法参加を考えたかということについてお話した方がおわかりになるかと思いますので、その辺から少しお話したいと思います。

 私は九州大学の出身でして、大学院生の時に、先程ご案内がありましたが、免田事件、及び財田川事件の差戻し再審を担当されていた弁護士さんたちからの相談が、私にではなくて、私の師匠の亡くなられた横山晃一郎先生の所へ持ち込まれました。その関係で、まずは、冤罪事件の勉強を始めたわけです。それで幸いにして、免田事件の方は再審で無罪が確定しましたし、財田川事件についても冤罪だということで再審、無罪が確定しました。それで、免田事件の弁護団からいろいろな資料が私どもの手元へコピーが渡されてきていて、その資料を持っていたのです。

 それで私は、26年前に新潟大学へ赴任したのですが、新潟大学では、その当時、市民を対象に公開講座をやっていました。それで何を話そうかと思ったのですが、あまり理屈を話しても面白くないでしょうから、免田事件の話をしたのです。

 ひとつのエピソードだけを言いますと、免田事件の時に、免田さんは犯人ではないのではないかと思われたことがある。何かというと免田事件というのは、白福さんという祈祷師一家6人を殺した強盗殺人事件だったのですね。強盗殺人事件で、薪割り用の斧で頭をバンバンにかち割っていますから、現場の写真が残っているのですが、屏風とかふすまに血が飛び散っている、バアッーと。ここから何が言えるかというと、お気づきのように犯人、真犯人は大量の返り血を浴びたであろうと。そう思うでしょ?その日に免田さんが着ていた洋服は全部押収されているのです。免田さんは、あとで判ったのですが、その犯行があった夜はアリバイがあったのです。その夜、若い人はわからないでしょうが、昔は青線というのがあって、女性のところで一泊している。ですから次の日も前の日と同じ洋服を着ているのです。犯行があった日、真夜中の犯行です。それから翌日も同じ洋服です、みんな見ていますから。すぐに警察は全部持っていった。そうしたら、その衣服からは血痕がまったく発見されなかったのです。それなのに、いわば職業裁判官の職業裁判官たる所以ですが、逃走経路の中にロクゴウ川という川がある。それが、川ではなくて単なる用水路でしかないということが、あとで判るのですが。熊本日日新聞では、「幻のロクゴウ川」とタイトルで出るのですが、そういうものは無い。ただ裁判官はどう言ったかというと、「たしかに疑問である。血がついていない。だが、洗ったら、洗い流せるのではないか。逃走過程のロクゴウ川で洗ったのだ。だから血痕が発見されていなかったとしても不思議ではない」と判断しました。従って、有罪であると。

 一般の市民にこの話をしました。すると、女性が手を挙げて「おちませーん」と言うのです。「先生、うちの息子はサッカーをやっている。ころんだりして擦りむいたりして、しょっちゅう衣服に血を付けて帰ってくる。あれはぬるま湯で洗剤をつけて洗っても、おとすのにえらい苦労をする。冷たい水で洗っても、絶対だめです。おちない」ということをおっしゃったのです。裁判官は洗濯などしたことがありませんから。でも主婦の方なら日常的にそういうことをやっておられるから、血がおちるか、おちないか、たちどころにわかったのだと思うのです。この免田事件の時は、年末の12月27日で、人吉というのは寒い所なのですよ。そういう冷たい水で洗って血がおちるはずがないと言われたのです。その時に、あとでお話しますが、事実認定で有罪か無罪か決める、どうしようかと思う、その評価の時に一般の人たちが持っている、みなさん方が、お母さん方お父さん方が持っている常識を裁判の中に反映させることがいかに大事かということを考えました。

 

・国民の司法参加としての陪審制、妥協としての裁判員制度

 それ以降、私はゼミの中で実際にあったいくつかの事件を下敷きにしながら、模擬陪審裁判というのをやってきました。そのひとつで、この狭山事件をとり上げたのです。その時に、弁護団事務局の島谷さんとか本部の方が来られて、「先生、おもしろいことやってますねえ」という話で、解放同盟とお付き合いが始まったという経緯があるのです。

 いずれにしても、私はどう考えたかというと、裁判官たちが有罪だと言ったことに対して、非常に偉い人だから間違いはないだろう、経験を積んだ裁判官がやるのだから、と思ってきたことを、実はひとりのお母さんの発言によって打ち砕かれたと言ってもいいと思ったのです。

 もう一方で、刑法学会という学会があります。そこに平野龍一先生という東大の先生がいました。その先生が刑法学会で「もう、日本の刑事裁判は絶望的である」とおっしゃった。なぜかと聞くと、「検察が起訴するとほとんど有罪、判決は九九・八六%有罪。ほんとにわずかしか無罪にならない。そういう裁判なのです。もう陪審制とか参審制とかを入れない限りはどうしようもない」ということを発言されたのです。

 当時、私は学生だったですから、実務には参加していませんでしたが、平野先生がそうおっしゃるというので、本気に市民の司法参加を考えていかなければいけないのではと考えました。実は陪審員裁判の復活、国民の司法参加の実現ということで研究をずっとしてきたわけです。その間書いてきた論文をまとめたものを、『裁判員制度と国民の司法参加』という本にまとめてありますので、1冊ここへ置いておきますから、興味のある方はお読みいただければと思います。

 それで、なぜ国民の司法参加が必要か。裁判員裁判も国民の司法参加の1形態で、本当は、私たちは陪審員制度を導入すべきだと考えていました。日弁連も、陪審員制度を主張していました。妥協の産物として生まれたのが、裁判員制度です。従って、後で、横田先生の方から、いろいろな問題をご指摘いただけると思いますが、不十分な点、改善しなければならない点があるだろうと思います。陪審賛成のグループの中でも意見がわかれました。陪審員裁判でない、こんな中途半端な裁判を導入することには反対であるという意見もありました。

 ただ私は、ずるいのかもしれませんが、仮にこれに反対すれば、今までの制度に逆もどりする選択肢しかないのではないかと考えました。そのことがひとつの危惧だったので、泣く泣くと言ったらいいでしょうか。裁判員裁判が始まったら、これをどうやって国民の権利を守るために運用していくかということの方に現実的な路線として転換していくというのが私の立場です。

 国民の司法参加の意味ですけれど、国民の司法参加の制度というのは、いろいろな国が採用しています。ご存じのように、イギリスが発祥の地ですが、アメリカ、カナダ、これらは陪審員制度を持っています。ドイツやスペイン、イタリアは参審制度という制度を持っています。

 陪審と参審はどこが違うかというと、有罪、無罪を決めるのに、一般の市民の方だけで決めるのが陪審制度です。それに対して参審制度というのは、一般の方と裁判官が一緒になって評議をして、有罪、無罪を決める制度を一応参審制度と呼んでいます。

 ただ日本の制度というのは、先程紹介がありましたように、3人の裁判官と6人の裁判員、つまり市民の代表として選ばれた方が一緒になって、有罪、無罪を決めるし、量刑を決める制度です。これは、実はフランスの制度がそうです。フランスの制度は参審制度と日本の学者はいうのですが、フランス人自身は陪審制度と言っています。では、フランスと日本でどこが違うかというと、フランスは裁判官3人に対して一般の市民が9人。ですから一般市民の数が少し多いという点に違いがあります。

 それで、そういう先進諸国がなぜ、国民の司法参加を実現しているか。これは、陪審員制度のところで言われたのが参審制度論者に援用され、同じことが言われているのですが、1つは民主主義の象徴であり、民主的な司法制度としてやはり国民は司法に参加しなければいけないと言っています。2つ目は国民の自由の保証に非常に役立つのだと言っています。3つ目は、裁判官だけにやらせるのではなく、一般の方が入って社会的常識を持ち込んだ判断を示した方が優れた事実認定能力を持った制度になるということが言われています。

 

・裁判員制度で変わる司法

 それで、裁判員制度の特色については先程紹介があったので飛ばします。時間がないので端折りますが、裁判員裁判が実際に始まるまでにいろいろ議論がありました。仮想して、始まったらこうなるだろう、ああなるだろうと議論がありました。ただ裁判員制度は、先程ご紹介があったように、すでに2件行われました。この秋からどんどん各地で裁判員裁判が行われていくことになります。裁判員裁判が行われることを契機としていろいろな変化が現れてきています。どういうところに現れてきているかというと、一番大きなのは「調書裁判」が崩れている点です。精密司法だとかいろいろなことが言われますが、所詮は警察官・検察官が捜査の中でつくった調書、自白調書、それから証人の調書、目撃調書、そういうものに基づいて、それを裁判官が読んで判断をするというのが従来のやり方でした。私も弁護士登録してわかったのですが、もう、捜査段階で自白をしたら、公判に行ったとしても絶対にひっくり返らない。裁判官たちは「そんなことを言っても全部、捜査の時の調書があるじゃないか」と。検察官は「あなたね。ここに署名捺印があるでしょ。読んでもらって、その内容に間違いがないと、署名捺印したでしょ」と言われるわけです。もちろん、そこに到るまでにはいろいろな脅かしだとか、暴力だとか、様々なテクニックが使われて、それで、この調書に至っている。こうしたことは枚挙に暇がありません。たくさんの事件で、そういう報告があります。当然、弁護士も「いや、確かに、ここには署名捺印があるけれど、被告人は、取り調べの中で脅かされたり、暴力を振るわれたり、拷問にかけられたりしながら、泣く泣く最後に諦めきってしまって、署名捺印したのです」というふうに言っても、裁判官はそれを証拠として採用し判決を下してきたのです。

