無実の証明 4 狭山「自白」の再現実験が明らかにしたこと 


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   無実の証明  はじめに

 1 無実を語る図面文字

 2 非識字者への落とし穴

  3 小豆と狭山事件
  
4 自白の再現実験

  5 無実を示す開示証拠

   「逮捕当日の上申書」
 6 四本杉の血痕反応は陰性
 人工胃液による消化再現実験

 8 石川さんの文字とは
 9 筆記能力の時系列的分析 

 10 押し倒し・後頭部裂傷再現実験

 11 脅迫状の詩的表現技法
 12 最終食事の色調に関する消化再現実験 
  
13 「ソネット形式」と「万葉仮名的当て字」 
  14 死体埋没再現実験

 15 玉石落下再現実験

 16 封筒・脅迫状の4日間持ち歩き再現実験
 17 封筒・脅迫状の自転車持ち運び再現実験
 18 脅迫状訂正の万年筆とインク

  19 両側腹部等の皮下出血再現実験

  20 後頭部裂傷の凶器形状再現実験

  21 頸部・頭部の皮下出血再現実験








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狭山「自白」の再現実験が明らかにしたこと

 

山下 恒男(東日本部落解放研究所会員)

 

 本稿は、2006年4月21日に本研究所狭山部会主催で行われた学習会での講演に加筆・修正していただき、機関誌『明日を拓く』66号に掲載されたものです。改行、算用数字に置き換えなどを行うとともに、スリム化しています。(編集人 倖彦記)

 

司会(内藤)

 皆さんご承知のように狭山第二次再審請求の特別抗告審が昨年の2月16日に棄却されました。また、東京高裁は袴田事件(1966年)の即時抗告を2004年8月26日に棄却しました。

 一方で2005年5月2日、名古屋高裁は名張毒ぶとう酒事件(1961年)の第7次再審請求に対して、死刑判決から33年ぶりに再審を決定しました。また、2005年9月21日、水戸地裁は布川事件(1967年)の第2次再審請求に対して、38年ぶりに再審を決定しました。

 狭山部会としては、名張毒ぶとう酒事件、布川事件に対して再審が決定されるならば、当然狭山事件・袴田事件に対しても再審決定が下されてもいいだろうというふうに思っています。でも、狭山事件に関しては、数々の鑑定書・意見書を裁判所に提出しているけれども、一度としてそれが裁判所で真摯に検討されることなく切り捨てられてきました。

 そこで、私たちは鑑定書・意見書の作成者をお呼びして、切り捨てられたことをどのように感じられているのか、今後そのことに関して裁判闘争のなかで何か考えられておられることがあるのかどうかということをお聞きしようということになりました。そのなかから第三次再審に向けて狭山部会として、石川一雄さんあるいは再審弁護団を支援していける部分を見つけていこうということになりました。

 今回は山下恒男先生をお呼びしました。先生は1986年の石川自白再現実験を基に1989年に「自白の不自然さについての心理学的検討」という意見書を裁判所に提出されています。

 

狭山事件との出会い

 

 山下恒男と申します。水戸にいまも住んでいまして、今年茨城大学を定年で辞めました。

 私が最初に狭山事件・裁判と関わりを持ったきっかけは、ちょうど30年前でありました。1976年に社会心理学の当時大家といわれた南博先生(亡くなられましたけれども)から連絡があって、原宿の先生の事務所に出かけました。

 そこで、当時弁護団の主任弁護人をしていた青木英五郎さんからお話がありました。青木さん自身、裁判官経験もあって司法研修所で教えていたりして、自白の心理についての大著を書かれている方なんですね。だけど、どうも裁判官は、なぜやってもいない人間が死刑になるかもしれないのに自白をしたのかということを理解できてないようだとおっしゃっていた。それはちょうど2審判決が出て1年経った頃で上告中だったわけですが、そういうことで心理学的な鑑定なり意見書をつくってほしいということを依頼されたのだと思います。

 

1977年、上告審で最初の意見書

 

