日本の刑事裁判の現状と課題2

 
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1 取調べの全面可視化に向けて取調室で何が行われているのか

 検察官による起訴から,起訴 陪審員裁判による起訴へー検察官制度の見直しに向けて

3 取調べの可視化に関する議論−諸手を挙げて賛成とは言えない理由 (南山大教授・沢登文治)

4 検察官手持ちの全証拠に対する開示命令(大阪地裁1959103日)

 
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検察官による起訴から、起訴陪審員裁判による起訴へ

―検察官制度の見直しに向けてー

 

2010年11月10日  雛元 昌弘(狭山部会)

 

前田元検察官と原検事の共通性

 前田元検察官が、郵政不正事件において証拠をねつ造して村木さんを起訴したことは、この国の検察官制度の根幹を揺るがすものである。それは、たまたま前田元検事のできが悪かった、というようなものであろうか? 冤罪関係者としてはそうは考えられない。

 例えば、狭山事件において、警察での石川さんの自白調書は、一貫して、「首を押さえつけて強姦していて、気が付いたら、被害者が死んでいた」という、殺意を否定するものであった(後に、「10年で出してやる」という長谷部警視との約束のもとでこのような自白した、と述べている)。ところが、原検察官の最後の調書は「死んでもかまわないと思いながら首を絞めた」と殺意を認める内容となっており、1審判決はこの調書に基づき、死刑判決を下した。

 これは1例であるが、原検察官は警察の捜査結果(自白)を否定して、一審浦和地裁・内田裁判長から死刑判決を引き出すという重要な役割を果たしている。前田元検察官と同じように、より権力志向、治安維持志向の強い、言い換えれば、真実究明意識や人権意識に乏しいのが検察官という意外にない。通常は、警察の捜査を補完し、裁判を有利に進めるのが仕事であるが、その場合にも、大多数の検察官は警察の威信を守ることが第1のサラリーマン官僚であり、真実究明や人権擁護が優先されることはほとんどありえない。

 こんな検察ならいらない、という他ない。

 

真実究明の意識があれば、原検察官は起訴できなかった

 死体鑑定書を子細に検討すれば、狭山事件の被害者の首には指で押さえた扼殺痕がなく、幅広い蒼白帯があることから、扼殺(手で締める)ではなく絞殺であることは、ベテランの検事なら見抜けたはずである。

 それだけではない。被害者の後頭部には大きな生前の裂傷があったか。当然、その裏付け資料として、殺害現場とされる雑木林のルミノール血痕反応検査報告書や後頭部に傷を与えた石などの物体の捜索資料を原検察官は必ず見たに違いない。仮に警察がこのルミノール血痕反応検査報告書などを提出していなかったとしたら、真実究明意識があれば、その提出を求めたであろう。

 この2点だけとってみても、少しでも真実を追求する気持ちがあれば、まともな検察官ならこの事件を起訴することをためらったはずである(もちろん、まともな裁判所なら、仮に被告が自白していたとしても、犯行時刻に被告が自宅にいたこと確認している家族全員と弁護人が強く無実を主張している以上、事実調べを行うべきでと考えるが、浦和地裁内田裁判長他は弁護人の請求を却下し、短期間に死刑判決を下している)。

 ところが、原検察官は起訴をためらうどころか、「傷害致死」ともとれる被疑者の警察段階での多くの自白調書を否定し、「殺意」を認める内容に変更して自白調書を作成しているのである。おそらく、その大きな違いを被疑者に確かめることもなく、検察官の勝手に作文した可能性が高いと考えられる。そして、都合の悪いルミノール血痕反応検査報告書は隠し、未だに検察官はそれを開示していない。

 この原検察官のやり方を見ると、真摯な真実追究の姿勢などは微塵もなく、より被疑者に不利になるように自白調書を作成し、死刑判決を望み、都合の悪い証拠は隠して裁判を有利に進める、というのが検察官ではないか、と思えるのである。