 ある意味で、私たち学者の中でも、どうやったら調書裁判から脱却できるかということが大きなテーマでした。裁判員裁判ではこれはほとんど使えなくなる。結局、証人が出てきますので、証人を見て、話を聞いて、それから凶器などの証拠物を見て、それを判断する。実を言うと、これを刑事訴訟法の大原則である「直接主義」といいます。なぜかというと、密室での取り調べというのは、警察官はこう話しましたと言っても、そこで何が行われているのか分からないわけです。我々は、その人が言っていることが信用できるかどうか、証言態度を含めて判断するわけです。わかりますね。その弁護人の再尋問に対応して話す証人たち、検察の尋問に対して答える態度を見て、こいつは、ウソをついているとか、そらとぼけているのかどうか、いや、この人の言うことは信用できるとか。そういうようなことも含めて判断するのです。証人の話を直接聞いて、その証言態度を含めて、どうかということを判断することが必要だというのが直接主義です。ある意味では、調書裁判はその直接主義がなおざりにされてきたと言える。裁判員裁判ではこれは確実にそうなります。

 それから、あとでこのことについては、横田先生に少し議論をふりたいと思いますが、取り調べ過程の可視化というのは非常に大きなテーマです。もうひとつは、死刑問題というのは、国民的議論として大きく取り上げられた。その点についても、横田先生に、後でご指摘いただけると思います。

 それから、この間で大きく変わってきたのが、保釈の関連です。逮捕したら、裁判が終わるまでとじ込めておくということで、人質司法などと弁護士たちが言うのですが、それが、かなり弾力的に運用されるようになったという報告があります。まだ確実なデータとして確認されているわけではありませんが、個別の報告としては保釈がゆるやかに運用されているということが、言われています。とくに、公判前整理手続きが済んでしまうと、保釈が認められる例が増えています。

 他に、裁判員制度に対する批判というのを大きくまとめておりますが、ここは横田先生におまかせしたいと思います。非常に雑駁な話でしたが、予定の時間を経過してしまいました。

 

〔司会〕ありがとうございました。もっともっと、言いたいことがたくさん、お有りのところ時間を区切って申し訳ありません。それでは、横田先生、お願い致します。

 

狭山事件と裁判員裁判━裁判員裁判は被告の権利を守れるか(横田)

 〔横田〕 横田雄一と申します。座っていますと、みなさんのお顔が見えませんので、立ったままで失礼致します。立っていますと、みなさんが私の話を聞いていらっしゃるのか、眠っていらっしゃるのか、よくわかるのです。(笑)

 眠るというのは悪いことではないですよ。それは私に対する、おまえの話はダメだということのメッセージなのですね。そうすると私は、もっとわかりやすく言おうか、もっと面白い話を間に入れていかないといけないかとか、反省の材料になりますので、つまらなかったらどうぞ、眠っていただいていいです。(笑い)

 最初に、私の立場ということで、若干の自己紹介をさせていただきますと、私は寺尾判決が出た年に弁護士1年生です。そして、大方の予想を裏切って、石川さんの有罪が維持されたということで、当時、寺尾判決後、全国から1000人の弁護団をつくるのだと。というのは、自由法曹団系の、共産党系の弁護団がおりたということもありました。そういうのがあったのですね。当時、私は東京にいましたけれど、東京からも若手が大勢参加しました。けれども、今残っているのは私ひとりでございます。

 そういうことで、狭山事件に関係しましてもう34〜5年たつのです。そういうことですので、私はこの裁判員制度について論じる時も、狭山という非常にせまいというか、ひとつの窓口から眺めるしかない。鯰越先生のように学者でもありませんし、一法律実務家にすぎませんので、そういう限界があるということを最初にお断りしたいと思います。

 

・狭山再審に新たな動き━3者協議、証拠開示が焦点に

 それで、狭山と裁判員制度が、今、どんなふうに関係があるのか。あるいはないのか。その辺からお話しようと思います。

 最近になりましてね、狭山の門野裁判長の方から、3者協議をやりますと。3者というのは、裁判所、検察官、弁護人の3者の協議をやりまして、そこで証拠開示の問題であるとか、検察官との意見のすり合わせを軌道に乗せたいと。そういうお話があったのです。これは6月25日に、弁護団と門野裁判長ともうひとりの陪席裁判官が集まっている中で、直接、私どもにそういうお話がありました。そして、その3者協議は9月に行われることで日程も決まりました。そこには検察官も当然出てくるわけです。こういう3者協議は、聞くところによると、30年前に1回あったというのですね。そのころすでに私は弁護団に入っていたのですけれど、全然覚えていない。で、この30数年のあいだ3者協議をやったということを、他の弁護人や狭山裁判の関係者が話しているのも聞いたことがないですね。それぐらい狭山事件にとっては、3者協議というような慣行はまったく風化してどこかに行ってしまっていました。その3者協議が30年ぶりに実現するということがどういうことか、というのがひとつあると思うのです。

 それで、狭山事件と裁判員制度との結びつきなのですけれど、一般的には再審開始決定ということになりますと、起訴状朗読からやり直す再審公判というのがあります。この再審公判の方は裁判員制度にのるわけですけれども、ただし、法律の付則4条に書いてあるのですけれど、今年の5月21日までに確定した事件については、適用はないということです。従いまして、足利事件は、この間再審開始決定がありまして、年内に再審公判が開かれるでしょうけれど、裁判員制度ではない。従来通りの裁判をやるということになるでしょう。従いまして、表向き、狭山の再審事件が裁判員制度に直接のるということは、もう法的にあり得ない。しかしながら、この裁判員制度が、5月から始まっているという中で、裁判員制度と狭山事件とがまったく無関係ではないのですね。どういうことかと言いますと、今の門野裁判長という人が、もちろん裁判官ですから国家の役人ですけれど、同時に、同じひとりの人格の中にリベラリストの要素も他の裁判官に比べるとかなり含んでいるというふうに、私は見ているわけです。

 この門野裁判長は証拠開示の問題に熱心なのですね。この1年か2年の間に、取り調べの時の捜査官が自分でつくった取り調べのメモですね、備忘録といってもいいのです、供述調書の案といってもいいのですけれど、そういう取り調べ書類を開示せよという弁護人からの請求に対して、広島、名古屋、福岡、東京4つの高裁が全部だめだという判断を出した。ところが、門野裁判長は、1昨年の11月のことになるのですが、高裁段階では初めて、取り調べメモについての開示命令を認めたのです。当然、検察官からは高裁判例違反だということで、最高裁に特別抗告がありました。特別抗告を受けた第三小法廷は、12月に認めてしまったのですよ。門野決定を認めた。年があけまして、2008年、去年の6月と9月に、さらに追いかけて、最高裁がふたつの決定を出しまして、連続3つの最高裁決定が出ました。その結果、開示する範囲としては、取り調べメモも含まれるということにかたまってしまいました。それから検察官の手元になくても、警察の手元にあれば、検察官は容易にそれを入手できるのであるから、それも対象になるよと。検察官が開示することによって弊害が有るとか無いとか何も言わないときには、弊害が無いものとみなして開示するとか、非常に証拠開示の範囲が、最高裁の3つの決定によって広がってきたと言われています。

 実はこれは、裁判員制度の開始とセットで刑事訴訟法に組み込まれた公判前整理手続き、それから公判間整理手続きの中の証拠開示制度に関する判例なのですね。ところで、再審事件については、刑事訴訟法のなかの証拠開示の規定、再審の規定からおしていくと、再審事件にそのまま適用されるというふうには、読めないわけですね。従って、当然検察官は、刑事訴訟法の証拠開示の規定とか、それにからむ最高裁の3つの判例は再審事件には適用がないのだと言ってくると思ったのですけれど、案の定、先月の24日に袴田再審事件の、これまた第1回の3者協議の席上で、検察官がそういう主張をしたということを聞きました。裁判員制度開始に伴う証拠開示の範囲が、拡大してきた流れが、再審事件にまで波及しては困るというのが検察官の立場なのですね。それを許すか許さないかというのが、実は狭山再審事件においてどうなるかということで、話が変わってくると思うのです。

 なぜ、狭山が焦点になるかというと、要するに、今、狭山をやっている門野裁判長が、こういう波をつくり出した張本人なのですね。検察官からみれば、一番のワルの裁判官です。且つ、狭山事件は、ご承知のとおり解放運動その他、強力な運動体がいます。

 ちょっと10年以上前になりますけれど、1998年ごろには、この開示運動が非常に盛り上がりまして。国会の法務委員会において追及するとか、あるいはジュネーブの国連人権委員会の日本政府審査の場に出掛けて行って、日本政府に対する証拠開示の勧告を勝ち取るとかいうことで、証拠開示につきましては、運動の実績を積み重ねているわけです。

 そういう狭山事件について、検察官が証拠開示をするのかしないのか。狭山だけではなくて、再審冤罪を抱える、すべての事件にとっての大事な、決戦と言ったらいいでしょうかね。それが近く行われるという関係にあります。

 いま、警察や検察は、証拠開示の問題に対して、非常に神経質になっていますね。車のナンバー読み取り装置について、警察庁も検察庁も、こういうものがあるということを被疑者にわかるような質問をしてはいけないということを、末端まで徹底しているのですね。

 というのは、そういうことを被疑者が知ると、証拠開示の請求が出てくる。裁判所が開示命令を出すかもしれない。それは避けたいというのです。実は、この車のナンバー読み取り装置については、すでに裁判所の判断が出ているのです。地方裁判所が、証拠開示の対象ではないと判断を出して、最高裁もそれを支持している。だから別に検察はそれ程心配する必要はないはずなのですが、要するに、過剰防衛といいますか。証拠開示が拡大していく流れに対する、検察側の危機感が非常に募っている。こういう情勢にあることを踏まえて私たちは今、やっていかなければならないのではないかと思います。