 実際には私と福岡安則さん(現在、埼玉大学教授)で、それからおよそ1年くらいかけて最初の意見書の内容をつくります。その1976年の7月に初めて狭山に行きます。ご両親はまだ健在でしたので、ご両親やお兄さん、あと妹の雪江さんとまた別に会った記憶があります。それから市会議員をやっていた石川一郎さん。

 いろいろなところを歩いてみました。当時は事件から13年経っていたわけです。まだ、それほど変わってしまったという感じではなくて、殺害現場とされる四本杉というのはかなり事件当時と近かったのではないかと思います。いま思い返してみても76年というのは事件当時の面影が残るぎりぎりだったのかなという感じがします。道路もまだ完全には舗装されていないという時代だったと思います。

 当時被差別部落ということが1つ問題のテーマにもなっていたので、そういう状況に置かれている人だったら突然逮捕されて重大事件の被疑者として、自分を守るすべを知らず、また、かねてから知り合いの関巡査のこととかがあって、自白に追い込まれる。そこら辺のことをもっといろいろなところで話を聞いて考えなくてはいけないというようなことだったと思います。

 関西の大きな被差別部落関係はずいぶんいろいろなところに行きました。ただ、狭山と似たような状況のところも行った方がいいだろうということで、千葉のSという地区に、一週間くらい泊まって、部落差別ということについて聞きました。いまでも覚えていますが、年配の人から大学の先生が聞きにきて、だけどその結果をどうしてくれるのかとか、ずいぶん責められたという記憶がありますね。私にとっては冤罪事件というか、裁判そのものも、そして被差別部落についても初めての体験だったということです。

 その間弁護団の合宿とかいろいろなところに出させてもらって、その1年間は真面目にいろいろ吸収したと思います。そして、翌年77年の夏に「本件裁判における心理学的側面について」という意見書を上告中の最高裁に南先生と私と福岡氏の連名で出すんですが、出した翌月くらいに上告棄却。ということは実質的に最高裁は読んでいるはずはないという、そういうことが1回目にありました。

 当時、私は心理学界のなかで、心理学そのものを否定するようになって南博さんとも心理テスト批判みたいなことで知り合ったというか、それがきっかけだったんで、私自身心理学を前面に出して意見書をつくるという気はなかったのですが、寺尾判決を読んでかなり心理的な推測をしているところが多いという印象をもちました。

一言でいうと人間性同一論ということになるのですが、そういう類いの文章が結構あるんですね。南さんとそのことについて話したことがあって、南さんは寺尾の後ろに心理学者がついているんじゃないかみたいなことを言っていたのは記憶をしていますけれども、いずれにせよ裁判のなかではわれわれの意見書が取り上げられることはなかったと思います。それについては翌年雑誌『世界』に、われわれの意見書を南さん流に要約して文章を書いています。

結局上告で棄却されたので今度は再審請求という事になったわけですけれども、弁護団事務局から自白研究会を提案され、今日いらしている佐藤一さんとか中山弁護士なんかと、細々とだったと思いますけれども続けました。

 そうこうしているうちに、浜田寿美男さん(現在、奈良女子大学教授)なんかとも交流するようになりました。最初に彼が書いたのは甲山事件に関してで、私も甲山まで研究会に行ったことがあります。その浜田さんが80年代後半に入ったくらいで、自白についての意見書を出されます。それは大変論理的なもので、説得力のある優れたものだというふうに思います。それが、『狭山事件虚偽自白』(日本評論社)という本として出て、私もいくつか書評を書かせていただきました。

 私は、そういう方法もとりようがないというような感じで、再現実験が出てきたんですね、80年代半ばに。それまでも部分的にはいろいろな再現実験がもちろんあったんですが、自白に基づく全過程の再現実験をいまのうちにやっておかないと、もう現場が変貌してしまうだろうというような危機感もあったと思います。事実その時点で四本杉の周辺は開発が進んでいて、小名木証言というのが出てきますけれども、その部分はまだ少し残っていた。

 

自白再現実験のこと

 

 86年4月下旬、実際の犯行日だとされるより数日早い4月27日から29日にかけて再現実験を行いました。再現実験をやるというのは映画をつくるのと同じようにシナリオがなかったら、役者は動けないわけで、自白にあわせてシナリオをつくるのがずいぶんと大変だった。