 今回の前田元検察官の場合を見ると、検察官の体質は何ら変わっていないのではないか、と思わずにはおれない。前田元検察官は、村木さんを主犯とする自白をでっち上げるとともに、それに合致するようフロッピーの日付をねつ造したのであるが、他の冤罪事件のように、普段から警察と二人三脚でやっている自白と物証のでっち上げを、今回はたまたま一人でやったものである。この問題を、特捜本部に限っての例外的な問題と見るわけにはいかない。

 

 

検察官起訴制度の改革へ

 今回の前田検事の事件は、他の多くの冤罪事件と同じ構造をもっており、検察官の存在意義そのものを問わなければならないテーマである。しかしながら、膨大な新聞・テレビ報道は、その本質には迫っていない。冤罪事件は、裁判制度の改革だけで防止できるものではなく、警察の捜査体制、検察官の起訴制度や証拠開示制度と合わせた「三位一体改革」でなければ、十分な効果は期待できない。

 冤罪事件の最大の問題は、無実の人間が不確かな証拠で警察・検察の二人三脚で起訴されることである。後に裁判で無罪になっても、失われた日々や社会的信用、さらには多くの場合には仕事上の地位などは戻ってこないのである。

冤罪は起訴前に阻止される仕組みがなければ意味がない。この重大な人権侵害に関わる起訴権を、国民は誰に委ねるべきか、という根本問題を前田元検事事件は投げかけているのである。

 私は、裁判員時代に入った以上、起訴すべきかどうかの判断は、重大事件においては、裁判員に委ねるのが妥当であると考えている。これは、アメリカにおいて、大陪審(起訴陪審)によって、起訴が決定される制度を念頭に置いている。

 警察・検察の逮捕・勾留・取り調べ・起訴の一連の流れは、これまで、何の制約を受けることもなく、事実上、野放し状態であり、多くの人権侵害を引き起こしてきた。証拠があるから逮捕するのではなく、はっきりとした証拠がないから逮捕・勾留し、厳しい取り調べをおこなって自白させる、それに合わせて物証をでっち上げる、というのがこれまでの警察・検察一体の捜査・起訴制度であった。

 今の検察官制度は、起訴に対して厳しい制限を加え、人権を擁護する仕組みにはなっていないのである。事実上、警察の「公判部」レベルの仕事しかしていないのなら、このような検察官は不要であるという声が出てきても不思議ではない。

 

 

重大事件の起訴は裁判員制度で

 起訴すべきかどうかの判断は、重大事件については、裁判所の裁判員制度の下で行うのが基本である。裁判員制度を採用しながら、起訴を警察と一体となった検察官に任せるというのは、不合理である。

 すでに、アメリカの大陪審制度を参考にした検察審査会においては、11人の検察審査員により、検察官の不起訴判断を不服として告訴した場合に審査を行っている。より多くの重要な問題は、検察官の不起訴処分ではなく、起訴そのものにあり、検察官による起訴制度は検察審査会を拡張し、裁判所に移行すべき時期にきている。

 そして、まず起訴する権限を裁判所に移した上で、検察官に残された役割は何なのかを検討し、アメリカの検事公選制度などを念頭におき、検察官制度は変革すべきである。

 裁判員制度が始まった以上、「重大事件は起訴裁判員裁判で」という時代にきている。

 

<注>

 狭山事件の被害者の体内には精液が残されていたが、強姦事件に特有の抵抗傷(指による圧迫痕などの内出血)はまったく見つかっていない。

 被害者はスポーツマンで中学校では生徒会副会長をつとめるなど、活発で気が強い女子高校生であり、見知らぬ男に路上で簡単に誘拐・連行され、抵抗もせずに強姦されるような女性でなく、しかも、犯行現場とされる雑木林の隣の畑では農作業者がいたのである。

 そこから、警察は「声を立てられないように首を押さえて強姦した」という自白を誘導したのであるが、被疑者が後ろから幅広い布などで首を絞めて殺されたとなると、果たしてこの事件が「強姦殺人」であったのか、ということが極めて疑わしくなる。

 

   

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