 これは全く一般論ですが、日本軍の戦争の仕方ではありませんけれど、相手が油断している先に攻撃をかけるのは比較的うまくいくのですね。相手が危機感をもって、真剣に構えている時に、これを攻めるというのは難しいのですよ。こちらの犠牲が大きい。しかし、それは心配いらないと私は思うのです。少なくとも狭山をやっている者からすれば、狭山の勝利なくして、部落解放なしということで。しかも、もう40年から50年もかけて戦っていても、狭山が勝利しない。これに勝る危機感はないだろうと思うのですね。だから私たちには、検察官の、つまり司法官僚としての危機感とは違う質とレベルの危機感に突き動かされているのですから、十分対峙して勝っていきたいと思います。

 先程申し上げた、最高裁の3つの決定というのは、捜査官の取り調べに関するものでしかなくて、私たちが要求している証拠開示は、もっと範囲が広いわけですから、それに対して、検察官が全部拒否しきれるのかどうか。全力を挙げて取り組んでいきたいと思うのですね。

 で、このことは、すでに運動体の最高リーダーの方も敏感に受け止めまして、9月以降、この証拠開示の問題に全力を挙げて取り組むと、決意を伺っております。そういうことで、みなさん方にも、また、よろしくお願いしたいと思うわけです。

 

・国家犯罪、冤罪に荷担する裁判所

 それで狭山事件の本質に立った危機感ということに、少し立ち返りたいと思います。私が今更言うまでもないのですが、狭山事件というのは部落差別に基づく冤罪事件であり、国家が自ら招いた危機から脱するために、無実の部落青年を生贄にしたという、そういう事件だということは、私が弁護団に入ったころに盛んに言われていました。今でも、その点は正しいのだろうと思います。国家犯罪による冤罪事件であると規定してかまわないと思うのですね。

 ところが、国家犯罪というと、国家がそこに係わるわけですから、国家というのは、なかなか自らの過ちを認めるところではない。ご承知の通り、90年代から戦後補償の裁判が10数年に渡り展開されてきていますが、国はついに、国とは、裁判所ですが、法的な責任を認めませんでした。日本の侵略戦争によって人権を侵害された方々の賠償請求を、法的な責任がないという形で突っぱねてきたというのが、日本の裁判所、国家機関であるわけですね。そういうことで、国家というのは、自分の誤りをなかなか認めない。国家犯罪だと言いながら、これに勝てるのかという問題があるのですね。

 差し当たり、今日のテーマは裁判員制度ですから、これとの関係を考えますと、裁判員制度によって、国家犯罪のような事件を裁けるのかというのが、私のメインテーマなのです。

 狭山事件そのものは、女子高校生が殺されたという、いうなれば通常の事件ですけれどもそのことによって、国家が大変な危機に陥ったということがありまして、政治がらみの事件になってきたという経緯があります。そして裁判官というのは、先程申し上げましたように、国家の役人という面を色濃く持っております。私どもが接触してきた何十人という裁判官は、大体、顔を見ただけで官僚裁判官だというような人が多かった。事実、狭山は敗北させられ続けてきたという現実があります。

 それで、国家犯罪ということは本当にあるのかということが、ひとつあります。そこで簡単に日本の近現代史を振り返ってみますと、私が一番痛哭に思うのは、明治の末年に起こった大逆事件なのです。これは確かに、それらしいことをやった人は数名はいたとは思うのですけれど、26人の人が裁判にかけられて24名が死刑だと。半分の12人は恩赦になり死刑執行は免れたのですが、12人が執行された。その中には、まったく無関係の人が多く含まれているわけです。死刑を減刑された人も、獄中で死んだりして大変不幸な人生を余儀なくされている。周辺の家族の方々も、もちろんそういうことに巻き込まれているということで。私が胸の中で一番熱く考えているのは、この大逆事件のことなのです。

 戦後、再審請求があって、それが蹴られました。つまり、明治憲法下の天皇制絶対国家の裁判が悪かったのは、ある意味では、そういう時代だったと諦めもつけられるかもしれない。けれど、象徴天皇制を戴く新憲法下の裁判所が、大逆事件のあの間違った、国家が無実の人を虐殺したような事件についての真相解明の絶好の機会を自ら逃した。こういうことは要するに、先程申し上げました戦争中の日本の犯罪を戦後の裁判所が法的に違法と認めなかったこととつながる問題だと考えるわけです。

 時間がありませんので、大急ぎでいきますと、戦後の松川事件。非常にきわどい、ようやく一票差で差戻しになった事件です。その関係者の起訴検事は、責任をとらされるどころか、その後ちゃんと出世しています。最近は、飯塚事件というのがありまして、この人は逮捕から裁判中も、一度も自白をしていないのですね。そしてDNA鑑定が、足利事件と同じころのものであって、再鑑定すれば、どう転ぶかわからない事件なのですけれど、昨年、死刑執行されています。再審請求を、今、準備中と聞いておりますけれど。12年前からと聞くのですが、足利事件の弁護団には、最初のDNA鑑定が間違っているということが判っていて、裁判所に何度も再鑑定を迫っていた。けれども、10年前後の時間を空費し、その間に真犯人については時効を完成させてしまっている。飯塚事件では見直すチャンスがなく、死刑執行されてしまった。裁判所も冤罪事件に荷担しているというのが注目される点です。

 私の仲間で、裁判員制度に反対している弁護士の間では、今の日本の司法が抱えている問題というのは捜査段階の問題が大きいとの考えがあります。逮捕拘留の期間は23日ですね。別件逮捕を加えれば、狭山事件の場合46日にもなっているのですけれど。そういう長期の拘留、身柄拘束があって、しかも代用監獄に入れておいて。しかも狭山の場合、なかなか自白しないものですから、保釈と同時に警察署の構内を出ないうちに再逮捕して、川越分室に放り込むと。これは、本人にとっては、ものすごくショックなわけです。ショックになっていますから、一番あぶない時なわけです。この一番あぶない時に、事実上弁護士との接見をさせない。そういう重大な違法性を含む別件逮捕だったわけですが、裁判所はそのことを違法と認めなかったというようなことがあります。そういうことで狭山事件の例からいっても、捜査段階の改革こそが重大であって、そちらが先行されなければ。主な原因は裁判制度の方ではない、という意見があります。これは一応は理解できるのですが、先程申し上げましたように大逆事件から飯塚事件を貫くこの流れを見てみると、裁判所に、まさに相当の責任があると言わざるを得ない。

 

・被告人の権利としての陪審裁判

 この日本の裁判を改革するためには、陪審裁判がいいのではないかというふうに、考えているわけです。

 大急ぎで、裁判員制度の問題点をあげますと、この制度設計は、民衆が下からもぎ取った下からの民主化では決してない。最初に自民党が言い出し、政府が国会に提案し、最高裁や法務省等を巻き込んでいくという形で、上からの改革です。

 上からの改革で、なにがしかのメリットが出れば、そのメリットは誰が吸収するのかということもわからなければいけないことなのですが、当面、裁判員制度についてひと言申し上げたいのは、被告人の権利を増進させるためにこの制度は考えられたのではないということです。

 私が思いますのは、今、G8で、陪審にしろ参審にしろ、なんらかの意味で国民参加の裁判制度を持っていないのは日本だけなのですね。5月以降はやっと持ったかたちですけれど。すでに80数カ国以上が、こういう国民の参加する制度を持っている。日本は非常に遅ればせに参加した。なぜ日本は、経済大国第2位ということで先進国のつもりでいても、こと裁判手続き、刑事司法手続きについては、こんなにも遅れているのか。その原因を深くえぐりだす必要があるのではないかと思います。

 アメリカの場合は、憲法修正第6条で、陪審裁判というのは、被告人の権利として規定されているのですね。逆に日本の裁判員制度の方では、対象事件の被告人は、裁判員裁判を受ける義務があるということで、権利と義務が逆転しています。

 もうひとつ大きいのはアメリカ、イギリス、オーストラリアなどの陪審裁判は、被告人の権利だというふうに観念されていることです。陪審裁判は、公平であるから被告人にとって利益になるという観念があります。どうして利益かというと、否認事件、自分が犯人ではないと、争っている事件だけを陪審裁判にかけるわけです。そうすると検察官は、合理的な疑いを入れ得ない程度にまで立証する責任がある。この立証義務を検察官が果たしたか、否かというのは、誰が、どういう基準で判断するのかということになってくるのですけれど、それは同じ地域の住民市民12人が、全員一致で検察官は合法的に疑いを差し挟む余地がないほどの程度に立証したと感じた時に、はじめて有罪になると、こういうものでありますから。被告人の権利を守りつつ、事案の真相を明らかにするという刑事訴訟のそもそもの目的が、目に見えるかたちで、はっきりと陪審裁判はそのことを示していると思うのです。

 冤罪事件というのは、全体からすれば非常に数が少ない。数が少ないから重大事件というわけではないのですが、実際には、裁判員制度は、量刑を中心に行われているわけですね。陪審裁判は、陪審員の仕事は有罪か無罪かを決めるだけで、量刑は裁判官が決めるわけです。で、日本の場合、ほとんどの裁判員裁判は、量刑をどのぐらいにするかということで裁判員が参加すると。こういうかたちになるという点で、決定的に違うように思います。この裁判員制度を制度設計された方の念頭に、被告人の権利を擁護する、あるいは増進させるという意図は、まったく無かったと思います。