 3日間にわたるのですが、再現実験をやって私はついてまわりました。当日は浜田さんも来ていらして、私と同じ部屋で泊まったのを覚えています。もう1人、一昨年亡くなられた多田敏行さんという心理学者の方がいて、この方も狭山について『真実は細部に』(解放出版社)という本を書いていらっしゃいますね。この方は私より少し年上で、大阪府警に勤めていた人でポリグラフの専門家だったんですけれどもね。

 そういう人たちと一緒に石川モデルの後を終始ついてまわりました。その時の再現実験の様子を撮影したビデオは、現在も持っていまして、今回多少昔のことを思い出さなきゃいけないということで、ビデオを見ました。本編が約1時間くらいです。全10行程にしてあります。いろいろ不充分なところもありますし荒っぽいところもありますが、全行程がわかって、ある意味では素朴ではありますけれども、一見の価値はあるかなという気がします。本編一時間に補足の実験、これが死体の運搬の3人のモデル、それぞれですね。それと芋穴の逆さ吊りと穴掘り、これが全部で20分強だと思いますが、これもついています。これも最高裁に提出されています。棄却決定でも意見書(石川自白再現実験ビデオテープを含む)とかと書いてあったと思います。

実験が終わった夜、毎日のようにモデルから感想の聞き取りをしています。1日目は石川モデルと善枝さんモデル、2日目にはTさん(お姉さんです)という役の方にも、これは一部だけ聞きましたけれども、主に中山弁護士が質問されています。

 モデルの人たちから話を聞いたところで、一番印象に残っているのは、それぞれ別々に聞いたのですけれども、それでもやっぱり四本杉にいたるまで自転車で通りかかった善枝さんの荷台をつかんで止めて四本杉の方に連れ込んで松の木に縛って、それからまたほどいて、そして強姦するというそこの被害者とのやりとりがどうも迫真性がない。実際にありえたかというようなことはそれぞれ言っていましたね。

 おそらく裁判官は縄を縛ったり紐を結んだりとか手ぬぐいの使い方というのは熟練しているから問題なかったと思っているのかもしれませんが、実際には擦過傷とか傷とかをつけないで、そこでの被害者役がこもごも言っていたのは、被害者役が協力しないかぎり後ろ手に縛るのは無理じゃないか。実際には協力していましたね、ビデオでは。そういう話は、印象に残っています。

 殺害した後、木の下でいろいろ考えたり、その時間が長過ぎるとか時間的に脅迫状を届けに行くまでの時間が余っちゃって、それからその後急に忙しくなるという印象をモデルは持っていました。

再現実験の時は、アスファルト舗装されていたと思いますけれども、そこを自転車で行って、それは大回りしているんですね、地図で見ても。モデル役もそういうふうな意識を持っていて、何で大回りをしていったのか。その後の行動は、かなりいろいろ不自然で、U・K宅とみなされるところに行ったりとか、これは、裁判所の判断でも、自転車をおいているとか、ああいうのはなぜしたのかというのはわからないだろうということは書いているわけですね。

 記憶していることで特にモデルが盛んに言っていたのは、脅迫状を書いてジーパンのポケットに入れて2、3日、これも実際にやったんですけれども、封筒がかなりよれよれになっていました。1963年の5月1日は雨であたが、実験やった当日は雨は降っていなかったわけですね。それでも、万年筆で書き直したりしたけれども、それもビデオを見るとわかるんですけれども、よれよれになってしかも書く台もないのに使うというのは非常に大変だなと思いました。

 あと、困ったのは弁当箱の処理。これもささいなことなんですが、シナリオでも扱いようがなくて、実際5月1日の朝、西武園の裏山にまで行っているんですね。一応できるだけ忠実に再現して、パチンコ屋も行ったりとか、その前に弁当を食っているんですよね。ですから、弁当を母親がつくってくれて新聞紙で包んでもっていって、その後の弁当箱の処理が全然出てこなくて、実験時にはそこら辺においておけということになったんだと思います。そんなこともモデル役の話では出ていたと思います。