 例えば、最近、電車のなかの痴漢事件が非常に増えています。これ、大変、男として女性に対して申し訳ないと思うのですが、あまり多いものですから、途中から方針転換して、女性の言い分だけで裁判をするようになったのですね。そうすると、間違いが続出してきたのですね。それで、痴漢冤罪事件という言葉が生まれて、この事件の全国の弁護団が協議会をつくるというようなことにまで発展してきています。この痴漢事件の中心は、強制わいせつです。強制わいせつ事件というのは無期懲役がないのです。無期懲役がないものですから、裁判員裁判の対象にならないのです。ですから、間違って起訴された方は、裁判員制度の方が有利だからと、裁判員制度でやってもらいたいと思っても、法律では対象外ですから、権利としては規定されていないのですから。本人が、裁判員裁判をやってもらいたいと思っても、やってもらえないのです。

 そういう制度だという決定的な違いがあるということを、とくに申し上げておきたいと思います。時間がきましたので、第2部の予告をさせていただきたいのですが、裁判員制度は、今や、この制度がいいか悪いかという、理論的、抽象的な議論の段階を過ぎまして、今月、ご承知の通り、東京と埼玉で、裁判員裁判が行われたのですね。そしてメディアなどの論調を見ますと、市民感覚が裁判に持ち込まれて、非常に良かったとされています。

 そこで、私は裁判所に持ち込まれる、一般市民の市民感覚とはいったい何なのだと。この市民感覚は、東京地裁の判決には、どう表れたのか。埼玉地裁の判決には、どう表れたのか。市民感覚というと何かわかったような気がしますが、実態は何なのか、ということについて、事実に則して少し議論をさせていただきたいと思います。

 

〔司会〕 どうもありがとうございました。裁判員制度に、絶対賛成、反対と真正面からと思ったら、そうでもないようですね。共通していたことを確認させていただきたいのは、市民参加、あるいは司法の民主化といった、目指すところは陪審制がいいというところでは、お二人とも一致ということでしょうか。

 

〔横田〕 ただ、状況判断として、今の日本の現実を見た場合に、陪審員制度を実現する可能性があるだろうかと。上からの改革であるにしろ、一歩動きだしたのだから、これを拡大していけばいいのではないかと。要するに改良か革命かという違いですね。

 

〔司会〕 もう、まとめていただいた通りですね(笑い)。この上で、お二人に議論をお願いしたいと思います。

 

裁判員裁判から刑事司法の改革へ(鯰越)

〔鯰越〕 私の方から補足的に。横田先生から、もう少し手厳しい反対論を展開していただけると期待していたのですが、先生も私もずっとやってきましたからね。今の、一番大きな問題は、職業裁判官による裁判がいかにダメかと、信用できないのかという、その出発点が一致していますもので。だから、まあ、変えなければいけないという方向では、一致しているわけです。

 

・権利として市民の司法参加を規定している憲法

 そこで、先生の中で、ちょっとだけ気になったことは、裁判員裁判が、被告人の権利としては規定されていないと言われたものですから、それは、ちょっと違うと思います。うちの新潟大学というのはおもしろい大学で、西野喜一という、裁判官から民事訴訟法の先生になった人がいまして、その人が今や裁判員裁判反対論のバイブルだといわれるような本を書いているわけです。日本は言論の自由は保障されていますから。どういう意見を述べてもいいのですが。

 憲法37条1項の英文というのがあるのです。日本国憲法というのは、面白くて、憲法正文が英語版と日本語版があるのです。だから公報というのがありますが、何が正文かというのは公報に載せられたものが正文とされるのですが、英語バージョンと日本語バージョンがあったということなのです。それで私どもが使っている六法全書でも英語版が載っているのです。模範六法とかでも、日本文の憲法の条文とね。知らなかったでしょ? だけれども英文がちゃんと載っているのです。大日本帝国憲法も載っていますが、それは資料というタイトルで載っているはずです。

 それで何を言いたいかというと、37条1項は、何と書いてあるかというと、

In all criminal cases the accused shall enjoy the  right to a speedy and public trial by an impartial  tribunal.

 これは、被告人の権利、すべての刑事事件において、被告人は迅速、公開の裁判を受ける権利を有する。何によってかというと、by  impartial(公平な)裁判所の裁判を受ける権利があると、されています。

 ところがです。裁判所の用語はふつうcourtと言うのです。この37条1項は、tribunalと書いてある。トリビューナルとは、英米法での常識なのですが、職業裁判官だけで構成した裁判所ではなくて、市民の参加した審理態のことをトリビューナルというのです。もともと憲法は、国民は市民が参加した裁判所の裁判を受ける権利があるというのが、要するに英文なのですよ。だから西野喜一さんもこの条文に一切触れないのです。だから裁判諸法の中に刑事事件については、別に陪審諸法を設けることを妨げないという規定が戦後おかれたのです。なぜかというと、これを引いているからです。

 戦後改革の時に議論がありました。戦前に陪審員裁判があったことをみなさんご存じだと思いますが、昭和3年から昭和18年の間に15年間、陪審員裁判がありました。大日本帝国憲法のもとですから、かなり問題のあるものでしたが、いずれにしろ陪審員裁判が15年間行われたという経験がありまして、戦後に陪審員裁判を復活すべきだという動きがあるのです。ですから、民間の人たちが民間の草案をつくった。その時に、共産党などを含めて、野党は司法改革として、陪審制を復活せよという要求を出しているのです。それで政府の答弁は、今はそんなことを言っても、みんな食うか食われるかわからんような戦後の焼け野原の中で、とてもそれは無理です。だから戦争による社会的混乱が収まったら、速やかに復活しますと言っています。それから60年かかっています。

 だから、もともとは被告人の権利として規定されているということなのです。そこのところをある意味で憲法学者も理解していなくて、英文について指摘したのは、たぶん学者では私が最初だと思います。それで司法制度改革の時にも憲法論が出ましたが、いや、憲法では、ちゃんと規定していると指摘しました。

 そこで、横田先生の言われたアメリカの憲法修正六条ですが、あそこでは違って、

In all criminal prosecutions the accused shall  enjoy the right to a speedy  and public trial by an  impartial  jury.となっています。

 何で日本国憲法ではここはimpartial  juryではなくtribunalになったかというと、この時に、まあ今回もあったのですが、参審論者と陪審論と相当な議論をやったのですが、国民の司法参加の形態として、陪審がいいのか参審がいいのかという議論がかなり行われていました。陪審も参審も英米法で言うと、tribunalなのです。市民が参加した裁判態、審理態ということで、juryと憲法で定めてしまうと、陪審法を定めなければいけませんので、そこではtribunalという規定にしておいて、裁判法のなかで陪審法を復活する、ないしは定める。別に陪審員の法律をつくればいい。法律のランクをひとつ落としたのですね。

 そういう経緯があるのです。この本(『裁判員制度と国民の司法参加』)の中に詳しい話は書いていますので、後でお読みいただきたいと思います。憲法問題につきましては、そういうことです。

 

・刑事司法総体の改革へ

 それから、横田先生が非常に大事なことをおっしゃった。何かというと、今、裁判員制度が、賛成か、反対かという話が出てきて、そこにフォーカスが当たっていますが、実をいいますと、刑事手続き総体の改革を抜きにしては、前に進まないのではないか、むしろ悪くなるのではないかという懸念が、言われていのです。

 どうしてかというと、足利事件があげられていましたね。足利事件も、裁判員裁判にかけられても、裁判員は有罪とするだろうと思います。O・J・シンプソンのアメリカの公判でも、イギリスでも、陪審が冤罪防止の完全な保証になるかと言われると、ならないのです。誤判は参審制の国でもあります。いわゆる裁判員裁判で、私はひと言も、それが、冤罪、誤判をなくす特効薬だとは言っていません。

 どこに問題があったかというと、イギリスでもアメリカでも、それから足利事件でも捜査に問題があった。だから、裁判員でも、捏造された証拠を出されたら、そこまで見抜けというのは無理です。だからそういう証拠が出されないように、その証拠の捏造をあばくのは、やはりプロである弁護士だとか、裁判官の役目です。

 ただ、どこが違うか。イギリスでも、「父の名のもとで」(邦題『父の祈りを』)という映画になりましたが、IRAのテロ事件が盛んな時期で、テロに参加したとして四人の被告人が起訴され、有罪とされました。その後、誤判だとわかる。そしたら、政府はその誤判原因を調査し、その誤判を生み出した制度を変えるため、ものすごく巨額の予算を組んだのです。なぜかというと、日本だったら、誤判が生まれたとしても、今までだと裁判官が悪いと言っておけばすむわけです。ところが、イギリスでは陪審でしょ。俺たちを騙したと思うわけです、国民がみんな。自分たちが、あの誤判に手を染めたという意識がある。だから、どうしてそんなことになったか、その原因は徹底的に解明しなければならない、そして間違っている点があれば、徹底的に改革しなければならない、ということにつながるのです。

 それで、どういうことが起こったかというと、取り調べ過程の全面可視化です。全部ビデオレコーダーで取り調べ過程をとるということが始まったのですよ。当然ずいぶん予算がかかるわけです。だけど、それを国民は認めるわけです。なぜか。自分たちが誤った判断をしないですむための方策を考えなければいけない。そう思うでしょ。自分たちが陪審員になった時に、警察が証拠を捏造したり、虚偽自白を平気で出してきたりしたら、もしかしたら自分たちは間違った判断をして、無実の人に死刑判決を言い渡してしまうかもしれないでしょ。イギリスはどうしたかというと、その誤判事件が明らかになるまでは、死刑制度を持っていました。イギリスも死刑があったのです。死刑制度を廃止しました。

 だから、さっき横田先生が紹介した飯塚事件、あれは足利事件と同じ鑑定で、DNA鑑定で有罪にされました。みなさん方が仮に裁判員になって誤った鑑定を出されたら、頭にくるでしょ。とんでもないと思うでしょ。だけど今までは、少なくとも私たちは、刑事裁判に関与していませんから、私たちの問題として捕らえる必要がありませんでした。死刑問題もです。

 裁判員制度というのは、先生がご指摘の通り、このままでは欠陥があるのです。3年後に見直さなければいけないと思っているのです。その脆弱性の問題も含めて、捜査の可視化の問題も含めてです。

 イギリスでは、証拠全面開示というのも、そこから進むのですよ。検察が手元にかくしている証拠を全部明らかにしろと、全部明らかにしろというのは、理解しにくいと思いますが、証拠リストを全面的に見せろという話なのです。そこのところを日弁連は証拠全面開示ということばかり言ったので、少し誤解を生じたのですが。検察官は一体どういう証拠を持っているのか、狭山の場合もそうですが、どういう証拠が手元にあるのかということをすべて明らかにする。それで、明らかにできないのはどうしてかということを検察側が証明しないかぎり、明らかにしなければいけない。弁護側に示すというルールなのです。

 ですから、裁判事務手続きの証拠開示だとか、いろいろなところで、かなりイギリスの証拠開示制度が参考にされています。そういう経緯があって、私はイギリスの制度を参考にしながら、ずっと研究を進めてきたのですが、そういうことを少し、ご理解いただければと思って話をしました。

 ひとつ裁判員制度というもので市民の方が刑事事件に関与するようになれば、他のところに響いてくる。捜査だとか全部に響いてくるということです。また逆にいうと、先生がご指摘になったように、捜査の過程だとか、捜査のやり方だとか、保釈のやり方だとか、別件逮捕のようなやり方を変えさせていかないとおかしい。ただ、私は、今から変えていこうと思っているし、いろいろなところで言っているのは、新しい証拠開示にしても、法律ができましたが形式的に再審には適用しない、法律でそうなっています。だけれども、新しいこの証拠開示というのは、一般に、すべてに当てはまるべき制度の手続きなのです。それで、今までだって、どうしても必要な場合は、裁判官の訴訟指揮権に基づいて証拠開示というのは認めてきました。ですから、いままでは法律上の規定がなかったから、義務がなかったけれど、裁判官たちも、証拠開示の重要性というのがあって、ここで法律上明記されたでしょと主張できます。この精神に従って裁量権を行使するという理屈が成り立つのです。

 以上、少し長くしゃべりすぎました。

 

陪審制との決定的な違い(横田)

 〔横田〕 あまり対決点が、鮮明にならなくて。(笑い)

 追いかけて、ひとこと言わせていただきます。陪審制と参審制との最大の違い。日本の裁判員制度は、参審制に近いですね。日本の裁判員制度の例で申し上げます。イギリスやアメリカの陪審員制度の場合は、事実認定については陪審員が完全に握っている。有罪か無罪かの判断は陪審員が握っていて、裁判官は法律問題については教えるけれども、事実については口を挟んではいけないとなっている。

 ところが、日本の裁判員というのはですね、争点を整理したり、取り調べの証拠の範囲を決めたり、日程を決めたりする、重要な公判前整理手続きには参加しないのですね。そこで、裁判官は心証をとることはないのだと、大出良知さんのような学者は言っておられますが、少なくとも、裁判官、弁護人、検察官と裁判員の間には当初から情報格差がある。それから協議についての秘密保持についても、これに違反すると懲役6カ月、乃至、罰金50万円という罰則がついているのですけれど、これは裁判員にだけついていて、裁判官にはついていないです。

 ということで、日本の裁判員とは、裁判の脇役、二流市民なのです、私に言わせると。イギリスやアメリカでは、12人の市民が完全に事実認定について全権を握っているわけですね。これなら司法における民主主義だと。こんなにわかりやすいことはないじゃないですか。日本でも、熊さん、八っさんたちが、有罪か無罪か決めると。なぜ最高裁は、民衆に事実認定の権限を渡さなかったのか。それは、やはり司法官僚が、自分たちの権力を維持するためだったと、私は思います。

 そういうことを、ひとつ言わせていただきまして。そして、ひとつ鑑定の問題を言いたいのですが、ご承知の通り、足利事件は新しい鑑定が出て、柔道で言えば鮮やかな一本勝ちをしました。狭山については、なかなかそうしたことがこれまではなかったのですが、明日の狭山分科会でお話しますが、狭山事件でもがっちり証拠がためをやってきているのですよ。

 やってきた経験のなかで、法医学もかなりやりましたが、どうしても法医学は、法医学の先生自身が、同じ問題でもAと言ったり、Bと言ったり、Cと言ったり様々ですから、裁判官も非常に口を出しやすいのですよね。要するに、自由心証主義というのがあって、自由に判断できるということがあって、一次的に決まらないのです。ところが、DNA鑑定を見ればわかるのです。裁判所はわからないわけですから、結局その結論を基礎にせざるを得ない。つまり、自由心証主義が入り込む余地のないような、厳密に一次的に決まる、要するに科学的な鑑定を中心にしなければ、狭山のように国家がらみの事件というのは、国家犯罪がらみの事件というのは、なかなか勝てないのではないかということを感じておりましたが、私の感じ方は、この足利事件によって、正しかったと証明されたのです。この足利事件というのは、非常な衝撃を日本の法曹界に与えているのです。例えば、門野裁判長も『判例タイムス』という専門の法律雑誌に文章を寄せていますが、その中で「足利事件があって…」と書いています。

 そのキーワードは何かというと、最新科学の活用なのです。何百ページの裁判書よりも、そちらの方が有効でしょうと。それでは、問題はそういう科学的鑑定が、狭山にあるのか、無いのか? 後は明日の狭山分科会で。

 

質疑応答

 〔司会〕 明日の狭山分科会にぜひともと、言うことですね。このあとは、みなさん、お話しになりたいことが沢山あると思いますので、フロア共々議論していきたいと思います。とくに、裁判員裁判がすでに2件行われています。市民参加の意義は見られるのか、また、横田先生から提起された市民感覚とは何か、実際に始まった中での問題点などについてもご意見を出していただきながら議論を進めていきたいと考えます。そして、裁判員制度は法律で3年後に見直すとなっています。全面的に止めてしまうのか、それとも、どういうところをどのように変えていくべきか、陪審制につなげる道はあるのかということについても、話をしていければと考えます。

 それでは、質問、ご意見をお願います。

 

・市民の運動からの司法改革の必要性、再審に陪審員制を

〔A〕 1977年に狭山の上告が棄却になり、青木英五郎先生が書かれた原稿を『狭山事件と陪審裁判』という岩波新書で出版する際にお手伝いしました。最後の後書きの部分をコピーしましたので、見ていただきたいと思います。青木弁護士は、「日本の刑事裁判には絶望した」とおっしゃっていましたが、陪審裁判に変える以外にないのではないかということを、最後、2ページのところに強調して書き加えてもらいました。

 そういった経過があって、冤罪事件に取り組んでいるいろいろなグループと一緒に「無実の人々を救おう!連絡協議会」を結成し、1982年、84年、86年には、劇団エルム企画の「十二人の怒れる男」の公演にあわせて、陪審裁判のシンポジウムをやりました。その時に「陪審裁判研究会(仮称)」を立ち上げて広く呼びかけ、倉田哲治弁護士や伊佐千尋さんと1987年に「陪審裁判を考える会」を立ち上げました。

 青木弁護士は、本の中で司法の民主化のためには「最高裁判事の任命方法、陪審裁判の実現、刑事訴訟法の改正」の3つが必要と結論づけています。

 先程のお話にもありましたように、「裁判員制度」というのは、あくまで司法改革のひとつの柱で、目標の「陪審裁判」のせいぜい半分までも行っていないぐらいだと思います。司法改革全体で言えば、「6分の1の改革」ということになります。

 なぜ、「陪審裁判」ではなく「裁判員裁判」になったかというと、やはり、この「陪審裁判」を求める動きに、一般市民や運動体があまり関わっていないからだと思います。従いまして、この「裁判員制度」を本格的な「陪審裁判制度」に変えるには、やはり国民の側からの動きが必要だと思います。

 そうした点で、この取り組みで重視したいのは、この最後に書いていますように、裁判員には年間30万人の候補者が選ばれ、10年間では300万人になるということです。その人たちが司法に関心を持つことになるわけですから、その人たちを中心に、裁判員裁判に関心を持つ人に広く狭山事件を訴えることが必要だと思います。もう一つは、やはり運動体として、今の「裁判員制度」の何が問題であるかいうことについて、改革の提案をしていくべきではないかと思います。

 それから「再審陪審制度」へ向けた取り組みが必要と思います。裁判官に裁判所の誤判を正してもらうということではなくて、やはり国民の目で裁判の過ちは正さなければならないと思います。

 私は、この狭山事件の本質を示しているのは、脅迫状の問題、筆記能力と思います。狭山事件の脅迫状を石川さんが書けたかどうかは、陪審裁判で多様な経験を持つ市民が判断すれば絶対に勝てると思います。陪審制度は、再審裁判にこそ必要な制度です。過去の事件といえども、陪審制度を求めていくといった取り組みが必要と思います。

 また、資料の最後にあるように、部落解放同盟では1991年11月には模擬陪審劇を行うという、先駆的な取り組みを行っています。鯰越先生にも出ていただき、解説をやっていただきました。石川さんのお兄さんの石川六造さんにも本人役で出ていただき、弁護士役では中山弁護士の感動的な弁論場面があります。明日、ビデオを上映しますので、ぜひ見ていただきたいと思います。

 陪審制の実現に向けて、狭山事件が最初に重要な役割を果してきたということを踏まえて、「裁判員制度」を本来の姿、我々の求める本来の「陪審制度」に変えて行きたいと思います。

 