 印象に残っているのは、身代金の受け渡しの場面ですね。佐野屋の脇の桑畑は当時まだありまして、ただ事件当時は街灯はなかったのですが実験の時は街灯はついていて、街灯以外のところは真っ暗という状況でした。その頃車の交通量も結構ありましたが、車が一台通るだけでも光とか音がすごいんですね。何台でも通るような状態でもそうなので、それで石川さんが自白の中で車が通ったのは気づかなかったというのはちょっとおかしいのではという話は出ていたと思いますね。

 あと、これも再現実験でやったのは、善枝さんから奪ったものの処分。これも、私いまでもひっかかっていることの1つは、万年筆以外にも、筆箱はお風呂で燃やしたという供述、腕時計を捨てた時期とか場所とか、そこら辺は不自然と思っていますね。

最初の死刑判決以降のさまざまな判決や決定について、いまどういうふうに私が考えているかといいますと、原型は寺尾判決で基本的な構図は変わっていないんじゃないかという印象は持っています。ただその後、いろいろ新しい鑑定みたいなものが出てきて、それに対応しているにせよ、基本的にはあまり心証はかわっていないのかなと思う。再現実験当時もそうでしたかね。小名木証言が出てきてこれはかなり決定的だと思っていた時期もあるんですけれども。そういうようなものも裁判所の理屈だとみんななんだかんだ信用性がないということで、これはかなり難しいんじゃないかなというふうに90年代になる頃には個人的には悲観的な感じでその後の推移を見ていました。私自身、再現実験の結果もふまえて本を書いて、一区切りついたような感じがしていたと思います。

 

狭山事件の特異性

 

 いまどういうことを考えているかというと、いくつかあるんですけれども、狭山事件というのは実際にはどんな事件だったかという真相といいますか、実際行われたであろう事件の内容。これは誰もわかっていないというのが私の率直な感想なんですね。寺尾判決でもすでに述べているように、あまりにも犯行場所とされるところが多岐にわたって、時間的にも長期にわたって繰り返されている。私は狭山事件は非常に特異な事件だとその後考えるようになっています。

 これはほとんどの方はご覧になっていないとおもいますが、再現実験をやった直後の86年の『部落解放』という雑誌の7月号に論文というか文章を書かせてもらっているんですね。「冤罪事件の特徴と『自白』──16事例の分析から」というタイトルがついています。これは、86年の時点ですから、島田事件もまだ再審無罪になっていないんですね。鹿児島事件も差し戻し中、梅田事件さえも無罪事件が確実視されない時期なんです。

その時期に戦後の16の冤罪事件で無罪が確定した事件ということで、幸浦・免田・弘前・二俣・財田川・梅田・八海・米谷・徳島・島田・仁保・松山・鹿児島・豊橋・大森・四日市を取り上げています。書かれた資料を全部目を通せるものは通したんですね。ルポライターが書いたものとか弁護士さんが書いたものもありますが、共通して『判例時報』はそれぞれ見ています。

そこでかなり形式的な分析をしているんですが、16の冤罪事件では、狭山事件と違ってほとんど凶器があります。凶器をめぐって、袖に返り血がついている血痕であるとかそこら辺の関係も問題になっていますね。なかには電気コードや、一例だけ衣服を用いた扼殺というのがあります。これ以外狭山事件のように素手で絞めたという例はありません。また、島田事件以外屋外での犯行はたぶんなかったと思います。ほとんど一家4人皆殺しですとかその被害者の方の自宅に類するところが犯行現場だったと思います。犯行現場も狭山事件は特異だろうと思います。もちろん野外での犯行とかゆきずりの犯行ということもあるんでしょうけれども、非常に特異であって、いたるところにおかしいことがあるだけに非常にせめにくい構造になっているわけですね。

 可能かどうかは分からないですけれども、実際どうだったのかというストーリーを、改めていくつかのストーリーを考えてみられないだろうかと最近思うことがあります。狭山事件も初期の頃はずいぶんいろいろなストーリーが考えられていたわけです。そのなかに被害者の知り合い説というのは結構あった。評価は別にしても亀井トムさんのもの、甲斐仁志さんの『狭山事件を推理する』(1988)などもありますね。