・裁判員は裁判への強制動員、裁判員の守秘義務

〔B〕 今日のパネルディスカッションは、裁判員制度を、数々の問題点がありながらも推進するという立場の鯰越先生と、反対という立場を表明しておられる横田先生に出ていただいて、問題点が明確になって、よかったと思います。

 私は、前に庭山先生から、司法制度改革についての講演を聞いたことはあったのですが、いよいよ裁判員制度が始まるようになってしまってから、いろいろな反対意見を聞く機会があったり、書物を読んだりする中で、こんなのは、やってほしくないなという気持ちの方が正直に言って強くなりました。

 この制度にはいろいろ問題点があるのですけれど、まず私たちが、選ばれた時に、それを原則として「辞退」することはできないこと。

 また、裁判員をやった場合の守秘義務についても、いろいろ、細かい罰則規定があります。また被告人が選択できない、裁判員裁判を希望するか、あるいは普通の裁判官でしてもらいたいと選択することができない点。さらに公判前整理続きで、大事なことは決められてしまい、しかも、それが非公開で行われるというようなことで。その辺が、一番、大きな問題点と思う点です。

 ただ、いろいろとお話を伺っていて、問題だらけでも、そこに実際に市民が参加することによって、何か変わってくることもあるのかなという可能性については、全否定することはできないと思いました。

 私としては、裁判員になってくださいというふうになったときには、現時点ではとりあえず、拒否しようと思っているのですが。そうでなくて裁判員になった人は、守秘義務などにあまり縛られず、こうだったというのを、どんどん発言するとかですね。そういうことで、罰せられるのかどうかわからないのですが、ぜひ発言してほしい。いろいろな闘い方があると思います。

 あと、先程、Aさんの方から、狭山事件の中で、石川さんの文章構成力、書記能力、筆記能力の問題があると、おっしゃっていましたが、明日の分科会でも、だいぶ古い資料ですが、狭山資料の後ろの方に、石川さんの手紙という原稿を載せています。明日の、狭山分科会にも、ぜひ参加していただきたいと思います。

 

〔C〕 全く勉強不足で、こんな素朴な質問をしていいのかと思うのですけれど。もしも裁判員に選ばれた時に、この問題について意見を保留する、有罪か無罪かという判断、あるいは判決について意見を保留することはできるのか。そうすると、裁判員全部が保留するとどうなるか、という余計な心配をしたりするのですが。

 それと、このあいだの裁判を見ていまして、3日間ぐらい裁判をしていまして、前の日に裁判が終わって、次の日の午前中に審議をして、午後には判決を出す。そうすると誰が判決文を書くのか。午前中に議論をして、すぐ午後には判決文が書けるような。今回は、あまり議論がなかったようですけれど、相当いろいろな議論がでた時に、そんなに簡単にできるのだろうかということがある。

 もうひとつは、例えば公判が5日とか10日とかになったときに、非常に難しい問題になったときに、もっと議論をしなければならないとなった場合に、それは伸びるのか伸びないのかということがあるのですが。私は、この裁判員制度にはいろいろな問題があって、本当は反対なのですが、今の裁判制度があまりにも問題があるので、これを利用して少しでもよくなるようにしなければいけないのかなと。

 と言っても、自分は裁判員になるかどうかわからないし。もしも裁判員になっても、微妙な事件になったならば、私だったら、どんどん、しゃべってしまう。しゃべってしまって、こんな証拠で裁判ができるか、もっと議論をしようと、自分の意見を無視されて、多数決で決まったとするなら、おかしいと。どんどん言う。それで捕まったり、裁判にかけられたらおかしいと、憲法違反だと。逆に私のまわりに、たくさん弁護士の方を集めて対決をする。そういうふうに我々が戦わなければ、今の制度は変わらないだろうし。たぶん、もしかすると、そうなるのではないか。まじめな市民が、みんな疑問をもって、これは言わなければいけないのではないかと。この判決には納得いかないといった場合には、しゃべるのではないか。しゃべったら、処分される。処分されれば、こんなことで処分されたと、裁判になってくるとなれば、てんやわんやの大騒ぎになってくる。そういう可能性は十分あるのではないか。なかなかおもしろいのではないかと思っていますが、どんなものでしょう。

 

〔司会〕 まだまだ質問、意見がたくさんあるようですが、一度この辺で切って、おふたりに、見解を聞きたいのですが。最初に、Bさんから、それからCさんからも出された、このままでは裁判員といいながら国民の権利ではなく、義務になってしまっていやいや参加することになる。守秘義務などでしばられてもいる。このままでは、市民参加にならないではないかという点について。それから、Cさんから出された具体的な疑問に対して、お願いします。

 

・裁判員の経験は大いに語るべき

〔鯰越〕 それでは、私の方から答えていきます。守秘義務の問題は、実をいうとどこの範囲かということが、まだ明確でないのです。どうやら、はっきりしているのは評議の秘密なのです。評議の中で、誰がどういう意見を言ったか、それから、何対何で、有罪ないしは無罪が決まったかということは言ってはいけない。ただし、この前に第1回のときにも第2回のときにも、裁判員の人たちが、マスコミの質問について答えていたでしょ。十分に裁判官たちは自分たちの意見を聞いてくれたかとか。自分たちの意見を言えたかということは、守秘義務の対象ではないわけです。マスコミに向けて裁判所の中でしゃべっているのですから。

 この前、名古屋で「市民のための裁判員をつくろう会」という会があったのです。裁判員はたしかに押しつけなのだけれど、それを市民のための制度にどうやって変えていくか、という運動をしている団体があって、そこでもこの守秘義務問題で、ご質問に出た通り、どこまでしゃべっていいのか、しゃべってはいけないのかという点が出たのですが、実はまだ完全にクリアでない。ここをクリアにするのは、学者の仕事であり、みなさん方でもある。家族にしゃべったり、友人にしゃべったりを実際に逮捕したり起訴するか、そんなことはありません。ないと思います。で、どこを起訴するかというと、今のところ考えているのは、検察官などいろいろ本省の人々とも話をするのですが、出版するとかの場合だと思います。つまりアメリカでは、O・J・シンプソンの事件のときに、あの評議の内容を克明に、ああ言った、こう言ったという内容を記載して出版して儲けた人がいました。すごい売れたのですね。そういう場合にはたぶん問題にするでしょうが、そこまでに至らないものについては、まず、たぶんないでしょう。なぜかというと、今まで国民の司法参加では検察審査会制度というのがありました。検察審査会の人たちにも守秘義務が課せられています。でも結構しゃべっているのですね。だけど今まで、守秘義務違反で起訴された例は1件もありません。戦後60年たって。ですから、そこまではないだろうとは思っています。

 ですから、やはり、私もいろいろなところで話をしたり、協議をしたりする中で、守秘義務問題は、この制度が定着するかどうかは、経験した人たちがその経験を広くみんなに伝えることを通じて広めていくのが一番いいだろうということです。それしか無いだろうと思いますので。つらかったこと、大変だったことを含めて伝えることをやっていくことが大事だろうと思っています。

 

・有罪と確信できなければ無罪

 それから、被告人の選択権についてです。アメリカは被告人が陪審員裁判を受けるか受けないかという選択権があるのは事実です。ただ、実際上は否認事件の大半は、陪審員裁判で行っています。その方が、やはり無罪の確率が高い。職業裁判官だけによる結論と陪審員裁判の結論を比べると、陪審員の方が無罪率が高いのです。戦前の我が国の陪審でも無罪率が高いです。ということは、ある意味では、陪審の方が被告人の話すことをある程度素直に聞いてくれる。その点裁判官は、またこいつ言い訳を言っている、と思って聞いているのかもしれません。本当のところはわかりませんが、全部、有罪の被告人ばかりを見ていますから。

 その問題と絡むのですが、有罪、無罪保留の話が出ました。それで、わたしが講演に行った時によく言われる。「先生、証拠だとか証言を聞いて、有罪とも無罪ともつかない。どちらともわからないときに、どうするのですか」と聞かれる。これは無罪です。

 みなさん方、ここが一番大事なところです。要するに、みなさん方が判断をしなければならないのは、検察官が起訴状に記載し、冒頭陳述で述べた内容が、証拠によって、合理的疑いを越えて立証されたか。わかりやすく言えば、この人が間違いなく犯人であると確信できましたか、そうでないかです。よろしいでしょうか?保留という表現をされましたが、有罪と確信できなければ、それは無罪です。

 そこのところを、今までの職業裁判官は、どちらかというと、疑わしきは罰するにした。無罪にしなかったのではないでしょうか。少しでも、有罪の証拠があったら、有罪にしてしまう。これだけ疑わしい証拠があるのにというのが、今までの裁判ではなかったのでしょうか。

 それは、一般の市民というか、素人の方が、よく聞いてくれるのです。おかしいときは、犯人だといいきれないとすれば、無罪です。

 次に、公判前整理手続きの公開についてです。秘密にしなければいけないという規定には、なっていません。公開をしてもよいし、非公開でもいいという形なのです。現在、公判前整理手続きを公開をした例もあります。ただし、限界があります。なぜかというと、マスコミには絶対公開しません。それは、被告人の利益を守る、関係者の利益を守るためです。公判前整理手続きでは、どういう証拠が出ているか、どういう主張を検察官がするのかということが出てきますから、マスコミに載ると、その裁判員の人たちに予め、ある意味では予断を与えてしまうということがありますから。被告人は参加できますし、その家族などには公開したことがあります。実際に、それが公開の問題です。

 あと、国民の負担。私、行きたくないという一番の理由は、負担感なのです。仕事があるし、子供もいるし、それから、親の介護を担当している方もいるかもしれない。ただ、親の介護をしなければならないというような場合は、辞退を今まで認めています。小さな子供がいて、とっても出られないという人も認めています。それから、新潟などでは、稲刈りだとか、田植えの時期でできませんといったら、認めています。これは模擬裁判のときも認めました。

 それで、これは、裁判員の選定の方式に係わるのですが、かなり多くの候補者名簿を作るのです。相当に多いのですよ。この前の1審のときでも100人ぐらいに出てきてくださいと言ったのではないかと思います。それで、6割ぐらい60人ぐらいが出てきて、その中から、最終的に6人で、補充裁判員が2人ぐらいですから、裁判所としては、辞退理由を申し出て、無理やりやらせようとは考えない。その必要も実はない。だから、まあ、そういうことであれば辞退してくださいと認めます。

 この前、新潟で、裁判所と議論をしました。一旦は、裁判所に来ていただくのですが、来たら、裁判員の選定手続きは法曹三者は全部そろわなければいけませんから、もう早めに、裁判所だけで辞退を認めるというような手続きを認めてほしいということになりました。どうして辞退を認めたかということについては、もちろん、説明しますと言うのです。そういういろいろな形で、国民の負担を、軽減しようという配慮は、今のところ、裁判所ごとに違うかもしれませんが、新潟などでは、そういうふうな運用をするという形になっています。ですから、できるだけ、ある意味では、無理やり首に縄を付けても裁判員をやらせるという雰囲気ではありません。

 それから、負担の関係では、裁判の日数の関係があります。これは裁判員裁判になりませんでしたが、大阪で死体なき殺人事件というのがありました。あれは、公判期日が49回になり、49回分の期日をもうすでに決めたのです。これは裁判員裁判ではないですよ。だけど、仮に、そういう事件が裁判員裁判になったらどうするかという問題が、深刻な問題として生じます。それで、要するに、長期裁判になるというそれだけの理由で、裁判員対象事件から外すという規定にはなっていません。

 そこで問題は、やはり配慮の余地があるかと思います。これは二択です。二択というのは何かというと、イギリスでも、アメリカでも、非常に争われて、証人の数が多いような事件は、1カ月、2カ月かかるような例外的な事件になります。それは陪審員裁判です。陪審員を1カ月ないし2カ月、長期化する場合にどうするか。この本にも書いていますが、予め、裁判所はこの事件は3カ月ぐらいかかりそうなのですが、大丈夫ですかと聞いているのです。それは、一方では公平にくじ引きで選ぶという原則には若干違反するかもしれませんが、聞いた上で、まあ、いいです、私、家に居てすることもないし、と言う人がいたりね。基本的に言うと、たぶん、退職して時間のある人、それから、子供の手が離れた主婦の方、それから公務員ですね。公務員は有給休暇がとれますから。学生も休みがとれますから。それから、もっと言うと仕事も何にもない人。そういう人たちが、裁判員に入る可能性が一つの選択です。日当が1日1万円ですからね。新潟あたりですと、1日の最低賃金からすると、そんなにもらえないですから、悪くはないかなと思います。旅費、宿泊料は別に出ますから。そこは柔軟な扱いをする。もう、それしかないと思います。

 それから判決文ですが、これは裁判長が書きます。それで実際どうやっているか。我々もそうなのですが。我々も、模擬裁判をやったときは、公判前整理手続きをやりますね。公判前整理手続きをやって、冒頭陳述で、今からこういうことを実証します。証拠で証明しますよということを裁判員の方に示すのです。それで、最後には、最終弁論といって、検察官が有罪で、懲役何年でなんとかということを言う。それに対する反論を弁護人が書くのですね。それは、実を言うと、今までの刑事弁護と一番変わるのは、私のやり方では、最終弁論から、書き始めるのです。最後に言いたいことを書いて、それから、もちろん、証拠について書いておきますが、もちろん、途中で変わってきますのでとっさに書き換えなければならないですが。そういうことをやります。

 裁判所はどうやっているかというのを、調べてみますと、いくつかのバージョンをつくる。公判前整理手続きの中で、少なくとも、はっきりしていることは、検察の主張、弁護人の主張、でてくる証拠というのが、ある程度予想できるわけです。証拠の内容はわかりませんが。無罪バージョン、有罪バージョン、そういうものの草稿を、ある程度、予め作っておく。そのバージョンを作っておいて、そこに評議の内容をつっこんで書いている。それが実情です。 裁判官に、どうやって書いているか聞くと、そういうことでだいたい予め準備していると言っています。だから、評議のあと1〜2時間で判決文を書くことができる。秘訣というのは、バージョンを予め準備しておくということのようです。

 

〔横田〕 ご質問された方の趣旨は、評議に出ていって、何も意見を言わない。有罪とも言わないし、無罪とも言わないし、保留とも言わない。要するに評議に参加しないということを態度で表明されるというふうに、私は聞いたのですけれど。そういった場合、予想ですけれど、裁判官がどうするかと。補充裁判員を二名なり三名、用意しているのですね。東京の裁判では、体調を悪くして来られなかった場合に、ひとり補充裁判員を入れています。だから、記者団に感想を聞かれたときの話の中に、補充裁判員も評議のときに、自分の意見を、自分は補充だったけれど、意見を聞いてもらったということを言っている人もいるわけですね。そうすると、いくらでも補充はきくわけですから、そういう裁判に協力しないという態度を見せたら、おそらく解任されると思うのです。

 そこまで行く前に、こういうことがあると思うのですよ。裁判所に呼び出しがくるときには、必ず質問表がくるのですね。アンケートですね。送り返す機会がありますから、そこに、精一杯、自分は裁判員制度に反対であると書いておく。それが、裁判員を選ぶかどうかの参考資料になりますから。裁判員の面接になった時に、やはり過激な発言をすれば(笑い)、そういう面倒な人を入れたら大変だと、評議まで行かない段階で、裁判所には反対の意思が十分に伝わると私は思います。

 

・証拠開示、裁判員資格、死刑制度、裁判所の責任と反省

〔D〕 今の論議には、直接係わらないのですけれど。私は、前から疑問に思っているのですが、狭山の事件のときに、埼玉県警は全県から警察官を動員して、あちこちのお寺だとか、学校の体育館だとかに泊り込んで証拠を集めているわけですね。あれは、公費を使い、組織を使って高いお金をかけて集めた証拠なのに、なぜ、それは防御側で自由に使うことが許されないのか。本当に私は腹が立っている。なぜそうなのか、教えてください。

 

〔E〕 横田さんが指摘された“国権による裁判”、それから鯰越さんの言葉では“職業裁判官”。理論的には国権をベースにした日本の裁判と、アメリカとかイギリスとかは、一応は、国民主権、国民自らの裁判。この発想の差異というか考え方の差異があるようですね。

 民意というが、民意の中に差別がありますから。陪審制度が実現したら、差別がなくなるというものでもないと鯰越さんは前から指摘していますが、国権裁判の中では、問題が一歩も前進しないということで、陪審制が当面は有効であろうということで、私も賛意を持ったのです。

 しかし、横田さんの話にもありましたが、今回の経緯は、一定の運動はあったけれども、下からの運動でつくりあげられたものではない。国家主導で、かなりやられていて、それが影を落としているという感じはするわけですね。

 守秘義務云々のことなども、そのへんを、突破できるかどうか。オープンに問題にしていけば、それなりに、パワーが見えてくる。少なくも、可能性はある。そこに、変に枠がかけられるとろくな話にはならないと思います。

 その点で言うと、証拠開示がどこまでされるかというのが一番大きいと思う。裁判それ自体としても言えることなのですが。証拠開示をやれないと、結局、裁判のしようがないのではないか。そこが大きな争点ではないか。証拠が開示されないと、一見民主化された格好の中で、いまの司法界が支えているような枠組みの中で、また、極刑の日本の今の動向に左右されて、裁判員が共犯を強いられる。そうされていく危険性もないとは言えないと思うのですね。

 ですが、危険性があるからダメだと言っていると、進まないと思うので、基本的に、市民参加を否定してしまうような論調もあるのはよくないと思う。市民参加の実現という方向で動きたいと思います。

 私は、証拠開示と取り調べの可視化の問題と、代用監獄の問題、守秘義務の問題。その辺が、いちばんの争点になるのではなかろうかというふうに思いますが。

 

〔F〕 裁判員の方の資格というのが選挙権のある者ということは、選挙権のない在日の方とか外国籍の方とかはまったくこれに関係がないということじゃないですか。もちろん、犯罪ということが起きてしまう中には、そういう出身の方も当然おいでになるわけで、そういう方々の当事者性からの意見というものが裁判員制度の中でまったく出てこないということで、それがすごく不十分なのではないかと思うのですね。それと、この欠格事由の中に、禁固以上の刑、義務教育未終了者などということがあるのですが。義務教育の未終了者の方というのは、それなりの訳があって日本社会の中で義務教育未終了者になられている。形式卒業の方とか、思いやりの出席日数捏造とかで卒業になられている方もおいでになって。石川さんなどもそういう例だと思いますけれど。そういう方々が欠格事由になるということは、そういう方の気持ちを代弁する方も裁判員に入らないということの可能性。あと、今、障害のある方、発達障害の方などがいっぱいおいでになりますよね。そういう方は、選挙の名簿には入っていらっしゃるので、入られる可能性があるのだと思うのですが、そういう方がある意味はねられていく。選ばれる中で。そういう可能性。当事者の意見が入りにくい。その辺が、私は、裁判員制度について、自分が逃れたいという、共犯者になりたくないという気持ちが非常に強い人間なのですが。ただ、当事者性のある方が入ってこないということは、それこそ先程の方のおっしゃった、民意の中に差別があるということ、そこに係わってくるように思えて、非常に怖さを感じているのですが。その辺について、何かご意見いただけるとうれしいです。

 