 真犯人の方を考えてもしょうがないというのが大勢だと思いますけれどもね。裁判所の心証ということからすると、なんかそういうことを考えないと石川さん以外にありえないというような消去法でいっているのかなという感じもするんですね。

 それから、首にかかっていた細引きとか、裁判所はそんな一部でわからないことがあっても固いところがいくつかあるからいいだろうという書き方ですよね。実際どうだったんだろうと。芋穴で逆さ吊りがなかったらどうなんだろう。これもいろいろな話があったわけですね。室内犯行説とか複数犯行説とか。そこのところは、確かに裁判の論理からいえばそのことを申立人側が明らかにする義務はないわけですけれども、でも実際ひっかかっている。どういう事件だったのだろうかという。繰り返しになりますけれども、脅迫状を書いたところから盗品の処分までも含めれば、非常に長い間に渡って、しかもいろいろな場所が犯行現場になっているという意味では、特異な事件だろうというふうに私は思っています。

 その16事例を調べていて気づいたのは、徳島事件以外は指紋はどこからもみつかっていない。狭山も同じですね。これは共通しているんです。徳島事件は同居していたわけですから、指紋があるのは当たり前で、ないのがおかしいわけですから、そういうことを考えると指紋というのが一定の意味を持つのかなと。封筒の紙というのは、普通よりも付着しやすいとので、ないというのはおかしいんじゃないかということです。

 二審判決でも言っていますが、調書の数が別件を含めて75通ある。寺尾判決は取調官が言うことを一々吟味しないで書き取っていったからそんなに多くなっちゃったんだといいますけれども、他の冤罪事件ではほんの数通ですね。一番多いのが弘前事件、それは否定しているのも多いものなのですが30通くらい。ほとんど10通以下ですね。質・量ともに狭山事件の自白調書というのはすごく特異だという感じですね。

 もう一つ、裁判官の心証として、家族の言う事をまったく信じていないんですね。裁判所は自分で真実を明らかにしようとしていないで、弁護側から出されたことについて、そこを個別にそうではない可能性があるとかそうとは言い切れないとか、そうでないからといってどうこうとは言えないという論法で言っていますから、なかなか難しい。

 

今後の問題として

 

 最後に今後の問題として、真相というのをこちらが明らかにする必要もないけれども、もう一度考えてみてもいいんじゃないかと思いました。

 それと、犯行現場と時間も長いということで結果的に論点が多岐に渡りすぎちゃうのはどうしようもないのでしょうけれども、冤罪事件で再審まで持っていったというのは、かなり論点がしぼられているんだと思いますね。実際に屋内での事件なので論点もしぼられてくるという問題もあるんだと思います。さきほどこの16事例のなかにはふくめられなかったのですけれども、名張毒ぶどう酒事件も当然関心をもっていましたけれども、あれも結局コルク栓かなんかの歯形ですが、そういうところに一番大きいというか、象徴されるような一点というのは出てくるわけですよね。他の事例でも有罪の決め手とか無罪の決め手というのは整理しているんですが、結局自白に絡んでるにしても自白の真実性に疑問とか信用性否定と言ってもそこに対応する物証が絞られている面が多いという感じですね。

 だから、何を強調するかというのも難しいですし、いまさらあんまり絞ってしまっても他は諦めたのかと裁判所に思われるだけなんで、総論的にみんな触れなくてはならないにしても、裁判に対する理解者を増やすためにも、絞れないのかなという感じがしましたね。

 そんなことを思った一つのきっかけは、狭山から遠ざかっていたのですけれども、何年か前に「テレビ朝日」で狭山が取り上げられていましたね。それを見て、テレビの威力はすごいなと思って。テレビでやる場合には分かりやすく見せる、説得力のあるということで絞っていますよね。テレビ自身の力をかりると同時に、ある種の絞り方をした方がいいんじゃないかなということは思っていますね。