〔G〕 鯰越先生の、裁判員制度が導入されれば、見えてくる。具体的には、可視化の問題とか、証拠開示の問題とか。私は、非常にわかる気がします。

 それから、Eさんの言われた、証拠開示が当面のポイントだろうというのも、よくわかる気がします。ただ、私自身がかつて学生時代に学園闘争をやって、刑事事件にひっかかったときの経験で言えば、刑事事件というのは、我々にすれば、なぜ闘ったか、なぜ出廷したかというのが問題だったわけですね。ところが、ここで問われるのは、結局、起訴状記載の事実があったか、暴力をふるったかどうかということで、ぜんぜん違うというふうに感じたのですね。

 そうだとすると、もし僕が何らかの形で係わるとすれば、拒否する論理とかね、あるいは、ナンセンスなのだこの裁判は、と後でおおっぴらに言えること。さきの方が言われたように、守秘義務の問題とか、むしろ、そちらの方に非常に興味がある。そこが、当面の突破口ではないかというふうに思っていて。すべてが、そうだとは思いませんけれど、刑事裁判というのは、そういう問題がある。敢えて、言っておきたいと思います。

 

〔B〕 先程の欠格事項の中に義務教育未終了者が入っているということに、今気づいてハッとしたところでした。石川一雄さんが、まさにそうなわけですね。石川さんの場合、卒業したことになっているけれども、実際にほとんど行っていない。そういう方は大勢いるわけです。でも学校に行けなかった人だからこそ、わかることもあるわけです。そういう人を排除するというのは、根本的にどういう考えなのかと。

 それから、有罪、無罪の判断に関してですが、先程、鯰越先生が、おっしゃったこと。明日分科会で見ることになっている狭山の模擬陪審劇の中でも、裁判長役の方が言うのですね。「証拠によって、合理的な疑いを越えて立証されたかどうか、そうでない場合は無罪ですよ」と、言うのです。

 でも、ふつうは、検事の言うことと、弁護士の言うことと、どっちが本当だろうかという感じで考えてしまう人が多いと思います。実際に、裁判員裁判の中で、リード役は、裁判官がやりますね。それで、先生がおっしゃったように、今までの裁判官が必ずしも「疑わしきは罰せず」、「推定無罪」の原則に基づいた判断をしてこなかった中で、はたして裁判員裁判のなかで、リード役の職業裁判官が、きちんと裁判員に対して、有罪、無罪の判断基準はこうですよと、ちゃんと言っているのか、あるいは言うことになっているのかなと、疑問に思います。

 

〔H〕 素朴な質問なのですけれど、裁判員に選ばれた時に、私の考え方として、人間は間違いを犯すというのが基本なのです。どんな程度であろうが、どんな優秀な人物といわれる人でも、あるいは裁判官であろうが、間違いを犯さない保証はないのです。で、それが基にあって、こういう裁判に参加させられるということは、ちょっと僕は。で、私が考えているのは、死刑制度がなければ、まだいい。死刑制度があると、無実の人を罪に落として、しかも命を奪ってしまう。その場合に、取り返しがつかないですよ。それを誰が責任をとるのか。

 職業裁判官は、何千万円も報酬を受けるのですよ。具体的には知りませんよ。我々裁判員は、日当1万円で、同じ責務を負わされるのですよ。大変な苦痛でしょ。精神的にも。

 そういったことは、裁判員制度とか、陪審員制度が悪いと言っているのではないですよ。私は憲法を勉強していなかったので、今日は大変勉強になりました。憲法の中に、司法に市民が参加しなければいけないということが明文化されているということになると。今までは、私ども、まったく裁判とか、そういう問題に関しては、責任もないし、あまり考えてこなかった。でも、これからは、そんなわけに行かないですよね。憲法に書いてあるのですから。

 今言った、冤罪だとか、死刑反対だとかは勉強したが、今のことは、知らなかった。そういう場合ね、裁判員はいやだと言えばいいのですね。私は、死刑制度がある以上は、裁判員裁判に参加できませんと。それでいいですよね。

 

〔横田〕 非常にいい質問がありましたので、間髪を容れずに、お話したいと思います。今、死刑制度の話がでましたけれど、ヨーロッパでは日本の裁判員制と近い参審制を今、いろいろな国がとっているのですけれど、ヨーロッパではちゃんと条約があって、人権に気を使っている国々なのですよ。死刑制度はありません。そこが、日本の裁判員制度と大きな違いです。ですから、日本の裁判員制度というのは、国際的なレベルからいうと、非常に低い。申し訳ないけれど、私はそう評価します。

 

〔I〕 おふた方は、従来の職業裁判官の裁判に、非常に大きな問題点があったということをおっしゃる。ところで、現在までの裁判官経験者、最高裁も含めてその方たちが、問題があったという認識がどの程度あるのか。ほとんど伝わってきていない。

 今日のお話の中にも、そのことについては必ずしも言及がなかったので、反省があってやっているのか、非常に疑問があります。ご存じの範囲で結構ですので、教えていただきたいと思います。

 反省がなくて、ただ国民の民意を意図的に利用する。まだ差別意識が非常に根深い中で、民意を取り込むという方向での。現在の状態では私にはそうとしか受け止められないので、絶対的な反対ではないのですが、非常に危惧を持っていますので、教えていただければと思います。

 

〔司会〕 予定した時間がここまでなものですので、今いただいたご意見、質問について、またおふたりから、コメントをいただくということで、時間切れになってしまわざるを得ません。根本に関わる質問から、欠格事項の問題等々出てきています。よろしくお願いたします。

 

〔鯰越〕 非常に根源的に重要な問題意識を伝えていただきました。とくに資格の問題で、外国人の問題をどうするのだ、障害者の問題をどうするのだというのは、非常に大事な質問だと思います。私どもは新潟陪審友の会をつくって、その時に、陪審員になれる権利としては住民権を基礎に法案をつくりました。理想としては、ここに住民権があれば、その人たちは裁判員ないし陪審員になれるというのが、一番いいのだろうと思います。それがひとつです。

 障害者の問題についてどうするかというのは非常に大きな問題で、視覚障害者、および聴覚障害者に対しては、そこまでは対応がいっているのです。ところが、ご指摘のあった精神障害者や発達障害者の問題をどうするかという点については、まだ煮詰まっていません。

 義務教育未終了の問題は、中学校を終了していないというだけでは排除できないです。ただし書きがありまして、中学校は出ていないけれども、それと同等程度の学識を有しているとかであればはずさない、と。卒業はしていないけれど経験がある、その後、自分でいろいろやったと、これで現実的には裁判員の資格はある、はずせない。これはほとんど動かない規定だと思います。中学校の学力テストをやって決めるのかという話はないですからね。この規定はありますけど、ほかの法律に規定があって、そのまま横すべりで入れたという経緯ですから。それはたぶん動かないと思います。

 

〔横田〕 女性の方の質問で、これまで裁判官、あるいは裁判所が、さまざまな過ちを犯しながら、それに対して真剣に向き合ってきたかというご質問であると思うのですね。端的なのは、先程の足利事件だと思うのですよ。足利事件の場合は、12年もの前に弁護団が、最初の有罪の根拠となったDNA鑑定が間違っているから再鑑定しなさいと言ったのに、12年も放置しておいて、真犯人に時効を完成させてしまったわけですね。そういう裁判所の責任が、今、問われているわけですね。

 従って、明日の投票は最高裁の国民審査がありますね。審査の対象となる最高裁判事につきまして、いろいろな論点につきまして、どういう意見を持っているか一覧表が、みなさんのお宅に配られていると思います。それを見ていただくといいと思います。冤罪事件の原因を究明して、冤罪を起こさないようにするには、どうしたらいいかというような点での各裁判官の意見を求めている欄もあります。そこで、私は愕然としたのですけれど、多くの最高裁判事は、そういうことは、検討に値はするけれど、裁判官の独立を侵害するおそれがあるからと、非常に歯切れの悪い回答をしております。

 実は、最高裁というのは、全国の裁判官を統制し、そのことによって裁判官の独立を自ら踏みにじっているのですよ。その人たちが、自分たち裁判所の責任を問われるときには、裁判官の独立を持ち出してくる。絶対に許さないということで、私は全部バツをつけました。(笑い)

 

〔鯰越〕 もう端的にいいます。全員バツをつけてください。(笑い)全員バツですよ。これは公職選挙法違反になりませんから。新潟大学の先生たちは、以前に投票所の前で、みんなバツをつけろと、がなっていた時期もあるのですよ。と、いうことです。

 

〔J〕 バツにしても、ある程度のパーセンテージに達しないと罷免はできないのでしょ?

 

〔鯰越〕 できないです。そこが、この制度のインチキな最たるものなのです。

 

〔横田〕 先程、狭山の事件で多くの捜査員を投入しているのに、なぜ、集めた証拠を見せないのかという質問がありました。答えは簡単なのです。見せると自分たちが不利になるから。要するに、ゲーム感覚でのぞんでいるのが問題です。検察官は公益の代表者なのですから、事件の真実を明らかにする義務があるのですね。その義務に違反していると私は思います。

 

〔司会〕 予定の時間が過ぎてしまいました。はっきりしているのは問題点が相当にあるということです。議論の入口に立っただけかもしれません。実際に始まった裁判員裁判の検証も必要になります。3年後の見直しに向けて、これからも議論と運動を積み重ねて行かなければならないと思います。よろしくお願いいたします。

 今日は、ありがとうございました。

 

(鯰越溢弘=なまずこし・いつひろ/横田雄一=よこた・ゆういち/吉田健介=よしだ・けんすけ)

 

付記 本稿は、第23回研究者集会(2009年8月29日千葉県人権研修センターにて開催)におけるパネルディスカッションのテープ起こしをもとに、研究所狭山部会の責任で編集したものです。